○東大情報学環・読売新聞共催 連続シンポジウム『情報の海~漕ぎ出す船~』
第3回 情報の海~「新聞」という船
http://blog.iii.u-tokyo.ac.jp/news/2008/09/post_33.html
連続シンポジウムの第3回(最終回)は、折しもシカゴトリビューンの破産申請(12/8)を受け、「新聞」という巨大メディアは、かつての恐竜のように、絶滅に瀕しているのではないか?という、司会・吉見俊哉氏の切実な問いかけによって始まった。
これに応答する基調講演を行ったのは、読売新聞東京本社会長の瀧鼻卓雄氏。瀧鼻氏は、アメリカの新聞社は広告収入の比重が高く、1部売りが中心であるのに対して、日本は購読収入の比重が高く、戸別配達が中心のため、不況の影響を受けにくいと説明。けれども、これは、続く立花隆氏から、日本の新聞社はそうかもしれないが、新聞販売店の収益構造(折り込みチラシの広告収入頼み)はアメリカに近い、というかたちで論駁される。
瀧鼻氏いわく、新聞とは、厳しい訓練をくぐりぬけてきたプロのジャーナリスト集団である。10年で半人前、20年で(他人の3倍働いて)ようやく1人前。なんとかモノになるのは3分の1、普通が3分の1、「採用ミス」が3分の1。おお~厳しい世界だなあ、と感心したが、よく考えてみると、ジャーナリストに限らず、仕事なんて、だいたいそんなものじゃないのか?
ただ、瀧鼻氏が、プロフェッショナルな仕事の例として示された、いくつかの報道写真には感嘆した。ネットに垂れ流されている「ニュース写真」と比較すると、迫力の差は圧倒的である。戦場の幼い少女の、暗澹とした表情を捉えた写真について、「この子は直前までは普通に笑っていたのかもしれない。この一瞬の表情を捉まえることができるのがプロのジャーナリストです」と瀧鼻氏は説明された。確かに、心に響くような、忘れがたい写真だった。けれども、あまりにも洗練されたプロの報道は、戦場の少女が「直前までは笑っていたかもしれない」という想像を、我々の思考から完全に奪い去ってしまう恐れがある。そこを補うのが市民ジャーナリズムの役割なのではないか、と思った。
同様に、メディア研究者である林香里氏と武田徹氏は、「公共性と共同性(利益共同体=私企業)の対立」「公共の意味をめぐる闘争」「最大公約数からこぼれ落ちる存在をいかに救うか」といった表現で、市民ジャーナリズムの可能性を説いた。これに対して(瀧鼻氏は途中退席)立花隆氏は「先生たちは、難しいことをいうなあ」と(敢えて?)揶揄的に応酬。うわ~辛辣。司会の吉見先生、ここから、どうまとめるんだろう、と聞いていて、ハラハラした。
結局、この日の議論では、ジャーナリズムをめぐって、プロフェッショナルの誇り/アマチュアの可能性、客観(事実報道)/主観(ニュースの価値の発見)、大学のジャーナリズム研究/OJTによる現場のジャーナリスト教育、といった様々な対抗軸が容赦なく暴き出された。と同時に、どっちが悪い、というような不毛な水掛け論を廃して、異なる立場どうしの「対話」こそ重要、という結論が導き出されたことが収穫だったと思う。「職人=マイスター」は、弟子を教育できる(教育理論を持った)師匠でなければならない、というのは、林先生、いい切り返しでしたね。こんなふうに熱い討論が成立するということに、まだ「新聞」って愛されているメディアなんだなあ、ということを感じた。
この連続シンポ、個別テーマとして扱ったのは「図書館」と「新聞」だったが、実は隠しテーマは「大学」だったように思う。「大学」もまた、「情報=知識」の海を渡る巨大な船であり、今まさに荒波に翻弄されて、針路を定めかねている感があるのだ。次の機会には、そこを正面から論じてほしいと思った。
参考:
第1回 情報の海~マストからの眺め
