南スコットランド在住のウマさんから「ミーハー交遊録」のお便りがあり、ありがたくこのブログに投稿させていただいたところ、「庇(ひさし)を貸して母屋を取られる」のではないかと心配するほどの大好評でした。
いささか微妙な気持ちのもと「~その2~」といきましょう(笑)。
それでは、永島敏行さん…
かなり以前のこと…
大阪は平野区のレストランで、俳優の永島敏行君と二人でワインをしこたま呑んだのはとても楽しい想い出ですね。
フレンチレストラン「ゴルドナーヒルシュ(金の鹿)」のオーナー木下順子(よりこ)さんは、ある酒の会で意気投合(いきとうごう)して親しくなった方。
ある夜、順子さんから電話があり、今すぐ店に来て欲しい
「今、俳優の永島敏行さんが来てる。ウマさん、ちょっと相手してくれない」
誰やソレ? あまり気乗りしなかった僕に「あとで加賀まりこさんも来るから」と順子さんがいう。エッ!よっしゃよっしゃすぐ行く!今すぐ行く!
あかん、やっぱりミーハーやボク。で、自転車で駆けつけた。
その日、永島敏行は、「飛天(ひてん)(旧コマ劇)」での千秋楽(せんしゅうらく)の舞台がマチネーで跳(は)ね、舞台関係者との打上げのあと平野に来たらしい。
順子さんの友人が出演俳優の何人かをよく御存知だそうで、加賀まりこさん始め他の共演俳優たちも、あとでこの平野の店で合流するという。
で、皆さんが来られるまで、僕に、一人で先にやってきた永島敏行君のお相手をしてほしいんやなと解釈した。ウーム、やっぱりどっかで見た顔や。
いや、感心しましたねこの人、順子さんが 「こちらウマさんです」と紹介すると同時にさっと立ち上がり(がっちり背が高い 182cm!)「永島です。どうぞよろしく」と軍人みたいに60度のお辞儀(じぎ)をしたあと、ニッコリ大きな手を差し出すんや。いやあ礼儀正しいなあ、その強い握手(あくしゅ)にたちまち好感を持った。
そして二人がけテーブルの彼の向かい側に座ると、なんと彼、すかさず厨房(ちゅうぼう)に行き、僕のためにワイングラスを持ってきた。
ウェイトレスがいるのにですよ。あと片づけに忙しい彼女たちへの気遣(きづか)いだったんじゃないかな。
僕は基本的に、あるいは個人的に、芸能人はあまり好きじゃない。でも、こういう気遣(きづか)いをする人っていいよね。
で、永島君、僕に丁寧(ていねい)にワインを注いでくれるのはエエんやけど、なんの話をしたらエエんか迷っちゃった。
で、「飛天(ひてん)」ではどんなお芝居だったんですか?と話を向けた。話を聞いてるうちに、彼、永島敏行のことをだんだん思い出してきた。
僕は、週刊誌や新聞の書評・映画評はたいがい目を通す。特に佐藤忠男の映画評には常に注目していた。その佐藤忠男が、たしか永島敏行主演の「サード」っちゅう映画のことを書いてた筈や。それを思い出したんや。僕は、音楽や映画のこととなると、もう、めちゃ記憶力がエエんだよね。
ひょっとして「サード」っちゅう映画に出てはったんとちゃいます?
「ええそうです。二回目の映画出演でした…」
僕、その映画は観てないんですけど、監督はたしか、桃井かおりさん主演の「もう頬杖(ほおづえ)はつかない」の東監督だったですよね…
僕は、映画はある面で、プロデューサーや監督で観るものだと思っている。
「そうなんです。ウマさんよく御存知ですね」というあたりから、だんだん話が弾(はず)んできた。監督、脚本家、カメラマン、映画音楽などに僕があまりにも詳しいもんだから、永島くん嬉しくなったんでしょうね。顔がそう云ってる。
NHK大河ドラマを書いたこともある大物脚本家・金子成人(なりと)の話しになった。永島くんも彼のシナリオはとても好きだという。
で、前述の中井貴恵さんの項にも出てきた僕の友人舟橋君、当時、フジテレビの小川ひろしショーのアシスタントディレクターのバイトをしていた彼が、中央線、荻窪(おぎくぼ)の金子さんの小さなマンションへ僕を連れて行ってくれた時の話をした。
その頃、まだまだ駆け出しのシナリオライターだった金子さん宅には書斎がなかった。もちろんワープロなどない時代ですよ。
で、金子さん、キッチンテーブルで僕がビールをいただいている目の前で原稿用紙に向かってましたね。それで二三枚書き上げると「ちょっとNHKまで行ってきます」…下駄(げた)はいて裸の原稿用紙を手にヒラヒラ持って…
今は脚本家として押しも押されもしない大家の金子さんの、まだまだ駆(か)け出し時代の話に、永島くんは興味津々(きょうみしんしん)、耳を傾けてくれた。
