”しんさん”のよもやま話

僕のビジネス感や社会現象に対する意見とかを趣味のヨットやゴルフ等の話を織り交ぜながらよもやま話的に発信します。

しんさんのよもやま話

2009年11月18日 21時19分43秒 | Weblog
11月18日(水)晴

昨日は遅くなってしまい書くことができませんでした。
今日は台湾2日目(11月14日(土))のことを話します。この日は誰も案内してくれる人がいないので自分たちだけで観光することになりました。と言っても他の3人のメンバーは一人を除いてみんな初めてなのにガイドブックも持っていないのです。結局僕のガイドブックを参考にMRT(台湾の地下鉄)の一日乗車券を購入して沿線スポットを見て回ることにしました。メンバーはみんなわからないので自分の行きたいところをガイドブック片手に、勝手に決めて行く事にしたのです。メンバーからは今日だけのツアーコーディネーターと言う事で従ってくれることになった訳です。

まずホテルから地図を見ながら歩いて台北駅に行きMRTの一日乗車券を購入しました。200台湾元(約600円)で一日中地下鉄乗り放題なのでかなりお得です。とりあえず士林(しーりん)に行って、タクシーで故宮博物館に行きました。多分一番近いはずですがタクシーで100元(約300円)もかかりました。台湾のタクシーは初乗りが70元なので安いと言えば安いと思います。故宮博物館は蒋介石が中国から持ってきたお宝がいっぱい展示されており、北京より貴重な宝物が展示されているとのことです。とにかく観光客が多いことと、ゆっくり見ていたら一日つぶれてしまいそうです。我々も宋代から清代のフロアを中心に見て、あとはスキップしてしまいました。一昨年西安に行って秦代や唐の時代は見てきていたので時間の制約上スキップしてしまった訳です。それでも2時間もかかってしまいました。写真は入場門から故宮が見えるようにし、真ん中に自分を入れて、今回広島から参加しているS山さんに撮影してもらいました。故宮だけの写真はそのうちホームページで紹介したいと思います。

再び士林に戻って、街中の店で昼食を取りました。同行した仲間はラーメンを頼んだのですが味が薄いと言って豆板醤と醤油を入れて食べてました。僕は焼きそばを注文したのですが、これがラーメンのつゆを除いたものに野菜をからめたようなもので、正直あまりおいしくありませんでした。でも昨晩の海鮮料理よりは食べやすかったと思います。

士林から再びMRTで新北投(シンペイトー)に向かいました。新北投は台北郊外の温泉地で日本人が発掘した温泉だそうです。本当はここで日帰り温泉に入りゆっくりするつもりでしたが時間があまりないので、源泉近くの川で足湯だけになってしまいました。ここには台湾原住民の博物館があります。僕は日本の国ができたのは沖縄等南西諸島からの漂着民が縄文人になったと思っているので、台湾の原住民の文化の中には日本の縄文人の文化に影響を与えたものがあるはずだと考えていました。そして今回の訪問により、いくつかの点でこの考えが正しいと言う確信に近いものを得ました。ひとつは原住民の風貌が奄美やアイヌの人たちと類似していること、道具類が日本のものと類似していること、夜這いの風習があったことなどです。

もう夕方近くになってしまったのですが、その後更にMRTで新北投から淡水(ダンスイ)に行きました。淡水は台北北部の港町で夕日がとてもきれいなところです。残念ながら曇り空のため十分きれいと言うわけではありませんでしたが観音山の岬を眺めるだけでもよい眺めでした。
また淡水はガイドブックには乗っていませんでしたが海岸沿いに屋台がずらっとならんで現地の人たちが大勢歩いていて、日本の祭りのような光景です。独特な臭いの屋台からアクセサリーまで何でもあって夜市より楽しめます。今回は土曜日と言うこともあって台北からの家族連れが特に多かったのかもしれません。

