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見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。
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猛々しい世話物/文楽・夏祭浪花鑑(なつまつりなにわかがみ)他

2012-09-18 23:38:40 | 行ったもの2(講演・公演)
国立劇場 9月文楽公演『粂仙人吉野花王(くめのせんにんよしのざくら)』『夏祭浪花鑑(なつまつりなにわかがみ)』(2012年9月17日)

 『粂仙人吉野花王』は「吉野山の段」のみ上演。仙人あるいは高僧が、女色に迷って神通力を失うという、歌舞伎『雷神不動北山桜』(鳴神)や謡曲『一角仙人』のバリエーションである。と言っても、私は歌舞伎や謡曲をよく知らないのだが、この作品は、コミカルで、エロチックで、かつ毒が利いていて、面白かった。色香をふりまく未亡人・花ますを竹本千歳大夫。粂仙人の弟子の安曇坊を竹本相子大夫。この二人の掛け合いが絶妙。上方芸っぽいな~。

 『夏祭浪花鑑』は、夏狂言の定番の有名作品なのに、私は初めて見る。「住吉鳥居前の段」では、老侠客らしい風貌の釣船の三婦(つりぶねのさぶ)がくつろいでいると、乱暴な駕篭かきと客がもめているので、仲裁に入って、客の玉島磯之丞を助ける。磯之丞が去ると、団七が連れられてくる。団七は、磯之丞の危難を救うため殺人の罪を犯して入牢していたが、磯之丞の父・玉島兵太夫の尽力によって釈放され、ますます玉島家に恩義を感じていた。

 …という具合で、入れ替わり立ち替わり、多数の人物が現れ(団七女房お梶、磯之丞の恋人・傾城の琴浦、琴浦に横恋慕する大鳥佐賀右衛門、侠客の一寸徳兵衛)、さらに多くの、その場にいない人物の消息が語られる。

 続く「内本町道具屋の段」では、さきほど磯之丞として紹介された若侍が、道具屋の手代に身をやつし、清七と名乗って登場する上に、琴浦という恋人がいたはずの磯之丞は、道具屋の娘・お中と恋仲になっている。え? これは単なる火遊びであったらしい。「据膳と河豚を食わぬは男の恥」なんて、あとで勝手なことを言ってるし。団七は棒手振りの魚屋・九郎兵衛として登場し、道具家に香炉を買いに来た田舎侍が、舅の義平次と見て、驚く。義平次は、どうも腹に一物ありそうな人物で、清七こと磯之丞を窮地に陥れる。

 実際は、もっと登場人物が多くて、さらに複雑。浄瑠璃を見慣れていると、人物やプロットを類型化できて、なんとか理解できるんだけど、慣れていないと、お手上げだろう。休憩時間に隣の席のおばさんたちが「難しいわねー」「先に粗筋を読んでおかないと駄目よ」と言い合っていた。

 「釣船三婦内の段」。お中のことなど無かったように、琴浦といちゃいちゃする磯之丞。三婦とその女房おつぎは、磯之丞を安全に逃がす方法を思案している。そこに訪ねてきたのは、徳兵衛女房・お辰。おつぎは、磯之丞をお辰に託そうと考えるが、もしや磯之丞がお辰の色気に迷っては、と心配する三婦。それを聞いたお辰は、やにわに火鉢の鉄弓を自分の頬に押し当て「これなら心配ない」と三婦の反対を押しこめる。夕暮れ、以前の駕籠かきが琴浦をさらいに来ると、三婦の漢気に火がつき、数珠の糸をねじ切って、駕籠かきたちを叩きのめす。このときの、女房のおつぎも素敵。浪花、というか泉州堺では、男も女も伊達と心意気で生きている。

 お辰を遣っていたのは蓑助さん。ずいぶんお痩せになったなあ。遠目に別人かと思ったが、人形の所作を見て、蓑助さんと分かった。三婦は桐竹紋寿さん。白髪頭が三婦と瓜二つで、ほほえましかった。「釣船三婦内の段」の切は、竹本住大夫さんの予定だったが、病気休演につき、文字久大夫が代演。チケットを電話予約する時、「住大夫は休演ですが、よろしいですか?」と念を押された。みんな、そのくらい住大夫さんを目当てにしてるんだな。でも文字久大夫、よかったと思う。

 最後の「長町裏の段」は、団七を竹本源大夫、義平次を豊竹英大夫だったが、源大夫の声量にはちょっと不満がある。今回、床から離れた席だったので。でも脚本は、ほんとにすごいなあ。「舅は親じゃ」と言いつのる、義平次の嫌ったらしさ。図体に似合わず、おどおどと殊勝気な団七が、「間違い」から舅に手傷を負わせると、観念したかのように、荒ぶる殺人鬼に変貌する。闇の中に浮き上がる総刺青の裸身。背景を通りすぎて行く赤い山車提灯の禍々しさ。祭り囃子の喧騒。雪崩れ込むだんじり。これでもかと畳み掛ける演出に、文字どおり息を呑んだ。地獄を覗いたような陶酔感。団七役の吉田玉女さんは、ご本人のいでたちに華があって、こういう役は似合いだと思う。ああ、もっと早く見たかったわ、この狂言。

 「釣船三婦内の段」の口とアトを演じた豊竹芳穂大夫、豊竹靖大夫の語りが耳に残って、思わず名前をチェックしてしまった。私よりずっと若い世代が育っているんだな。これからも彼らの活躍を見続けたい。
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舞楽公演・四天王寺の聖霊会(国立劇場)

2012-09-17 20:21:22 | 行ったもの2(講演・公演)
国立劇場 舞楽公演『四天王寺の聖霊会 舞楽四箇法要』(2012年9月15日、14:00~)

 むかしから一度行きたいと思っていた、大阪・四天王寺の聖霊会が国立劇場に来ると分かって、速攻でチケットを取った。聖霊会は、聖徳太子を偲んで、毎年4月22日(本来の命日は旧暦の2月22日)に行われる。休日に当たると決まっているわけではないし、社会人の4月は忙しいので、なかなか行きにくいのである。

 舞台上は初めから幕が上がっていて、中央に一段高い石舞台、奥に中央の開いた幔幕。幕前が楽人の席。左右に分かれて着座するのだが、相当な大編成だった。石舞台の四隅には、赤い球状の飾りもの(曼珠沙華)が吊るされている。本来は柱を立てるのだが、観客が見やすいように配慮したのだろう。赤い球体からは、太陽の光線をあらわすような筋(長い棒)が四方八方に飛び出していて、その棒に、切紙細工(?)の小さな白いツバメが多数吊るされている。友人と席につくとすぐ、開演を告げるベルが鳴った。

 マイクによる進行説明はなく、舞台両脇の電光掲示板に、最低限の説明が流れる。これがけっこう役に立った。「客席の皆様には、お堂の聖徳太子の視点でご覧いただきます」と説明。なるほど。

