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見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

能公演を初鑑賞/大江山ほか(宝生能楽堂)

2025-06-23 23:01:18 | 行ったもの2(講演・公演)

宝生能楽堂 六月宝生会定期公演・午後の部(6月21日、15:30~)

 3月に野村萬斎さんの「MANSAIボレロ」を見て以来、能狂言への関心が高まっている。さらに先日、サントリー美術館の展覧会『酒呑童子ビギンズ』を見て、「酒呑童子絵巻」と影響関係のある演目「大江山」を、ぜひ見てみたいと思うようになった。試しに検索してみたら、この宝生会定期公演で「大江山」が掛かることを発見した。迷った末に前日の金曜日、オンラインでチケットを取って、行ってみることにした。

 私の母は狂言が好きで、その影響で私も中学生~大学生くらいまで、ときどき狂言を見に行っていた。しかし能はほとんど見たことがない。当日まで「人生初」だと思っていたが、ブログを検索したら、2008年に奈良の興福寺で薪能を見ていた。しかしこれは旅先のついでで、能公演そのものを目的に出かけたのは、還暦過ぎにして「人生初体験」である。

・能「杜若(かきつばた)」

 都の僧が東国へ赴く途中、三河の八橋近くで、里の女に声をかけられる。その晩、里女の家に宿を借りた僧侶のもとに、初冠に唐衣という姿の女が現れ、冠は業平の、唐衣は二条の后の形見であり、自分は杜若の精であると告げる。なんか「伊勢物語」アイテム詰め合わせみたいな筋書きで、苦笑してしまった。そもそも唐衣(からぎぬ)は、十二単の上に着用する丈の短い上着のことらしい。しかし草花文様の刺繍のある唐衣は、かなり時代錯誤である。女面に巻纓・緌(おいかけ)の武官の冠を付けているのも不思議だった。ゆったりと優雅な舞踊が主で、ときどきウトウトしてしまった。

・狂言「膏薬煉(こうやくねり)」

 鎌倉の膏薬煉りの名人が、膏薬の優劣を競うため、都へ向かう。その頃、都の膏薬煉りの名人も東国へ向かい、二人は道中で出会って、膏薬の強さを競い合う。膏薬って「吸う」ものと考えられていたのだな。鎌倉の膏薬煉りは、先祖が暴れ馬を吸い付け、鎌倉殿(頼朝)に褒められたと自慢し、都の膏薬煉りは、先祖が大きな石を吸い付け、浄海(清盛)に褒められたと自慢する。言葉遊びあり、滑稽な動作ありで面白かった。ただ都の膏薬煉りの方が、何度かセリフを間違えていた(浄海→鎌倉殿、都→鎌倉)のが気になってしまった。そこを間違えたら、面白さが伝わらないでしょうに。

・能「大江山(おおえやま)」

 源頼光は、四天王と一人武者(計5人)と従者を連れて、大江山の酒呑童子を退治に出かける。洗濯女の手引きで酒呑童子の屋敷へ。童子は酒をふるまい、頼光一行を歓待する。前半の童子は頭こそ蓬髪だが、色白の上品な面。後半、屋根付きの籠みたい作り物(?)が黒い幕で前後左右を覆われて運ばれてきて、上手の端に横向き(下手向き)に据えられる。この中から、鬼の正体を現した酒呑童子(赤毛、鬼面)が登場し、頼光たちと格闘する。しかし身体の大きくない役者さんだと、あまり迫力が出ない。首級を上げる描写はなくて、頼光一行に挟まれて退場するのが「討ち取られた」表現なのだという。童子二人に支えられて登場というのもなかった。

 「杜若」と違って、こちらは変化が大きく、途中に笑いの要素(頼光の従者が洗濯女を口説く)もあって、眠くはならなかった。ただ、セリフはふつうに聞き取れるだろうと思っていたら、鳴り物が意外とうるさくて聞き取りにくかった。「鬼神に横道なし」は幸い聞き取れたが。

 まあまあ面白かったし、格式張らなくてもいいことが分かったので、演目を選んで、また来てみようと思う。ちなみにこの宝生能楽堂は、私が狂言を見るために一番よく通った能楽堂である。むかしの雰囲気があまり変わっていなくて、懐かしかった。

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恋の手本となりにけり/映画・国宝

2025-06-22 18:44:13 | 見たもの(Webサイト・TV)

〇李双日監督『国宝』(TOHOシネマズ日本橋)

 原作は全く知らなかったが、出演者もいいし、題材にも興味があるので、公開されたら必ず見に行こうと決めていた。そして比較的早めに見に行ったのだが、作品の重量に圧倒されて、なかなか感想をまとめられなかった。

 物語の始まりは1964年(これはネットで調べた)、上方の歌舞伎役者の花井半二郎は、興行先の長崎で、地域の顔役・立花組の宴会に顔を出し、座興の舞台に立った女形の少年に魅了される。少年・喜久雄は立花組の組長の息子だった。しかし、その日、武装した敵対勢力の襲撃を受けて喜久雄の父親は命を落とす。天涯孤独となった喜久雄は父親の仇を討とうとするが失敗。半二郎は喜久雄を引き取り、部屋子として育てることに決める。

