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「音楽&オーディオ」の小部屋

クラシック・オーディオ歴40年以上・・身の回りの出来事を織り交ぜて書き記したブログです。

音楽こぼれ話

2017年01月16日 | 復刻シリーズ

今年(2017)から「月曜日」に限って、過去記事の中で今でもアクセスが絶えないものをピックアップしてお届けしているが、いわば「プレミアム セレクション」とし、カテゴリーは「復刻シリ~ズ」に分類している。

今回は5年半ほど前に投稿したタイトル「音楽こぼれ話」である。それでは以下のとおり。

たまには肩の凝らない話ということで音楽家についてのエピソードや笑い話をいくつか紹介。

いずれも実話で、たわいない話のかげにも芸術家のちょっとした人間性が伺われるところが面白い。
 

「休止符のおしゃべり」(渡辺 護著、音楽の友社刊)  
             
                   

 
ドイツの大ピアニストであるウィルヘルム・バックハウスが中米のある町で演奏したときのこと、客席に一人の女性が幼児を連れて座っていたが、その子が笑ったり、ガタガタ音を立てたりしてうるさくてしようがない。

バックハウスはマネジャーを通じてその夫人に立ち去るよう要請した。彼女は立ち去り際に、憤慨した様子で聞こえよがしにこう言った

「ふん、一人前のピアニストとはいえないね。私の妹なんかは、この子がそばでどんなに騒いでいても、ちゃんとピアノが弾けるんだよ!」

 名指揮者カール・ベームは友人とチレア作曲のオペラ「アドリアーナ・ルクヴルール」を見に行った。しかし、ベームはどうしてもこのオペラにあまり感心できない。

見ると客席の二列前にひとりの老人が気持ち良さそうに眠っていた。ベームは連れの友人に言った。

「あれを見たまえ、このオペラに対する最も妥当な鑑賞法はあれだね!」

「しっ!」友人は驚いて、ベームにささやいた。「あの老人はほかならぬ作曲者のチレアなんだよ!」

 
1956年6月、ウィーン国立歌劇場で「トリスタンとイゾルデ」がカラヤン指揮で上演された。

その総練習のとき、イゾルデ役を演じるビルギット・ニルソンのつけていた真珠の首飾りの糸が切れて、真珠が舞台上にばらまかれてしまった。

みんながそれを拾いはじめたが、カラヤンもまた手助けして数個を拾いあげた。

「これは素晴らしい真珠ですね。きっとスカラ座出演の報酬でお求めになったのでしょう」と、当時ウィーン国立歌劇場総監督の地位にあったカラヤンが皮肉を言った。

ニルソンも負けてはいない。
「いいえ、これはイミテーションです。ウィーン国立歌劇場の報酬で買ったものです。」

 「あいつがぼくよりギャラが高いのは、いったいどういう訳なんだ!」音楽家の間でのこういう”やっかみ”
はよく聞かれること。

作曲家ピエトロ・マスカーニはあるとき、ミラノのスカラ座から客演指揮を依頼された。

「喜んでやりましょう」、彼は答える、「ただその報酬の額についてだが、トスカニーニより1リラだけ高い額を支払ってくださることを条件とします。」

スカラ座のマネジメントはこれを承知した。マスカーニの指揮が成功のうちに終わったあとスカラ座の総監督は彼にうやうやしく金一封を捧げた。

マスカ-ニがそれを開けてみると、ただ1リラの金額の小切手が入っているばかり。「これは何だね?」、総監督は”
ずるそう”に笑って答えた。

「マエストロ(トスカニーニ)がスカラ座で振って下さるときは、決して報酬をお受け取りにならないのです。」

☆ 新米の指揮者がオーケストラから尊敬を得るようにするにはたいへんな努力が要る。ある若い指揮者は自分の音感の鋭さで楽団員を驚かせてやろうと一計を案じた。

第三トロンボーンのパート譜のある音符の前に、ひそかにシャープ(♯)を書き入れておいた。

そして、総練習のとき強烈なフォルティッシモの全合奏のあと、彼は演奏を止めさせ、楽団員に向かって丁寧に言った。

「中断して申し訳ないが・・・、第三トロンボーン、あなたはDから八小節目で嬰ハ音を吹きましたね。これはもちろんハ音でなければならないのです。」

そのトロンボーン奏者はこう返した。

「私は嬰ハ音を吹きませんでしたよ。どこかの馬鹿野郎がハの音符の前にシャープを書き入れたんですが、私はそうは吹きませんでした。だってこの曲を私は暗譜しているんですから」 


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イヌの顔は飼い主に似る、って本当?

2017年01月09日 | 復刻シリーズ

今朝(9日)、パソコンを開いて昨日のアクセス記事を見ていたら4年前の過去記事「イヌの顔は飼い主に似る、って本当?」が上位に入っていた。

そういえば、こういう記事を書いたことがあるなあと懐かしい思いがした。明日は新しい記事を載せるので1日限りの「復刻版」として再度掲載させてもらおう(笑)。

「科学おもしろ雑学」
という本を読んでいたら、興味のある話題が載っていた。

                        

「イヌの顔は飼い主に似る、って本当?」(168頁)というテーマである。そっくり引用させてもらうと、

「よくイヌの顔は飼い主に似るといわれますが、これって本当でしょうか。どうやら・・・・・本当らしいですよ。なんと、研究した人たちがいるのです。調べたのは関西学院大の動物心理学者・中島定彦教授らのグループです。

教授らはまず、40人のイヌの飼い主を集めました。そして、それぞれの飼い主と飼いイヌの写真を撮りました。(「人」と「イヌ」の写真が40枚づつできる)。

その写真を使って「人」とイヌ」のセットをつくり、186人の学生に見てもらいました。このときにセットは2種類用意しました。

 「飼い主と飼いイヌの正しい組み合わせ」の写真セット

 「他の人の飼いイヌとの間違った組み合わせ」の写真セット

そうして、学生に「正しい組み合わせだと思う写真セット」を選んでもらいました。

すると、結果はどうなったか。なんと62%の学生が正しい写真セットのほうを選んだのです。理由は「飼い主と飼いイヌが似ているような気がしたから」ということです。

やはり飼いイヌは飼い主に似ているようなのです。なぜでしょうか?

中島教授によれば、”人は自分の見慣れたものに好感を持つため、いつも鏡で見慣れている自分の顔に似た犬を選ぶのではないか、”ということです。(さらに、長髪の女性はたれ耳のイヌを飼うことが多く、短髪の女性は立ち耳のイヌを飼うことが多いのが分かりました。)。

イヌを飼っている知り合いがいたら、飼い主の顔とイヌの顔が似ているかどうか比べてみてください」

これを読んで、つい「似た者夫婦」という言葉を連想してしまったが(笑)、今回の場合は
一緒に寝起きを共にしていると自然に似てくるというわけではなくて、最初から似た者同士がくっついたというわけである。

ところで、視覚と聴覚の差はあろうが、「人は自分の見慣れたものに好感を持つ」 → 「人は自分の聴き慣れた音に好感を持つ」ことも当然ありそうである。

そう、オーディオの世界である。

マニアの家を訪問して、ご自慢の音を聴かせてもらうとき、いくら「いい音」がしていても聴き慣れていないため知らず知らず拒絶反応を起こしてしまう可能性は大いにありそうだ。したがって、しょっちゅう聴いていただく人は別にして、滅多に来ない人に音を聴いてもらうのは最初からハンディを背負っているようなものである。

そういうわけで、たまにしか来ない人から試聴してもらった後に「お褒めの言葉」にあずかろうなんて、虫のいいことはあまり期待しない方が無難だ(笑)。

また、これまでの経験上、改めてオーディオの音は持ち主の性格と類似していることに気づかされる。

神経が図太くて豪快な気質の方からは、腰の据わったピラミッド型の骨太くて堂々とした音が出てくるし、繊細で神経質なタイプからは楽器の音色や位置とかの分解能を優先した、どちらかといえば線の細い音が聴こえてくる。そして、人当たりのいい円満な性格の方からは過不足のないバランスのとれた音がする。

「音は人なり」!


