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西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

アジアの歴史のお勉強より

2010-12-31 | 歴史とのつながり、歴史の面白さ
今年読んだ本で滋味があるな、と思ったのは宮崎市定著『アジア史論』(中公クラシックスJ7)である。中でも最初に読んだ「世界史序説」は、「目からうろこ」だった。

一口で言うと、すべからく歴史は世界史である、との把握を目指すべし、ということである。私達が高校時代に習った「世界史」では、古代に四大文明発祥地を置いて、一定の相互作用はあるものの、かなり歴史が進まないと世界が一体的に歴史を刻む感じにならなかった。

ところが宮崎先生(実は、宮崎市定先生は、私が京大に入学した1960年に教養部長で「世界史」を講じておられた。その講義をとらなかったのを今「残念だった」と思っている。)は、仮説的に西アジア(いわゆるメソポタミア及びその西方のシリア、地中海沿岸)に最古の文明発祥地をおいて、すぐ近くのエジプトへ、それから少し時をおいて東のインダス、黄河へと波及した、という説を立てておられるようだ。

まあ、考えてみると、人類はアフリカを出て、世界中に分散したということを前提すると、住みやすい地として最初に落ち着いた所が西アジアではないか。そこから更に東へ東へ、又一方では北や西へと分散したのではないか。そう考えると、先ず西アジアが人類歴史の最初の「橋頭保」になったということも良く分かる。そこが、現在は民族対立、宗教対立の「最前線」というのも皮肉かもしれない。

今後、宮崎市定先生の『アジア史論』を手引きにアジア史から世界史を見ていきたい。そして、日本史、地域史も位置付けていきたい。

この年末三日間、家族論(人々のつながり)、環境・土地論(環境とのつながり)、そして世界史論(歴史とのつながり)という私の最近の「繋がり論」の三つの方向、広がりを振り返ってみた。

一休寺ー加賀・前田利常ー越後・上杉謙信ー米沢ー上杉鷹山・・・

2010-10-27 | 歴史とのつながり、歴史の面白さ
私が現在住んでいる所は、「けいはんな学研都市」域に入っている。その域を構成する現・市町は、京都府では精華町、木津川市、京田辺市、大阪府は四条畷市、交野市、枚方市そして奈良県は奈良市、生駒市であって計8市町になる。

この域を対象に3年ほど前(2008年3月)に市民立で「けいはんな市民雑学大学」を立ち上げ、11人の運営委員で運営しているが、私がその代表(通称:学長)を務めている。(ホームページもありますので、検索しご覧ください。)

原則毎月一回の講座を開いている。講師(市民教授と称す)は、この地域に関係ある(住み、働きまたは関心を持つ)市民であり、学生(市民学生と称す)も関係ある市民であって、両者はフラットに面し、交流すると言う「理念」を持っている。

で、新しい「都市」、新しい「地域」なので、地域の理解を深め、新しい「まちづくり」のためにも地理や歴史のことも重要なテーマとしている。

先日行われた第30回講座は、「一休禅師について」だった。例の一休さんの話だが、とん智の一休さんというより室町時代の大文化人としての一休宗純禅師と一休寺(正式には酬恩庵)についての話だった。市民教授は、住職の田邉宗一さんであった。一休寺は、「学研都市」の京田辺市にあり、私は何度も行ったことがある。紅葉が200本もあり、これからがシーズンだ。

当日の私のメモより「印象記」は、以下の如し:
(1)一休さん(一休宗純禅師)の生きた時代は、1394年~1481年で、室町時代であり、88歳で亡くなった。今でいえば「100歳」を越える長寿に値する。

(2)それは丁度、南北朝が後小松天皇で合一された頃(足利義満時代)から、足利義政の銀閣寺などの東山文化時代を経て、応仁の乱が起こり且つほぼおさまる時期であり、一休さんの没後、山城国一揆(過去の「市民雑学大学」のテーマにあり)や加賀の一向一揆の時代(蓮如の時代)に移行する。

(3)こういう時代、一休さんは後小松天皇(北朝系)を父とし南朝系を母として生れたと言われている。(従って、色々の経緯で一休さんが葬られている現・一休寺(新田辺市)の墓所は宮内庁管理となっている)母が南朝系だったこともあり、政治的にはややこしく、出家の道がとられたと言う。

(4)一休さんは、大寺権威主義には組せず、小寺のしっかりした師匠に師事し悟りに至り、それらの師匠に恩を感じ、現・一休寺を「酬恩庵」と命名したのだ。(ここには、恩に報いる、という儒教的価値観も表れていると、僕は思う。)

(5)しかし、臨済宗の本山の大徳寺が窮地に陥った時に住職に就任し、立て直しに一休寺より「通った」と伝えられている。

(6)一休さんは、本職の臨済宗禅の考え方を基に、多くの文化的方面に影響を及ぼし、一休寺は「一大文化サロン」になっていたのではないか。

(7)それらの文化人には茶祖と言われる村田珠光(奈良の称名寺に在住・・・奈良女大に近く、故・湯川利和教授の墓もある。)、能の世阿弥(『風姿花伝』の著者)、禅竹、俳諧連歌の山崎宗鑑、宗長、墨絵の曾我蛇足、墨斉など錚々たる面々がいた。

