〇坂野徹『縄文人と弥生人:「日本人の起源」論争』(中公新書) 中央公論新社 2022.7
本書のオビの表面には、縄文人と弥生人の復元模型の顔写真を並べて、大きな赤字で「日本人とは何者か?」と書かれていた。裏面には「縄文人と弥生人はいかなる人びとであったのか?」とも。私はこの種の疑問には関心がなかったので、本書をスルーしていた。しかし著者の関心は、より正確には「日本人(縄文人と弥生人)はいかなる人びとと考えられてきたのか?」という論争史にあると分かって、俄然、興味が湧いて読んでみた。
日本における近代的な人類学・考古学はモースの大森貝塚発掘(1877年)に始まるというから、150年足らずの歴史しかないが、研究は大きな進展を遂げてきた。そもそも当初は、縄文式土器と弥生式土器の先後関係も明らかではなく、異なる集団の文化のように考えられていたことには驚いた。明治期の人類学者・考古学者は、かつて日本列島に暮らしていた先住民族に、後来の日本人の祖先が置き換わったと考えた(人種交替モデル)。これは、当時の欧米の歴史観の反映であるとともに、記紀神話(神武東征伝説)の影響も大きい。渡瀬庄三郎は日本列島の先住民族はコロボックルだと考え、小金井良精はアイヌ説を唱えた。20世紀に入ると、弥生土器が縄文土器より新しいという認識が広がる。鳥居龍蔵は、アイヌが縄文土器を残し、日本人の祖先が弥生土器を残したと主張した。
しかし次世代の研究者からは、先史時代の土器や石器を残したのは日本人の祖先であり、現代まで日本列島の住民は連続していると考える者が出て来た(人種連続モデル)。清野謙次は、古人骨の計測データをもとに、現代日本人もアイヌも、日本石器時代人がそれぞれ隣接人種との混血が進んだ結果であると主張した。一方、縄文土器を残した人々と弥生土器を残した人々は別の集団(民族)で、彼らが混血して日本人になったと考える考古学者もいた(縄文/弥生人モデル)。
戦時中、考古学者の間では、縄文/弥生人モデルの支持者が増えていく。記紀神話(皇国史観)の影響が強まったこの時期、日本人の祖先が海外から渡来した説は語られず、日本人の混血性や他民族との闘争は否定された。敗戦後も人類学者の日本起源論は混血を否定する理論が支配的だったが、1950年代、金関丈夫は、日本石器時代人より高身長の新しい種族が、弥生文化とともに渡来したと主張し、次第に渡来説に有利な証拠が蓄積されていく。埴原和郎は、この延長上に、日本人の成立における縄文人と弥生人の「二重構造モデル」を唱えた。
埴原と近い関係にいたのが、日文研の初代所長の梅原猛と京大系の研究者たち(新京都学派)で、彼らこそが、現在、ブームになっている「縄文=日本の基層(深層)文化」という発想の起源だと思われる、と著者は注釈している。分かる分かる。1970~80年代、私はリアルタイムにこういう言説に触れていたので。
日本文化起源論は、何を「日本文化」の特徴と見做すかで変わってくる、というのは本当にそのとおりだ。登呂遺跡の発掘に日本中が湧いた時代は、水田耕作=弥生文化こそ日本文化の起源であり、キラキラした理想郷だった。その雰囲気を、60年代生まれの私は微かに記憶している。後世の人間なんて勝手なものである。同様に日本人起源論も「日本人」という集団の定義に左右される。歴史を振り返ると、その時代の「日本人」の定義に合わせて、最も望ましい「起源」が語られてきたように思った。そして今日、日本に暮らす人々のエスニックな多様性は確実に増大しており、この傾向が続けば、起源(ルーツ)探しとしての日本人起源論の意義は失われていくだろう。「原生人類の拡散過程のなかに日本人起源論を位置づける」というのは期待したい方向性だ。「日本という枠にとらわれた従来の人類学・考古学研究の乗り越え」を見届けてみたいと思う。