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見もの・読みもの日記

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仲介者としての女性/海の東南アジア史(弘末雅士)

2022-07-01 22:30:30 | 読んだもの(書籍)

〇弘末雅士『海の東南アジア史-港市・女性・外来者』(ちくま新書) 筑摩書房 2022.5

 交易活動が活発化し、東西世界(ヨーロッパ、中国、日本)から多数も来訪者がこの地域を訪れた近世(15世紀~)、さらに植民地社会が成立し国民国家形成運動が展開する近現代(19世紀後半~)の東南アジアを総合的に論ずる。本書の注目ポイントをよく表しているのは副題である。東南アジアには、古来、海洋を通じて多くの商人や旅行者・宗教家が来航し、港市は、外来者に広く門戸を開き、多様な人々を受け入れるシステムを構築してきた。そこで大きな役割を果たしたのが女性である。

 以下、最も印象的だった「女性」の役割を中心にまとめる。15世紀から17世紀、東南アジアでは、東西海洋交易の中継港となり、香辛料などの東南アジア産品を輸出する港市が各地で台頭した。私の知っている地名でいえば、ムラカ(マラッカ)、アユタヤ、ジョホール、ブルネイ、ホイアンなどである。港市では、一般に外来者は、出身地ごとに居住区を割り当てられ、それぞれの居住区では頭領が任命され、出身地の慣習に従って滞在することが認められた(この方式は、東南アジアの港市に限らず、ありがちに思える)。

 特徴的なのは、交易活動を進展させるため、滞在する外国人商人に現地人女性との結婚が斡旋されたことだ。東南アジアでは商業活動に関わる女性が多く、彼女たちは、外来者に現地の言語や習慣を教えるだけでなく、市場との間を仲介した。最高位の貴族たちが自分の娘を外来者に差し出したがったとか、何度も外来者の一時妻になるのは誉れ高いことだったとか、一時妻を得た外来者は、妻にひどいことをしたり別の女性とつきあったりしてはならなかった(普通の結婚と同じ)とか、びっくりする話が並んでいる。しかし現代の感覚で、当時の女性の人権が抑圧されているとは言い難い。むしろ彼女たちは誇り高く自由であったように思われる。いろんな社会システムがあるものだ。

 もちろん、報酬や子供の親権をめぐって、しばしば軋轢も起きた。17世紀に至り、現地権力者が一時妻の斡旋に積極的でなくなると、ヨーロッパ人は、現地生まれのヨーロッパ人女性や現地人女性、あるいは女奴隷と家族形成するようになった。「現地生まれの(法的な)ヨーロッパ人」には、ヨーロッパ人男性と現地人女性の間の子孫(ユーラシアン)や、父親が認知した女奴隷の子供も含まれる。ヨーロッパ人はこうした現地妻を必ずしも正式結婚とみなさなかったが、ジャワでは、彼女たちをニャイ(ねえさん)という尊称で呼んだ。

 近世後期(18世紀~)は清朝の隆盛により、東南アジアも生産活動や商業活動を活発化させた。女性や女奴隷は引き続き、市場での商業活動を担い、外来者と交流した。19世紀に入ると、イギリス東インド会社のラッフルズを筆頭に、ヨーロッパ人が勢力を拡大し、現地勢力との間に確執が生じた。19世紀後半には、植民地支配が拡大し、抵抗する現地勢力は多くが廃絶された。この頃、蒸気船の就航とスエズ運河の開通によって、東南アジアは、これまで以上に世界経済と緊密に結ばれることになる。外来のヨーロッパ人男性の多くは、相変わらずニャイと同棲していたが、在地権力者の権威の失墜により、彼女らの地位も下降し始めた。一方、ヨーロッパ人クリスチャンの間では性モラル向上運動が起こり、次第にニャイの慣習に変更を迫る圧力が増した。こうして、ニャイは(その子孫であるユーラシアンも)外来者と現地社会を仲介し、統合する機能を失っていく。

 東インドでは、ユーラシアンとヨーロッパ系住民を中心に独立国家作りを目指す動きが起こる。その他の地域でも、宗教や政治思想(社会主義、共産主義)、民族主義に加えて、男女関係や家族形成を論点としながら、「国民統合」の新たな社会が構想されていく。その道程は、一国ごとに異なり、とても興味深い。国民統合としては上手くいったように見えても、ジェンダー平等の点では問題があると感じる例もあった。近代化の成功とは何なのかも考えさせられた。私は大雑把に「近現代」という時代を、なかなか好きになれない。その理由のひとつは、「男性優位の原理を掲げるヨーロッパ人の植民地体制」の名残が、地球上から消え去らないためではないかと思う。

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国民食の誕生/パスタでたどるイタリア史(池上俊一)

2022-06-13 12:28:49 | 読んだもの(書籍)

〇池上俊一『パスタでたどるイタリア史』(岩波ジュニア新書) 岩波書店 2011.11

 今季の朝ドラ『ちむどんどん』を、私はけっこう楽しんで見ている。ただし以下はドラマの感想ではない。沖縄から上京した主人公がイタリア料理店で修業する展開に関連して、SNSで、本書のおすすめを見かけたので読んでみた。初めて知ることばかりで面白かった。

 まず、パスタの主原料である小麦はメソポタミアで栽培されるようになり、地中海沿岸の諸文明に広まった。ローマにパンの作り方を伝えたのはギリシャ人だという(ポンペイ展で見た「炭化したパン」を思い出す)。古代ローマでは、小麦粉の練り粉を焼いたり揚げたりする、パスタの原型も作られていた。

 4~6世紀にゲルマン民族が侵入し、支配階級(貴族)になると、彼らは狩猟と大量の肉食を好み、肉を食べないのは脆弱、退廃の印として軽蔑した。小麦畑をはじめとする農地は荒廃し、パスタの製法は長く忘れ去られた。これは驚いたなあ。ただ、ちょっと図式化し過ぎにも感じられ、最新の研究成果が気になるところではある。

