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西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

研究会で「インドネシアのことあれこれ」聞きに行く

2008-03-01 | 奈良・精華町の思い出(教授時代)関連続き
昨日、奈良で研究会があり、聞きに出かけた。元・奈良女子大におられたS.先生の「インドネシアのことあれこれ」という話題提供だった。参加者は6人、もうすぐインドネシアに出かけるというN.先生も来ておられた。

インドネシアは2億人以上の人口を持つ多民族国家、多宗教国家である。でもインドネシア語(元マレー語)を統一言語にしてうまくいっているという話だった。S.先生も30年前に初めて行き、結構早くインドネシア語を覚えたとのことだった。

一度、ボロブドール遺跡他、バリ島も含めて行ってみたい気になった。オランダが東インド会社を使って長らく植民地にしていたため、古いオランダ発の土木技術などは本国よりインドネシアに残っているという話を聞いたこともある。東西に長い国土で民族も多いので住宅等の建物にも多様性が見られる。Taman Miniaturという野外展示場(日本の明治村に似ている)にも行って見たいと思った。「タマン ミニアツル」と言うが、オランダ・デン・ハーグの「マドローダム」のようにミニチュアではなく実物大の建物が並んであるようだ。

まあ最近は、地震・津波の災害とか鳥インフルエンザの問題もあるので、「近づきたくない」気分もあるけれども・・・。でも、一度は、行って見たい。

「研究会」が終わって、東向き通りの中華料理店に行って講師のShi.先生、幹事のSe.先生と私の三人で更に食べつつ飲みつつ歓談した。こういう気軽なテーマの話を聞きわいわい言えるグループがあるのは良いと思った。「けいはんな学研都市」地域での「雑学市民大学」(仮称)のPRをしておいた。

(写真は、ボロブドール遺跡)

平城遷都1300年祭のマスコット、ううう・・・。

2008-02-16 | 奈良・精華町の思い出(教授時代)関連続き
2010年は平城遷都1300年にあたる。あと2年である。

その「マスコット」が発表され、愛称を募集している。

それを見て、「何じゃ、これ」と思ってしまった。

「鹿男あおによし」というテレビドラマ(小説もあり)が「フジテレビ系」で木曜日に放映されているが、このマスコットは「鹿仏、鹿童子」とでも言えるのか。

鹿の角みたいの、一寸変、変、変!

13年前のことー1.17、3.20そして6.04などー

2008-01-17 | 奈良・精華町の思い出(教授時代)関連続き
13年前の1995年1月17日は、阪神・淡路大震災の当日だ。1995年の日記ファイルを取り出して見てみた。

当日の日記摘要(1月17日(火)晴れ 5時45分過ぎに大きな地震を感じて飛び起きる。妻も起きる、1分近く揺れ続く、余震もあり、娘も起きたようだ。ラジオをつけると神戸で震度6、奈良は4、京都は5とのことだ。震源地は淡路島で深さ20km、マグニチュード7.2と言う。7時前に1階に下りる、クローゼットの扉少し開いている、トイレの引き戸も開いている。窓際温度2℃、室内10℃だ。テレビニュースでは神戸で火災多数発生、阪神高速道路で高架3個所落ちたようだ。・・・7時40分過ぎに震度4の余震がある。・・・)

当日は、近鉄、京阪は走っていたので(それ以外の私鉄は運休)、近鉄で職場(奈良女)に行く。前の年の11月から現在地(京都南部)に住みだしていた。

この年、私は53歳で、奈良女定年まで後10年になっていた。奈良女子大では、5月20日、21日に日本家政学会第47回大会を開いたが、家政学会でも、この阪神・淡路大震災での被災者の生活復旧、復興に取組むことになり、関西支部を中心に各分野からメンバーを選んで、科研費でも3年間、鋭意取組み、報告書を出して「理論的貢献」をしたと思っている。しかし、個人的には家政学会員も実際の復興に力を尽くしたが、学会としては、日本建築学会のような実際性は今一つだったと思う。

1995年3月20日には、東京で、オウム真理教による地下鉄サリン事件が起こった。(他に1995年には、高速増殖炉「もんじゅ」の事故あり。Windows95も発売された。)

そして、1995年6月4日には、私達の一人娘が名古屋で結婚した。ああ、あれから13年経ったんだな、孫も3人出来たんだな、と今日は感慨無量で、1995年日記ファイルを読みふけった。A4版、1ページ40字×40行で日に平均2ページ以上書いて全部で700ページを越えている。これらは何時か「摘要」を作らないと、と思っている。

