5年前の9月、作家の夢枕獏さんと「日本最古の釣り書・何羨録(かせんろく=一七一六年)」をテーマに「対談」の機会を得ました。獏さんはこの本をヒントに「大江戸釣客伝」という、江戸湾の釣りを舞台にした長編時代小説を発表されましたが、だぼ鯊は、300年前の江戸時代の関西圏の釣りの実態が以前から気になっていました。
阿波藩主、蜂須賀公は
代々海釣りが好きだった
先に本稿で、和歌山城に務める奥坊主が部類の釣り好きで足繁く和歌浦方面の磯に通った、との文献をご紹介しましたが、「何羨録」に「江都(江戸)へも阿波垣船(阿波堂の浦のテグス行商船)並びに大坂の檜垣船の船頭持ち来たり、(テグスの)商売することあり」=()はだぼ鯊の注=との記述があり、中国から日本にテグスが導入されて間もない宝永~正徳(一七〇四~一七一五)には確かに阿波堂の浦のテグス行商人が活躍していたわけです。
このことを契機に、三五年ぶりに「阿波」を蒸し返していろいろ調べてみると、なんと、阿波藩の藩主蜂須賀公は代々が大変な釣り好きで、藩内に「御釣り御用」という藩主の「御釣り」のことだけに従事する藩士を十五人も抱え、徳島城下、大岡権現そばの池のほとりに住まわせ「御釣り町」を構成させていたと判りました。その人たちは藩の御印、御紋付の御提灯をもらい、脇差し御免だったというから驚きです。
当然、釣りが、広く趣味として藩士に親しまれていたことは容易に想像でき、江戸の「何羨録」のような「指南書」も存在したはずなのですが今に伝わる文献は発見されていません。
しかし、だぼ鯊は、あったはず、と信じたいのです。
信じたいのは、徳島における釣りの歴史の古さと厚みです。堂の浦のテグス行商船に始まり、船釣り、磯釣り、淡水の釣りを問わず、格調の高いものであったに違いありません。例に挙げたいのは、戦後間もない昭和二十年代に作られた「大公望書」という孔版印刷(ガリ版)の見能林から富岡にかけての釣りのガイド書です。冒頭に「魚釣りの心得九ケ条」が掲げられています。
◇ ◇ ◇
一、汐時を考へて 丸島半時間、中津一時間、淡島一時間半遅れる
二、天気具合を考へて 晴曇 風向 波の大小
三、釣り道具の調子をよく見て 磯色に合すこと 手まめに磨くこと
四、餌の善悪 夏は川エビ、冬は田エビ 白いもの、赤いもの、生死
五、磯の釣場をよく考へて チヌ、クロベは笑、アヒは静かな所、底の「しもり」を見て
六、かぶせの打ち所 一番 遊郭、鳥の糞以外は常に釣らんとする所より一間……一間半汐上に打て
七、浮下に注意して
八、針 人より常に一分小さなもの
九、鉛の打ち方 アイは尺、チヌは一尋と知るべし
◇ ◇ ◇
この後、昭和三十三年にはやはり孔版印刷で「富岡の釣り」というガイド書が出ていますが、冒頭に「釣法秘訣心得」があり、明らかに前述の「魚釣りの心得九ケ条」が下敷きで、今度は十ケ条になっているではありませんか。
だぼ鯊が類推するに、おそらくは「御釣り御用」が存在した江戸末期に、こうした指南書の「種本」が存在し、明治、大正、と時の流れの中で、改訂され、増補され、昭和時代へと受け継がれてきたに違いないと。=この項次号へ続く=(八木禧昌記 からくさ文庫主宰)
追記(佐藤)
久しぶりのダボ鯊の記事楽しく読みました、徳島のチヌ釣りの由来というか、このような記事は地元の有名人である
松田稔氏には知っていてほしい記事ですね、松田さんのことをネットで調べると指切断との記事が出ていましたが
いい加減なことをかかれていましたが、私だけがしっている?