・道行(みちゆき)…客席後方から二列になって、法要を行う人々が登場。ガイドブックには「獅子、舞童、楽人、衆僧、八部衆などの供奉衆」とあるが、公演では、管楽器を奏す楽人が先頭だったような。獅子がデカくてびっくりした。顔=お面は小さいのだが、後ろ足役は身を屈めないのである。また、胡蝶・迦陵頻姿の舞童や、鳥兜をかぶった舞人の足元が、白足袋に草履なのが面白かった。

・舞台前庭儀(ぶたいぜんていぎ)
・両舎利入堂(りょうしゃりにゅうどう)…「舎利」は法要を取り行う高僧の職名。

・惣礼伽陀(そうらいかだ)…舞台上に左右5人×2の僧侶が上がり、偈誦を唱える。この法要は、声明と舞楽のコラボレーション。

・衆僧入堂(しゅうそうにゅうどう)
・諸役別座(しょやくべつざ)
・集会乱声(しゅうえらんじょう)…左右両楽舎が楽を奏する。

・舞楽 振鉾 三節(えんぶ さんせつ)…はじめに左方が「新楽乱声」を奏し、左方の舞人が舞う。次に右方が「高麗乱声」を奏し、右方の舞人が舞う。最後に左右の楽舎が、新楽・高麗両乱声を奏し、左右の舞人が揃って舞う、と説明にある。確かに最初と二番目の楽調が違うのは分かった。私は、左方(唐楽)が、右方(高麗楽)より好みだ。

・舞楽 蘇利古(そりこ)…一般には四人舞だが、天王寺舞楽では五人で舞う。舞人の動作が、ぴょんぴょん跳ねるみたいに元気いっぱいなので、吹いてしまった。「蘇利古」って、あの雑面から、もっとおどろおどろしい舞をイメージしていたのに。鎌倉・鶴岡八幡宮で見た記憶もあるのだが、こんなんだったっけ? それとも天王寺バージョン?

・御上帳(みじょうちょう)・御手水(みちょうず)…「蘇利古」の発楽の間に、聖徳太子像の帳が掲げられる。「蘇利古」は「聖徳太子目覚めの舞」だそうで、それなら、子どものラジオ体操みたいに元気があってもいいのかもしれない。

・両舎利登高座(りょうしゃりとうこうざ)…「蘇利古」の舞の間に、両舎利(高僧)が座につく。この法要は、舞台上と舞台下で同時進行する部分が多く、目が追いつかない。

・ 諷誦文(ふじゅもん)・願文(がんもん)…おもむろに紙を広げた両舎利が、それぞれを「黙読」する。えええ~。不思議に思ったが、聖徳太子の霊に捧げるのだから、参列者に聞かせる必要はないのか。

・行事鉦(ぎょうじしょう)…行事の進行を促す鉦。

・楽 十天楽(じってんらく)・伝供(てんぐ)…奏楽の間、二列に並んだ舞童や八部衆たちが、供物を手渡しリレーで運ぶ。実際は、御供所から太子宝廟前まで運ぶのだそうだ。幼い舞童の奉仕にハラハラして、かわいい。

・楽 承和楽(しょうわらく)

・祭文(さいもん)…これも「微音」で唱えるというが、客席には何も聞こえない。ほぼ黙読。

・行事鉦(ぎょうじしょう)
・楽 賀王恩(がおうおん)

・唄匿(ばいのく)…唄師の独唱「始段唄」で始まる。これは一子相伝の伝授を受けた者のみ唱えることが許される由。さすがに美声で、聞き惚れた。

・散華(さんげ)・対揚(たいよう)・梵音(ぼんおん)・錫杖(しゃくじょう)…カノン形式があったり、二階席の最前列と応答したり、凝った演出が楽しめた。錫杖の音も、魂を振るうようで、よかったなあ。

・獅子(しし)…舞台上に二頭の獅子登場。口の形がちゃんと阿吽である。ゆったりと四方を拝礼する。もっと激しい動きを想像していたので、肩すかしだった。

・舞楽 迦陵頻(かりょうびん)…四人舞。いちばん年嵩の子が小学校高学年か中学生、チビは小学校低学年かな。小さなシンバルみたいな楽器(銅拍子)を腹の前で叩き合わせながら、やっぱりぴょんぴょん跳ねるように舞う。可愛い。女の子か?と思ったが、プログラムを見たら、全員男子の名前だった。

※なお「胡蝶(こちょう)」「菩薩(ぼさつ)」は省略。

・楽 長慶子(ちょうげいし)
・両舎利降高座(りょうしゃりこうこうざ)

※ここで休憩20分。開始から約1時間半を一気に上演しており、あとは舞楽「太平楽」「蘇莫者」を残すだけだったので、え?ここで休憩?と不思議な感じがしたが、まだ1時間近くかかることを確認して、納得。

・舞楽 太平楽(たいへいらく)…私は、たぶん今上天皇の御即位十年記念の宮内庁楽部公演(1999年)ではないかと思うのだが、過去に1回だけ「太平楽」を見たことがあって、目が覚めるほど面白かったことを記憶している。その後は、ぱったり見る機会がなかったので、今回、とても楽しみにしていた。

 そして、期待にたがわず、やっぱり面白かった。一緒に見た友人が「戦隊ヒーローものみたいだ」と評していたが、そんな感じ。動き早いし。鉾を構えて舞うかと思えば、途中で抜刀しちゃうし。しかし、くるくる回っているように見えるけど、舞楽の基本フォーメーション(全員が同じ動きをする)を逸脱しているわけではないんだな、ということも分かった。

 「太平楽」演奏の間に聖徳太子の御影の帳が下ろされ、両舎利・衆僧は退出、法要部は終了する。あとは、法要に集まった人々の楽しみである「入調部」に移り、江戸時代には、合計18曲もの舞楽が延々と演じられたという。へえ~。舞楽って、古代のものという先入観があったが、意外と江戸の人々の感性で、焼きなおされているのかもしれない。

・舞楽 蘇莫者(そまくしゃ)…一人舞。舞台下に唐冠の人物が現れ、横笛を奏すると、舞台上に、三角帽子をかぶり、大きな金目をむき、耳の左右に長い白髪を垂らした人物が走り出て、またもぴょんぴょん跳ねて、激しく舞う。横笛の奏者は聖徳太子、舞人は信貴の山神ともいう。

 公演は以上。

 さて、私が四天王寺の聖霊会に興味を持ったのは、梅原猛の『隠された十字架』(1972年刊)を、高校時代に読んで以来である。法隆寺は聖徳太子の怨霊を鎮魂する目的で建てられたという主張で、1970年代のベストセラーだった。不思議な雑面をつけた「蘇利古」は太子の亡霊ではないかとか、「蘇莫者」とは「蘇我の莫(な)き者」の意味ではないか、といった記述に、怖いもの好きの私は魅せられて、ぞくぞくした。しかし、大学に入ったら、一般教養で取った日本古代史の先生が、「あんな説は…」と鼻から否定していたので、熱が冷めたのだった。