(画面は、日記1995年6月4日の1頁目)

毎年1月17日には、「阪神・淡路大震災」に何らかふれている。
2007年:http://blog.goo.ne.jp/in0626/e/369fb076afb84d4dffc6e7666abd7966
2006年:http://blog.goo.ne.jp/in0626/e/04c18d5b853895e1bedc5051ab53a2fd
http://blog.goo.ne.jp/in0626/e/0ff3871b225fd4c763aad09947ddb688

奈良女子大退官・退職教員同窓会ー衣食住をアピールしたいー

2007-12-27 | 奈良・精華町の思い出(教授時代)関連続き
今日、奈良女子大家政学部、生活環境学部退官・退職教員6人の同窓会(忘年会)が京都の伏見の「料亭」であり参加した。残念ながら男性ばかりである。皆、現役時代は何らかの「長」を歴任している。学生部長、図書館長、厚生課長、研究科長、学部長、副学長などだ。一番年長は傘寿(80歳)間際のK.先生、一番若手が65歳なり立てのM.先生、私は66歳で下から二番目だった。
色々の思い出話で盛り上がった。

その中で一つだけ「やろうじゃないか」ということがあったので記録しておきたい。私が、昔、生活環境学概論を、生活環境学部入学の全員150人ほどに講義したとき、皆に一つの課題を課した。生活環境学の中心、衣食住を考えると、食へんの字、衣へん(糸偏)の字、ウ冠の字が沢山あるが、自分の専門に則してそれらの字を列挙し説明せよ、というものである。

食へんに欠と書いて「飲む」、食へんに反と書いて「飯」・・・、衣へんに皮と書いて「被」・・、ウ冠に呂と書いて「宮」・・・、これらは何故そうなるのか、それらを集大成したどうか、ということになった。そのことによって「基本生活の衣食住の重要性」を改めてアピールしたい。
私とM.さんで取り組んでみよう、となった。白川 静先生の辞典にやっかいにならねばなるまい。


奈良女「親和会」に参加

2007-12-06 | 奈良・精華町の思い出(教授時代)関連続き
昨日、奈良女「親和会」に参加した。「親和会」とは、奈良女子大生活環境学部の教職員の「会」で、毎年5月と12月に「懇親会」を開いており、「卒業」した名誉教授等も招待され会費払いで参加できる。年に一度は参加しようと思い、今年は昨日参加したのだ。猿沢池の南の「猿沢荘」であった。「卒業者」は、近藤公夫先生と的場輝佳先生と私の三人だった。もう少し来られると思ったのだが・・・。音楽好きの的場先生から、奈良公園の鹿寄せのホルンは、ベートーベンの「田園」のメロディなんだよ、と聞いて文字通り「耳学問」となった。

磯田則夫学部長から近況を伺った。国立大学法人も大変なんだな、と認識。多くの旧知の方々と言葉を交わせてよかった。「けいはんな地域」での私の「活動」についても少し報告しておいた。
参加者に新人も数人おられたが、今年度4月に住環境学科に赴任された山本直彦先生にも初めてお会いした。愛知県出身、京大大学院建築学専攻修了、デンマーク王立オーフス建築大学助手、 立命館大学理工学部専任講師、滋賀県立大学環境科学部講師を経て来られた。中山 徹先生と共に都市計画・地域居住学を担っていただけるようだ。私が奈良女子大を2年8ヶ月ほど前に「卒業」した時にまとめた奈良・奈良女子大、地域居住学関連の二冊の報告書(自費出版)を贈呈した。

久し振りにG.に「二次会」にも行って、酔っ払ってしまい、「ブログ日記」も日を越してしまった。

上野邦一さん「おめでとう」遺跡保存でカンボジア勲章

2007-11-16 | 奈良・精華町の思い出(教授時代)関連続き
友人・上野邦一さん(奈良女子大名誉教授、この3月定年退職)が長年アンコールワット等の遺跡保存でカンボジア人に保存技術を植え付けた業績で11月3日に「サハメトリ勲章」を貰ったようだ。「おめでとう」と言いたい。10年以上前から毎年のようにカンボジアに出かけて、遺跡保存に尽くすと同時にその保存技術を伝達してきたことは知っていた。上野さんの発想は日本の技術を伝達するというよりカンボジア現地の状況を共に考えて創っていくというスタンスだった、と思う。
前から「アンコールワットに来るなら(行くなら、ではない!)僕がいる時期なら何時でも案内してあげるよ」と上野さんに言って貰っている。早く行ける様に「環境」を整えねば、と思っている今日この頃です。
(写真は、11月3日カンボジアの副首相から勲章を授与される上野邦一さん)

