(社)日本家政学会の本部役員をこの5月で終わり、昨日で毎月のように出かけていた東京の本部理事会通いも終わりとなった。この10年間、関西支部長(理事)として4年、副会長(理事)として4年、監事として2年、計10年間通った。年々の「思い」を「家政学会誌」に短く書いたこともある。日本家政学会は、あと2年すると創立60年(還暦)となる。当初、お茶の水女子大学の先生方が中心であったのか、本部はお茶の水女子大学の近くのマンションにある。地下鉄では茗荷谷(みょうがだに)下車5分である。近くに跡見学園や東京教育大学(現・筑波大学)同窓会館・茗経会館などがある。会長の任期が2年なので、5人の方のサポート役だった。大野、島田、酒井、江澤、片山先生である。最後の数年間は、奈良女子大学の的場、磯田先生も同じ理事として一緒に新幹線で駄弁りながら帰ったことも思い出の一つである。梁瀬先生や中川先生とも一緒だったこともある。日本家政学会での最大の思い出は2004年8月に京都の国際会館で行われたIFHE(国際家政学会)の実行委員長を勤めたことであろう。この下旬に秋田大学で行われる総会で任務終了である。的場、磯田先生が監事、理事(副会長)として残られ6月から新たに今井先生が理事(支部長)として参加されることになっている。
今日、岡崎の京都国立近代美術館に行くために二条通を歩いていたら「近くに来たのなら、なんで俺の墓に寄らんのだ」との西山卯三先生の「声」が聞こえてきた。温かい気持ちよい日だったし、西山先生の菩提寺である西昌寺(さいしょうじ)に寄って行くことにした。二条通り西寺町下る、である。境内に入ると、住職の奥さんが出てこられた。私は1994年4月の葬儀以来である。奥さんが言うには、今年は西山先生の13回忌、とのことだ。聞くと時々「横尾先生」(横尾義貫京大名誉教授、西山先生の葬儀委員長)が来られているとのこと、有難いが、どうも西山先生の直弟子は余り来られないと言う。私は身を小さくして西山先生の墓の前まで行った。「西山家の墓」という字は西山先生のものだ。流線型というか、流れるような感じだ。「先生、お久しぶりですね。皆、頑張っていますが、西山記念文庫の理事長だった安藤元夫君が最近そちらに行きました。もう議論が始まっていますか。」と心の中で言ってみた。
高木由臣さんは私と同期で、奈良女子大学を去年、一緒に定年退職した。私は京大工学部の建築学科の大学院修了(修士)だが彼は京大理学部生物学科の大学院(博士)修了だ。私は奈良女子大学に1974年に赴任したが、彼は次の1975年に赴任している。彼は理学部長になり、私は一寸遅れて生活環境学部長になった。
こうみてくると良く似た経歴だが、生まれは彼は四国の徳島市、私は北陸の金沢市で違っている。細かいことは省略するが、彼は理髪店を経営する母親、姉さんをみて育った。私は洋裁学校を経営する母親、妹を見て育った。彼の母親は女性を大事にし女性を雇った。彼も女性の助手を採用し、後継者は女性の春本晃江教授である。とにかくよく似ているが、違うところは彼は一途に「ゾウリムシの寿命に関する研究」をしてきたが、私はあちこち「浮気」的な研究態度であった。最後に何とか絞ってまとめたいとあがいている。高木説によると人間の「自然寿命」は110歳位であるらしい。そこまでは無理として、彼と共に自分の「自然寿命」を全うしたい。春本さんから表記の「高木由臣先生定年退職記念文集」CDが送られてきたのでゆっくりパソコン画面で読んでみたい。(写真は、2005年3月20日の高木さん)
