○福嶋聡『書店と民主主義:言論のアリーナのために』 人文書院 2016.6
福嶋さんの著作では『劇場としての書店』(新評論、2002)と『希望の書店論』(人文書院、2007)を読んできた。本が売れないと言われ、インターネットやデジタルコンテンツが普及する中で「紙の本」はなくなるのか、という危機意識が主要テーマだったと思う。本書は、近年、書店と出版文化をめぐって注目を集めた「ヘイト本」問題が中心になっている。2014年から2016年前半にかけて、折にふれて著者がさまざまな媒体に発表してきた文章を収録したものだ。
その冒頭に、2014年11月に刊行された『NO! ヘイト:出版の製造責任を考える』(ころから)の話が出てくる。書店員へのアンケートに現れた多様な意見、書棚がヘイト本で埋め尽くされることに抵抗を感じる書店員がいる一方で、「表現の自由を否定するのか」「編集者や出版社は、思想に奉仕するためにあるものではない」という反発の声もあることを紹介した上で、著者は、自らの志向に反する書物を、安易に「書物の森」から排除することはしたくない、と述べる。
1995年のオウム事件の直後、全国の書店からオウム出版の本が一斉に消えた。しかし、著者は勤め先の書店で「オウム出版の本を外さなかった」という。周到に考えられた理由のひとつは、学界やジャーナリズムの人たちは、これからオウム事件の原因や状況について検証しなければならないのだから、彼らに原資料を提供する責任が書店にはある、というもの。これは納得である。
たとえその主張に大いに疑問を感じる本でも、書店の棚から排除すべきではない。「右翼」の鈴木邦男さんは、はじめは保守主義や愛国的な傾向のあるものを読んでいたが、左翼陣営の考え方を知りたくなって、自由主義やマルクス主義の本を読むようになり「自分の思想信条を強化する本を読むよりも、自分に敵対する思想信条を読んだ方が、よほど勉強になった」と語っているそうだ。いいなあ、この発言。でも、つまらぬ左翼学者の本ではなくて、源流まで遡って、マルクス主義の古典と直接対決することが重要なんだと思う。これは、どんな思想でも同じ。
鈴木邦男さんは著者とのトークイベントでも「こういう本を読んでいる人は、こんな本も読んでいますよ」という類似本のレコメンドでなく、「こんな本ばかりでなく、違う考え方のこういう本も読んだらどうですか?」というアドバイスがあった方がいい、という発言をされている。これができたら素晴らしいな~。ちなみに福嶋さんは、流行りの「コンシェルジュ」を書店員がつとめることには懐疑的で、むしろ本を買いに来るお客様こそが、書店員にとってのコンシェルジュ(いろいろ教えてくれる先導者)だという。実は図書館員と利用者も、最良の関係はそういうものかもしれないと思った。
とはいえ書店員は、ヘイト本を右から左へ流していればいいというわけではない。ヘイト本であふれる書店の棚は、ふらっと立ち寄った利用者の心になにがしかの影響を与える。「自分がつくった書棚が読者に害悪を与えるリスクを引き受ける覚悟を、書店員は持たなければならない」って、書店員の矜持が感じられていい言葉だ。
そして、実際に著者がジュンク堂書店難波店でおこなった「店長の本気の一押し! STOP!! ヘイトスピーチ、ヘイト本」フェア(2014年12月)の顛末も語られている。この取組みは破格の注目を集めると同時に「お前は朝鮮人、中国人の味方なのか?」等のクレームもあった。著者がどのように論理的に対応したかも掲載されていて参考になるが、相手は「どうにも聞く耳を持っていない」人たちであったようだ。
2015年10月、MARUZEN&ジュンク堂渋谷店で起きた「自由と民主主義のための必読書」ブックフェア中止問題(※備忘録)についての文章も複数収録されている。事件直後の2015年11月「WEBRONZA」は読んだ記憶があるが、2016年2月「Journalism」掲載の文章は、より旗幟鮮明で、題名から「『中立の立場』なぞそもそもない」と言い切っている。そうそう。「ぼくたちが扱っている商品である書物は、さまざまな意見の〈乗り物〉であり、相互に異なる主張の塊なのだ。テーマに沿って書物を選んで展示するブックフェアは、書店の主張の場であり、すべての主張には異論がある」。そのとおりだ。
私は、本が「さまざまな意見の〈乗り物〉」であるからこそ、それらが集まる書店や図書館が好きなのだ。しかし、いま、書店の棚は販売記録(POSデータ)によって制御されている。同じように大学図書館の蔵書も利用統計が評価の指標となり(特に電子的コンテンツ)、論文の価値は被引用数で決まることになっている。しかし、著者の言うとおり、過去のデータを基礎にする限り、未来をつくる「新しい本」を発見することはできない。本書の最後は、こう結ばれている。「必要なのは信念であり矜持であり、そして勇気なのである」。