かくいう「我が家の音」は、はたしてどうなんだろう?(笑)
   


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胃もたれ

2015年10月04日 | 復刻シリーズ

昨日(3日)の早朝、恒例の朝の準備体操を終えてパソコンを開きブログの過去記事ランキングをチェックしたところ「胃もたれ」と題したおよそ5年前の記事がいきなり上位にランクされていた。

その理由がサッパリ分からないが、かなりのヒット数なのでどこかに共感を呼ぶものがあったのだろう。憶測だが、夏の無理がたたって、今ごろになって「胃もたれ」の方が多くなったのかもしれない(笑)。


それはともかく、これまで通算すると、1400件ほどの記事を掲載してきており内容の方はすっかり忘却の彼方なので再読してみると、現在でも通用する中身みたいなので再掲してみよう。

先日の記事「AXIOM80愛好家の集い~第5回~」(2015.9.29)での積み残しの話題があることは十分承知だが、現在鋭意作成中なのでしばしお待ちを~(笑)。

それでは「胃もたれ」について。

このブログを開設しておよそ3年半になるが、段々コツが分かってきてなるべく記事の話題を片寄らないように、そして同じ話が
連続しないように分散して投稿するようにしている。

これまでの記事のアクセス結果から推し測ると一番評判が悪いのが「オーディオ関連」の記事。

やや専門的すぎて敬遠されているみたいで、娘に言わせると専門用語が沢山出てきて「何のことかサッパリ分からない」し、”ウーファー”と言いながら一人で笑い転げている。

ところが、「分かっちゃいるけど、止(や)められない」と、ここ最近オーディオ関連の記事が何と連続5回という”しつこさ”。

それだけ、アタマの中がオーディオのことで一杯になっていたというワケで、やっぱりあの「片チャンネル・ウーファー4発」にしたのが利いている。

それはさておき、今回は久しぶりに別の話題に。

1月中旬ぐらいからどうも胃の調子がおかしくなった。なかなか治らないので、食生活の見直しをすることにし、まず朝食後にいつも服用している各種のサプリメントを中止、次に大好きな晩酌を控えたところ、2日後ぐらいから胃がスット軽くなった。

「やはり、その辺に原因があったか」とようやく突き止めた感じでひと安心。

2月中旬頃に復調したので安心して、せめてアルコールぐらいは復活させてもらおうと、運動ジムから帰って、夕食までのひととき、空きっ腹に「マッカランの12年」をストレートでちびり、ちびりやっていたところ、またもや症状がぶり返してきて毎食後にゲップ症状が出て”胃もたれ”が始まった。それも朝食後が著しい。

そのうち治るだろうと高をくくっていたがなかなかどうしてで、症状が軽くなるどころか益々重苦しくなっていく。

「国民の二人に一人がガンになる時代」と、散々聞かされているので年齢も年齢だし内心、心配になってきた。しかし、まあ、ガンだとしても胃ガンの場合は早期発見で手術すれば大半が直る時代なので恐るるに足らず。

それでも、ようやく重い腰を上げて4月1日(木)に近くの胃腸科専門の評判のいい個人病院に行ってみた。

その日の朝、愛用のスピーカーの上にカミさんが「お神酒と塩と水と米」をお盆に載せていて「それを拝んでいけ」と”しつこく”言う。気楽に音楽が聴けるのも今日が最後かと神妙に「どうかガンでありませんように~」。

さて、人間ドックの場合、ずっと前から予約を入れておかねばならないが、個人病院の場合は即日、胃カメラが可能かもと朝食を採らずに出かけたがこれが正解。

キビキビしたいかにも”やり手”のお医者さんから腹部超音波を診てもらい「どこも異常ありません」のあとで早速胃カメラへ。

麻酔のせいでカメラを胃の中に挿入されたのをまったく覚えていないほどで楽だった。麻酔後のアタマがボンヤリした中、30分ほどで診察室に招き入れられて所見結果の宣告。

「先生、ガンではないでしょうね?」と、開口一番。「違います。が、ホラ見てごらんなさい、胃が荒れてところどころ出血してます。胃の入り口部分から上部にかけてがひどいですね。ここなんかはもう胃潰瘍になりかけですよ。ピロリ菌はいないようです。」

へえ~、これが自分の胃の状態かと恐ろしくなるほど。

「何かストレスがあるんですか」と、先生。

「いいえ、もう現役を退いて趣味三昧の生活ですからストレスなんてまったく縁がありません。(93歳になる母親がショート・ステイに行くのを見送るときに哀しくなるくらいのもの)。ただどうも、以前、黒酢などのサプリメントを服用してたのがきっかけになったみたいです。」

「黒酢で胃を悪くされる方は非常に多いですよ。この病院でもしょっちゅう患者さんがみえられます」。

ずっと以前、九大医学部の研究で「黒酢を飲むとガンに罹りにくい」という記事をみかけたことがあり、つい”つられて”乗ってしまったのだが、どうやら個人ごとに体質があるようだ。

「先生、”黒にんにく”も食後に服用してるんですが止めたほうがいいでしょうかね」

「そうですね、胃が治るまでは止めたほうがいいでしょう。4週間は見ておいたほうがいいです。最後に念のため採血して血糖値、コレステロ-ルの値も調べておきましょう」。

「にんにく」「黒酢」といえばガン予防食品として横綱クラスだが、個人の体質もあろうが胃には良くないみたいで、やはりいいことづくめというわけにはいかない両刃の剣だ。

結局、「胃酸を抑える」「胃の粘膜を保護する」という二種類の薬をくれたのでその日から真面目に服用したところ、随分と胃が軽くなってきた。

今回ばかりは、10年来の常備薬「ソルマックS」も利かなかったのが残念!

ところで、面白いと思ったのが「今回の会計」。診察費と薬代合わせて1万円程度だったが、これが人間ドックだといつも5万円ほど支払うので随分と落差がある。

人間ドックといっても思い当たるのは今回の診察内容にレントゲンと心電図の検査を付け加えたぐらいのものなのでどうも腑に落ちない。

帰宅してカミサンに言うと、「今ごろ分かったの~、人間ドックは保険が利かないのでバカらしいのよ」。

フ~ン、そういうことか。

大きな病院に行って、何時間も待たされて診察はたったの5分程度よりも、腕のいい個人病院で診てもらうほうが時間短縮にもなると分かったのは大きな収穫。

とまあ、以上のとおり。

現在の胃の調子だが、「黒酢」の方は完全に廃止しており、「黒にんにく」の方は家内が自宅の電気釜で作っているので気が向いたときに口に入れる程度。晩酌の方はウィスキーや“いも焼酎”は止めて缶ビール1本だけにしているせいか、どうにか現状維持を保っている。

それから、当時はオーディオの記事がまことに評判が悪かったというのが面白い。今では隔世の感があってオーディオ以外の記事の方が逆に人気が無くてアクセス数がガクンと落ちる。

つい最近、運動ジムでお会いしたブログランキング協力者のNさんによると、「私もオーディオの記事ばかりではちょっと面白くないですね」とおっしゃるので、こういう顔の見える読者も大切にしたいし、これからも適度に記事を散りばめていくことにしよう(笑)。


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気の遠くなるような頭のいい連中

2015年07月03日 | 復刻シリーズ

いつもオーディオ関連の話なのでたまにはほかの話題を提供しよう。

現在、日本には国と地方合わせて1000兆円近くにも上る借金〔赤字国債など)があり、その利息が何と1秒間で130万円以上にもなっているという。

もうまさに
財政破綻状態。

ただし、その大半を日銀や銀行が所有しており、借金の相手が国内の身内同士なので何とかやり繰りできているのが実状。

先般、NHKがなぜこういう「憂うべき状況」になったのか、その原因追求を特集番組で組んでいたが、当然、その矛先といえば名実ともに国の財政を担ってきた当時の旧大蔵官僚たち。

この番組ではずっと過去に遡って官僚トップの事務次官たち数人に密着インタビューをしていた。

大蔵省(現在は財務省)の事務次官といえば
「気の遠くなるような頭のいい連中」である。

小さい頃から神童と謳われ、日本の学歴社会のトップを極める東大法学部を首席で卒業(履修科目が全優クラス)、国家公務員試験を1番で突破、在学中に司法試験を1番で合格、これを「三冠王」と称するそうだが、これに該当したり、準ずる連中がウヨウヨ。

人間の価値は「頭だけで決まるものではない」と分かってはいるものの、こういう超人たちの所業は無条件で許す気になるから不思議。

「こんなに頭のいい連中が考え抜いた結果なら、こういうことになっても仕方ないよなあ」という気にいつの間にかさせられてしまう。もちろん自分だけかもしれないが(笑)。

さて、ここまでが導入部でいよいよ本題に入ろう。

こういうハイレベルの連中ばかりが集結した旧大蔵省の出世競争とは一体どういうものだったんだろうか?

