昨日、京大助手時代(1970年~1974年)に一緒に水俣に調査研究と住宅設計のために行った当時大学院生だった山川元志さん(現在、「家基都」主宰http://www.mukugi.com/kinomi54.htm)が、当時の話を思い出させる話をされたので、その後、当時一緒に科研費等で共同調査研究をしていた宮本憲一先生(当時、大阪市大教授、その後、滋賀大学長等歴任)の編集になる『水俣レクイエム』(岩波書店刊)について、少し記したい。
1994年の年末に九州大学名誉教授の青木正夫先生(故人)から手紙が来て「『西日本新聞』にあなたのことが載っていたのでコピー同封する。」とのことだった。
1994年12月7日号の一面下欄(春秋)(『朝日』の天声人語に似ている)に確かに私のことが書いてあった。
「若くして亡くなった水俣病患者の佐々木つた子さんの歌集『水俣レクイエム』が出た。住環境学の西村一朗・奈良女子大教授が患者と住まいと歌との関係について一文を寄せている。住宅のあり方を考えさせるものがある
▼西村教授は佐々木さんのために住宅を設計した。水俣市内には一時、補償金で豪華な御殿のような住宅が次々と建った。せめて家でも立派に、という気持ちは分かるが、豪華さが住みよさを生むわけではない
▼そう考えた西村教授は佐々木さんの闘病生活を第一に、窓やバルコニーを通して外界との交流が実感できるような家にした。住まいは体の不自由な患者にとって、いわば小宇宙だからだ。そこで森羅万象を感じ取らねばならない
▼「朝床に目覚めて見おり窓越しに重盤岩に立てる日の丸」「しずく垂る梅の木下のしめり地を猫はしずかにふみてとおりぬ」「窓あくれば真向かいの山の美しさ夕陽あびたるはぜが眼にしむ」「朝あけに新聞配れる少年は鼻唄やめぬ顔洗う吾(あ)を見て」
▼患者の感性は移りゆく自然や環境に対して普通の人よりも敏感だ。はたして今の病院や住宅はそういうことへの配慮が十分だろうか。人は自分を生みだした環境に過不足なく囲まれて安らぎを得る
▼現実には、とくに過密都市では「ウサギ小屋」といわれるほど住環境は劣悪だ。水俣病患者に限らず「住まいは家族生活という”ドラマ”が演じられる”基本舞台”でなければならない」と西村教授は言う。」
佐々木さんの住宅については、私と山川さんとで基本計画を立て、実施設計をしたのは山川さんだ。山川さんは、その後たくさんの住宅設計や改修に携わっているが恐らく、この設計が最初ではないかと思う。
私が、その後、住宅計画に当たって「地域の人々とのつながり」「環境とのつながり」そして自分史を含め「歴史とのつながり」をきちんと配慮することが大切、という考え方を提起確立したが、それへの第一歩が水俣病患者の住宅問題への取り組みだった。
1994年の年末に九州大学名誉教授の青木正夫先生(故人)から手紙が来て「『西日本新聞』にあなたのことが載っていたのでコピー同封する。」とのことだった。
1994年12月7日号の一面下欄(春秋)(『朝日』の天声人語に似ている)に確かに私のことが書いてあった。
「若くして亡くなった水俣病患者の佐々木つた子さんの歌集『水俣レクイエム』が出た。住環境学の西村一朗・奈良女子大教授が患者と住まいと歌との関係について一文を寄せている。住宅のあり方を考えさせるものがある
▼西村教授は佐々木さんのために住宅を設計した。水俣市内には一時、補償金で豪華な御殿のような住宅が次々と建った。せめて家でも立派に、という気持ちは分かるが、豪華さが住みよさを生むわけではない
▼そう考えた西村教授は佐々木さんの闘病生活を第一に、窓やバルコニーを通して外界との交流が実感できるような家にした。住まいは体の不自由な患者にとって、いわば小宇宙だからだ。そこで森羅万象を感じ取らねばならない
▼「朝床に目覚めて見おり窓越しに重盤岩に立てる日の丸」「しずく垂る梅の木下のしめり地を猫はしずかにふみてとおりぬ」「窓あくれば真向かいの山の美しさ夕陽あびたるはぜが眼にしむ」「朝あけに新聞配れる少年は鼻唄やめぬ顔洗う吾(あ)を見て」
▼患者の感性は移りゆく自然や環境に対して普通の人よりも敏感だ。はたして今の病院や住宅はそういうことへの配慮が十分だろうか。人は自分を生みだした環境に過不足なく囲まれて安らぎを得る
▼現実には、とくに過密都市では「ウサギ小屋」といわれるほど住環境は劣悪だ。水俣病患者に限らず「住まいは家族生活という”ドラマ”が演じられる”基本舞台”でなければならない」と西村教授は言う。」
佐々木さんの住宅については、私と山川さんとで基本計画を立て、実施設計をしたのは山川さんだ。山川さんは、その後たくさんの住宅設計や改修に携わっているが恐らく、この設計が最初ではないかと思う。
私が、その後、住宅計画に当たって「地域の人々とのつながり」「環境とのつながり」そして自分史を含め「歴史とのつながり」をきちんと配慮することが大切、という考え方を提起確立したが、それへの第一歩が水俣病患者の住宅問題への取り組みだった。
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