第2回 情報の海~沈まぬ「図書館」丸
第3回 情報の海~「新聞」という船
http://blog.iii.u-tokyo.ac.jp/news/2008/09/post_33.html
連続シンポジウムの第3回(最終回)は、折しもシカゴトリビューンの破産申請(12/8)を受け、「新聞」という巨大メディアは、かつての恐竜のように、絶滅に瀕しているのではないか?という、司会・吉見俊哉氏の切実な問いかけによって始まった。
これに応答する基調講演を行ったのは、読売新聞東京本社会長の瀧鼻卓雄氏。瀧鼻氏は、アメリカの新聞社は広告収入の比重が高く、1部売りが中心であるのに対して、日本は購読収入の比重が高く、戸別配達が中心のため、不況の影響を受けにくいと説明。けれども、これは、続く立花隆氏から、日本の新聞社はそうかもしれないが、新聞販売店の収益構造(折り込みチラシの広告収入頼み)はアメリカに近い、というかたちで論駁される。
瀧鼻氏いわく、新聞とは、厳しい訓練をくぐりぬけてきたプロのジャーナリスト集団である。10年で半人前、20年で(他人の3倍働いて)ようやく1人前。なんとかモノになるのは3分の1、普通が3分の1、「採用ミス」が3分の1。おお~厳しい世界だなあ、と感心したが、よく考えてみると、ジャーナリストに限らず、仕事なんて、だいたいそんなものじゃないのか?
ただ、瀧鼻氏が、プロフェッショナルな仕事の例として示された、いくつかの報道写真には感嘆した。ネットに垂れ流されている「ニュース写真」と比較すると、迫力の差は圧倒的である。戦場の幼い少女の、暗澹とした表情を捉えた写真について、「この子は直前までは普通に笑っていたのかもしれない。この一瞬の表情を捉まえることができるのがプロのジャーナリストです」と瀧鼻氏は説明された。確かに、心に響くような、忘れがたい写真だった。けれども、あまりにも洗練されたプロの報道は、戦場の少女が「直前までは笑っていたかもしれない」という想像を、我々の思考から完全に奪い去ってしまう恐れがある。そこを補うのが市民ジャーナリズムの役割なのではないか、と思った。
同様に、メディア研究者である林香里氏と武田徹氏は、「公共性と共同性(利益共同体=私企業)の対立」「公共の意味をめぐる闘争」「最大公約数からこぼれ落ちる存在をいかに救うか」といった表現で、市民ジャーナリズムの可能性を説いた。これに対して(瀧鼻氏は途中退席)立花隆氏は「先生たちは、難しいことをいうなあ」と(敢えて?)揶揄的に応酬。うわ~辛辣。司会の吉見先生、ここから、どうまとめるんだろう、と聞いていて、ハラハラした。
結局、この日の議論では、ジャーナリズムをめぐって、プロフェッショナルの誇り/アマチュアの可能性、客観(事実報道)/主観(ニュースの価値の発見)、大学のジャーナリズム研究/OJTによる現場のジャーナリスト教育、といった様々な対抗軸が容赦なく暴き出された。と同時に、どっちが悪い、というような不毛な水掛け論を廃して、異なる立場どうしの「対話」こそ重要、という結論が導き出されたことが収穫だったと思う。「職人=マイスター」は、弟子を教育できる(教育理論を持った)師匠でなければならない、というのは、林先生、いい切り返しでしたね。こんなふうに熱い討論が成立するということに、まだ「新聞」って愛されているメディアなんだなあ、ということを感じた。
この連続シンポ、個別テーマとして扱ったのは「図書館」と「新聞」だったが、実は隠しテーマは「大学」だったように思う。「大学」もまた、「情報=知識」の海を渡る巨大な船であり、今まさに荒波に翻弄されて、針路を定めかねている感があるのだ。次の機会には、そこを正面から論じてほしいと思った。
参考:
第1回 情報の海~マストからの眺め
第2回 情報の海~沈まぬ「図書館」丸