 11世紀頃から富裕層は小麦のパンを食べるようになったが、下層民は雑穀のパンかミネストラ(具の少ないスープ)がせいぜいだった。しかし北イタリアでは11~12世紀に生パスタが誕生し、祝祭や特別な記念日などに食べられるようになった。常食ではないのね。一方、南イタリアには、イスラーム教徒であるアラブ人によって乾燥パスタが伝えられた。両者は原料も異なり、軟質小麦の生パスタは北、硬質小麦の乾燥パスタは南、という対照は、現在にも名残があるという。やがて自治都市(コムーネ)の時代には、食文化も大いに発展し、16~17世紀には(パン屋から独立した)パスタ業のギルドも作られた。

 中世のパスタは、水やミルクやブロード(スープ)で茹でてチーズをかける料理法が一般的だったが、大航海時代(15世紀末~)には、唐辛子、砂糖(サトウキビ)、トウモロコシ、ジャガイモ、ソバ、トマト等の食材がイタリアに流入し、パスタと結びついた。現在のパスタ料理に欠かせないトマトソースが誕生したのは17世紀末のナポリだという。18世紀には機械化大量生産も始まり、17~18世紀、パスタはイタリアのあらゆる層の食卓に浸透した。この頃の絵画を見ると、パスタを手づかみで食べているのにびっくり。

 イタリアには、独特の形状、ソース、素材、料理法によるパスタ料理が各地方にある。しかし「地方料理」が確立したのは、実はイタリアという統一国家ができて「イタリア料理」が成立した後のことである。ここで19世紀後半、イタリアの統一と近代化を目指した「リソルジメント」運動が、簡単に紹介されている。英雄ガリバルディの名前は世界史で習った。イタリア国土統一は、実質的には北部の論理による南部の征服・従属化であり、長く「南北問題」という重荷を残すことになったとか、行政や法律の統一はできても文化や生活面の統合、すなわち「イタリア人」の創出(国民の統合)が課題だったとかいうのは、日本の明治維新と似た感じがする。

 日本の国民意識の形成に一番寄与したのは、小説や新聞ではないかと思うのだが、イタリアでは、食文化がその役割を果たした。趣味で料理を研究したアルトゥージは、さまざまな地方料理に彼なりの修正を加えたレシピ集を刊行した。これにより、定番イタリア料理が国民に共有されることになった。アルトゥージのレシピには、トマトソースとジャガイモのニョッキも取り入れられている。特定の「地方」に結びつかない外来物だからこそ、普遍的な「イタリア料理」のシンボル的役割を果し得た、という著者の評言がすごく納得できた。異なる文化の融和には、外来物の触媒が必要なのだと思う。

 もうひとつ重要なのは、パスタ作りは女性の仕事で、イタリア人にとってパスタは家庭の守り手である母親の思い出と強く結びついているという指摘。ただし著者は、男女関係のあり方や生活形態が変わっていけば、ブルジョワ社会のイデオロギー(象徴や物語)も用済みになるだろう、と楽観的である。私は、パスタは大皿に盛って、家族あるいは仲間で取り分けて食べるもの(連帯・つながりの食べ物)という説明に驚いた。全くそんなイメージがなかったので。日本の鍋料理みたいなものなのかな。

 イタリアといえば、美術、建築、音楽など、人類にとっての至宝の数々を生み出した土地ではあるけれど、「イタリア人」の誇りはパスタなのかもしれない、と思った。

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基層社会の成り立ち/中国共産党 世界最強の組織(西村晋)

2022-06-01 23:02:27 | 読んだもの(書籍)

〇西村晋『中国共産党 世界最強の組織:1億党員の入党・教育から活動まで』(星海社親書) 星海社 2022.4

 販売戦略として、かなり煽り気味のタイトルとオビが付いているが、内容は堅実である。日本のニュースや評論で中国共産党が話題になるときは、「党中央」と呼ばれる頂点の部分だけが意識されている。共産党の最上層部は、総書記+政治局常務委員(7人)+政治局委員(25人)+中央委員(約200人)。しかし、その背景には、2021年時点で9500万人以上の党員が存在する。党中央は、どうやって彼らの意見やアイディアを汲み上げ、党のビジョンや決定事項を共有し、政策を実行させているのか。本書は、日本の中国理解のエアポケットである「中国共産党の基層組織」について説明したものである。

 まず、基層党組織の原型である農村から見ていこう。中国の農村には村民委員会という自治組織がある。これは、人民公社が解体された後、管理体制の空白や治安の悪化などの問題を解決するため、農民が自発的に組織したのが始まりで(1980年、広西チワン族自治区)、その後に法制化された。村民委員会は基本的に自治組織だが、政府機関の業務を請け負ったり、行政の活動を補完する役割も担っている。さらに現在は、村民委員会のトップと村の党組織のトップを同一人物が兼ねる「一肩挑」が推奨・推進されている。この、草の根自治と上意下達の中央集権制度と政治的な党活動という、西洋由来の政治学では、くっつくはずのないものが、うまくいくならそれでいいじゃないか、ということで、くっついてしまうのが中国社会のおもしろさである。「このような、一見相矛盾する特徴の組合せは中国の社会や組織の至るところに見られます」と著者は述べている。

 農村の基層党組織が、村→郷・鎮であるのに対し、都市部は、社区→街道で組織されている。そして農村の村民委員会にあたるものとして、都市には居民委員会がある。村民委員会が地域の産業育成などにかかわるのに対して、居民委員会の任務は住民サービスが中心で、さほど重くない。しかし新型コロナ対策、特にロックダウンに際しては、居民委員会が最前線の実行部隊となった。