20人前後が一斉に入省し、段々とふるいにかけられ最後に事務次官という究極のポストに至る過程でどういう風に優劣の差がついてくるものだろうか?

すべてハイレベルの連中だから「頭の良し悪し」はもちろん「決め手」にならない。

あとは「運」と「人間的な魅力」などが微妙に交錯して出世にどの程度反映されるのか、はたまた入省時の成績の順番がどのくらい影響するのか。喩えて言えば日本の社会組織の縮図を見るようなものかもしれない。

このテーマに実際の事例をもとに正面からアプローチした本〔2010年8月20日、文藝春秋刊)がある。

                 
 

著者「岸 宣仁」氏は以前、読売新聞の記者で経済担当をしていて、記者たちをとかく敬遠して口が堅い大蔵官僚から何とか情報を引き出すために必死で努力された方。

「省内人事」の話を持ち出すと
「あれほどぶっきらぼうだった官僚たちがにわかに身を乗り出すようにして会話に乗ってくる」ということから、
必然的に(官僚たちと仲良くなるために)どうしても人事情報に精通しなければならなかったそうだ。

「役人は出世と人事ばかりに興味を持っていて”けしからん”、もっと世のため人のためになることばかりを考えろ」と思う方はまあ世間知らずの狭量な方だろう。

「金儲けがイヤで国のグランドデザインを描くために大蔵省に入った」といった高尚な気概がほとばしり出る高級官僚たちだが、「出世と人事」はエネルギーの根源であり人間の本性に根ざす不変のテーマだと理解してやる寛容さが必要。

そういえば1年ほど前の国会質問で「辻元清美」(民主党)が安倍総理に対して「ゴルフなんかに行かないでください」と、やってたが「活力の源になるのならそのくらい許してやれよ」と率直に思った。何と狭量な人間なんだろうか(笑)。

さて、本書の中で具体的に挙げられたいくつかの次官競争の実例から「勝者の決め手」となった事柄を導き出すのは実に多種多様で至難の業だが、概ね共通項というか、印象に残った内容を箇条書きで記してみた。

 どこかにハンドルの遊びがある人間のほうがトップの器として相応しい。たとえば、どんなに忙しいときでも趣味を見つけて”ゆとり”を大切にしたり、相手を最後の最後まで追い込まないような人物。

 若い頃はキラキラ輝いていたのに、上に行くほど守りに入って光を失うタイプと、逆にポストや年齢を積み重ねるごとに光を増し、いぶし銀のような輝きを放つタイプの二つがある。

 「センスと、バランス感覚と、度胸」が揃った人物。

”センス”の良さはあらゆる人物評価の根本にある基準となる。

”バランス感覚”とは足して二で割る手法ではなく全体の均衡点、釣り合う部分を見極める能力。加えて人を見る目の公平無私さも必要。

最後に”度胸
”とは「胆力」のこと。線の細い秀才が大半を占める大蔵省にあって、この部分が他に差をつける最後の切り札となる。度量の大きさや懐の深さに通じる。

 「入省成績と出世」について、実例として挙げられているのが前述した三冠王に加えて外交官試験がトップと空前絶後の四冠王だった「角谷」氏と入省時の成績が二番だった「尾崎」氏の次官争い。

結局、尾崎氏が「人望」が決め手となって勝者となった。最終的に「情」が「理」に優った例として、以後「公務員試験1番は次官になれない」と語り継がれ、次官レースのひとつのジンクスとされている。

そのほか「ノンキャリアを使いこなせる人材」など枚挙にいとまがないが長くなるので省略。

以上、すべて自分には該当しないことばかりだが「ハンドルの遊びがある人間」には心から憧れる(笑)。

最後に、冒頭で紹介した「財政破綻の責任」について次官(元日銀副総裁)だった武藤氏の(本書の中の)言葉が印象的だった。

「我々が本当に強かったら、日本の財政なんてこんなふうになっていませんよ。国、地方合わせて1000兆円の借金なんてね。要するに大蔵省主計局は常に敗戦、敗北の歴史です。僕に言わせれば、政治と闘って勝ったためしはないんじゃないの、正直な話・・・」


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シンプルな響きの心地よさ

2015年06月28日 | 復刻シリーズ

例によって今日(28日)、朝一で過去記事のランキングを見ていたら「シンプルな響きの心地よさ」というタイトルが上位にランクされていた。遡ると2011年10月の記事だからおよそ4年前に投稿したもの。

どんな内容だったかなと、読み返してみると我ながらなかなかの出来栄えだったので(笑)、一過性では勿体ないとばかり以下のとおり再度upさせてもらうことにした。

20cm口径のフルレンジSPユニット「リチャード・アレン」を取り付けたボックスを作ってから早くも2週間あまり。

我が家の第三システムとして活躍中だが、これまで主流としてきたやや大掛かりなシステムと、こうした小さくてシンプルなシステムとの対比の妙が実に新鮮で、我が家のオーディオにこれまでにない新鮮な空気を吹き込んでいる。

アンプとスピーカーとを合わせてもわずか10万円足らずのシステムが何倍以上もするシステムと張り合うのだからほんとうにオーディオは面白い。

もちろん、それぞれに音楽のジャンルによって得手・不得手があるわけだが、低音域の量が少ないことによって得られる全体的な(音の)「清澄感」はなかなか捨てがたいものがあって、
喩えて言えば、ヘッドフォンで聴く「音」のピュア感といったものに通じており、我が家での存在感が増す一方である。

ここで改めて「フルレンジ・タイプ」のメリットを述べておくと、先ず低域と中域のクロスオーバー付近に生じる「音の濁り」が存在しないこと、第二に口径の大きなユニットはそのコーン紙の重さによって音声信号への追従性が悪くなって音が鈍くなるが、その点小さな口径の場合はシャープな音が期待できること。

低音域の処理についてはこれまで散々悩んでいろんな対策を講じてきたが、いまだに解決できていないので我が家では最大の課題となっている。

と、ここま
で書いてきてふと思い出したことがある。

昔、昔のそのまた昔、五味康祐さん(故人:作家)の著作「西方の音」の多大な影響を受けてタンノイに傾倒していた時代に、タンノイ(イギリス)の創設者の「ガイ・R・ファウンテン」氏が一番小さなスピーカーシステムの「イートン」を愛用していたという話。

ちなみにタンノイにはG・R・Fという高級システムがあるが、それはガイ・R・ファウンテン氏の頭文字をとったものである。

タンノイの創設者ともあろうお方が「最高級システムのオートグラフではなくてイートンを使っているなんて」と、その時はたいへん奇異に感じたものだった。

総じてイギリス人はケチで、いったん使い出した”もの”は徹底的に大切にすると聞いているので「この人はたいへんな節約家だ」と思ったわけだが、ようやく今にして分かるのである。

何も大掛かりなシステムが全てに亘って”いい”というわけではなく「シンプルな響き」が「重厚長大な響き」に勝る場合があるということが・・。

さて、「このイートンの話はどの本に書いてあったっけ」と記憶をたどってみると、「ステレオサウンド」の別冊「世界のオーディオ~タンノイ~」(昭和54年4月発行)ではないかと、およそ想像がついた。

                    

手元の書棚から引っ張り出して頁をめくってみると、あった、あった~。

本書の75頁~90頁にわたってオーデイオ評論家「瀬川冬樹」氏(故人)がタンノイの生き字引といわれた「T・B・リビングストン」氏に「わがタンノイを語る」と題して行ったインタビューの中に出てくる逸話。

ちなみに、この「瀬川冬樹」さんがもっと長生きさえしてくれたら日本のオーディオ界も今とは随分と様変わりしていたことだろうと実に惜しまれる方である。

話は戻ってガイ・R・ファウンテン氏が「イートン」を愛されていた理由を、リビングストン氏は次のように述べられている。

「彼は家ではほんとうに音楽を愛した人で、クラシック、ライトミュージック、ライトオペラが好きだったようです。システムユニットとしてはイートンが二つ、ニッコーのレシーバー、それとティアックのカセットです。(笑)」

(そういえば「ニッコー」とかいうブランドのアンプもあったよね~。懐かしい!)