淡水から帰りのMRTに乗った時は既に暗くなりかけていました。ここから今度はMRTで雙連(スンリェン)に行き、歩いて寧夏路夜市に出かけました。ところが雙連駅に着いたところで最年長のO井氏が足が痛くて歩けなくなってしまい一人タクシーでホテルに戻りました。残った三人で寧夏路夜市を探して歩きました。途中で地図を見せて女学生に英語で道を聞いていると中年のおじさんが入って来て日本語で地図をみながら教えてくれました。台湾の年配者はかなりの人が日本語ができるようです。やっとのことで着いた寧夏路夜市は500mぐらい道路を歩行者天国にして屋台がずらっと並んだ飲食中心の夜市でした。まだ始まったばかりでどの屋台も準備中のところが多く雰囲気を味わう程度でした。

ここからまた元の雙連駅に戻り、MRTで台北に帰ってきました。台北からはネオンの中を朝の記憶だけで戻り出したのですが、20分も歩いてからどうも道を間違えたことに気づき、もう一人のメンバーY川氏が店に入ってホテルに戻る道を訪ねても知らないようです。地図を見せて現在地を訪ねると地図には載っていない場所を指差す始末です。店の客まで寄ってきて、もうタクシーで帰るように言われる始末でした。どうもホテルのある所とは180度反対側に来てしまっていました。タクシーで120元もとられてやっとホテルにたどり着きました。

ホテルに先に戻ったO井氏と合流して、一服してから食事にでかけました。今度はO井氏が台湾の友人の周さんと連絡を取り、小龍包(しょうろんぽう)のおいしい店を聞いておいてもらったのでホテルの近くの金品茶飲と言う店で小龍包を目一杯食べまくりました。アサヒビールや焼酎まであって、久しぶりにあらゆる中華を食べながら焼酎のボトルも1本空けてしまいました。最高においしかったけど値段もずいぶんでした。

あとはホテルに戻ってバタンキューでした。とにかく電車と歩き中心だったので足が痛くてたまりませんでした。足裏マッサージに行きたかったのですがホテルに戻るともうどこにも行きたくないくらい疲れて、日本から持参したスタミナドリンクを飲んで朝までぐっすりでした。

こんなに長い文章を最後まで読んでいただきありがとうございます。
でも効率的なバスツアーでなく自分達の足と案内書だけの旅もまた楽しいものです。今回はアラカン(還暦に近い人達)おじさん4人の旅でしたが、もうこんな旅は二度とできないかもしれません。翌日は台湾の友人 周さんの案内で今回のようなことはありませんでしたがこの話はまた次の機会にしましょう。
それではまた。
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しんさんのよもやま話

2009年11月16日 20時14分32秒 | Weblog
11月16日(月)晴

今日の午後無事台湾から帰国しました。今回は5年前ぐらいにいっしょに仕事をしていた人達と台北を中心に観光してきました。台湾の友人がいると言うメンバーの一人がいるから誰も観光場所すらお任せのつもりでしたが、仕事の関係で日曜日だけしか案内してもらえませんでした。従って金曜の夜から土曜日までは自分達で観光スポットを巡ることになり、ガイドブック片手に電車とタクシーの疲れた旅になってしまいました。バスツアーと違い非効率ですが、台湾人と同じ生活空間に入り込んだ旅もまた楽しいものでした。

今週は台湾道中記兼食の探索結果を報告することにしましょう。

11月13日(金曜日)、昼過ぎに広島、鈴鹿、多治見のメンバー達と名古屋駅で合流し、揃って中部国際空港に行き、空港でとりあえず2万円ほど現地通貨に交換してチェックインカウンターに。
16時50分発のキャセイパシフィックで台湾に向うのですが、2時間前にチェックインと言う事でずいぶんゆっくりできたのはよかったのですが、ゴールドカードメンバーが入れるラウンジでビールを飲みすぎてフラフラでした。このラウンジは飲み放題でかつ自由にとれるつまみもあるので中々快適です。もっとも娘に頼まれたゲランの香水セットと口紅は忘れないうちにちゃんと購入しておきましたので一安心だったのかもしれません。

