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西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

ロンドン、食事・トイレ・バス等

2006-09-23 | 訪問場所・調査地
ロンドンで泊まったホテルは地下鉄ハマースミス駅から歩いて5分のNOVOTEL LONNDON WESTであった。朝食はコンチネンタルだった。毎朝、6時から9時まで希望の時間(30分刻み)に部屋に運ばれてきた。各人パン2個(クロワッサンと菓子パン)、バター、ジャム、ジュース、ヨーグルト、珈琲または紅茶だった。最後の朝は、イングリッシュとしたら、レストランへどうぞ、と言われた。行くとバイキング方式だった。コンチネンタルとイングリッシュが混在するとまずいのでコンチネンタルは部屋運びになっていると理解した。昼食やお茶は何とでもなる。イギリスではアメリカのマクドナルドやスターバックスはフランスと違って「垂れ流し」だ。珈琲ではイタリアから「ネロ」チェーンも来ていてスターバックスより美味しい感じ、だが何と言っても珈琲は日本だろう。夕食は主に日本食、中国人経営の「回転寿司」にも入ってみた。味噌汁もあった。だけど日本人は少なくイギリス人も結構入っていた。日本食は「健康食」として普及しているのかな。せっかくだからと一夜予約してイギリス魚料理を食べにピカでリー・サーカス付近に出かけた。ところが何と左隣がロンドン初日に奈良女子大関係者3人と会食したタイ料理店だった。奇遇である。:http://blog.goo.ne.jp/in0626/e/94194c972564335aa29f6c6e8830b634 出るときに出口でワンちゃんが座ってご主人様が夕食を終わって出てくるのを忍耐強く待っていた。「日本では、まず無理かな」と思った。ところで、町を歩いていて結構、公衆便所が目に付いた。料金50P(ペンス、約120円)、制限時間20分以内と書いてあった。そこで車道を懐かしのダブル・デッカーが走っているのを目撃した。車掌付で後ろから飛び乗り、飛び降りできるやつで一旦廃止が決まったものだが、後で聞くと、「残してほしい」の要望から15番と9番の路線に残ったとのことだった。前に「廃止」のブログを書いている。:http://blog.goo.ne.jp/in0626/e/3ba2666957beeddc774f7c81edd8ad86
(写真は、コンチネンタル・ブレックファスト)
レストラン、トイレ、ダブルデッカーの写真はmixiフォトアルバムにアップ

この記事が、記念すべき1900件目のコンテンツです。

ロンドン、ハムステッド田園郊外06年

2006-09-22 | 訪問場所・調査地
今年もハムステッド田園郊外に行った。今回は、ロンドンに住み働いている奈良女子大卒業生の高木さんと一緒に行った。高木さんは、London footprintsというホームページからハムステッド田園郊外の「歩き方」を引き出しコピーして来てくれた。まあ、それは参考になるが、一々読んでいると面倒なので、私が去年のウオーキングでも用意し、恐らく高木さんが学生の時に私が配った「ハムステッド田園郊外歩きマップ」を今年も使ってざっと歩いた。高木さんは、レイモンド・アンウインの住んでいた家に行ったことがないと言うので、そこにも行った。去年、板が剥がれていた外壁は直されていた。他に高木さんの案内で、この「田園郊外」の発案者、推進者のヘンリエッタ・バーネット夫人が住んだ家の前にも今回初めて行けて良かった。あと、去年と同じようなコースの他、最後の方では高木さんの案内で火葬場やお墓にも行った。昼食は、大通り商店街の中華料理店で三人で歓談しつつ食べた。高木さんは愛知県の出身、奈良女では増井正哉先生のゼミ、大学院1回生の時にイギリスに留学、卒業してロンドンで勤めている。今は、増井ゼミ出身らしく建物の保存・改修の計画の事務所に勤めている。若い時から元気に国際的に活躍できるのは私の若い頃とは環境が大きく変わったな、と感じた。頑張ってくださいね。(写真は、開発最初の住宅、1907年と50周年の1957年にロンドン市長が訪問、と記されているので、これによると100周年は来年2007年になるのかな)
写真30枚はmixiフォトアルバムにアップ。

