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見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。
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中国の碑+戦艦三笠写真…/日本の古代碑(書道博物館)

2011-12-22 23:54:29 | 行ったもの(美術館・見仏)
台東区立書道博物館 中村不折コレクション『日本の古代碑-多胡碑建立1300年を記念して-』(2011年11月15日~2012年1月15日)

 日本の碑(の拓本)を見るぞ!と思って行ったので、いきなり1階の大型展示ケースに『広開土王碑』を見たときは(もちろん目に入ったのは一部だったが)ちょっと戸惑った。1階は主に中国ものである。中には、私の好きな『開通褒斜道刻石(かいつうほうやどうこくせき)』もあった。1字または2字ずつを法帖(折本)に仕立てたもの。クレパスのような薄墨で拓が取られていて、独特の雰囲気がある。六面が開いていた。私は、日本民藝館が所蔵する軸装しか記憶になかったが、検索をかけたら、2009年、出光美術館の展覧会でも見ている。これは軸装だったか法帖だったか、覚えていない。現在は岩壁から切り取り、漢中博物館(陝西省)に保管されているそうだ。見たい…。

 2階に上がると、ようやく特集の日本の古代碑。多胡碑は、群馬県高崎市にあり、「和銅四年三月九日」(711年)と刻まれている。大らかな書風といえば聞こえがいいが、一字一字の自己主張が強く、左右のバランスを全く気兼ねしていないように、素人には見える。子どもの手習いみたいだ。江戸時代に模刻された版が、中国の金石家の目にとまり、その著作に記録されているというエピソードに驚く。逆はともかく、日本の学術研究に注意を払っていた中国人もいたのか、と思って。

 ほかにも『多賀城碑』(見に行ったなあ…震災でも無事だったらしいが)や『宇治橋断碑』、薬師寺の『仏足石歌碑』など有名なものが揃っていたが、初めて見たのは『益田池碑銘』。かつて大和国高市郡(橿原市)に造られた貯水池の完成を記念し、空海が筆を執ったもの。原碑は室町時代、築城に使用されて現存せず(ええ~)、高野山の釈迦文院に墨跡本が伝わる。「奇抜な雑体」と解説してあったが、飛白体、あるいは蝌蚪文字に似ている? 人魂が飛んでいるような妖しい書体である。

 中村不折『不折写景』の挿絵原本もあった。展示は上毛三古碑の回。この不折が文と絵を書いた旅行記は『東京朝日新聞』に連載され、夏目漱石の小説とともに、同紙の目玉だったという。

 このほかNHKドラマ『坂の上の雲』にちなんで、子規の尺牘(書簡)や俳句短冊、不折が洋画作品『日露役日本海海戦』(外苑の絵画館にあり)を描く際に使用した写真資料等が展示されている。その不折の絵画を脇に置いた東郷平八郎の写真もあり。不折は、昭和2年(1927)戦艦三笠の演習を見学し、錨や巻上機、ボルトなど、丹念なスケッチも残している。また昭和3年6月の日付の、三笠甲板上の記念写真もあり。軍服姿や、山高帽にフロックコートの来賓たちが写っているが、誰が誰やら、私には分からないのが残念であった。
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17世紀のグローバル市場/海を渡った伊万里焼展(戸栗美術館)

2011-12-22 22:17:41 | 行ったもの(美術館・見仏)
戸栗美術館 『海を渡った伊万里焼展~鎖国時代の貿易陶磁~』(2011年10月2日~12月23日)

 このところサボっていた展覧会レポートを思い出せる限り、取り急ぎ。「鎖国政策をとっていた江戸時代にありながら、世界の陶磁市場を席巻する輸出磁器として一時代を築いた伊万里焼」約100点を展示。この説明は、公式サイトから取ってきたものだが、会場の説明プレートには「鎖国」の横に、誤解を避けるためだろう、「制限貿易の時代」みたいな注記が付けてあった。

 何度もおさらいしているが、伊万里焼の輸出が本格化するのは、1656年、清の海禁政策以降。展示品の大半は、17世紀後半の作である。私は「海を渡った伊万里焼」という展覧会のタイトルを聞いたとき、反射的に、18世紀のゴテゴテした金襴手が脳裡に浮かんで、あ~あれなら見なくていいや、と思っていた。

 ところが、展示会場に入ったら、愛らしい柿右衛門様式や、自由なデザインの色絵や染付が並んでいて、びっくりした。『色絵双鶴文輪花皿』かわいいな~。花垣の横に赤い鶴、乳白色の空に藍色に鶴が舞っていて、二羽が微妙にアイコンタクト(いや、嘴コンタクト)を取っている。『色絵牡丹文瓶』は、頸の紅色の唐草文がイスラムっぽい。胴の牡丹と太湖石も、写実を超えた生々しさがある。細長い葉は蘭かな。

 この時期の作品は「初期輸出手」と総称される。16世紀~17世紀前半の「初期伊万里」とは趣きを異にするらしいが、幾何学模様にしても、山水や獅子の絵付にしても、個性的で面白い。茶筅型の瓶は、初期輸出手の典型だそうだ。色味は赤が目立つ。続く柿右衛門の時代に入っても、作例の多様さは変わらない。柿右衛門といえば、乳白色の広い余白に愛らしい花鳥or美人図が典型的なイメージだが(私の場合)、「本来の柿右衛門様式はもっと幅広いもの」という説明が印象的だった。

 1690年代からの金襴手の登場は、一説に、柿右衛門窯の職人が鍋島藩窯に引き抜かれて濁し手生地の生産が困難になったため、また、1684年から中国が貿易を再開し、価格競争に打ち勝つためのコストダウンを迫られたためともいう。国際競争に脅かされるモノづくりって、なんだか身につまされる話である。

 ヨーロッパの古城に残る伊万里焼を写真で紹介したコーナーには、さほど新味を感じなかったが、特別展示室に、東南アジアに残る伊万里(オランダ東インド会社の商館で使われていた)が展示されていたのは、興味深かった。ちなみに中国が貿易を再開すると、すぐさま東南アジアの磁器市場は奪回されてしまったそうだ。すでに世界は狭かったんだなあ、と思った。
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