○ヘイトスピーチと排外主義に加担しない出版関係者の会編『NO! ヘイト:出版の製造責任を考える』 ころから 2014.11
書店の棚が「嫌中嫌韓」本と「日本はすごい」という自画自賛本で埋まっている状況が、確かについ最近まであった。私は、比較的大きな書店と、小さくてもスジのいい書店を選んで回遊していたから、そんなにひどい光景には行きあたらなかったけれど、普通の地方書店の棚は、かなりひどかったのではないかと思う。
そんな状況に違和感を覚えた出版関係者が、2014年3月中旬、Facebookを使って「ヘイトスピーチと排外主義に加担しない出版関係者の会」を立ち上げた。何ができるか試行錯誤を繰り返しながら、予想外の反響にも励まされ、2014年7月、出版労連、出版の自由委員会と共催で行ったシンポジウム「『嫌中嫌韓』本とヘイトスピーチ-出版物の『製造責任』を考える」が、本書のもとになっている。
まず、『九月、東京の路上で:1923年関東大震災ジェノサイドの残響』の著者である加藤直樹氏が「現代の『八月三一日』に生きる私たち」と題した基調講演を行った。東京のコリアンタウン大久保出身である加藤氏は、そこで繰り返される差別デモに衝撃を受け、90年前と現在の状況に共通の空気を見出す。関東大震災が起きるまで、混乱の中で罪もない大勢の人々が殺されると予想していた人はいなかった。けれども、メディアによって喚起され、蓄積されてきたレイシズムの言説が、9月1日の思わぬ事態に遭遇した日本人の判断を決定的に誤らせた。現代のわれわれが「8月31日以前」の状況にないとは誰も言えない。
加藤氏がデータとして示した、2013年10月~2014年3月の「夕刊フジ」の見出し一覧と「嫌中嫌韓」本のタイトル一覧も本書に収録されている。しかし「夕刊フジ」はどこの国の新聞かと目を疑うほど、「嫌中嫌韓」ネタに徹しているんだなあ。ご苦労なことだ。逆にソウルの大型書店「教保文庫」(むかし行った!)の日本関連書の棚の写真もあるのだが、小熊英二さんの『社会を変えるには』の翻訳本があったりする。私は中国の書店でも、日本語からの翻訳本をたくさん見た記憶がある。
次に、2014年5月~6月に書店員を対象に実施したアンケートが収録されている。回答数はわずか10件だから、業界の全体状況を示す材料にはならないが、現場の赤裸々で真剣な声が読み取れる。このアンケート結果を踏まえた、参加者のディスカッションも興味深かった。週刊誌の編集者だった方が、1995年のオウム事件で「何を書いてもオウム側から反論がなかった」という体験が、日本のマスメディアをゆがめた、と指摘している。何を書いても許される状況で、「記事の裏を取る」というタガが外れてしまった。オウムを社会の敵をみなし、異物を排除する感覚でバッシングする心理が、いまの嫌中嫌韓本に通ずるという指摘は重要だと思う。
ジャーナリストの野間易通さんは、リベラルの側が上から目線で批判しつつ「3200円の良書」をつくっている間に、嫌中嫌韓カルチャーは、安価な新書や雑誌、無料ネットなどを通じて幅広く浸透している、と見ている。「リベラル側のコンテンツはまったく不足している」「単にリベラルの本を増やせばいいという話ではない」「出しても売れないからこうなっているわけで、別の切り口を探る必要がある」等々の意見は、ほんとに耳が痛かった。
でも、このときの状況をかえりみると、昨年(特に後半)から、SEALDs本をはじめとして、リベラル側が、新しいタイプの魅力的なコンテンツを続々と供給し始めたことは、本当によかったと思う。「新しいタイプ」というのは、写真やレイアウトがおしゃれで、平易な口語体で読みやすく、机上の空論でなく現実社会と強くリンクしている、などの特徴をいう。あと安価であることは、本当に重要。「3200円の良書」ではアカデミアの住人しか読まない。
ほかに論評が二本。弁護士の神原元氏による「表現の自由と出版関係者の責任」と、社会学者の明戸隆浩氏による「人種差別禁止法とヘイトスピーチ規制の関係を考える-『ゼロからの出発』のために」である。ヘイト規制と表現・言論の自由の間に相克があることは理解しているが、あとがきにいうとおり、個人が差別や偏見を表明することと、新聞やテレビ、そして出版が差別的な言説を流すことを同一には考えられないと思う。最後にたどりついた「書店は公共空間である」という、大きな活字の見出しが眩しかった。公共空間は万人に開かれていなければならない。それがマナーであると思う。