「てっきり私たちはオートグラフをお使いになっていたと思っていたのですが、そうではなかったのですか・・・・」と瀬川氏。

「これはファウンテン氏の人柄を示す良い例だと思うのですが、彼はステータスシンボル的なものはけっして愛さなかったんですね。その代り、自分が好きだと思ったものはとことん愛したわけで、そのためある時には非常に豪華なヨットを手に入れたり、またある時にはタンノイの最小のスピーカーを使ったりしました。」

「つまり、気に入ったかどうかが問題なのであって、けっして高価なもの、上等そうにみえるものということは問題にしなかったようです。~以下、略」

ファウンテン氏のこうした嗜好はオーディオの世界に”とかく”蔓延している「ステータスへの盲信」の貴重なアンチテーゼとも受け取れるが、30年以上も前からこういうことが指摘されていたなんて今も昔もちっとも状況は変わっていないようだ。

同じタンノイの「ⅢLZ」とか「スターリング」とかの比較的小さなSPをいまだに愛用されている方が後を絶たないのもよく分かる。おそらく自分とは違って背伸びすることなく良識があってバランスがとれた方なのだろう(笑)。

とにかく、口径20cm度のフルレンジのユニットの「濁りのないシンプルな響き」には心を癒されるものがあるので、現状の音に「物足りなくなった方」とか「飽いてきた方」にはセカンドシステムとして活用されるといかがだろう?

身近に比較できる音があるのとないのとでは大違いで互いのシステムの欠点が把握しやすいのも大きなメリットの一つだと思うのだが。

最後に一言。

現在(2015.6.28)、このリチャードアレンは第三システムの「AXIOM80」(復刻版)によって交替を余儀なくされ大切に保管中となっています。


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モーツァルトの名曲

2015年06月21日 | 復刻シリーズ

昨日(20日)の朝、ブログの過去記事のランキングを見ていたら珍しくもおよそ3年前の記事が上位に位置していた。タイトルと内容が記憶の中でサッパリ一致しなかったので、再読してみると我ながらなかなかの仕上がりだった(笑)。

そこで一過性ではもったいないとばかり、以下のとおり再度アップさせてもらうことにした。


「神秘に満ちた数、素数。何というその美しさ。世紀をまたぐ最後の超難問”リーマン予想”の謎に迫る天才数学者たちの挑戦、人間味あふれる姿」
と、背表紙に書いてあったのが「素数の音楽」(2005.8.30、マーカス・デュ・ソートイ著)。

                        

「素数と音楽」に、どういう関係があるのかと興味を引かれて読み始めたところ、数学についてはまったくの素人なのに、実に分かりやすく書かれていて、非常に面白い。まだ読み終えてなく2/3ほどの進行形だが、どうやら両者は「美」という共通項で深く結ばれていることが分かってきた。

ところで、188頁に次のような個所があった。

20世紀前半に名を馳せた著名な数学者「リトルウッド」(イギリス)は、たいへんな音楽好きでも知られたが、「バッハ、ベ-トーヴェン、モーツァルトの音楽が大好きで、それ以外の作曲家の曲を聴いて時間を無駄にするには、人生は短すぎると考えていた。」

ウ~ン、成る程。これはクラシック音楽愛好家にとっては大なり小なり思い当たる人もきっとあるに違いない。自分などはもっとラディカルに「モーツァルト以外の作曲家の曲を聴いて時間を無駄にするには、人生は短すぎる。」と、つくづく思う今日この頃。

このところ3週間ほど前に購入した「モーツァルト全集」(CD55枚組)に首ったけである。朝から晩までモーツァルトばかり聴いていると、あの「天真爛漫」「天馬空を駆ける」ような世界にどっぷり浸かってしまい、楽聖ベートーヴェンの曲目でさえも、何だか作為的で不自然に思えてくるから不思議。それに何度聴いてもいっさい飽きないのがこれまた不思議。

最晩年の傑作、オペラ「魔笛」にトチ狂ってしまってからおよそ30年が経つが、近年ではモーツァルトは「モー卒業した」なんてつもりになっていたところ、次から次に新しい発見が続いてまだ山の頂にはほど遠い事が分かった。

改めて、そう認識させられたのが「踊れ、喜べ、幸いなる魂よ」(K.165)。

15日(金)に、朝一の日課の運動ジムから戻ってこの曲を聴いていたら、思わず”目がしら”がジ~ンと熱くなってしまった。あまりにも美しすぎる!

至福の時とはこういうことを指すのだろうか。こんな音楽を聴かされると、「地位も名誉もお金も、何にも要らない」という心境になる。もちろん一時的だが(笑)。

ケッヘル番号が100番台だから、おそらく初期の作品だと思ってググってみると、何と17歳のときの作品だった。そんなに若いときにこんな美しい曲を作るんだからまったく脱帽である。ほかにもケッヘル100番台は「ディベルティメントK.136」という名曲もあるし、名画家や名作家にしても「若書きにとてもいいものがある」という言葉が見事に当てはまる。

これは宗教音楽だが、音楽家にとって神への思いは様々のようで、バッハの「マタイ受難曲」は何度チャレンジしてもどうしても馴染めないものの、それでも心からの神への信仰の厚さと敬虔な祈りが全編を通して伺われる。

が、しかしベートーヴェンでは「ミサ・ソレムニス」などを聴いていると、神への敬虔な祈りは聞こえてこない。どうも彼は神の言葉よりも自分の音楽の方がさらに高い啓示だと思っている節があると、感じる。これはあくまでも私見だが。

ここでモーツァルトの宗教音楽についても、一筆あってしかるべきだが、彼の音楽ばかりはとても当方の筆力の及ぶところではない。ただ、あまりにも人間離れしていて、音楽の神が彼を通じて書かせた音楽という感想だけ持っている。

最後に、この曲目の解説をネットから引用させてもらおう。

1楽章 Allegro ヘ長調 4/4 ソナタ形式

 流動するような生命感に溢れるオーケストラで第1主題が演奏され、続いて木管に第2主題が現われるとソプラノが独唱で "Exsultate, jubilate" -「歌え、歓べ」と高らかに歌い始めます。ソプラノと木管楽器との掛け合いが加わり展開されて、最後はソプラノのカデンツァ(独創楽器ーこの曲の場合はソプラノーが無伴奏で技巧を発揮するところ)で曲を終えます。

 第2楽章 Andante イ長調  3/4 ソナタ形式
 
 短いオルガン伴奏によるレチタティーヴォを経て、 二つの主題をもとにしたソナタ形式で書かれた、美しいメロディーを持つアンダンテに入り、叙情的なオーケストラの伴奏でソプラノが "Ti virginum corona"-「純潔の王冠たる汝よ」と歌い始めます。最後はコロラトゥーラの短いカデンツァで曲が終わり、そのまま第3楽章の「アレルヤ」に繋がってゆきます。
 
 第3楽章 Allegro ヘ長調 2/4 ロンド形式 (アレルヤ)
 