台湾までは3時間30分の空の旅ですが、時差が1時間あるので現地には19時20分に着きます。まぁ1時間得をした感じです。ただ飛行場から台北市内までは約1時間弱かかりますのでホテルにチェックインできたのは21時近くになっていました。それから夕食を食べに行ったのですが、現地添乗員に教えてもらった現地で人気の海鮮居酒屋にタクシーで繰り出しました。確かに人はいっぱいで路上のテーブル席しかありません。店先に並んだ海鮮料理の中から食べたいものを選んでテーブルに運んでもらう方式でした。とにかく食べれそうなものをいくつか頼んで、台湾ビールとチンタオビールで乾杯です。しかしながら僕にとってうまいものは一つもありませんでした。独特な臭いとおいしくないものばかりで最悪でした。それでもお酒は紹興酒1本とワンカップの日本酒で最後には頭が痛くなってしまいました。アサリは半ナマだし、チャーシューのような肉には骨がバリバリ入っているし、オキアミののったシューマイは冷たくて臭いがきついしで食べるのに苦労しました。まぁまぁおいしかったのは麻婆豆腐と茎のような野菜を炒めたものぐらいです。あと野菜が入ったたまご焼き風のものぐらいでした。もう最後は僕が持参したかきピーで飲んでました。しこたま飲んで食べても600元(約1800円)ぐらいですから仕方ないかもしれません。

とりあえずこの日は現地の人達が行く居酒屋を若い女性の現地添乗員に紹介してもらったのが間違いだったかもしれません。僕が一番食べたかった小籠包はお預けでした。
14日以降の話はまた次回とします。
今日は疲れたのでもう休みます。それでは。
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しんさんのよもやま話

2009年11月13日 07時14分08秒 | Weblog

11月13日(金)?

今日は早朝からです。実は今日から4日間の予定で台湾に行ってきます。従ってこのブログも今日でしばらくお休みです。

さて今回は七福神の第4話、弁才天の話です。
弁才天は元々インドの神で妙音天の名もあるように、音楽・芸能の才や智弁の才をつかさどる神様です。左手に琵琶を持ち右手でこれを弾奏している姿で描かれています。

インドでは川や池、湖などの水を神格化した農業神だったものが弁舌の女神と結合して学問・音楽・芸術の女神の性格が付加されたようです。その後仏教の守護神となっても音楽・芸術の神としての性格はそのまま引き継がれました。

日本では弁才天を弁財天とも書いて財産をもたらす商売繁盛の神としての面が強調されていきます。平清盛は青年時代に不遇をかこち、弁才天に祈ったことで救われたと言われています。そのため安芸の宮島の厳島神社建造し、弁才天を祀ったと言われています。

弁才天ほど神仏習合思想の中で数多くの神々が結合されて現在に至っている神はないかもしれません。そう言う意味ではもっとも現世利益に深くかかわった神とも言えると思います。
日本古来の稲の神である宇賀神、水の神である水神と結合し、また稲荷と結合した茶吉尼天(ダキニ天)とも結合していくことになります。ちなみにダキニ天はキツネに乗った天女として描かれます。こうして水神信仰、観音信仰、吉祥天信仰、稲荷(ダキニ天)信仰など様々な信仰を吸収・継承することで一躍人気が高まったようです。
そのため民衆が期待する福を授ける神として、豊穣・多産・エロス・蓄財・出世といった現世利益の代表的な神様となるのです。

ここで一つ昨日の訂正をしておきます。弁才天の使者をキツネと言ってしまいましたが正確にはダキニ天の使者がキツネであって、弁才天の使者は白蛇です。ごめんなさい。そんなところからお金が貯まるように蛇皮の財布が作られたかもしれません。