(8)だが、一休宗純なきあと「一休寺」は荒廃の一途をたどった。しかし、徳川時代になり、大阪夏の陣(1615年)の際、徳川方で戦った加賀三代藩主・前田利常公は木津川に陣をとり、近くの歴史的名刹たる「一休寺」に参詣し、荒廃ぶりに驚いて、以後、江戸時代を通じてサポートし、方丈(現・重要文化財)などを復興し、現在につながっている。

(僕自身、金沢の出身なので、何かの「縁」を感じている)

(9)「けいはんな学研都市」をつくる計画プロセスで、「一休寺が歴史的な文化発信地」だったことも考慮されたと僕は聞いたことがある。これについては田邉住職にも触れてもらったが、今後を考える時にも押えておくべきこととメモしておきたい。

(10)最近では、裏山の緑をも崩しかねない「開発」が迫っている。なんとか保全していきたいものだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・以上「講座・印象記」・・・



で、一休寺と加賀・前田藩が「つながった」が、今日、テレビで「歴史ヒストリア」で上杉謙信をやっていて、加賀との関係も出てきたので興味深く見た。幼くして林泉寺に子坊主として預けられ、僧侶の修行をすると共に上に立つ者として『論語』なども素読していた。仏教と儒教が矛盾なく同居していたのだ。

晩年、孫のために「いろは」を教える書を書いているが、見ると漢字の読み方ー音と訓などーをきちんと教えている。当時の名ある武将は「むくつけき」だけでなく教養もあったのだ。この「いろは」は米沢の上杉博物館に保存されているようだ。

さて、色々の経緯で武将に復帰した戦国武将の謙信は、謙信と改名したあと、「筋目によって合力する」(正しくば、自らを省みず力を貸すー一種の利他主義ー)方針を転換して、関東や川中島に執着するのを止めて信長を一合戦で破った後、越中、加賀、能登方面に出てきて支配、配下に所領をあたえた、と言っていた。

『広辞苑』を見ると、その後、上杉景勝(謙信の養子)は、謙信の死後、豊臣秀吉に仕え、五大老の一人(徳川家康、前田利家、毛利輝元、宇喜多秀家、上杉景勝)となり会津120万石に封じられるが、関ヶ原の合戦で石田光成に組したため、米沢30万石に移封された、となっている。

当然、この経過の中に前田利家が加賀藩に封じられるので、それ以前に上杉謙信あるいは景勝は、加賀、能登、越中から「手を引いている」ことになるが、一時であれ、加賀・金沢辺りに上杉謙信の匂いがあったことになる。

これは、今回初めて認識した。『加賀百万石』(田中喜男著)などでは、前田利家が尾張から移動して金沢城に入る直前の佐久間盛政については触れているが、それ以前の上杉謙信のことについては触れていない。

金沢出身の私は子ども時代に習った「郷土の歴史」でも、印象として、金沢は前田利家から始まるような感じだった。それ以前と言うと、富樫という武将がいた、とか加賀藩で蓮如の一向一揆があったとかは聞いた覚えがあるが・・・。

越後の春日城に本拠のあった上杉家が、会津、米沢(現・山形県)と移封されて30万石になっていくプロセス、江戸時代の有名な藩財政を立て直した上杉鷹山は米沢15万石(と減っているが・・)の藩主だったことなど、今日は色々と歴史「つながり」を勉強した。

米沢にある「上杉博物館」に一度行ってみたくなった。

月一の「飲み会」(井戸端会議)より・・・空間の方向性

2010-10-22 | 歴史とのつながり、歴史の面白さ
最近、平均月一の「飲み会」(井戸端会議)に出るのが生活の「リズム」になっている。4,5人から10人までだが固定メンバーは3,4人で私もほぼその一人である。歩いて行ける近所なので気軽に出ている。

一品持ちよりで、アルコール類も持ちより、参加費500円で、ボランティアで共通で食べるものをつくるようになっている。昨日はI.さんの「もんじゃ焼き」だった。

これは、関東風薄型お好み焼きで口にするのは2回目である。皆さんは「もんじゃ焼き」どうですか。で、この井戸端会議では、何でも話題になるのだが、総じて、健康の問題、関連で食事の問題、医療の問題、農業の問題、さらに住居の問題、政治の問題、古代史など歴史の問題などが「つながって」論じられている。

一寸知識がない部分は拝聴しつつ「茶々」を入れたりする。昨日は、筒井康隆さん著の『現代語裏辞典』を買って持っていったので、私はそこから二三披露して楽しんだ。

昨日は、いつもは女性陣もいるのに、たまたま男性陣だけだったので、勢い「硬い」話(?)になったかな。

先日、別のところで、常連のK.さんが古代史の話をしたので、それに関連する話にもなった。607年の第二回遣隋使の小野妹子が隋にもっていった親書?に有名な「日出処天子致書日没処天子無恙」の意味についてあれこれ議論があった。これを聞いて隋の煬帝は激怒したと伝えられている。まあ、普通はそうであろうと思うが、これに対する「深読み」が色々とあって面白かった。