こうみてくると良く似た経歴だが、生まれは彼は四国の徳島市、私は北陸の金沢市で違っている。細かいことは省略するが、彼は理髪店を経営する母親、姉さんをみて育った。私は洋裁学校を経営する母親、妹を見て育った。彼の母親は女性を大事にし女性を雇った。彼も女性の助手を採用し、後継者は女性の春本晃江教授である。とにかくよく似ているが、違うところは彼は一途に「ゾウリムシの寿命に関する研究」をしてきたが、私はあちこち「浮気」的な研究態度であった。最後に何とか絞ってまとめたいとあがいている。高木説によると人間の「自然寿命」は110歳位であるらしい。そこまでは無理として、彼と共に自分の「自然寿命」を全うしたい。春本さんから表記の「高木由臣先生定年退職記念文集」CDが送られてきたのでゆっくりパソコン画面で読んでみたい。(写真は、2005年3月20日の高木さん)
大石 正さん(奈良女子大学共生科学センター長歴任)の退職パーティ二次会(昨日、奈良)に行った。私より1級下で京大理学部からアメリカの大学院に進んだ。生物学専攻である。長年、奈良女子大に勤められた。「ご苦労さん」と言いたい。4月から「なら佐保短大」の学長就任と言う。久しぶりに会って色々駄弁ろうとしたが、色々の人との応対で大変らしく、私は久しぶりに会った理学部の別の人たちと駄弁った。又、全国から集まった方々とも喋ったが、私の知り合いの近くにいる人も何人かいて消息が聞けてよかった。世の中狭いものだな、と思った。また「光と生物」の関係で、初対面の人と視覚や五感のことで議論できて良かった。その方は、飛行機で高い所に登る「加速度」に「快感」を覚えると言われた。私は全く逆の「不安感」に襲われるが、人様々なのか、とも感じた。「超高層建築、住宅」を考える一つの参考になった。
10日(金)の夜、金沢で奈良女子大卒業生に会って食事をしつつ歓談した。急に呼びかけたので集まったのは4人であったが、河内久美子さん(金沢学院短期大学)が作って持っていた名簿によると北陸には住居学科ないし住環境学専攻卒(院修含む)の人達は20人はいるようだ。同窓会の「第生会」から会報送って来ない、という人もいたので「すぐ連絡するように」と言っておいた。昔から「友あり遠方より来る又楽しからずや」とは言うが「師あり・・・」とは言わない。まあ「師あり遠方より来る又煙たからずや」にならないように注意したい。後の3人は、金沢市役所に勤める人、コンサルタント会社に勤める人、主婦の人であったが、色々な人との「つながり」も分かって良かった。都合で欠席の山岸雅子さん(金大教育学部)は、今度、付属養護学校の校長先生になるようだ。金大では女性は初めてのようだ。頑張って欲しい。3冊『つながりの豊かな地域居住』の冊子があったので働いている3人に渡した。ある人は「久しぶりに先生(私のこと)の駄洒落を聞いて良かった」とお世辞を言ってくれた。(会食のKKRホテル金沢・夜景)
的場輝佳(まとば・てるよし)さんは、5、6年ほど前(もう一寸前かも・・)からか趣味で合唱団に入っていて毎週水曜日の夜、大阪に練習に行っておられた。京大合唱団、つまり学生時代のOBが中心のようだ。大体、奈良女子大学では、水曜日の午後が会議TIMEで教授会が長引くと18時、19時になることもあった。的場さんは、余り重要な会議でないと判断すると、17時頃から姿が見えなくなった。議長をしていた私も「ああ大阪だな」と思った。それ以前は、河合先生が学部長の時など、会議が終ったらビールなどを飲んで駄弁っていたが、的場さんが夕方に大阪に合唱の練習に行く頃から大学も色々厳しくなって、そういう余裕はなくなってきた。でもとにかく「いい趣味で羨ましい」とづっと言って来た。昨日の「会」でも、その合唱団の人が何人か来ていて、ミニパーティでは、的場さんは「デュエット」で「ふるさと」(故郷)を歌った。
一、 兎追いし かの山
小鮒釣りし かの川
夢は今も めぐりて
忘れがたき 故郷
二、 如何に在ます 父母
恙なしや 友がき
雨に風に つけても
思い出ずる 故郷
三、 志を はたして
いつの日にか 帰らん
山は青き 故郷
水は清き 故郷
一、 兎追いし かの山
小鮒釣りし かの川
夢は今も めぐりて
忘れがたき 故郷
二、 如何に在ます 父母
恙なしや 友がき
雨に風に つけても
思い出ずる 故郷
三、 志を はたして
いつの日にか 帰らん
山は青き 故郷