弁才天を祀った有名なところとして日本五大弁才天を紹介しておきましょう。琵琶湖に浮かぶ竹生島の宝厳寺(ほうごんじ)、宮島の厳島神社、江ノ島の江ノ島神社の三つが日本三大弁天です。さらに奈良吉野の天河弁財天社と宮城の牡鹿半島金華山の黄金山神社を合わせて五大弁天です。いづれも海岸・湖・川といった水に関係する風光明媚なところに祀られており、元々インドで水の神だったことは不思議と継承されています。

これで七福神の主だった神様は話終りました。残りの福禄寿、寿老人は中国の道教の神様です。簡単に説明すると、福禄寿は道教では万人の理想とされる長い白髭の老翁です。また寿老人は道教では寿命をつかさどる神です。最後に布袋ですが、中国に実在した高僧がモデルと言われ弥勒菩薩の化身とも言われる満面笑みの肥満型の僧です。禅宗が盛んな室町時代に掛け軸によく使われていたことから神格化したのではないかと思います。

以上で4回に渡って書いてきた七福神の話は終わりです。簡単に書こうと思ったのですが結構むずかしくて中々うまく書けなかったことをお詫びします。弁才天だけでも一冊の本が書けるくらい奥が深いですね。素人の僕がまとめようとしてもうまくいくわけがないのは当たり前かもしれません。ただ今回つくづく思うことは、聖徳太子の神仏習合思想のすごさと言うか発明は日本と言う国の在り方に大きく影響を与えたのではないかと思います。なにしろ日本古来の神社と思っていたのがいつの間にかインドの神様を祀っているのですから。そんな意味では日本人と言う民族は、あまり善悪にこだわらない、極めて自然体で物事を受け入れる寛容な人達で、根本は結構道教的だったのかもしれません。

今日は早朝に書いています。これから3泊4日で台湾に旅行してきます。もう5年ぐらい前に約束していたままになっていたことですが、やっと今回実現しました。そんな訳で昔はいっしょに仕事をしていた仲間達ですが現在は仕事も場所もまったく違う4人で遊んできます。台北は中華料理のおいしい所と聞いていますのでいろいろ食べまくってこようと思います。
それでは来週までさようなら。


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しんさんのよもやま話

2009年11月12日 21時11分22秒 | Weblog
11月12日(木)晴時々曇

昨日書き損じた日本の神様第3話、毘沙門天の話を再度書いてみましょう。毘沙門天は仏様を守護する四天王の一人、多聞天のことです。元々仏教伝来と共に比較的初期の頃から伝わってきた神様です。多分皆さんは奈良の東大寺の大仏様の四方に四天王が祀られていたことをご存知だと思います。四天王と言うのは広目天、増長天、持国天、多聞天を指します。仏界の北方を守護するのが多聞天ですが、四天王の中でも多聞天は霊威が一番強いとされている武神です。従って初期の多聞天は怨敵退散をつかさどる四天王の一人として多くの寺院に祀られました。聖徳太子も戦いに多聞天の像を持って臨み、勝利のあと四天王寺を作ったと言われています。

その後霊威の強さゆえに単独でも祀られるようになったようです。京都の北方の守護神として鞍馬寺に祀られたのが最初のようです。一般に単独で祀られる時は多聞天と言わずに毘沙門天と言います。毘沙門天は使者が百足と言われ、百足は鉱脈をあらわすことから鉱山業関係者に信仰され、やがて刀鍛冶や金属加工業者に広まっていったそうです。また武神と言うことから武士や貴族の信仰も集めていったようです。上杉謙信は毘沙門天の生まれ変わりと言われが、旗印を「毘」としていたことは多分御存知だと思います。

毘沙門天を祀った寺としては前述の鞍馬寺、奈良の信貴山の朝護孫氏寺(ちょうごそんしじ)、足利尊氏の信仰を受けた栃木県足利の最勝寺が有名です。

ちなみに大黒天の使者はネズミ、弁才天の使者はキツネです。弁才天の話はまた明日することにしますが、七福神の中で唯一の女性神で、いろいろな天女が混同されて現在の弁才天になったとされています。毘沙門天の妻である吉祥天も古くは信仰の対象でしたがいつのまにか弁才天に統合されていったようです。