 中国では、地域のほかに大学や企業にも党組織が置かれている。そう聞くと、日本人は警戒心を抱きがちで、日本の政治家が「共産党関連企業と関係がある」ことはスキャンダルとみなされている。しかし「3名以上の党員がいれば党組織をつくる」ことが法で定められているので、それなりの規模の企業には必ず党組織があるし、党組織の責任者を企業のトップが担うことも珍しくない(リーダーとして有能だから)。党員が経営しているから政府系企業というわけではないし、「そもそも、中国共産党員が経営している会社に対しても苦境に陥らせるような新政策や規制強化を決定してくるのが中国の政府です」という説明に笑ってしまった。

 なお、中国に存在する外資系企業では、党員が多数在籍しているのに党組織がつくられない歴史が長かった。しかし、2000年代以降、外資系企業も「しぶしぶ」党組織の設置を受け入れるようになってきた。その中では、韓国系のサムスン電子(蘇州)の党組織が、韓国語の学習をはじめ、本社側の文化と中国側の文化を融合させる活動を行い、経営側からも評価されたことが注目される。

 社会の基層の党組織(党支部)で、党員は絶えず学習を繰り返しているという。党の発表した方針や政策を読み、大学のゼミのように討論や発表を行うのだ。まあ独裁権力の発表する方針を学んで何になるかと言われればそのとおりだが、社会人になっても、高齢になっても「学び続ける」習慣のある人々が大きな集団を形成していることは、中国の伝統であり、強みである。

 そして、基層組織を含めた「中国共産党」というのは、マルクス・エンゲルスの共産主義で解釈すべきものではなく、どうすれば広い国土で暮らす人々の大集団を統治できるか≒どうすれば豊かで安定して活力ある社会を効率的に(なるべく低コストで)実現できるか、長い歴史の中で、さまざまな権力者や官僚が練り上げてきた統治システムのバリエーションなのではないかと思う。著者と同様、私も今の中国の体制が最善だとは思わない。しかし、なかなか優れた面があることも確かだと思う。

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多文化共生の一進一退/団地と移民(安田浩一)

2022-05-28 23:41:21 | 読んだもの(書籍)

〇安田浩一『団地と移民:課題最先端「空間」の闘い』(角川新書) 角川書店 2022.4.10

 戦後、住宅不足の解消と住宅環境の改善を目指して、1955年に日本住宅公団が設立され、翌年、第1号の公団団地が誕生した(堺市・金岡団地)。それから半世紀、本書は「老い」の境地に入った団地の歴史と現在をレポートする。2019年3月刊行の同名の単行本を加筆修正したものである。

 1960年に入居を開始した常盤平団地(千葉県松戸市)。農民たちの激しい反対運動もあったものの、入居倍率は20倍を超え、団地は「豊かさ」「明るい未来」の象徴となった。しかし今では住民の半数以上が65歳以上の高齢者となった。団地の自治会長は「孤独死ゼロ」を掲げて奮闘しており、国内外から常盤平の取組みを学びに訪れる人が後を絶たないという。

 1965年に入居を開始した神代団地(東京都調布市)は、西村昭五郎が撮ったロマンポルノ『団地妻』の撮影が行われた団地で、一時期は好事家が見学に訪れることもあったという。『団地妻』は濡れ場が売りだが、それなりにストーリー性を持っており、びっくりするような破滅的な結末で終わるようだ。著者は、ロマンポルノの終焉とともに映画界を去り、青森の漁師町で晩年を過ごした西村の妻にも取材している。

 そして、いろいろ話題の芝園団地(埼玉県川口市)。1978年に完成したUR団地だが、いまや世帯の半数以上が外国人住民だという。2009年頃から中国人住民の急増が「治安問題」として取り上げられるようになり、外国人排斥を主張するグループが押しかけ、街宣を行うようになった。一方で、「多文化共生」の実践を求める日本人の若者が移住してきたことをきっかけに、彼の活動を外部の大学生たちが手伝うようになり、中国人住民が団地の自治会に加わり、次第に日本人住民と中国人住民の交流と共生が、ゆっくり進んでいるという。

 フランス、パリ郊外のセーヌ・サン・ドニ県は、人口の75%が移民一世とその子孫で、その多くが団地に住んでいる。貧困層の移民が暮らしていけるのは(家賃は安く、自治体によっては家賃補助がつく)公営団地しかないのだ。著者は、社会活動家の女性(アルジェリア移民二世)の案内で、ブランメニル団地を取材する。犯罪の巣窟、テロリストの拠点と見做されている団地だが、歩いてみれば、当たり前の「日常」が営まれる場所でしかない。とは言え、問題はある。団地住民の組織(アソシアシオン)の中には、野宿者への炊き出しなどを通じて、団地住民に「誰かの役に立っている」実感を持ってもらおうと活動している人々もいる。

 広島市営基町高層アパートは、隣接する県営アパートも合わせて基町団地と呼ばれている。ここには、終戦直後から1970年代末まで「原爆スラム」と呼ばれるバラック街があった(本書には、1969年撮影の印象的な写真が掲載されている)が、1978年、高層アパートの完成によって、木造住宅はすべて撤去された。ここは、中国から帰国した残留孤児の受入れ先でもあった。中国人でもあり、日本人でもある孤児たちは、日本人の心の中には紙一枚の壁がある、という。また近年は、若者による団地再生の取組みが、ここでも始まっている。

 最後に保見団地(愛知県豊田市)。1990年に「デカセギ」で来日した日系ブラジル人のひとりは、20年も前から、団地のごみステーションの掃除をボランティアで続けている。90年代以降、保見団地では、ごみ出し・騒音など生活習慣のトラブルに端を発し、日本人とブラジル人の対立が続いてきた。比喩ではなく武力対決まであと一歩で、機動隊が出動したこともあったという。しかし「日本人と一緒にここで生きていく」という覚悟を示すブラジル人が現れ、それに呼応する日本人が現れたことで、少しずつ歩み寄りが始まっている。