そもそも当時、隋の政治状況、そこから漢字や仏教や儒教が我が国に入りつつあった状況を何と認識して、なおかつそういう文書を送ったのは何故か。普通に読むと「無礼」と取られ、窮地に陥るかもしれないのに、である。

K.さんは、「皇統の長さの違いではないか、我が国は神武以来、結構の伝統を作りつつあったが、隋は文帝、煬帝と短いので、そういう言い方になったのでは・・・」とのことだった。私は、「そういう長さを言うのなら、隋以前の漢なども含めねばならず中国は我が国よりずっと長い、この文書の中の、特に日出処と日没処の意味として、ひょっとして「上下関係的」に書いたのではないのではないか、むしろ日没処の西方を尊敬して言っているのでは・・・」と思い付きを言ってみた。

以後、反芻しつつの私の問題意識:まあ、そこには、我が国から西方の中国やインドなどをどう認識していたかの問題がある、と言える。まあ、東西、南北と言った空間の方向性を歴史的意味も込めてどう位置付けていたのか、という問題にも発展する。「天子南面」ということもある。更に上下、左右、前後はどうなのか、などと問題意識が発展するかな・・・。

まあ、こういう「反芻の楽しみ」もあるなあ。


第一回遣隋使のこと

2010-10-17 | 歴史とのつながり、歴史の面白さ
今日、近所の「文化サークル」で、古代史の勉強会(講演、質疑)があった。テーマは、(西暦)600年頃の第一回遣隋使は、どのようなものだったか、に関連することだった。

講師は、近所のY.さんだった。彼は、最近、古代史を主に『富士古文献』(宮下文書)と池田仁三さんによる古墳陵調査をもとに、『日本書紀』や隋唐文献等を付き合わせて研究している。

教科書(例えば、『もういちど読む山川日本史』)では、遣隋使について「607年、小野妹子を隋につかわし、翌年、隋が裴 世清(はいせいせい)を来日させると、その帰国に際し、ふたたび妹子をおくるとともに、高向玄理(げんり)・僧みん・南淵請安(みなぶちのしょうあん)ら多くの留学生・学問僧をつかわした。」とあるのみである。(28頁)これは『日本書紀』にも記載されている。

実は小野妹子は第二回目の遣隋使なのであるが、第一回のメンバー等が教科書に載っていない。日本側の公式史料たる『日本書紀』には載っていないのもその理由で、隋書には開皇12年(600年)に第一回遣隋使が(隋に)来たことが明らかになっている。

第一回遣隋使を送ったのは、「倭王姓阿毎(ママ)、字多利思北孤・・・」と隋書にあって、この「阿間多利思北孤」とは、何者?というのが今日の講演の最大のテーマであった。

Y.さんは、色々の史料から「蘇我馬子ではないか」と仮説を提起された。ここで一々史料を上げる繁を取らないが、「そうかもしれない」と思った。

まあ『日本書紀』成立には藤原不比等の影響力があり、藤原氏がそれ以前の最大の実力者・蘇我氏を歴史から「抹殺したのではないか」ということが、この説の背景にあるのは明らかだ。

そういう『日本書紀』に批判的立場からは聖徳太子(うまやどのおうじ)が何者か、についても通説と違う考え方が当然出てくる。継続的にY.さん達と共に勉強していきたい。

「泉津(木津)から平城京への道」の講演と歴史探訪ウオーク

2010-09-26 | 歴史とのつながり、歴史の面白さ
今日から11月まで3回にわたって行われる「木津の文化財と緑を守る会」主催の、平城遷都1300年祭指定事業としての『歴史探訪「泉津から平城京への道」』に参加した。

平城遷都1300年祭は奈良県内(主として奈良市)で行われているが、唯一、京都府下で行われている事業である。

木津は、「木の津(港)」という意味の地名であり、古代には「泉津」即ち「泉川(木津川の古代名)の津(港)」と言われていたのだ。木津川(泉川)は、全国から藤原京や平城京に大きな木材や種々の物資を運ぶ幹線だったのだ。

ところで今日の講演は、渡辺晃宏さん(奈良文化財研究所史料研究室長)の「平城遷都と泉津―平城宮・京木簡にみる―」だった。渡辺さんは、最近の木簡の凄い発掘と集積により古代史で分からなったことも分かるようになり、通説で言われていたことも別の解釈も可能になりつつあることを前提として、『続日本紀』等の文献とも付き合わせて仮説としての新説も色々言われて面白かった。

渡辺さんは、今日の主催団体である「木津の文化財と緑を守る会」会長の岩井照芳さんの説(藤原京から平城京への三つの道ー上ツ道、中ツ道、下ツ道といわれているーは、更に木津川(泉川)にぶつかる木津(泉津)まで北進させるべきで、字も上津道、中津道、下津道と書くのが正しい)を紹介、「そうではないかな」と述べられた。