水は清き 故郷
皆さんは、昼食を何処で食べていますか。食後に喫茶店に行きますか。私は、1988年頃から17年以上毎日日記を書いているが、昼食を何処で食べたか、出来れば何を食べたか、食後何処に行ったかも書いている積り。それらを集計すると、昼食場所、昼休みの過ごし方の頻度、という報告になるだろう。去年2005年の3月まで奈良女子大に勤めていたので、奈良女の生協食堂に一番良く行っただろうが、外に出ることもあった。その中には東向き通りや小西通りまで行ったこともあるが、外で一番良く行ったし、今も非常勤で行った時など立ち寄るのが「まぐろ小屋」だ。大学近くの花芝町にある。ここは私の赴任した1974年(昭和49年)頃は映画館の一部だった。その後マンションを含む複合建築になって、その一階の一部が「まぐろ小屋」なのだ。名前の通り、「まぐろ」を食わしてくれる。私は「肉派」ではなく「魚派」なのでよく行っていたし行っているのだ。マスターに「駄洒落」を言ってみて受ければ他でも言うという私の練習場でもある。
今日は、阪神・淡路大震災11周年である。当時、1995年1月17日、私達は現在住んでいる家に既に入居していた。確か前年1994年の11月に京都の向島ニュータウンから現在地に引越ししたのだった。その時、家族3人は2階に寝ていた。ぐらぐら、と来た時、私は「これは大変な地震」と直感した。直ぐに窓から外を見た。回りの家には特に変わったことはない。遠くの精華町、木津町の給水塔を見たが大丈夫のようだった。すぐ下に行くと、戸棚から茶碗が数個飛び出して床に転がっている。テレビをつけて驚いた。神戸方面で火の手が上がり黒煙も上がっているではないか。
私が出来ることとして、日本家政学会で調査団を組織し現地の困難の調査を行った。多くの協力を得て科研費も貰い報告書も出した。11年経ったが、当時予測した通り完全に解決していない。引き続き、見守っていきたい。
自分自身としても、今の家を建てて11年余、今度、全面的に「改修」の予定だが、耐震診断、耐震補強等もしなければ、と思っている。(写真は、長田区の状況)
私が出来ることとして、日本家政学会で調査団を組織し現地の困難の調査を行った。多くの協力を得て科研費も貰い報告書も出した。11年経ったが、当時予測した通り完全に解決していない。引き続き、見守っていきたい。
自分自身としても、今の家を建てて11年余、今度、全面的に「改修」の予定だが、耐震診断、耐震補強等もしなければ、と思っている。(写真は、長田区の状況)
今日、京都から帰りの近鉄特急で、薬師寺管主・安田 暎胤夫妻に会った。私が、奈良女子大学教授になりたての時、太田博太郎先生(東大名誉教授、建築史)を委員長にした薬師寺整備委員会の委員の一人として、時々薬師寺に赴き、当時執事長だった安田 暎胤さんと何回か会っていた。委員としては奈良女子大の扇田 信先生(名誉教授)、近藤公夫先生や奈良文化財研究所の鈴木嘉吉先生も含まれていた。それから大分年月も経過しているので、安田さんは、はっきりと私を覚えておられない風だった。隣に奥さんも座っておられたので挨拶した。奥さんは奈良女子大学文学部(地理学科)のご出身で、今度、相馬秀広教授の指導で博士学位論文(玄奘三蔵に関する論考)を書かれたとのことを伺っていたので「おめでとう」を言っておいた。今度その論文を贈ります、とのこと、楽しみにしていたい。ついでに言うと、東大寺の長老の奥さんも奈良女子大出身と言う、地域性かなとも思うが・・。(写真は、薬師寺)
けいはんなのまちづくりの会では、来週の11月25日(金)に「持続可能なまちづくり」という題で「けいはんなプラザ3F会議室」で18時半から京大院生(地球環境学舎)の清水万由子さんに話をしてもらうことになっている。
12月は、17日(土)に、精華町交流ホール(精華町庁舎2階、近鉄・新祝園下車徒歩10分)で建築家の陶器二三雄さん(国立国会図書館関西館設計ほか)の講演(けいはんなの景観まちづくりについて)を企画している。同じ建築家の長坂 大さん(奈良女子大助教授)に質疑・討論をコーディネートして貰う。
