エピローグ
現在、我が家には鉢植えの「タイム」が2種ある。立性のコモン・タ イムと匍匐(ほふく)性のワイルド・タイムだ。少しにおいに強弱はあるが、葉を指先で軽く擦って嗅ぐと、たちまち茴香魚のにおいが蘇る。
同時に、岸辺の砂を踏む音や、草原に咲くエーデルワイスの可憐な白い 花びらの残像も、河を過ぎる風の冷気さえも五感に蘇ってくる。僕だけのにおいの術。ハーブのタイムの葉を「アラジンのランプ」のように擦 ると何時でも会えるこの魚、僕にとって茴香魚は魔法の魚となった。不 思議な力の「魔魚」である。
ラテン語で「タイムの香りのする魚」と読める学名がついたのは十八 世紀頃だろうが、それよりもっと昔、いつの時代か知る由もないが、 ヨーロッパ大陸の人間が魚のにおいを嗅いで「ああ、ハーブのタイムの香りだ」と認識した嗅覚の記憶を今、僕は庭先で彼らと「共有」してい る。タイムの香りを深く吸い込んで目を閉じると、香りとともに僕は天 空に舞い上がり、しばしユーラシア大陸を駆けめぐる。なんという興奮、なんという感動だろう。
最後に、文中でふれたように、文献によると中国最西北のアルタイ山 脈南麓には、僕にとって未知の魚「北極茴(香)魚」がすむという。こ の手でこの魚を釣り、この鼻でにおいを嗅いでみなければ、中国・大興安嶺に端を発した僕の魔魚談は完結しない。
注)文中「アブラビレの魚」というのはアブラビレ(背ビレと尾ビレの 間にあるヒレ状の肉質突起)を持っているのが特徴の鮭鱒(けいそん) 類の魚という意味です。
挿絵はモンゴルの切手に書かれたグレーリングです。
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3回にわたって読んでいただきました「魔魚談序章」、いかがでしたか?。現代の釣り世界の文壇界の頭におられる人の作品です。私も最初はアユのことだと思いましたが、中国とはいかに広く大きな所かというのが良く分かりました。
何度も書いていますが、大物たちの記録と言っても自分の心の中の大物の話をまとめて書いたものですから、魚が大きい小さいとかの話でないと言う事を知っておいて下さい。
八木禧昌さんのプロフィール
1940年(昭和15年)大阪市西区京町堀に生まれる。
サンケイスポーツ釣り担当を経て現在産経新聞釣り欄常任執筆(垂釣子)。
1960年(昭和35年)、同志社大学に釣り研究会を組織して以来、多数の釣り界先輩釣友にめぐまれる。1980年(昭和55)以来1977年に至る17年間に5度、中国大陸の釣り場に立つ。