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見もの・読みもの日記

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悪の帝国像を忘れて/帝国で読み解く近現代史(岡本隆司、君塚直隆)

2025-02-04 22:28:09 | 読んだもの(書籍)

〇岡本隆司、君塚直隆『帝国で読み解く近現代史』(中公新書ラクレ) 中央公論新社 2014.12

 「帝国」をキーワードに近現代史(18世紀~現代)を捉え直してみようという対談。ヨーロッパ国際政治史の君塚先生も中国史の岡本先生も大好きなので、わくわくしながら読んだ。はじめに岡本先生が言う、『スター・ウォーズ』シリーズの最初に制作されたエピソード4に描かれた帝国は、まさに多くの人々が抱いている「帝国や皇帝は悪である」というイメージをトレースしたものであると。うん、分かりやすい。しかし「帝国=悪」というイメージは本当に正しいだろうか。スティーヴン・ハウは帝国を「広大で、複合的で、複数のエスニック集団、もしくは複数の民族を内包する政治単位(後略)」と定義しているが、帝国の歴史的な実態は多様で多義的であると両氏は考える。

 検討は18世紀の東アジアから始まる。中国(清朝)は、康煕、雍正、乾隆の盛世。当時のヨーロッパは貧しかった。もともと小麦の収穫倍率は米よりずっと低く、中世で1対2~3、18世紀でも1対4~6程度だった。米は奈良時代に1対20(1粒蒔けば20粒収穫できる)だったという。この研究、おもしろい。ヨーロッパは必然的に機械化を図らなければ豊かになれなかった。18世紀半ばに産業革命が起き、同時に科学・農業・金融などさまざまな「革命」が起きて、ヨーロッパは飛躍的な発展を遂げる。一方、清朝はウルトラ・チープ・ガバメントで、官と民が著しく乖離している上に、民もバラバラだったことが、発展の阻害要因となった、というのが岡本先生の見立てである。

 19世紀末、日清戦争が日本の勝利に終わると、列強による中国分割競争が本格化する。東アジアでは日本が急速に台頭し、日露戦争にも勝利を収める。しかし勢いに乗って進めた朝鮮の植民地化政策は「稚拙だったとしかいいようがありません」と両氏とも厳しい。中国では梁啓超が国民国家の概念を持ち込み、ようやく中国が本気で変化を志すようになる。しかしそれは途方もない困難を伴う事業だった。君塚先生の「中国は『複数の民族を内包している』という意味での帝国としてしか存在しえないといえるかもしれませんね」という言葉が味わい深い。

 第一次世界大戦から第二次世界大戦へ。君塚先生は日本の「ポイント・オブ・ノー・リターン」として、上海への攻撃(1937年)に始まる日中戦争を挙げる。満洲国の建国に留まっていれば、ソ連南下の防波堤として、イギリスも蒋介石も容認していたのではないか。日本の外交は、ある時点までは非常にクレバーだったが、戦勝国として世界の大国の仲間入りを果たしたあたりから、傲慢、怠慢になって、学ばなくなったという。歴史は繰り返していないか、不安を感じる指摘だった。

 第二次大戦終結後、表向きは世界から帝国が完全に消滅した。しかしアメリカとソ連をどう考えるか。特にアメリカは、自由と民主主義を信奉する国でありながら、その「自由と民主主義」という理想を世界に拡大するため、邪魔になる勢力を潰すことには全くためらいがない。岡本先生は、これは西部開拓時代の「マニフェスト・デスティニー」以来のアメリカのDNAのようなものかもしれないと述べている。昨今、この野蛮なDNAが悪い意味で頭をもたげているようで気になる。そして、やっぱり「ひとつの中国」を目指す中華人民共和国の試行錯誤も気になる。なぜあんなに「ひとつ」を強調するかというと、気を許せばすぐにバラバラになる集団だから、というのは、滑稽だけど分かる。皇帝を戴く帝国も、帝国主義も否定されて久しいが、「国民国家と帝国的なもののせめぎ合いは今も続いている」と君塚先生はいう。

 私は高校の世界史の教科書で、最終章近くに登場した「民族自決」「国民国家」というキーワードをまぶしく眺めた記憶がある。しかし、これが万能の価値観でないことは、悲しいけれど、よく分かってしまった。多様なエスニック集団や民族が平和に共存する方法を考える上で、近代以前の「帝国」にも虚心に学ぶべきものがあると思う。

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公設浴場の普及/風呂と愛国(川端美季)

2025-01-29 22:59:10 | 読んだもの(書籍)

〇川端美季『風呂と愛国:「清潔な国民」はいかに生まれたか』(NHK出版新書) NHK出版 2024.10

 「まえがき」に言う。現代に暮らす日本人の多くは、毎日風呂に入るのが当たり前だと思っている。しかしいつから私たちは毎日風呂に入るのが「当たり前」だと思うようになったのだろうか――。同じような問いかけは、何度かSNSで見たことがあって、昭和の生活を知る世代から、むかしは毎日は風呂に入らなかった、という体験報告が語られたりした。私は1960年代、東京生まれで、家に風呂はあったが、毎日は入らなかった気がする。いつの頃からか、我が家は毎日風呂を沸かすようになったが、必ず毎日入っていたのは、入浴好きの父親だけだったように思う。いまの私は、毎朝シャワーは浴びるが、めったに湯船には浸からないので、本書の「日本人」像から外れるなあ、と思いながら読んだ。