時間は、18時から20時半までの2時間半だ。会費千円、定員100名。問い合わせ、申し込みは、メールでは、khn-machizukuri@hotmail.co.jp 又ファックスでは、0774-73-0571(会の代表:杉原宛)へどうぞ。
(写真は、けいはんな学研都市における国会図書館関西館)
12月は、17日(土)に、精華町交流ホール(精華町庁舎2階、近鉄・新祝園下車徒歩10分)で建築家の陶器二三雄さん(国立国会図書館関西館設計ほか)の講演(けいはんなの景観まちづくりについて)を企画している。同じ建築家の長坂 大さん(奈良女子大助教授)に質疑・討論をコーディネートして貰う。
時間は、18時から20時半までの2時間半だ。会費千円、定員100名。問い合わせ、申し込みは、メールでは、khn-machizukuri@hotmail.co.jp 又ファックスでは、0774-73-0571(会の代表:杉原宛)へどうぞ。
(写真は、けいはんな学研都市における国会図書館関西館)
今日「けいはんなのまちづくりの会運営会議」が、私の家の近くの積水ハウス総合住宅研究所の建物にある洋風薬膳レストラン「あわさい」であった。私は「会」の代表の杉原五郎さんの要請でオブザーバーで陪席した。「会」はほぼ3年になるので「石の上にも三年」で、来年あたりに「新機軸」を出したいので、その「助走」が始まったようだ。
男性3人、女性3人の参加で、こういう会議は男女共同参画社会の線上で結構であり気持ちよいものである。年齢構成もバラエティがあり、私が最も年長で、次が杉原さんであり、少し若い男性、それから女性二人、更に最も若い人が女性の大学院生だった。京大院生(地球環境学舎)の清水万由子さんで来週の11月25日(金)に「持続可能なまちづくり」という題で「けいはんなプラザ3F会議室」で18時半から話をしてもらうことになっている。関心のある方は是非どうぞ。(写真は、けいはんなプラザ、近鉄・新祝園からバス、又はタクシー)
男性3人、女性3人の参加で、こういう会議は男女共同参画社会の線上で結構であり気持ちよいものである。年齢構成もバラエティがあり、私が最も年長で、次が杉原さんであり、少し若い男性、それから女性二人、更に最も若い人が女性の大学院生だった。京大院生(地球環境学舎)の清水万由子さんで来週の11月25日(金)に「持続可能なまちづくり」という題で「けいはんなプラザ3F会議室」で18時半から話をしてもらうことになっている。関心のある方は是非どうぞ。(写真は、けいはんなプラザ、近鉄・新祝園からバス、又はタクシー)
今日、奈良の町中でかっての奈良女子大学の同僚S.先生に会った。そして言われた。「西村さんのブログ見ていますよ、話題が多様で、短文でもちゃんと分るように書かれているので感心した」と。ほめて頂いたととって、「有難う」と言っておいた。これは、恐らく1987年から今日まで1日も欠かさず日記を書いてきた癖がブログに並行移動したのであろう、と自分では考えている。お蔭で最近は本体の日記は「やせ細って」それこそ「摘要」になっている。プライバシーにわたる微妙な話や、憤懣やるかたなき怒り等は日記に書かざるをえないが、それでも日記は全体としてメモ化している。ブログに書くということは、短文でも一応、起承転結、序破急を付けて書くので「短文評論」の練習でもあるだろう。一寸振り返ると、約5ヶ月で800以上のコンテンツ、1日に平均5,6コンテンツ作成していることになる。最近は1日平均4,50人の方に見ていただいている。一寸コメントが少ないのが残念だが・・。何時まで続くか分らないが、学生に言っている通り「継続は力」「ちりも積もれば山と成る」であろう。(写真は奈良女子大學記念館)
