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西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

中塚 明著『司馬遼太郎と歴史観』を読む

2009-08-06 | 歴史とのつながり、歴史の面白さ
今度、NHKは司馬遼太郎の『坂の上の雲』をドラマ化し放映するようだ。

司馬遼太郎は、太平洋戦争に従軍し辛酸をなめた経験もあって、日露戦争以後の日本は「あかん」、明治の日露戦争までの日本は「凛としていた」というベースで『坂の上の雲』を書いているらしい。

『坂の上の雲』という題も「理想を求めて坂の上に見える雲を追って駆け登る青年達は素晴らしかった」というメッセージであろう。

ところが、今日、恵送されてきた中塚 明著『司馬遼太郎と歴史観ーその「朝鮮観」と「明治栄光論」を問うー』(高文研刊)を読むと、「歴史は、司馬遼太郎が言うような、一時前は良かったが最近は駄目」みたいな単純なものではない。

歴史は司馬の言うような「不連続」なものではなく連綿と「連続」しているものだ、というメッセージが伝わってくる。

世の俗論に、「朝鮮は放っておくと、ロシアの植民地になる恐れがあり、そうなれば日本は窮屈になる。もし、そうなら日本が先手を打って朝鮮を封建制から解放してあげた方が良い・・・」というのがある。

これは、事実に照らして見ると、全く違っていて、明治の日清戦争の前から、日本は朝鮮を「併合」しようと虎視眈眈狙っていたことが明らかとなる。

日清戦争をする場合も日露戦争の場合も、まず最初に朝鮮政府を抑えてから乗り出していることが歴史的事実としてある、とこの著書は事実を上げ論証している。

司馬は、『坂の上の雲』では、日清戦争に際しても日露戦争に際しても日本が朝鮮に対し何をしたか、それに対する朝鮮の政府や国民の動きはどうかには殆どふれていないと言う。

これは、戦後のことだが、日韓条約の締結に15年も要したのは、日本の朝鮮併合の意味について日韓で認識が大きく違っていたことがある、という。

朝鮮民族の日本に対する抵抗として「東学党の乱」(東学農民革命)があるが、日本人は、殆ど良く理解していない、『坂の上の雲』でも詳しく触れられていないともいう。

朝鮮半島を身近なものにするためにも歴史を連続するものとして深く理解しなければ・・・、とこの著書を読んで思った。ドラマ『坂の上の雲』にも注視していきたい。

中塚 明さんは、私の近所に住んでおられる。一回り「先輩」、京大史学科卒(日本近代史専攻)、奈良女子大学名誉教授、元学術会議会員。定年退官されてから毎年のように研究成果を著書で出しておられる。見習いたいものだ。

今日は「パリ祭」、フランス革命記念日

2009-07-14 | 歴史とのつながり、歴史の面白さ
今日は7月14日、1789年の「今日」は、フランス大革命が起こり世界的に「近代」がスタートした日である。日本では「パリ祭」などと言う。その後に出来たフランス国旗は三色旗と言われ、「自由、平等、博愛」をあらわしている。ドラクロアのおっぱいをはだけた女性(自由の女神)が三色旗を掲げて前進しているあの絵が目に浮かぶ。

日本では約80年後の1868年明治維新に「近代」がスタートしている。

今日は、また祇園祭りの「宵宵宵山」、昔、室町通りを ざっと見て東山通りにある京大の近くの日仏会館に行って、「パリ祭」記念にワインをよく飲んだものだ。
懐かしい、来年は久しぶりに行ってみようかな。一緒する人いませんか。

壬申の乱について松本清張の発言

2009-06-09 | 歴史とのつながり、歴史の面白さ
一昨日のブログで、ラジオで聞いた松本清張さん(1992年没)の壬申の乱について説についての私の受け取り方を記したが、昨日、本屋に行って『松本清張の日本史探訪』(角川文庫)を買って当該部分について当たった。以下、引用する。