 公演を見た翌日、図書館で同書を探して、30数年ぶりに該当箇所を開いてみた。「蘇利古」の五人舞は、四天王と太子の亡霊ではないか、と書かれていた。そして、狂ったように舞う「蘇莫者」こそ、荒れ狂う太子の霊だと論じられている。「横顔がすごい」「一言にしてオバケ」というけど、うーん。意外と愛らしいと思ったんだけどな、私は。とりあえず、文章に漲るおどろおどろしい熱の入れようを、懐かしく感じた。


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講演・日本美術応援団、東京国立博物館を応援する(東博)

2012-08-05 23:56:24 | 行ったもの2(講演・公演)
東京国立博物館・講演会 東京国立博物館140周年『日本美術応援団、東京国立博物館を応援する』(2012年8月4日、13:30)

 数日前、東博のメルマガを購読している友人から「こんなのあるけど…」と教えてもらった。実は、先週末も東博の平常展を見に行っているのに、全然気づいていなかったので、あわてて「行く!行く!」と騒いでしまった。

 当日「平成館大講堂前にて9:40より整理券を配布」というシステムで、定員380名なら、よほどのことがない限り、あぶれることはないだろうと思ったが、「整理券はお1人様1枚です」なんて厳格な運用を宣言されてしまうと、これは…早起きして行かないと…と、気があせった。結局、10:30頃に行ってみたら、平成館は(というか、暑さのせいか、上野公園そのものが)閑散としていて、少し拍子抜けした。でも、この、のんびりした博物館の「日常感」が私は大好きなのである。

 お昼に友人と落ち合って、久しぶりに法隆寺館のレストランでランチ。13:00開場の少し前に、再び平成館に赴く。まだ整理券は余っていたようだが、いい席を取りたい熱心なお客さんが、けっこう並んでいた。

 定刻の13:30少し前、壇上にあがった東博の職員らしき方が「実は講師の先生から、渋滞で少し遅れるという連絡がありまして…申し訳ありません」と釈明。説明するまでもないが、「日本美術応援団」とは、山下裕二先生、赤瀬川原平さん、南伸坊さんのこと。どなたが遅れているんだろう?と思っているうち「お着きになりました。もうしばらくお待ちください」という報告。

 やがて、舞台上手に登場したのが山下先生。下手に現れたのが、車椅子に乗った赤瀬川さんと、それを押す南伸坊さんだったので、ちょっとびっくりした。山下先生の説明では、朝、車を運転して、町田の赤瀬川さんを迎えに行くのに高速が大渋滞で、さらに赤瀬川さんを乗せて、上野までくる高速も渋滞で…とのこと。日本美術応援団も、すっかり偉く(有名に)なったように思っていたが、東博から迎えの車は出ないのか。自助努力というか、団員どうしの相互扶助なんだな。車椅子姿の赤瀬川さんを見て、みなさん、びっくりされたかもしれませんが、大丈夫です、とフォローあり。

 応援団の結成が1996年で、あれから16年、当時、30代(山下)・40代(南)・50代(赤瀬川)だった僕らも、50代・60代・70代になりました、という。それぞれ、いい年のとり方をしてるなあ。そして、私は山下先生と同世代だが、こんなふうに「いい年のとり方」のお手本を間近に見ることができるのって、うらやましいことだと思う。

 「それにしても、東博から僕たちにオファーがくるなんてね~ェ」という三人の、感慨と揶揄のまじったつぶやきが可笑しかった。山下先生の後ろでパソコンを操作していた東博の職員らしき男性が楽しそうに苦笑していたが、彼は、日本美術応援団の結成時は、まだ学生だった世代だろうか。

 まずは三人の「東博初体験」を聞く。赤瀬川さんは、1950年代半ばのメキシコ美術展だそうで、東博って、昔はそんな特別展もやっていたのか。東京育ちの南さんは、小学生のとき、社会見学で来た写真があるが、何を見たかは全く覚えていない。山下さんは東大に入学して、上京してからだという。ああ、私も東京育ちなので、南さんと同じだ。前庭の池と芝生の記憶だけ、妙に鮮明にあるんだよなあ…。

 それから、山下先生が撮った写真(平常展の東博を訪ねる)を見ながら、三人でトークを展開。上野駅のホームに始まり、東博に到着するまでが長い。確かに最近、東博正面の上野公園がきれいに整備されて、私も驚いていたところだ。冬の頃(?)深い木立がばさばさと伐り払われて、緑地の見通しをよくしたのは英断だと思っていたが、しゃれたカフェもできて、ずいぶん垢抜けた印象になった。「むかしの上野なんてね~ェ」というのはオジサンの昔話。

 館内では、日傘サービス(これは京博とどっちが早いんだろ?)や基本的に館内撮影可のサービスを褒める。最近はずいぶん観客が増えたこと、外人率が高いこと(平日は特にそうだろうな)、しかし日本人の若者も目につくようになった、と山下先生。最近の若者はガイジンになってるから、外人の目で見ると、日本美術が面白いんだよ、という話になる。

 平常展(総合文化展)の展示品も、適宜トークの題材に。南さんが柿右衛門の壺に「いいねー」と反応したり、山下先生が飛鳥時代の菩薩立像(横から見るとものすごく薄い)に「これ、むかしから好きなんですよ!」とおっしゃるのが興味深かった。7/24から展示の始まった久隅守景の『納涼図屏風』の話題には、三人とも熱が入る。2階の途中に黒電話があり、かつ、その上に昔の手回し電話箱の遺物があるのは気づかなかったな…講演のあと、友人と探しに行った。

 結局、1時間半でトークが終了したときは、まだまだたくさん写真を残していたようである。最後に、途中をとばして「いつも空いている法隆寺館」の写真を見せてくれた。「こんなに空いているのに、レストランの強気の値段設定」(笑)とおっしゃっていたが、講演会の直前、私と友人が早めのランチを終えて出ていくときは、お客さんが空席待ちをしていましたけどね。

 この「日本美術応援団、国立博物館を応援する」、ぜひシリーズ化して、京都・奈良・九州でもやってほしい。お願い!
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大阪で文楽を見る/夏休み文楽特別公演・曽根崎心中ほか

2012-07-29 01:28:30 | 行ったもの2(講演・公演)
国立文楽劇場 夏休み文楽特別公演(2012年7月28日)

 また週末をやりくりして、ショートステイで関西に来ている。もちろん博物館・美術館にも寄っていくつもりだが、今回、最大の目的は、大阪で文楽を見ること。私は学生時代から、もはや30年にわたる文楽ファンなので、このところ、大阪市の文楽協会への補助金凍結問題を見ていると、腹が立つやら情けないやら、開いた口がふさがらない気持ちだった。とりあえず応援がてら、大阪の文楽公演がどんな状況なのか、自分の目で確かめてこようと思った。

 東京人の私が、文楽を見るために通い続けてきたのは(東京の)国立劇場である。大阪の文楽劇場には、むかし一度だけ、声明だか雅楽だかを見るために遠征した記憶があるが、文楽公演を見に行くのは初めてのことだ。第1部・親子劇場の新作「西遊記(さいゆうき)」には、かなり心引かれたのだが、第2部・名作劇場の「摂州合邦辻(せっしゅうがっぽうがつじ)」「伊勢音頭恋寝刃(いせおんどこいのねたば)」「契情倭荘子(けいせいやまとぞうし)」と、第3部・サマーレイトショー「曽根崎心中(そねざきしんじゅう)」にとどめた。それでも、こんな盛りだくさんな演目を一日で鑑賞するのは、ずいぶん久しぶりのことだ。

