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西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

「ドイツ流生活術」に学ぶ

2012-04-15 | 生活描写と読書・観劇等の文化
私が夜中、眠れないときなどラジオ深夜便(NHK)を聞いている。特に早朝の4時台の「明日への言葉」は色々な人が人生経験を披露してくれて興味深い。

昨夜は、「祖父から学んだドイツ流生活の極意」で話者は、料理研究家 門倉多仁亜さんだった。母ドイツ人、父日本人、母方祖父ドイツ人、その祖父は90歳を越えている。祖母は「寝たきり」を経て10数年前、祖父の介護もむなしく亡くなった。

爾来、祖父はドイツで一人暮らしなのだが、同世代でやや若い女性と「茶飲み友達」付き合いをしつつ、孫娘の門倉さんとも週一で電話会話を楽しみ(それもドイツ人らしく、時間指定、門倉さんの「前」にガールフレンドとの会話時間帯を取っている)、毎日の生活も「予定通りに」こなしているようだ。

朝は自動車を転がしてカフェに行き、朝食、コーヒー嗜みつつ新聞に目を通すことより始めている。

門倉さんがお祖父ちゃんから聞いたドイツ諺:「人生の半分は、整理整頓」、「安らかな眠りを得たいなら、ベッドを自分できちんと管理せよ」「始まりがなければ、終わりはない」など。

物も平均して日本より少ないが、家中がきちんと管理されており、お祖父ちゃんは「探し物皆無」とのことだ。あと10年は生きたいとのこと、門倉さんは、そういう生活の師お祖父ちゃんを尊敬し、毎年2,3回は、ドイツを訪れたいと言っている。

私も、きちんと整理整頓された家を見てみたい、と思った。

祈ることと念じること

2012-04-08 | 生活描写と読書・観劇等の文化
病院に入院して、手術を受ける羽目になったら、その手術をする医師に全生命をゆだねることになる。

本人や身近な親族が、やれることと言ったら「うまくいきますように」と祈ること、「何とか生き延びろ」と念じることしか残されていない。

そういう祈りや念じが、通じるといいのになあ。

高齢者の心配ごと三つ-健康、家族、お金-

2012-01-31 | 生活描写と読書・観劇等の文化
先週土曜日の「けいはんな市民雑学大学」のテーマは、「セカンドライフのマネープラン」だった。私は挨拶で高齢者にとっての三つの問題として、健康問題、生きがい問題そしてお金問題がある、と話した。

その後、よく考えてみて三つと言えば「健康、家族、お金」ではないか、と思うようになった。ある新書本を立ち読みして「そうか」と思ったのだ。

健康がトップに上がるのは当然だろう。全ての生活が満足にいく前提条件が健康なのである。これは、とりあえず本人個人の問題である。だから、基本的には個人で予防、対処すべきなのである。

第二は、人間関係の内、家族関係であって、夫婦関係、親子関係などにわたる。家族関係が安定していれば次に地域の人間関係が重要になるだろう。(今、夫婦で過ごしていても、どちらかが亡くなって一人になった時が大事な時になるであろう。)

そして第三に重要なのが、そこそこのお金である。

何度も反芻して確認しておきたい。

市民雑学的な本の買い方

2012-01-25 | 生活描写と読書・観劇等の文化
今日、病院に定期チェックに行った帰りに、気分が良かったので本屋に寄って「インパクト・ショッピング(衝動買い)」してしまった。と言ってもささやかな5千円ほど、中公新書5冊である。

まあ、大手の「学術的新書」類は、老舗の岩波新書、講談社学術文庫そしてこの中公新書の三つであろうか。

順不同に
・越後島研一著『ル・コルビュジェを見るー20世紀最高の建築家、創造の軌跡ー』(1909)番
・内井惣七著『空間の謎・時間の謎ー宇宙の始まりに迫る物理学と哲学ー』(1829番)
・渡辺 裕著『歌う国民ー唱歌、校歌、うたごえー』(2075番、最新)
・田中 修著『雑草のはなしー見つけ方、たのしみ方ー』(1890番)
・竹内 洋著『教養主義の没落ー変わりゆくエリート学生文化ー』(1704番、今日買った中で一番古い)


