セーヌ川というと、綺麗、パリの象徴と思うが、川岸にホームレスも見られた。昔の日本の言い方では「橋の下」である。先を急いでいて十分観察出来なかったが、一人や二人でないことはわかった。他にあちこちで黙って手を出して座っている物乞いにも何度か出会った。これは倫敦でも経験した。ストリート・ミュジシャンは「働いている」ので何がしか貰って当然と思うけれど・・。
次はトイレだが、困ったことが二つあった。一つは、高さが「高すぎる」ことだ。日本では子供用の低いのと大人用の高いのがあるが、大人と言っても色々の背丈だから低めに設定している。「大は小を兼ねる」というより「低は高を兼ねる」と言えよう。ところがパリではあまり「子供用」は見当たらない上、そもそも「高すぎる」のだ。子供や小柄の大人はどうしているのか心配になった。もう一つは、便器の前に、日本だと鞄を載せる台のようなスペースを取っているが、パリでは先ずなかった。重い鞄をショルダーにして何とか切り抜けた。ここからパリに行って公衆トイレに入るには、ショルダーバックが必要、と言えるかな。それと、昔は、掃除のおばさんが入り口で頑張っているので小銭のコインをおいて入ったこともあったが、どうやらそういうシステムは廃れたようだ。ノートルダム大聖堂の裏側に綺麗な公衆トイレがあり、おばさんがいたので「すわ小銭」と思ったが、単に人数整理をしているに過ぎなかった。(写真はアンヴァリッドのトイレ、軍隊管理の施設なので入り口で鞄を開けさせられた)
歴史的な厚みに圧倒されどおしのパリだが、一寸我々の生活に関係深いことも探ってみたい。先ず「中水道」である。日本では藤野良幸さんが提案しておられたが中々実現しない。まあ「天水」をためて使おうや、は我々の「つなね」コーポラティブでも実現しているが・・。パリの「中水道」は初めて行った1974年(33歳)にも経験し「へー」と思った。当時、セーヌ左岸のホテルにいたが若かったせいもあり時間が勿体ないと早起きしてホテル周りをうろついた。その時に、歩道と車道の境の石の横から猛烈に水が吹き出ていて、「下」に向かって流れているのを目撃した。そして、その水で車道を洗っていた。後で聞くと、これはセーヌ川の水を汲み上げ、路を洗った後又戻しているのだ、と聞いた。ところが今回も同じことを目撃したので聞いてみると、下水処理した水を道洗いに使い、それをもう一回下水に戻して処理してセーヌ川に戻していると言う。前はセーヌ川の水そのものを使って又セーヌ川に戻すと聞いたようだが、やはり下水処理した飲めないまでも「まあまあの水」が中水で流れるのが文字通り「中水道」であろう。水不足の今日だが、パリでは昔からこういうことがやられているのには感心する。
今回のフランス(パリ)行きの一つのキーパーソンはナポレオン・ボナパルトではないか・・・と途中で気付いた。ルーブルしかり、凱旋門しかり、フォンテンブロウしかりである。では、とナポレオン・ボナパルトの眠るアンヴァリッドに行ってみようという気になった。というか、今回訪問候補として今まで行っていない中に入っていた。前にパリのカメラマン都筑 清さんのブログからアンヴァリッドを私のブログに引用させてもらったことがある。都筑さんのブログ番地:http://parisparis.exblog.jp/ である。実際にアンヴァリッドが写っている私のブログ:http://blog.goo.ne.jp/in0626/d/20051123 の中から見てほしい。05年11月23日ブログである。これを見た時に、今までのパリ行きで行っていないと気付いて今度行こうと思ったのが今回実現した訳だ。アンヴァリッドのあるのはセーヌ左岸で、アレキサンドル三世橋を渡っていく。アレキサンドル三世橋は、キンキラ金の彫像が橋の上にそびえている「アール・ヌーボー」の橋という。そこからアンヴァリッドの大きなこれ又キンキラ金のドームがそびえて見えている。アンヴァリッドとは「廃兵院」ということで、太陽王ルイ十四世が1674年、軍事医療施設として建てた。当時、戦争が絶えず負傷兵が多く出たからである。