 「摂州合邦辻」は、私の大好きな作品。合邦庵室の段のみの上演だが、ちゃんとストーリーが分かるように組み立てられているのがすごいと思う。記録を探したら、2006年2月に国立劇場で見たときは、竹本住大夫+野澤錦糸の切だったようだ。住大夫さんの舞台が聴けたのは、これが最後くらいじゃないかしら。今日は、松香大夫-咲大夫-嶋大夫のリレー。嶋大夫さんは、2009年5月の『ひらかな盛衰記』以来かな。恐るべきパワーと技量である。文楽を老いぼれの世迷い言みたいに思っている若者は、まあ一度、嶋大夫さんの芸を見てみてほしい。それでもって、玉手御前という、貞女のタテマエに隠された、恋する女の「毒」に戦慄してほしい。それから、合邦夫妻と娘・玉手御前の親子愛が身に沁みた。両親の老いを感じる年齢になったからかもしれない。

 「伊勢音頭恋寝刃」は、古市油屋の段(切)を竹本住大夫+野澤錦糸がつとめる予定で、私はすごく楽しみにしていたのだ。何しろ東京公演では、住大夫さんの出るプログラムは、あっという間に売り切れて、この数年、チケットを取れたためしがないのである。そうしたら、直前に病気休演が決まって、竹本文字久大夫さんが代演することになった。文字久大夫さんは美声だが、ちょっと物足りない感じがする。ごめんなさい。まあでも、これもヘンな演目だ。とってつけたように忠義を理由にしているけど、要するに、ばさばさと人を斬り殺すこと自体に様式美と快感を感じているフシがあって。

 「曽根崎心中」は、やっぱり何度見ても名作だと思う。話の筋がコンパクトにまとまっているところが、現代人向き。今回、わりと後方の席から舞台の全景を見ていたのだが、どの場面も色彩がとても美しかった。お初の蓑助さんも徳兵衛の勘十郎さんもさすがだ。何よりこの道行は、文章を前にしただけで泣いてしまうのである、私。客席のあちこちからも啜り泣きが漏れて、終演後、ハンカチで涙を拭いている浴衣姿の若いお嬢さんもいた。

 第2部・第3部ともほぼ満席。この客の入り、この反応で、どこに文句があるのだろう、と思った。東京の文楽ファンは、年齢を問わず「文化」「教養」志向を感じさせるのに対し、大阪は家族連れが多くて庶民的、という客層の違いは、なんとなく感じた。でも、それはそれとして、気になったのは、文楽劇場の「居心地」が今ひとつなこと。東京の国立劇場に比べて、座席の間が狭くて窮屈。さらに客席に高低差がないので、舞台が見にくい。それと、第3部が始まる前に、2階ロビー売店のお弁当が全て売り切れていた(1階レストランは営業)。まあ、東京の国立劇場と違って、外に出ればすぐ軽食屋とかあるんだけどさ…。もうちょっと、劇場内のサービスを改善する余地はあるんじゃないかしら。

 1回だけの印象では分からないこともあると思うので、また来てみようと思う。大阪の文楽公演のほうが、東京よりチケットを取りやすいことが分かったのは、補助金凍結問題の思わぬ余得であった。ええと、ちなみに前々日に大阪市長が「曽根崎心中」を見に来て、いろんな感想をマスコミ相手に喋っているらしいが、あまりにも馬鹿馬鹿しいので、ここに書き留めることもしない。あんな子供でも言わないような感想を報道されることに、本人はほんとに納得してるのだろうか? なんだかもう、この件にかかわっている誰も彼も、可哀相になってきた。
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講演・契丹!草原王朝はこんなに凄かった(芸大美術館)

2012-07-23 23:57:57 | 行ったもの2(講演・公演)
○東京芸術大学大学美術館 講演会『契丹! 草原王朝はこんなに凄かった』(講師:市元塁、7月21日14:00~)

 同館で始まったばかりの『草原の王朝 契丹-美しき3人のプリンセス-』(2012年7月12日~9月17日)の見どころを紹介する記念講演会。私は、2011年秋に、この展覧会が見たくて九州国立博物館まで行ってきた。九博が開館以来、6年かけて準備してきたというだけあって、熟成した「愛情」の感じられる、気持ちのよい展覧会だった。この日は、九博研究員の市元さんの講演が聞きたくて出かけた。

 開始時間にちょっと遅れて会場に入ったら、いきなり「広開土王碑碑文では…」という講師の声が聞こえて、えっと耳を疑った。永楽5年(395)条にある「稗麗」は契丹のことだと話している。そんなに早い記録が残っているとは…。

 一般に「契丹」という名称が歴史に登場するのは、907年あるいは916年の耶律阿保機による建国(二説あり、講師は前者を採る由)以降。「遼」と「契丹」という二つの国号があるが、考古資料の出現頻度や、契丹文字に「契丹」があっても「遼」に相当する文字がないことから、契丹人たちは「契丹」を自称していたと考えられる。

 契丹建国の907年といえば、日本は延喜の帝(醍醐天皇)の御代。契丹滅亡の1125年は、おお、崇徳天皇の即位の年だ。従来、日本と契丹には交流がなかったと考えられてきたが、宋や高麗を経由して契丹の情報が入っていたのではないかと、近年、特に仏教史では考えられているそうだ。面白い。「蓮如上人縁起」や「将門記」にも「契丹」や「大契丹王」の表記が見られ、高麗末から朝鮮で読まれた中国語会話読本『老乞大』の「乞大」も「契丹」に由来するという。

 続いて、スライドを見ながら、展覧会の出品文物と三人のプリンセスについて紹介。契丹文化は、独特の埋葬風俗など北方民族的要素を有する一面、唐の王朝文化を色濃く継承していること。契丹も唐も鮮卑族系なのだから、継承は自然な流れであること。唐の繊細・華麗な美術工芸に比べて、契丹は野暮ったいと考えられがちだが、先入観を捨てて、描かれた龍や獅子の溌剌とした姿態に目を向けてほしいこと、などが熱っぽく語られた。

 講師が「唐の工芸の獅子がプジョーの獅子であるなら」とおっしゃったので、契丹は何に譬えるんだろう、と思ったら「契丹の獅子はジャングル大帝の…」言われたのが唐突で、ちょっと噴いてしまった。車に乗らない私は「プジョーの獅子」がイメージできなかったのだけど、さっき画像を見て、再び…笑った。

 同時代に西夏という国があり、西夏が宋にくっついている間は、西アジアの文物(ガラス製品など)が宋に流れ込み、西夏が宋を離れて契丹に接近すると、契丹に西方の文物が流れ込む、という話も興味深かった。西夏って、そういう役割を負った国家なのか。