 半二郎には喜久雄と同い年の息子・俊介がいた。二人は競い合いながら成長し、やがて喜久雄(東一郎)と俊介(半弥)の若手女形コンビとして脚光を浴びる。あるとき、半二郎が事故で怪我をしてしまう。予定されていた舞台「曽根崎心中」のお初の代役に、半二郎が指名したのは喜久雄だった。俊介は喜久雄を祝福するが、その舞台を見て、喜久雄のとてつもない才能を知った俊介は出奔してしまう。

 しばらく時が流れ、糖尿病の悪化した半二郎は、もうひと花咲かせようと白虎を襲名し、自分の名跡を喜久雄に譲る。しかし襲名式の舞台で倒れ、帰らぬ人となってしまう。唯一の後ろ盾を失った喜久雄に周囲は冷たかった。父の死を知って帰ってきた俊介は再び舞台に戻り、注目を浴びる。焦る喜久雄は、先輩役者・吾妻千五郎の娘の彰子を誘惑し、婿に収まることを狙うが、大激怒されて歌舞伎の世界から放逐される。彰子と二人で仕事を求めて、地方のホテルの宴会場などドサまわりの日々が続く。

 そんな喜久雄に手を差し伸べたのは俊介だった。「二人道成寺」は再び喝采を浴びる。しかし舞台で倒れる俊介。(父親譲りの)糖尿病で片足が壊死を起こしていたのだ。左足の膝から下を切断して義足とし、さらに、残る右足もいつ切断せざるを得なくなるかもしれない状況で俊介は「お初がやりたい」という。俊介の覚悟のお初を、徳兵衛として支える喜久雄。このあと、俊介の出番がないのは、彼は若くして世を去ったのだろうと思う。

 喜久雄には若い頃に付き合って、子供を設けた祇園の芸妓がいた。2014年、老境を迎え「人間国宝」に認定された喜久雄は、メディアのインタビューを受ける。写真撮影を担当した女性カメラマンは、すっかり縁の切れていた、喜久雄の実の娘だった。娘は、悪魔に魂を売って芸の極みを目指した父の生き方を非難しながら、その類まれな美しさを認める。そして娘の言葉を体現するような「鷺娘」の舞台で幕。

 主人公・喜久雄を演じた吉沢亮、もちろんイケメンだけれど、整いすぎた顔立ちで女形は合わないんじゃないかと思ったが、大役・お初を演じ切り、下りた幕の内側で呆然とする横顔の、まだ役のお初が抜けきれないところに、初々しい喜久雄がブレンドされた美しさが絶妙だった。最後の鷺娘も素晴らしかった。それ以上に印象的だったのは、落ちぶれたドサまわりの最中、田舎町のビルの屋上で、酔っぱらって、崩れた化粧で、ふらふらと踊る姿の凄絶な美しさ。

 横浜流星の俊介は、実は喜久雄以上に難しい役だったんじゃないかと思う。一世一代のお初。残った右足にもすでに壊死が始まっていて、爪の崩れた醜い足先を喜久雄の徳兵衛が喉に当てるのである。「曽根崎心中」のあのシーンをこう使うか!という脚本(原作)の巧妙さに唸った。花道で何度も転びながらの道行、最後の「恋の手本となりにけり」が、歌舞伎という芸に恋した男たちの姿を称えるようにも聞こえた。しかし、そういう小細工以上に、喜久雄のお初のセリフ!!発声が素晴らしい。私は「曽根崎」を文楽でしか見たことがないのだが、歌舞伎でも見てみたくなった。あと二人の少年時代を演じた黒川想矢くん(少年喜久雄)、越山敬達くん(少年俊介)もよかった。

 上のあらすじでは省略してしまったが、人間国宝の女形の歌舞伎役者・小野川万菊を演じた田中泯さんは、ほとんど人外(人でないもの)みたいなキャラクターだが、この物語に説得力を与えていたと思う。役者の「業」を抱えた男たちに翻弄されながら寄り添う女たちも、それぞれ印象的だった。

 映画館で見終わった後、あまり数多く映画を見ていない私が連想したのは『さらば、わが愛-覇王別姫』だった。だが、同作に言及している感想や批評はないかなと思っていたら、李相日監督が上海国際映画祭の舞台挨拶で、学生時代に『さらば、わが愛』を観て衝撃を受けたことが本作の背景にあると語ったそうで、ちょっと嬉しかった。しかし『さらば、わが愛』に描かれたような政治的な激動は本作にはない。それは本作の舞台である戦後50年余りの日本社会の幸せかもしれない。

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大横川岸遊歩道のサクラ

2025-06-21 11:08:43 | 日常生活

先週は職場がイベントウイークで、落ち着いた時間が全く取れなかった。年寄りをあまり働かせないでもらいたい。。。

さて、私のマンションの窓の下を通る大横川岸の遊歩道は、護岸工事のため、昨年夏頃からずっと通行止めだった。サクラの季節に一時的に立ち入りが許可されたが、サクラが終わると、また通行止めになっていた。それが、最近ようやく完全解除されたようである。

嬉しかったのは、遊歩道の入口に、新たなサクラ(?)が植樹されたこと。奥に続くのが、ピンク色のソメイヨシノの桜並木であるのに対して、この位置には、真っ白な花をつける別種の桜の木があったのだ。品種が受け継がれているかは、来春にならないと分からない。受け継がれているといいな。