しかし、現在は軍事博物館となっており、奥のドーム聖堂はルイ十四世が王家の礼拝堂としてヴェルサイユ宮殿を設計したマンサールに設計させた。正に建築家マンサール、パトロン・ルイ十四世といったところだ。しかし1840年に皇帝派と王家の和解の印としてナポレオンの遺骸はセント・ヘレナ島から持ち帰られ、ここが墓所となった。ナポレオン自身、生前に「セーヌ川の傍に葬って欲しい」と言っていたこともある。良く知られるフランス人のジョークに「アンヴァリッドを訪れる観光客で最も多いのはイギリス人、何故なら彼らは本当にナポレオンが死んだのか、確かめに来るのさ」というのがある。それほど当時イギリスにとってナポレオンは脅威だったのである。結局はワーテルローの戦いでイギリス軍の勝利となりナポレオンはセント・ヘレナに流されることになった。今回、軍事博物館は一部改装中のこともあり殆ど見ず、ナポレオンの墓所だけ見学した。ローマ皇帝と同じように斑岩で出来た立派な棺がドーム真下の中央半地下に置かれていて、上に上がった周りには一族の棺も置かれている。入場したら受付の人が盛んに手招き、「どうぞ」と日本語で言って説明イヤホン器を渡してくれた。これはどうも「ただ」らしい。ゆっくり聞くと時間がかかるので飛び飛びに聞いた。ナポレオンの軍服も飾ってあった。絵とか映画「戦争と平和」位でしかナポレオンのイメージはなかったが、そういえば4時間しか寝なかったとか、手を軍服に突っ込んでいるのは恋人の絵を押さえているのだとか、「私の辞書には不可能という言葉はない」といったとか、を思い出した。
フランス・パリ郊外南部にあるフォンテンブロウ城はフランス史における一つのキープレイスだ。フランソワ一世、アンリ四世、ルイ十四世(太陽王)、ナポレオン・ボナパルトが住んだことのある城なのだ。最近NHKテレビのフランス縦断でやっていてチラッと見た。馬車でアプローチするのがナポレオンが作った「正面」である。馬蹄形の階段があるのは、この館が元々パリに住む王様の狩(仮)の館として出発したからだ。狩に馬は付きものなのである。面積1万7千haの広大な森(成田空港の20倍と言う)は古くから狩猟の場として王侯貴族に愛されてきた。仮の館が宮殿らしくなったのはルネッサンス期のフランソワ一世時代(1494~1547)である。彼はイタリアに攻め込んだ経験もあり、イタリアルネッサンスに憧れ、ロッソ、プリマッティチョという二人のイタリア人を呼び寄せ「フランソワ一世の回廊」「舞踏会の広間」等を作らせた。前者はNHKTVでもやっていたが私も感心した。フランソワ一世は、ルネッサンスかぶれからイタリアで失意であったレオナルド・ダ・ヴィンチをフォンテンブロウに招いた。ダ・ヴィンチはモナリザをイタリアより持参したのが後々この絵がフランスの宝となり現在ルーブルに展示されているのだ。フランソワ一世の息子アンリ二世の妻はイタリアの豪商の娘カトリーヌ・ド・メディチである。フランス語のFontaine(フォンテン)とは英語のFountain、泉という意味で、この森で泉が見つかったため、この地域は大きく発展した。アンリ四世、ルイ十四世(彼はここよりもベルサイユ宮殿を重んじたが・・)を経て、ナポレオン・ボナパルト時代(1769~1821)にある意味でこの城は最高潮に達する。ナポレオンは流されて亡くなった地セント・ヘレナで次のように述べている。「フォンテーヌブローはまさに王たちの住居にふさわしい幾星霜の館である。それはけっして建築者に任せてつくらせた宮殿ではなく、十分な検討を踏まえて設計されたすばらしい住居だ。ヨーロッパ中を探しても、これほどくつろぎを覚え、幸せが感じられる場所はほかいない。」と。(日本語版『Fontainebleau』より)
写真はmixiフォトアルバムを見てください。
今回は駆け足で庭の部分が見られませんでした。ここでもルーブル宮殿が美術館になっているように、フォンテンブロウ宮殿即ち宝物殿、美術館という感じでした。(写真は、フォンテンブロウ宮殿、中央馬蹄形階段は、その上からナポレオンがセント・ヘレナに流される時、前庭の兵士に向かい最後の演説をした所)
写真はmixiフォトアルバムを見てください。
