見もの・読みもの日記

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忘れ去られた思想家/メディアと知識人(竹内洋)

2012-10-05 02:03:18 | 読んだもの(書籍)
○竹内洋『メディアと知識人:清水幾太郎の覇権と忘却』 中央公論新社 2012.7

 清水幾太郎(しみずいくたろう、1907-1988)の印象は、世代によって大きく異なるようだ。著者いわく「清水逝去は、わたしがそうであったように、40歳第後半以上のインテリには、巨匠逝くの感があった」という。これは、2012年の現在なら、60歳代後半(1940年代生まれ)の感覚だろう。清水の『社会学講義』(1950年刊)がむさぼり読まれた状況を、さすがに私は知らない。雑誌「世界」の創刊や平和問題談話会にかかわり、米軍基地反対運動や安保闘争において(揶揄でなく)進歩的文化人の代表と看做されていた、華々しい活躍の時代を知らない。

 私にとって清水の印象は、ひとことでいうなら、著者が、40歳代はじめの編集者に清水のことを話したときに返された答え「ああ、『論文の書き方』の著者ですね」と一致する。岩波新書『論文の書き方』(1959年刊)は、教科書や受験問題を通じて(著者は「昭和30年代半ばころまで」というが、私の実感ではもっと長く)読み継がれた。1960年代生まれの私は、右か左かという思想的なポジションとは全く無関係に、テクニカルな定番図書の著者として、清水幾太郎の名前を覚えた。

 しかし、清水幾太郎は、1999年には「忘れられつつある思想家」と言われ、もはや「忘れ去られた思想家」なのではないかという。ちょっとびっくりだが、10歳ほど下の同僚が「清水幾太郎」の名前を読めなかったことを思うと、誇張はないのかもしれない。

 むかし、明治や大正のことを調べてみると、今日では忘れられた言論人や知識人が華々しい活躍をしていて、同時代の影響力と後世の評価って、一致しないものなんだなあ、と感慨深く思ったことがあるが、どうやら清水もそのひとり、いや、著者の問題意識に従えば、清水は「代表的メディア知識人」であり、今日、活字やテレビで活躍するメディア知識人の原型であるという。しかも、清水は「メディア知識人」という役回りを、かなり自覚的に引き受けていたフシがある。何しろ「私は、芸人という言葉の持つ悲しい響きを大切にしたいと思います」とまで書いているのだ。

 著者は、清水の「メディア知識人」的生き方の由来を、彼の生い立ちに求める。清水は、山の手のインテリ家庭でなく下町の商家に生まれ、インテリに憧れ、正系学歴軌道に乗り込んで行く。しかし、師弟関係の軋轢から、東大教授への道を断たれ、いくぶん大げさな表現だが「街頭に放り出され」てしまう。そこから「私は文章を書いて生きていかねばならない」という覚悟が生まれる。のちに清水は「転向」を取り沙汰されるが、それも、世間とは少しズレたことを言って「読者を唸らせたい」という、メディア知識人の「業(ごう)」から生まれたものでなかったか、と著者は読み解く。

 面白うて、やがて哀しき、という感じがする。清水との対比で、正系(メディア的でない)知識人の丸山眞男、福田恆存らが登場する。でも彼らも、清水との差は「程度」であって、多かれ少なかれ、メディア知識人的要素はあったはずだ。では、何故、丸山眞男は忘れられず、清水幾太郎は忘れられたのか。清水の戦略が間違っていたのか。そして、現在のテレビ、活字、そしてネットメディアを飾る知識人・言論人たちの評価は、50年後、100年後にはどうなっているのだろう…。というようなことも考えさせられた。

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