「へえー、下駄(げた)はいてNHKですか…」
それから、監督、脚本、カメラ、音楽、そして俳優…、すべてが完璧だと僕が思っているフランス・イタリア合作映画、永島君も観(み)たという 「太陽がいっぱい」の話になった。
脚本・監督は、「禁じられた遊び」のルネ・クレマン、音楽はニーノ・ロータ、そして、なんと言っても素晴らしいアンリ・デュカエのカメラワークなどを熱っぽく語る僕に、永島くんもすっかり打(う)ち解(と)け、身を乗り出してウンウンと頷(うなず)きながら僕のグラスにワインをどんどん注ぎ、自分もどんどん呑んだ。もう、永島くん、…このおっさん、よう知っとんなあ…ってな顔つきだったですよ。
アラン・ドロンがね、ナポリの魚市場をブラブラするシーン、ストーリーとはまったく関係のないすごく穏(おだ)やかなシーンなのに、マリンバを用いたニーノ・ロータの音楽がこの映画で一番緊張感溢(きんちょうかんあふ)れる音楽になってる。
画面のイメージと全然異なる音楽…このシーン、結末を暗示しているようで僕は忘れられないんだよね。ルネ・クレマンの演出に舌を巻いたのがこのシーンなんですよ。
永島くん 「そのシーン、ぜひ観なおしてみます」
ラストオーダーがとっくに終わってるのに、シェフが気(き)を利(き)かして、ワインに会う前菜風(ぜんさいふう)の色とりどりの肴(さかな)を、きれいな漆(うるし)のボードにたくさん盛り付けてくれた。コレ、めちゃ豪華なアテ(肴(さかな))やないか! と目を瞠(みは)っている僕に 「ウマさん、どれがいいですか?」と永島くん、自分のお箸(はし)で僕のお皿にたくさん取り分けてくれた。
ぜんぜんわざとらしくなく、ごく自然にそういう気遣(きづか)いをする…いいよね、こういう人…。ウマさん、めちゃ気に入った。
すっかり打(う)ち解(と)け、和気あいあいとお互いにワインを注(つ)ぎあい、映画の話で随分盛り上っていた時、彼が意外なことを云ったんでびっくりした。
「ウマさん、畑仕事をしたことありますか?」 なんとこの俳優さん、秋田に畑を借り、時々野良仕事に行くと云うんや。さらに稲も地元の方たちと植え、秋には収穫の手伝いにも行くという。
「土や野菜に触れてると気持ちがとても落ち着くんですよ。僕にとって畑で過ごす時間が最高なんですよね。ウマさんもどうですか?」
驚いた。野良仕事が最高やなんて云う俳優さんがいたんだね。
「将来は、農業をやろうかなって思ってるんですよ」
ほんまかいな? なんちゅう俳優や!
後年、僕がアラントンで野菜作りに精を出すことになるとは、その時はもちろん想像も出来なかった。だけどね、今、彼、永島くんの気持ち、もう、すんご~くわかりますよ。
畑にいるとね、どうしても自然と対話することになるんや…そして人間が謙虚になるんやね。畑仕事…こんな素晴らしいものはない。アラントンの野菜は完全無農薬、めちゃ美味しい! で、今となっては、永島君に是非ともウマが栽培したアラントンの野菜を食べてもらいたいよなあ。
順子さんが、ポラロイドカメラで写真を撮ってくれるという。
いやあボク…、有名人と一緒に写真に納まってニコニコするほどミーハーじゃないから写真は遠慮しときますよ、ハッハッハッ…で、でも、や、やっぱり撮ってくれる? 僕の右側に立った永島くん、なんと手を差し出して僕に握手(あくしゅ)をするじゃない。
…で、ニコニコと握手をするウマと永島くんの写真がすぐ出来た。さらに順子さん 「ウマさん、写真にサインしてもらったら?」
いやあボク、有名人にサインしてもらって嬉しがるなんて、もうとっくに卒業しましたよ…、ハッハッハッ…で、でも、や、やっぱり、サインしてください…ここで、ちょっと驚いた…
〈ウマさんへ〉や〈日付〉を書くのはまあ分かる。ところが彼、写真の一番下に〈ウマさんへ、会えてよかった。永島敏行〉と、実に丁寧(ていねい)に書いてくれたんや。いやあ嬉しくなりましたねえ。
永島敏行…素敵な人や。有名人なのに、偉ぶることのない、実直・素朴な人に間違いないとウマは判断した。
「ウマさん今日はありがとう。ぜひまた会いましょう」再会を約束した永島くんのお蔭で、その夜のワインはずいぶん美味(おい)しいものとなった。彼と二人で、かなり高級なワインを三本以上空けたんとちゃうか。
さらに順子さんが、ウマさん、きょうはお勘定(かんじょう)はええのよ、と言ったので、よけい美味しかったなあ (もっと呑んだらよかった)。
ところで、加賀まりこさん、まーだぁー?