 契丹の仏教文化について、日本も契丹も1052年=末法の始まりという認識を共有していたという。今日以上に、宗教って国境を超えるものだったんだな。でも唐や高麗ではどうだったんだろう。仏教(浄土教)文化圏でも末法意識には濃淡がありそうな気がする。

 それから、日本では江戸時代以降、朱子学の浸透などにより、北宋が重視されるようになると、契丹の地位は相対的に低下した、という解説も面白いと思った。

 最後に「契丹に触れる本」ブックリストの紹介。これは、とってもよい企画! 「王道編」からは村井章介さんの『境界をまたぐ人びと』を脳内リスト入り。「ワクワク編」に北方謙三さんの『楊家将』。そうだよねー。ほかにもこの時代を舞台にした日本人の小説があることを初めて知った。あと「ゾクゾク編」のホラーサスペンス『キタイ』は…ちょっと苦手だ。
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プロデューサー新井白石/音楽公演・朝鮮通信使(紀尾井ホール)

2012-07-21 23:25:06 | 行ったもの2(講演・公演)
紀尾井ホール(小ホール)『紀尾井 江戸 邦楽の風景(六)朝鮮通信使』(PDF)(7月19日、18:30~)

 たまたま、本公演の関係者からチラシをいただいて、こういうシリーズ公演が行われていることを初めて知った。「江戸 邦楽の風景」は2010年春から始まった企画で、絵画、風俗、演劇などと、ジャンル横断的な音楽の楽しみ方を提唱するものらしい。今回は、正徳元年(1711)徳川家宣が第6代将軍になったお祝いに訪れた朝鮮通信使を取り上げる。

 使節一行は1711年5月12日に漢城(ソウル)を出発し、釜山で船に乗り込み、対馬や牛窓など、多くの地域に立ち寄りつつ、大阪に到着。大阪から日本の川船に乗り換え、京都へ。京都から陸路で、江戸に到着。10月18日には宿舎の浅草東本願寺に入り、11月1日に国書を将軍に手渡し、11月3日、使節をもてなす儀礼がおこなわれた。使節の人数は約500人、うち51人が音楽隊だったという。朝鮮は儒学の礼楽思想を尊んだので、国王の出御にはもちろん、国王の使節団にも奏楽が伴わなければならないと考えていた。朝鮮通信使の音楽は、当時の日本人を魅了し、その痕跡は各地の祭礼などに残っている。

 一方、日本側で、このときの通信使の接待を担当したのは新井白石(1657-1725)で、白石は使節をもてなす音楽を能楽から雅楽に改めた。へえ~初耳。いま、私は、当日の解説で聞いた話を、もう一度、20ページほどの無料小冊子で確かめながら書いている。

 ちなみに、この日の第一部は、日韓の音楽学の専門家である徳丸吉彦氏と黄俊淵(ファン・ジュンヨン)氏が、舞台上で、スライドを映しながら、対談形式で、以上のような正徳元年・朝鮮通信使の背景について紹介。ただし「対談」といっても、話す内容については、かなり綿密な打合せができていて、アドリブは少ないように思った。通訳は、日本音楽の研究家である李知宣(イ・ジソン)氏(女性)がつとめた。

 第二部は、徳丸吉彦先生の解説で進行。韓国国立釜山国楽院のメンバーが演奏する最初の曲「大吹打」は、「吹鼓手」と呼ばれる楽隊が、行進の際に演奏するもの。楽隊はホール後方の扉から入ってきて、ゆっくり客席を通り過ぎ、舞台にあがった。短い籐の鞭(?)をもった指揮官は「音楽はじめ」を宣告することが仕事で、演奏には関わらない。打楽器の龍鼓(袖先に撥を蓋うカバーのようなものをつける)、ダブル・リードで旋律を奏でることのできる太平蕭、長い喇叭、螺角(法螺貝)が続く。視角的には喇叭が目立つが、大音量を出しているのは太平蕭で、喇叭はひとつの音高しか出せないというのが、ちょっと意外。さらにシンバルのような啫哱囉(ジャバラ)、鉦(チン、銅鑼、銅鼓)が続く。黄色い服と黄色い帽子、青い帯をしめて、帯の端は長く垂らす。帽子の頭頂の左右には孔雀の羽根飾り。

 続いて、静かな室内楽を担当する「細楽手」の登場。「本当は全く別組織なのですが、この公演では同じメンバーが衣装替えをして出てきます」と徳丸先生が説明。赤い服、黒い冠、胸に中国の官服でいう補子(ほし)を付けていて、さっきの「吹鼓手」より、ちょっと格上な感じがする。演奏の開始を告げるのはササラ。曲は「吹打」。横笛の大笒(テグム)・小笒(ソグム)、ダブル・リードのビリ、二弦の胡弓が旋律を担当。杖鼓、座鼓がリズム楽器。次も「細楽手」の演奏で、4人の女性の舞人が登場し、「剣舞」を舞った。これは美しいが、人でないような妖しい動きで、ちょっと怖かった。

 休憩を挟んで、舞台転換。伶楽舎の皆さんが登場して、日本の雅楽「陵王」を舞う。あ~私はこの曲(舞)、雅楽の中ではいちばん好きなのだ。この間、舞楽公演『蘇合香(そこう)』では不覚にも眠くなったが、これは面白くて目が覚める。仮面と衣装の美しさにも見とれた。これは、新井白石が通信使をもてなすために選んだ曲目のひとつで「北斉の音楽が遣唐使を通じて日本に伝えられた」みたいな伝承を、得々と筆談で通信使正史の趙泰億に語ったらしい(記録が残っている)。

 続いて「納曾利(なそり)」。わりと最近聴いたようなような気がする、と思ったら、今年の3月『蘇合香』公演の際に見たのか。今回は、釜山国楽院のメンバーが韓国古楽の楽器を用いて演奏し、伶楽舎の舞人が舞う、という変則バージョン。はじめ、やっぱり曲調に違和感があって、よくこれで舞えるなあ、と思ったが、だんだん聴いているうちに気にならなくなった。「納曾利」は、いわゆる高麗楽に属するので、白石は例によってそのことを筆談で伝え、楽人・狛(こま)氏についても説明したらしいが、嫌な顔されなかったのかなあ、ケモノへんの文字なんか持ち出して…。でも、こういう無意識の嫌なヤツって、面白くて気になる。

 連れの友人(日本史に詳しい)も言っていたけど、ゴーイング・マイウェイな新井白石と使節団の間に入って苦労したのが雨森芳州だった。のちに白石は雨森を「対馬にありつるなま学匠」と呼び、雨森も白石批判の評を残している。生々しい…。また冊子の徳丸先生の記述によれば、白石が変えた方針は、徳川吉宗の時期に来日した次の通信使への対応に際しては否定され、儀礼がそれ以前のものに戻されてしまったそうだ。うーむ。行き過ぎた改革の末路って、そんなものか。民主党みたいじゃないか、新井白石。