その前に、周知の通り、この壬申の乱(672年)は、亡くなった天皇(天智天皇)の息子(大友皇子、新天皇に即位、「弘文天皇」)と天智天皇の弟(大海人皇子、後の天武天皇)との、つまり甥と叔父との争乱であって、叔父が武力で新天皇の甥をねじふせ、新体制を作る物語である。こういう天皇家と親戚の争乱は、「万世一系」を言い出した明治政府にとっては都合の悪いものであり、こういう歴史は、戦前は、教科書には載せず、旧制高校に入るまで教育されなかったらしい。

引用:「私は、壬申の乱こそ、大化の改新(645年)の有名無実を実際に実現した事件であると考えています。事件後の経過は、大化の改新を実際的に仕上げたということですね。

 そして、大海人皇子は、在来の豪族との妥協によらないで大王になったわけです。つまり、それまで豪族に対してとったいろいろな政策、たとえば婚姻政策などの妥協の中で大王になるというのではなく、武力で征服したということです。これで名実ともに大王になったわけで、これはきわめて重大なことです。

 漢の武帝など、皆そうです。実力でこそはじめて大王の位が周囲に認められるのですから。まさに神権的な天皇制は、天武天皇の時に始まったと言えると思います。

 しかし、その天武天皇の役割を考えてみましょう。柿本人麻呂が歌ったように「大君は神にしませば」と『万葉集』にありますが、その現人神―生きながら神であるということは、当時の律令体制の中で見なければいけない。

 ということは、律令制度は完全な官僚政治ですから、官僚政治の中での天皇の位置づけは、天皇親政ではなくて、天皇の地位は今の言葉で言えば一種の機関と言いますか、「天皇機関説」と同じことなのですね。天皇は象徴的存在として神棚の上に置いておく、政治はわれわれがやります、というのが官僚政治であり官僚国家です。

 そういう意味で、「神にしませば」という表現は、一方では神権的な天皇への賛歌でもあるけれども、一方では、神様なのだから現世の政治にはあまりタッチしないでください、というような位置づけをしているとも言えるのではないかと思いますね。

 それから、さきほど大海人皇子が大友天皇(弘文天皇)の皇位を簒奪(さんだつ)したことにふれましたが、歴史学者の多くは、大友皇子が即位した事実のない点をいってこれを否定する。だが「事実」とは何か。それは『書記』に即位の記事がないというだけです。『書記』が大友即位を隠している疑いが濃厚だから、簒奪否定論には根拠が弱いのです。

 なぜそういえるかというと、『書記』は壬申の乱で、近江朝廷側の内部の動きをまったくといっていいほど伝えていません。史家によっては、大津宮が兵乱にかかったとき朝廷記録が焼失したり散逸したので、『書記』編纂時にその資料がなかった、だからそれを載せることができなかったなどといっていますが、たとえそうだとしても、大海人方は戦争終結直後に、近江朝廷方の重臣たちを裁判にかけています。大海人皇子は不破にとどまって動かなかったが、その代理として高市皇子が大津に行き、裁判長となり、右大臣中臣金(なかとみのかね)、左大臣蘇我赤兄(そがあかえ)、大納言巨瀬比等(こせのひと)などを審問し、八人を重罪とし極刑を判決しています。このときの被告らの陳述記録が、天武朝廷側にかならず保存されていたはずです。

 審問に対する被告の供述記録があったことは、のちの橘奈良麻呂(たちばななのならまろ)の謀反事件(757)でも、審問官と奈良麻呂の一問一答を『続日本紀』が載せているのでもわかります。

 『書記」が近江側被告の供述を削除したのは、それを記載すると、太政大臣大友皇子が天皇に即位したことその他がわかり、大海人皇子の皇位簒奪が明瞭になるからです。壬申の乱の『書記』の記事は豊富だが、すべて大海人皇子方の記録、とくに従軍記録が多い。これは、近江朝廷の記録を載せなかったのをごまかしたともみられます。『書記』編纂は天武の意志ではじまり、天武直系の天皇(元明・元正)の下で完成していることからみても、天武の兵力による皇位簒奪の事実は、なんとしてでも隠蔽しなければならなかったのです。」(129-131頁)