 はじめに前近代の日本の湯屋について紹介する。光明皇后の逸話に始まり、仏教寺院に湯屋や設けられた浴室の説明があるが、それとは別に、営利目的の恒常的な浴場は、遅くとも鎌倉時代には存在していたという。江戸時代初期には、蒸し風呂と湯に浸かる温浴が混合したものが現れた。そのひとつが「戸棚風呂」で、やがて「柘榴口」という様式が主流になった(挿絵つきで分かりやすい)。また「湯屋」と「風呂屋」は、湯に浸かるところか蒸気浴かという機能の違いとともに、「風呂屋」は性行為を目的とする店であったという説もある。

 明治期になると、男女混浴の禁止(江戸時代にも禁止令は出された)、「湯屋の二階」(男性客の社交場だった)の禁止などによって、湯屋は現代の公衆浴場に近づいていく。また西洋医学や衛生行政の立場から、身体に適した入浴方法が論じられるようになった。さらに明治30年代には「入浴好きな日本人」という言説が登場する。背景には、欧米の日本に対する偏見(黄禍論)があり、それに対抗するために「我が那には古来淋浴の美風がある」「欧米では上流階級も頻繁に入浴しない」ということが唱えられたのではないかという。おもしろいけど、対抗できるのがそこかと思うと物悲しい。なお、この時期は、日本の浴場の水質が汚いことが指摘され始めた時期でもある。

 大正期には、工業化によって東京や大阪の労働者人口が急増する中、欧米の公衆浴場運動を知った社会事業家たちが、下級労働者やその家族に入浴回数が非常に少ない者がいることを問題として取り上げ、生活保障としての浴場の設置が行政レベルで展開されていく。公設浴場は「労働者」や「貧民」の慰安と労働力回復のために必要な施設とされた。本書には、大阪について、「中流以下の市民」を対象にした市営住宅が造営されたこと、その市営住宅地域内に公設浴場が設けられたことが紹介されている。なんだか大正期のほうが、いまの地方自治体より、行政のなすべきことをよく分かっている気がする。そして、「入浴好きの日本人」の原点は、近世以前の湯屋の伝統などではなく、むしろ大正期の公衆浴場普及の成功にあるのではないかと思った。

 このほか、女性は家庭において入浴習慣を実践・継承する役割を期待されたこと、明治期の「国民道徳」の論者が、あたかも清潔な身体の重視と歩調を合わせるように、日本人の精神の「潔白」を重視したこと、さらに国定修身教科書では清潔・健康が「世のため国のため」の徳目となっていることを紹介する。ただし、この末尾の3章は、結論ありきの感があって、好みが分かれると思う。私は大正期の社会事業や細民救済施策の実態をもっと知りたくなった。ほかの本を探して読んでみよう。

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下り坂の先に/東京裏返し 都心・再開発編(吉見俊哉)

2025-01-26 23:05:38 | 読んだもの(書籍)

〇吉見俊哉『東京裏返し 都心・再開発編』(集英社新書) 集英社 2024.12

 2020年刊行の『東京裏返し』では、都心北部を歩いて歴史の古層を探索し、「東京についてのあまりにも自明化されたリアリティ」を「裏返し」していく実践を示した著者が、本作では都心南部(南西部)をフィールドとする。もとは雑誌「すばる」2023年11月号~2024年5月号に掲載した内容に加筆修正したもので、集英社新書編集部の担当者、カメラマン、ライターと著者の四人で朝早くから歩き回った旨が「あとがき」に記されている。

 著者は街歩きの鉄則として「狭く、曲がった、下り坂」の愉しみを挙げる。上り坂は坂の頂上に意識が向かうが、下り坂では、細かい路地や長屋風の集落など、変化に富んだ風景に出会うことができる。こうした下り坂を探すのに重要なのが川筋だ。東京は、東に向かって張り出した武蔵野台地の東崖に形成された都市で、西から東に流れる大小の河川が、武蔵野台地を削って、台地と低地を繰り返す、複雑な地形を築いている。

 私は東京育ちだが、生まれが武蔵野台地の外側(東側)の下町低地だったので、東京の地形に対する感覚は鈍かった。かなり大人になって、中沢新一の『アースダイバー』(2005年)を読んだ頃から、ようやく東京都心の複雑な地形に気づいた。本書には、渋谷川、古川、目黒川、北沢川、烏丸川、三田用水、蟹川、鮫川など、川の名前が頻出する。しかし、いま私が住んでいる東京東部の河川の存在感に比べると、都心西部の川は、暗渠になったり断ち切られたり、現存していても、街づくりにその魅力を生かせていない場合が多いようだ。