 公演終了時には、出演者一同が舞台上にって、西洋音楽式に一礼。これまで雅楽や舞楽公演で、こういう形式の挨拶(しかも舞人が仮面を取って一礼)を見たことがなかったので、ものすごく驚いた。海外公演などでは、実行しているんだろうな、きっと。
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アイスショー"Prince Ice World 2012"(東京公演)

2012-07-21 11:51:55 | 行ったもの2(講演・公演)
プリンスアイスワールド/Prince Ice World 2012(東京公演)(2012年7月16日、15:30~)

 2010年に「生まれて初めて、アイスショーなるものを見てきた」のが、新潟のFaOI(Fantasy on Ice)で、2回目がこのPIW(Prince Ice World)東京公演だった。どちらもプルシェンコが見たくて行ったのである。その後、このスケーターもいいなあ、この人も生で見たいなあ、というご贔屓さんが次第に増えて、昨年も何度かショーを見に行ったのだが、今回のPIW公演は、久しぶりのプルシェンコ来日と聞いて、絶対見逃せないと思った。

 ところが、この三連休は、1日ないし2日の出勤要請があって、しかもなかなか日程が決まらない。社会人はつらいー。できれば羽生結弦くんの出演する7/15か7/16を見たいと思っていて、ようやく7/16に休めることが確定したときは、どのチケット販売サイトも「完売」になっていた。ショック! しかし、PIWの公式サイトに追加販売のお知らせが出ているという情報を別のサイトで知り、2週間くらい前に電話をかけて、SS席(11,000円)を入手することができた。もう会場に入れさえすれば、席種も場所も文句は言わない。その直後、7/14~7/16に高橋大輔inのニュースが流れて、ほんとに掛け値なしの「完売」になってしまったらしいから、あぶないところだった。

 2010年に初めてPIW公演を見たときは、子どもだましとは言わないまでも、ファミリー向けのまったりした内容に、日本のアイスショーって、よくも悪くもこんなものかーという感想を持った。なので今年も、ゲストスケーターがやたら豪華なのはさておき、またあの氷上のゆるいコントを見るんだな、という気持ちでいた。そうしたら、プリンスアイスワールドチームの演目が、記憶を一新するような、大人のエンターテイメントに洗練されていて、びっくりした。

 羽生は前半に登場。曲は「ハロー・アイ・ラヴ・ユー」。以前は、こういうアップテンポの曲だと、華奢な体形が強調されて合わないように感じたけど、もう違和感がなくなってきたと思う。大きな円弧を描くハイドロブレードが間近に見られて、すごく楽しかった。

 後半は、高橋大輔→安藤美姫→プルシェンコ→荒川静香さん(トリ)の豪華リレー。高橋はピアソラのタンゴ。いろんなテイストの曲に挑戦しているけど、こういうしっとりプログラムが、個人的には一番好きだ。安藤も同様で、一時期の奇抜な衣装のプログラムから、白衣装のしっとり系に変わったときはホッとしたのだが、そろそろ飽きてきた感もある(観客って勝手なものだ)。プルシェンコは、東京公演のはじめの3日間「ロクサーヌ」を滑っていたので、最終日は「ストーム」と聞いたときは、ええ~「ロクサーヌ」が見たかったなーと、正直、少し落胆した。2010年のPIWで「タンゴ・アモーレ」を見たときに、こういうプログラムは、スケーターと観客の距離が近い、狭い会場のほうが適しているんじゃないかと思ったのだ。たぶん「ロクサーヌ」も、同じタンゴだし。

 でも「ストーム」も十分盛り上がった。動画で見ていると、短くて物足りない、と感じるところがあるのだが、会場では、一瞬が永遠に思われるくらいの充実感があって、終わったときは、へなへなと座り込むくらい、お腹いっぱい。ジャンプ高かったなー、ほんとに鷹が天から舞い降りるみたいだった。

 フィナーレでは、ゲストが次々にジャンプを披露。羽生は失敗して土下座のパフォーマンスも見せてくれた。全員がリンクを周回して出口に捌けたあと、プルシェンコと羽生だけが再登場し、歓声の中、お互いを讃えあうようなジェスチャーを見せて、仲良しポーズ、そしてハグ。やっぱり楽公演のフィナーレは特別な感じがする。

 ただ、私の席は北東の角で、このあとの「ふれあいタイム」に、出演者にプレゼントを渡したいファンが集中する階段の脇だったので、フィナーレ終了時には早くも混乱が始まっていた。あっという間に人の移動が始まり、まわりの客席が空っぽになったのには、呆気にとられた。そういうエリアだったのか、このへん。私は今回も遠くから見守るだけにとどめた。またねー、ジェーニャ!



 向かい側でポーズを取る羽生。



 同じ日、プルシェンコの奥さんの妊娠が、初めてメディアで報じられたことも付記しておこう。おめでたい記念なので。
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シンポジウム・発見!お茶の水女子大学の広開土王碑拓本

2012-07-08 23:42:36 | 行ったもの2(講演・公演)
国際日本学シンポジウム「文字・表現・交流の国際日本学」セッションI『発見!お茶の水女子大学の広開土王碑拓本』(2012年7月7日、13:00~)

 「つきあい」で聞きに行ったシンポジウムなのだが、意外に面白かったので、ここに記録しておくことにする。

 広開土王(好太王、好大王)は、4世紀末~5世紀初め、高句麗最盛期の王。広開土王碑は、次代の長寿王が、父の功績を称えるために建立した石碑であり、中国吉林省集安市に現存する。長く忘れられていたこの石碑が再発見されたのは1880年頃で、以後、多くの広開土王碑拓本が日本に将来された。今回、お茶の水女子大学で発見された拓本は、同大学の前身である東京女子高等師範学校が、1923年の関東大震災以降に購入もしくは寄贈によって入手したものと考えられているが、詳しい経緯は不明である。

 以上、比較日本学教育研究センター(主催)のセンター長・古瀬奈津子氏から趣旨説明。続いて、4件の研究発表に移る。

・武田幸男「広開土王碑の真意を求めて」

 広開土王碑研究の第一人者である武田先生からは、碑文の基礎レクチャー。冒頭から第1面6行目までが第1段(序論)で、高句麗の王統、始祖開国神話を語る。第1面7行目から第3面8行目途中までが第2段(本論)の一。王の事跡を編年体で語る。記事には「前置き文」があるものとないものの2種類があり、ある場合は、必ず「高句麗にとって困った事態」が発生し、それを王が打開した、という構造を取る。第3面8行から最後までが本論の二。守墓人の制度について述べる。

 碑文にある「永楽」は最も古い朝鮮半島の独自年号で、朝鮮は基本的に中国王朝の暦を用いていたが、時々ひそかに独自年号を用い、バレると中国に怒られている、という話も面白かった。