こうして七福神を見てくるとおもしろいことに気が付きました。大黒天は穀物の神ですから農業に携わる人達に、恵比寿は漁業神及び商売繁盛の神として漁業関係者や商人に、毘沙門天は武神と言う事で武士や工業に従事する人に受け入れられていったのです。すなわちどんな人達にも受け入れられるように良く考えられていると思いませんか?

あと弁才天について話をすれば、残る布袋、福禄寿、寿老人の三人は禅宗が最盛期の時に出き上がったために入った神達のようです。もっと時代があとだったら福助とかが入っていたかもしれません。

と言うことで今日はこれまでです。明日は弁才天について話をします。
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しんさんのよもやま話

2009年11月11日 20時43分29秒 | Weblog
11月11日(水)雨のち曇

きょうはもういやになってしまいました。
昨日の続きで七福神の3番目として毘沙門天のことをかいたのですがなぜかアップできずにすべて消えてしまったようです。それも2回もです。それでもう今日はやめました。これもだめかもしれません。無料ブログなので怒れませんがふざけるなと言いたい気分です。
それではまた気が向いた時に。
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しんさんのよもやま話

2009年11月10日 20時43分38秒 | Weblog
11月10日(火)曇のち雨

夕方から雨になってしまいましたね。
ところで今日の話は昨日に続き日本の神様の第二弾です。今日は恵比寿様(戎あるいは夷とも書きます)の話をしたいと思います。
恵比寿様は七福神の中では唯一仏教や中国にゆかりのない神様のようです。元々日本の古代においてエビスあるいはエミンと言うのは外来の異人を指して言う言葉であったことから恵比寿様は異国から漂着した人だったと推測されています。漂着した海辺の民に新しい文化や技術をもたらしたことから尊敬され神格化した神様だったのだと自分は考えています。多分漁業に秀でた知恵を持っていたのでしょう。

そんな訳で元々は海辺の民の間で信仰されていた性格の荒い「寄り神(漂着神)」だったと言われています。立烏帽子をかぶり、鯛を腋下にかかえているのは海辺の民の漁業神だったことを物語っています。漁業の守護神となっていったのは大黒様が農業(穀物)の守護神であったのと対称的ですよね。僕の田舎の台所の神棚には大黒様と恵比寿様の像があって正月にはお供えをしていましたが何か納得できそうです。

その後魚介類を他の物と交換する市場のも広まり、市に祀られるようになり「市神(いちがみ)」として信仰されます。そこから漁業関係者や商人の守り神になって行く訳です。
そしてさらに都市部において「商業神」として祀られるようになり、商売繁盛をもたらす守護神として商家をはじめとする民間に普及していったようです。西宮神社や大阪の今宮神社の十日戎の祭り(1月10日)は有名です。戎(えびす)さまを祀った神社では一般に二十日戎と言って10月20日に祭りとなる神社が多いようです。十日戎にしても二十日戎にしても商家が祭りとして安売りをするなどして全国に広まっていったようです。

恵比寿信仰の始まりは西宮神社とされていますが、この西宮神社も元々は広田神社に属していた神社で神功皇后を祀っていたそうです。神功皇后が天照大神の荒魂を祀ったことに始まり、それが阿弥陀仏になり、その摂社として夷(毘沙門天)と三郎(不動明王)があったとされています。それらが恵比寿神と混同・合体して現在の恵比寿になっていったと言われています。そのため夷三郎(えびすさぶろう)とも呼ばれているようです。

こうみてくると人間と言うのは結構てきとうなことをしていますよね。結局自分達の都合の良いように変化させていってしまいます。ただ元々の原型となる姿・形は意外と継承されていくものなのです。大黒にしても恵比寿にしても守護の範囲はどんどん拡大していくけど原形は元々のままなのですから。