 後半の事例から、現状、団地をめぐっては「移民」「外国人」との共生が問題化していることが分かる。これからの日本で「団地」という社会インフラを維持していくには、この点の解決が急務だろう。しかし団地住民は高齢者が多いので、性急な解決策の押しつけではなく、ゆっくり理解と妥協を進めていくしかないと思う。私個人は、老後は外国人の多いコミュニティで、むしろ喜んで暮らしたいのだが。

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災害と商品経済/飢えと食の日本史(菊池勇夫)

2022-04-30 23:42:12 | 読んだもの(書籍)

〇菊池勇夫『飢えと食の日本史』(読みなおす日本史) 吉川弘文館 2019.4

 全編読み終わってから、『飢饉:飢えと食の日本史』(集英社、2000年)の復刊であるという注記に気づいた。原本は20年以上前の著作だが、初めて得る知識も多く、おもしろかった。本書は、現代の食料問題を念頭に置きつつ、かつて日本人が体験した飢饉現象の記録の読み直しを意図したものである。はじめに古代から近代までの日本列島の飢饉史を概観する。記録以前の採集狩猟時代(縄文時代)には、そもそも再生可能人口数が食料資源量に制約を受けており、人が餓死するような飢饉状態はなかったのではないかと推測する。弥生時代、稲作農耕が始まると、多くの人口を養うことが可能になるが、その分、自然災害による危険度が高くなるのだ。

 江戸時代には多くの飢饉記録が書かれた。古来、飢饉には疫病がつきもので、飢え死にそのものより、飢えた状態で疫病に罹って死んだ者たちが多かった。飢饉時の最もポピュラーな病気は「傷寒」で、腸チフスと考えられている。菅江真澄や橘南谿の記録に人肉食の語りがあることは知っていたが、馬肉食に強い禁忌が働いていたというのは知らなかった。飢饉となれば、犬、猫、鶏を食べるのは当然だったが、馬に関しては「馬を食い、人を食い」と並べて語られるくらい、強い忌避感情があったようだ。おもしろいと言っては不謹慎かもしれないが、興味深い。

 近年、日本列島の過去の気候を復元する研究の進展により、異常気象と凶作の因果関係がかなり分かるようになってきた。冷害をもたらす異常気象は、オホーツク高気圧の影響が大きいと考えられている(他の複合的な要因もある)。オホーツク高気圧の勢力が強くなると、太平洋側では湿潤で冷たい東寄りの風(ヤマセ)が吹き付け、曇天や霧雨が多くなる。東北地方では「ひでりに飢渇(ケカチ)なし」と言って、日照りよりも低温・日照不足が恐れられた。

 また、江戸時代、新田開発が急速に進むと、鳥獣による作物被害が深刻な問題として浮上してきた。東北では猪の異常繁殖による「猪ケカチ」が記録されている。びっくり。これは、焼畑による山野開発が進み、地味を回復させるために放置された焼畑跡が猪の生育場所に適していたためだという。

 焼畑では、自給的作物としての粟や稗に加え、換金作物である麦や大豆がつくられた。特に中心となったのは大豆で、盛岡藩や八戸藩の山地の村々では、江戸方面に売るための大豆の生産が元禄時代には本格化した。柳田国男の『豆の葉と太陽』では、のどかな山村の風景として読んだ記憶しか残っていないが、あれは商品経済の一側面だったのか…。

 そして米もまた最大の商品作物だった。天明の飢饉において、仙台藩は、天候不順で米が不足しているにもかかわらず、強制的に米を買い上げ、江戸や上方に「回米」して儲けようした。藩の財政が、そうせざるを得ない逼迫状態だったのだが、領内では商人屋敷の打ちこわしや、回米中止を求める騒動が起きている。天候不順→飢饉は、避けることのできない因果関係だと思っていたが、事実はもう少し複雑なようだ。著者は「飢饉の本質は市場経済の陥穽にはまってしまった、地域経済の機能麻痺という経済現象そのものであった」と述べている。

 凶作・飢饉を防ぐには、冷害や旱害に強い品種を植えることが第一である。しかし今も昔も農民たちは、味がよく高く売れる、単位面積当たりの収穫量が多い、などの経済的メリットを優先してしまう。これはそうだろうなあ。農民たちを責められない。また、山野河海の恵みは、凶作時の食料を補完する役割を担ってきた。と言っても、葛や蕨、海藻や魚介類はまだしも、松の樹皮や藁を米の粉・大豆の粉に混ぜて餅にして食べた、という話になると、ちょっと味の想像がつかない。

 飢饉に備えて穀物を備蓄する政策は古くから存在した。近世初期には戦争に備えて一定量の囲穀(かこいこく)を保有しておくのは当然のことだった。しかし、全国的な商品経済のネットワークが整うに従い、穀物を貯蔵しておくより、高値の時期に売って利益を得るほうが賢い判断と考えられるようになる。そして飢饉や米騒動などの代償を払った後、近世中後期以降、ようやく備荒貯蓄論が活発になり、松平定信による寛政の改革や、上杉鷹山や池田光政の藩政において一定の実現を見る。

 安定した世界なら、食料の生産・流通に経済原理が働くのは悪いことではない。私たちは、それによって美味しいものを安く食べることができるのだから。しかし生命のもとである食料を経済原理に委ねることの危うさは、どこかで気に留めておくべきだろう。

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生存者の長い戦後/東京大空襲の戦後史(栗原俊雄)

2022-04-25 13:09:18 | 読んだもの(書籍)

〇栗原俊雄『東京大空襲の戦後史』(岩波新書) 岩波書店 2022.2

 「東京大空襲」と呼ばれるのは、1945年3月10日未明に東京東部の住宅街に対して行われた無差別爆撃である。死者は10万人に及び、100万人以上が罹災したといわれている。早乙女勝元氏が被災者の証言を集めて執筆した『東京大空襲』(岩波新書、1971年)が有名だが、本書は早乙女氏の著書と違って「空襲当日/直後」の記録ではなく、生き残った被災者たちが、その後の長い人生をどのように苦しみながら生きたか、なぜそこに公的な救済が行われなかったのか、が主題となっている。