ロンドン、地下鉄事情

2006-09-22 | 訪問場所・調査地
前にパリの地下鉄事情を一寸書いた。http://blog.goo.ne.jp/in0626/e/55346b8855dc113ece68a6204dabb050
http://blog.goo.ne.jp/in0626/e/b9a48b70d8d0882113696534cc524101
今度はロンドン事情である。私達がロンドンに着いた次の日、9時半頃にピークオフの安い切符を買ってハマースミス駅ホームに行くと、張り紙がしてあり、スピーカーが何度も「今日は何処そこ間は不通です」と放送している。細かいことは分からないが、どうも週末(土日)は改良工事で不通区間が出るようだ。私達も確かめて、目的地にぐるっと回って行く事もあった。とにかくロンドン地下鉄も老朽化してきている部分も多いのでやむをえまい。駅自身をリフォームしていて閉鎖で止まらない駅もあった。パリは14路線がある、と言ったがロンドンは12路線で他にドックランドのライトレールウェーが接続している。ロンドン地下鉄路線を大雑把に言うと、山の手線、環状線のようなぐるっと一周が「Circle line」(こういうのはパリにはなかった!)、その真ん中を東西に抜けるのが「Central line」、ほぼ南北に抜けるのが「Northern line」、東京では銀座に当たるPicaddilly Circusをタスキ掛けに抜けるのが、ヒースローから来ている「Piccadilly line」と西北から東南に抜ける「Bakerloo line」である。他にウインブルドンなど郊外に延びる「District line」も「ピカデリーライン」と共に我々のいた近くのハマースミス駅を通っていた。パリでは、始発・終着駅で行き先を確認するが、ロンドンではライン名と行く方向(North boud、South bound、East boud、West bound)で判断するやり方だ。慣れれば、どちらも分かるが、初心者はパリの方が分かりやすいかもしれない。(写真は、ピカデリー・サーカスのベーカールーラインのホームでの路線図)

ロンドン、ポートベロ・マーケット

2006-09-22 | 訪問場所・調査地
今度、ロンドンに行く前、ブログ交流で事前にロンドンに住み働いている奈良女子大学の卒業生の高木さんと連絡を取っていた。ロンドンに着いた夜に電話をいただいて、土曜日には、ホテルのまあ近くだし、ポートベロ・マーケットに行かれたらどうですか、のアドヴァイスを貰ったので、未だ行ったことがないし、そうすることにした。ハマースミス駅から乗換えでノッティングヒル駅まで行った。降りる客の流れに付いていけば、そこがポートベロ・ロードでマーケットが始まっていた。小物、アンティーク、食料、衣類等々正に細長い町、道に沿ったマーケットである。回りが住宅街なので住民ももちろん来ている。しかし、毎日こういう雑踏が続くと住宅街としては「困る」かもしれないので土曜日だけやっているのだろう。雰囲気だけ大いに楽しんだ。雑踏を抜けて北のラドブロークグローヴ駅まできてほっとしたのだった。(写真は、ポートベロ・マーケットの雑踏)
他の写真はmixiフォトアルバムにアップ