かつての大木とは比べようもない若木だが、育っていくのを見守りたい。

なお、川面には相変わらず工事船が駐留していて、平日は朝から夕方まで稼働している。川岸ならではの風景で、在宅勤務の合間に窓から眺めているとおもしろい。

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不昧公との縁/花ひらく茶と庭園文化(荏原畠山美術館)

2025-06-14 22:38:08 | 行ったもの(美術館・見仏)

荏原畠山美術館 開館記念展III(急)『花ひらく茶と庭園文化-即翁と、二万坪松平不昧 夢の茶苑』(2025年4月12日~6月15日)

 リニューアル開館記念展の第3部は、畠山即翁をはじめ、近代茶人の憧れの存在だった大名茶人・松平不昧の茶の湯と庭園づくりに着目する。

 第1展示室、この日は曇り空で室内が暗かったので、天井の金の波模様が目立って美しかった。『古瀬戸肩衝茶入(銘:円乗坊)』は、不昧にも評価された大名物。円筒形の無骨な姿だが、本能寺の変で被災したという由緒に心惹かれる。即翁の茶道具コレクションは、全体にシンプルで自然志向で好き。特に模様も色変わりもない『備前八角水差』や無文で筒形の『東陽坊釜』(辻与次郎作)も気に入った。不昧公遺愛の品だという『唐物籐組茶籠』は、女性持ちの巾着袋くらいの小さなバスケットで、ちょっとひしゃげているのが使い込まれた感じだった。小ぶりな茶碗が2つ、茶杓、棗など一式を収める。茶筅は陶器の筒に収めて持ち運ぶのだな。絵画は梁楷の『猪頭蜆子図』が愉快。ブタの頭にかじりつく猪頭和尚と、小さなエビをぶらさげた蜆子和尚の、乞食坊主二人の対幅である。

 新館展示室へ。昭和12年(1937)即翁が大師会の席持ちデビューを果たした護国寺圓成庵席の道具組などを参考に、えりすぐりの名品を展示。茶の湯好きの見どころは『井戸茶碗(銘:細川)』や『唐物肩衝茶入(銘:油屋)』(仕覆など付属品多数)なんだろうけど、私は藤原佐理の『離洛帖』に見入ってしまった。久しぶりい! 去年の大河ドラマ『光る君へ』は途中離脱してしまったが、渡辺大知さんが演じていたのだな。大宰府赴任の途中、出発の際に摂政道隆に挨拶を忘れたことについて、甥の誠信にとりなしを求めた書状である。もちろん全文漢文なんだけど、日本人が書いていると思えないスピード感が心地よい。「避逃」のしんにょう二つが特に好き。

 地下の展示室は、また近代絵画かな?と思ったら、全然違った。はじめに町絵図や茶室間取図の大きなパネルが掲げられていた。説明によれば、松平不昧は、品川大崎の松江藩下屋敷に11の茶室が点在する大茶苑を造営したが、黒船来航の際に品川沖警備の軍用地となり、取り壊されてしまった。ただし、不昧の没後、松平定信が谷文晁に庭園の様子を描かせており、明治の模本が今日に伝わっている。あと、大崎茶苑の茶室を担当した畳師の記録がいろいろ出ていて面白かった(港区立郷土歴史館、あなどれない)。昭和になって、即翁が土地を入手した同美術館の現在地は、不昧の大崎茶苑の近隣に位置しているという。即翁は歴史を知っていてこの地を選んだのかな。

 最後に昭和39年(1964)に撮影された『畠山記念館開く』という無音の記録映像を見ることができ、私は畠山即翁が動いている(挨拶をし、お茶を立てている)映像を初めて見た。政界、財界の有名人らしい顔が何人も映っていたのだが、はっきり分かったのは佐藤栄作くらいだった。解説を付けてほしい。

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暴力と差別の由来/イスラエルについて知っておきたい30のこと(早尾貴紀)

2025-06-13 23:13:03 | 読んだもの(書籍)

〇早尾貴紀『イスラエルについて知っておきたい30のこと』 平凡社 2025.2

 パレスチナ・ガザ地区の状況は、断片的なニュースから推測しても本当に惨いらしい。しかし私はイスラエル・パレスチナ問題について、きちんと思考できるほどの知識がないので、一から勉強するつもりで読んでみた。本書は30の疑問と回答を通じて、十字軍とレコンキスタから今日に至るユダヤ人の歴史が分かるようになっている。

 十字軍は、イスラーム統治下のエルサレムを奪回するための運動だったが、ヨーロッパでは、イスラーム教徒だけでなくユダヤ教徒への攻撃・迫害も強まった。1492年、グラナダが陥落し、レコンキスタが完成する。直後にスペインでは、ユダヤ教徒にキリスト教への改宗を迫る追放令が出された。同年8月に出港したコロンブス船団の乗組員の大半は、改宗と追放を逃れようとしたユダヤ教徒だったという。知らなかった。

 改宗した元ユダヤ教徒は「血は変わらない」「本心ではない」と疑われ、苦難の道を歩んだ。19世紀、国民国家の思想が広まると、ユダヤ人種もユダヤ人の国家を持つべきだという主張が生まれる。これがシオニズムである。実はユダヤ人のシオニズム運動に先駆けて、福音派キリスト教徒による「キリスト教シオニズム」という思想があった。パレスチナをイギリスの保護領にしてユダヤ人を入植させ、西洋文明の防壁としようというもので、明確に植民地主義的な欲望と結びついていた。