 自由なロンド形式で書かれた神を讃える「アレルヤ」唱で、信仰する喜びを謳い上げていきます。これは全曲中最も有名な楽章ですから、一度聞いたと思われる方も多いことでしょうね。往年の名画、「オーケストラの少女」にもこの第3楽章が使われていました。 
 
 本来宗教曲であった「モテット」にこれほどの清々しい生命の躍動と音楽の流動を齎したモーツアルトの才能はやはり並々ならないものといわなければなりません!この時モーツアルトは僅か17歳!!モーツアルトの才はこのモテットでも従来の慣習に留まることなく、新しい創造への道を切り開いていきました。

以上、誰しも思うことは同じですね~。

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オーケストラの経営学

2015年03月27日 | 復刻シリーズ

音楽鑑賞をするうえで欠かせないのがオーケストラ(以下「オケ」)による演奏。その「オケ」について演奏レベルなどの芸術的な見地からアプローチした本は多いが、そういう中、ビジネスの観点も含めて多角的に「オケ業界」についてつまびらかにしたのが次の本。 

「オーケストラの経営学」(2008.12、東洋経済新聞社刊) 
 

                    

著者の「大木裕子」さんは東京藝術大学でヴィオラを専攻し卒業後もプロフェッショナルとして演奏活動を続けたが現在〔出版時点)は経営学者として京都産業大学経営学部准教授。

オケの素晴らしさの秘密を知りたい、同時に日本のオケが今よりももっとよい「ビジネス」として成立出来ないものかというのが本書の執筆の動機。

「芸術」と「ビジネス」は水と油の関係かもしれないが、現代においてはないがしろに出来ないテーマである。野次馬根性丸出しで興味のある項目を2点ほど抜粋してみた。

 
日本のオケ楽団員の平均年収

「楽団員にとっては経済に関する話は無縁であまり関心もない。もともと金儲けに興味があれば音楽家にはなっていない」とのことだが、音大に行かせる投資対効果が低い(幼少から音大卒業まで3000万円以上の投資:桐朋学園大学の2008年度納付金だけでも4年間で約800万円)という現実を踏まえて公開されているのが次の資料。(本書の出版時点での数値)

平均年収 700万円以上    
NHK交響楽団、読売日本交響楽団

〃    500~700万円    
東京都、札幌、群馬、京都、九州 各交響楽団、
                    アンサンブル金沢、名古屋フィル、大阪フィル


〃    400~500万円    
大阪センチュリー、広島交響楽団、神奈川フィ
                      ル、山形交響楽団

〃    300~400万円    日本フィル、ニューフィル千葉


〃    300万円以下      関西フィル、京都フィル

「他人の懐具合を知ってどうする」と叱られそうだが、日本にある交響楽団(管弦楽団)員は果たしてアルバイト無しで喰っていけるのか
という意味で取り上げてみた。

因みに飛びぬけて高いのは
NHK交響楽団で958万円(平均44歳)。

また、指揮者のコンサート1回の報酬は、だいたいオーケストラの楽団員の年収が相場で、楽団員の年収が500万円なら1回の指揮者の報酬も500万円というわけ。もちろんこれは一般的な話でコンクール受賞歴がないというだけで1回30万クラスもいるし、小澤征爾クラスになると1000万円以上というランクの指揮者もいる。

さらにソリストもギャラが高くて、特に歌手は飛びぬけている。三大テノール・クラスのコンサートともなると、億を超える出演料がかかる。

 
なぜ日本には世界的オケがないのか

英才教育が盛んな日本のクラシック音楽のレッスンはテクニックに偏り、音を楽しむという本来的な音楽教育が不足していることが原因のひとつ。

関連して優秀な人材が海外のオケに流出するのは、日本のオケには無い「何か」があるから。その「何か」とは演奏者間のコラボレーション(合作)
にある。もともと日本には教会の響きの中で賛美歌を歌いながらハーモニー(和声)を創っていくという習慣が無い。

NHK交響楽団は弦楽器奏者が使用している楽器の値段の合計からいくとおそらく世界一だがそれだけで世界一のハーモニーとならないのは問題がコラボレーションにある。

したがって、日本のオケは「職人的だが、創造性は高くない」というのが定評となっている。

以上のとおりだが、それで思い出したのがベルリンフィルの新しい楽団員の採用方法。当人の「コラボレーション能力」の有無を判定するため、楽団員の全員投票(指揮者でさえも1票にすぎない)によって決定している。

ちなみにオーディオマニアの観点から言わせてもらうとオケに限らずオーディオ機器においても国産品と外国製品との違いは顕著のように思う。国産品は物理特性はいいのだが肝心の音質についての魅力が乏しい。総じて「冷たい音でハモりにくい」といってよい。真空管とかトランスなどの小物類でも同じことが言えるようだ。

しかし、自分が知らないだけでほんとうは国産品でもいいものがあるんだろうが、全体的にマイナス評価が定着しているのでマニアとしても安全な橋を渡りたいばかりに、つい海外製品に目が移ってしまうのは否めない。

しかも、国産品を使うと「何だ、その程度か」と思われるものもちょっとシャクだしねえ(笑)。
 


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負けず嫌い

2015年03月26日 | 復刻シリーズ

1996年2月に亡くなった司馬遼太郎さんは好きな作家の一人なので、折にふれ著作に目を通しているがつい最近「未公開講演録」という本に出会った。

あれほどの国民的大作家なので国内各地で行った講演は数知れないが、その講演録をまとめた本である。

                            

何回も推敲ができる小説と違って、講演は聴衆を前にしての一発勝負でいったん発した言葉は放たれた矢と同じで修正、取り消しがきかないので意外と本音が聞ける楽しみもある。

そういえば、つい最近の国会質疑で安倍首相が自衛隊のことを「我が軍」と言ったとかで物議を醸している。元首相の田中角栄さんが、以前「国会の予算委員会ほど怖いものはない、筋書きに無い質問が出てウッカリ言葉を滑らせると大変なことになる」と言ってた事があるが、その懸念通りとなった。

まさに「着込んだ鎧が衣の下からチラリと顔を出した」ということだろうが、そもそも現実に他国が攻め寄せてきたときには「自衛隊は国防軍」になるんだから民主党もそう目くじらを立てることもあるまいと思うがどうだろうか。

民主党はなにごとにつけ党の存在価値を出そうと躍起になっているようだが攻め手に事欠くあまり、肝心の政策論議は後回しにしてこういう「言葉狩り」に非常に熱心になっている。

それに先般来日したメルケル首相と岡田党首(民主党)の会談において「従軍慰安婦」の問題についても、岡田党首が国益に添わない話をあえて公開するものだからドイツ政府からわざわざ修正の申し入れがあったりする。まさに「党あって国なし」の状況で、これではたして野党第一党としての責任を全うできるんだろうか。

閑話休題。


「司馬遼太郎が語る日本~未公開講演録愛蔵版~」は23話の講演録をまとめた本で、構成はつぎのとおり。

私の小説の主人公達  1~10話

文学と宗教と街道    11~23話

となっている。

居ながらにして司馬さんの講演が23話も聞ける大変重宝な本でいずれも興味の尽きない話ばかりだが、ここで取り上げるのは第20話にあたる。期日:1984年11月29日、開催地:大垣市文化会館、テーマ「日本の文章を作った人々」による講演である。

内容は明治維新になっていったん崩壊した文章日本語が夏目漱石に至って成立したこと、天才漱石の偉大さを讃えるとともにモットーである「則天去私」(天にのっとり私を去る)は生活論ではなくて芸術論であったことを中心に述べている。

はたして漱石は自分の作品の中に「則天去私」をどう発揮したのだろうか。

司馬さんは分かりやすい例として(講演の)冒頭で「素人と玄人の文章の違い」
にふれている。

もちろん司馬さん流のものの見方であることが前提だが、「文章は相手に判ればいいのであって、勝手気ままでよい、そんなに堅苦しいことを言わなくてもいい」という向きにはまったく縁のない話である。

まず、ここでいう素人(アマ)と玄人(プロ)というのは文脈から推すと必ずしも文筆で生計を立てているかどうかという区分でもないようで、つまるところ文章の背景に起因する精神の問題のようである。

さて、一流の作家からみてアマとプロが書いた文章はどこがどう違うのだろうか?