ロンドン、大英博物館

2006-09-21 | 訪問場所・調査地
ラッセル・スクエアに行ったついでに、すぐ隣りの大英博物館に久しぶりに行った。大英博物館は、原語でThe British Museumという。素直に訳せば、英国博物館である。それを我々日本人の先輩は「大英博物館」と訳したのである。まあイギリスは、英語の本場なので定冠詞のTheをつけると、何を指すか決まってくるようだ。例えば、The Cityといえば、ロンドン発祥の地の「シティ」を言う。The Riverといえば「テームズ川」、The Bridgeといえば「ロンドン・ブリッジ」のように・・。でもあえてイギリス人は、「大英博物館」をThe Museumとは言わなかった。もっと古いものもあったからだろう。創設は18世紀であり、2003年に創設250年を迎えている。モーツアルトが生まれる一寸前に出来たのだな。今年がモーツアルト生誕250年だから。私は、ここには1983年に初めて行った。Great Russell Streetのメイン入り口から入った正面の奥に薄暗い入り口があり、そこが有名な「Reading Room(閲覧室)」だった。今回行ったら、メイン入り口から入ると、そこは真っ白い感じのThe Great Court(グレートコート)で2000年12月に完成したようだ。これは真ん中の「Reading Room」を取り囲む円筒が真ん中にあり、左右に螺旋階段で上階にも上がれるし、左右のスペースを通り裏にも行けるようになった。中央のReading Roomが邪魔をしていた館内の交通問題を解決すると共に名前の通り広い屋内広場、コートを提供している。天井はガラスと鉄で外から光を取り入れている。パリ・ルーブル美術館の「ピラミッド」から入ってエスカレータで下に入ったナポレオン・ホールを思い出して、同じだな、と後で思った。
さて、そのReading Roomへは昔は「許可証」を貰って入ったと思う。私はLSEの研究員ということで「入場許可」になったのだ。ところが、今回恐る恐る覗いてみると自由に入れるようだった。大英博物館は、元々いわゆる博物館と図書館の結合した存在だった。このReading Roomの膨大な図書、とりわけ文献のほかイギリスの諸種統計、政府報告書等を駆使してドイツからやってきたカール・マルクスは『資本論』を書いたのだ。彼はSohoの住まいから毎日ここに通ったのである。私は、久しぶりにReading Roomに入って一時、感慨にふけった。ふと安藤忠雄さん設計の東大阪市の司馬燎太郎記念館の図書館はこの大英博物館にヒントがあったのでは、と思った。今回、調べると図書館部門主要部分は切り離されて別の場所に移ったために、ここは展示的意味が大きくなり「Free」なのだった。
ところで博物館部はほとんど古代文明の遺物保存・展示が中心と思う。今回は、主にエジプトだけをさっと見た。フランスのルーブルと又違った「凄さ」を感じた。帰国して『達人たちの大英博物館』(講談社選書メチエ81)を興味深く読んでいる。(写真は、大英博物館入ってすぐのグレートコート、円筒部の中央入り口からReading Roomに入れる)
他の写真はmixiフォトアルバムにアップ。

ロンドン、ラッセル・スクエア

2006-09-20 | 訪問場所・調査地
奈良女関係の三人がラッセル・スクエアのナショナルホテルに泊まっていると聞いて、急にラッセル・スクエアに行きたくなった。思い起こせば、私達の家族が最初にロンドンに来たのは1982年、今から24年前であり、その時、最初に1週間ほど泊まったのはラッセル・スクエアの西側に面するB&B(ベッド・アンド・ブレックファスト、朝食付き宿)の「マーガレット・ホテル」だったのである。私のブログのカテゴリー「ロンドンの思い出(LSE時代など)」の最初の記事が「ラッセルスクエア」(05年7月8日)から始まっているのも頷かれる。ラッセル・スクエアは、ロンドン思い出の第一歩なのである。だから今回「マーガッレトホテル」は存在するかどうか見に行った。Russell Squareには今回、私達が泊まったHammersmithからPiccadilly線の地下鉄1本で行ける。大変深い駅で地上にはエレベーターで上がる。表に出ると右手前に低層集合住宅地が見える。一寸寄ろうとする気が動いたが、時間の加減で左手のラッセル・スクエアに向かった。少し広場内部が整備されたのではないか。中央に地表に噴出し口のある噴水があって気持ちよい感じだったが、24年前にはなかったのではないか。この辺はカムデン区らしく、区の広報版のようなものがあり、この広場の配置図も載っている。このスクエア(広場)を通り越し西側に出た。その並びに私達の泊まった「マーガレットホテル」があった筈だが二往復して見たがなかった。20年以上の月日で変わったのだろう。それと思しき所にロンドン大学のバークベックカレッジ生涯教育学部の看板がかかっていた。建物の間からロンドン大学本部の壮大な建物が見えた。後から行くすぐ近くの大英博物館とともに「文化地区」の一つと言ってもよいかもしれない。(写真はRSの広報板)
mixiにフォトアルバム4枚アップ。

