経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

自分では、自分で持ち上げられないということ

2006年05月17日 | Weblog
 少し私のこと。
 私が、消費者中心主義を提唱し始めてから17年目になります。注目するものもなく、何をきれいごと、戯言と言われながら、これを元に経営指導をし、セミナーや講演をしてきました。少しづつですが、今ではたくさんの方の共感をいただいています。

 しかし言葉が知られ、広がっただけでは意味がない。提唱したものが実際に各人の成果として実り、形を為さなけれ、何になりましょう。意味がないだけではなく、私は妄想者、無能コンサルタントとして、消えていくことも覚悟しなければならない。

 そういう意味で、提唱し、口にした言葉が、成果として形を為すことが、どんなに有り難いことか。勇気になりことか。自分の言ってきたこと、為してきたことは、それで成果が出たという裏打ちがあってこそなのですから。

 お陰様でたくさんの事例を得た。こうしたことを書けるのも、裏打ちをしてくださった経営者の皆様方のおかげです。皆さん方が、私を支えてくださった。

 H13年4月20日、前日から徹夜で手製のホームページを立ち上げた。その動機の1つが、自分の提唱している消費者中心主義をWEBで活かす実験をしてみよう、ということでした。

 以来5年、白状しますが、口で言うことと、実際をやることのギャップ、それも相手が他人ではなく自分。自分のよこしまな保守的な心と、それとの諍いに、大変だった。
 恥ずかしながら、ここで初めて、「みなさん、私の提唱を裏打ちしてくださっている経営者の皆さんは、実践されるに当たって、こんな葛藤と諍いを、苦労をされているんだ」。
 愚かなものですね。自分でやってみて、初めてそのことが実感できました。

 自分の商い、自分の商品を、自分が一押しするのは、当然ですが、それは情けない商人だ、と私は思っています。他の方、それも消費者の皆さんが、一押し、二押してくださる。そのためにはどうしたらいいか、これが真の商人だ、と私は確信しています。

私は、つい最近まで長い間、自分の身体を自分で持ち上げようと努力してきました。自分の裏打ちを自分でやる、という愚をしてきました。
出来ないことで努力をしてきた。やるせない後悔をしていますが、今思うに、この愚、今後はやったらだめ、ご縁ある方だけでも、それを伝えよう。それももっと広く。なぜなら広くお伝えした方々の、一握りが形としての「消費者中心主義」になるのですから。

おかしいぞ。変化と対応

2006年05月16日 | Weblog
 時流は、時が流れる、と書く。時とともに変化すれば、これまで良しとしたものが、良しとしなくなる。だから時流に合わすことができないものは淘汰する。淘汰がいやなら、適応する方向に持っていく。そうすればいい。
 空き店舗の存在は、そこに存在していたお店が、「そうしたことをなさなかった」という証といった側面と、他の店はちゃんと対応して生き残っている、という証の側面、この両面がある。その片面だけを見て、商店街そのものの、あるいは全体がダメと見たり、その存在意義を否定するという論は、おおよそ公平ではないし物の見方としてのゆがみを感じる。

 変化の主体はなにか。そして変化の中身は何か。これが掴めなければ対応しようがあるまい。たとえば、「売れなくなった」という。これは消費者が買わなくなったということである。また、どの店でも売れなくなったということではなく、その店で買わなくなったことを意味する。その理由個別問題か普遍的問題か、原因は特殊か、普遍性があるものか、と詰めていって、その理由なり原因を除去、買ってもらえる理由、原因と入れ替える。これが対応である。

 そもそも事業の成否は消費者の支持で決まる、という当たり前のことへの認識すら乏しい、というのが、私のこれまでの仕事を通じての現場での実感である。

 資本主義国家では、事業の存亡は消費者の選択如何にかかわってくることは当たり前だ。
結果的に消費者から選ばれない企業なり商店が多く、空き店舗や空き事務所などが増加すれば土地価格や賃貸料も下がる。それなら、「出店しよう」という店も出てくる。そうした彼らは、環境に適応し、より強い店舗だ。こうした流動性が生まれるこそ、本来の対応の動きのはずである。そしてやがてまた次に弱いところ、ふるい落とされ空き店舗がでる。ここへより強いお店が進出する。こうした新陳代謝が常に見られる状態は、望ましいこと、これが健全なあり方である。