福嶋さんの著作では『劇場としての書店』(新評論、2002)と『希望の書店論』(人文書院、2007)を読んできた。本が売れないと言われ、インターネットやデジタルコンテンツが普及する中で「紙の本」はなくなるのか、という危機意識が主要テーマだったと思う。本書は、近年、書店と出版文化をめぐって注目を集めた「ヘイト本」問題が中心になっている。2014年から2016年前半にかけて、折にふれて著者がさまざまな媒体に発表してきた文章を収録したものだ。
その冒頭に、2014年11月に刊行された『NO! ヘイト:出版の製造責任を考える』(ころから)の話が出てくる。書店員へのアンケートに現れた多様な意見、書棚がヘイト本で埋め尽くされることに抵抗を感じる書店員がいる一方で、「表現の自由を否定するのか」「編集者や出版社は、思想に奉仕するためにあるものではない」という反発の声もあることを紹介した上で、著者は、自らの志向に反する書物を、安易に「書物の森」から排除することはしたくない、と述べる。
1995年のオウム事件の直後、全国の書店からオウム出版の本が一斉に消えた。しかし、著者は勤め先の書店で「オウム出版の本を外さなかった」という。周到に考えられた理由のひとつは、学界やジャーナリズムの人たちは、これからオウム事件の原因や状況について検証しなければならないのだから、彼らに原資料を提供する責任が書店にはある、というもの。これは納得である。
たとえその主張に大いに疑問を感じる本でも、書店の棚から排除すべきではない。「右翼」の鈴木邦男さんは、はじめは保守主義や愛国的な傾向のあるものを読んでいたが、左翼陣営の考え方を知りたくなって、自由主義やマルクス主義の本を読むようになり「自分の思想信条を強化する本を読むよりも、自分に敵対する思想信条を読んだ方が、よほど勉強になった」と語っているそうだ。いいなあ、この発言。でも、つまらぬ左翼学者の本ではなくて、源流まで遡って、マルクス主義の古典と直接対決することが重要なんだと思う。これは、どんな思想でも同じ。
鈴木邦男さんは著者とのトークイベントでも「こういう本を読んでいる人は、こんな本も読んでいますよ」という類似本のレコメンドでなく、「こんな本ばかりでなく、違う考え方のこういう本も読んだらどうですか?」というアドバイスがあった方がいい、という発言をされている。これができたら素晴らしいな~。ちなみに福嶋さんは、流行りの「コンシェルジュ」を書店員がつとめることには懐疑的で、むしろ本を買いに来るお客様こそが、書店員にとってのコンシェルジュ(いろいろ教えてくれる先導者)だという。実は図書館員と利用者も、最良の関係はそういうものかもしれないと思った。
とはいえ書店員は、ヘイト本を右から左へ流していればいいというわけではない。ヘイト本であふれる書店の棚は、ふらっと立ち寄った利用者の心になにがしかの影響を与える。「自分がつくった書棚が読者に害悪を与えるリスクを引き受ける覚悟を、書店員は持たなければならない」って、書店員の矜持が感じられていい言葉だ。
そして、実際に著者がジュンク堂書店難波店でおこなった「店長の本気の一押し! STOP!! ヘイトスピーチ、ヘイト本」フェア(2014年12月)の顛末も語られている。この取組みは破格の注目を集めると同時に「お前は朝鮮人、中国人の味方なのか?」等のクレームもあった。著者がどのように論理的に対応したかも掲載されていて参考になるが、相手は「どうにも聞く耳を持っていない」人たちであったようだ。
2015年10月、MARUZEN&ジュンク堂渋谷店で起きた「自由と民主主義のための必読書」ブックフェア中止問題(※備忘録)についての文章も複数収録されている。事件直後の2015年11月「WEBRONZA」は読んだ記憶があるが、2016年2月「Journalism」掲載の文章は、より旗幟鮮明で、題名から「『中立の立場』なぞそもそもない」と言い切っている。そうそう。「ぼくたちが扱っている商品である書物は、さまざまな意見の〈乗り物〉であり、相互に異なる主張の塊なのだ。テーマに沿って書物を選んで展示するブックフェアは、書店の主張の場であり、すべての主張には異論がある」。そのとおりだ。
私は、本が「さまざまな意見の〈乗り物〉」であるからこそ、それらが集まる書店や図書館が好きなのだ。しかし、いま、書店の棚は販売記録(POSデータ)によって制御されている。同じように大学図書館の蔵書も利用統計が評価の指標となり(特に電子的コンテンツ)、論文の価値は被引用数で決まることになっている。しかし、著者の言うとおり、過去のデータを基礎にする限り、未来をつくる「新しい本」を発見することはできない。本書の最後は、こう結ばれている。「必要なのは信念であり矜持であり、そして勇気なのである」。