 第一次世界大戦でオスマン帝国が敗北すると、勝者のイギリスはパレスチナを委任統治領とし、ユダヤ人の入植を推進する。悪の帝国が滅びて、もっと悪い統治者がやってきたわけだ。ナチスの台頭によってユダヤ人の入植が急増し、アラブ人の抵抗が強まると、イギリスの委任統治は破綻する。第二次大戦後、ホロコーストを生き延びたユダヤ人難民を受け入れたくないヨーロッパ諸国は、パレスチナに彼らを受け入れることを「勧告」する。いや、どのツラ下げて、という感じ。1947年、国連でパレスチナ分割決議(56%の土地をユダヤ人国家、43%の土地をアラブ人国家)が採択されたが、分割案に不満のある双方によって戦闘が始まり、物量で優位に立つシオニスト軍は、アラブ人をガザ方面に追い込み、1948年5月、イスラエルの建国が宣言される。

 イスラエルは建国宣言で「ユダヤ人の国」を明確に宣言している。移民受け入れが認められているのはユダヤ人のみなのだ。しかし「ユダヤ人とは誰か」という定義は曖昧である。なんだか最近の日本人が曖昧な基準で「日本人を大事に」を言いたがる態度と似ている。

 実はイスラエル人口の20%程度は、イスラエル国籍の先住アラブ人だという。東欧や中国・アジアから流入した外国人労働者(永住権や市民権は与えられない)もいる。さらにガザ地区や西岸地区から出稼ぎにくる労働者もいる(いた)そうだ。つまり現実のイスラエル国家は、多民族化、多文化化が進行していたようで、そのへんが保守派の焦りになっているのかもしれない。

 パレスチナ/イスラエルの和平には「一国解決」と「二国解決」の二つの考え方がある。前者は、アラブ・パレスチナ人とイスラエル・ユダヤ人が平等な市民として一国家を形成するもの、後者は、それぞれが別国家として併存するものである。1993年の「オスロ合意」は後者の路線だが、パレスチナにとっては全く不平等で欺瞞的な和平案だった。しかし抵抗するパレスチナ人は「和平の敵」「テロリスト」と見做されるようになってしまう。

 2000年代、イスラエルは対話や交渉を捨てて「一方的政策」をとるようになる。パレスチナには交渉相手がいないというのが理由である。これは難しいな。パレスチナ人は「イスラエルの手先」となったPLOに失望していたが、彼らは欧米世界との交渉ルートは持っていたのかもしれない。現在、パレスチナで選挙に勝利したハマースをイスラエルは認めていない。

 2025年現在「ハマース掃討」の名のもとにイスラエルの蛮行が続いているが、イスラエル国内では「パレスチナ人は集団懲罰されるべき(殺してもいい)」という言説が肯定的に共有されているという。溜息が出るが、その根底には、劣った民族に自決権や市民権を与える必要はないというヨーロッパ中心主義がある。これは宗教対立ではなくて、植民地主義やオリエンタリズムという、近代の醜悪な置き土産なのだ。だから遠い異国に住む我々にも無関係ではない。解決は容易でないが、まずは本書に紹介されている、エドワード・サイード、ハミッド・ダバシ、ジュディス・バトラーなど、哲学者の言葉を注意深く聞こう。

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マンガ原作の武侠SF/中華ドラマ『異人之下』

2025-06-11 23:35:41 | 見たもの(Webサイト・TV)

〇『異人之下』全27集(優酷、2023年)

 見たい新作ドラマが途切れていたので、2023年公開で気になっていた本作を見てみた。原作は『一人之下』というウェブ漫画で、2018年には日中合作のアニメにもなっているらしい。へえ、全く知らなかった。

 ストーリーは、漫画原作らしく速いテンポでどんどん進む。平凡な大学生の張楚嵐は、ただ一人の家族だった祖父を幼い頃に失っていた。祖父の張懐義は、常人にない能力を持つ「異人(アウトサイダー)」の一人で、張楚嵐はその能力を受け継ぐとともに、成長するまで封印することを言い渡されていた。大人になった張楚嵐は、異人の一味に次々に襲われ、祖父から受け継いだ「炁体源流」の秘術を解禁する。

 この世界には、多くの異人が存在しており、いくつかの勢力グループがあった。張楚嵐を助けてくれたのは、表向きは「哪都通」という宅配会社を装っている集団で、総帥の徐翔の下に、徐三、徐四がいる。生前の張懐義に頼まれ、張楚嵐の成長を見守ってきた不思議な少女・馮宝宝もこの集団に身を寄せていた。よりエグゼクティブな雰囲気を漂わせるのが「天下集団」の総帥・風正豪。娘の風莎燕はかなり狂暴な美少女。しかし本格的な敵対勢力は「全性」を名乗るグループであることが徐々に分かってくる。

 異人たちの世界では「八大奇技」と呼ばれる8つの秘術の存在が知られていた。張楚嵐の「炁体源流」はその1つで、風正豪は「拘霊遣将」を使う。龍滸山の老天師・張之維は、八大奇技の1つ「通天籙」の伝授を賞品とした天師大会を開催することにし、腕自慢の異人たちが龍滸山に集合する。張楚嵐、馮宝宝、風莎燕のほか、武当山の王也、老天師の直弟子の張霊玉、諸葛孔明の後裔である諸葛青なども。トーナメントに出場するのは若者たちだが、それを見守る老師たちも一堂に会する。