「上ツ道、中ツ道、下ツ道」という言い方を提出し、普及したのは亡くなられた岸 俊夫さん(京大教授)であったが、地元の岩井照芳さんは、その言い方に真っ向から反対し、またそれらの道は藤原京から平城京までではなく、更に木津川河畔まで延ばすべきだと主張している。

古代における木津川(泉川)の物流での極めて重要な位置づけからの「論」だ。

アカデミイ(古代史)のいわば代表的論者や論に地元の「郷土史家」が挑んでいる訳で、まあ「住民参加の古代史研究」の段階に来たのかもしれない、と思った。

確かに藤原京時代から、物流上、木津川(泉川)が重要だったことは『万葉集』にもうたわれている。平城遷都は、その木津川(泉川)により近づくためのものだった面もあるだろう。

で、泉津は、上津、中津、下津を統合したもので東西ほぼ2.6kmもあったと岩井さんは言う。

午後に3時間半にわたり木津川市の史跡ウオーキングをしたが、中心は「泉津」だった。現地に立ってみると、壮大な港だったのだな、と想像がふくらんだ。

色々と感慨を抱いた一日だったが、ゆっくり反芻していきたい。


人生四分論再考

2010-09-19 | 歴史とのつながり、歴史の面白さ
前に人生四分論の自分史構想を前に書いたことがある。

以前の関連ブログ:http://blog.goo.ne.jp/in0626/e/5fa7d077ea6e4561503e30fa51bdd0c8

最近、多少手直し、標題付けをしてみた。

Ⅰ 失われた風景と暮らし―わが青春の金沢1941-1960―
Ⅱ 学習、研究、教育そして現地へ―京都、豊田(名古屋)、奈良、ロンドンなど1960-1986―
Ⅲ 家政学、生活環境学そしてつながりへ―奈良より1986-2007―
Ⅳ 健康、市民雑学、地域そして生活―けいはんなより2007-  ―

大きな流れは前と同じ、標題を付けてみたのと時期割りに多少の違いがある。

19世紀の「埋没」ピアノ曲作曲家

2010-09-07 | 歴史とのつながり、歴史の面白さ
今年はショパンやシューマンの生誕200周年だ。1810年生まれ、確かに19世紀の偉大なピアノ曲作曲家にして演奏家だった。これにもう一人リストを「リスト・アップ」すれば、「19世紀の三大ピアノ曲作曲家にして演奏家」となるかもしれない。

しかし、今朝、偶然、BShiで、金沢に住む金澤 摂(かなざわ・おさむ)さん(作曲家にしてピアニスト)の取り組みを見て、「まだまだ埋没している歴史は発掘されねばならない」と思った。

金澤さんは、中学を出てからヨーロッパで修行するとともに、「三大音楽家」以外にも様々なユニークな音楽家が19世紀に活躍していたことを知り、彼らの楽譜を集めはじめ、以後現在までほぼ30年間に1万曲の楽譜を集めたとのことだ。

その中から、この番組では「三大音楽家」以外にヒラー、アルカン、L=ヴェリー、ヘラーとその曲を金澤さんの演奏で紹介していた。素人の私としては初めて聞く名前だ。これらの作曲家が何故「忘れられたか」という理由は、桐朋学園の西原 稔教授、日大の高久 暁教授らによると、色々あるが、例えばヒラーは「多才ゆえに忘れられた」と言う。当時は女性たちから「友達にするならヒラー、夫にするならショパン、愛人にするならリスト」と言われたようだ。

またアルカンは「曲が超絶過ぎて演奏が難しく誰も弾かなかった(弾けなかった)」らしい。「鉄道0p27」はスピードの極限と言う。それで次第に忘れられていった。

これらの作曲家の関係がどうして分かるかと言うと、当時は、一曲作曲すると、その楽譜は色々な友人等に献呈されたのだが、それは楽譜の表紙に書いてあるようだ。

この献呈先をたどっていくと、それぞれの作曲家の前後関係や「付き合い関係」が浮かび上がるようだ。

今までに発掘しはっきりしたものは、金澤さんは順次自ら演奏して記録し、一部は「ユーチューブ」にもアップしているようだ。この作業が進むにつれ「19世紀のクラシック音楽史」が変わるのではなかろうか。

こういうことは音楽史に限らず色々な歴史について言えるであろう。

歴史における時間スケール

2010-08-31 | 歴史とのつながり、歴史の面白さ
先週の土曜日、「けいはんな市民雑学大学」の第28回講座で、市民教授・八尾 昭さん(大阪市大名誉教授、奈良市在住)から「大峰山の3億年の歴史」という話を聞いた。基本的にはプレート・テクトニクス理論に基づく地学の話であった。

生駒や六甲山は年に1mm盛り上がっているようだ。で、太平洋プレートは年に7.6cm潜り込んでいる。これが何十年~何百年に一度スムーズに潜り込めず跳ねて大地震を起こすわけだ。

大峰山の露出岩層をあちこち綿密に調査して、総合すると、古い岩ほど上部にあるという常識と逆のことが分かったが、これはプレートが潜り込むメカニズムに秘密があるようだ。「古い」「新しい」は内部に含まれる放散虫の化石の古さ(放散虫の進化が分かっていることが前提)が判定基準であると言う。(一寸簡単に説明するのが難しい!)