今日は恵比寿様の話でした。毘沙門様の話はまた次回とします。
それではまた。

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しんさんのよもやま話

2009年11月09日 20時06分37秒 | Weblog
11月9日(月)曇

今日も一日無事過ぎました。
今日は日本の神様の話をします。僕たちは現世利益の神々として七福神をよくお参りします。七福神と言えば大国様、恵比寿様、毘沙門様、弁天様、布袋、福禄寿、寿老人の7人を指す訳ですが、これらの神様は室町時代後期から江戸時代初期に作られた神様達です。江戸の町人が七福神の色紙を正月に枕の下に置いて初夢を見ると縁起が良いと言われ、年の瀬になるとみんなが七福神の色紙を買ったことから一躍有名になったと言われています。

今回は大黒様について話をしてみます。
大黒様(大黒天)は現在では因幡の白兎で有名な出雲神話に出てくる大国主命のように言われていますが元々は仏教伝来と共にやってきたインドの神様です。遣隋使として仏教を学び天台宗を開いた最澄が日本にもたらした神様なのです。当時の大黒様は三面で仏教寺院の台所の神として祀られていた神様だったそうです。比叡山の三面大黒が始まりだったと言うことです。

その後台所の神様として民間に受け入れられ、台所が食料に満ちていることを保証する守護神として台所仕事をする女性たちに祀られていきました。今でも寺の住職の妻を「お大黒さん」と言うのはそのなごりです。それがやがて台所の守護神から家の守護神となっていったようです。そこで一家の家計を支える人を「大黒柱」などと言うのですね。

それではどうしてインドの神様が大国主命と習合していったかと言うと大和の三輪明神(現在の大神神社)の解釈から習合していったと言われています。大和の三輪明神は元々大国主命を祭神としていたのですが、神仏習合思想の中で大国主命は仏教側の大黒天に相当すると解釈して仏神両方の信者を獲得しようとしたことから両者が一体化したと言われているのです。

日本古来の神を調べていくとどうしても外来神に行き当たってしまうようです。そう言う意味では我々の先祖は古代から外来文化を自分の中に取り込む天才だったのかもしれません。実は七福神もほとんどがインドや中国の神様です。恵比寿さんだけはちょっと違いますがこれも外来神の一種と言えますが詳しいことはまた次回お話します。

今日は大きな袋を肩にかけ、打出の小槌を持った大黒様にまつわる話でした。
この続きはまた明日以降です。それではまた。
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しんさんのよもやま話・・・ヨット編(09-38)

2009年11月07日 22時25分11秒 | 趣味
11月7日(土)晴

バンザーイ!!日本シリーズ巨人が2-0で勝って日本一になりました。それにしても今日は運がよかったとしか思えないような勝ち方でした。日本ハムの方が毎回チャンスを作りながら得点できないのに巨人は少ないチャンスをうまく生かせた勝ち方でした。日本ハムも11安打も打っていながら肝心な所で押さえられてしまいましたが、さすがパリーグを制覇したチームです。これまでもどちらが勝ってもおかしくないいい試合をしてました。

