図書館の「新刊コーナー」でたまたま目に入った本がこれ。
作家の「井上 靖」氏、「司馬遼太郎」氏、「松本清張」氏のお歴々の「鼎(てい)談」とくれば見逃す手はない。
ちなみに、「対談」とは二人で向かい合って話す、「鼎談」は「鼎(かなえ)」(支えが3本足)からきた言葉で3人で向かい合って話すことを意味する。
三名ともいずれも「故人」なので、過去の「鼎談」や「対談」を寄り集めて発行した本である。
興味深く読ませてもらったが、長年の疑問が一点だけようやく氷解したので、それに絞って記録しておこう。
その疑問とはこうである。
「血で血を洗うほどの凄まじい戦国時代の猛将たちが、なぜあれほど茶の湯に没頭したのか」
な~に、取るに足りない「ささやかな疑問」だが(笑)、これに関して以下の通り引用してみよう。
井上「大体において戦国の武将はみんな字がうまいですね。家康や秀吉に限らず戦国の歴史に名を出している連中は、だいたい立派な字を書いてますね」
松本「やっぱり教養の一つでしょうね。だから各国の禅僧を手元に置いたりして、信玄なんか五山文学をささえて、それから山口の大内ね、幸い応仁の乱で禅僧たちは京都で食えないから、地方大名に保護を求めて行った。」
井上「それからお茶ですね。茶道具というものをそれぞれ大切にしているけれども面白いことですね。僕など凡人は乱世になったら、そんな余裕はないな、まず勝たなければならないと思うんだけれども。」
司馬「そういう意味で言えば文化というか、そういうものへの憧れは我々の想像以上に強かったようです。」
井上「強いですね。今の時代は茶がなくとも生きられますけれども、あの頃は生きられなかったと思います。ほんとにあの頃は茶というものが、彼らの持っていた死生観の中に生きていたと思います。それほど凄まじい時代だったでしょう」
司馬「それを非常に殺風景に解釈すると、茶や茶室というものは非常に利用価値があった。たとえば松本清張先生と私が話をするときは松本先生が上段の間に座って、室町時代の作法だと私のような若輩ははるか下へ座って、顔を上げちゃいけないんです。
ですから将軍が「これからお前と協力して信濃国を盗ろうと思うがお前はこうしろ」とディテールを話そうとしても、数十歩を隔ててですから、できない。それは室町の小笠原流ですね。
それで対面の式が終わったあとで、茶室へ行こうというので行くと、松本清張将軍は亭主に過ぎない。それから私は客に過ぎないでしょう。そうすると、亭主と客というだけの無階級の場で、一尺隔ててのことですから、非常にディテールを話すことができる。
つまり、お茶というものが政治工作にどれだけ大きな役割を果たしたか、想像を絶するほどですね」
とまあ、以上の通りで「茶の湯」にそういう側面的な役割があったなんてまったく「目からうろこ」だった。
「茶席での内密の話」を知り過ぎた茶人「利休」が危険視されて切腹を命じられたのもわかるような気がしてくる。
それにしても戦国時代の「茶席」の意義は現代における「ゴルフ」に通じるような気がしてならない。
大事な商談をはじめ組織での重要なポイントなどが公式の場を離れて私的なゴルフのときの身近な会話を通じて決められていく・・。
たとえば・・、「あいつは付き合いが悪くて何を考えているか分からん、そのうち閑職に回そうと考えているんだ・・」
で、ゴルフをしない人は自然と出世競争から脱落・・。
あ~あ、「音楽&オーディオ」に割く時間を「ゴルフ」に充てていたらもっと出世したかも・・、もはや「時すでに遅し」「後悔先に立たず」だな~(笑)。
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