これらを見て気づく一つは、全て副題が付いている、これらの本では本題と副題で「一本」なのだな、と改めて認識した。

これって、「繋がり、関係性」を無理に言えって言われれば言えない訳ではない。
しかし、まあ「雑学的な本の買い方」だ、と言っておきたい。

ぼちぼち楽しみつつ読んでいきたい。

ところで、買った後の帰り道、「本を買う」とはどこまでを言うのかな、という疑問が浮かんだ。確かに5千円ほど支払って今日5冊の本を「買った」と言えるのだが、その時点で「買った」ものを全て「消費」つまり読了していない。

さらに、「消費」の質まで問題にしようと思えば出来る。本の「消費」は、やややっかいな問題かな、と思った。

「人生への不意打ち」と「対応」について

2011-12-28 | 生活描写と読書・観劇等の文化
一般に、人生は平坦な道を坦々と進むものではなかろう。

突然の「不意打ち」に見舞われて、どうして良いか分らない状況に陥ることもしばしばだ。精神的に落ち込んでストレスに見舞われることもある。

私の場合、祖父や母や祖母に、前触れもなく突然に亡くなられたことが、突然の「不意打ち」だった。茫然自失だったと言ってよい。

祖父がなくなったのは中学三年の時(祖父66歳、肝臓がん)、母は大学二年の時(母43歳かな、働きすぎの肺炎)、祖母は私が30歳代後半の時(祖母83歳か、残念な交通事故)だった。でも、これらの場合、自分より年上が亡くなった。

この世では、自分より若い世代が亡くなることもある。愛するペットが亡くなることもある。また病気ではなく、突然の大震災や原発大事故で亡くなることもある。今年は、そういう年だった。

思い起こすと、私が高校に入った時(1957年)に英語のI.先生が、英詩の一つを取り上げて「大事なのは過去を振り返ることではなく未来を見つめて進むこと」ということを言われた。これで私も「救われた気分」になったのを覚えている。

「不幸なこと」、その不意打ちにこだわるとストレスが増えて自分の健康もおぼつかなくなる。それらをしっかり掴んだ上で、未来に向って、しっかり歩んでいきたい。

速読と遅読

2011-11-29 | 生活描写と読書・観劇等の文化
テレビ「あさイチ」で速読と遅読のことをやっていて興味深かった。

速読は、やり方があってキッチリ訓練すれば誰でも今より数倍のスピードになる。それは「視野」が広がることでもあり、食器が「落ちて割れる」前にパッと手で受け止めるとか、素人でも150km/時スピードのボールでもバットに当てれるようになるという。

当然プロの選手も「速読術」をやれば、打率が上がるのではないか。事実プロボクサーが「速読術」の訓練をして、負けなしになったという。繰り出すパンチが全部「見えている」とのことだ。

一回試してみるかな。

一方の遅読(ちどく)も面白い。灘中・灘高(旧灘中)の名物国語教師(99歳、現在)は中学3年間のテキストに岩波文庫の『銀の匙』1冊を使い、ゆっくり脱線しつつ授業を進めたようだ。まあ本をゆっくり読めば、いたるところで引っ掛かり横道に入るのが必然だ。

確かに読みが深まるだろう。

他に何冊かを家の中の別の空間で読み進めている人もいる。研究テーマを複数並走させるのと似ている。複数の本が互いに響きあうことがありうる。

私は、ノートに写しながら複数本を遅読しようと思っている。

『ショックドクトリン』(岩波)読もうかな

2011-10-11 | 生活描写と読書・観劇等の文化
毎週火曜日の6時台ラジオNHK第一で評論家の内橋克人さんが色々時評をされているが、ここで内橋さんの推薦する図書は、大体「当たっている」。

今日の推薦は『ショックドクトリン』であった。ショックドクトリンとは「はてな」によると、

「「大惨事につけ込んで実施される過激な市場原理主義改革(The Rise of Disaster Capitalism)」という意味で、カナダのジャーナリスト、ナオミ・クライン(Naomi Klein)氏が昨年(2007年ー私注)著した本のタイトルである。(注:私の洒落語では「ショックで得取りん」ということだ。)