大台ケ原は、火山が噴出したあと陥没した山のようだ。(これに関しても面白い仮説的説明があった)これらの3億年の歴史を、八尾先生はあたかも見てきたように話された。100分ほどの講義だったので、まあ平均して1秒の講義で5万年の地学的進化を話されたことになる。

昨日は奈良女大の古代学術センターの「萬葉集に関するシンポ」絡みの臨地研修があって、バスで滋賀県の紫香楽宮跡(しがらききゅうせき)、京都府木津川市の恭仁宮跡(くにきゅうせき)そして奈良市の平城宮跡に順次行った。これは1300年位前に起こった聖武天皇の「遷都」を伴う「謎の彷徨5年」の宮跡を訪ねる小旅行だった。紫香楽宮跡(宮町遺跡)で2年半ほど前に発見された歌木簡の本物も見学した。

そして今日一寸考古学の本をぱらぱらと見て「人類学者」の西田正規さんの話を読んだ。西田さんは人類の「遊動から定住への移行」についての研究で有名。それこそ数万年から数十万年の歴史である。

で、私は人生数十年の個人史をまとめようとしている。

これらは全て「歴史」であるが、時間のスケールが全部違う。その間にそれぞれに不変と進化があると考えられる。それをどのように意識化して捉えるか、良く考えねばなるまい。

恐竜(爬虫類)から哺乳類へ、人類へ

2010-07-19 | 歴史とのつながり、歴史の面白さ
昨日、今日とNHKTVで「恐竜と哺乳類の生存競争」をやっている。

恐竜が地表でのさばっていた頃には、哺乳類は、ねずみほどの小ささで、それこそ岩陰に隠れて生き延びていた。ところが、巨大隕石の落下で巨大恐竜は、ほぼ絶滅してしまう。一部、鳥類として生き延びるようだ。世は哺乳類の時代となる。

さて、今日の夜、哺乳類同士の競争から人類が「のさばってくる」プロセスをやるのかな。

いずれにせよ、我々人類も地表での一時期の生き物に過ぎないのだ。謙虚に生きよう。

過去ブログ:恐竜で検索:http://blog.goo.ne.jp/in0626/s/%B6%B2%CE%B5

7月14日フランス革命記念日

2010-07-14 | 歴史とのつながり、歴史の面白さ
今日は7月14日あのフランス大革命記念日(1789年)である。日本では「7月14日」というフランス映画を「パリ祭(ぱりさい)」と訳したので、「パリ祭の日」とも言われる。

「百周年」の1889年には万博がパリで開かれ、「目玉」にエッフェル塔が建てられた。

「二百周年」の1989年には、パリ西郊の「デファンス地区」に「アルシェ」という巨大な現代的「凱旋門」風の建物ができた。これは、二度ほど見に行った。

京都では、明後日の7月16日が祇園祭りの「宵山」である。で、今日が宵宵宵山である。ぼちぼち山や鉾が建てられる日だ。出かければ雰囲気が楽しめる。

奈良女に勤めていた頃、ゼミ生を連れて「今宵」室町通りあたりに宵宵宵山見物に出かけることもしばしばだった。で、帰りに東山通りの一条ちかく、京大構内の向いに「日仏会館」があり、皆で行った。当夜は、フランス革命記念日で、赤ワインがふるまわれていた。懐かしい。最近は、どうなっているのかな。

「頭」のつくりかえの楽しみ

2010-06-09 | 歴史とのつながり、歴史の面白さ
今年は、「読書年」とのことだが、初っ端に読んだ論文があって、

これ:「日本史認識のパラダイム転換」http://blog.goo.ne.jp/in0626/e/2b1bd47d4cecf7addd98d895a151295c

以後『日本辺境論』(内田 樹著)『文明の生態史観』(梅棹忠夫著)『日本に古代はあったのか』(井上章一著)『東洋文化史論』(内藤湖南)ときて、今『アジア史 概説』『アジア史論』(宮崎市定)にきている。全部精読した訳ではないが、反芻してみるべき、と思っている。

今までの私の受けた「歴史教育」では、「世界史」というと旧石器時代、新石器時代はさっとやって、古代の四大文明ーメソポタミア(チグリス・ユーフラテス河)、エジプト(ナイル河)、インド(インダス河)、中国(黄河)ーが興って、それぞれが、それらの地域から少し「遷移」しつつ発展してきた、というイメージであった。