 第二次世界大戦末期には、米軍による無差別爆撃が日本全国で繰り返され、多数の民間人の命を奪っただけでなく、生き残った者にも甚大な被害を与えた。たとえば、戦災孤児については、全国で少なくとも12万人という数字が残っている。

 多くの孤児は浮浪児となって、物乞いをするか盗むか拾うかしなければ、食べものを手に入れることができなかった。親戚に引き取られても、虐待されたり、たらい回しにされたり、財産を横取りされることもあったという。成長期の栄養不足を原因とする疾患に長く苦しんだ人もいた。彼らは、差別や偏見を避けるため、孤児であることを隠し「心を殺して」長い戦後を生きてきた。

 私(1960年代生まれ)の両親は下町育ちで、3月10日の東京大空襲を経験している。母は、このとき父親(私の祖父)と生き別れになったと聞いているが、ほかの家族が無事で、一家離散にならなかったのは、幸運の部類に入るのだろう。しかし今更のように思ったのは、私の同級生の保護者には、戦災孤児として苦労した人もいたのかもしれない。彼らが口をつぐんでいただけで。

 民間人の戦争被害者が国に保障を求める動きは1960年代に始まる。1976年には名古屋大空襲の被害者が名古屋地裁に提訴した。国が元軍人・軍属には補償を行いながら、民間人に同様の立法措置を取らないのは法の下の平等に反する、という問題提起であったが、元軍人・軍属には国の使用者責任があり、それがない民間人を補償から外すことは不合理ではない、という理由で退けられた。この裁判は最高裁まで争われたが、1987年、最高裁は原告の訴えを棄却している。判決文は「戦争犠牲ないし戦争被害は、国の存亡にかかわる非常事態のもとでは、国民のひとしく受忍しなければならなかったところであって、これに対する補償は憲法の全く予想しないところ」(受忍論)だと述べる。いやちょっと、これが理由として成り立つことにびっくりするが、民間人戦争犠牲者に補償を行うかどうかは、裁判所ではなく「国会の裁量的権限に委ねられているべき」(立法裁量論)という主張は理解できなくもない。

 2007年には東京大空襲の被害者が東京地裁に訴えを起こしたが、上記と同様の理由で棄却され、最高裁では法廷も開かれないまま原告敗訴が確定した。一方で、被害者たちは立法運動(議員への働きかけ)も開始する。2010年には全国空襲被害者連絡協議会が結成され、翌年には超党派の国会議員連盟(空襲議連)が発足した。

 こうした活動は「解決済みの過去」を蒸し返すもので、無意味だとか、不快に感じる人もいるだろう。しかし本書を読むと「解決済み」と思われている問題でも、繰り返し司法判断を求めたり、国会質問で首相や政府関係者の認識を質すことで、少しずつ「変化」がもたらされる場合があるのだ、ということを感じた。

 2010年には民主党・鳩山政権下で「戦後強制抑留者に係る問題に関する特別措置法(シベリア特措法)」が成立した。この評価は分かれるだろうが、少なくとも「戦後処理問題は解決済み」という従来の政府の方針を打ち破ったことに意味がある、と著者は評価する。

 いま、空襲議連の中心となり、補償問題に取り組み続けている議員としては、柿沢未途が紹介されている。地元選挙区(江東区深川)の問題だから当然とはいえ、ちょっと感心した。それから、2015年に安倍晋三が、歴代首相として初めて空襲被害者の慰霊法要に参列し、その後の衆院予算委員会で柿沢の質問に答えて、補償問題は立法府や行政で考える余地があるという認識を示したことも初めて知った。自民党は好きではないが、これは素直に評価しておく。

 戦後処理というと、慰安婦、徴用工など、対外問題がクローズアップされがちだが、国内にも「解決済み」の見直しを求める人たちがいることは意識しておきたい。日に日に貧しくなる日本で、十分な補償は難しいと思うが、せめて犠牲者の調査と名前の記録・公開は実現してほしいと思う。そこに私の祖父の名前もあるはずである。

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支配への挑戦/女教師たちの世界一周(堀内真由美)

2022-04-20 21:56:48 | 読んだもの(書籍)

〇堀内真由美『女教師たちの世界一周:小公女セーラからブラック・フェミニズムまで』(筑摩選書) 筑摩書房 2022.2

 大変おもしろく刺激的な1冊だった。本書は、19世紀半ばから現代まで、およそ150年にわたるイギリス女教師の歴史を論じている。19世紀半ば、イギリスでは新しい富裕層=ミドルクラスが誕生していた。しかし、不動産所有を基盤とするアッパークラスに比べると、彼らは景気変動の影響を受けやすく、万一、家族が苦境に陥った場合、ミドルクラス女子が選択できる職業は、女教師あるいはガヴァネス(家庭教師)だけだった。

 具体例となるのは、小説『ジェイン・エア』と『小公女』である。『小公女』に登場するミンチン女学院は、家庭婦人を育成するための保守的な女学校だったようだ。イギリスでは、18世紀末にメアリ・ウルストンクラフトが、男性と同等の学校教育を女性にも与えよと主張していたが、現実はなかなか変化しなかった。

 それでも19世紀半ばには、ガヴァネスの資格化を兼ねた本格的な女学校が始動し、高等教育への女子の参入を求める運動が活発化する。けれども男子並みの教育を受けた女性は、さらに就業の困難に直面しなければならなかった。一部の女性はインドやカナダなど「帝国」の植民地に活路を見出そうとしたが、現地の需要とのギャップに苦しむことになる。