さてところで今日は先週のリベンジをかけてヨットで釣りにでかけました。朝は早めの8時半に出港し、伊良湖岬に近いトーノ瀬に向いました。風もなく良い日和でしたので釣りには絶好のコンデションでしたが、ヨットの方は風がなくてほとんどエンジンを使っての機走になってしまいました。2時間ほどでトーノ瀬についたのですが4人ともあたりもなく、1時間ほど粘ったのですが何も釣れませんでした。しかたがないので篠島周りに移動し再度リベンジの釣りです。こちらではゴカイでキスが8匹ほど釣れました。ただ一番リベンジと言っていたTeさんだけは先週のうなぎのたたりかエサもとられることなく一匹もかかりません。あとの3人はみなキスを釣っているというのにです。カー坊氏は大きなカレイまで釣ってしまいました。Maさんは小さなタコも釣り上げましたが来年大きくなるまで放流です。僕は狙いがアジなのでずっとサビキをやってましたがこちらもあたりがなく終ってしまいました。それでもエサ釣りの竿を借りて数回釣り糸を垂らしただけなのに一応2匹もキスを釣りました。Teさんの竿にはどうしてあたりもないのか不思議です。やっぱり先週のうなぎのたたりかもしれません。今日の写真は残念ながらありません。デジカメの画面が壊れてしまい写真を撮ることができませんでした。今回はしっかり撮ろうとポケットに入れていたのが間違いで、波によろけてラットに体ごとぶつけて壊してしまったようです。もう一人波によろけて船のエンジンスイッチも壊れてしまいました。幸いスイッチが入ったまま壊れたのでエンジンをかけて帰ってくることができましたが、ひょっとしたらレスキューを呼ぶ羽目になっていたかもしれません。

今年はこれで多分海に出ることはないと思いますが、エンジンスイッチが11月末までに直れば一度海にでるかもしれませんが、今年のヨット行事も残すところ芋煮とBBQの打ち上げ会だけになりそうです。毎年12月の初めに船の掃除、セールの水洗い、非常食の整理を兼ねてレイアに来た人達を招待して打ち上げ会を行っています。最初の頃はBBQだけだったり、おでんが入ったりしていましたがここ3年は芋煮が恒例になっています。一昨年は誰かさんが砂糖をドバッと入れて大失敗でしたが、昨年はリベンジで最高の芋煮を作りました。さて今年はどうなるでしょうか楽しみです。

今日はこれまでです。
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しんさんのよもやま話・・・ゴルフ編(09-24)

2009年11月06日 20時49分13秒 | 趣味

11月5日(木)曇時々晴

昨日は25年近く前にいっしょに仕事をしていたメンバーでゴルフをしてきました。当時の上司はすでに79歳ですが元気です。もうみんな75歳ぐらいになっているので未だに働いているのは2人だけになってしまいました。毎年秋にみんなでゴルフを楽しんでいますが今回は1人欠け7人になってしまいました。みなさん年金で悠々自適のようですが年少組みの僕ともう一人は65歳までどう食いつなぐか考えなければなりません。とりあえず60歳からは比例報酬分だけは収入が無くなれば出るそうなので自然体で行くことにしています。

さてところで昨日の結果ですがまだまだ修行が足りないようです。前半スタート直後はパー・パーで発進したのに3ホール目で2ndを9番アイアンでまさかのシャンクを2回続けてしまいOB2発で簡単なミドルを9としてしまいました。それでもその後4ホールボギーで切り抜け8番ホールのティーショットは今日一番のナイスショットでマウンドを越えていき、ニコニコ山を越えたらなんと前方が池でした。前の組から池に入ったと知らされガックリです。1ペナで残り80Yをピッチングで乗せるつもりがトップしてグリーン奥に行ってしまいました。アプローチを寄せてなんとかダボで収め、9番ホールもボギーで48でした。と言う訳で前半はシャンクの2発のOBを除けば久しぶりの完璧のゴルフでした。
後半は携帯電話のバッテリー切れでちょっとバタバタしてしまって、いきなりOB2発と池ポチャ1ペナでミドルホールで10も叩いてしまい最悪のスタートになってしまいました。その後も2ホール続けてトリプルを出してしまいました。この3ホールは言い訳はしたくないけど仕事の話が携帯に掛って来た所まではよかったのですがバッテリー切れになってしまい、別の携帯を使っての対応に追われてゴルフどころではなかったのでした。僕がいかに精神的に弱いかを暴露した感じです。一応仕事の話が完了した連絡を受けたあとの4ホール目からは少し落ち着きを取り戻しました。と言っても一度くずれたリズムはなかなか元には戻らず4、5ホール目はダボで6ホール目からやっとリズムが戻ってきましたが時すでに遅しで残りをボギー、パー、ボギーでまとめ最終ホールはパー狙いの賭けが失敗して池ポチャでダボにしてしまいました。結局あがってみればトータル56になってしまいました。
そう言う訳で合計104となりまた100を切れませんでした。自分のゴルフは去年から比べれば格段によくなっているのに、プレッシャーに弱い結果になっています。前回が102、今回が104といい所まできてなぜか落とし穴にはまってしまいます。
いっしょにラウンドしたケンちゃんから大叩を克服するために練習をするのだからもっと練習場に行けとアドバイスされてしまいました。

