スコットランドほろ酔い通信・ウマ便り
「木野雅之」
もう三十年近く前のこと…
大阪阿倍野斎場近くの地酒の店、八人で満席の小さなその店に入ると、馴染みの常連、ピアニストの吉山輝がいた。彼には連れがいた。初めて見る顔だった。
「ウマさん、こちら木野、さっき東京から来たばかり。酒が好きなんで、この店に連れて来たんです」
「やあウマさん、木野です。初めまして。吉山からウマさんのことは聞いてますよ」すごくにこやかなその挨拶に、たちまち好感を持った。
陽気な酒好きが三人揃うと楽しいね。まあ、ワイワイと随分お酒が進んだ。
かなり盛り上がってきた時、ふと、木野の後ろにヴァイオリンケースらしき物があるのに気が付いた。
「木野さん、おたく、ひょっとしてヴァイオリン弾くの?」
「ええ、弾きますよ」
「じゃあ、ちょっと弾いてよ」
「ええ、いいですよ」
この時点で僕は、彼がヴァイオリニストどころか、なんと、日本フィルハーモニー交響楽団のコンサートマスターだとは知らなかった。
これほどの演奏家が、呑み屋で「ちょっと弾いてよ」なんて言われたら気分を悪くするのが普通じゃないか? ところが彼は「いいですよ」とニコニコしている。
近くに、最近、三角屋根の一戸建てのフレンチレストランがオープンし、その店にグランドピアノがあるのを思い出した。
「ねえ、吉山と木野さん、近くにグランドピアノがあるレストランが出来たんやけど、そこへ行こうよ。ちょっと電話してみる…」
で、電話したけど、オーナーの順子さんは
「ウマさん、悪いけど、もうラストオーダーが終わって、お酒しかないわよ」
「お酒しかないって!」
「よっしゃ、行こ行こ!」
タクシーを飛ばして、そのレストラン「ゴルドナー・ヒルシュ」へ行った。お客さんは誰もいない。
「順子さん、この二人ミュージシャンやねん。ちょっとピアノを貸して」
やや、迷惑そうな順子さんだったけど
「開店以来、このピアノを弾いた人はいないわよ」と、真新しいピアノの蓋を開けてくれた。
吉山も木野さんもかなり飲んでたんで大丈夫かいな?と思ったけど、演奏が始まった途端、もうびっくり! えげつないブラームスが始まったんや。
順子さんも「この人たち何?」と目を丸くしている。あと片付けに忙しくしていたウェイターやウェイトレス、それにシェフやコックたちもフロアに出てきて驚きの表情を見せている。その時、木野さんが弾いていたヴァイオリンは、名手ズッカーマンが愛用していた時価七千万円の名器だとは、かなりあとで知った。
ま、これが、僕と木野雅之との出逢いだったけど、今、思うに、とてもいい出逢いだったと思う。その後、僕のファミリーがスコットランドに移住し、続いて僕も移住したけど、木野が毎年のようにスコットランドにやって来てコンサートで弾いてくれるようになるとは、その時は想像もしなかった…
彼が現在使用しているヴァイオリンは、二十世紀の巨匠で木野の師匠でもあったルッジェーロ・リッチから譲り受けた1776年クレモナ生まれのロレンツォ・ストリオーニ。約一億円はするんじゃないかなあ。
木野はアラントンに来ると、すぐ、短パンにアロハシャツ、ビーチサンダルの格好でキッチンに来て、僕、キャロラインと、熊本の芋焼酎を呑むのが習わしになっている。そして「木野さん弾いてよ」「ああいいよ」…で、キッチンテーブルで演奏が始まるんです。僕らにしたらとても贅沢なひと時だよね。
ある時、いつもよりニコニコしてキッチンに来た。
「前から欲しかった弓がやっと手に入ったんだ」フランス製の弓だと言う。
「楽器屋さんがディスカウントすると言うんで買ったんだ」
「で、いくらしたの?」「千二百万円」エーッ?!
彼は、ロンドンのギルドホールでヴァイオリンの研鑽に励み、卒業直後に国際コンクールで優勝するなど何度も賞に輝いた。そして順調にヴァイオリニストの道を歩み、日本フィルのコンサートマスターを経てソロコンサートマスターに就任し、現在に至っている。ヨーロッパはもちろん、世界各地にお弟子さんがいる。
彼は、東京の二子玉川とロンドンに住まいがある。時には、東京からヒースローに着いたあと、ロンドンの自宅には寄らずにスコットランドに来てくれることもあった。
築三百年近いというそのロンドンのアパートのリビングの真ん中には譜面立てがあった。やっぱり音楽家や。リビングのど真ん中に譜面立てなんてすごいなあ。やっぱり日頃から猛練習をしてるんや。で、その譜面立てにあるのは何の楽譜か興味を持ったんやけど、その譜面を見た長女のくれあが言う…
「おとーちゃん、あれ、譜面とちゃうで」
どれどれと見てみると、なんと「週刊ベースボール」や。
彼、木野が大の野球狂で阪神タイガースの熱烈なファンだと知った。彼は、のちに、タイガースの応援歌「六甲おろし」をレコーディングしている。
2008年夏、彼がスコットランドに来る機会を捉えて「グローバル・ピースコンサート」と銘打ったコンサートを催した。これがとても好評だったので、翌年に第二回グローバル・ピースコンサートを、地元ダンフリース市最大の会場で、木野はもちろん、多彩な一流ミュージシャンを招いて催した。
3時間に及ぶこの大コンサートは新聞にも大きく取り上げられ、こちらで木野のファンが増えるきっかけとなった。その後、彼は毎年のようにお弟子さんを連れてスコットランドにくるようになったが、スコットランド各地でのコンサートの収益金は、ことごとく被災地に送られている。これは彼の、無私の精神、そして利他的精神の賜物だと思っている。
木野雅之は、百枚以上のアルバムをリリースしてるけど、彼の「ヴァイオリン名曲集II」と「ブラームス、ヴァイオリンソナタ集」の二枚は僕が解説文を書いた。どちらも12ページに及ぶ長〜い文章だけど、まあ読んでみて。笑っちゃうよ。
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