 正に国の公式記録(正史)は、権力側の記録なのである。


 


齋藤 孝のざっくり!世界史、同 日本史を読みつつ

2008-11-24 | 歴史とのつながり、歴史の面白さ
地域snsけいはんなのマイフレンド「ごろちゃん」さんから『齊藤 孝のざっくり!日本史』を教えてもらい、それと共に『・・・世界史』も買ってざっくりと読んでみた。

これらを読むと、今の「ヨーロッパの柱は古代ギリシャ・ローマにあり」や「大化の改新と藤原氏ーナンバー2が支配する日本統治の始まり」などを読んでいて、

一つの「水平思考」だが、日本住宅の伝統は、竪穴式住宅と高床式住宅の特徴の「結合」だな、とふと思った。農家の土間を持つ「四つ間取り」や、町家の通り庭を持つ「うなぎの寝床」は、それらの「統合」の面をもっている。

こういう風に考えると、書院造りは分かりやすく、現代につながっているが、寝殿造りもつながっていると考えられる。
関連過去ブログより:http://blog.goo.ne.jp/in0626/e/6960d440870272ff0b1e7728f19ff6d9

どこから来たのか ニッポンのヒト

2008-07-23 | 歴史とのつながり、歴史の面白さ
昨日の夜11時からのNHKTV「爆笑問題のニッポンの教養」で「どこから来たのか ニッポンのヒト」をやっていたので、何時もなら寝ている時間帯だが、阪神タイガースにマジックナンバーが出て興奮していたし、目をこすって見ていた。

分子人類学による世界中の「ホモサピエンス」の分布とつながり、特に日本人の来歴の解説が面白かった。既に私のブログで似た内容を書いたことがある。
http://blog.goo.ne.jp/in0626/e/cc11b44033402437ca6f37aed6ea972c
 
解説する人は国立科学博物館の篠田謙一さん、15万年ほど前、東アフリカに住んでいた「ホモサピエンス」のうち数百人が氷河時代に氷を渡って今の「サウジアラビア」に至り、更に「インド亜大陸」の沿岸沿いに「インドシナ半島」に着き、島伝いに「オーストラリア」に渡ったもの、「中国」沿いに北上し「朝鮮半島」から「日本列島」にいたったもの等に別れた。又、「インド亜大陸」から「ヨーロッパ」に向かうものもあったが、先住民(?)のネアンデルタール人がヨーロッパにいる間は入り込めなかった。ヒマラヤ山脈の北から「モンゴル」を通り中国、朝鮮を通って日本列島に着いたもの、シベリアからベーリング海峡を渡ってアメリカ大陸に渡ったもの等に別れ、別の流れが時代と共に交錯して現代に至っている。例えばアメリカ大陸(南北)で考えると、最初にベーリング海峡を越えてやってきて住み着いた人たちに、大航海時代のスペインやポルトガルから海を渡ってきた人たち、その後イギリスやフランスから渡ってきた人たち、そして最近は日本人を含め世界各国から渡って来る人々が交じり合って現代アメリカ人が出来ているのだ。

日本に来た主なルートは、南方系(名も知らぬ遠き島より流れ寄る椰子の実ひとつ)と北方系(月の砂漠を はるばると 旅の駱駝がゆきました 金と銀との鞍置いて 二つ並んでゆきました)である。アイヌは、最初に渡ってきた北方系であろう。

現在の世界人類は、皆アフリカ出のホモサピエンスが交じり合ったものであることが、女性(母親)のミトコンドリアのDNA解析(分子人類学)を通じて明らかになった。篠原さんの言葉で耳に残ったのは、世界中の人類のDNA解析をするとDNAの組み合わせに差異が出てくるが、何処にも「国」が現れない。国や家系というものは、どこかでDNAの広がりやつながりを人為的に断ち切ったところに成立するものだ、という言葉である。「爆笑問題」の太田さんも田中さんも、篠原先生も自分のDNA解析をしていた。皆違っていて、篠原さんのはヨーロッパに渡った人類と大昔につながっていたようだ。