 それを、どうして危惧の状況というのか、私にはわからない。個店で売れない商品を撤去し、売れる商品に入れ替えることを活性化している。これを危機状態という人はいまい。望ましい姿といっているではないか。

 問題は、この新陳代謝が進まないことにあるのだ。だから対策として少なくとも一元的対応は、空き店舗を人為的に埋めることではなく、むしろ新陳代謝を阻害しないことに尽きる。
 これは、消費者から見てみたらよりわかりい。自分たちにとってなくてはならない店を失うことは消費者自身の損得にかかわるから利用する。だからその店は残る。お客が利用しない、必要がないお店が消える。だが消費者は困ることは全くない。むしろより良い店に変わってくれた方が得だ。
 
 閑古鳥が鳴く、という変化の本質は、「消費者の支持」を失ったころにある。だったら対応は、「消費者の支持」を得るということだ。
 だがこの側面に着眼した経営や対策を行っているところは本当に少ない。

 作り手、売り手側の立場と方向から論じられているのが経営学、というのなら、そうした経営学自体を時流に合わないと、捨てたらいい。作り手・売り手中心主義の理論で占められていて、それが合わなくなったのであればそれは捨てるべきなのだ。
 そして消費者中心の観点から、その正しい有り様を模索する。これが対応である。
 それを依然、作り手・売り手中心主義の立場から一歩も踏み出さず、あれこれやるから混乱だけを商事、逆効果、衰退していっている。
 消費者を中心において、今一度やるべきことをみたら、やらねばならないことをやらず、やってはならないことをやっていることが見えてくる。

歌手のドレスと街づくり

2006年05月15日 | Weblog
 TVではなく、ラジオで、アナウンサーが、挨拶代わりに女性歌手の着ているドレスを、褒める。いつかじっくり考えたいと思っていた。
 もちろんアナウンサーは、ラジオでは、ドレスなど、聞いている人にわからないことは百も承知の上。饒舌を避け、結論を言うと、常連の場合は、1に、変化する「もの」、あるいは「こと」しか褒めようがない。2に、ドレス意外に、その間変化する「もの」、「こと」がない、ということだ。
 本人本体も、歌う歌にも。

 商店街であらたな、アーケードやカラー舗装がなされる。これは変化だ。但し1回限りの。次の変化は、少なくとも数十年先。ドレスみたいに、コロコロ変わる物ではない。
 だから飽きられる。だが歌手と違うのは、中身をいくらでも変化させられることだ。品揃え、価格、レイアウト、陳列、販促、接遇、等々。

 なのに最初にあれだけ集まった消費者が、日々減少。リピートしないのは、それらが、変わり映えがないと言う証である。
 さらに、お客が買うのは、商品なりサービスであって、アーケードやカラー舗装
でも、品揃え、価格、レイアウト、陳列、販促、接遇、等々ですらでもないのである。
 このことを充足しない街と個々店の繁盛はあり得ない。

おかしいぞ。主役がいない。

2006年05月14日 | Weblog
どうでも良いことだ。目くじらを立てているつもりはない。ただ、「街はだれのものぞ」、とか「街作りの主役は誰?」といった観点から、主客転倒の事例として、 街づくりの祝典の主役やゲストが首長や議員連中が慣例化している事実に
その事実が如実に現れている、ということである。

 そもそも彼らを招き、主役として処遇するといったこと、そしてお客様にも見せたこともないような慇懃な言動を見るたびに、なにか感覚がおかしいとしか思えない。哀しくなるのだ。
 商人は、どうしてそんなに卑屈に鳴らねばならないのだろう。

 「首長や先生がたにはお世話になったから」ということだろうが、その事業費は
税金である。彼らも払っている。しかも補助金も在るが、大半は、次の世代までの彼らの借金である。その返済は、これまでも、今後も商店街を支えてもらうといった形でお世話になるのは消費者。買い物に依存しているのである。

 頭を下げなければならないのは消費者へだろう。だがその場で、その主役の消費者への感謝を述べるといった事例を、これまで一度も見たことはない。
 それで、翌日、「さああ、さ、いらっしゃい」、なんかおかしいのである。