 1920-30年代(大戦間期)、男性の復員によって女性労働者の大量解雇が発生し、女性の抗議運動が世間から批判されると同時に、女教師へのバッシングも激化した。この時期は、女子中等教育制度の完成期であるが、「女子向き」女子教育を望む空気は根強かった。女教師たちは粘り強く闘ったが、彼女たちの「階級意識」は、ワーキングクラス女性との軋轢を生む。

 政治的には、1918年に限定的な女性参政権が認められ、1928年には条件を撤廃した普通選挙権が付与された。この背景には、男性為政者たちの「もう大丈夫」という判断があったという。「女性の達成を持ち上げ承認するふりをして、女性の分断を煽る言説」が広まっていたのである。この頃、「新しいフェミニズム」は「男女に固有の役割は、互いに排除しあうのではなく、相互に敵対的でもない」と唱え(今でもよく聞く主張)、母としての女性の地位向上に重点を置いた。その結果、圧倒的に独身が多かった女教師は「異端」と見做されるようになる。ドロシー・セイヤーズの小説『学寮祭の夜』(1935年)は、オクスフォード大学女子学寮を舞台にしたミステリーで、独身高学歴女性と部下の既婚女性の心理的葛藤が犯人捜しの鍵になっている。今日的な設定でおもしろい。

 強まる閉塞感の中で、エリート女教師たちは「高度な女子教育」の実践のため、アフリカや西インドに向かった。本書後半は、イギリス女子教育の「受け手」となったブラック女子やクリオール女子に視点をあてる(なお「ブラック」には、多様な肌の色のグラデーションを含む)。

 ジーン・リース(1890-1979)は、英領ドミニカ島に生まれ、イギリス本国の名門校に入学するが、やがてエリート女子の進路を外れていく。彼女が残した小説『広い藻の海』は『ジェイン・エア』のスピンオフ作品で、ロチェスターの前妻であるクリオール女性「狂妻バーサ」の名誉回復を目論んでいる。リースは、少女期以来『ジェイン・エア』を読むたび「クリオールに対する誤解」に苛立ったという。興味深い名作の「読み直し」である。

 最後に登場するベヴァリー・ブライアン(1949-)は、ジャマイカ生まれのブラック女性で、イギリスで学び、女教師となった。1960年代半ばのイギリスは、西インドからの移民が急増した時代で、彼女が採用された公立基礎学校も生徒の多くがブラックの子供たちだった。ブライアンは「カリキュラムの脱植民地化」(アフリカの文学や歴史を積極的に取り入れる)を実践し、ジャマイカ語(現地語化した英語)と標準英語の二刀流の教育方法を探求した。1970年代には、ブラック女性の全国組織が形成され、ブライアンもこれに参加している。彼女たちは活発な女性運動を展開したが、(白人中心の)「フェミニズム」からは距離を置くことを表明している。

 現在はジャマイカの大学で教鞭を取るブライアンの成長と成功の陰には、少女時代の彼女を導き、自信を育ててくれた女教師たちがいた。一方で、多くのブラック女子、クリオール女子が、日常的に差別と偏見に晒されてきたという証言はつらい。無邪気で小さな偏見が、実は積もり積もって彼女たちの自尊心を奪ってきたのである。こうした苦しみが、日本も含め世界中から、早く一掃されますように。そして、女教師の先達たちの歩みは(階級意識、白人中心主義など)全てを肯定できるわけではないが、後進にバトンをつないで、なかなかうまくやってきたのではないかと思う。

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文化工作の実態/大東亜共栄圏のクールジャパン(大塚英志)

2022-04-07 21:03:42 | 読んだもの(書籍)

〇大塚英志『大東亜共栄圏のクールジャパン:「協働」する文化工作』(集英社新書) 集英社 2022.3.22

 戦時下、いわゆる大東亜共栄圏に向けてなされた宣伝工作である「文化工作」の具体的な姿を追う。短い序章では、戦時下の「文化工作」の特徴として(1)多メディア展開 (2)内地向けと外地向けの差、および地域ごとのローカライズ (3)官民の垣根を越えた共同作業、特にアマチュアの能動的参加、の3点を示す。最後の点に関連して、文化を含む翼賛体制構築のための実践の基本原理が「協働」である、と指摘されている。余談だが、私は長年、文教関係の公的セクターで仕事をしているが、現在もこの言葉はよく使われており、4月に入職した職場の一室に「協働スペース」の看板が掲げられているのを見つけて、苦笑している。

 本書が扱う分野(メディア)には、まんが、映画、アニメがある。新興の表現、マージナルな表現ほど(承認欲求のゆえに)動員されやすかったという指摘は、現代に通じる問題として記憶しておきたい。まんがについては、まず、前著『「暮し」のファシズム』でも紹介されていた『翼賛一家』を取り上げる。新日本漫画家協会の作家たちが制作し、アマチュアの参画を目論んだ、翼賛体制の宣伝と啓蒙のための作品である。本書では、この作品が、華北・台湾・朝鮮でどのようにローカライズされたか、誰が制作に関わったかを見ていく。

 次に、外地に赴き、まんが教育をおこなった2人の漫画家を検討する。「のらくろ」の田河水泡と「タンクタンクロー」の阪本牙城である。特に満州の開拓団や義勇隊をまわって少年たちにまんがの描き方を指導しながら、その過酷な実態を見てしまい、体験の一部を作品やエッセイに残した阪本牙城の話が興味深かった。戦後は漫画の筆を折り、阪本雅城として水墨画に専心したというのも知らなかった。

 映画に関する文化工作は、最も生臭く、キナ臭い物語だった。戦時下の上海では、日本軍と東宝が現地映画人を巻き込み、「光明影片公司」という偽装映画会社を立ち上げ、中国大衆向けの「文化工作」映画を製作していた。ところが、この映画会社にかかわっていた台湾出身の劉燦波が(おそらく漢奸=裏切者として)暗殺されてしまう。翌年(1941年)東宝と中華電影は、劉の死を題材にした映画『上海の月』(成瀬巳喜男監督)を製作し、公開する。『上海の月』のフィルムは失われてしまったそうだが、当時の新聞広告のコピーがすごい。「抗日女スパイの暗躍に抗して敢然起つ 文化戦士の血みどろの挑戦」とか…俗情におもねるとはこういうことか。

