〇氏家幹人『増補版 大江戸残酷物語』(歴史新書) 洋泉社 2017.3
そろそろ暑くなってきたので、血みどろ残酷物語でぞっとしてみようと思った。表紙には「生首と旅する男」「生きている屍」などと、お化け屋敷の呼び込みみたいな謳い文句が並んでいるのだが、読後感はかなり予想と違っていた。著者は、いつの頃からか江戸時代の犯罪や猟奇事件に関心を抱くようになり、これはと思った史料を筆写して整理し、ファイルに貯めてきたという。本書は、そのような史料研究の蓄積から生まれたものである。
各章の見出しと内容を挙げていこう。「生首と旅する男」では、生首の風呂敷包みを持ち込んで、困惑する相手から金をせびって立ち去るなど、驚くべき詐欺・犯罪者の生態を紹介。「今日は処刑見物」では、引廻しや斬首の見物が、江戸時代の普通の人々の行楽の一種だったこと。「情痴の果て」は、伊藤博文が、フランス人の学者夫妻がプラトニック・ラブを説くのを聞いて「ラヴからセックスの問題を取り去って、何が残るか」を口をはさんだ話をマクラとする。貧しい農村の娘たちが、ほかに何の楽しみもない境遇で「唯男女相通じ互にしたしむを楽とし此世の思ひ出とす」という当時の認識は、今から見ても納得がいく。しかし、不倫を犯した女が、男の生首ともに川や海に流されたのを見たという伝聞記事は、伝奇的で甘美な匂いがして、ぞくぞくした。国立公文書館の企画展『漂流ものがたり』でも取り上げられていたものだ。
「血達磨伝説」は細川家(熊本藩)に伝わる伝説。血とエロス(男どうしの)の伝説だったものが、近代には大衆化と同時に、ただの忠義物語に改変されていく。何らかの史実があるのか、細川家ゆかりの永青文庫に問い合わせたが、分からない(そもそも知らない)との回答だったそうだ。いつ頃の話だろう? 細川護煕氏が理事長となり、橋本麻里さんが副館長に就任された現在なら、もう少し関心を持って、調べてくれるのではあるまいか。「血達磨」は「血古今」だという説もあるという。詳細は本書で。
「生きている屍」「小塚原の犬」は江戸時代の死体の埋葬について。刑死者や貧乏人は、非常に浅い埋葬だったので、簡単に犬に掘り返されてしまった。「死体を塩漬けにする話」も、以前、国立公文書館の展示で見た(高橋景保の場合)が、天文道=天門冬(てんもんどう)なら塩漬けでなく砂糖漬け、というのは、大したブラックジョークだなあ。
「肝取り肉割く人々」では、将軍家の御様(おためし)御用=刀剣の試し斬りを代々務めた山田浅右衛門家が紹介される。山田家は試し斬り御用とともに、死体から肝や霊天蓋(頭蓋骨)などを取って薬として売りさばく権利を持っていた。興味深いのは、当時の人々が(死体を使った)試し斬りや臓器等の利活用を、さほど残酷と思っていなかったらしいことだ。終章「優しさのゆくえ」によれば、幕末、西洋医学を学ぶ者たちによって死体解剖が行われるようになったが、普通の人々の感覚では「解剖」は「試し斬り」よりずっと残酷と思われていたという。まあ、確かに斬り刻む度合でいえば…。
「試し斬り」は男性の死体で行うもので、女性の死体は使われなかった(幕府が禁じていた)というのは初めて知った。それゆえ(?)解剖用には女性の刑死体のほうが入手しやすかったらしく、杉田玄白らが解剖に用いたのは女性の死体であるという。解剖の件数は記録に残っているより多かったに違いないとか、京都に比べて江戸の場合、「試し斬り」の山田家と死体の取り合いになるので、解剖の実施が困難だったとか、いろいろ面白い考察が述べられている。あと、幕末には、山田家と腰物方(刀剣の管理所)も忙しく、将軍からイギリスへ下賜する太刀や脇差等についても試し斬りを行っていたそうだ。いま美術館等で見る刀剣も、少なくとも死体は斬っているのだろうなあ。
終章では、明治政府が、試し斬り・人体の一部の密売・火刑・磔刑・梟首などを、順次廃止していったことに触れる。その一方、20世紀に入っても「死体ビジネス」はひそかに、国際的な規模で続いている。70年代のドラマ『岸辺のアルバム』が、そんな社会問題も折り込んでいたことは初めて知った。21世紀の現在では、ヒトの遺伝子を埋め込んだ臓器移植用の豚(ヒトブタ)をつくったり、人体部品の売買が先進国で合法的なビジネスとして成長を遂げているという。そこには、前近代のように大量の血は流れないかもしれないが、残酷って何だろう?としみじみ考えてしまった。
補章「薩摩の鞘割」は、刀を抜いたら死ぬまで戦う覚悟で鞘を割って捨てるという、薩摩人の闘争精神を言い表したもの。そうした並外れた(泰平の世には非常識で困りものの)薩摩藩士に関するエピソードを二つ紹介する。特に後半の、会津藩士との喧嘩の次第は面白い。抽象的な大義のためではなく、一身の名誉や仲間のために命をやりとりする熱い男たちの姿が見える。ある随筆に伝聞として残るだけで、会津藩の正史には見えない話であることを断りつつ「でも面白いじゃないか」と思って紹介するのは、歴史学者の遊び心である。