F.さんと久し振りに駄弁る「農耕社会」

2007-11-11 | 奈良・精華町の思い出(教授時代)関連続き
今日、一昨日亡くなった奈良女子大学理学部教授・坂本直樹さんの葬儀に行った。奈良の「セレミューズ秋篠」である。昔、高校2年先輩で東洋大学教授(元・奈良国立文化財研究所勤務)だった古代史の鬼頭清明さんの葬儀も確かここであった。坂本さんの葬儀はシンプルな無宗教式、奈良女子大の久米健次学長、池原健二理学部長の弔辞、喪主の坂本さんの奥さんのご挨拶、そして参列者の献花、会場入り口でのお見送りで、1時間以内で終了した。バックに坂本さんが好きだった「サイモンとガーファンクル」の曲が流されていた。まあ卒業したゼミ生の弔辞はあっても良かったのでは、と一寸思った。
 久し振りに私より一年先に「退官」されたF.先生に会い、帰りに、自動車で高の原まで送ってもらった。久し振り、ということで「イオン」の喫茶店で駄弁った。さる大学に勤めておられるが、植物性蛋白質をとる代表的食べ物は?という質問に「豆腐」や「納豆」などと答えられる学生が皆無で愕然とした、と言われる。「うーん」と私も唸ってしまった。F.さんは、今後、大学を辞めたら農業をしたい、食糧自給率を上げ、地産地消でいくべし、と言う。奈良盆地の南の方に農地も用意しておられるようだ。地球環境のことを考えると「そうだな」と思う。F.さんは、人類は「採取時代」にまで戻れないが「農耕時代」には戻れるのではないか、と言う。久々に「F.節」を聞いた気がした。

坂本直樹さんの思い出

2007-11-10 | 奈良・精華町の思い出(教授時代)関連続き
『毎日新聞』訃報欄によると、奈良女子大教授(放射線物理学)の坂本直樹さんが9日、大腸がんで亡くなられた。享年60歳。京都府の北部の出身、京大工学部原子核工学科卒。平城・相楽ニュータウンに住んでおられ、時々近鉄・高の原駅のホームで一緒になることがあった。読書家で、必ず本を携行し、車中でも電車待ちでも読んでおられた。奈良女子大学は学部は三つ(文、理、生活環境)でこじんまりしているので、昼食時に生協食堂で3学部の先生方が一緒に食事をしており、その節にも坂本さんと話をしたことは何度もある。後3年で定年退職されたら、「地域SNSけいはんな」に誘ったり、「けいはんな市民大学」(これからの構想)に誘ったりしようと思っていたのに残念だ。ご冥福をお祈りしたい。

奈良県が宿泊者数で最下位、うーん

2007-11-07 | 奈良・精華町の思い出(教授時代)関連続き
少し旧聞だが、10月13日の「産経新聞」によると、国交省がまとめた1~6月の宿泊旅行統計調査によると、国内の総宿泊者数は1億4418万人にのぼった。都道府県別に見ると、観光、ビジネス客とも多い東京都が1693万人で全体の1割以上を占めている。以下、北海道、大阪、千葉、静岡、沖縄、神奈川、愛知、長野、ときて10位が京都の439万人だ。で、最下位が奈良の56万人とのことだ。京都と並ぶ観光地・古都なのに京都の1/9位に留まっている。うーん、一つは、大規模な宿泊施設等が少ないことによっている。というか、京都や大阪とは私鉄やJRで結ばれ便利が良いので、奈良を観光するが泊まりは京都で大阪で、という客が多いのだ。しゃれたレストランも少ない、夜や早朝の行事も少ない、となると泊まらなくとも良いとなるのではないか。アイデアとして幾つか:①美味しい夕食を色々揃える。例えば、奈良は「シルクロード」の西の端なので、シルクロード沿いの美味しい料理を食べさせる「シルクロード・レストラン街」の整備、②今も夜の祭(12月の御祭)があるが、夜や早朝のイベントを増やして泊まらざるをえなくする。大和の山菜朝市等も。早朝の奈良公園の素晴らしさのPRも。③奈良市をベースに斑鳩、今井町、明日香等の歴史回廊の設定と整備、PR等・・・。どうでしょうか。