私は金沢生まれ、父方は大聖寺出、母方は地元出で遡ると「北方系」ではないか、と勝手に思っているが、とにかく自前(自費)で自分のDNA解析をしてみたい。どうやったらできるのだろうか。誰かしてみた人はいませんか。

『人類史の中の定住革命』西田正規著を読む

2008-07-12 | 歴史とのつながり、歴史の面白さ
西田正規著『人類史の中の定住革命』(講談社学術文庫)をざっと読んだ。

定住は、栽培・農耕より先に起こった人類の生活様式で、今から1万年前に起こった、それは日本では縄文時代であった。定住生活以前は「遊動生活」で、これは遥かに長い年月のアフリカで生まれ、世界中に拡散した生活様式であった。

「人類を含む高等霊長類が、遊動生活の伝統のもとで発達させてきた高い知能は、遊動域の内に散在している食物が、どの季節にどこへ行けば見つけられるか、といったことを認識し、記憶する能力を高めるものであっただろう。どこにでもある草を食べる獣とはちがって、栄養価の高い食物を選択的に採食する傾向のある霊長類にとって、外界の事象をたえず探索し、それを採食戦略に組み入れることの適応的な意味はより大きいのである。
 そして、動物には、備わった能力を発揮しようとする強い欲求があるだろう。日ごろ体を動かす機会のない人が、わざわざスポーツをして汗を流そうとするのは、彼に備わっている運動能力を発揮したいという欲求があるからに他ならない。そして同じように、私たちには、巨大化した大脳に新鮮な情報を送り込み、備わった情報処理能力を適度に働かせようとする強い欲求があるものと考える。好奇心というものがそれであろう。そのために、もしも新鮮な情報の供給が停止することになれば、大脳は変調をきたして不快感を生じることになる。退屈というのはそのような状態であろう。・・・」

この「遊動時代」の人類の特色は、「定住時代」以降も基調として保たれ現代にいたっていると私は思う。

また、「定住生活」に入った福井の若狭地方の鳥浜村集落での生活描写のうち、「今日につながる縄文時代の食事文化」の項には、「村人は、季節の変化を味覚の変化として印象に刻みつけた。春には、ほろ苦いフキやウド、湖の魚や貝がなければならない。夏にはサザエのあの複雑な味がなくてはならないし、マグロを口いっぱいほうばりたい。クリやシイの実、多くの種類の果物やキノコ、ヤマイモや球根が秋を告げる。冬に、女たちは活動をやめて家にこもり、男たちが持ち帰る脂ののった肉が、寒気のなかの人びとを暖める。・・・多様な食料を利用する「タコ足」的な生業活動は季節によって配置され、季節の味をもたらす。このような食事に親しんでいた人びとは、しだいに季節によって変化する味覚のスペクトルを充実させていった。ここで賞味されるのは、季節がもたらす味の変化であり、調理は最低限におさえられ、食品自体がもtっている微妙な味がそのまま生かされたであろう。形がくずれるほど煮込んだり、カラ揚げにしたり、強い香辛料を使って調理したりすることは、縄文時代の人びとのするところではあるまい。年中同じ物を食べ続けることも、彼らの望むところではなかったにちがいない。」

ここには未だ弥生以降の穀類(米麦等)が現れていないが、しかし、これも現代の我々もあこがれる食卓風景ではなかろうか。

このようにして、人類の過去の体験は、その後の違った様相の時代を越えて我々の体内(DNA)に染み込んでいる。それらの積み重なりが「現代」ではなかろうか。

木津川市・鹿背山城跡の主郭での「ミニ・コンサート」

2008-04-29 | 歴史とのつながり、歴史の面白さ
今日、地域の友人達と「近所」の木津川市・鹿背山城跡の一番上、標高135mの主郭にハイキングで登った。この山城の歴史的背景・意味や実際の山城構造にも興味あるが、ここで昼食を取った後に参加された「歌手」の森繁 昇さんがギターやマンドリン片手に自作自演で「弾き語り」したのにもひきつけられた。

