私たちが普段コミュニケーションの道具として何気なく使っている「声」。
声と同時に発せられる言葉については強く意識されるものの、トーンというか「声音」(こわね)についてはあまり注意を引くことがないように思うが今回はその「声」が持つ役割、真価について話題にしてみよう。
<「声」の秘密>(アン・カーブ著)という本がある。
「声は人間の社会で大きな役割を果たしているのに驚くほど顧みられていない。そのもどかしさが本書を書くきっかけとなった。言語やボディーランゲージについては詳しく調べられ、その重要性が高く評価されている。
一方、声は(少なくとも学問以外の世界では)なおざりにされ、称えられることはほとんどない。
声は文字にとって代わられ、画像にその地位を追われて<目が耳に勝った>といわれているがそれは間違い。
人は家庭や職場で、あるいは友人知人との交流において、”声を読む”という優れた能力を利用している。声を正しく理解するためには、鋭い感性を身につけなければならない。<深く聴く>ことが必要だ。」
といった内容だが、「声を読む」というのは実に”言いえて妙”でいろんな情報が声から得られるのは事実である。
自分の場合に例をとると、人と接するときに話の内容よりもむしろその人の表情とか声音でいろいろと判断していることが意外と多いことに気付く。
また、「オーディオ愛好家」の立場からすると目と耳との機能の違いにも凄く興味が湧く。いわば「視覚と聴覚」の対決だが、情報量において「目が耳に勝る」のは常識だけど、それを信じたくないほどの「耳擁護派」である(笑)。
たとえば、モーツァルトのオペラ「魔笛」を鑑賞するときにDVDで画像を観ながら聴くのとCDで音楽だけ聴くのとでは受ける感銘度が違う。
自分の場合、後者の方がいい。
その理由を端的にいえば第一に画像が目に入るとそちらに注意力がいってしまって”聴く”ことに集中できない。
第二に音楽を聴いて沸き起こるイマジネーションが、既に与えられた画像の枠内に留まってしまってそれ以上には拡がらない。
結局、現実の情報を得るには目が勝っているものの、豊富なイマジネーションとなると耳の方が勝っていると勝手に思っているのだが、これは聴覚をひたすら大切にするオーディオ愛好家の勝手な“身びいき”なのかもしれない。
ただし、養老孟司さん(解剖学者)の著書「耳で考える~脳は名曲を欲する~」には次のような箇所があって科学的な根拠が示されている。
「耳の三半規管は身体の運動に直接つながっているので退化せずに残っており、情動に強く影響する<大脳辺縁系>と密接なつながりを持っている。そしてこれと一番遠いのが<目>。だから、目で見て感動するよりも耳で聴いて感動する方が多い。」
そういえば、下世話な話だが「女性は耳で恋をする」といった話を実際に女性から聞いたことがある。
つまり、女性は男性の“見かけ”よりもむしろ“口説き文句”の方に弱いという意味だが、世間で「美女と野獣」の実例をときおり見かけるのも、おそらくこの類だろう。
もちろん「お金」の威力もあるかもしれないが・・。
「色男 金と力は 無かりけり」(笑)。
さて、本書「声の秘密」の第Ⅲ部に「声の温故知新」というのがある。以下、要約してみよう。
「百聞は一見にしかず」の諺どおり「見る道具」の発達により「現代は視覚文化」となっている感があるが、声の重要性は高まりこそすれ決して低下していない。
たとえば、今後「音声合成システム」の発達に伴い「声はいったい誰のものか」(288頁)という問題が確実に発生する。たとえば誰もが身近に使っている「カーナビ」の音声は合成だが結構うまくできているのはご存知のとおり。
というわけで、いずれ、実在する人物の声を合成できる時代が来るという。この技術が完成すれば「窃盗」など新種の犯罪が起きる可能性がある。現在も衰えを知らない「振り込め詐欺」などへの悪用は最たるものだろう。
さらに懐かしの映画スターに新しい台詞を言わせるのは造作もないことで、そうすると「声は一体誰のものだろうか?」というわけ。
これから、直接対面する以外の会話は「合言葉=パスワード」が要ったりするかも~(笑)。
遅かれ早かれ「声」の著作権について物議を醸す時代がやってくるそうですよ。
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