 本書に紹介されたスポットで特に気になったところを挙げておく。渋谷川の章では、著者の現在の所属大学である國學院大のキャンパスに立ち寄り(ただし本務はたまプラーザキャンパスとのこと)、國學院大學博物館を「絶対にイチオシの施設」と紹介していて嬉しかった。しかしすぐ隣の渋谷氷川神社には行ったことがないので今度行ってみよう。三田用水の章では、荏原畠山美術館と、すぐそばの豪壮な白亜の邸宅の記述がある。「誰もがよく知るIT長者」の邸宅だそうで、私も年末に久しぶりに荏原畠山美術館を訪ねて、成金趣味まるだしの豪邸に呆れたばかりだったので、とても共感して読んだ。ちなみに白金の地名が、中世に「白金長者」と呼ばれる富裕な豪族の館があったから、というのは初めて知った。

 また白金台の常光寺は、長く福沢諭吉の墓があった寺で、今でも慶応義塾による「史蹟 福澤諭吉先生永眠の地」の記念碑があるが、1977年に福沢家の宗旨の問題で、麻布の善福寺に移転したのだそうだ。改葬の際、ミイラになった福沢の遺体が発見されたが、遺族の意向で荼毘に付されてしまったとのこと。『医者のみた福澤諭吉:先生、ミイラとなって昭和に出現』という中公新書があるようだが、今でも入手できるかな。

 著者が、ときどき都心北部と都心南部を対比させているのも面白かった。たとえば上野寛永寺と芝増上寺。両寺はどちらも明治維新後、新政府に抑圧され続けた。焦土となった寛永寺は、博物館や動物園など近代化のシンボル空間に変容させられたが、増上寺は本堂を教部省(宗教関係を所管する官庁)に献納させられ、仏教寺院であることを否定され、代わりに天照大神などを祀る神殿が置かれたという。とんでもないな、明治政府。なお、増上寺の将軍家霊廟は徳川家が所有することを許されたが、1945年3月10日と5月25日の空襲で焼失してしまう。さらに戦後、御霊屋部分の土地を購入した西武鉄道の堤康次郎は、徳川歴代将軍の墓を掘り起こしてまとめて一箇所に改装してしまった。なんだろうなあ、この酷い仕打ちの掛け合わせ。

 堤康次郎については、むかし猪瀬直樹の『ミカドの肖像』を興味深く読んだが、本書には石川達三の小説『傷だらけの山河』が紹介されている。そして本書は、堤康次郎的な開発主義は戦後復興期だけの問題ではなく、東京では今日も「街の殺戮」が繰り返されていることを告発している。

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七人の大統領で知る/韓国現代史(木村幹)

2025-01-02 22:30:33 | 読んだもの(書籍)

〇木村幹『韓国現代史:大統領たちの栄光と蹉跌』(中公新書) 中央公論新社 2008.8

 戦後、日本の植民地支配からの解放と米国の占領を経て、1948年に大韓民国が建国される。以後、60年間(本書の刊行まで)の韓国現代史を、個性豊かな大統領たちの姿を通じて描く。はじめに終戦の8月15日をどう迎えたかを、金大中、金泳三、尹譜善、李承晩、朴正熙の5人について検証し、以後も「政治的な節目」ごとに、4~5人(大統領就任前だったり、引退後だったり)の動向について語っていく。このほか、70年代以降に登場する李明博、廬武鉉を加え、最終的には7人が本書に取り上げられている。

 李承晩(1875-1965)は名前しか知らなかったので、1948年の大統領就任時にすでに73歳だったことに単純に驚いた。朝鮮王朝時代に開化派のホープとして期待され、日本統治時代はアメリカに亡命、日本の敗戦後、米軍政府と各種政治勢力にかつがれて初代大統領に就任するが、1960年の四月革命により辞任、アメリカに亡命し、ハワイで客死する。尹潽善(1897-1990)は名前も知らなかったくらいだが、かなり後の時代まで政治家として活動している。

 朴正熙(1917-1979)の軍事クーデタによる政権掌握、そして維新クーデタ(上からのクーデタ)による維新体制の発動については、近年、書籍や映画でだいぶ理解が進んだところである。興味深かったのは、韓国経済の立て直しのため、朴正熙が日本との関係改善に積極的に取り組んだこと、それが国民(特に学生)や野党強硬派の強い反発を生んだことだ。日韓国交正常化に賛成した野党政治家の金大中が、揶揄を込めて「サクラ」と呼ばれたことも初めて知った。政権の末期、朴正熙は「追い詰められることにより、弾圧し、弾圧することにより、さらに追い詰められる」状態で、深い孤独の中にいたという。1974年の暗殺未遂事件では、銃弾を受けた妻が亡くなっている。暗殺直前の1979年10月に李明博が見たという朴正熙の姿は、老いた独裁者の孤独を穿っていて、小説の一場面のようだった。

 その後、本書は、崔圭夏、全斗煥、盧泰愚の3人は取り上げてない。これは、彼らが光州事件等の裁判を受けることになった関係上、資料的な制約が大きかったからと説明されている。そのため、次に登場するのは金泳三(1928-2015)と金大中(1924-2009)である。両者とも、長年にわたって権威主義政権の下で民主化運動を牽引してきたリーダーだが、大統領就任のいきさつを見ると、きれいごとだけでは済まない「政党政治」の怖さを実感した。