 新自由主義の経済学者ミルトン・フリードマンの「真の変革は、危機状況によってのみ可能となる」という主張に対する批判となっている。」
とある。内橋さんの解説とほぼ同じである。

Disaster Capitalismは、惨事便乗型資本主義と「正しく」訳されているようだ。

戦争や災害などに当たって一気に「市場原理主義改革」をやってしまうことで、戦争の例では、9.11の後のアメリカのイラク「侵略」、イラクでは、大量破壊兵器をイラクが隠し持っているという理由で「押し入ったが」、実際は、そんなものはなく、それは「侵略のための単なる理由づけ」に過ぎなかったのだ。

その結果、イラクは「イスラム社会」から一気にアメリカ資本による「市場原理主義」の国に現在に変わったようだ。

災害の例では、ハリケーン・カトリーナの例(ニューオルリンズ周辺)では、公営住宅が撤去されて民間マンションに置き換わり(低賃金の公営住宅住民は追い出され)、公的教育がバウチャー制の私的教育に置き換わって(公的教育の教師は大半解雇されて)しまったなど。

この本は、日本の東日本大震災、原発大事故以前に書かれているが、今まさに「TPP」などは、単に日本の農業をつぶすだけでなく、医療や福祉等々も日本や「海の彼方の」大資本の餌食にするものだ、ということを強く示唆しているのではないか、と内橋さんは言う。つまり、これらの大震災、原発大事故などの「ショック」に国民が陥っていることを利用して、TPP参加もやむを得ないのではないか、今まで「止める」と言っていた八ん場ダムも(台風12,15号による土砂災害等にかまけて)建設やむなし等の「思考停止」の状況になりつつあるのだ。

国民は、冷静になって「脱原発」6万人集会、デモのように「押し返す」必要がある。

早速買って読んでみなくちゃ・・・。

進化論について(学習続き)

2011-10-02 | 生活描写と読書・観劇等の文化
昨日の続き:

ダウイーンが、聖書にある「6日間ですべての生き物を神が創造した。人間を最後に神に似せて創造し、人間に全てを支配させよう」とした生物、種の創造説に疑問を抱いたのは、1831年から5年間の「地球一周」のピーグル号航海で観察し、資料収集し、考察した結果である。(南米、ガラパゴス等でのマネシツグミの変異に注目)これを創造説に対して自然選択説という。

また、当時、イギリスでは奴隷は既に禁止されていたが、ピーグル号で訪れた南米ではアフリカからの奴隷を目撃して、大いに憤慨したことが日記にあるようだ。この「反奴隷」の思いも進化論(ダウイーンはmodificationと言ったが、これをevolution(進化)としたのは「社会進化説」のハーバード・スペンサーである)を唱える根底にあったのでは、と言ったのは科学史家のジェームス・ムーアさんである。

日本では、猿などが身近にいたし、仏教の影響で他の生物との垣根がキリスト教のように高くはなかったことがベースにあるが、1877年に「お抱え外国人教師」のエドワード・モースが東京帝大で講義した(申す のだった)のだが、モース自身、「日本人が(東京帝大生ではあるが)進化論をこんなによく理解する」とは思わなかったとアメリカに帰国して言ったらしい。

そのアメリカでは、現在、進化論を認めない人たちが福音派キリスト教徒など40パーセントほどいるようだ。認めない人が一番多いのは、サウジアラビアの75パーセント、イギリスやドイツは12パーセント、日本は10パーセント位という。

ダウイーンの本国イギリスでは、ダウイーンはウエストミンスター寺院に葬られている。

最近、進化論も「進化」(深化か)しているというか「進化計算」という分野もでき、変異や突然変異も織り込んで、自然過程では何百万年もかかるのを数か月で「計算」し、結果が出るようだ。新幹線のN700系の設計も「進化計算」によっているようだ。

番組では、スタジオゲストの、大澤真幸さん(社会学者)、佐倉 統さん(科学史家)、中野京子さん(西洋文化史家)が話し合っていたが、見方が微妙に違い、これも面白かった。