「ゴスペル」の日本語版といった感じで良かった。お聞きすると、森繁さんは山口県下松市に家があるらしいが、ハワイにも住んでいるという。古いバスを改造して、そこで寝泊りして全国を回っているようだ。

中学生や高校生に聞かせたい「命を大切に」のメッセージだった。

こういう古い場所での思わぬ「ミニ・コンサート」は良い感じだな。

(写真は、「ゴスペル歌手」森繁 昇さん)


生木を裂く政略結婚ー薩摩・篤姫ー

2008-03-23 | 歴史とのつながり、歴史の面白さ
NHKTVの大河ドラマ、薩摩・島津家より1700kmも離れた江戸・徳川家へ2ヶ月かかって輿入れする篤姫、明らかに政略結婚である。薩摩を離れるとき、実家の前で実の父母に別れを告げ、故郷の山・桜島に別れを告げ、元の恋人に別れを告げ、二度と薩摩に帰ることはなかった。

うーん、政略結婚って「生木を裂く」ようなものだな、と思った。
世の女性の皆さん、現代に生まれてよかったね。


今日は何の日?1945年3月10日東京大空襲の日

2008-03-10 | 歴史とのつながり、歴史の面白さ
今日は、63年前にアメリカのB29大編隊による焼夷弾雨あられの東京大空襲があった日だ。
私は当時3歳~4歳の時点、住んでいたのは金沢で、幸い空襲はなかった。焼夷弾が何発か落ちたらしいが・・・。先日、広島に行って平和記念資料館で原爆の悲惨さを写真や資料で見てきた。14万人も亡くなった広島原爆も凄いが、10万人が亡くなった東京大空襲も忘れてはいけない。



記録によれば、B29爆撃機は300機以上、墨田区、江東区等の下町に無差別爆撃、約270,000戸が焼失、40平方キロメートルが焦土と化した。
B29(写真)のBとは、Bomber(爆撃機)のBである。Aは、Attacker(攻撃機)、Cは、Cargo(運搬機)、Dは、Defender(防御機)である。


焼夷弾(写真)とは、「高熱を出して燃える薬品を筒の中に詰めたもの」である。





19世紀の偉人三人

2007-11-26 | 歴史とのつながり、歴史の面白さ
かってイギリスのBBCが選定した「19世紀生れの偉人」三人は、カール・マルクス、アインシュタイン、ダ・ウイーンである。誰もが知っている社会(人間界)、物質界、生物界における基本法則を大発見した人だ。
史的唯物論、相対性原理そして進化論である。
今は21世紀、19世紀からは「隔世紀遺伝」が起こりうるかもしれない。

(写真は、物質界と社会の中間の生物界の大御所ダ・ウイーン?)

世界遺産・ギリシャ・アテネのアクロポリス

2007-11-18 | 歴史とのつながり、歴史の面白さ
夕べNHKTVで「世界遺産・ギリシャ・アテネのアクロポリス」をやっていたので見た。そのアクロポリスの中心はパルテノン神殿だ、紀元前5世紀の建築、日本では縄文時代である。ギリシャでは大理石の壮麗な神殿が造られていた時代、日本では竪穴住宅の時代だったのだ。日本は、アメリカやイギリスより古い国柄とは言え、ギリシャや東洋では中国より遥かに新しいのである。
 パルテノン神殿の横にはオリーブの木が立っているが、それは元々は女神アテナが槍を地面に突き刺したら、そこにオリーブが生えたとのことだ。まあ、大理石、白亜の人工的建築・パルテノン神殿に寄り添うように自然の樹木・オリーブが生まれたことは重要だ。石と植物、人工と自然の対比と統一が重要ということを示しているのだ。普通、見えてはいないが・・・。
 一度、早く、是非アテネ、アクロポリス、パルテンノン神殿に行って見たい。ル・コルビュジェも安藤忠雄もパルテノン神殿に「ころり」だったようだが、本当かな、という気持ちでも見てみたいと思っている。
(写真は、パルテノン神殿)