 以上で旧世代が退場し、廬武鉉(1946-2009)、李明博(1941-)は、新世代の大統領と言ってよい。しかし期待を背負って登場した廬武鉉政権は、すぐに国民の支持を失い、レイムダックに陥ってしまう。韓国が未だ貧しく、権威主義体制下にあった時代には、政治家は「改革案」を示し、実行することができた。しかし豊かで民主的な社会では、政治的指導者の権能は限られており、「既にあるこの社会」よりも優れた代案を示すことは難しい。にもかかわらず、「改革」と「経済成長」を続けることができると信じていた国民は、廬武鉉政権に失望したのだ、と本書は説く。そして「経済成長」への期待は李明博政権に受け継がれる。この「豊かで民主的な社会」における政治と政治家の役割という問題は、韓国という限定を超えて、さまざまな地域に適用できると思った。

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モンゴルの英雄物語/元朝秘史(白石典之)

2024-12-14 22:04:26 | 読んだもの(書籍)

〇白石典之『元朝秘史:チンギス・カンの一級資料』(中公新書) 中央公論新社 2024.5

 『元朝秘史』という書物の存在は知っていたが、具体的な内容は知らなかった。なので「はじめに」と序章の紹介を読みながら、へえ!へえ!と唸ってしまった。この書のおおまかな骨子ができたのは13世紀中頃の可能性が高く、『元朝秘史』は14世紀末の漢訳本に用いられた題名である。本文は漢字音写されたモンゴル語(万葉仮名を思わせる)で、傍らに漢訳が付いている(序章の冒頭に原文の掲示がある)。この「漢字音写モンゴル語」は、モンゴル語独特の発音を表現するため、様々な工夫をしており、言語学的にも興味深い。また、失われた『秘史』のモンゴル語原本が、ウイグル式モンゴル文字とパスパ文字のどちらで書かれていたかには議論があるという。

 『秘史』の冒頭は、ボルテ・チノ(蒼き狼)と妻のコアイ・マラル(白き牝鹿)というモンゴル部族の始祖伝説から始まる。始祖から十代ほどの子孫には特に事蹟が記されていない。日本の記紀神話でいう「欠史八代」みたいなものという解説に納得する。やがてイェスゲイとホエルンの間にテムジンが生まれる。青年時代に父を亡くしたテムジンは苦難を舐めるが、近隣の氏族や部族との戦いに勝利し、次第に頭角をあらわす。ついにモンゴル部族の統率者である「カン」位に推戴され、チンギス・カンの尊号を得る。さらに敵対部族を掃討し、モンゴル高原の統一を果たす。

 考古学的には、地域単位で異なっていた死者の埋葬方法が、13世紀初頭までに北頭位仰臥伸展葬に統一され、精神文化においても「新生モンゴル」のアイデンティティが形づくられた証左となっている。こういうの、とても面白い。チンギスは古参と新参を分け隔てることなく、功績に応じて報いた。一方で、輪番でチンギスの護衛に当たる輪番組(親衛隊)は特別に重視された。

 即位後のチンギスは金朝を攻め、金中都(北京)を阿鼻地獄に叩き込む(金中都包囲戦を生き抜き、チンギスのもとにやってきたのが遼の王族出身の耶律楚材)。また金への侵攻中に西夏にも兵を送った記述がある。さらにチンギスはホラズム・シャー国(カスピ海東岸、イスラム国家)に遠征する。金や西夏との戦いといえば、私は『射鵰英雄伝』を思い出すが、さらに西域になると、地名や国名の知識がなくて戸惑う。本書には『射鵰』でおなじみ、ジェベ(哲別)の名前が何度も出て来て嬉しかった。『秘史』には触れられていないが、ジェベはカスピ海北岸からアラル海方面を転戦し、帰途の途中で生涯を閉じたと伝わるそうだ。

 西域から戻ったチンギスは再び西夏を攻め、その滅亡を見届けて陣中で崩御する(落馬が原因→頼朝か!)。チンギスの埋葬の地がいまだに不明というのは、ロマンを感じさせていいなあ。チンギスの跡は三男オゴデイが継いだ。長男ジョチは、その出生前に母のボルテがメルキト族に連れ去られ、しばらく族人の妻とされていたことから、血統に疑いが持たれていた。むかし読んだ井上靖の『蒼き狼』は、この件で暗い印象が残っているが、本書が紹介する『秘史』の書きぶりだと、長男ジョチと次男チャガタイは、ずけずけと言い争い、最後は温和なオゴデイが跡継ぎを引き受けている。

 オゴデイは金国を滅ぼし、西方(東欧)に派遣した遠征軍も次々に勝利を収めた。内政では税制や駅伝制を整備し、帝国の基礎を固めた。オゴデイは過度な飲酒癖で健康を害して崩御したと言われているが『秘史』は彼の最期に触れずに終わっている。

 著者がどこかに書いていたとおり『秘史』は、いわゆる正史ではないので、伝奇的で叙事詩的である。主人公のチンギスは、欠点もあるが、一本筋の通った英雄として描かれる。チンギス・カンといえば、世界征服の野望に取りつかれた者のような見方がある。小説『射鵰英雄伝』もその一例だ。しかし著者はいう、彼は本当に世界を征服する野望を描いていたのか。そもそもモンゴル高原の統一さえ、彼の意図するところでなかったのではないか。チンギスが目指していたのは、モンゴル高原を、物資や人が集まるハブ(結節点)にすることではなかったか。これは、現代的な評価に過ぎる気もするけれど、内陸アジア史は、今とてもホットなので、チンギス・カンの史的評価も、少しずつ書き換えられていくのではないかと思う。