なんだか変だ。街づくり

2006年05月13日 | Weblog
 国や県市町村資金を提供する人たちの代表。それにおおよそ住民とは異なる生活空間をもつ人たちが中心になり街が構想される。とくに後者の専門家と称される人たちが、高邁な理論や先進地事例を下敷きに彼らの描いたイメージ、理想が、先にあり、その具体化として、その街が使われる、といったうがった解をしたくなるようなケースすら見られる。

 当然作り手視点、売り手本位の街や店になる。街作り会議といっても、その過程で利用者、買い手、住民を中心に据えた視点で、ことが論議されることは稀なのだ。そもそも彼ら消費者の立場を代表する関係者が存在していないのである。

 街や店を選択し、利用し、買い物をする人は消費者である。わかりきっていることなのに、街づくりが作り手、売り手中心主義、商店本位の論理でプランニングされる。時として商店街を構成する商店主たちの声すら買い消される例だってまれではないのだ。

 これで出来上がった商店街に、作り手、売り手と消費者とのさまざまなギャップ
が生じる。その乖離は、街ができあがる前、存在したものに、こんどの新たなスタートの過程に生じたものが加わるから、さらに乖離は開く。
 これでは、オープンその後の行く末がどうなるかは、予測がつくというものである。

先をみて、今を見る

2006年05月12日 | Weblog
先を見て、というが、どういうことだろう。
先を見ての先(長さ)、その先に何を見て、のことだろうか


 どこまで計算にいれて、損得を判断するのか、ということは経営者が性格的に、ノンビリしているか短期であるかに影響されてはこまる。また倫理観のあるなしにまかせるのも恐い。やはり判断には損得計算的なり、科学的計算性の裏付けが不可欠である、と考える。

 また短期がいいか、長期が良いかのタイム・スパンの問題ではない。後者、すなわち長期スパンにこそ、戦略の真髄があるからである。

 だから短期・近視眼的視野からの判断、また自分たちの都合のいい合理化の結果、長期的には不幸を創る可能性があるぞmという、意味での「先を見て」という、ことが活きてくる。

 その予感がするためか、その後ろめたさに気がつき、その埋め合わせに、「お客様第一主義」といったことをのたもうのは、ある意味では差問題の先送りであるし、粉飾にも価する。

 そのためには短期的には、、現実を直視、ことの大小、是非如何に関わらずこの今の事実を認めることが重要である。

 戦略とは、端的に言えば、「先をみて、今を見る」ということかな。

一分の益、九分の損

2006年05月11日 | Weblog
「一分の益、九分のムダ」

どの市町村でも観光案内とか、路案内板が作られているが、まずわかりにくい。それに土地のものでしか読めない地名に振り仮名がついていない。これは案内板を、誰が見るのか、なんのために作るのか、といったことをまったく考慮しない人たちの産物の典型例である。
 こうした看板やパンフレットを見る人はその土地に不案内な人に限られる。だから、作り、設置するのだ。わかりきったことである。それなのに、不案内な人には役に立たない、町の人には無用な看板やパンフレットを作る人の感覚
はどうなっているのか。こうした視点で街を見回すと、至る所に自分の財布からお金を出さない人々の無駄遣いの例は見られる。
 たとえば、「おもてなしの街」、「地球に優しい地域作り」といった看板をみて、「そうか、おもてなしをやらんといけんばい」とか「なるほど、ええことやっるやんけ」と、思う人が一人でもいるのか。「えぇーえ、財政逼迫の昨今、、」と出すべき時には、金がない。こうした無意味なことになると、金が出る。こうした「しくみ」というか「構造」は、笑止に堪えない、とののんきなことを言ってはおれない。笑うのを即止めて、止めるよう市民が動くことである。
 
 一事が万事。こうしたことが莫大な投資を伴う、箱造り、街づくりだったら、どうであろうか。完成するまでの経済効果という甘い言葉と、それを決断した首長の名が残る、といった極限られた効果のため、市民の多くが、未来まで縛られるツケ、失うものは大きい。 2006/05/11


サービスを思う

2006年05月10日 | Weblog


 商品とサービスといった言い方がある。
いうまでもなく商品は貨幣によって購買される使用価値を持ったモノ=ハードである。これは目にみえるからよくわかる。
しかし、サービスとなると、ちょっとあいまいで、捕らえがたい。試しに、朝礼ででも「商品にサービスを添えて」とか「サービス精神でもって」といったことを、従業員に言ってみる。いつもの通り、「ハーイ」と皆、元気に、明るく応えたとする。
「これで良し」と朝礼をお終いにせず、彼ら、彼女らに名指しして、尋ねてみようではないか。
「あのね。君。それで、サービスを添えて、といったらハーイと返事したよね。そのサービスを添えて、ってどういう意味?君だったら、何を添えるのかな。」。