 また、中華電影に籍のあった多田裕計は、劉の死を思わせる描写のある『長江デルタ』を発表する。そして同作は同年の芥川賞を受賞する。当初、佐藤春夫、宇野浩二ら審査員の評価はあまり高くなかったが、これをひっくり返したのは横光利一である(ちなみに多田は横光の狂信的なファンだった)。選考過程の記録がきちんと残っているところは、公明正大というべきかもしれないが、それにしてもまあ…。

 最後はアニメ『桃太郎 海の神兵』について。「桃太郎」を日本軍の表象とし、鬼を敵国に見立てるという発想は、なんと日露戦争時代からあるそうだ(アール・ヌーヴォー様式の桃太郎!)。一方で桃太郎を侵略者、鬼を侵略される側として描くことも、尾崎紅葉『鬼桃太郎』(1891年)など早くからあり、大正末期から昭和初期には「桃太郎に軍国主義・侵略主義を説くこと」が「インテリの観念」となる。ところが、日中戦争期に入ると、これが反転し、桃太郎は「南方侵略肯定」のアイコンとなる。宝塚歌劇では「日出づる国」からやってきた植民地解放者として描かれるのだ。

 関連して、柳田国男『桃太郎の誕生』の冒頭が、1931年版と1942年版で全く違うことも初めて知った。ボッティチェッリの「ヴィーナスの誕生」を見て、海から来る神々のイメージを想起した旧版が、南方の島々に日本と共通の記憶を探す、大東亜共栄圏的関心に書き換えられているのである。

 そして、名作の誉れ高いアニメ『桃太郎 海の神兵』であるが、実は印象的なシーンの多くは、先行する記録映画、ディズニー、戦争画、プロパガンダ雑誌などの視覚表現の「引用」であることが検証されている。いや、別に引用だから価値がないというわけではないが、戦時下には、こうした戦時表象の「引用の織物」が多数つくられていたのである。

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歴史総合を学ぶ/ものがたり戦後史(富田武)

2022-03-27 19:55:35 | 読んだもの(書籍)

〇富田武『ものがたり戦後史:「歴史総合」入門講義』(ちくま新書) 筑摩書房 2022.2

 2022年4月から高校社会歴史科目が改編され、1年次の必修科目として「歴史総合」が始まるという。身近に中高生がいないので、全く知らなかった。従来の日本史、世界史を総合し、近代の始まりを「大航海時代」と見て、それ以降を扱うのだそうだ。文科省の国語教育や英語教育の施策にはあまり賛成できなかったが、これは期待していいのではないか。

 本書は「歴史総合」を担当する教員、あるいは授業を受ける高校一年生の参考書として執筆したものだという。ただしカバーする範囲は第二次大戦終結から今日までで、1講20ページくらいの全15講から成る。地図や図表(実質GDP増減率推移、政党系統図など)が豊富で、史料の全文または抜粋(日本語)が掲載されているのもありがたい。「ヤルタ密約」とか「ポツダム宣言」をきちんと読んだのは初めてだと思う(どちらも文語訳)。本文は、おそらく現在の最新かつ標準的な見解に基づいて書かれているが、それとは別に各講に「コラム」が付いていて、著者(1945年生まれ)の個人的な経験や感慨(学校給食の思い出、北朝鮮に帰国した友人、初の海外旅行など)が示されているのが、ちょっとした味付けになっている。

 びっくりするよう新しい発見はなかったが、あらためて、ああ、そうだったのか、と腑に落ちた点はいくつかある。たとえば北方領土問題。安倍政権下では繰り返し首脳会談が行われ、交渉の進展を期待する報道もあったが、ロシアは安全保障上の懸念から、北方領土への米軍駐留を禁じることを主張し、交渉は中断した状態となっている。当時、私はロシアの主張を唐突に感じたのだが、本書によれば、1960年の日米新安保条約締結を受けて、ソ連は、この条約はソ連への敵対を強めるものだとして「日ソ共同宣言」の「色丹、歯舞の平和条約締結後の引渡し」条項の無効を日本に伝達したとある。要するに未解決問題が解決しない限りダメなんだな、と思った。なお、ソ連→ロシアは一貫して「領土問題は存在しない」という態度をとっているが、1991年に来日したゴルバチョフは「領土問題は存在する」と明言したという。そんなこともあったっけ。全然忘れていた。

 日本の歴代首相では、田中角栄と中曽根康弘に関する記述が詳しい。著者は田中角栄を「功罪半ばする首相」と中立的に評しているが、どちらかといえば好意的に見ている感じがした。「日本列島改造」を掲げた田中の経済政策は、石油ショックによるコスト高、輸出不振もあって失敗するが、70歳以上の老人医療の無料化、健康保険の被扶養者の給付率引上げ、義務教育の教員の給与引上げ等々(美濃部都政の後追いだが)さまざまな社会政策を実現し、「社会民主主義的」と評する論者もいたという。え、全然覚えていない。

 外交面では1972年の日中国交正常化が最大の成果だが、このときの日中共同声明には「両国のいずれも、アジア・太平洋地域において覇権を求めるべきでなく、このような覇権を確立しようとする他のいかなる国あるいは国の集団による試みにも反対する」という条項がある。中国、この前段を思い出してほしいものだ。なお後段は、ソ連を恐れる中国側への配慮として加えたものだという。いやあ70年代のソ連と中国の国力の差を、あらためて思い出した。もう一つ、1973年の日ソ首脳会談において、田中がサハリン残留朝鮮人について「彼らの運命については日本政府も一定の責任がある」と明言したことが、最近公開されたソ連側会談議事録から判明したという。印象的だったので書き留めておく。