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苗字はなかった/女の氏名誕生(尾脇秀和)

2024-12-07 20:44:56 | 読んだもの(書籍)

〇尾脇秀和『女の氏名誕生:人名へのこだわりはいかにして生まれたか』(ちくま新書) 筑摩書房新社 2024.9

 同じ著者の『氏名の誕生』がとても面白くて、知らなかったこと、あるいはぼんやり気になっていたことを気持ちよく理解できたので、姉妹編の本書も必ず読もうと思っていた。そして読んだらやっぱり面白かった。

 本書の分析の中心となるのは江戸時代の女性名だが、「女性名の変遷」を古代から外観した箇所もある(p154)。8世紀の戸籍に見える女性名は1~4音節に接尾語「売(め)」が付くのが標準形で、氏姓は父系血統を表示した。9世紀初頭、嵯峨天皇が内親王に与えた漢字1字+「子」という女性名(ただし臣籍降下させた娘は〇姫)が、9世紀中には定型化し、11世紀までに貴族女性名は何子一色になった。貴族女性は裳着(成人)や女官として出仕する際、位階を得る時に何子という名を設定したが、日常的には使用されなかったらしい。

 11世紀末から13世紀の庶民は、生まれ順+子(太子/おおいこ、姉子/あねのこ)や貴族女性の童名のような形(女・子・御前などが付く)が見られた。16世紀には平仮名2文字(つる、かめ、はつ)が多くなり、頭に「お」が付くものも増える。17世紀には接尾語「女」が廃れ、18世紀には女性名の符号は接頭語「お」が定型となる。

 というわけで冒頭に戻ると、著者は各地に残る宗門人別帳をひもとき、江戸時代後期の女性名は、二音節が標準的であり、日常の口語では「お」付きで使用されていたこと、「お」を接頭語と見るか名前の一部と見るかは意見が分かれること、などを解説する(歌舞伎や文楽になじんでいると、だいたい感覚的に首肯できる)。同時に、日本の女性名と一括りにすると、町や村ごとの文化や慣習が抜け落ちてしまうという指摘も、もっともだと思った。

 江戸時代、人は「家」に属し「村」に属して生きていた。社会の矢面に立つのは戸主だけだから、それ以外は、識字の必要を感じずに暮らしていた人々も数多く存在した。明治初年の調査によれば「自己ノ姓名ヲ自記シ得ルモノ」(自署率)は男女差が大きい(地域差も大きい)。江戸時代の識字率は非常に高かったという説もあるけど、まあ日本全体ではこんなものだろうなと思う。つまり多くの女性は、自分の名前を音声でしか認識していなかったということだ。

 また江戸時代の女性名は基本的に単独で用いられ、男性名のように苗字を冠することはなかった。これは非常に驚いたところ。夫婦別姓問題に関して「日本は伝統的に夫婦同姓」というのは明確な間違いだが「伝統的に夫婦別姓」というのも、この「姓」を苗字の意味で解すると、あやしいのである。宗門人別帳を見ると、男性戸主は苗字と名前で記載するが、女性は「妻」「母」「後家」(名前なし)だったり、男性家族は苗字(戸主の苗字の繰り返し)+名前で記すのに、女性家族は名前だけという例が見られる。

 「女性名に苗字は付けない」慣習は、明治初期の戸籍にも持ち込まれる。しかし政府も困惑を感じていたようで、明治6年、内務卿・伊藤博文が「一般婦女姓氏ヲ冒シ候儀ニ付伺」を提出した。「氏ヲ冒シ」とは、女性が他家(婚家)の姓を名乗っても問題ないか?という問いである。審議の結果、明治国家は「家」を社会の基礎単位とするのだから、妻は夫の身分に従い、夫の姓を名乗るべきという指令を出そうとしたが、これは廃案になってしまったというからびっくり。復古主義者が、古代の「姓氏」のありかたを苗字にあてはめて反対したのである。明治9年には「婦女、人ニ嫁スルモ仍ホ所生ノ氏ヲ用ユベキ事」という指令が発せられる(!)が、現場の混乱は止まず、問題の決着は、近代日本の「家」制度を明文化した明治民法の制定(明治29年)を待たなければならなかった。私は、学校制度とか暦とか、明治初年の混乱の話を聞くのが大好きなのだが、女性名にもこんな忘れられた歴史があったとは知らなかった。

 その後の女性名については、戸籍名「何子」の流行、姓名判断の流行、名前への愛着、そして平成から令和の特徴である、読めない名前の増加などが語られる。本書としては脇道の話題になると思うが、江戸時代に遡る実印(女性も用いた)の歴史も興味深く、現代人がくずし字(筆写体)を忘れた結果、活字体だけを正しいと考える、倒錯的な字形への執着などの指摘にも、苦笑いしながら考えさせられた。

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昭和天皇の肉声/象徴天皇の実像(原武史)