 そして次第に明らかになること。異人たちの世界には、かつて八大奇技をめぐって凄絶な抗争があった(甲申之乱)。張楚嵐の祖父・張懐義は、もとは龍滸山の張之維らの同輩だったが、乱の首魁と見做され、龍滸山を追われ、何者かに暗殺されたのだった。馮宝宝は、「哪都通」の徐翔が幼かった頃、記憶を失った状態で放浪していた。徐翔の家族に助けられ、今日に至るが、半世紀あまり(?)経っても全く年を取る様子がなかった。

 天師大会トーナメントの結果は張楚嵐が優勝。しかし張楚嵐は「通天籙」の伝授を望まず、ただ祖父の死と馮宝宝の身元について真実を知りたいと願う。そこに「全性」集団が乱入するが、老天師・張之維が超絶的な能力を発揮して返り討ちにする。

 龍滸山攻略に失敗した「全性」集団では、若き策略家・呂良が掌門の座に就く。呂良には、幼い頃、呂歓という妹を失ったトラウマがあった。張楚嵐は呂良の記憶をたどり、そこに秘められた罠に気づく。呂良の祖父・呂大爺は八大奇技に執心し、端木瑛という老女が修得していた「双全手」という秘術を獲得するため、端木瑛の血液を抜き取って呂家の赤子に注入した。しかし、その端木瑛は、すでに呂歓と全ての記憶を交換していた。呂家から姿を消した呂歓の正体は端木瑛だったのである。馮宝宝(無根生の娘)の記憶を奪ったのも端木瑛だった。無根生は、八大奇技を生み出した異能者たちのさらに師匠にあたる大異能者だった。

 正体を現した端木瑛は、馮宝宝の心と身体を破壊しようとするが、張楚嵐は必死にこれに抵抗。天師大会トーナメントで出会った仲間たちの支援もあって、馮宝宝の救出に成功する。馮宝宝は再び全ての記憶を失っていたが、張楚嵐は、一歩ずつ彼女の心に近づこうと考える。

 原作を知らないと分かりにくいところもあったが、細かいことを気にせずに見ていく分には面白かった。若者世代も年寄り世代も、癖の強いキャラ&俳優さんが多くて楽しかった。張楚嵐役の彭昱暢くん、馮宝宝役の王影璐さんは初見だと思うが、なかなかの芸達者。王也役の侯明昊くんは久しぶり。老天師役の王学圻さんは『追風者』の共産党員・徐諾か!長い白眉毛など徹底した老けメイクで全然分からなかった。風正豪役の修慶さんは、現代ドラマが珍しい上に最後まで善人だったのが意外で(端木瑛と戦う張楚嵐に加勢する)笑ってしまった。

 設定としては現代?SF?のジャンルになるのだろうが、正派と邪派の抗争、秘技の争奪、過去の因縁、老輩から若者への教えなど、完全に武侠ドラマの骨格だと思った。2024年公開の映画作品(主演・胡先煦)もあるそうで、こっちの配役もなかなかいい。見てみたい。

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2025年5月関西旅行:MIHOミュージアム、細見美術館

2025-06-08 23:11:02 | 行ったもの(美術館・見仏)

MIHOミュージアム 春季特別展『うつくしきかな-平安の美と王朝文化へのあこがれ-』(2025年3月15日~6月8日)

 先週末の関西旅行の記録、ようやく最終日に到達である。日曜は朝イチ、石山駅から路線バスに乗ってMIHOミュージアムに向かった。本展は、古筆をはじめ、工芸品や仏教美術、琳派の源氏物語図屏風、歌仙絵など、貴族文化の誕生から桃山初期に興る王朝文化への憧れがこめられた作品を織り交ぜて展観する。

 冒頭は二月堂焼経、賢愚経断簡(大聖武)などの古経と小さな誕生仏(飛鳥時代)、迦楼羅の伎楽面(奈良時代)など、大陸文化の香り高い「王朝前史」から始まる。そして王朝文化のあゆみが始まるのだが、『宝相華鳳凰文平胡籙』は初めて見たような気がする。ニワトリのような鳳凰が2羽ずつ対面で4羽、螺鈿で描かれている。宝相華には青い石が嵌め込まれていた。美麗このうえなし。あと、透かし模様の入った『球形香炉』は、あ、中国の古装ドラマで見るやつ、と思ったら、これは中国・唐時代のものだった。定朝様の立派な阿弥陀如来坐像を眺めて、次の展示室に進むと、赤い衣の『阿弥陀仏』(原三渓旧蔵、鎌倉時代)が掛かっていた。MIHOミュージアムのコレクションのページに写真があるが、薄暗い展示室で見るほうが、趣きありげだったように思う。

 続いて「名帖『ひぐらし帖』を中心として」と題した古筆切のセクションに入る。実は、全く予習をしてこなかったのだが、本展は、MIHOミュージアム所蔵の『ひぐらし帖』の初公開をうたっている。『ひぐらし帖』は吉田丹左衛門によって手鑑として作られ、安田善次郎を経て、菅原通済(1894-1981)が再編・軸装したものだという。私はパネルの説明を何度か読み直して、「手鑑」としての『ひぐらし帖』は存在しないことを理解した。展示室に掛けめぐらされた古筆切の軸の多くに「『ひぐらし帖』収載」のキャプションがついている。この展示空間そのものが、いわば『ひぐらし帖』なのだ。展示替えがあって、一度に全件を見ることができなかったのは、残念だがやむをえないところ。