今回は駆け足で庭の部分が見られませんでした。ここでもルーブル宮殿が美術館になっているように、フォンテンブロウ宮殿即ち宝物殿、美術館という感じでした。(写真は、フォンテンブロウ宮殿、中央馬蹄形階段は、その上からナポレオンがセント・ヘレナに流される時、前庭の兵士に向かい最後の演説をした所)
約1時間パリから高速6号も使ってパリ南部のバルビゾン村に着いた。バルビゾン村は言うまでもなくパリの喧騒を逃れてやってきて田園や森の自然や農民達を描いたミレーやルソーが住んでいた所で、バルビゾン派という命名はこの村の名による。ここは区域を限って完全に保存地域となっているが、入り口辺りは規制がないらしく高層の公共住宅が建っていた。移民のための住宅らしい。それで一寸思い出したが、パリ郊外の戸建て住宅地で移民が騒いでいるというニュースに接したとき一寸違和感があったが、聞くと土地の値段などはパリなどの都市部と一寸出た田舎部では全然違うようで、移民住宅などは郊外の戸建て住宅の近くに建つようだ。完全規制地までバスを乗り入れ、降りて散歩した。現在も農民がいないわけではないが、殆ど家はホテル、レストラン、カフェ、土産物屋などになっている。外観は規制されているが内部はそうでもないようだ。村役場も三色旗と村旗が掲げられていたが、可愛い建物だった。村の外れから、これから行くフォンテンブロウの森だった。(写真はミレーの家、今は博物館、つい最近まで無料だったが現在は有料。他のフォトはmixiのフォトアルバムで見られたし)
このブログを見ている人でmixiもやっている人もいると思う。このブログは1日に一枚の写真しかアップできないが、mixiのフォトアルバムは、ほぼ無制限にアップできるので、そちらを活用することにしました。興味ある人は、そちらも見てください。mixiに入っていなくて見られない、見てみたい人は私にメイル下さい。mixiに紹介します。ただmixiは知人の紹介制度なので、こちらで判断させてくださいね。まあmixiは、先日上場しましたね。社会的存在になりつつあると思います。500万人入ってコミュニケーション手段に使っているようですが、年齢構成では若い人が多く、50歳代以上は一まとめで全体の5%ですね。まあ世代を越えたコミュニケーション手段、「つながり」手段、geneならぬmeme(ミーム)手段にも育ててていきたいものです。
バルビゾン村に着く前に、左手にミレーの「晩鐘」の畑で祈る女性の肩の辺りに見える遠くの教会の尖塔が見えた。手前の農地に夫婦二人が夕方の教会の鐘に呼応して敬虔な祈りをささげている絵が「晩鐘」だ。一寸前にオルセー美術館で見たので参照できるようhttpをあげておく。私が写した写真にもかろうじて教会の尖塔が見えている。ミレーと同じ空間を体験しているのだな、と思った。
http://blog.goo.ne.jp/in0626/e/a455daedee20f7cc418d0a5fb0a9cfae
(写真は、ミレーの描いた風景の背景の様子と遠くの教会ー見えるかな)
http://blog.goo.ne.jp/in0626/e/a455daedee20f7cc418d0a5fb0a9cfae
(写真は、ミレーの描いた風景の背景の様子と遠くの教会ー見えるかな)
実はフランスは農業国である。自給率も100%を越え自国民を食べさせた上で葡萄酒、カマンベールチーズ等の輸出国である。ロンドンからパリへはドーバー海峡を地下トンネルで越える両国で経営する「ユーロ・スター」という特急に乗って来てみたのだが、イギリス側1時間、トンネル20分、フランス側1時間ほど走って、窓から見えるイギリスとフランスの「国土の様子」が全然違っていた。イギリスは牧草地が殆どで羊、牛、馬を飼っている。フランスは小麦、野菜、果物等々色々作っている様子である。フランスは平地が80%、山地が20%だが山地は殆どは国境地帯、だからパリ郊外は広々している感じである。ところでパリ郊外地域は、パリも入れて他の七つの県とで「イル・ド・フランス」(フランスの島々)と呼ばれている。パリの人口210万人、イル・ド・フランス人口一千万人と言う。フランス人口6千万人だから1/6がパリ広域圏に集まっている。何故「フランスの島々」と言うかと言えば、平地に大きな森があちこちに「島」のようにあるからだ、と言う。(写真は、あくまで平坦な巴里の郊外)