2024-11-24 22:24:52 | 読んだもの(書籍)

〇原武史『象徴天皇の実像:「昭和天皇拝謁記」を読む』(岩波新書) 岩波書店 2024.10

 『昭和天皇拝謁記』は、戦後、宮内府長官および宮内庁長官を務めた田島道治(1885-1968)の日記・書簡等の記録をまとめたもので、2021年から23年にかけて岩波書店から刊行された。この中には「まるでテープレコーダーに録音していたのではないかと思われるほど詳細に」田島と天皇のやりとりが記録されているという。貴人に仕える者としての、記録への執念というか責任感が生んだものかと思う。

 本書は、近代の天皇制について多くの論考のある著者が、この『拝謁記』から読み取った昭和天皇の人間像を「天皇観」「政治・軍事観」「戦前・戦中観」「国土観」「外国観」「人物観(皇太后節子、他の皇族や天皇、政治家・学者など)」「神道・宗教観」「空間認識」のテーマで分析したものである。

 正直なところ、そんなに意外な記述はなく、だいたい、こういう人なんだろうなと想像していたとおりの印象だった。昭和天皇は、日本国憲法の制定によって「象徴」となったが、その意味を突き詰めて考えた形跡はないという。政治・軍事中心であったものを今後は文化、学問芸術を中心にしようとか、過剰な警備を止めて国民に接近しようとは考えている。いやなことを進んでやり、道義上の模範となるよう修養を心がけているというのも嘘ではないだろう。しかし、やっぱり統治権の総覧者、大元帥としての意識が抜けていない。忠君愛国は悪くないとか、教育勅語はあったほうがよいという思考は、令和になっても残っているくらいだから、この人が内心でそう思っていたのは、まあしかたないだろう。

 民主主義に関しても、あまり賛意を表明していない。平和、民主、自由のような美名よりも、大事なのは「祖国防衛」である。民主主義は、戦争の時にすぐ動けないのが「弊の一つ」であると述べている。昭和天皇は再軍備論者でもあった。その背景には、共産主義への強い危機感・警戒感がある。共産主義は軍備の弱い日本に易々と侵入することができ、大学や会社などの組織の中にひたひたと勢力を広げていると考えていたようである。ロシア革命の例もあるので、君主(象徴だけど)の立場として共産主義を恐怖することは分かる。しかし再軍備が叶わないなら米軍に守ってもらわなければならいので、沖縄でも内灘(石川県)でも浅間山でも米軍に提供することにためらいがない発言をしているのは、ちょっと驚いた。

 皇太子の進学先をめぐっては、容共的な姿勢の南原繁総長を戴く東大は絶対に嫌だったようだ。皇太子は学習院大学に進学するが、天皇制に批判的な清水幾太郎を教授にしておく安倍能成学長に不満を漏らしている。このへんは天皇家の家庭内事情だから、何を言ってもいいと思うけれど。著者が、昭和天皇の共産党認識を、後期水戸学がキリスト教に対して抱いた危機感に通じると分析しているのは面白かった。

 また、朝鮮半島に対しては、戦後も露骨な蔑視を伴う発言を残している。しかしこれも当時の多数の日本人(知識人を含めて)の標準的な感覚だったとも言える。晩年の昭和天皇は全斗煥大統領と会うわけだが、もし反共主義について言葉を交わしていたら、十分意気投合できたのではないかと思う。

 天皇家の人々について。昭和天皇が皇太后節子を強く恐れていたことは、著者の『皇后考』にも書かれていたが、皇太后が亡くなった後、父・大正天皇と母・貞明皇太后の関係を語っている箇所は、宮内庁は外に出してもよかったのかしら。宮中では大正天皇の時代から一夫一婦制が確立されたことになっていたが、実態はそうではなかったという。その点では、一夫一婦制の実態を確立した(と思われる)昭和天皇はえらい。しかし宮中の儀礼(血の穢れを忌む)との関係で皇后の生理を完全に把握して話題にしていることに、著者は驚きと違和感を述べている。確かに夫婦としては非人間的なようだが、生物学者でもあるしね。

 皇太子明仁(東宮ちゃん)については、天皇となることを不安視する発言を繰り返していたが、天皇明仁が「象徴」の務めを熟考し、沖縄訪問、中国訪問など、先代の「負の遺産」の解消に努力されたことは周知のとおりである。それで、今上はどうなんだろう。年代的には一番近い今上の考えていることが、今ひとつ私には分からない。

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明るい独裁者/全斗煥(木村幹)

2024-11-18 01:54:00 | 読んだもの(書籍)

〇木村幹『全斗煥:数字はラッキーセブンだ』(ミネルヴァ日本評伝選) ミネルヴァ書房 2024.9

 「あとがき」によれば、著者は2011年から5年間「全斗煥政権期のオーラルヒストリー調査」という研究プロジェクトに関わったが、2010年代後半には、まだ多くの政権関係者が生存しており、その証言や回想が揺らいでいた。しかし2021年秋に盧泰愚と全斗煥が相次いで病死したことで、著者は本書の執筆を思い立ったという。盧泰愚と全斗煥が2021年に病死したというのは、全く自分の記憶になくて、少し驚いた。両人とももっと古い時代の政治家だと思っていたので。