 高野切第1種は『ひぐらし帖』収載分ではなく、別の「個人蔵」(としのうちにはるはきにけり) だった。第1種には、私の好みに合うものと合わないものがあるのだが、これは気に入った。石山切は、伊勢集2件、貫之集2件を見ることができたが、料紙のデザインがあまり派手でなく、筆跡の美しさを堪能できてありがたかった(特に貫之集、定信筆)。表具の魅力的なものが多かったので、図録に軸の全体像の写真が掲載されているのには感心した。私が特に好きだったのは『ひぐらし帖』収載の『香紙切』(大きな青い鳥)、個人蔵『紙撚切』の花と市松模様の裂もよかった。

 その後、茶の湯と古筆のセクションで、膳所焼美術館所蔵という茶道具がいくつか展示されていた。膳所焼の名前は知っていたが、美術館があるのは知らなかった。今度行ってみよう。

 ミュージアムショップで、格安のおみやげ、古筆のしおり(1枚90円)を購入。裏面は表具の写真が使われている。左が伊勢集、右が貫之集。なお、展覧会タイトル「うつくしきかな」が「仮名」に掛かっていることには、帰りのバスの中で気づいた。

細見美術館 『広がる屏風、語る絵巻』(2025年5月24日~8月3日)

 もう1か所行けそうだったので、石山→山科乗り換え(地下鉄)→東山経由で同館へ。空間に広げて鑑賞した屛風と、手許で展開して楽しんだ絵巻を紹介する。細見コレクションの『豊公吉野花見図屏風』と『祇園祭礼図屏風』は何度か見た記憶があった。個人蔵の『洛中洛外図屏風』は初見だろうか。近年確認されたものとあり、エンボス加工強めの金雲が目立つ。左隻は将軍参内の図で、直垂の従者たちが仲良く手をつないでいるように見えた。『観馬図屏風』は、右隻に11頭、左隻に10頭、さまざまな毛色の馬を描く。乗馬しているのは直垂姿の武士たち。白衣に黒烏帽子で馬の世話をしているのは、もっと下っ端の従者なのかな。

 がらりと雰囲気を変えて、鈴木其一『水辺家鴨図屏風』は、媚びない写実なのにひたすら可愛い。『撫子図屏風』も美しかった。和歌の歌枕である「常夏(とこなつ)」を思い出した。『源氏物語図屏風・総角』は岩佐又兵衛筆とされる。大勢の男たちを乗せた2艘の舟が宇治の八の宮の屋敷に向かっていく。吹き抜け屋台の手法で、屋敷の中から様子をうかがう女性たちの様子も描かれる。すれ違うのは柴を積んだ小舟。

 絵巻では『狭衣物語絵巻』に「藤」「山吹」という2件の断簡(軸装)が伝わっていることを知る。『硯破草紙絵巻』は室町幕府第11代将軍足利義澄が愛蔵していた作品だというが、荒唐無稽な筋立てで苦笑してしまった。

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2025年5月関西旅行:悠久なる雅楽(国立文楽劇場)

2025-06-06 22:39:23 | 行ったもの2(講演・公演)

国立文楽劇場 令和7年5月特別企画公演・第29回特別企画公演『悠久なる雅楽-天王寺楽所の楽統』(2025年5月31日、14:00~)

 先週末、関西旅行2日目の続き。土曜の午後は、奈良から大阪に移動して、雅楽公演を見た。開場してすぐ2階に上がると、ロビーに長い列ができていた。なんだろう?と思って「最後尾」の札を持っているお姉さんに聞いたら、ステージ見学の列だという。「申し込んでいないんですけど…」と躊躇していたら「どうぞ、どうぞ」と並ばせてくれた。しかし私から数人後ろのお客さんで「終了」になってしまったので、運がよかったというべきかもしれない。

 ステージ上には、朱塗の高欄で囲われた四角い舞台がしつらえてあり、舞台上には鞨鼓や鼓、琵琶や筝などの楽器が展示されていた。また舞台後方には、楽人・舞人の衣装も並んでいた(写真撮影は禁止)。見学者は下手に設置された階段でステージに上がり、ぐるりと一周して上手寄りの階段を下りる。見学の時間が済むと、階段は取り外され、幕が下りて、開演を待つ体制になった。

 開演の幕が上がると、上手寄りに登場したのは、天王寺楽所雅亮会の理事長・小野真龍さん。水色の袴に茶色の狩衣、烏帽子を被る。雅楽の歴史と特質について述べたあと、主要な楽器について、奏者を舞台に呼び入れて、実演とともに解説してくれた。篳篥は音域が狭いが、演奏の技術で微妙に音高を変えることができ、奏者の音感次第、という話が面白かった。龍笛は音域が広く、細かい旋律をつくるのに向いている。笙は息を吸っても吐いても音が出るので、ずっと鳴らし続けることができるのだそうだ。へえ~。

 琵琶(四弦)の演奏法は難しかった。譜面には第1弦とあっても、第1弦から第4弦までを連続して掻き鳴らしたりする。あとで合奏を聞いていると、琵琶と筝が組み合わさることで、初めてメロディらしきものが生まれるように思った。打楽器の太鼓と鉦鼓も同じである。

 お話が終わり、いったん下りた幕が上がると、舞台上に楽人たちが座っていた。第1部は管弦「平調音取(ひょうじょうのねとり)」「慶徳(けいとく)」「陪臚(ばいろ)」、催馬楽「更衣(ころもがえ)」。催馬楽は、楽器を持たない歌い手が数人で声を合わせて歌っているらしかった。

 休憩を挟んで第2部。「春庭花(しゅんていか)」は左方の四人舞。茶色っぽい地の蛮絵装束、巻纓緌(けんえいおいかけ)の冠に花を挿した、優雅な武官装束の舞人が、ゆったりと平和に舞い遊ぶ。

 続いて「蘇利古(そりこ)」、右方高麗楽。舞人は『千と千尋の神隠し』ですっかり有名になってしまった紙製の雑面(ぞうめん)を付ける。通常は四人舞だが、五人で舞う演出は天王寺楽所独特のものだという(実は、私は天王寺楽所=五人舞しか見たことがない)。ぴょこぴょこ跳ねるような動きが可愛かった。

 次に「還城楽(げんじょうらく)」。直前まで睡魔と戦っていたのだが、この演目には目が覚めた。プログラム冊子(参観者に無料配布)によれば「左方と右方の別種の二曲があるが、天王寺舞楽では一般にいう右方還城楽の構成を持つ舞のみを伝承し、聖霊会等では左方舞として扱われる」とのこと。衣装はオレンジ系だから左方である。パッチワークみたいな色使いの裲襠(りょうとう、エプロンみたいな貫頭衣)は黄色いフサフサで縁取られている。朱色の肌に金目の奇っ怪なお面と三角形に尖った頭巾で完全に人間の気配を消している。これは蛇を好んで食べる胡人の風体で、とぐろを巻いた蛇(耳がある!)を見つけると欣喜雀躍、最後は蛇を捕えて、意気揚々と引き上げていく。所作がユーモラスで、太鼓と鉦鼓を連続して打ち鳴らす、トン・カッカッというリズムの連続が気持ちよかった。

 いまYoutubeで「還城楽」の動画をいくつか見てみたのだが、やっぱり宮内庁楽部の公演だと、もう少し鷹揚な動きをしている。天王寺楽所の舞楽は動きが大きく、きびきびしていて庶民向きかもしれない。そしてプログラム冊子を確認したら、一人舞の「還城楽」を演じていたのは、はじめにお話をしてくれた理事長の小野真龍さんだったみたい。全く気付かなかった。

 最後は「長慶子(ちょうけいし)」の演奏で幕。初日に京博で見た『美のるつぼ』に続いて、日本の芸術・芸能が、実は「日本的でないもの」を脈々と伝えていることをこの日も実感した。

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2025年5月関西旅行:龍谷ミュージアム、京都文化博物館など

2025-06-04 22:37:41 | 行ったもの(美術館・見仏)

龍谷ミュージアム 春季企画展『大谷探検隊 吉川小一郎-探究と忍耐 その人間像に迫る-』(2025年4月19日~6月22日)

 関西旅行初日に訪ねた展覧会をあと2つ。明治時代後期、大谷探検隊の隊員として中国や中央アジアに赴いた吉川小一郎(よしかわ こいちろう、1885-1978)の人間像に迫る。大谷探検隊が将来し、龍谷大学図書館に入った西域の文物や古文書、吉川家が所蔵する写真帖や現地から送られた書簡などが展示されていた。加えて、吉川が16歳で、同い年の大谷尊重(光明。光瑞の弟)の「相談役」になったというのが、ちょっと庶民には窺い知ることのできない世界で、興味深かった。

京都文化博物館 特別展『和食〜日本の自然、人々の知恵〜』(2025年4月26日~7月6日)

 科博での開催を見逃していたので、巡回先の京都で見ることにした。ほとんどがレプリカとパネルによる展示だが、よくできたレプリカが多くて楽しかった。特に貴人や庶民の食膳の再現は、この展覧会のために製作したのかと思ったら、「足利将軍御膳再現模型」は同館の所蔵、「卑弥呼の食卓」は大阪府立弥生文化博物館から、「織田信長が徳川家康をもてなした本膳料理の再現模型」は御食国若狭おばま食文化館から、「明治天皇の午餐会料理の再現模型」は明治記念館から、という具合に全国から集めてきたようだ。素晴らしい! これで初日観光を終え、奈良に移動して宿泊。

奈良国立博物館 開館130年記念特別展『超国宝-祈りのかがやき-』(2025年4月19日~6月15日)

 2日目の土曜日は、前期に続いて2回目の『超国宝展』へ。8:30頃に行ったら、ピロティの屋根の下を少し外れるくらいの位置に並ぶことになった。9:30より5分ほど早く開館。まだ人の少ないうちに会場に入ることができたが、いきなり百済観音が待っているので、釘付けになって動くことができない。「天に向かって立ち上がる永遠の灯(ともしび)」という謳い文句が、さりげなく壁に書きつけられているのがいいなあ。大きな体に不釣り合いに小さな台座。真正面から見ると棒のようなシルエットに見えるのだが、ちょっと横にまわると、両脇に垂れた天衣が躍動感を醸し出す。前期は見逃していた8K映像を見て、宝冠の正面と左右の3箇所に青い宝玉が嵌め込まれているのに気づいた。

 展示替えで後期から登場したのは『華厳五十五所絵巻』。ほぼ全開だったのではないかと思う。図録には一部しか収録されていなくて残念!善財童子が訪ねる善知識、前半は世俗の人々だが、後半は菩薩らしい姿が続き、最後は見かけが童子と同じくらいの相手に出会って終わるように見えた。あれは普賢菩薩なのかな。詳しく知りたい。

 「釈迦を思う」には京都・清凉寺の釈迦如来立像と、かつてこの像を西大寺のために模刻させた叡尊の坐像がいらしていた。清凉寺の釈迦如来は透かし彫りの光背はなんだか洒落ている。続いて「華麗なる仏の世界」と題しながら、後期も『地獄草紙』とか『餓鬼草紙』とか容赦ないなあと思う中に『釈迦金棺出現図』があって万歳!孔雀の羽根を広げたようなゴージャスな光背のお釈迦様が大好きなのである。前期は最後の部屋にいらした宝菩提院の菩薩半跏像が、場所を移して引き続き展示されていたのもよかった。

 後期は、最後の「白い展示室」に中宮寺の菩薩半跏像(伝如意輪観音)が入った。これには賛否があるようだ。たまたまネットで流れてきた、奈良博名誉館員の西山厚さんの感想は「否」のほうだった。確かに背景は真っ白なので、菩薩像の黒さが濃縮されて、一瞬、命のない炭化した塊みたいに見えるのだ。しかし、ゆっくりまわりを回っていると、だんだん生命を取り戻すように感じた。童子のように細く小さな体で、精いっぱい踏ん張って祈り続けている姿に、そっと手を合わせた。7

 自分のためのお土産は、石上神宮の七支刀モチーフの手ぬぐい。夏場、明かり取り窓の窓枠に貼って、カーテン代わりにする予定。

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2025年5月関西旅行:帰ってきた泉屋博古館(リニューアル)

2025-06-03 22:24:41 | 行ったもの(美術館・見仏)

泉屋博古館 リニューアル記念名品展I『帰ってきた泉屋博古館 いにしえの至宝たち』(2025年4月26日~6月8日)

 関西旅行初日。京博のあとは、見たかった展覧会を順番に訪ねた。まずは1年の改修工事を経て再開した同館へ。建物へのアプローチがちょっときれいになった感じがした。玄関を入ると、新しいチケット売り場のカウンターができ、グッズ売り場が広くなるなど、細やかな改修が施されている。しかし基本構造は変わっていないのかな、と思いながら、企画展示室のある2号館に向かったら「←(左向きの矢印)」が表示されていて戸惑った。今まで企画展示室の入口は右手の奥だったのだ。

 左手に進むと、遮光性の高い黒い扉が開いて、初めて見る空間が現れた。なるほど、以前の展示室の突き当りに(狭いながらも)新しい展示室を設けたわけだ。冒頭には能面の『白色尉』と能装束(?)の白い狩衣。あとでリストを見たら泉屋博古館東京の所蔵品だった。ほかに中国の金銅仏、唐代の舎利容器、高麗仏画の『水月観音像』、木彫毘沙門天立像などは、同館で何度も見たことのある名品中の名品で、まさにお帰りなさい!と言いたくなる。展示ケースの前にふかふかのソファが設置されていたのも嬉しかった。

 隣りの、以前の企画展示室には、おなじみの大好きな絵画が勢ぞろい。右手の壁際に掛かっていたのは、華嵒『鵬挙図』、沈銓『雪中遊兎図』、伊藤若冲『海棠目白図』、椿椿山『玉堂富貴・遊蝶・藻魚図』3幅対など。中国絵画も日本絵画もどれもよい。覗き込むタイプの平置きケースには、石濤(石涛)の『黄山図巻』と『黄山八勝画冊』が出ていた。後者は瀑布の前に佇む白衣の人物が描かれており、岩の青が目に沁みて美しかった。ん?『廬山観瀑図』は出てないのか?と思ったら、左手の壁際ケースに掛かっていた。もっと大きな作品のイメージだったのに、記憶より小さな画幅で気づかなかったのだ。黄色と青を混ぜたような、中間色の岩肌が美しい。ああこれ、李白の『望廬山瀑布』の風景を写しているのか、と解説を読んで初めて気づいた。

 八大山人(朱耷)の『安晩帖』は、監視員席のそばの単立展示ケースに入っていて「叭々鳥図」が開いていた。拡張されたミュージアムショップでは青銅器のぬいぐるみを売っていたけれど、このふわふわ叭々鳥のぬいぐるみを作ってくれないかな。アクスタでもいいけど。あとは、鼻煙壺や文房具・印材などのきれいな小品を集めて、民藝館みたいな見せ方で展示したケースも面白かった。

 時間がないと飛ばしてしまう、1号館の青銅器展示室も、今回はひとまわりしてみた。写真撮影しているお客さん多し。虎卣(こゆう)を撮影していたお兄さんがあまりに熱心なので、私は近づくのをあきらめてしまった(また次の機会があるだろうからいいやと思って)。

 なお1号館には、眺めのよいガラス張りの休憩室がオープン。もとからあった空間をリニューアルオープンしたものだという。「饕餮の間」というセンスがいいのか悪いのかよく分からない(笑)名前がついており、緑茶やジャスミン茶の無料サーバーをありがたく思った。

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