大澤さんのいう進化論に基づく「偶然性の倫理」という考え方もユニークかな。「・・・我々がある資質(や障害等)を持って生れ出るのは偶然であって、それらをしっかり受け止めて平等に生きれるようにするのが、偶然性の倫理ではないか」という。


過去、進化論は、優生学では間違った「解釈」に陥ったし、ヒットラーも「悪用」したが、歴史の教訓として、そういうことはあってはならないことである。

「進化論」を少し勉強し考える

2011-10-01 | 生活描写と読書・観劇等の文化
昨日、NHKプレミアムで「大発見史」という番組があり、「進化論の疾走」というのをやっていて、録画して、今朝見てみた。大変興味深い内容、『種の起源』(1859年発刊)のダウイーンが考案した「生命樹」に似せた『種の起源』発刊(1859年)から影響を受けた人々や学説「樹」は興味深い。マルクスや心理学者フロイトや社会学者のスペンサーは大いなる影響を受けたようだ。

昨日のブログで「世界を変えた10冊の本」で、まあ一冊に絞る、収れんすると考えると、その一冊は「『資本論』ではないか」と述べたが、今朝見た番組では、マルクスの『資本論』(ウキペディアより引用「1867年に第1部が初めて刊行され、1885年に第2部が、1894年に第3部が公刊された。第1部は、マルクス自身によって発行されたが、第2部と第3部は、マルクスの死後、マルクスの遺稿をもとに、フリードリヒ・エンゲルスの献身的な尽力によって編集・刊行された。」)に影響を与えたのはダウイーンの『種の起源』になるわけだ。

ダウイーンからどのようにマルクスに影響を受けたか、は大きな研究テーマになると思うが、マルクスの僚友エンゲルスは、はっきりダウイーンの影響を受けたと思わせる有名な著書(論文)を書いている。

それは『猿が人間になるにあたっての労働の役割』である。内容は、人間は四本足から二本足で立って(これも進化の一過程)、脳からの指令で、手を自由に使い、道具を作り、そして使う過程で、それが逆に脳に働いて(反作用)、脳はより高度に「進化」するという趣旨だ。

たしかに『資本論』(1867年)より先に『種の起源』(1859年)が発行されている。どういう風にマルクスがダウイーンより影響を受けたのか、勉強・研究してみたい。

一言で言えば、Evolution(進化)からRevolution(革命)へ進化、革命が起こったということかな。

「世界を変えた10冊の本」より

2011-09-30 | 生活描写と読書・観劇等の文化
池上 彰さんが『世界を変えた10冊の本』という本を書いたようだ。

その10冊とは、池上さんは次のように上げているようだ。

『アンネの日記』、『聖書』、『コーラン』、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(マックス・ウエーバー)、『資本論』(カール・マルクス)、『イスラーム原理主義の「道しるべ」』、『沈黙の春』(レイチェル・カーソン)、『種の起源』(チャールズ・ダウイーン)、『雇用、利子および貨幣の一般理論』(ケインズ)、『資本主義と自由』。
括弧内に著者名を書いたのは、私。最初の三冊は、ほぼ明らか。聖書は旧約なのか新約なのか。『イスラーム原理主義の「道しるべ」』と『資本主義と自由』は直ぐ著者の名前をあげられない。


なんとなく「池上さんの傾向」が感じられる。キリスト教とイスラム教、マルクス主義と資本主義、進化論とエコロジーにまとめられるかもしれない。

ならば、仏教に「これ」という本はないのか。儒教の『論語』などはどうなるのか。
自然科学では『種の起源』だけだがニュートンやアインシュタインの著書は入らないのか。「二重螺旋」(DNA)の話はどうなのか。

日本人の書いた著書では、世界的に影響を与えたものはないのか。

上の著書で言うと、マルクスが『資本論』を書いたからこそ、その後にウエーバーが『プロテスタンティズム・・・』やケインズが『雇用、利子および・・・』を書いたのであり、『資本主義と自由』もそうに違いない。だから、ここから、更に源流の一冊に絞ると『資本論』になるかもしれない。