ロンドンで奈良女人脈と交流

2006-09-20 | 訪問場所・調査地
倫敦に着いた日、奈良女関係の三人も倫敦に滞在していたので連絡を取って一緒に夕食を食べることにした。彼らが泊まっているラッセル・スクエア・ナショナルホテルに電話してピカデリ・サーカスのEros像前で19時半頃に会うことにした。
で、Tさんが調べたタイ料理店に行くことにした。イギリスには元植民地関係を中心に多くの料理店がある。もちろん、だから中華料理、インド料理はある。植民地でなくとも世界中のものがあると言ってよい。日本料理もある。
タイ料理店の二階に上がって5人、タイ式に座った。背中に三角柱のような背もたれがあった。足は掘りごたつのようには入らず、やや窮屈だった。色々と料理を取り、わいわい私学にこと(Tさん、私等)、国立大学法人のこと(Nさん)その他もろもろを駄弁った。彼らは、コミュニティ・フォレストの調査で来ているので、そこを歩いたこと、関連で運河で船に乗ったり、バースに行ったりしたことを聞いた。三人ともバースは気に入った模様だった。私たちは昔1983年に行ったきりである。とにかく異国で親しい友人に会うのは気分が良い。(写真は、タイ料理店pavilion)

ロン・パリの歴史的建築物と日本のそれとの違い

2006-09-19 | 訪問場所・調査地
「ロン・パリの歴史的建築物と日本のそれとの違い」は色々あると思うが、一つだけあげると、西洋の歴史的建築とりわけ宗教建築や宮殿では、やたら壁や柱等に彫刻を施してあったり、彫像をたてかける感じであったり、壁や天井に必ずと言ってよいほど絵が描かれていることだ。日本でも障壁画や天井画はないわけではないが、西洋のようにぎっしり、というのは少ないだろう。ベースには「石の建築」と「木の建築」との違いがあるだろう。
これらは、前から私の言っている「強烈な匂い付け」である、と言える。宗教建築(キリスト教建築)では、イエス・キリスト、聖母マリア、あるいは重要な弟子達の「奇跡を起こした」足跡や「教え」を聖書を読めない人達にも伝えるために、彫り込んだり描いたりしている。宮殿では、主の王様達の「偉大な業績」を永遠に伝える願いをもってそれらは造られている。これらの知識は西洋インテリにはあるのかもしれないが、私にはさっぱりだった。
例として、ノートルダム大聖堂やフォンテンブロウ宮殿のそれらを少しでも理解したいと、買ってきた「本」を眺めている今日この頃である。

ロンドンーパリ Eurostarに乗る-2列車に乗る

2006-09-18 | 訪問場所・調査地
私達の乗ったEurostarは18両編成だった。私達は何も条件を付けずに座席指定をしたが実際に乗ってみて、これなら当初から言っておくべきと思った。次回は絶対に「条件」を出すぞ、と思ったのである。それは、一つには、前向きに座るか、後ろ向きに座るか、だ。まあ前方に展開していく風景を迎えるように、進行方向に向かって座る方が良いだろう。今回は、逆で後ろ向きだった。第二は、窓がちゃんと見えるかどうか、だ。私達の所は「壁」になっていて前後でわずかしか見えなかった。「しまった!」と思った。次回は、窓から景色がちゃんと見える席、と指定すべきである。どうも列車の設計と座席配置の設計がばらばらで行われたようだ。日本だと、例えば新幹線をみてもこういうことは起こらない。第三は、二人席か四人席か、だ。四人席の場合は前にテーブルがついている。まあ、3人か4人でいく場合は、四人席を申し込んだ方が良いだろう。6号車と13号車はBAR-BUFFETになっていた。英仏共同運営の国際列車なので、英仏二ヶ国語で放送があったが、英国側では英語が最初、フランス側に入ると、フランス語が最初だった。では、海峡トンネルに入って真中辺で何か言わないといけなくなったらどうなのだろう、といらないことを思った。見えにくい窓から、外の風景を伺っていて、イギリス農業は牧畜中心、フランス農業は、遥かにヴァラエティがあるようだった。2時間40分ほどの旅だが、海底が20分ほどで後は半々くらいである。パリ北駅に着く10分まえ位まで市街地が現れず、農地の中を走っており、そこからもパリ市街地は、人口のなどの良く似た大阪市などよりも面積が狭いのでは、と感じた。(写真は、パリ北駅、ジプシーに絡まれそうになった)

