見もの・読みもの日記

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潮目の兆し/街場の共同体論(内田樹)

2014-06-15 22:20:22 | 読んだもの(書籍)
○内田樹『街場の共同体論』 潮出版社 2014.6

 過去数年の間に月刊誌『潮』に掲載されたインタビューと寄稿エッセイをまとめたもの。ただし、ずいぶん手を入れたので、ほぼ「書き下ろし」であると「まえがき」に述べる。巻末のインタビュー「弟子という生き方」にも、2007年に書いた『下流志向』の頃とは「潮目が変わってきた」という発言がある。ついこの間、読んだ本だと思っていたのに、内田先生の見ている時代の変化、速いなあ。若者とのつきあいが多いためかもしれないが。

 この「潮目が変わってきた」は、よい変化の兆しである。一方、著者は、自分の言いたいことを「おとなになりましょう」「常識的に考えましょう」「古いものをやたら捨てずに、使えるものは使い延ばしましょう」「若い人の成長を支援しましょう」といった「当たり前のこと」に帰着するとまとめているが、その中も重要な「おとな」の存在は、安定した社会システムを維持するために、せめて7%の水準が必要なところ、もはや5%を切って、危険水域にあるという警鐘も鳴らしている。

 「おとな」とは、著者の定義では、システムの綻びを見つけたら、黙ってさくっと手当てしてくれる人をいう。「みんなの仕事」は「自分の仕事」でないから、「誰かなんとかしろよ!」と怒鳴って見ているのは「こども」の仕儀。これは、実際に働いた経験のある人なら、深く頷くはずだと思うのだが…10年、20年、組織で働いても、この理屈が分からないオトナ子供が多いのは、「なんとかしろよ!」と怒鳴っているうちに何とかなってしまってきたということなのかな。

 著者は「おとな」になる機会を逃した人々をあげつらって責めようとはしない。なぜなら現代日本は総力をあげて、そういう国民づくりを目指してきたのだから。この認識は、ある意味、相手の非をあげつらうよりも冷酷である。著者は、その起点を1980年代に置く。以来、日本は官民を挙げて「できるだけ活発に消費活動をすること」を国家目標に掲げ、家族や共同体を解体してきた。「労働」よりも「消費」が尊ばれ、最も少ない労働力で最も大量の貨幣、あるいは高価な商品を手に入れることが賢さの基準になった。その果てに、現代日本人の恐るべき「無教養」と「反知性主義」が生まれたのである。

 でも「反知性主義」の起点が1980年代だとすれば、私は、何とか、その毒に汚染される前の教育を受けることができた世代なのだな。ちょっと安堵する。しかし、日本の平和と繁栄をよいことに、家族や共同体に背を向けて「連帯しなくても生きていける」と言い出したのは、まさにわれわれなのだけど。

 いまの若者のマジョリティは、相変わらず消費者マインドに引きずられているが、「このままじゃまずい」と感じ始めた若者もいて、SNSなどを使って「セミ・パブリック」な共同体や公共圏を立ち上げようという試行錯誤が見られるという。そういう動きを鋭敏に察知して、援助してあげることも年長者のつとめだろうなあ。

 個人的に、非常に心に残ったのは「嫌なやつは社会的に上昇できない」という言葉。「知らないことを知らないと言える人」「他人の仕事まで黙ってやる人」「他人の失敗を責めない人」だけが、相互支援・相互扶助のネットワークに呼び入れられて、そこでさまざまな支援を受けることができる。これも私は、体験的にそのとおりだと思うのだけど、今の自己開発的キャリア教育の現場で、こんなことを言ったら、袋叩きだろうなあ。

 あと、フェミニズムと男女雇用機会均等法が市場経済を加速化させた一面は、確かに否定できない。その功罪は、21世紀の現在から、もう一度問いなおさなければならないだろう。もちろん、全てを「もとに戻そう」みたいな暴論ではなしに。

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