〇渡辺浩一『江戸水没:寛政改革の水害対策』(ブックレット・書物をひらく 21) 平凡社 2019.11
不謹慎な言い方になるが、災害の歴史を読むのが好きだ。今の状況だと、内海孝さんの『感染症の近代史』(山川出版社、2016)を思い出すが、去年の秋から江戸の水害に対する関心が持続していたので、本書を読んでみた。
もともと江戸ができた場所は、利根川水系と荒川水系の二つの水系が海に出る河口域のかたわらにある。利根川水系は、約半分の流量が銚子方面に向かうように段階的に流路の変更が行われた。特に重要なのは中条堤(行田市)と権現堂堤(幸手市)で、これが破られると、洪水流が江戸に到達することになる。江戸市中では、日比谷入江に注いでいた平川の流れを、外堀(神田川)をつくって隅田川へ通した。これによって江戸の中心部は洪水を免れることができたが、隅田川が増水すると外堀に逆流し、小石川から市ヶ谷で洪水が起きることになった。また、標高の低い本所・深川地域も浸水しやすかった。以上は、水利の面から見た江戸の地形のまとめで、よく頭に入った。
本書の主題は寛政改革の水害対策だが、はじめに、それに先立つ経緯を紹介する。寛保2年(1742)8月には、相模湾から上陸した台風の影響で大水害が起きた。「歴史天候データベース」の活用により、現代の天気予報図のように台風の進路や速度を復元する研究があることを知って驚く。浸水した本所・深川地域に取り残された人々に対し、町奉行所は「助船(たすけぶね)」を出して飲み水と食料を供給している。しっかりした民政が行われていたことに感心した。
同年10月、幕府は関東地方のいくつかの河川の堤防修復を大名に命じ、隅田川の浚渫の評議を行っている。堆積土で川が浅くなると水の勢いが強くなり、大水害につながることが認識されていたのだ。しかし結局、浚渫は行われなかったのではないかという。災害直後の瞬発的な対応はよくても、次の災害に備えることに手を抜きがちというのは、なんとなく今の日本に似ている気がする。
寛保大水害から30年後、大伝馬町への助成を目的として、隅田川西岸の三俣中洲に商業地を造成する計画が持ち上がった。この背景として、大伝馬町は、江戸と品川宿の間で幕府に伝馬と人足を提供する義務を負っており、幕府は大伝馬町に財政援助を与えていたが、財政負担を減らすため、この造成事業を持ち掛けたのだという。これも現代の利益優先の地方行政がやりそうな話だと思った。中洲新地のことは、昨年、太田記念美術館の『江戸の凹凸-高低差を歩く』で知って以来、気になっていたのだ。
天明6年(1786)7月、江戸は再び大水害に襲われる。原因は台風ではなく集中豪雨だった可能性があるが、まだ結論は出せないとのこと。利根川・荒川の中流域で堤防が決壊し、隅田川の水位が両国橋付近で4.8メートル上昇した(ひえ~)。浸水は本所・深川だけなく、浅草、小石川や目白にも及んだ。大水害の原因は印旛沼干拓と中洲新地であるという噂が立ち、田沼意次は失脚。その後、松平定信の主導で、隅田川の浚渫と中洲新地の撤去が行われた。また浚渫された廃土を用いて、隅田川東岸に五つの「水塚」が作られた。洪水時の避難所を想定したものである。定信が回想録の中で「あとから思い出してうれしいのは、私が行った施策の中でも、深川本所の水塚、この社倉の米穀(備蓄米)、町々の火除地などである」と語っているというのは、彼の政治家としての姿勢がうかがえて、ちょっと好きになった。
寛政3年(1791)8月には、江戸湾沿岸が高潮(強風と気圧低下によって海面自体が上昇する現象)に襲われ、深川洲崎で甚大な被害が出た。その後、定信は三俣中洲の例に準じて、住民を移転させ、空き地にしようとした。しかし、住民の移転に成功はしたものの、洲崎の「空き地」は観光名所として復興し、災害対策は不十分なものになってしまった。
本書を読んで、現代人が「未曽有の災害」と感じる台風・水害も、意外と歴史上に類例があることを感じた。それから、こうした土地の歴史を知っていると、江戸の名所絵を見たときに違った感慨が湧くと思う。