 全斗煥(1931-2021)は慶尚南道の貧しい農村に生まれ、陸軍士官学校に進む。学業は芳しくなかったが、スポーツを通じて同輩の人望を得、高級将校の人脈を掴み、アメリカにも留学。1961年、朴正熙が軍事クーデタで政権を掌握すると、クーデタ勢力の一員となることに成功し、権力の階段を駆け上がっていく。

 1979年10月の朴正熙暗殺事件、12月の粛軍クーデタの記述は、映画『KCIA 南山の部長たち』や『ソウルの春』を思い出しながら読んだ。映画と史実には異なる点も多いのだが、小さな史実が取り入れられている点もあって面白かった。

 さらに興味深く思ったのは、粛軍クーデタ~光州事件におけるアメリカのジレンマと、全斗煥による自己正当化の理屈である。冷戦期のアメリカは「自らの側に立つ発展途上国の権威主義政権を、その非民主主義的な性格を度外視してまで、支援してきた」(本書)。しかし、これらの権威主義政権は、現地の人々の反感を買い、民主化運動が反米運動と結びつく状況が生まれてしまう。だからアメリカは、韓国の情勢にも強い懸念を示した。全斗煥は、光州の学生運動には「北朝鮮の介入」が認められるという「極秘情報」を挙げて、その鎮圧行為を正当化した。これは、昨今、沖縄について言われる「中国の介入」と同じ理屈で暗い気持ちになった。

 そして政権樹立と新憲法制定。ちなみに本書の副題は、大統領任期を7年に定めたときの全斗煥の発言である。なお、朴正熙は、あらゆる問題について閣僚から詳細な報告を求め、具体的な指示を下す指導者だったが、全斗煥はこれと見込んだ人物を抜擢し、職務を長く任せるスタイルを好んだという。1980年、アメリカに保守派レーガン政権が誕生したことは全斗煥の追い風となる。中曽根政権の日本とも関係が改善。そうか、昭和天皇との晩餐会に出席したのも全斗煥だった。

 国内では、カラーテレビ放送が解禁され、プロスポーツが始まり、ソウル五輪誘致に成功する。全斗煥は、大衆受けの良い文化政策を行う事により、民衆の関心を政治から娯楽へと誘導し、政権への不満をそらそうとしたと本書は解説するが、日本人にとって韓国イメージが明るく親しみやすいものになっていくのは、おそらくこの時代が始まりだと思う。

 しかし再び政権批判と民主化の機運が高まり、学生運動や野党の活動が活発になる(金泳三の民主山岳会、おもしろすぎる)。全斗煥は、盟友・盧泰愚を後継者に指名し、引退後も背後から政治を操縦することを考えていたと思われるが、盧泰愚は「民主化宣言」を発表することで一気に脚光を浴び、野党勢力を抑えて大統領に当選する。国民から全斗煥政権への不満が噴出する中で、盧泰愚は全斗煥カラーの払拭に迫られ、全斗煥は盧泰愚への不信を募らせた。盧泰愚は全斗煥に海外亡命を提案したが拒否、全斗煥は江原道の山中の百潭寺でしばらく謹慎生活を送る。

 1992年の大統領選挙に勝利した金泳三は、盧泰愚を収賄容疑で逮捕、さらに粛軍クーデタと光州虐殺を罪状として全斗煥を逮捕する。無期懲役が確定したのは1997年、しかし恩赦によって自邸に戻った全斗煥は、長い晩年を過ごすことになる。この間、本格的な政治活動こそ行わなかったものの、宗教活動など様々な活動に関わったという。知らなかった。

 2000年代、ドラマ『第五共和国』で全斗煥を再発見したファンたちが全斗煥の生家を訪問するというエピソードがあった。映画『ソウルの春』は、決して全斗煥に肩入れさせない描き方をしているというが、やっぱり少し離れて眺めるこのひとには、どこか魅力がある。そして盧泰愚とはついに和解しなかったのだと知ると、あの映画に描かれた両者の親密さも、違った味わいが感じられる。

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民主主義の覇権国家/アメリカ革命(上村剛)

2024-11-15 23:26:52 | 読んだもの(書籍)

〇上村剛『アメリカ革命:独立戦争から憲法制定、民主主義の拡大まで』(中公新書) 中央公論新社 2024.8

 このところ仕事が忙しくて読書レポートが書けていなかったが、11月5日の大統領選挙より前に読み終えていたものである。現実の選挙結果のインパクトが重くて、本の内容を忘れてしまいそうになったが、気を取り直して書いてみる。

 アメリカ革命とは、アメリカ合衆国の始まりを意味する。具体的には、植民地時代を前史とし、独立戦争、独立宣言(1776年)から連邦憲法制定会議を経て、帝国化と民主化が拡大する1840年代までの約70年間(その先に1860年代の南北戦争がある)を本書は記述する。