・徐健新「広開土王碑拓本研究とお茶の水大学本の年代」

 中国社会科学院世界歴史研究所の徐健新先生は日本語で講演。徐先生は、中国各地で広開土王碑の早期拓本(原石拓本)の探索を続けているが、最近、北京で、1881年制作の墨本(拓本)を得、その跋文に「陳本植」「李超瓊」という人名を見出した。陳本植は清朝の地方官として、民国時代の『安東省・安東県志』に名前が載る。李超瓊は陳本植の幕僚の一人。最近、その子孫が北京で生活していることが分かり(公安にいる友人を通じて調べてもらったって…さすが中国w)訪問調査の結果、李超瓊が1881年から1883年に書いた「遼左日記」なる自筆文書を発見した。

 1882年(光緒8年)の記事を数箇所、引用で示してくれたが、李超瓊が高句麗墓碑(広開土王碑)の拓本を得たこと、紙(二刀=200張)を送って再び取拓を依頼したこと、伝聞による碑の状態、取拓が困難な様子などが詳しく言及されている。すごい! 徐先生、ここで初めて発表するとおっしゃっていたけど、第一級資料の発見じゃないか。いいかな、ここに書いてしまって。

・早乙女雅博「製作技法からみたお茶の水女子大学拓本の年代」

 広開土王碑拓本の類型と年代判定について、武田幸男先生が「墨の付かない空白部の着墨パターン」、徐健新先生が「石灰補修碑字の字形比較」という手法を用いていることは、著書を通じて知っていたので、両氏が、それぞれの方法論に基づき、新出のお茶大本を1920年代中後期の制作と判断されたのは予想の範囲内だった。ここで、早乙女雅博先生から、全く新たな年代測定法が示される。それは「小拓紙の大きさと継ぎ貼り方」だという。

 広開土王碑は全長6メートルを超す巨大な石碑なので、その拓本は何枚もの拓紙を貼り継いで制作される。お茶大本はだいたい52~53cm四方の正方形の小拓紙を11×3列に並べており(第1面)、これは、九州大学本、目黒区本と同形式だという。結論は変わらない(1920年代中後期)のだが、パネルディスカッションでもおっしゃっていたように、最低でも三つの異なる方法論によって検証することができれば、その結論は非常に安定する。なるほど、一見、定説が出来上がっていて、何も付け加えることはないように見えることでも、切り口次第で、研究の余地がある、ということが、新鮮な発見に感じられた。

・奥田環「東京女子高等師範学校の学術標本-教材としての広開土王碑拓本の背景-」

 お茶大において学術標本の調査・整理にかかわってきた奥田環先生は、史学科1973年卒業生が「73~75年頃、研究室で拓本を見た覚えがある。女高師時代に修学旅行で行った先生が購入されたと聞いた」という証言をもとに、1939年の大陸視察旅行(有志生徒40名)が該当するのではないかと推測する。

 なお、パネルディスカッションでの武田先生のコメントによれば、広開土王碑の拓本制作は1938年に禁止されているので、古書店などから1920年代の拓本を買い求めることは十分あり得るとのこと。一方、早乙女先生から、修学旅行で購入という伝聞にはこだわらないほうがいいのではないか、という意見もあった。

 パネルディスカッションの司会は、山形大学人文学部の三上喜孝先生が担当。実は、山形大学小白川図書館でも昨年、広開土王碑第3面の拓本が見つかったが、その由来は全く不明だという。

 これについて、早乙女先生から、京都府福知山高校に伝わる拓本が、旧制高校時代、足立幸一という篤志家・実業家から、将来、朝鮮半島や大陸に雄飛する人材を育成するため「満蒙文庫」の一部として寄贈された、という事例に注目が促された。また、三上先生によれば、山形県からも多くの人々が満蒙開拓移民として大陸に渡っている(長野県に次いで2番目に多い)という。この点では、教材としての広開土王碑の伝わり方は、近代日本における朝鮮半島の歴史の教え方を考える素材になるのかもしれない。

 というわけで、最後は、現代の両国関係に直結する問題にまで広がり、いろいろと面白いシンポジウムだった。

お茶の水女子大学デジタルアーカイブズ「広開土王碑拓本」
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ヒーロー登場/京劇・孫悟空大鬧天宮(北京京劇院)

2012-06-10 02:22:03 | 行ったもの2(講演・公演)
○日経ホール 日中国交正常化40周年記念事業 京劇西遊記『孫悟空大鬧天宮(だいとうてんきゅう)』(2012年6月9日、12:00~)

 2009年と2010年に中国の京劇劇団の来日公演を見て、だんだんハマりつつあった。2011年は、おなじみ西遊記に題材を取った『孫悟空大鬧天宮』が予定されていて、楽しみにしていたのだが、東日本大震災の影響で中止になってしまった。2年越しでようやく実現した公演である。

 いや、さすがに面白かった。私は、子どもの頃に読んだ西遊記(小学館版『少年少女世界の名作文学』)でも、孫悟空が三蔵法師に出会って取経の旅に出る前の、天界の神々を敵にまわして大暴れする物語が大好きだった。誰かを憎んで大暴れするわけではない、食べたいものを食べ、遊びたいように遊びまわる結果が神々(大人たち)を右往左往させる孫悟空の姿は、子どものヒーローそのままだったのだ。

 今回の会場は大手町の日経ホール。2009年と2010年に京劇を見た池袋の東京芸術劇場(改修前)は、やや場末感があって、そこが庶民に愛された芸能・京劇に合っている気もしていたので、最新設備のゴージャスな会場に少し戸惑う。ギリギリ直前にチケットを取ったので、かなり後列の右端の席だったが、舞台はよく見えた。ただ、舞台上手の楽隊席が、幕の影になって、ほとんど見えなかったのが残念だった。

 第1場:花果山→第2場:御馬監(天界の厩)→第3場:紫宸宮。花果山で小猿たちの錬兵を楽しむ悟空のもとに、太白金星(別名・李長庚。ずいぶん人間臭い別名を持っているんだな)が使者として現れ、悟空を天界に招聘する。金銀玉石、奇貨珍宝に彩られた天界の様子を聞いても心の動かなかった悟空だが「千万の駿馬に乗り放題」と聞くと、矢も盾もたまらなくなって、飛んでいく。悟空はそんなに馬好きだったのか。まあ馬って、男子にとってはスポーツカーやバイクみたいなものだったからな。サルが馬の守護神と考えられた(厩で一緒に飼われた)ことも反映しているのだろう。

 第1場だけは、ストーリーを分かりやすくするため、具象的な山奥の背景が舞台装置に取り入れてあり、え、ずっとこれでいくのかな、と思ったが、第2場からは、京劇本来の簡素な舞台になった。第2場は、小役人「弼馬温(ひっぱおん)」となった悟空の二人の部下、小心者の寅翁・堂翁のチャリ場から始まる。無邪気に役人ごっこを楽しむ悟空。御馬監で最も気性の荒い悍馬を引き出させ、乗りこなしてみせる。もちろん京劇の「お約束」に従い、舞台上に馬は現れない。房飾りをつけた馬鞭一本、あとは機敏な身体の所作で、悍馬の姿を想像させる演技力が見どころ。すごい、すごい。この芝居の孫悟空は、単に大立ち回りのできる運動神経だけでは通用しない難役だと思った。