そう尋ねたご本人に、従業員の一人が「専務(あなたのことですよ)、ではそのサービスつて何ですか。具体的な中身は?」と切り返して、きたらなんとお答えされるだろうか。ハタッと困るのではないか。

中身がわからず、具体的に表現できなかったら、第三者のお客様に伝えることができないではないか。伝えることが出来ないことを、朝礼で話しても意味がないではないか。

だったら、そうした曖昧語、横文字、カタカナ語を使わずに、最初から、やって欲しいサービスの具体的内容を指示したらいいのである。「挨拶は、25度ではなく35度までは腰を折り、」と。実際にやって見せたらいい。このお辞儀のしたら、その前後の言葉も丁重になった、とは実践したお店の経営者の話である。

ところで、サービスというと、すぐ浮ぶのは価格サービスだ。「サービスしなさいよ」とお客が店主に迫る。これは値引きの要請である。同じ使い方で「誠意を見せなさいよ」といった言い方もする。とすれば多分に、サービス=誠意=値引きであるろうか。
だから、「誠意見せているから、丁寧に応対しているではないですか」と、いった返答をしたとしたら、お客の方がキョトンしてあきれた顔をするはず。「人の気持ちがわからんのかいな」。ちなみにこの「人の気持ち」も、人の気持ち=サービス=誠意=値引き、になろう
か。
売り手も買い手も曖昧な言葉を交わしているのは、前者は「値引きを恐れ」、後者は「値引きを求めて」、そのためにそうしたあいまいでぼかした言葉で、丁々発止やっているわけである。これらはサービス自体があいまいで、価格以外に具体性がない、ということに起因している、と言うことだ。

「そもそもお客やその折の気分でサービスとか誠意を見せるとかいって値段をまけるというのは一物一価の原則に反しており、近代的商法から外れている。」と、経済原則を持ち出して抗弁しても、この問題は解決しない。これはその経済則「原理一物一価の原則」が間違いではなく、その原則の前提要件として「同じ物なら」という、この前提を崩壊させている作り手、売り手の責任問題なのであるから。
つまり、「本来のサービス概念は、消費者へ利する、消費者にとっての付加価である」のに、それがないか、希薄だから、ことが起きている、というのが私の持論である。

事例で述べたい。
「モーニングサービス」や「サービス定食」はどうであろうか。喫茶店が、手軽な朝食を用意するといったこと、またばらばらのものを組み合わせ(セット)にしたサービス定食は便宜性の提供といったサービスになろう。が、サービス定食はそれぞれ単品で注文するより若干安くなっている、というのであれば一種の値引き。しかしそれがそれなりの味、量なら、なにもサービスしたことにならない。
つまり、この事例では、サービスは売り手の販促の1つ。そして付加価値を得るのも売り手側(が大)といってよい。
その典型的例が、スタートはスーパーに始まり、今はガソリンスタンドで使われている「セルフサービス」だ。

本来のサービスには、上に触れたように消費者に利する、消費者から見てのサービス、消費者がそう感じるサービスであって、企業側にしたらどこか無償の行為という非経済的動機がそこに含まれるのではなかろうか。

ともかく、相手、消費者に喜んでいただく、といったサービスの本質を二の次にして、サービスと言う名目の元に人の気を引きつけ、最終的には己の利を図る、といった、いわば釣り針みえみえの撒き餌的サービスの反乱自体が、サービスをさらにわかりにくくし、ときには怪しげで、胡散臭いものにしたことは否定できまい。
そういう意味で、サービスは低下してきている、というより不良化してきている、というのが、現場で感じる私に実感である。
そのことは、モノづくりに起因、いな同根だ。なぜなら、本当にいいものは「サービスなど不要で、消費者に益し、売れるもの」だ、と考えるからである。