五木寛之さん…
旧友で、呑み仲間でもある日本唯一のファド歌手・月田秀子と、作家・五木寛之さんのジョイントコンサートが、東京、名古屋、大阪で催されたのは2003年の12月はじめのことだった。
五木さんとジョイントコンサートをしたら?と月田秀子に薦(すす)めたのは、実は、彼女のコンサートを何度も企画してきた僕、ウマなんです。
五木さんが語り詩を朗読し、その合い間に月田秀子が歌う…という構成のステージ…。その夜、大阪サンケイホールは満員だった。
僕は、あらかじめ、電話で月田秀子に言われていた。
「ウマちゃん(彼女は僕をちゃんづけで呼ぶ)、コンサートが終わったら打ち上げがあるから4階の楽屋に来てね、五木さんを紹介するから…」
素晴らしいコンサートだった。やっぱり人気作家や。自分では、九州訛(なま)りで口下手(くちべた)だと謙遜(けんそん)しておられるけど、話のだんどりと言うか、お喋(しゃべ)りのその構成が緻密(ちみつ)なんだよね。
決して饒舌(じょうぜつ)じゃない、どちらかと云えば、訥々(とつとつ)とした語り口なんだけど、ツボを得た、しかもユーモアを忘れないそのおしゃべりがとてもいい。引出(ひきだ)しの中に様々な話題を、もう豊富に持っていらっしゃるんやろなあ。
兵庫県加古川市の、五木さんの親戚の中学一年の女の子が電車で痴漢(ちかん)に会ったという。
「彼女が痴漢に敬語を使うんですよ。わたしのオッパイ触(さわ)りはるねん…」サンケイホール、大爆笑でしたね。
で、コンサートが盛況裏(せいきょうり)に終わり僕は四階の打上げ会場へ行った。
長テーブルが三つほど並べられた立食パーティー。ところが、たった一人だけポツンと椅子に座っておられたのが五木さん。あまりにも大物過ぎて皆さん敬遠してるんやろか。
月田秀子は向こうで取り巻きに囲まれている。五木さんはかなりお疲れの様子です。ウーム、どうしたものかなとウマが思案していると、月田が取り巻きの輪から離れて僕のところへ駆(か)けて来た。そして、サッと僕の腕を掴(つか)んで五木さんのところへ連れて行き
「五木さん、こちら私の後援会会報に連載コラムを書いてくれてるウマちゃんです」と紹介した。とてもお疲れの様子の五木さんだったけど、わざわざ立ち上がって僕に挨拶されたのには恐縮した。で、三人でしばらく話をしたんだけど、僕が、月田秀子に、どうして五木さんと知り合ったの?と訊(き)くと、彼女、呆(あき)れた顔して
「ウマちゃん、あなた何を云ってるの? 私がファーストアルバムを出した時、あなたが、五木寛之さんに送ってみたらって云ったの憶(おぼ)えてないの?」 それを受けて五木さんがおっしゃった。
「送られてきたCDには驚きましたね。当時、日本にファド歌手がいるとはまったく思ってなかったですから」
ここで、月田秀子との出会いを振り返る…
もう30年ぐらい前になるかなあ。ある酒の会で共通の友人から紹介された。
「ファドを唄ってます」という彼女に、ああ、ファドって云うとアマリア・ロドリゲスですよねと応(こた)えた僕に、彼女はとても驚いていた。
当時、ファドを知る人なんて日本ではほとんどいなかったんじゃないかな。でも僕は知っていた。さらに五木寛之さんの初期のエッセイ集「風に吹かれて」の中で、五木さんが、ファドの女王、ポルトガルの国民的英雄アマリア・ロドリゲスのことを書いておられたのも憶(おぼ)えてたんです。
そんなわけで、月田秀子のファーストアルバムを五木寛之さんに送るように薦(すす)めたんだと思う。そして月田秀子の熱心なファンとなった五木さんは、TBSラジオの自分の番組に、時おり彼女をゲストで呼ぶようになったのね。
さらに、彼は、連載している日刊ゲンダイのコラムに、ちょくちょく月田のことを書いてくれた。ま、そんなきっかけをつくったのが、つまり、ウマだったというわけ。
そのあと、五木さんと二人だけで30分ほど、いろいろとお話しした。
スコットランドへは行かれたことありますか?との僕の問いに
「五回行きました。いつも車で移動するんですけど、もう、うんざりするほどきれいなところですね。そして、ウォルター・スコットやロバート・バーンズなど、作家や詩人の銅像があちこちにある国っていいですね。僕は毎回、グレンイーグルとターンベリーでのゴルフが楽しみなんですよ」とおっしゃる。でも五木さんとゴルフってちょっとイメージが合わないんだけど…
彼との会話中、彼が僕のことをずっと「内間さん」と呼んでいたのが印象深い。月田秀子をはじめ、まわりにいた誰もが僕のことをウマ、あるいはウマさんウマちゃんと呼んでいたにもかかわらずです。そういう礼儀が、彼の矜持(きょうじ)なんでしょうか。
こんな方って、上から目線じゃないんだよね。
続く