ロンドンーパリ Eurostarに乗る-1Waterloo

2006-09-18 | 訪問場所・調査地
起こった出来事を逆に書いていくのはかなり難しい。印象が新鮮だったパリから話を始めたので、ロンドンは後回しになったが、最初に行ったのはロンドンだった。
そしてロンドンからパリへは飛行機でも行けるが、ドーバー海峡を地下トンネルで抜けるEurostar(ユーロスター)に乗ってみようと思った。初めてである。
同じ西洋資本主義の大都会、首都のロンドンとパリと言っても都市のあり方が結構違っている。又、国土のあり方も違っている。まあそれが文化だ、と言ってしまえば簡単だが、実際どうなのか、ゆっくり実感し考えていくことにして、まずEurostarに乗ってみよう。この鉄道については、小森星児先生率いる調査団でイギリスに行った時には建設中で「是非皆さんも投資して下さい」と言われたが、後で何だか赤字と聞いて、どうなってるの、と感じたことを覚えている。今はどうなのか。それはともかく、現在ロンドンでの乗降口はWaterloo駅でパリのそれはNord(北)駅である。私達の今回の旅行はJALPACKのフリーツアー(日程は本人がきめる)だったので、送り迎えだけはしてくれた。これで大分助かった。HOTELは、Hammersmith駅から歩いて5分位の所で、便利は便利だったが、パリに発つ朝は車で迎えに来てくれてWaterloo駅まで送ってくれ、パスポートコントロールのことや荷物チェックのこと等を車中で聞いた。どうも飛行機より簡単なようだ。(写真は、Waterloo駅のEurostar乗り口)
関連写真はmixiフォトアルバムにアップしています。

パリのアパルトマン等生活空間観察

2006-09-17 | 訪問場所・調査地
いよいよパリの最後の報告で、パリの住宅であるアパルトマン等の生活空間について観察したことを、一部聞いたことを交えて報告しておきたい。前から疑問に思っていたことが一部解消した感じである。パリ20区に210万人住んでいるが、戸建てに住んでいる人は一人もいない。皆、集合住宅のアパルトマンに住んでいる。半分冗談に「パリでの住まいの理想はコンコルド広場に面して戸建て住宅に住むことだ」というのがあるようだ。昔、フランスに行っておられた今は亡き足達富士夫先生も何かに引用しておられた。まあ言ってみれば宮殿の王様は「戸建て」に住んでいることになったかもしれないが・・。パリ中心部例えばオペラ大通りに面するアパルトマンは7、8階建てと言えよう。7ないし8階が屋根裏部屋になっている。それで昔、私は「ロンドンの住宅の価値は近所に並木や公園があるかないか、で決まり、パリの住宅の価値は天井高で決まる」と言ったまでは良かったが、きちんと観察せずに、「パリでは1階の天井高が一番高く上に行くほど低くなる」と書いたことがある。これは訂正しなければならない。今回の観察と聞き取りで1階の天井高が一番高いのはほぼ間違いないが、2階は一旦低くなって又3階が高くなり、4階も同じくらいのこともある。そして5階以降は低くなるのは間違いないと思う。これはどうしてなのであろうか。パリの人達は昔からこういう環境に住んでいるので常識的で当り前なことも我々にとっては不思議な訳だ。これを解くヒントは、長年パリに住んで観光案内人をやっておられる婦人の口から出てきた。フォンテンブロウの帰り道、パリの町中に入ってきた時「アパルトマンの3階のヴェランダの手すりが特に立派なのはどうしてか分かりますか」と言われた。そう言われて良く見ると、確かに3階のヴェランダの手すりは立派で他の階が鉄製でも3階だけ石製のアパルトマンもあった。同じ鉄製でも3階が立派だった。答えもその婦人から聞いた。この話は、馬車時代に遡る。中心部のアパルトマンは殆ど150年近い歴史を持ち馬車時代の建築だ。それでよく観察すると、1階に馬車で中庭に入るための背の高いドアがあり、そこから馬車が中庭に入ってから下りて階段を上がって上階に行く。その馬車の馬の臭いが中庭にこもって特に2階に立ち上がる。3階になると和らぐため、上がりやすさのとの兼ね合いで3階が一番良い階となった、と言われた。そのこと以外のことを考えても、そういうことは言える。つまり1階で商売をする場合が多いので2階は比較的うるさい、町の雑踏からもそう言える。そう言われて再度良く見ると、手すりは3階にあって4階にない場合も多い。これは推測すると、3,4階は比較的裕福層のメゾネット(両階を使う住宅)になっていたのではないか、ということだが確かめてはいない。オペラ大通りのアパルトマンの写真を上げておくので見てほしい。
次に現在は自動車時代だから、馬車時代の町づくりでは、駐車は大変だということになる。事実、路上駐車はオーケーだ。オスマンさんなどが馬車時代に比較的広い道をつくっておいたお陰で片隅に自動車を止めてもなお自動車が走れるのだ。もちろん、この駐車は有料だ。ところで、その駐車形態だが縦にほとんど隙間なくずらりと駐車しているのだ。これでは、どうして駐車したり発車したり出来るのだろうか。これも聞いて「なあるほど」と目からうろこである。つまり発車の時、エンジンかけて前後の車のバンパーを押して隙間を作っても良いことになっている、と言う。ためにバンパーがあるんだよ、と言うわけだ。まあ新車で1週間バンパーに傷がつかなければ、ゴルフのホール・イン・ワンの時のように親戚、友人で祝杯をあげるのだと言う。フランス人は日本人が自動車を洗ったり磨いたりすることを「あんな道具を何故そんなに大事にするか分からない」と言っているそうだ。それからバンパーを観察すると確かに傷ついたものが多い。それでも走れれば無頓着のようだ。
日常の買い物はどこでするのか。表通りにカフェやパン屋はあるにはあるが肉、魚、野菜、果物等はどこで買うのか。一つは、レアールのような最近の大きな商店街で買うが、伝統的なパッサージュで買うというのもあるのではなかろうか。しかし、これは宿題にしておく。
これらの写真はmixiのフォトアルバムにアップします。