司馬さんによるとこうだ。

「たとえば一流の学者、実業家が文章を書いた場合にもたしかに上手に書けているけれど、一見してこれはアマが書いた文章だと判るケースがある。また、逆にこれはプロが書いた文章だと感じさせる場合もある。

文章の技術ということではアマもプロも違いはないが、決定的に違うところがある。それは文章を書くときの精神の問題で「私心」があるかないかということ。

文章は物を表すためだけに、あるいは心を表すためだけにある。正直にありのまま書けばそれでいい、これが基礎だが、アマはつい格好をつけたがる。「俺が、俺が」と、自己をひけらかしたりするのが私心である。

自己というものは本来、生まれたては清らかだが世間を渡っているうちに競争心が出てくる、負けず嫌いにもなってくるが、文章を書くときにそれを出してはいけない。漱石にも負けず嫌いの気持ちがあっただろうが、それを押し殺しての“則天去私”である。

かいつまむと、以上のような内容だがたしかに自分にもアマの文章家のひとりとして大いに思い当たる節がある。

たとえばブログを書くときにどうしても自己顕示がらみで自慢めいた話になりがちなのをはっきり自認している(笑)。これは明らかに「競争心=負けず嫌い」の気持ちを押し殺していない好例である。

これから改める積もりもないので、
自分にはとても漱石のような「則天去私」の心境には及びもつかないのがよく分かる。そもそも負けず嫌いを押し殺すなんて精神衛生上良くないし、大好きなオーディオだってそれが推進力の一つになっているぐらいなんだからとても無理な相談だ。

結局、これが文章家としても人間としても大成できない理由なんだろうが、別に(文章で)日銭を稼いでいるわけでもなし、(ブログを)読んでくれと頼んでいるわけでもないし、(人生の)残り時間も限られているし、ま、このままアマでずっと行かせてもらうことにしましょう(笑)。
 


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ユダヤ教徒が豚肉を食べない理由

2015年03月15日 | 復刻シリーズ

9.11のテロ以降、世界中で何かと物議を醸しているイスラム教信者。

「21世紀は文明の衝突になる」と予言したのはS.P.ハンチントン元ハーバード大学教授だが、見事にその予言は的中した。

現代人にとって世界中にあるいろんな宗教に対して無関心であることはもはや許されない状況になっているが、その一助として
ずっと以前のブログで「寒い地域でイスラム教が広まらなかったのは戒律によりアルコールが禁じられていたのが原因」という趣旨のことを書いたことがある。

そして、同様に疑問に思ったのが
「豚肉を食べることが禁止されている理由」。

これはイスラム教だけでなく、ユダヤ教でも同様だが、豚肉の赤身は(2007.6.7:「脳によく効く栄養学」)のところで記載したとおり、精神の安定に必要なセロトニン生成の原料となるトリプトファンの割合の含有量においてトップクラスの食物とされているので、栄養学上これを食べないというのは実にもったいない話。

合理的な理由を是非知りたいと思っていたところ、たまたま朝日新聞社発行の月刊誌(「一冊の本」2008.1.1)
を見ていたらその理由が詳細に記載されていた。
            

                            

「宗教聖典を乱読する 5 」~ユダヤ教(下)~(61~65頁)著者:釈 徹宗氏

豚は食材として大変効率がいいのは周知の事実。中国料理では「鳴き声以外は全部使える」といわれているほどである。栄養価、料理のバリエーションなどとても優れている食材をわざわざ避けるのは生物学的にも不自然だし、人類学的にも一つの謎となっている。

この豚肉がなぜ禁止されているのかは昔からラビ(ユダヤ教の聖職者)たちの間ですら論争が続いている。様々な理由づけを列挙してみよう。

 
美味しいものを避けることによって、大食の罪を諫めた。美味しいからこそ食べない!

 豚は雑菌が多く、当時の保存法では問題が多かったため食することが禁じられた。これは今でもよく使われる説明で、雑菌が発生・繁殖しやすい風土というのも関係している。

 異教徒の中で豚を神聖視する人たちがいたので差異化を図った。

 豚という動物が悪徳を表すイメージからタブーとした。たとえばひづめが割れているのは「善悪の識別が出来ない」などで、宗教はシンボルが重要な概念になっている。

 合理的説明は不可能。食規範はまったくの恣意的であり何の秩序もないという説。

 克己心や人格を形成するためという説。つまり不合理な禁止により結果的に人格が鍛錬される。1と関連している。

 食事のたびごとに神への忠誠を再確認させる。

以上のとおり、さまざまな理由づけがなされているが、人間の生理(食、性、睡眠など)にまで価値判断が持ち込まれているのは宗教だけが持つ特徴であり、その背景としては人間の本能がもろくて簡単に壊れやすいことが念頭に置かれている。

たとえば、「好物を見たら、満腹でも食べてしまう」「繁殖以外の目的で性行為をする」といった行動はほとんど人間だけの特性といえ、人間以外の動物は本能の働きにより、過剰な行動には自動的にブレーキがかかる。

ライオンが満腹のときは目の前をシマウマが通っても襲わないというのはよく聞く話で、「自分の生存を維持するための行動」「自らの遺伝子を残すための行動」が基本となっている。

結局、それだけ人間というのはエネルギーが過剰であり旺盛なので一歩間違うと人間という種自体を滅ぼす危険性を有している

その意味で、人間は本能が壊れやすい動物であればこそ、その過剰な部分をコントロールしストッパーの役目を果たしているのが「宗教」である。

したがって、「なぜ、豚肉を食べないか」に対する最も適切な答えは「神が禁じたから」となる。つきつめればそこへと行き着いてしまう。

ユダヤ教にはさまざまな宗派があるが共通基盤があって、それは「唯一なる神を信じ、安息日や食規範などの行為様式を守ること」にある。この基本線に関してはどの宗派も共有している。そして敬虔なユダヤ人にとっては、「律法を守ることそれ自体が喜び」
なのである。

以上のとおりだが、「自分を律するために、あえて美味しいものを食べない」というのは、まったくの「眼からウロコ」で、それからすると総じて仏教徒たるもの、ちょっと自分に甘すぎて己の欲望に走り過ぎるきらいがあるのかもしれない。

「オーディオマニアは自分を律するために、日頃から“いい音”で聴いてはいけない」な~んちゃって(笑)。
 


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暮らしの中の左右学

2014年10月02日 | 復刻シリーズ

昨日(1日)は恒例の定期検診日だったので午前と午後に分けてお医者さん巡り。

午前中は内科だったが、血液検査(9月1日)の結果がやたらに良くて「ずっとこの調子で!」と、お医者さんも太鼓判。ただし、「先生、最近左足の親指の付け根が痛いんですが」と言って、実際に靴下を脱いで患部を見せたところ、少し赤くなって腫れていた。

「これは痛風かもしれないよ!最近酒量が増えたということはありませんか?」「いやあ、実はちょっと思い当たります・・」「そうでしょう。これからしばらく飲酒を控えてください。湿布薬を出しておきます。」とのご託宣。

ヤレヤレ、4日(土)の夜に高校の同級生たち(3名:福岡)とオーディオ試聴後に酒盛りを予定しているのでそれまでの3日間は断酒とするか~。

そして、午後は整形外科へ。

ここでも馴染みの医師に「先生、左足の・・・」と患部を見せたところ、「これは痛風ではありませんよ。赤くなっているのは歩行の際に靴と擦れたときの摩擦のせいでしょう。外反母趾で骨が変形しているかもしれませんので念のためレントゲンをとってみましょう。」

その結果、「骨は変形していないようです。だいたい1日どのくらい歩いているんですか?」

「朝食後に30分、午後は50分ほど歩いてます。」「そんなに歩いているんですか!えらい健康的ですね。」「はい、“歩かないと死ぬ”という覚悟で歩いてます(笑)。しかし、どうして左足だけ悪くなるんでしょう?」