快調に、「カルチェ ラタン」とは大学地区ですが、昔の大学はラテン語で教育したので「ラテン地区」(カルチェは英語のクウオーター)と言うのですよ、あっあれがソルボンヌ大学です・・皆さん何処にも洗濯物は見えないでしょう、パリでは洗濯物は外に出してはいけないことになっています、湿度が低いので浴室で乾かして仕上げにアイロンをさっとかけるのです(そういえば私達のホテルにはアイロンとアイロン台がついていた)・・と言っていたら前方の細い道でトラックが止まっていて、わがバスが横をすり抜けるには無理があった。案内人は、トラックが何処から来て、何しているのか、たちどころに読み取って(トラックに来た地方が分る文字が書いてある)、「ああ、あれはパリから西の方のモンド・マルサンという地方から来た引越しトラックです。地方からパリへの引越しのやりかたは、一軒で一台のトラックやとうのは勿体ないので(そんなに荷物少ないの?!)パリに出てくる数軒で一台やとって、今、市内を「配達」して回っているのです・・」とのことだった。トラックに少し広い道まで進んでもらって、バスは漸くすりぬけれた。次に医薬分業の話・・フランスは昔から医薬分業、薬屋はフランス語でも「ファーマシー」らしいが、そのように書いて「緑十字」のネオンがついている店がそこら中に見える。病院も日本の大学病院のように総合的と言うより専門分化している。有名な精神病院と言われる病院の横を通った時、案内人が「最近フランスでは精神病が多くなっているようです。春になると身なりのきちんとした紳士がメトロのホームでぶつぶつ言っている、押し飛ばされた人もいて、そういう場合警戒しなくっちゃ・・」と言う。へーと思った。やがて高速道路6号線に入った。60km 走ればバルビゾン村である。(写真はバスの前に狭い道の引越し車ー左)
案内人の話より・・(私は今回1週間有給休暇を取ってヨーロッパに来た。)ところでパリっ子というか、フランス人は年間5週間の有給休暇のうち3週間は夏に(まとめて)取らないといけない、と決まっており、取ってないと雇用主が「罪」となるので一生懸命取らせている。大体は8月に取る人が多いので、8月はパリにはパリっ子は少なくなって外国からの観光客ばかりとなる。(まあ、私の大学でも8、9月が学生の休暇期間だが、教員は8月は成績付けとかオープンキャンパスとか未だ忙しいので大体9月に出ることになる。9月に出るその他の理由は、(1)航空運賃が8月より安くなっていること、(2)少し「暑さ」が和らいで帰国したら丁度良いこと、(3)外国人がヴァカンスから戻っていて生活が垣間見れること等であろうか。)
フランスの有給休暇5週間の内後の2週間は、クリスマス、復活祭、急な休み等に使うという。このフランスの充実したヴァカンス制度は、フランス大革命(1789年)、パリ・コミューン(1871年)等のいわゆる「民主革命」を経て勝ち取られてきたものである。
フランスの有給休暇5週間の内後の2週間は、クリスマス、復活祭、急な休み等に使うという。このフランスの充実したヴァカンス制度は、フランス大革命(1789年)、パリ・コミューン(1871年)等のいわゆる「民主革命」を経て勝ち取られてきたものである。
バスはセーヌ川を南に渡り、カルチェ・ラタン地区を抜けて更に南に行き、高速道路6号線に乗ってバルビゾン村に先ず行く。その間、1時間ほど、案内人から色々の話を聞いて面白かった。パリは、6回城壁を外へ外へと前のを壊しながら造ってきた。今は城壁はない。まあ2,3百年に一回城壁を造りなおしてきたことになる。この範囲が現在のパリ20区である。シテ島の一区から時計回りにセーヌ右岸、そして左岸、又右岸という具合にいき、最後は、右岸の東の端が二十区である。私達の滞在のホテルは左岸の西の端で十五区で一番外側、次が対岸の十六区で、こういう風にぐるぐると渦巻きに区があるので、これを「エスカルゴ」(カタツムリ)と言う。