パリのラ・デファンス散歩

2006-09-17 | 訪問場所・調査地
私自身は過去二度ほどラ・デファンスに行ったが、家内が初めてというので、「パリ都市軸」の「終点」であるラ・デファンスに出かけた。行きは1番線のメトロ、帰りは鉄道郊外線のRERだった。私は今までは、1989年に完成した新凱旋門とも言うべき「アルシェ」の前の広場、そして「アルシェ」の下まで行ったが、周りの建物に入ってみたり、「アルシェ」に登ったりは出来なかった。今回も「アルシェ」に登ることは出来なかったが、建物には幾つか入ってみた。家内が「お手洗い」と「キャッシング機械」を探すというので、これぞと思う建物に入って探した。上手く「一発で」見つかった。少し時間があったので広場のベンチで休んで「水」を飲んだ。evianである。広場を小型の電気自動車に車両をつけて引っ張っているのがあった。人も車両に乗っていたが、あれは何なのであろうか。別の建物はショッピングの建物だ。へー、こういう「スーパーマーケット」のようなのはパリでは大体表通りに面していなくて建物内部、地下空間(レアールの例)に隠れているのだ。ラ・デファンスはオフィスビル中心だが2万人の居住人口を抱えるニュータウンである。商店がないとおかしいわけだ。そういう目で配置図を見ると広場に面する建物の裏に厚くビル群が出来ていて居住区もあると思われる。最後にインフォメーションに行ったのが、思わぬ「収穫」となった。今まで、どこの町に行ってもインフォメーションに必ず行くという原則を、やや面倒で忘れていた。帰る間際に時間があったせいで思い出して行った。一階は普通の地図や簡単な解説を書いたリーフレットの置き場、イベント紹介、宿泊斡旋等だが、地下が「ミュジアム」になっているようでおりてみた。過去のラ・デファンス地区の歴史や開発のプロセス、最近の大規模新開発と都市軸のストップが「アルシェ」に決まるまでのコンペや経緯、コンペ作品の模型や図面の展示等々、「町づくり歴史資料館(博物館)」のようで、町づくりはこうでなくっちゃ、と確信みたいなものがむらむらとわき上がった。そういえばロンドンの歴史を展示しているロンドン博物館に小学生が勉強に来ていた姿が即座に頭に浮かんだ。(是非、関西学研都市でも近い将来「学研都市歴史資料館」をつくるよう提案したい・・)
(写真は、見なれた「アルシェ」)
他の写真は、mixiフォトアルバムにアップします)