昨日はショックでブログを書く気にもなりませんでした。今日は昨日ジャイアンツが劇的に勝ったこととヤンキースの松井選手がワールドシリーズ優勝でMVPに選ばれたニュースで気分がよくなっているので書く気にもなりました。
それではまた。

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しんさんのよもやま話

2009年11月04日 21時28分42秒 | Weblog
11月4日(水)晴

付き合っていた男性が次々と死んでいると言う女性のニュースがTVをにぎわしています。その女性のブログもインターネット上で見ることができるようです。僕も昨日ちょっと覗いてみました。僕のような文章ばかりのブログと違って写真も多く、作った料理?のようなものに若干のコメントがあるようなものでした。あれだけ見ていると料理好きの普通の女性のように感じますが、いっぱいミツグ君がいたようです。あんなニュースが流れるとブログを書いている人は嘘ばかりで・・・と言われているようでいやになってしまいます。
このブログは別に読者を意識している訳でもなく、徒然なるがままに日々の行動や思いを書いているだけで、一部の知り合いを除いて誰に読まれているかもわかりません。ただアクセス数から判断してあまり多くの人には読まれていないようです。それでももう3年近く書き続けています。単に僕と言う人間の存在証明をしているだけのものです。最初は読んでくれた人の為に少しは役に立ちたいと言う思いとブログサイトを自分で立ち上げてみると言う好奇心から始めたのですが今では完全にマンネリズムに陥っています。そう言う意味ではそろそろ方向転換したいと思い始めました。

毎日気ままにパソコンに向って自分の頭の中を整理したり、趣味のヨットやゴルフのことを書いてみたりして、暇をつぶしているだけになってしまったので、あとで読み返す価値もない話ばかりです。今年は多分このままですが、来年は止めるか方向転換しようと思います。ホームページも簡単に作ってみただけで初期の目的はどちらも達成済みなので、もう少し勉強して違った形を来年までに考えてみたいと思います。

と言うことで今日は日本の神様のことを書いてみようと思っていたのですが、それはまたいつかにします。ただ言える事は日本の神と言うのは聖徳太子の神仏習合思想の影響なのか、ものすごい混血だと言うことです。日本の神話の世界の神様とインドの仏教上の神様が渾然一体化して民間信仰になっていることです。まぁ以前にも書いたかもしれませんが仏教伝来と共に漢字が中国から入って来てやっと文字に残せるようになった国ですから、日本の神話にしても仏教の神様にしても同じ年代から出来上がったものであると言えます。そう言う意味で本来の御利益は何だったのかを調べてみるのはかなり興味深いことです。もう1年以上前から仏像とか神社の由来とかいろいろな本で調べていますが、もう何が何だかわからなくなるくらい複雑です。こんなことを知ったからと言って何の役にも立ちませんが古代の人達のことを想像するにはおもしろいと自分では思っています。

明日は20年も昔にいっしょに仕事をしていた先輩達と年に一度のゴルフです。思えば当時の部長が大のゴルフ好きでゴルフをやるようになったのでした。あれから少しも進歩しませんでしたが最近少し進歩したような気がするのでみんなが驚くかもしれません。ほんとうは会社の会議が入ってしまったのですが代理をお願いして休暇を取りました。
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