再度ギヤ・チェンジの勧め

2006年05月08日 | Weblog
 本来、企業がやらねばならないことは不況対策や経営の合理化、ましてや経営手法の流行を追っかけるといったことではない。こうした企業や経営内部の問題ではなく、企業外のこと、個々の消費者がどんな生活を営み、何を望み、何に不満を抱いているを、やはり企業内部の各人が、個々己もまた生活者の一人、として掴むことである。

 その上で、数々の選択肢の中から「今期は、消費者が我が社に望む店づくり徹底的に検証する」といった企業内部での最重要課題が決定されることになる。
 ただそれは1に、政治用語として使われている天下り型やパラシュート方式ではなく、あくまで「消費者が」といったように、消費者を主語とすること。2に今まででみたいに消費者ニーズの平均値をとった最大公約数的なものであっては、断じてならない。たとえば品揃えでいうなら、あくまで一人一人の消費者ニーズを捕らえたうえで、それを総和したものが品揃えと定義を変えなければ、なんてことはない口で言ったことと実際は、ということで、これまでと同じ結果になってしまう。

個々のお客がほんとうは何を望んでいるか検索作業を行い、それを一つずつ積み上げていく。こうした手暇のかかるアプローチを通してみると、これまでのMD(マーチャンダイジング)、商品分類、品揃え、陳列といったことがマクロ的な集約結果、バーチャル化され、実態にない、それも消費者サイドではなく企業側の都合に加工されていることが、自ずから理解できるはずだ。経営者が嫌う、効率の悪い手暇のかかる作業を通してしか得ることの出来ないるもの(価値)の大きさと、これまでのマクロが如何に機構であったかを知ることになる。
 ここまで来れば、私の提案が、企業にとって実効生産性が高いことを理解してもらえると革新している。

今ほど、企業の論理や似非お客様第一主義といったことから、消費者の側に立って掛け値なしに消費者の願望なり利益を優先第一とする思考と行動へのギャチェンジが求められるときはない。念押しするが、求められるのは「ギアチェンジ」である。このギアチェンジなしのままで、企業の論理や行動の暴走を牽制する機能としての企業倫理や人間としての道徳的問題でお茶を濁しても、解決の先延ばしに過ぎない。

 このことは、同様の不祥事が繰り返されていることから容易に理解できる。
数々の企業の不祥事、企業犯罪に共通する根本原因は“企業の論理”そのものにある。すなわち企業の論理による思考と行動が、結局は企業のこれまでの利益と将来の可能性までだめにしてしまったり、企業生命を短くしている諸悪の根元である、と申し上げているのである。

 だから「企業の論理」がまかり通る限り、短期的には企業にとっては正義であっても、長期的には消費者とその位置する社会から否定され、自らを滅ぼしかねないことは、疑いの余地がない。
だから、企業が永続的繁栄を望むのであれば、「企業の論理」を捨て、「消費者の論理」というメルクマール自体を、ギャチェンジすることである。


寂しい人

2006年05月06日 | Weblog
 自社関連、たとえば自社の記念祭、会長の授賞式、自社に関する新聞記事といったものを、経営者あるいは社員がクラップしている。
 
 貴重な人件費かけてなんとムダなことか。そんな余裕があれば、客先のスクラップを作りそれを営業マンに持たせて、客に渡すことだ。

 自画自賛のパンフレットや社内報を発行して、どれだけの意義と効果があるのだろうか。ないとはいわないが、「より」ということを考えたら甘い、と言わざるを得ない。

 私の友人のS社では、取引先の職場の紹介や取引先の社員のスナップ、情報を掲載した社内報をだしている。自画自賛の社内報とどちらがいいだろうか。

 会社は、社外からエネルギーや金を取り込み成り立つものである。自分が気分良くなる「自画自賛」と、外部の人が気分良くなりエネルギーや金を注ぎ込んでくれる「他画他賛」と、どちらが自社に益するか。

 そうした損得判断を欠いて自画自賛に夢中、ホレ、チラシ、ホレDD、ほれホームページ、などなど。実にもったいない話である。

 そもそも自画自賛は子供的。あるいは他人に褒めてもらえない寂しい人のやること。あなたの会社は寂しいということを発信するのに、わざわざコストをかけているのである。

 それでも自画自賛したいのなら、新聞を開いた時「この記事みたら何々様が喜ぶなあ」と無意識に思いをはせられるようになったら、「商人として一流」と自画自賛していい。それまで控えることだ。