そんな状況に違和感を覚えた出版関係者が、2014年3月中旬、Facebookを使って「ヘイトスピーチと排外主義に加担しない出版関係者の会」を立ち上げた。何ができるか試行錯誤を繰り返しながら、予想外の反響にも励まされ、2014年7月、出版労連、出版の自由委員会と共催で行ったシンポジウム「『嫌中嫌韓』本とヘイトスピーチ-出版物の『製造責任』を考える」が、本書のもとになっている。
まず、『九月、東京の路上で:1923年関東大震災ジェノサイドの残響』の著者である加藤直樹氏が「現代の『八月三一日』に生きる私たち」と題した基調講演を行った。東京のコリアンタウン大久保出身である加藤氏は、そこで繰り返される差別デモに衝撃を受け、90年前と現在の状況に共通の空気を見出す。関東大震災が起きるまで、混乱の中で罪もない大勢の人々が殺されると予想していた人はいなかった。けれども、メディアによって喚起され、蓄積されてきたレイシズムの言説が、9月1日の思わぬ事態に遭遇した日本人の判断を決定的に誤らせた。現代のわれわれが「8月31日以前」の状況にないとは誰も言えない。
加藤氏がデータとして示した、2013年10月~2014年3月の「夕刊フジ」の見出し一覧と「嫌中嫌韓」本のタイトル一覧も本書に収録されている。しかし「夕刊フジ」はどこの国の新聞かと目を疑うほど、「嫌中嫌韓」ネタに徹しているんだなあ。ご苦労なことだ。逆にソウルの大型書店「教保文庫」(むかし行った!)の日本関連書の棚の写真もあるのだが、小熊英二さんの『社会を変えるには』の翻訳本があったりする。私は中国の書店でも、日本語からの翻訳本をたくさん見た記憶がある。
次に、2014年5月~6月に書店員を対象に実施したアンケートが収録されている。回答数はわずか10件だから、業界の全体状況を示す材料にはならないが、現場の赤裸々で真剣な声が読み取れる。このアンケート結果を踏まえた、参加者のディスカッションも興味深かった。週刊誌の編集者だった方が、1995年のオウム事件で「何を書いてもオウム側から反論がなかった」という体験が、日本のマスメディアをゆがめた、と指摘している。何を書いても許される状況で、「記事の裏を取る」というタガが外れてしまった。オウムを社会の敵をみなし、異物を排除する感覚でバッシングする心理が、いまの嫌中嫌韓本に通ずるという指摘は重要だと思う。
ジャーナリストの野間易通さんは、リベラルの側が上から目線で批判しつつ「3200円の良書」をつくっている間に、嫌中嫌韓カルチャーは、安価な新書や雑誌、無料ネットなどを通じて幅広く浸透している、と見ている。「リベラル側のコンテンツはまったく不足している」「単にリベラルの本を増やせばいいという話ではない」「出しても売れないからこうなっているわけで、別の切り口を探る必要がある」等々の意見は、ほんとに耳が痛かった。
でも、このときの状況をかえりみると、昨年(特に後半)から、SEALDs本をはじめとして、リベラル側が、新しいタイプの魅力的なコンテンツを続々と供給し始めたことは、本当によかったと思う。「新しいタイプ」というのは、写真やレイアウトがおしゃれで、平易な口語体で読みやすく、机上の空論でなく現実社会と強くリンクしている、などの特徴をいう。あと安価であることは、本当に重要。「3200円の良書」ではアカデミアの住人しか読まない。
ほかに論評が二本。弁護士の神原元氏による「表現の自由と出版関係者の責任」と、社会学者の明戸隆浩氏による「人種差別禁止法とヘイトスピーチ規制の関係を考える-『ゼロからの出発』のために」である。ヘイト規制と表現・言論の自由の間に相克があることは理解しているが、あとがきにいうとおり、個人が差別や偏見を表明することと、新聞やテレビ、そして出版が差別的な言説を流すことを同一には考えられないと思う。最後にたどりついた「書店は公共空間である」という、大きな活字の見出しが眩しかった。公共空間は万人に開かれていなければならない。それがマナーであると思う。