「歩くときに自然と左側に重心がかかっているせいでしょう。どうしても個人差がありますが、○○さんは極端のようですね。これからは足の形にあった靴を履くことが大事ですね。適切なインナーソール(中敷き)を入れて足の甲を高くすると負担が少なくなりますよ。」

そこでやおら医師が取り出したのが100円ショップで売っている「うおの目パッド」。これを患部に貼って歩くと痛みが和らぐという。そこで、さっそく帰りに100均に寄って購入した。

        

それにしても、同じひとつの身体なのに左と右とでどうしてこうも重心が違うのだろうか。

ふと、ずっと以前に「左と右の違い」についてブログで薀蓄を傾けた記憶が蘇った。調べてみるとおよそ4年半前の記事だった。大半の方が忘却の彼方だろうから、以下、再掲してみよう。

私たちの日常生活の中であらゆる場面に影響を及ぼしている「左」と「右」との区分。

日頃、当たり前のことと受け止めて特に意識することはないが改めてその意義に気付かせてくれたのが次の本。
 

                 

著者は「小沢康甫」(おざわ やすとし)氏。

民間企業の勤務経験を持つごく普通の方で学者さんではない。個人的な興味のもとに長いこと「左右の探求」を両脇
に抱え込んで「病膏肓」(やまいこうこう)に入られた方である。

とにかくあらゆる分野にわたって「左」と「右」の概念が追求される。たとえば、「衣服の右前・左前」「男雛・女雛の並べ方」「野球の走者はなぜ左回りか」「人は右、車は左」「イスラムの右優越」など。

とても全部を紹介しきれないので興味を覚えた部分をごく一部抜粋してみた。

☆ 語源を探る

 → ”口”と”ナ”からなり、「口を使い、手を用いて相助ける意」。のちに”佑”(助ける)が本義となり「右」は単なる右手の意となる。

熟語として「天佑」「佑筆(貴人のそばで文書を書く人)」など。

 → 工具の意を表す「工」と”ナ”からなる。のちに”佐”(助ける)が本義となる。工具を左手に持って仕事を助ける意。

熟語として「補佐」「佐幕」。

筆者註:こうしてみると我が県のお隣の「佐賀県」という県名はたいへん語源がいい。「賀(祝うこと)」を「佐〔助ける)」とある。それに比べてわが大分県は「滑って転んで大痛県」と揶揄されるのが関の山!

左右はとかく左翼・右翼のように対立の関係で捉えられがちだが字源をたずねると左右双方から人や物事を助けていく、或いは左右相補ってことが進む点にこそ真骨頂がある。

次に、言い回しの由来を記してみよう。

 左うちわ

安楽な暮らしのたとえ。利き手でない左手で仰ぐと力が弱く、いかにもゆったりしている。そこから差し迫っていない、余裕のある暮らしに意味を通わせた。同様の例として、最も信頼する有力な部下を指す「右腕」がある。

 トラック競技の左回り

現在、陸上競技の競争は「規則」により
「走ったり歩いたりする方向は、左手が内側になるようにする」
とある。

根拠は不明だが有力な説が7つほどあって、そのうちの一つがこれ。

男性の場合、「睾丸」の左右のうち左の方が低い位置にあり、心臓が左によっていることもあって重心は左にかかる。走るには重心寄りに、つまり左に回った方が楽。

男性にとって日頃まったく意識しない「睾丸」の左右の違いを指摘されて本当に「目からウロコ」だが、これについては別項の「人体ウォッチング」にも次のようにある。

「睾丸」は一般に左の方が右よりも低い位置にある。大島清氏(生殖生理学)によると、その率は日本人で75%、米国人で65%。

その理由をこう述べる。

大半の人は右利き、つまり左脳優位であり右の挙睾筋〔睾丸を上げる筋肉)を収縮させるので右の睾丸が吊上がり、左側が相対的に下がった状態になる。つまり、左右の脳に差のあることが睾丸の高さの左右差をつくり、歩いても走っても激しい運動をしても、睾丸同士が衝突しないようにできている。

左右の睾丸が重なったりぶつかったりすれば、双方とも傷つく恐れがある。睾丸は精子の製造工場だから、これは由々しき一大事。左右差は子孫を残すための「天の配剤」といえる。

以上のとおり、本書は「左右」学の薀蓄(うんちく)極まるところ、通常まったく意識しない人体の微小な差異にまで及び、まことに新鮮味があって面白かった。

というわけで、自分の場合(右利き)もどうして左足に重心がかかるのか疑問が氷解した次第(笑)。


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モーツァルトはほんとうに天才?

2014年08月12日 | 復刻シリーズ

先日のこと、「林修の今でしょ!」(テレビ番組)を観ていたら、「学校で教えてくれない音楽の知られざる秘密」というタイトルで特集を組んでいた。

一般の人にはちょっと敷居が高いとされるクラシック音楽を身近に分かりやすく解説してもっと親しんでもらおうという目論みで、解説はヴァイオリニストの「葉加瀬太郎」氏。

冒頭に「すべての芸術は音楽の状態に憧れる」(イギリスの文学者)という言葉が紹介された。

その意味は、たとえば同じ芸術の範疇にある文学の場合はどうしてもその時代の道徳とか社会のルールに制約を受けてしまう、一例をあげると一夫多妻制の国と一夫一妻制の国とでは、複数の女性を愛したときの文章表現がどうしても変わってしまう。

その点、音楽は音符の組み合わせによって調べを作るだけなので、言語の違いなどを含めて何ら制約を受けることなくあらゆる国境を乗り越えて人の心に沁みこみ親しまれるという趣旨だった。

「音楽は哲学よりもさらに高い啓示である」と言ったのはベートーヴェンだが、芸術はスポーツなどと違って順番を付けるのはまったく意味が無いなので「音楽はあらゆる芸術の中で最高だ」なんて野暮な話は抜きにしよう(笑)。

さて、本題に戻って、この番組の中で葉加瀬氏が「モーツァルトは天才です。次から次に楽想が浮かんで音符を書くのが追いつかないほどで彼の楽譜に接するたびに天才と対面している思いがします。」と言っていた。

これまで「モーツァルト天才説」は耳にタコができるほど聞かされてきたが、はたしてほんとうの意味で天才だったのだろうか?

モーツァルトファンのひとりとして大いに興味があったので以前、このブログで検証したことがあるが何せ随分昔のことなので、ここで改めて以下のとおり再登載させてもらおう。

ご存知のとおり、人間一人ひとりは生まれながらにして風貌も違えば五感すべての感受性も違うし、運動能力にも天地の違いがある。 

そして、その差が遺伝子の相違に起因することは疑いがない。さらに人間はこの遺伝子に加えて生まれ育った環境と経験によっても変容を遂げていく。そうすると、一人の人間の人生行路に占める遺伝子の働きの割合は”どのくらい”と考えたらいいのだろうか。 

この興味深いテーマを天才の代名詞ともいうべきモーツァルトを題材にして解明を試みたのが次の本。

「モーツァルト 天才の秘密(2006.1.20、文春新書)

                           

著者の中野 雄(なかの たけし)氏は東大(法)卒のインテリさんでケンウッド代表取締役を経て現在、音楽プロデューサー。
 

自然科学の実験結果のようにスパッとした解答が出ないのはもちろんだが、脳科学専攻の大学教授の間でも説は分かれる。「知能指数IQの60%くらいは遺伝に依存する」との説。「脳の神経細胞同士をつなげる神経線維の増やし方にかかっているので、脳の使い方、育て方によって決まる」との説などいろいろある。

集約すると「およそ60%の高い比率で遺伝子の影響を受けるとしても残り40%の活かし方で人生は千変万化する」とのこと。モーツァルト級の楽才の遺伝子は極めて稀だが、人類史上数百人に宿っていたと考えられ、これらの人たちが第二のモーツァルトになれなかったのは、生まれた時代、受けた教育も含めて育った環境の違いによるとのこと。