そのうち、「西洋史」は、ギリシャ都市国家、ローマ帝国、ゲルマン民族の移動、ヨーロッパ文明の成立、文芸復興、宗教改革、産業革命、近代、現代と来て、まあヨーロッパ中心の「世界史」のイメージがあった。まあ、中国の歴史も「東洋史」として教えられてきた。インドや中近東の歴史は、さっと通り過ぎるだけで、全体を考えると構造的世界史ではなかった。

ところが、宮崎市定さんに至って、歴史はすべからく(構造的に相互関連する)世界史である、と言う。四大文明というものも良く発生年代や地域関係を考慮すると、西アジアのペルシャ湾頭、チグリス・ユウフラテス両河口の近くにスメル人の都市国家が出現したのは世紀前3千年の古(いにしえ)が最初と言う。ほぼ前後して最も近い所のエジプト古王朝が栄えた。中東にペルシャ大帝国が出来るのは、ダリウス大王の時代で紀元前5百年ころで、スメル人の都市国家から2500年を要している。それから200年してこの古代ペルシャ王朝は、地中海世界から来たマケドニアのアレキサンダー大王に滅ぼされ10年でこの帝国も瓦解し、西アジアの古代は終わったと宮崎さんは判定する。中国の古代帝国は、秦の始皇帝に始まるのは、紀元前220年ころで西アジアのダリウス大王に遅れること約300年、後漢の後、三国南北朝に入り東アジアの古代史は終わって中世に入る。西洋では、ローマ共和国のカエサルが出現して版図を広げ古代帝国の時代が始るが、ゲルマン民族の大移動を受け375年に東ローマ帝国を残して四分五裂、ヨーロッパの古代史は終わる。西アジアの古代史終焉に遅れること約700年と言う。

これらの古代の開始や終焉は、相互に関連しあっており、古代の開始や終焉が最も早かったのは西アジアと宮崎さんは判定している。宮崎さんは、又、中国古代帝国(秦、漢)以前に都市国家も発見している。

中世史の開始や終焉が最も早いのも西アジアで、東アジアとヨーロッパはほぼ前後して中世を開始している。ところが近世は西アジアが最初にスタートするが、続いて東アジア(中国)が宋の時代からスタートする。ヨーロッパのルネッサンスは少し遅れている。

ところが最近世の開始が一番早かったのはヨーロッパで産業革命によりスタート、続いて東アジア(日本の明治維新)、最後に西アジア(トルコ共和国)スタートとなり現代に至る。

これらについても宮崎さんは、相互に影響を与え合った結果だとしている。交通を重視している。

考えてみると、人類の発生、世界分布もアフリカ発で数万年かかって全世界に「歩いて」分散分布したのだ。「歴史時代」においても歩いて、又馬などを使って(騎馬民族)、船、最近は飛行機、自動車も使って互いに交流している。孤立した歴史はないのだ、と思う。特に最近は、世界の一角で起こったことが全世界に即座に影響する。

宮崎さんの「スケッチ」を一つの仮説として、精緻にしていけば、面白い世界史物語が出来るだろう。子ども時代からの「頭」をつくりかえる必要がある。

(宮崎市定先生の壮大な世界史スケッチは、実は戦中の文部省の要望(大東亜共栄圏史の執筆)に対して、いくらなんでも「日本の神代からの歴史が一番古く、大東亜に光を与える」、みたいには書けないので、範囲を広げて「西アジアに文明がスタートして東に及んできたが「終着点」の日本で「最高潮」に達して、それが逆に西に影響を及ぼす、みたいなストーリーではどうでしょう」、と文部省に「お伺い」を立てたらあっさり「それで良いでしょう」となって、上記のスケッチ骨格になったようだ。戦前未刊、戦後、文部省から原稿廃棄を言われたが、保持して、その後改訂増補したのが『アジア史 概説』(中公文庫)のようだ。)

それにしても「最新帝国」のアメリカが、最古文明の地・イラクを攻撃し、ヨーロッパ都市国家発生の地・ギリシャを引き継いだローマ帝国を滅ぼしたゲルマン民族の後裔・EUのドイツがギリシャを助けているのも「歴史」である。


駐日ドイツ大使の講演聞き意見言う

2010-05-25 | 歴史とのつながり、歴史の面白さ
昨日、奈良女子大記念講堂で駐日ドイツ大使・フォルカー・シュタンツエルさんの「ドイツと日本ー副題あり?-」という講演を聞いた。日独交流150年記念で、日独協会奈良支部と奈良女子大学の共催で行われたものだ。約30分のスピーチ、30分の質疑応答があった。

マイクの拾う音が小さすぎて全体が明快には聞き取れなかったが、日独交流は、この記念館の102年の歴史より長く、平城遷都1300年より短いみたいな当たり前のことを「枕」に150年前の日独交流が始ったころの双方での熱い思いも語られた。
最近のEUでの「ギリシャ問題」の苦しい実情や先頃の米国発の「リーマンショック」の影響なども言われた。今後も収拾策について互いに学びあっていこう、と。今後は特に「市民交流」が大事、ということでスピーチは締めくくられた。若いころ京大でも一時学ばれたようで、日本語でのスピーチだった。