明日の朝、NHKプレミアムで池上さんが直接、解説するようだ。

仕事、研究と生活全般、気分全般との連関

2011-08-04 | 生活描写と読書・観劇等の文化
多くの人は、仕事(まあ私達に即して言うと「研究」)中心で過ごしている。しかし、それらに熱中し過ぎると健康を害したりして、人生全体として上手くいかない。

そこで、仕事や研究生活と、それらのベースの普通の生活全般、気分全般のコントロールが大事なのだ。

だから、細かい専門の仕事と、普通に見たり聞いたりする「五感生活」や体全体の健康、心の平静維持との関係が極めて重要なのだ。

一つのことに熱中するのもいいが、生活全般に「思い」をいたし、それを平静に保つことも同時に大切なのだ。  分かるかなー。

日本は「雑種文化」に徹しよう(加藤周一著より)

2011-08-01 | 生活描写と読書・観劇等の文化
今日、加藤周一著『雑種文化ー日本の小さな希望ー』(講談社文庫)を久しぶりに再読した。

私は、生活ー衣食住ーの面でも日本人は「雑種」であって、それを洗練させていくのが今後の課題と思っている。例えば、食事で言えば、勿論、和食は主に食べているが洋食も食べる、それもフランス料理だけでなくイタリア料理やロシア料理も食べる。中華料理は昔から人気がある。最近はお隣の韓国料理も食べている。

飲み物で言えば、日本酒は当然として、ビール、ワインは勿論、ウオッカとかテキーラもたまには飲んでいる。日本茶は当然としてコーヒーは根づいているし紅茶やウーロン茶も飲んでいる。こういう国民は、世界広しと言えど日本人をおいてないだろう。

で、それはそれとして文化全体の問題として、加藤さんはイギリス文化やフランス文化は純粋種だが日本文化は古来、雑種であって、それで良い、それをしっかり推し進めることが重要だ、と論じている。賛成である。純粋種とか雑種というのは、優劣を言うのではなく、歴史的に本来そういうものだ、ということだ。

ここで、欧米文化で(アメリカは「新しい」のでおいておいて)、ドイツ文化をどう捉えるかについての考えが面白い。(これはロシア文化にも言えるようだ。)

ドイツ文化は、西洋文化の中では「雑種文化」だ、というのだ。例えば、ゲーテ(ドイツ)とラシーヌ(フランス)を比較してみよ、と言う。ラシーヌは、ギリシャ・ローマ・フランスのいわゆるラテン文化の純粋系であり、対してゲーテは、「イタリアの文芸復興、フランスの古典主義、英国の浪漫主義によって自己の世界を養ったばかりでなく、晩年には近東からさえもうけとることができるものをうけとったのである。」(45頁)これはカントとルソウ、ハイネとボードレール、トマス・マンとヴァレリーを比較しても言えると言う。

音楽の面でも「対位法と和声的音楽を発明したのはドイツ人ではなかった。しかしバッハからヴァーグナアにいたるドイツ音楽の世界より豊かな音楽の王国はなかった。」(46頁)

これらを読んで思った。

ドイツ生まれのマルクスこそ雑種文化の19世紀のピークではなかろうか、と。彼は、カント、ヘーゲルのドイツ哲学の伝統の上にアダム・スミス、リカードー等のイギリス経済学、フランス社会主義(革命、18世紀から19世紀はフランスが革命、反革命の本拠であった。)、更に歴史的なギリシャ・ローマ文化から東洋文明まで視野におさめ、徹底的に批判的に検討し、体系化しようとした人ではないのかと。(レーニンも雑種文化のロシアの子である。)

21世紀、日本より雑種文化を洗練させ、世界に発信すべきではなかろうか。

一定の苦役、一定の余裕のバランスを

2011-07-25 | 生活描写と読書・観劇等の文化
人間は、余り「暇」だと気がおかしくなって、「小人、閑居して不善をなす」となる傾向がある。

一方、「搾取労働」と言おうか、やたらギリギリ働かされると、何も考えられなくなり、ゆっくり考えたり、少し体を動かす「無量(無料)の楽しみ」が味わえなくなる。

まあ、日に8時間働き、週に6日働き1日休み、年に特別に20日休み、7年目に1年休む(サバティカル)と言ったリズムが良い。これらはキリスト教国で、まあフランス革命などを経由して確立してきた生活リズムのルールである。

