写真は、奈良・飛火野である。関西地方で小学生をした人は大体は遠足で一度は行っている。この芝生は、何時も大変綺麗に刈られている感じだが、人間が刈っているのを見かけたことはない。結構広い地域なので人間が刈ると労力も費用も大変に違いない。答えを言うと、実は鹿が食べて、結果として綺麗に切りそろえているのだ。鹿が芝を食べて成長する、鹿が糞をすると糞虫(ファーブル昆虫記にあったかな)が食べて分解する、それは芝生の肥料となり芝は成長する、それを又鹿が食べて・・と繰り返される。一種のエコロジーである。こういうことを遠足の時に学んで欲しいものだ。
写真は、奈良国立博物館の前の樹木である。良く見ると、葉の下の高さが一定で剪定したように見える。しかし、それはそうではなく実は奈良名物の鹿が食べて揃えたようだ。この線をDEER LINE と言う。馬酔木など鹿の嫌いな樹木では、そういうことはないが、鹿が食べる樹木の葉ではDEER LINEが形成される。奈良県庁は正面から見るとピロティになっていて1階が抜けているが、これも奈良公園のDEER LINEを意識したものかもしれない。そういえば、奈良の鹿の「角きり」シーズンである。鹿にとっては「Oh Dear!」といったところである。
写真は、奈良国立博物館・本館である。名称は「国立」ではあるが、何年か前に「独立行政法人」になっている。この建物は明治27年(1894年)につくられた。設計は、東京帝大造家学科(建築学科の前身)初代日本人教授の辰野金吾と同期で東京帝大造家学科卒の片山東熊(かたやま・とうくま)である。バロック風であり、当時、奈良に似つかわしくないという世論が起こった。ために同じ明治だが大分後に出来た奈良ホテルは、レンガ造りの東京駅を設計したイギリス派とも言うべき辰野金吾の設計にもかかわらず和洋折衷、外部からは和風にみえるように造らざるをえなかったのだ。同じ地域に「巨匠」が時をおいて造っても、後のデザインに影響を与える例である。
もうすぐ今年の秋も新館で「正倉院展」が恒例で開かれる。今年は古い碁盤も展示されるようだ。
もうすぐ今年の秋も新館で「正倉院展」が恒例で開かれる。今年は古い碁盤も展示されるようだ。
西山先生は、収集されたものは基本的に捨てない主義だった。例えば、自然と集まったマッチ箱も山のようにあった。というのは先生が1994年4月に亡くなられた後、西山家と西山研卒業生の話し合いで、西山先生の残された資料(書籍、ノート、収集資料等)全てを保存することになり、担当の我々が西山家を訪れて、ざっと分類して搬出するため何日か整理したためである。
その時の印象は、家中、資料だらけで資料庫の中に西山家の人々が暮らしていたという感じであった。その資料は、現在、積水ハウス住宅総合研究所の一角に保存、整理されている。管理は、NPO法人西山卯三記念すまい・まちづくり文庫がしている。近代住宅・町づくり研究史の一つの宝庫と言ってよいだろう。場所は、京都駅から近鉄で奈良方面に南下し急行で約35分、高の原下車、徒歩約15分である。興味のある方は訪問して下さい。私の家もたまたまそこから歩いて2,3分です。覗いてください。OMソーラーの「そーら面白い?家ですよ!」
その時の印象は、家中、資料だらけで資料庫の中に西山家の人々が暮らしていたという感じであった。その資料は、現在、積水ハウス住宅総合研究所の一角に保存、整理されている。管理は、NPO法人西山卯三記念すまい・まちづくり文庫がしている。近代住宅・町づくり研究史の一つの宝庫と言ってよいだろう。場所は、京都駅から近鉄で奈良方面に南下し急行で約35分、高の原下車、徒歩約15分である。興味のある方は訪問して下さい。私の家もたまたまそこから歩いて2,3分です。覗いてください。OMソーラーの「そーら面白い?家ですよ!」
郡上市のデーターによると、市の面積の90.1%が森林で、私有林が89.8%である。仮に森林の多面的機能(二酸化炭素吸収、化石燃料代替、表面侵食防止、表層崩壊防止、洪水緩和、水資源貯留、水質浄化、保健休養)をお金に換算すると2513億円にあがるという。
その民有林の特徴は、人工林が7割で、檜、杉が半々である。人工林の74%が間伐対象林である。データーに載っていなかったので「ところで林業労働者は何人いますか?」と聞いたら、207人という答えが返ってきた。地主は不在地主も入れて5千人ほどと言う。5万人弱の市民の0.5%が市の90%ほどの面積の森林を管理していることになる。「これでは、余りに少ないのでは?」というと、仕事の安定性と賃金等の問題、と言われた。私は「膨大な都市住民の中には手伝っても良いよ、という人もいるはず」というと、確かに森林組合で伐採の時に募集すると多くの市民も応募してくるが、技術がない、やはり技術を伝授する機関が必要と言う。それについてはNPO法人Woodsmanが対応しつつあるようだ。期待したい。