 今日的な問題とのリンクでは、ソ連の体制崩壊・連邦解体や中国の改革開放と大国化の過程をあらためて概観することができて興味深かった。韓国、台湾、北朝鮮の動向も手際よく要点がまとめられていいる。しかし、やっぱり「イスラム勢力の台頭」はよく理解できなかった。日本とのつながりがよく見えないからだろうか。新年度から、高校の教員も生徒も苦労するのではないかと思う。

 最終講が「戦争」と「環境」を考える問題提起になっているのはとてもよい。安易に「教科書が教えない歴史」を求めず、まずは大人も、歴史の教科書とこうした良心的な副読本を読んでほしいと思う。

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秩序原理の模索/国際秩序(細谷雄一)

2022-03-18 18:43:46 | 読んだもの(書籍)

〇細谷雄一『国際秩序:18世紀ヨーロッパから21世紀アジアへ』(中公新書) 中央公論新社 2012.11

 2月24日にロシアによるウクライナ侵攻が始まって3週間になるが、事態は膠着の様相を見せている。ネットには、さまざまな情報、意見、憶測などが洪水のように流れており、国際政治に疎い私は、ただ茫然としていた。何か手がかりになる本を探しに行って本書を見つけた。2012年刊行の本書が、2022年の国際政治を考える上でどれだけ役に立つか、正直不安もあったが、だいぶ頭がクリアになった。

 本書は、18世紀のヨーロッパを起点として、今日(オバマ大統領の登場と太平洋の世紀の始まり)までの国際秩序の歴史を展望したものである。はじめに3つの秩序原理が示される。思想的な誕生順に「均衡(バランス)」「協調(コンサート)」「共同体(コミュニティ)」である。

 17世紀のヨーロッパは宗教対立に端を発する戦争や内乱が頻発し、恐怖と混乱の中で、力こそ重要とするホッブスの『リヴァイアサン』が生まれた。18世紀に入ると徐々に大国は全面戦争を回避するようになり、仏、英、墺、ロシア、プロイセンの五大国を中心とする勢力均衡の体系がつくられた。初めて「勢力均衡」という概念を明瞭に説明したのはヒュームである。

 18世紀末から19世紀初頭、フランス革命戦争とナポレオン戦争によって旧い勢力均衡が破壊される。戦後秩序の構築を主導したのはイギリスのピット首相とカースルレイ卿で、単なる均衡の回復でなく、五大国の協力を組織化した「ヨーロッパ協調」を目指した(ウィーン体制)。

 しかしリベラリズムの浸透したイギリス国内では、カースルレイ外相がヨーロッパ大陸の国際政治に深く関与していることが批判の対象となる。ロシアの地中海進出(クリミア戦争)、ドイツの軍事強国化を推進するビスマルクの登場、ナショナリズムの勃興などにより、ヨーロッパの一体性が失われていく。また19世紀後半から20世紀にかけては、ドイツ、アメリカ、日本という「新興国」が台頭し、国際秩序がグローバルに拡大した。

 第一次世界大戦(1914-1919)は、戦勝国となったアメリカと日本、新たに誕生したソ連という、ヨーロッパ諸国とは異質な価値観を有する3つの大国を生み、ヨーロッパの五大国のみでは世界規模の勢力均衡を維持できないことが明白となった。また、そもそも勢力均衡という考え方に基づかない新しい国際秩序の構築が期待された。その中心となったのがアメリカのウィルソン大統領で、世界中に民主主義を普及させ、道徳的な政治体制を結集させて「国際共同体(コミュニティ・オブ・パワー)」を構築することがアメリカの使命であると説いた。これは哲学者カントの考えた永遠平和主義に近い。

 しかしウィルソンの構想は、連合国間で十分に調整されたものではなく、アメリカ国民は旧大陸の国際政治への関与を望んでいなかった。不安を抱えた戦後体制(ヴェルサイユ体制)が始まったが、1930年代、満州事変とヒトラー政権の成立という2つの事件によって、「均衡なき共同体」「価値の共有なき共同体」だった国際連盟による国際秩序は崩れ去る。

 第二次世界大戦(1939-1945)の戦後秩序を設計したチャーチルとローズヴェルトは、勢力均衡の必要性を理解しており、ウィーン体制を模範とした。国際連合の憲章には各国が共有すべき価値を明記し、大国間協調を維持するため、英米ソの三大国にフランスと中国を加えた五大国を安全保障理事会の常任理事国とした。同時に小国もそれぞれの立場を表明できる総会が設けられた。国連は安保理に象徴される「協調の体系」と総会に象徴される「共同体の体系」が結びついたものになったのである。

 その後の冷戦時代、人々は核戦争の恐怖に怯え、小国間の軍事衝突が繰り返されたが、主要な大国間では「長い平和」が実現した。そこでは依然として軍事的な勢力均衡が意味を持つと同時に、大国間の協調枠組み(安保理など)が機能したと考えられる。そしてヨーロッパは「共同体の体系」として歩み始めた。アメリカは、ソ連の崩壊後、民主主義と市場経済を地球全体に広げていく「関与と拡大」戦略を掲げたが、2000年代に入ると、対テロ戦争、中国の急激な成長によって再び勢力均衡の論理へ回帰していく。

 以上が概略である。初心者の感想すぎて気恥ずかしいが、国際秩序において「勢力均衡」が必須であること、しかし、より確かな平和の基礎としては、価値の共有を前提にした「協調」や「共同体」の構築が必要なことがよく腑に落ちた。

 勢力均衡は多様性の擁護に結びつく、という視点も初めて得た。世界がやがて平和な単一の共同体に収束するという夢想は美しいが、強引に価値の一元化を進めることは無益だろう。それはそれとして、過激で情緒的なナショナリズムが国際協調の阻害要因となっていることも強く感じた。

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