 むかし中高の授業では、イギリスからの植民者たちは、本国政府の圧政と重税に怒って立ち上がり、めでたく独立を勝ち得たというストーリーを学んだ。そんなに単純でないことにはうすうす感づいていたが、本書は、見過ごされてきた多くの複雑な視点を教えてくれる。たとえば、アメリカ大陸には、スペイン、フランス、オランダなど、イギリス以外の国々からやってきた植民者もいたこと。イギリス系の植民者にも王党派(イギリスからの独立に反対した)など、さまざまな政治的立場の人々がいたこと。さらに先住民や奴隷の存在も忘却されてきた。

 そうしたゴタゴタの状態で独立戦争に勝利したアメリカだが、戦後処理は前途多難で(領土は拡大したが、統治の仕組みが行き渡らず、歳入を得る権限も脆弱)内部崩壊の危機にあった。その唯一の解決策として期待されたのが連邦憲法の制定だった。著者によれば、政治思想史的には、立法者は一人のカリスマであるべきなのに「立法者たち、つまり多くの人間が基本法の制定に関わったにもかかわらず、それでも国家運営が軌道に乗った」ことがアメリカの面白さであるという。確かに4ヵ月に及ぶ会議での、意見の対立(北と南、大邦と小邦)、駆け引き、妥協の顚末は大変おもしろい。案がまとまったあとも、署名を拒否する委員がいたり、各邦の批准会議での論戦というドラマが続く。

 そして、ついに憲法が批准されるが、成文憲法が書かれたのは「世界においてほぼ前例のない革新的な出来事である」という指摘も重要だと思った。成文憲法のある国家って、わずか200年ちょっと前に生まれたものなのだな。アメリカ建国者たちは、引き続き憲法の運用、実践という新たな問題に立ち向かっていく。連邦憲法の主眼は、いかに野心を持った邪悪な政治家が登場しても、それを抑えられるような統治機構を確立する点にあったという(いまこの箇所を再読すると背筋が凍る思いがする)。同時に、新たな憲法体制は、初代大統領ワシントンの振舞いを先例とすることで確立された面もある。ワシントンは独立戦争で起死回生の反撃を成功させた軍事の才もあったみたいで、本書でかなり興味が湧いた。

 新生アメリカ合衆国では新聞や世論が発達し、民主政(デモクラシー)が徐々に肯定的に捉えられるようになった(建国当時は、むしろ共和政のほうが評価されていた)。一方、ワシントン政権がスタートした1789年にはフランス革命が起こり、国際情勢が国内政治の党派対立を激化させた。また、「内なる他者」先住民の排斥・隷属化には、公的主体だけでなく、利益を求める民間の商人たちも加担した。このように初期のアメリカを「帝国」として理解することは、従来の近代史理解に見直しを迫るものでもある。「実は独立後のアメリカがやっていたことはイギリスの帝国政策の再来」にすぎない、という指摘にも考えさせられた。

 最終章、1800年代前半で全く知らなかったのは1812年戦争(第二次米英戦争)。カナダには王党派のイギリ人が多く移住していたが、アメリカ軍はカナダの首都(現・トロント)に攻め込み、焼き払った。カナダ側には、カリスマ的な指導者テムカセが指揮する先住民部族の連合軍がついていたが、アメリカ側も対立する先住民の軍隊を組織した。ああ、こういう先住民部族の軍事利用って東アジアだけではないのだな。

 最終的にアメリカは欧州列強から外交的独立を果たし、内政においては、今なお世界のモデルと見做される民主政治体制を確立する。表面的には見事なサクセスストーリーだが、その影の部分を見落としてはならないだろう。

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おいしい町歩き/東京の喫茶めし(ぴあMooK)

2024-09-12 21:59:50 | 読んだもの(書籍)

〇ぴあMooK『東京の喫茶めし』 ぴあ 2024.8

 東京の喫茶の名店と名物メニュー、スパゲッティ、サンドイッチ、カレー、オムライス&オムソバ、モーニング、さらにスイーツは、パフェ、ホットケーキ、プリンアラモード、あんこ、コーヒーゼリー、クリームソーダなどを紹介する。全体にマホガニー色(深みのある赤)を基調とした写真ページが多いのは、取り上げられているお店の内装トーンがそうなのだろう。

 若い頃から喫茶店に行く習慣はほとんどなかった。大人になると、チェ-ン店のカフェが急速に普及してきたので、安いし入りやすいし、時間のかからないチェーン店ばかり利用していた。それが最近になって、その店にしかないメニューと雰囲気を求めて、レトロな喫茶店を訪ね歩く楽しさがだんだん分かってきた。

 と言っても、本書掲載のお店で、私が実際に訪ねたことがあるのは、本郷三丁目のルオー、上野の王城、神保町のトロワバグくらいかな。銀座ウェストと資生堂パーラーは大昔に行ったことがある。ここもあそこも行ってみたいお店がたくさん見つかって嬉しかった。

 本書は基本的に人の姿は写さない方針のようだが、例外的に店主の近影を掲載されているお店がいくつかある。流行り廃りに関係なく、お店を守ってきたおじさん、おじいさんという風情で、この方たちがお元気のうちにお店に行きたいなあと思った。ぼんやりしているうちになくなってしまうものが、東京にはとても多いのだ。

 巻末のインデックスで数えると、70軒弱が掲載されている。毎月1軒訪ね歩いたとしても5年はかかる、いや5年は楽しめると考えるとしよう。

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