http://www.yamaiki.com
その民有林の特徴は、人工林が7割で、檜、杉が半々である。人工林の74%が間伐対象林である。データーに載っていなかったので「ところで林業労働者は何人いますか?」と聞いたら、207人という答えが返ってきた。地主は不在地主も入れて5千人ほどと言う。5万人弱の市民の0.5%が市の90%ほどの面積の森林を管理していることになる。「これでは、余りに少ないのでは?」というと、仕事の安定性と賃金等の問題、と言われた。私は「膨大な都市住民の中には手伝っても良いよ、という人もいるはず」というと、確かに森林組合で伐採の時に募集すると多くの市民も応募してくるが、技術がない、やはり技術を伝授する機関が必要と言う。それについてはNPO法人Woodsmanが対応しつつあるようだ。期待したい。
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郡上八幡での後藤 治さん(工学院大)の講義も正に講義として我々にも役立ったと思う。
伝統的木造住宅を近くの山の木で地の大工さん達の職人で建ててもらうのは、地の森林を保全しつつ、地の職人達も保持することになる。建ててから、例えば床が落ちた、といっても近くに馴染みの大工がいれば安心だ。特に地震で半壊の時に、建てた大工なら、建て起こして復旧することも可能だ。そういうことがないと、潰して更地にプレハブ住宅等を導入することになりかねない。それは同時に伝統的町並みを崩すことにもなる・・と言った趣旨を後藤さんは言われた。尤もなことである。ところが後で、市役所で郡上市に大工が何人いるか、聞いたら、合併したてで未だ全体を掴んでいないようだった。今後、別の面から言っても地で材やお金や技・知恵を出来るだけ回していった方が良いだろう。
伝統的木造住宅を近くの山の木で地の大工さん達の職人で建ててもらうのは、地の森林を保全しつつ、地の職人達も保持することになる。建ててから、例えば床が落ちた、といっても近くに馴染みの大工がいれば安心だ。特に地震で半壊の時に、建てた大工なら、建て起こして復旧することも可能だ。そういうことがないと、潰して更地にプレハブ住宅等を導入することになりかねない。それは同時に伝統的町並みを崩すことにもなる・・と言った趣旨を後藤さんは言われた。尤もなことである。ところが後で、市役所で郡上市に大工が何人いるか、聞いたら、合併したてで未だ全体を掴んでいないようだった。今後、別の面から言っても地で材やお金や技・知恵を出来るだけ回していった方が良いだろう。
西山先生が亡くなられたのは、1994年4月2日であった。その少し前に雑誌『アエラ』に西山先生の記事が出た。日本の景観がどんどん「悪く」なっているのに悲憤慷慨されている「インタビュー」を基にした記事だったと記憶する。その時の写真の一枚に2階の座敷の炬燵で先生が手で顔をぬぐう形のものがあったが、その向こうの窓から前に書いた前庭にある松の樹冠が見えているのだった。
私は、それを見て思った。1階の座敷におられるときは、前庭の池や生垣を見て、2階の座敷におられるときは、この松の樹冠を見て、西山先生は「ホッとされている」に違いないと。ついでに言うと、亡くなられた後、資料の整理で皆と一緒に2階の寝室に入ったとき、その窓からは、丁度、生垣が見下ろされる形になっていた。
窓から身近に緑が見える重要性を、西山先生のお宅でも発見した気分だった。
私は、それを見て思った。1階の座敷におられるときは、前庭の池や生垣を見て、2階の座敷におられるときは、この松の樹冠を見て、西山先生は「ホッとされている」に違いないと。ついでに言うと、亡くなられた後、資料の整理で皆と一緒に2階の寝室に入ったとき、その窓からは、丁度、生垣が見下ろされる形になっていた。
窓から身近に緑が見える重要性を、西山先生のお宅でも発見した気分だった。