元城壁のあったところは大きな環状道路になっており、それらは「BOULEVARD」と言う。私達の泊まったホテルの前の通りも以前城壁のあった所でBOULEVARD VECTORという。凱旋門等から放射線状に伸びる大通りは「AVENUE」、一番の大通りはご承知のAVENUE des Champs Elysee(シャンゼリゼー大通り)である。その他は「RUE」である。パリ20区の範囲は案外狭く東京の山手線内部位らしい。人口は211万人、外側のバルビゾンやフォンテンブロウを含む7つの県、「イルドフランス」を含むと千万人位の人口になると言う。そうなのか、と思った。
パリだけでは「面白くない」という感じもあって、家内の提案で、今回はパリ南部のバルビゾン村そして歴史的なフォンテンブロウ城へ半日バスツアーに出かけた。フランス語が聞き取れるなら、フランス語ツアーが最も良いかもしれないが、そうはいかないので日本語ツアーに応募して出かけた。フランス政府公認(試験あり)の日本語での観光案内人は150人ほどいて、実際に毎日動いているのは60人位と、そのツアーでの案内人(ご婦人60歳位、フランス在住30年、案内人20年)の方にお聞きした。今足りないのは、中国語、韓国語の案内人と言う。余っているのは英語案内人とのことだ。色々のコース、ワイン作りを訪ねる旅やベルサイユもあったが、ベルサイユは前に一度行ったことがあるので、南部の「バルビゾン村」そして歴史的な「フォンテンブロウ城」に行くことにした。既に今までのブログで、バルビゾン派のミレーやルソーの話、フランソワ一世がイタリアルネッサンスに憧れてイタリアからフォンテンブロウ城にレオナルド・ダ・ヴィンチを招いた話などしてきたが、これらはこの半日ツアーの成果である。50人乗りのバスに40人位、オペラ大通りのピラミッドの近くから8時過ぎにバスに乗り、南に走って13時頃に戻ってくる旅である。参加者は、全て日本人だが、ざっと分類すると、私達のように60歳以上の夫婦20人(10組)位、新婚らしきカップル8人(4組)、中年女性のグループ8人(2組)、後は若い単身女性であり、全体として女性が多いことと、「定年後ツアー」の人達が多いことが分かる。中年女性グループが一番元気が良い感じ、新婚カップルが「あの人達に近づかないほうが良い」とこそこそ話しているのを耳にしてしまった。バスでパリを抜ける間、案内人からパリでの生活の話など聞き、郊外に出てからはフランス国土のことやフランス史の「講義」を受けた。勿体ないので揺れるバスでメモをした。それらを基に話を進めたい。(写真はツアースタートのメトロ「ピラミッド」駅近くの「MY BUS」社前、この辺りに日本企業も多い、本屋のジュンク堂もある)
ルーブルからアルシェに伸びる都市軸にチュウイルリー公園もある。その西南隅にオランジュリー美術館がRe-openした。ここは元々16世紀にアンリ四世によって温室とされたものを改装して20世紀に入り美術館になったが、また改装していて最近オープンした。温室だった名残りは屋根が太陽光を受けるガラスのようになっていることだ。入ると閉館間際で30分ほどしか見られなかった。二つの部分に分かれていて真ん中を少し斜路で上がっていくと連続した楕円形の大きな薄暗い展示室が続き、そこには壁一面にカーブして貼られているモネの「睡蓮」ばかりがあって圧倒される。オルセーで見たもの、日本の倉敷・大原美術館で見たものはチャチなものに思えてくる。一度是非ご覧、と言っておきたい。もう一つの部分は地下に降りて行くと細長い展示空間があってセザンヌやルノワールもあった。いわばオルセイの印象派を補完しているとも思えた。時間切れでパンフレットが買えなかったのが家内の「思い残し」であった。(写真は、ノーフラッシュで写したルノワール)
オルセーの5階にはセーヌ川側に屋外テラスがあって、出て川風を浴びながらパリの上からの景観も楽しめる。時間がなかったので「楽しめる」までいかなかったが、ぐるりと見回して、位置を確認した。右手下方に対岸のルーブルが見えていた。目と鼻の先である。(写真は、オルセー屋外テラスから石像の間を縫ってルーブルを見下ろす)