「アルマ・マータ・クワイア」定期演奏会へ行く

2007-10-20 | 奈良・精華町の思い出(教授時代)関連続き
今日の土曜日、奈良女で同僚だった的場輝佳さんにチケットを2枚貰って妻と二人で男性合唱団「アルマ・マータ・クワイア」(Alma Mater Choir)定期演奏会へ行った。大阪城公園の近くの「いずみホール」であった。「アルマ・マータ・クワイア」は、60年の歴史を持つが、元々は京大男性合唱団のOBにより設立された。が、今は京大OBだけでなく広く開放されている。一時、団員がジリ貧になったが、最近は定年退職者が多く入団し現在、出演団員は65名とのことだ。「アルマ・マータ」とはラテン語の「Alma Mater」であり意味は「母校」である。
今日の出し物は三つ、(1)樅(もみ)の樹の歌 (尾崎喜八作詞)(2)島よ(伊藤海彦作詞)(3)男性合唱と小鼓のための「美女(びんでう)打見れば」(梁塵秘抄より)だった。三番目に興味があった。歌詞は日本の古典文学に題材を取り、伴奏楽器に和楽器の小鼓を取り入れている。小鼓を演奏したのは荒井ふみ子さんだったが、途中、ポン、ポンという快音が途切れてブス、ブスとなった。後で指揮者の田中信昭さんの解説によると、演奏が始まって直ぐ小鼓の皮が破れた、と言う。そうなのか、と思った。しかし、演者の荒井さんは技術を駆使して最後まで我慢の演奏、事実を知った観衆は大拍手だった。

で、一寸別の感想だが、今日出演は50人台だったが平均年齢70歳では、と思った。この歳になると姿勢も千差万別、背中が丸まっている人、しゃんとしている人、杖をついている人、さっさと歩いている人、色々だった。まあ皆さん元気は共通している。今日は皆さんご苦労さん!

(写真は、いずみホール)

日本家政学会関西支部会の懇親会に参加

2007-10-14 | 奈良・精華町の思い出(教授時代)関連続き
昨日の土曜日の夜、大阪の杉本町にある大阪市大で行なわれた日本家政学会関西支部研究発表会の後の懇親会に参加し、久し振りに色んな人たちとも会って旧交をあたため交流した。
私も昔、関西支部長を梁瀬度子先生(現・奈良女子大名誉教授)から引き継いでやったことがあるが、何故かその後、奈良女子大から支部長は「しぶしぶ(?」出て、私の後、的場輝佳さん(食物)、磯田則夫さん(住環境)、現在が今井範子さん(住環境)と続いてきた。それで今回、今井支部長により次期支部長は武庫川女子大の小野木禎彦さん(被服、アパレル関係)になったとの発表があった。私も良く知っている人である。ようやく支部長が奈良女子大から他に移って良かったと思う。
奈良女子大学時代の「教え子」何人かにも会って、元気そうだと確認できて良かった。
会場校の大阪市大の何人かの先生方にもお会いした。生活科学研究科長をやっておられる宮野道雄さん(阪神・淡路大震災後の家政学会研究チームで一緒、奈良県立医大の「住居医学」の評価委員でも一緒)に会った。私のこのブログも見ておられるようだ。食物栄養関係の菊崎先生(女性)にも久し振りに会った。住環境の藤田 忍さんにも会った。藤田さんには最近は地域SNSのことで頻繁に会っている。家政学会の活動に大阪市大生活科学研究科の先生方や院生達がもう少し熱心になっていただくと家政学会関西支部としても盛り上がっていいのに・・、と「苦言」(?)らしきことも言っておいた。
18時半から20時までの会が終わって二次会で8人で鶴橋の店に行って駄弁った。藤田さん、的場さん、磯田さんに女性四人だった。
すこし酔っ払ったが有意義な「夜」だった。

久し振りの奈良行き

2007-09-06 | 奈良・精華町の思い出(教授時代)関連続き
今日、久し振り(数週間振り)に奈良に行った。奈良女子大(住環境学科等)に寄り、廊下で生活環境学部長の磯田先生や理学部長の池原先生に会ったので挨拶した。事務の方々にも挨拶した。昼食は、これも久し振り「まぐろ小屋」で「刺身定食」を食べた。http://blog.goo.ne.jp/in0626/e/f261d6429a6ea12646251b6f6691b5ce
マスターと奥さんがいた。息子さんのいる金沢に今度行くらしく、金沢が話題になった。
食後の珈琲は、イギリス風喫茶店「アン・マリー」で飲んだ。
台風が関東に近づいているらしく、久し振りの雨だった。