NHKTV「未来潮流」のビデオだ、1998年8月15日放映、私は2004年8月27日に再度見ている。ホローコースト、原爆、公害、震災、エイズなどの記憶を建築できるか、ということ。過去、言うまでもなく国家や支配者の栄光の記憶を表現してきたのが建築だ。磯崎 新さんの述懐。水俣メモリアルの設計コンペの審査員。イタリアのジュセッペ・バローネの広場にステンレス球体108個を置いたものを当選とする。108は仏教の煩悩の数か、夜には灯りが入って不知火海の漁火のようにも見え、死者の魂が戻ってきたようにも見えると言う。1997年5月1日オープン。
感慨・考察・・球は形の一つの原点、エネルギーが内にこもっている感じ。神戸の精神科医の震災を思い出しつつ「瓦礫は直接見たくない、どろどろな記憶を浄化する真珠のようなものが必要・・」との言い方が良いと思った。水俣のステンレス球体も悲劇的思い出を浄化する真珠である。また、芦北・女島の緒方正人さんの彫った野仏を不知火海に向けて安置するのも良い。死者は、怒り恨みを超越して仏になっているのだ。海を見つめているのは二度とこの美しい海を汚してはいけない、ということだ。
とすると、悲劇の記憶を表す建築は、宗教的建築ということになるかもしれない。
感慨・考察・・球は形の一つの原点、エネルギーが内にこもっている感じ。神戸の精神科医の震災を思い出しつつ「瓦礫は直接見たくない、どろどろな記憶を浄化する真珠のようなものが必要・・」との言い方が良いと思った。水俣のステンレス球体も悲劇的思い出を浄化する真珠である。また、芦北・女島の緒方正人さんの彫った野仏を不知火海に向けて安置するのも良い。死者は、怒り恨みを超越して仏になっているのだ。海を見つめているのは二度とこの美しい海を汚してはいけない、ということだ。
とすると、悲劇の記憶を表す建築は、宗教的建築ということになるかもしれない。
奈良にDeer lineというのがあるのをご存知ですか。Deerは鹿なので鹿線という訳だ。つまり、鹿が背伸びして食べられる範囲の草、葉っぱは食べられてしまうので、そこまでの草や葉っぱがなくなり、水平に一定の高さの線が引けるのでは、ということだ。勿論、鹿の嫌いな例えば馬酔木などは食べられないので、それらは残る。
とにかくDeer line以下は見通しが良くなる訳だ。奈良県庁は奈良公園に面してピロティになっているが、向かいの奈良公園もDeer lineで下の方はスカスカになっているので、合い通じている感じもするが、どうだろうか。Oh, dear!
とにかくDeer line以下は見通しが良くなる訳だ。奈良県庁は奈良公園に面してピロティになっているが、向かいの奈良公園もDeer lineで下の方はスカスカになっているので、合い通じている感じもするが、どうだろうか。Oh, dear!
今、日本人の宇宙飛行士は何人いるのだろうか。毛利 衛さんが「初代」、今回のディスカバリーには野口聡一さん(40)が乗っている。1995年、第47回の日本家政学会大会が奈良女子大学で行なわれた時、丹羽雅子先生が運営委員長、梁瀬度子先生が実行委員長、私は庶務担当だった。特別講演に誰を招くかで、私は向井千秋さんを招いたら、と提案した。勿論、女性の多い家政学会だから、当時、向井さんは宇宙から帰ったばかりで注目の女性科学者の一人ということもあったが、私に一寸した思惑があったからだ。当時の科学技術庁事務次官は金大付属高校の同期生の石田寛人君(現・金沢学院大学長)だった。向井さんが所属していた「宇宙開発事業団」は科学技術庁の「外郭」だったので、石田君に頼めば何とかなる、と思ったのである。早速、電話してお願いした。丁度、関係の係の方が奈良女子大の理学部出身の方だった。(名前失念)宇宙開発事業団に橋渡しして頂き、無事、向井千秋さんを招き、各県1回ということで、県の文化会館で県民(小学生等)にも開放して、特別講演は大成功だった。その時、向井さんから貰った色紙は、1枚は、生活環境学部長室にある。
後日談・・私は、その後、学生部長になって「東町」(本部の学長室や学生部長室等がある所)と「西町」(学部、研究室のある所)の往復(シャトル!)を毎日することになった。
やることの「格差」にふらふらの状態に陥った感慨・・向井千秋さんが宇宙で言った575「無重力 何度も出来る 宙返り」私の575「異重力 足元乱れて 千鳥足」(陰の声:千鳥足はアルコールのせいでは?!)
後日談・・私は、その後、学生部長になって「東町」(本部の学長室や学生部長室等がある所)と「西町」(学部、研究室のある所)の往復(シャトル!)を毎日することになった。
やることの「格差」にふらふらの状態に陥った感慨・・向井千秋さんが宇宙で言った575「無重力 何度も出来る 宙返り」私の575「異重力 足元乱れて 千鳥足」(陰の声:千鳥足はアルコールのせいでは?!)