1994年2月8日に奈良女子大學の中庭で、あずまや「若竹」のお披露目があった。田村学長時代である。この命名に私が関与している。田村学長にネーミングについて聞かれて、いくつか提案したが、その一つが「若竹」だった。理由は、周りが竹やぶであったこと、若竹はすくすくと育つので学生をイメージすると良いイメージであること等であった。八角形になっており、床に八重桜がデザインされている。理由は三つ、第一に八重桜は、奈良女子大學の学章であること、第二に八は末広がりで勢いがあること、そして第三に入り口の一辺を除いて七辺があるので、「竹林の七賢人」の座がつくれること、である。七人とは学長以下の幹部のイメージである。
「若竹」のこれらについて縷々説明すると、皆「へ~」と納得風である。そこで私が一言「どうだ、分かったケ!」
「若竹」のこれらについて縷々説明すると、皆「へ~」と納得風である。そこで私が一言「どうだ、分かったケ!」
近鉄・奈良駅を上がってくると一寸した「広場」がある。行基さんの小さな立像のある噴水がある。この広場(「狭場」と言った方がよいかな)の再整備を宮城俊作教授と私の共同課題にして2年間ほど、学生に演習をやってもらった。確かに何とかしたい奈良の「玄関口」である。真正面に「ひがしむき」と大きなアーケード付の看板があり、右に曲がるとその通りだ。観光客の土産物買い通りで京都の新京極の雰囲気に一寸似ている。この通りを何故「東向き通り」と言うのか、も学生と散歩する時、聞いてみる質問だ。これは簡単であって、東に向いている側だけに最初は町があったのだ。東側は何かと言うと興福寺の境内であった。今は、そちら側にも店が出来ているが、途中に興福寺境内に上がっていく道があって「ああなるほど」と思う。(写真)道の片方にしか店がなかった町に金沢の片町というのもある。ところで、近鉄前「広場」から北側を見ると大通りをはさんで小さな通りがあり「ひがしむききた」とアーケードに書いてある。ここを歩いて行くと奈良女子大に至る。私はかってここの商店街会の会長さんに「女子大前通り」とアーケードに大きく書いたらどうですか、と提案したことがある。そうすれば、近鉄を下りた観光客も「一寸行ってみようかな」と思うのではないか。確か名古屋にも似た名称があったのではないか。
私が扇田 信先生のあと、住生活学講座の教授になったが、引き続き京大防災研究所教授で「風工学」がご専門で、奈良市白豪町に住んでおられた石崎溌雄先生に「構造力学」の非常勤講師をお願いして快く来ていただいた。石崎先生は、戦後、東大建築学科から京大に赴任されたが、元々は東大航空工学御出身の秀才だった。戦争中、工学部では飛行機を作るための航空工学に秀才が集まっていたのである。ところが、戦後は、飛行機を作らなくても良くなり、石崎先生は「行き場」を失い、風のことは出来たので建築学科に転じ活かしたいと思った、ようなことを伺った。戦後の京大では構造、計画、歴史等の区別なく助手等の若手には交流があったようで(助手室という大部屋のせいもある)、石崎先生は、当時、京大助手だった扇田先生ともじっこんになられたのだ。ために奈良女子大学の非常勤に扇田先生の要請で来られていて、私の時に引き続き来ていただいたのだ。石崎先生との会話で、面白かったのは「西村君、モンロー効果というのを知っているかい。アメリカ人の命名だが、超高層の谷間では、上空でゆるい風が吹いていても足元は突風ということもある。ために女性のスカートが、映画での女優マリリン・モンローのスカートのようにめくれ上がる、そういう現象を言うのだ。アメリカ人は命名が上手い・・」と。風に関連して、ガラス窓と風との関係を、もう少し早く研究していたらよかった、とも言われた。晩年、何故か住生活に興味をもってもらい、私と今井範子さん(当時・助教授、現・教授)が何回かお話したこともある。窓ガラスとの関係を意識しておられたとしたら、今、私が関心をもっていることの一つである。石崎先生は、昨今の大型化した台風やハリケーンのことを「彼岸」でどう思っておられるだろうか。