パリのシャンゼリゼー大通りから凱旋門へ散歩

2006-09-17 | 訪問場所・調査地
パリの第一の大通りは、やはりシャンゼリゼー大通りであろう。凱旋門からコンコルド広場まで伸びる通りだ。前にルーブルのところで書いたパリ都市軸の中にある。オスマン男爵が最も力を入れて広げた通りだ。両側の歩道も広く並木も二列に植えられている。建物の中の店のほか、歩道に張り出した店の続きがある感じだ。ルイヴィトンの本社もある。まあパリに来たら一度は一寸歩いてみる。今回はメトロの「フランクリン・ルーズベルト駅」で降りて右側歩道を凱旋門まで歩いた。一寸した変化もある。マクドナルドが出来たようだが目立たない「広告」だ。スターバックスもパリに10箇所位出来たようだが一箇所見かけただけ、これも目立たない。ロンドンの「垂れ流し」のような「洪水」に比べると、やはり米仏の関係か、と思ってしまう。車椅子で散歩している人も見かけた。向こう側のルイヴィトン本社の社旗は、フランス三色旗の真ん中の白部分をⅤにして「フランスを背負っている会社だよ」と言っているようだ。凱旋門まで来ると流石に「おのぼりさん」が多く色々な言葉が飛び交っている。中国人の団体もいる。中国もフランスもある意味でアメリカに対抗意識を燃やす「中華思想」の国で似ているとも言えるかもしれない。凱旋門はナポレオン一世がローマ帝国の凱旋門に見習って作らせたものだ。(写真は、シャンゼリゼー大通り歩道から凱旋門を望む)
他の写真は、mixiフォトアルバムに公開。

パリの下水道

2006-09-17 | 訪問場所・調査地
前からパリに「下水道博物館」が地下の下水道を取り込んだ形である、と聞いていたので以前にも行こうと試みたが、木曜、金曜とメインテナンスで休みなので、それにぶつかったりで行けなかった。今回は確かめて土曜日(9月9日)に行った。一人4ユーロの入場料である。場所はオルセー美術館から少しセーヌ下流のアルマ橋の近くに出入り口があった。切符を買って地下に降りていくと入り口に若い女性の案内人がいて我々を見て英語の説明リーフレットをくれた。まだここでは日本語のものはないようだ。日本の観光案内書に載っているものもあるが大きく扱われていない。私達がここに滞留した1時間ほど日本人には会わなかった。若いフランス人カップルが見て回っているのに「へー」と思った。簡単な歴史展示:1200年頃に道が舗装され真ん中に下水のドレインが作られた。1370年Hugues AUBRIOTが石造りの下水ドレインを作り出したが、未だ地表にあった。ルイ十四世の頃、右岸にリング状の下水道を設置、左岸の下水道にはBievre川が使われた。ナポレオン一世の時、覆われた(地下の)下水道ネットワークが30kmにわたってつくられた。1850年にオスマン男爵と技術者のEugine BELGRANDが上下水道システムをつくった。そして一世紀以上前に上水道と中水道が作られ、上、中、下水道の総延長は1878年に600kmに達した。それでBELGRANDが「上下水道の父」と目されている。現在、2100kmのトンネルを持ち、正に世界一の上下水道ともいえよう。その下水道は、ヴィクトル・ユーゴー作の『レ・ミゼラブル(ああ無情)』でジャンバルジャンが逃げ回るほど背の高いもののようだ。実際に中に入ってみて実感した。下水特有の臭い臭いもして家内は早々に最後の「休憩空間」まで早足で行ってしまったが、私は少し丁寧に見た。下水の掃除、管理のため舟があったり、歩道がついていたりする。その「歩道」をジャンバルジャンは逃げたのだ。セーヌ川の水位が高くなったり、洪水になる時、逆流を防ぐやりかたもわかった。ジャンバルジャンも説明に使われていた。(写真は、下水道博物館の「ジャンバルジャン」展示)
mixiのフォトアルバムに全体の写真アップ

パリのふとん屋

2006-09-17 | 訪問場所・調査地
凱旋門に行った時、地下道の壁に「FUTONS」という広告が貼っているのが目に入った。良く見ると、ベッドやソファに「布団風」のものを被せている写真がある。座布団もある。畳を敷くのをフランス語で「タタミゼ」というのだ、というのを聞いたことがある。フランスに日本文化が食文化にとどまらず住文化まで受け入れられているとしたら興味がある。まあ実際に見ていないが、暇があったら、この蒲団屋に行って(場所や電話番号が書いてある)色々聞いてみたい気がしたが、帰国時間が迫っていて駄目だった。(写真は、「FUTONS」の広告、凱旋門の地下道付近)