そろそろ暑くなってきたので、血みどろ残酷物語でぞっとしてみようと思った。表紙には「生首と旅する男」「生きている屍」などと、お化け屋敷の呼び込みみたいな謳い文句が並んでいるのだが、読後感はかなり予想と違っていた。著者は、いつの頃からか江戸時代の犯罪や猟奇事件に関心を抱くようになり、これはと思った史料を筆写して整理し、ファイルに貯めてきたという。本書は、そのような史料研究の蓄積から生まれたものである。
各章の見出しと内容を挙げていこう。「生首と旅する男」では、生首の風呂敷包みを持ち込んで、困惑する相手から金をせびって立ち去るなど、驚くべき詐欺・犯罪者の生態を紹介。「今日は処刑見物」では、引廻しや斬首の見物が、江戸時代の普通の人々の行楽の一種だったこと。「情痴の果て」は、伊藤博文が、フランス人の学者夫妻がプラトニック・ラブを説くのを聞いて「ラヴからセックスの問題を取り去って、何が残るか」を口をはさんだ話をマクラとする。貧しい農村の娘たちが、ほかに何の楽しみもない境遇で「唯男女相通じ互にしたしむを楽とし此世の思ひ出とす」という当時の認識は、今から見ても納得がいく。しかし、不倫を犯した女が、男の生首ともに川や海に流されたのを見たという伝聞記事は、伝奇的で甘美な匂いがして、ぞくぞくした。国立公文書館の企画展『漂流ものがたり』でも取り上げられていたものだ。
「血達磨伝説」は細川家(熊本藩)に伝わる伝説。血とエロス(男どうしの)の伝説だったものが、近代には大衆化と同時に、ただの忠義物語に改変されていく。何らかの史実があるのか、細川家ゆかりの永青文庫に問い合わせたが、分からない(そもそも知らない)との回答だったそうだ。いつ頃の話だろう? 細川護煕氏が理事長となり、橋本麻里さんが副館長に就任された現在なら、もう少し関心を持って、調べてくれるのではあるまいか。「血達磨」は「血古今」だという説もあるという。詳細は本書で。
「生きている屍」「小塚原の犬」は江戸時代の死体の埋葬について。刑死者や貧乏人は、非常に浅い埋葬だったので、簡単に犬に掘り返されてしまった。「死体を塩漬けにする話」も、以前、国立公文書館の展示で見た(高橋景保の場合)が、天文道=天門冬(てんもんどう)なら塩漬けでなく砂糖漬け、というのは、大したブラックジョークだなあ。
「肝取り肉割く人々」では、将軍家の御様(おためし)御用=刀剣の試し斬りを代々務めた山田浅右衛門家が紹介される。山田家は試し斬り御用とともに、死体から肝や霊天蓋(頭蓋骨)などを取って薬として売りさばく権利を持っていた。興味深いのは、当時の人々が(死体を使った)試し斬りや臓器等の利活用を、さほど残酷と思っていなかったらしいことだ。終章「優しさのゆくえ」によれば、幕末、西洋医学を学ぶ者たちによって死体解剖が行われるようになったが、普通の人々の感覚では「解剖」は「試し斬り」よりずっと残酷と思われていたという。まあ、確かに斬り刻む度合でいえば…。
「試し斬り」は男性の死体で行うもので、女性の死体は使われなかった(幕府が禁じていた)というのは初めて知った。それゆえ(?)解剖用には女性の刑死体のほうが入手しやすかったらしく、杉田玄白らが解剖に用いたのは女性の死体であるという。解剖の件数は記録に残っているより多かったに違いないとか、京都に比べて江戸の場合、「試し斬り」の山田家と死体の取り合いになるので、解剖の実施が困難だったとか、いろいろ面白い考察が述べられている。あと、幕末には、山田家と腰物方(刀剣の管理所)も忙しく、将軍からイギリスへ下賜する太刀や脇差等についても試し斬りを行っていたそうだ。いま美術館等で見る刀剣も、少なくとも死体は斬っているのだろうなあ。
終章では、明治政府が、試し斬り・人体の一部の密売・火刑・磔刑・梟首などを、順次廃止していったことに触れる。その一方、20世紀に入っても「死体ビジネス」はひそかに、国際的な規模で続いている。70年代のドラマ『岸辺のアルバム』が、そんな社会問題も折り込んでいたことは初めて知った。21世紀の現在では、ヒトの遺伝子を埋め込んだ臓器移植用の豚(ヒトブタ)をつくったり、人体部品の売買が先進国で合法的なビジネスとして成長を遂げているという。そこには、前近代のように大量の血は流れないかもしれないが、残酷って何だろう?としみじみ考えてしまった。
補章「薩摩の鞘割」は、刀を抜いたら死ぬまで戦う覚悟で鞘を割って捨てるという、薩摩人の闘争精神を言い表したもの。そうした並外れた(泰平の世には非常識で困りものの)薩摩藩士に関するエピソードを二つ紹介する。特に後半の、会津藩士との喧嘩の次第は面白い。抽象的な大義のためではなく、一身の名誉や仲間のために命をやりとりする熱い男たちの姿が見える。ある随筆に伝聞として残るだけで、会津藩の正史には見えない話であることを断りつつ「でも面白いじゃないか」と思って紹介するのは、歴史学者の遊び心である。