しかし、質疑応答の大半は、通訳(奈良女の先生か)を通じてドイツ語で応対された。
学生が何人か、「私達は友好交流で何が出来るか」聞いていた。まあ実例として琉球大学や京都産業大学が「プロジェクト」を走らせているが、それらに学んで独自アイデアを出して欲しい、と言われた。当日、一緒に行った地域の知り合いのI.さんが「近所の小母さん」として質問、知り合いからの情報としてドイツでは幼稚園での経済負担軽減からも小学校の教育制度が「下」に一年下がるようだが、どうなんでしょう?と聞いていた。

また、学生が雇用問題について、日独型とアメリカ型は違うのでは、と聞いていたが、今やドイツも日本もアメリカ型に巻き込まれているのでは、とのことだ。女性が働くことについて、本当のところ、子どもを抱えて継続的に働きたいのかどうか、逆に聞いていた。

私は「近所の小父さん」の一人として、「EUの中で率先してギリシャを助けるのは偉い、国内で人気がないのに・・・」と先ず「評価」しつつ、その長期的意味として、「現在のヨーロッパ文明や(日本などアジアやアメリカなども含む)世界文明を生んだ元の一つギリシャ(ローマ帝国)を助けることは必要(世界文化遺産国家の保全、世界史や世界観光振興の上でも)、ドイツだけでは無理なので(EU全体のみならず)日本(やアメリカ)も出来る範囲で援助・サポートすべき・・・」と意見を言っておいた。

別の近所の小父さんが、ドイツ国旗の三色(上から黒、赤、黄)は、どういう意味か?私もフランスの三色旗のようには知らなかった。答え「ナポレオン侵略に対して抵抗した時の旗、黒は死、赤は血、黄色は勝利を意味する」(つまり、死を乗り越え血であがなって勝利を勝ち取ったのだ、との意)この旗は、ビスマルク時代、ヒットラー時代には使われなかったという。

もう少しマイクの性能が良かったらもっと良かったのに・・・。

私は、「オーバーな発言」をして、21世紀は正に緊密な世界史の時代だな、と思った。

懐かしい、昔の同僚にも何人か会えた。学生は、もう分からない。「浦島一朗」であった。

バンドン会議55周年

2010-04-16 | 歴史とのつながり、歴史の面白さ
バンドン会議55周年といっても「はー?」と思う世代が多くなったのではないか。55周年というから1955年のことだ。昭和で言うと昭和30年である。

私は、中学2年生(金沢市立野田中学)であった。新聞ニュースでかすかに記憶がある。バンドンとはインドネシアの都市の名前で、今朝、今年はバンドン会議55周年に当たる、とラジオで寺島実郎さんが言っていた。(旧宗国のオランダの人たちに「インドネシアのパリ」と呼ばれていた高原都市、一度行ってみたいものだ)

当時は、終戦後10年経っていて、日本はこの辺りから後で言われる「高度経済成長」に入っていくのであり、次の年の『経済白書』に亡くなられた都留重人さんは「もはや戦後ではない」と書かれたのだ。

世界をみると、1949年に中華人民共和国が誕生し、1950年に朝鮮戦争が起こり、1951年に日本はサンフランシスコ講和会議を経て「日米安保条約」を結び、アメリカの「風下」で現在まで来ている。

そういう背景のもとに、インドネシアのスカルノ大統領、インドのネルー首相(当時はネール首相と言っていた)、中国の周恩来首相、エジプトのナセル大統領など歴史上のビッグネームがバンドンで(アメリカ、ソ連を睨んで)会議(アジア・アフリカ会議)を開いたのだ。

で、日本にも招待状が来たが、当時は、何と鳩山(一郎)内閣、外相は重光 葵氏、この二人はアメリカに「遠慮」して出席せず、替わりに経済関係の閣僚だった高崎達之介さんが出席。この折、高崎ー周恩来の「秘密会議」が行われ、後の中国との国交なしのLT(Tは高崎)貿易につながり、やがては日中国交回復の伏線になったのだ。

寺島さんは、現在の鳩山政権も「東アジア共同体」と言っているが、今や「ASEAN」に注目という。バンドン会議55周年記念日は明後日の4月18日である。

日本史認識のパラダイム転換

2010-01-17 | 歴史とのつながり、歴史の面白さ
近所に住んでおられる近代史(日本・朝鮮関係史)専攻の中塚 明さん(http://blog.goo.ne.jp/in0626/e/cdb20413a4a41fe55f56a2b6a3bc4509の示唆で雑誌『思想』(岩波)1月号の巻頭論文「日本史認識のパラダイム転換のためにー「韓国併合」100年にあたってー」(宮嶋博史著)をざっと読んだ。これを、精華町の町立図書館で読んだのである。(昨日、奈良市の北部会館図書館で、この雑誌があるか尋ねたところ、「かってあったが、今は奈良市立図書館にはない」と言われた。)他にも読みたい論考があるので、この号を書店で注文した。

ざっと読んで、この論文は、確かに今までの「日本はアジアの中心」史観は考え直さないといけないのでは、と思った。この論文は、将来の大きなパラダイム転換のきっかけになるかもしれない。

宮嶋さんは冒頭の部分で言う。「・・・転換の本質的内容は、日本がふたたび東アジアの周辺的地位にもどりつつあることである。「韓国併合」が強行された100年前は、日本がアジアの中心に駆け上がろうとしていた時期(私注:『坂の上の雲』時期)であった。その後、第二次世界大戦の敗北にもかかわらず、東西冷戦という国際関係の中で米国の従属的同盟者として、東アジアの中心的地位を占め続けることになった日本が、冷戦の終結と中国の復活の中で再度、東アジアの周辺国になるであろうことが確実であると思われる。ここで再度というのは、19世紀なかばまでの東アジアにおける日本の地位が周辺的なものであったからである。」

宮嶋さんは、14世紀頃からの東アジア(乃至中国周辺地域)の状況を眺めて、宋時代くらいから社会統治のベースに「儒教」(礼、礼治など)を置き、科挙試験で中央官僚を身分によらず選び出して、いってみれば「儒教モデル」の中央集権国家を造っていったという。朝鮮(やベトナム)も、それにならったが、日本には取り入れられなかった。印刷術や出版業が未発達で科挙試験が事実上実施できなかったことも一つの理由と言う。

だから、江戸時代の幕藩体制は、「一貫した中央集権」ではなかった。(逆に欧米の圧力もあり、明治維新となり、別の中央集権国家が出来ていった。)

19世紀の中ごろ、中国や朝鮮には、「儒教モデル」の確固たる国家があったので、欧米の「モデル」に何故ならないといけないのか、という訳で「中体西用」(中心は中華モデル、役に立つ西洋ものは利用)路線となり、ある意味で「遅れた」のである。

過去、歴史学界で「何故、日本が他のアジアの国に先駆けて明治以降の「近代化」が可能になったか」について色々と論考があるが、この「儒教モデル」の浸透が日本にはなかったことを視野に入れた論考は殆どないという。もし、そうなら正にここで宮嶋流パラダイム転換となるのではないか。

確かに、日本にも江戸時代には多くの儒者がいたし、明治以降も『論語』などの儒教は学ばれていたが、中国や朝鮮での役割を充分受け取っていなかったのではないか(理解が「中途半端?」)、と言う。明治以降は、福沢諭吉の「脱亜入欧」などにより、制度、学問などは欧米一辺倒に傾いたのである。

この論文では、石母田正さん、丸山眞男さんなども批判されている。

まあ、最近読んだ『日本辺境論』(内田 樹著)や森嶋通夫さんの「東北アジア共同体論」そして、最近の鳩山さんの「東アジア共同体」政策など、21世紀はそちらの方に傾くのかな、とも思う。

でも、今後、その共同体が昔の「儒教モデル」で運営できるものではなかろう。中国やベトナムは「社会主義」を標榜しているし、韓国や日本は「市場経済主義」である。まあ、中国、ベトナムは「社会主義的市場主義」らしいので共通項があるかもしれないが・・・。

勿論、アメリカやEU等々とどういう「スタンス」を取るのか。過去の歴史研究も「国の身を処す」一つのベースであろう。「細切れ歴史学」から「雄大な歴史学」になることを期待したい。

中国建国60周年

2009-10-01 | 歴史とのつながり、歴史の面白さ
今日、2009年10月1日は、1949年(昭和24年)10月1日の「中華人民共和国」の建国から60周年記念日だ。

テレビを見ると、中国の多くの国民、北京市民を排除しての軍事パレードなどが天安門広場で整然と繰り広げられたようだ。一寸、民主国家から見ると異様な光景だ。

1949年は、私は小学校2年生で、天安門で毛沢東が建国宣言したのは覚えていない。

しかし、1960年(昭和35年)に大学生になってから、教養として毛沢東の『矛盾論』『実践論』『農村調査論』などを読んだ記憶がある。中々の戦略家だな、と思った。

だが、その後、「造反有理」(権力に楯突くのは理がある)とて「文化大革命」を発動してからの10年間は、現在、中国の識者に「失われた10年」と言われている状況を知って失望した。

で、30年ほど前に小平が「改革開放」を提起してから、「市場経済を通じての社会主義路線」がスタートし、今や日本を抜いてアメリカに次ぐ「経済大国」になろうとしている。

だが、社会主義が本来求める平等からは遠ざかっていて「格差社会」ともなり国民に不満が蓄積している。また、これも本来の社会主義が求める民族自決もチベット自治区、新疆ウイグル自治区問題など、力で抑えようとしており、大きな問題だろう。

だから、60年のうちの前半30年(「文化大革命時代」の10年間を除く)と後半30年について国民の評価や、世界の評価も分かれていると思う。

次の30年(一世代)、日本やアジアや世界とどう向き合い、付き合いを深めつつ、国内の民主化も、どう進めるのか、きっちり見守っていきたい。日本も「東アジア共同体」を提起しているのだから。