見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

地震の国で暮らす/熊本城(永青文庫)

2017-06-04 23:18:53 | 行ったもの(美術館・見仏)
永青文庫 春季展示『熊本城-加藤清正と細川家-』(2017年3月18日~6月4日)

 3月からやっていた展覧会だが、滑り込みで見てきた。私は自分の手控えに「永青文庫・加藤清正」とメモしていたのだが、清正公に関する資料はあまり多くなかった。会場で、あらためて開催趣旨を読みなしてみたら、2016年4月の熊本地震で大きな被害を蒙った熊本城について、加藤清正が築き、細川忠利入城以来240年細川家が守り伝えてきた歴史を多方面から紐解き、熊本への理解を一層深めることで、復興支援の一助に繋がるとの願いを込めた展覧会である。

 4階展示室に入ってすぐ、熊本城の主なビューポイントについて、被災前と被災後の写真が掲載されていた。宇土櫓は、写真で見る限り軽微な被害で済んだようだ。北十八間櫓は無残に崩れ落ちてしまった。飯田丸五階櫓は、土台の石垣がほとんど崩れてしまったのに隅の縦一列の石垣が残ったおかげで奇跡的に倒壊を免れたもので、地震直後のニュースでも見た記憶があった。

 展示には、明治初期の熊本城の古写真もあって興味深かった。西南戦争の折、明治10年(1877)に大小天守などを焼失しているので、それ以前の撮影だろうという。しかし明治の絵図を見ても、熊本城ってデカい(広い)なあとしみじみ感じる。日本の城というより「城市」の雰囲気がある。4階は、ほかに山家灯籠の紙でできた熊本城、宮本武蔵筆の墨画など。

 3階には、清正関係の烏帽子形兜(写)など少々。細川家が熊本城を受け継ぐに際して、正式な命令の前に噂がささやかれていたことを示す資料(江戸の忠興→忠利への書状)や、加藤家側の実務担当者が幕府の担当者を通じて現地の様子を細川家に知らせた引継ぎ文書などが面白かった。「無理之年貢」「けんち(検地)の帳面」「酒札」「商札」などの単語が読み取れた。

 忠利が寛永9年(1632)に入城したとき、熊本城は寛永年間の地震の傷跡が残った状態で、忠利はその翌年にも地震に遭い、「本丸は庭がなくて気遣いなので二の丸に下がっている」等、方々へ書き送っている。また、上様の許しを得て「地震屋」(避難場所)を作りたい、という書面も残っている。国許屋敷である花畑屋敷の絵図には、実際に「御地震屋」という建物があったことも参考写真パネルで示されていて、びっくりした。初めて知ったけど、同様の施設は他藩にもあったんだろうか。そして熊本城が、その後の毎年のように、地震、大雨、洪水、強風などの被害を受け、修復を繰り返してきたと知った。やれやれ。自然災害は、この国の暮らしにとって「折り込み済み」のリスクと考えるしかないのだなあ。

 そのほか、細川家の守護天童像(南北朝時代、たぶん木造)は奇異なものであった。細川頼之の夢に現れ、和歌を口ずさんで細川家の繁栄を予言したという。おかっぱ頭で、玉眼をあやしく光らせ、口を開く。衣の前をはだけ、袖をなびかせ、右手には扇、左手は長い人差指を立てている。

 私は地震の前年、2015年にたまたま仕事で熊本に行き、熊本城を駆け足で観光したのだが、細川家の御座船「波奈之丸(なみなしまる)」を見たかどうか記憶が定かでない(天守閣に登らなかったかも)。天守閣内で常設展示されてきた「波奈之丸」は、被災後、搬出されて、いま熊本市立熊本博物館にあるそうだ。それにしても「波奈之丸」の名前に記憶があると思ったら、羽田空港のディスカバリーミュージアム(永青文庫の出張所?)で見たのだった。 

■講談社野間記念館 『竹内栖鳳と京都画壇展』(2017年5月27日~7月17日)

 近くまできたので、ついでにこちらにも寄った。竹内栖鳳は5点しか出ていなくて、ちょっとダマされた感じがしたが『古城枩翠』はいい絵だった。また、さまざまな画家の「十二ヶ月図」(全て色紙形)を見比べたのも面白かった。いかにも伝統的な月並みの画題で統一しているものもあれば、え?みたいなものもあった
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする