「音楽&オーディオ」の小部屋

クラシック・オーディオ歴40年以上・・身の回りの出来事を織り交ぜて書き記したブログです。

バッハとモーツァルトの両立は「可能or不可能」?

2024年07月31日 | 音楽談義

月一回のペースでの受診時に、医師が「コロナが猛烈に流行っていますので気を付けた方がいいですよ」、「そうですか・・、以前と違って症状は大したことないんでしょう?」「いえいえ、そうでもないですよ・・、〇〇さんは持病があるので特に用心してくださいね」

昨日(30日)には、家内の友人からメールが来たそうで「コロナに罹りました。ようやく熱が下がりました。どうも運動ジムでもらったみたいです」とのこと。

人混みにはなるべく行かない、マスク、手洗い、うがいを忘れないようにお互いに気を付けましょうね。

閑話休題


指揮者にしろ、演奏家にしろ音楽に携わる人物の著作は非常に参考になることが多いので、図書館で見かけたら必ず借りてくることにしている。

                   

そういう中でも女性ヴァイオリニスト「千住真理子」(せんじゅ まりこ)さんは雰囲気が好きな演奏家の一人なので本書を興味深く読ませてもらった。

父が慶応大学名誉教授、母が教育評論家、長兄が日本画家、次兄が作曲家、ご本人は慶応大学哲学科卒というまるで絵に描いたようなエリート一家である。

血筋がいい人はそれだけで説得力がありそうな気がする(笑)。

本書は音楽や音響を主な題材にしたエッセイ集だったが、207頁に「バッハは自分を消さないと弾けない」との小見出しのもとに次のような記事があった。

「バッハは私の人生そのものであり、私の心の中にある聖書、神でもある。バッハは一生追い続けていくと思うのですが、バッハを弾くときというのは<お坊さんがミソギをする心境ってこんなかなと思う>そこまでいかないとバッハが弾けないと思っています。

それはどういうことかというと、<自分を表現しよう>と思ったら弾けなくなるのがバッハなのですね。<こう弾こう>と思ったら弾けなくなるし、<こういう音を出そう>と思ったら弾けない。つまり自分というものをいっさい消し去らないと、バッハは入れてくれない。バッハの世界に入れません。

要するに<無になる>ということなのですが、これは大変難しい。これこそなにかお坊さんの修行というのが必要なのかなと思ったりします。<無になったぞ>と思った瞬間は、なったぞと思ったことがもう違います。ふっと無になっていて、するとまた邪念が出てくるのですね。

<あ、次は、二楽章はこう弾こう>と思った瞬間にまた自分に戻ってしまう。<どうやって自分を捨てるか>というのがバッハとの闘いで、たぶん私は生涯バッハを弾くたびに、そうやって修行をしていくのだなと思います。それでも好きな曲がバッハですね。」

以上のとおりだが、「どうやって自分を捨てるか=無になる」というのは、文豪「夏目漱石」が理想とした境地「則天去私」(天に則り、私心を去る)に通じるものがあると思うし、自分の拙い「人生経験」を振り返ってみてもたいへん厳しいテーマだった。

たとえば、様々な人間関係をはじめとして、いろいろ思い当たる節が多いし、このブログの主題になっている「音楽&オーディオ」だってソックリ当てはまると思う。

だって、王様は音楽でありオーディオは召使いに過ぎないので、(音楽の前では)オーディオは存在感を消して「無」になってもらわないといけない。

言い換えると「スピーカーの存在を意識させない音」これが、オーディオのあるべき究極の姿だといつも思っているが、これが油断するとつい「出しゃばって」きて、いつのまにか主役に祭り上げてしまうのが我が家の大きな課題だ(笑)。

さて、何度も書くようだがこれまでいろんな作曲家の音楽を手広く聴いてきたものの、しっくりこないのがバッハの音楽である。嫌いじゃないんだけど進んで聴こうとは思わない。

「平均律クラヴィーア曲集」をはじめバッハの残した作品は、後続の作曲家達にとって常に教科書であり御手本だったという意味から「音楽の父」とも称されるバッハ。

バッハが自分のレパートリーに入ると音楽人生がもっと豊かになるのは確実なので、これまで世評高き「マタイ受難曲」をはじめ、「ロ短調ミサ」などに挑戦してみたが、その都度「お前は縁なき衆生(しゅじょう)だ!」とばかりに軽く場外へはじき出されてしまう(笑)。

「いきなり高い山を目指すのでなくて、手頃な山から始めたらどう」という「ありがたいアドバイス」を読者からいただいたこともある。

そういう自分に最後のチャンスが巡ってきた。同じ千住さんが書かれた新聞記事にこういうのが載っていた。                       

          

バッハの「シャコンヌ」の素晴らしさに言及しつつ、「4分半を過ぎたあたり、小さい音で音階を揺らしながら奏でるアルペジオの部分。涙の音が現れます。~中略~。

巨匠といわれる演奏家のCDをひととおり聴きましたが1967年に録音されたシェリングの演奏が別格です。完璧で心が入っていて、宇宙規模でもあり・・・。すべて表現できている。<神様>ですね。」

う~む、ヘンリク・シェリング恐るべし!

幸いなことに、シェリングが弾いた「シャコンヌ」を持ってるんですよねえ(笑)。
                  

もういつ頃聴いたのかはるか忘却の彼方にあるCDだが、バッハの音楽に溶け込める最後のチャンスとばかり、この程じっくり耳を傾けてみた。

「涙の音」が聴こえてくればしめたもので、ひとつのきっかけになってくれればありがたい。

だが、しかし・・・。

真剣になって耳を澄ましたものの、この名演からでさえも「涙の音」どころか、そのかけらさえも感じ取れなかった、無念!

やっぱりバッハは鬼門で、そもそもバッハとモーツァルトの両立は難しいのかもしれない・・、に思い至った。

バッハを愛好する人でオペラ「魔笛」が死ぬほど好きという方はこれまでお目にかかったこともないし聞いたこともない・・、つまりこれは理屈以前の問題として秘かに自分の胸に収めておきましょうかね~(笑)。



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