夏祭りと盆踊り

2007-08-18 | 奈良・精華町の思い出(教授時代)関連続き
今日8月18日(土)奈良市朱雀地域の夏祭りと盆踊りがあった。明日も夏祭りの続きがある。

盆踊りとは、「精霊を迎える、死者を供養するための行事」(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%86%E8%B8%8A%E3%82%8A)のようであり、普通は8月15日(旧暦7月15日)に行なわれる慣わしであるが、都市近郊の平城ニュータウンの我々の所では少し遅れた8月18日、土曜日の夜となった。この日になったのには、理由があると思う。大体、ニュータウンだから住んでいるのは田舎から出てきた人々が殆どだ。で、田舎の夏祭りと盆踊りは8月15日なので、田舎で親兄弟、郷里の友人達と踊ってから都会に戻り、その後の土日に夏休み最後の祭、踊りをするという訳だ。

私は、T.居住地の住民として夕方1時間強参加し、何人かの人々とビールを飲み交わしあれこれ駄弁れて良かった。高齢者も多いが、久しぶりにT.居住地の子供達にも会えてよかった。

(写真は、盆踊りイメージ)

孫の自由研究課題ー住宅と材料ーと「台風一過」

2007-08-17 | 奈良・精華町の思い出(教授時代)関連続き
この8月17日に精華町の私達の家に8日間いた名古屋の孫達(11歳男、6歳女、四ヶ月男、娘三十ウン歳)が帰っていく。中の女の子などは去りがたい風情、「又おいでよ」と声をかけておいた。上の二人を旧加茂町の「きっづ光科学館ふぉとん」に連れて行ったし、イオンのシネコンへ映画「レミーのおいしいレストラン」もみに行った。近所の公園に行って花火を二夜連続でやった。良い思い出になったのではないか。上の男の子は甲子園に高校野球を観に行きたかったらしいが、又の機会だ。1週間位の滞在になったら、何処に行くか良く考えておく必要がある。又、来年だ、と思うが、来年は今のところ我々自身が海外に行きたいと思っていて、この時期に孫達の世話が出来るかどうか不明である。
ところで、昨日、長孫(小五)が「自由研究課題」で「家は、どんな材料で出来ているか」を拙宅を例に調べたい、と言い出した。家内は、身を乗り出して、彼を家中を連れまわってあれこれ助言をしていた。別の日に彼は地下室や屋根裏まで行っていたらしい。で、彼は、自分で床、天井、壁といった表を作り、その欄にそれぞれで見つけた材料を書き込んでいた。分からないものは家内に聞いていた。家内も参考に簡単な家の見取り図を描いてやっていた。彼によると、拙宅は100から200種類の材料で出来ていると言う。100から200なんて大雑把過ぎるが、私は黙ってみていた。その長孫は「お祖父ちゃんお祖母ちゃんが住宅専門なのに聞かない手はないと思ったのよ・・」というような我々が喜びそうな台詞を言っていた。今の子は小五になると、そんなことも言うのだな、と思ったが、自分も「お祖父ちゃんお祖母ちゃんっ子」だったのに、そんなこと言った記憶がない。
一番下の四ヶ月の男の子は寝返りを打ち両手両足を空中に伸ばして「飛行機」をして「エンジェル・スマイル」で皆を和ませてくれた。こうして暑い忙しいそして楽しい一週間余が過ぎたのである。

孫達の来襲

2007-08-11 | 奈良・精華町の思い出(教授時代)関連続き
名古屋にいる娘と孫3人(男11歳、女6歳、男四ヶ月)が昨日、来襲した。長孫は、もう一人の御祖父さんのいる松阪経由で近鉄特急に一人で乗って西大寺まで来た。私が迎えに行った。娘とあと二人の孫は名古屋から新幹線、近鉄を乗り継いで高の原まで来た。これはやや長孫より早く来たので家内の車で近鉄・高の原まで迎えに行った。四ヶ月の男の子を除いての三人は一年ぶり、駅前に出来た「イオン」を見上げてビックリの体だ。夜は寿司米を囲んで皆で「手巻き寿司」を食べた。
四ヶ月の男の子が「笑い」を振りまいて皆の人気者だ。まだ寝返りが出来る位で這い這いまではもう少しかかる。目が会うとジッと見て「にこっ」と笑う。ある人から「エンジェル・スマイル(天使の微笑み)ですね」、と言われた。正にその通りである。今日は、その孫が夏風邪で近所の小児科医へ、11歳の孫は髪の毛が伸びているので私が近所の散髪屋に連れていった。来襲という位だから来週の金曜日位までいるようだ。結構大変だが年に一度のこと、楽しみつつ付き合っていきたい。