長谷川千鶴先生を知らない奈良女子大卒業生はいない。又、奈良女子大に席をおいた教職員でも知らない人はいない。長い間、同窓会「佐保会」の理事長をされていたからである。その長谷川先生が4月11日に93歳で亡くなられた。30日にゆかりの奈良女子大講堂の小倉遊亀画伯作の緞帳「爛漫」の前で偲ぶ会が行なわれた。
私は、奈良女子大に赴任した1974年4月以来31年間の「お付き合い」であった。私が最も印象深く覚えているのは、私が赴任して1年経った1975年3月で先生はご退官になられたのだが、最後の教授会の後で挨拶され、皆が退席する時に会議室の出口で一人一人に両手で握手され「長い間本当に有難う」と言われたことである。私は、1年間のお付き合しかなかったが強く印象にのこった。それ以来、そういうことをされる先生方はおられなかった。私は、長谷川先生より一世代30年若いので今年が退職だった。その時、ふと昔の長谷川先生のように会議室の出口で皆さんに握手して別れようかな、と思ったがやめた。そういうことは長谷川千鶴先生だけの思い出にしておきたい、と思い直したからである。
4月30日の偲ぶ会で現「佐保会」理事長の生駒先生は、次のような趣旨を述べられた。「長谷川先生の尊敬しておられた小倉遊亀画伯の「爛漫」の前で「偲ぶ会」をさせて頂いた。長谷川先生は4月11日に93歳で亡くなられたが前日まで桜が満開で、夜に花嵐が来て桜は散った、まさに(西行)大法師のような亡くなりかただった」と。
もちろん、西行が「ねがはくは花のもとにて春死なむその如月の望月のころ」と詠って、その通りに亡くなったのは言わずもがな、である。
私は、奈良女子大に赴任した1974年4月以来31年間の「お付き合い」であった。私が最も印象深く覚えているのは、私が赴任して1年経った1975年3月で先生はご退官になられたのだが、最後の教授会の後で挨拶され、皆が退席する時に会議室の出口で一人一人に両手で握手され「長い間本当に有難う」と言われたことである。私は、1年間のお付き合しかなかったが強く印象にのこった。それ以来、そういうことをされる先生方はおられなかった。私は、長谷川先生より一世代30年若いので今年が退職だった。その時、ふと昔の長谷川先生のように会議室の出口で皆さんに握手して別れようかな、と思ったがやめた。そういうことは長谷川千鶴先生だけの思い出にしておきたい、と思い直したからである。
4月30日の偲ぶ会で現「佐保会」理事長の生駒先生は、次のような趣旨を述べられた。「長谷川先生の尊敬しておられた小倉遊亀画伯の「爛漫」の前で「偲ぶ会」をさせて頂いた。長谷川先生は4月11日に93歳で亡くなられたが前日まで桜が満開で、夜に花嵐が来て桜は散った、まさに(西行)大法師のような亡くなりかただった」と。
もちろん、西行が「ねがはくは花のもとにて春死なむその如月の望月のころ」と詠って、その通りに亡くなったのは言わずもがな、である。
現在、近鉄電車で京都から奈良に行くとすると、急行の止まる駅は、東寺、竹田、丹波橋、桃山御陵前、大久保、新田辺、新祝園、高の原、大和西大寺、新大宮そして奈良である。ところで、私が奈良に京都から通いだした1974年頃に急行が止まった駅は、東寺、丹波橋、桃山御陵前、大久保、新田辺、高の原、西大寺そして奈良であった。これらから、1974年以後、現在までに急行が止まるようになった駅は、竹田、新祝園、新大宮であることがわかる。竹田は、その後建設された京都地下鉄との乗換駅で急行が止まるのはうなずかれる。「竹田の子守唄」の地区にある。新大宮は、旧市内から奈良市役所が移ってきた地区であり、他の事務所も増えたので通勤客乗降駅として奈良の隣の駅だが急行が止まっても当然だろう。問題は、最近決まった新祝園駅である。確かにJRとの乗り換駅なのは有利な条件だが、乗降客が近鉄急行が止まる駅の条件に少し満たなかったようだ。この新祝園駅は、精華町の町役場がある駅であり、関西学研都市への主な出入り口とみなされていた。しかし、学研都市には大阪から通ってくる人も多く、この地域の住宅に住む人たちも大阪に通勤している場合が多い。そこで、新祝園に出るよりも学園前に出たほうが便利なのである。それを、無理にバス路線も学園前につながずに新祝園につなぐなどの意図的努力をしてようやく急行が止まるようになったのである。