日本は、西洋とは少し違うが、人類が獲得してきた普遍的な「生活リズム」を尊重していきたい。

今年は、定年退職して7年目の「古希」なので1年間「休んで」いいのだが、まあそうも言っておられないけれど、何日か、何処かにゆっくり行きたいと思っている。

そして次は7年後の「喜寿」が目標かな。そこでは1年「休んで」楽しんで執筆しようかな。

百分de『論語』について

2011-07-10 | 生活描写と読書・観劇等の文化
今を去ること2500年ほど前に中国の魯の国の哲人・孔子が弟子達に言ったという言葉を弟子達がまとめたのが『論語』であり、東洋では君子の道、国家をおさめる「学問」になったことがしばしばだ。古代の聖徳太子や江戸・徳川も儒教を公的「学問」とした。同時に個人の「処世哲学」にもなってきた。現代でもそうである。

NHKのEテレで25分の4回シリーズで「百分de『論語』」をビデオで見て聞いた。

私も高校時代の漢文で一応習ったし、白川静先生の『孔子伝』や貝塚茂樹翻訳・著の『論語』も持っていて座右の書の一つである。

(1)三つの「たい病」を克服しよう。
()金持ちになりたい。()えらくなりたい。()有名になりたい。 孔子は、これら三つの「たい病」を否定はしていない。
自分の天命と思うところを一所懸命やって、三つのことを得るのなら問題ではない。それら自身を目的として追求することがおかしい、と言っているのだ。 一言で言うと「恕(じょ、思いやり)」が要諦である。

(2)弟子の教育。「人を見て論を説け」、どう学ぶのか。
「学びて思わざれば即ちくらし 思いて学ばざれば即ち危うし」
「温故知新」・・・
cf.「弟子三千人」と言う。「三」という数字は大袈裟に言う時に使う、と言う。「白髪三千丈」のように・・・。

(3)リーダーの条件。正義感、平等の尊重、仁である。

(4)誰でも「君子」になれる。孔子は50歳を過ぎて追放され、60歳代で魯に戻り弟子を育てた。遅咲きの苦労人。74歳まで生きた。仁と共に天という言葉もキーワード。「天恵(てんけい)派」であり「天罰派」ではなかった。

「知ることは好きなことに如かず、好きなことは楽しむことに如かず」
知るを入り口として好きになり最後はそれを楽しむ境地に達するのが理想か。

講義は、佐久 協さんだった。

では、どのようにして孔子は、自分の考えを育み固めていったのか。触れる事物を注意深く観察し、人が言っていることを深く何度も何度も反芻し考えたと思う。これぞ「無量の楽しみ」であったと思う。


テレビ三昧(と読書三昧)

2011-07-07 | 生活描写と読書・観劇等の文化
最近、「毎日が日曜日」のフル年金生活を少ししてみて、テレビ三昧に浸っている。

地デジ方式に替えた時にブルー・レイの録画システムを導入、利用できる所為もある。凄い容量で録画出来るので、次々録画、まあ毎日それらを見ていても飽きることが、当面、ないようだ。

で、今日は、(1)さかのぼり日本史「明治 ”官僚国家”への道(1)7/5 NHK教育」 (2)地球ドラマチック「発掘ストーンヘンジ紀元前3千年 7/2 NHK教育」 (3)世界ふれあい街歩き「西安(中国) 7/1 NHK総合」等を見た。

いやー世界中の「空間」と歴史の中の「時間」を飛び歩いた感じだ。
即ち、イギリス、中国、日本そして紀元前3千年、紀元前1千年、150年前である。

こういうビデオを見ていたら、毎日毎日あっという間に人生が過ぎていく。

こういう映像も良いが、活字を一字一字、一行一行、一頁一頁、一冊一冊じっくり読んでいく読書三昧は、なお良いと思う。

皆さんは、如何ですか。