 そのあと、弼馬温の上司だという馬王(これも小役人の内)が現れ、横柄な態度で、悟空を激怒させる。中国の民衆が(役人になりたがると同時に)いかに役人嫌いだったか、よく分かる芝居である。

 ここで休憩。後半は、第4場:蟠桃会→第5場:偸桃盗丹→第6場:站山(出陣)。冒頭の蟠桃会(桃苑)では、桃林を描いた背景幕がめぐらせてある。おじいちゃんの土地神も中国らしい役どころだな。孫悟空役は、李丹(Li Dan)さんから磊(Zhan Lei)さんに替わる。扮装や隈取で「役」を指定する要素が大きいから、途中で中の人が替わることに、それほど違和感はない。偸桃盗丹は、やんちゃで愛らしい、そしてサルらしい豊かな表情と所作が見もの。オペラグラスを持ってきてよかった。

 最後は、天界の武神たちが勢ぞろいして(女神も含む)悟空討伐に出立する。脚本は「必ずや打ち負かせ」「得たり」の応酬で終わっていて、そのあとは台詞なし、京劇らしい身体パフォーマンスのみ。音楽にあわせて、悟空と花果山の小猿たち(よく見ると一人ひとり隈取が違う)と、武神の連合軍が、激しい立ち回りを繰り広げる。団体戦あり、個人戦あり。強くて美しい女神にデレる悟空とか、お笑い担当の羅睺(らごう)とか、図体ばかりで頭の弱い巨霊神とか、変化があって面白かった。

 パンフレットの解説によれば、古い京劇・西遊記(安天会)では、神犬に咬まれて悟空が捕まる結末だったものを、中華人民共和国成立後、反封建を強調する意図もあって、悟空の大勝利に書き換えられ、定着したそうだ。政治的改編も、たまにはいいことをするものだと思った。

 公演パンフレットには、二階堂善弘先生が「『大鬧天宮』に登場する神々」を寄稿。あと無署名記事「京劇と西遊記」が、「西遊記」を題材とする戯曲の変遷と活躍した俳優について、手際のいい解説になっていて、役立つ。むかしの名優たちの白黒写真も興味深い。

※今公演のチラシ:京劇の古くさいイメージを壊していて、けっこう好きだ。

「オレ様、神様、悟空様!」

有限会社 楽戯舎

2009年京劇公演『安天会~孫悟空 天界大暴れ~』
これは見られなかった公演。隈取は『大鬧天宮』とだいたい同じ。

少年少女世界の名作文学
さまざまな文学作品について、今なお私にとっての「決定版」的な影響をもっている。
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奇想の再評価/講演・静嘉堂コレクションとの出会い(湊信幸)

2012-06-05 23:15:41 | 行ったもの2(講演・公演)
静嘉堂文庫美術館 講演会『静嘉堂コレクションとの出会い』(講師:湊信幸氏)(2012年6月3日、13:30~)

 『東洋絵画の精華』展の第2部『至高の中国絵画コレクション』(2012年5月23日~6月24日)にあわせたイベントである。東京国立博物館の副館長も務められた(平成21年まで)湊信幸氏のお名前は、展示図録でしばしば目にしてきたが、講演を聞くのは今回が初めて。冒頭10分くらい遅刻してしまった。ごめんなさい。

 静嘉堂中国絵画コレクションの中核部分は、岩彌之助(1851-1908)が明治20~30年代に蒐集したものであり、その代表的な作品は、明治末年から大正12年にかけて雑誌「国華」で集中的に紹介され、さらに大正10年(1921)刊『静嘉堂鑑賞』にまとめられて、広く世界に知られるようになった。

 今日でも静嘉堂の中国絵画を代表する宋元画の名品、牧谿『羅漢図』、伝・馬遠『風雨山水図』、孫君沢『楼閣山水図』などは、彌之助の蒐集による。一方、明治29年(1896)には、九州大分の千早家から明清画23点も購入している。これは彌之助の煎茶趣味と関係があるのではないか、という。どうやら茶の湯→宋元画、煎茶趣味→明清画と結びつくらしい、素人理解では。

 講師は、昭和61年(1985)夏、静嘉堂の中国絵画調査に携わった。この頃、中国絵画の見方には、ひとつの変化が起きていた。カリフォルニア大学バークレー校教授(当時)ジェームス・ケーヒル著『Fantastics and Eccentrics in Chinese Painting(中国絵画における奇想と幻想)』(1967年)が刊行され、1975年の『国華』にその邦訳が掲載された。八大山人と石涛、安徽派、揚州派なども取り上げられている。1977年には台湾故宮博物院で「晩明変形主義画家作品展」という展覧会が開かれた。

 そうだったのかー! このとき、私の頭に浮かんでいたのは、辻惟雄先生の『奇想の系譜』(1970年刊)である。日本美術の「正統」に対して、一種の異端である奇想や幻想を再評価した同書は、突然現れた異端児ではなく、背後に世界的な美術史の転換があったんだな、ということを初めて認識した。と思ったら、講師も、ちゃんと『奇想の系譜』のPPTを用意してきていて、辻君の本はもっと早く出来ていたが、まず正統の絵画史を出さないと(異端や奇想について)語ってはいけない雰囲気があった、みたいな裏エピソード(誰かの回想?)を紹介してくれた。

 そうした美術史の転換を踏まえ、大正10年の『静嘉堂鑑賞』掲載作品を再評価し、その後の蒐集作品を紹介するため、1986年10~11月には、文庫の隣りの展示館で『中国の名画展』が開催され(※美術館は1992年開館)、図録『中国絵画』が刊行された。

 1986年の展覧会で初公開されたものには、南宋の『羅漢図』(戸田禎佑先生ご推奨)などがある。以下、印象に残った作品と紹介コメントは、元の『栗鼠図』(かわいー。今回の展覧会には出ていなくて残念)、明・陳瑛『観音図』(デフォルメが面白い)、明・張爾葆(ちょうじほう)『山水図』(董其昌と並び称されるが、董其昌ほど屈折がない)、張翬(ちょうき)『山水図』(ものすごく縦長。明代の二大流派とされる浙派と呉派を融合したような画風。両者の対立が鮮明になるのは16世紀以後で、15世紀には共通する部分もあるのではないか?)。

 最後に、静嘉堂中国絵画コレクションの概観まとめ。これは分かりやすかったので、後学のため、配付資料からそのままの引用をご容赦。(※)内はお話から付記。

一、南宋画院系の宋元画(※茶の湯)
二、禅林周辺の宋元画(※茶の湯)
三、寧波を中心とする宋元と明の浙江仏画
四、明の画院画家と浙派の作品
五、明中期の蘇州の文人と職業画家たち(※以下、煎茶趣味)
六、明末の文人-董其昌の時代とそれ以降-
七、明末の福建の画家(1)-王健章と張瑞図-
八、明末の福建の画家(2)-黄檗僧の周辺
九、藍瑛と銭塘(杭州)の画家たち
十、清の来舶画人

 「福建の画家が目立つ」というコメントもあったように思う。福建、行ってみたい~。展覧会のレポートは別稿。
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