この育った環境に注目して
「臨界期」
という興味深い言葉が本書の52頁に登場する。

これは、一定の年齢以下で経験させなければ以後いかなる努力をなそうとも身に付かない能力、技術というものがあり、物事を超一流のレベルで修得していく過程に、「年齢」という厳しい制限が大きく立ちはだかっていることを指している。

顕著な一例として、ヨーロッパ言語の修得の際、日本人には難解とされるLとRの発音、および聴き取りの技術は生後八~九ヶ月が最適期であり、マルチリンガルの時期は八歳前後というのが定説で、0歳から八歳までの時期が才能開発のための「臨界期」というわけである。

もちろん、音楽の才能もその例に漏れない。

ここでモーツァルトの登場である。
幼児期から作曲の才能に秀で、5歳のときにピアノのための小曲を、八歳のときに最初の交響曲を、十一歳のときにオペラを書いたという音楽史上稀に見る早熟の天才である。

モーツァルトは産湯に漬かったときから父親と姉の奏でる音楽を耳にしながら育ち、三歳のときから名教師である父親から音楽理論と実技の双方を徹底的に叩き込まれている。

この父親(レオポルド)は当時としては画期的な「ヴァイオリン基本教程試論」を書いたほどの名教育者であり、「作曲するときはできるだけ音符の数を少なく」と(モーツァルトを)鍛え上げたのは有名な話。

こうしてモーツァルトは「臨界期」の条件を完璧に満たしたモデルのような存在であり、この父親の教育をはじめとした周囲の環境があってこそはじめて出来上がった天才といえる。

したがって、モーツァルトは高度の作曲能力を「身につけた」のであって、「持って生まれてきた」わけでは決してない。群百の音楽家に比して百倍も千倍も努力し、その努力を「つらい」とか「もういやだ」と思わなかっただけの話。

そこで結局、モーツァルトに当てはまる「天才の秘密」とは、育った環境に恵まれていたことに加えて、「好きでたまらない」ためにどんなに困難な努力が伴ってもそれを苦労と感じない「類稀なる学習能力」という生まれつきの遺伝子を持っていたというのが本書の結論だった。

これに関連して小林秀雄氏の著作「モーツァルト」の一節をふと思い出した。
  

この中で引用されていたゲーテの言葉
「天才とは努力し得る才だ(エッカーマン「ゲーテとの対話」)に対する解説がそうなのだが、当時はいまひとつその意味がピンとこなかったが、ここに至ってようやく具体的な意味がつかめた気がする。

「好きでたまらない」ことに伴う苦労を楽しみに換える能力が天才の条件のひとつとすれば、かなりの人が臨界期の環境に恵まれてさえいれば天才となる可能性を秘めているといえるのではなかろうか。
天才とは凡人にとって意外と身近な存在であり、もしかすると紙一重の存在なのかもしれない。

とまあ、以上のとおりだが「天才」という言葉は「天賦の才」という意味であって、人工的に手を加えられた才能ではないと思うので、巷間「モーツァルト天才」説を聞くたびにいつも違和感を覚えてしまう。

ただし、「類稀なる学習能力こそ天才の証しだ」と、反論される方がいるかもしれない。

皆さまはどちらに組しますか?
 


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「デッド or ライブ」

2014年08月07日 | 復刻シリーズ

ブログを始めてからおよそ丸8年が経過し、upした記事が2000件ともなると昔作った記事のタイトルや内容がすっかり忘却の彼方にあることが再々ある。

去る1日(金)のこと、例によって朝一で前日の「アクセス解析」の中の「頁ごと閲覧数」を見てみると1位が「デッド or ライブ」となっており、何と投稿日時は3年前の2011年8月28日。

「アレッ!こんな記事を載せたことがあったかな?」(笑)

書いた本人が忘れているくらいだから、この拙いブログをずっと追いかけていただいている方々(感謝です!)もおそらく覚えていない人が多いに違いない。

というわけで、これから「復刻シリーズ」と銘打って過去記事を今風にアレンジしながらときどき登載させてもらうことにした。

それでは、前置きをこのくらいにして復刻シリーズの第1号「デッド or ライブ」を。

つい先日のブログ「レコードはCDよりも優れているのか?」の中で紹介した「響きの科学」(2011.6、ジョン・パウエル著)。

                    

音楽好きの物理学者が書いたというこの本には、もうひとつの重要な事柄が記載されていた。それは「部屋の音響効果」

オーディオマニアなら、改めて「部屋」(音響空間)の重要性について述べる必要はあるまいと思うが、念のため本書の要旨を記載してみよう。

「部屋の大きさと壁や天井を覆う材質によってその部屋の音響的な“生気”が決まる。家具が沢山おかれ、分厚いカーテンを引いた小さな部屋では響きはほぼすぐに消える。そういう部屋は音響的に“死んで”いる。

壁の固い広い部屋では音が壁に数回反射してから響きが消える、こうした部屋は“生気”があると形容される。音が部屋中に反射して響きが長く持続することは好ましいが、それぞれの音が反射して出来た響きが重なり合い、一つの長い音として耳に届くことがもっとも望ましい。

部屋の壁どうしが遠く離れていれば反射と反射の間に時間がかかり過ぎて、長く持続する一つの音として聴こえず、音の消えた後に間が空き、それからまた音が聞える。これは“こだま”(エコー)という好ましくない効果だ。

コンサートホールの設計者は聴衆がエコーではなく心地よい残響を十分に楽しめることを目指しているが、どちらの効果も壁や天井、床に反射することから生じるものであるため、バランスを取るのは難しい。

コンサートホールのような大きな空間には壁と壁との間の距離が遠いという避けがたい特徴があり、反射した音が長い距離を移動しなければならない。

たとえばヴァイオリンから出た音は遠く離れた壁まで行き、またもや長い距離を移動して耳の鼓膜に達するが、楽器から直接耳に届く音は遠回りせずに真っ先に到着する。そのため、二つの音が別々の事象として、一方がもう一方のエコーとして聞えるのだ。

小さな部屋では音が壁まで行って帰ってくる距離と直接届く距離との差があまりないため、反射した音波と直接届いた音はほぼ同時に耳に到着する。

二つの音の到着する時間の差が4万分の1秒以下なら、人間の聴覚はどちらも同じ一つの音として認識する。時間の差が4万分の1秒を超えるのは反射した音の往復距離がヴァイオリンから耳の鼓膜までの直線距離よりも12メートル以上の場合に限られる。」

とまあ、以上のような内容だった。

巷間、よく耳にする話として音響技術の専門家の意見を入念に取り入れて作ったNHKホールは代表的な失敗事例のひとつであり、佐治さん(サントリーの経営者)の主張によって海外の著名なホールをそっくり真似たサントリーホールは成功事例となっているそうで、ことほど左様に大きな空間の音響効果をうまく実現するのは専門家でも至難の技とされている。

さて、問題なのはオーディオマニアにとっての「小さな部屋」で、まあ、人それぞれだが概ね6畳~20畳程度に収まるのではあるまいか(笑)。

上記の説によってその音響空間を検証してみると次のようになる。

聴取位置がスピーカーから4m離れた場所とするとほぼ同時に聴こえる4万分の1秒以内に収まる往復距離は16m(4m+12m)となる。

このことはスピーカーから壁の距離までが8m以内であれば、スピーカーから出た音は直接音と反射音とが同時に聴こえることを意味している。

結局、「小さな部屋」で聴くときは「デッド」よりも、圧倒的に「ライブ」の状態で聴いた方がいいということになる。(第二次以降の反射音も無視できない)。

これを読んでからすぐに反射音を念頭に置いて我が家のオーディオルームの対策に取り掛かった。分厚いカーテン4枚を取り払い(下の画像)、薄いレースのカーテンだけにして不要な荷物を部屋から出すといった調子。

           

おおむね以上のような内容だったが、この記事の内容をすっかり忘れていたとみえて、2014年8月1日現在、スピーカーの前の床に長い敷物を置いていたので慌てて撤去した。

まったく「仏作って魂入らず」だなあ(苦笑)。
 


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