西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

天竺へ(三蔵法師3万キロの旅)を観る

2011-08-16 | 歴史とのつながり、歴史の面白さ
今日、午後、妻と二人で奈良国立博物館へ、「天竺へ(三蔵法師3万キロの旅)」(=玄奘三蔵絵)を見に行った。日本で言えば「古代」の凄い旅である。

この旅は、後に伝説となり、中国で『西遊記』が生れた。

ところが、この絵巻は、日本の絵師・高階隆兼が鎌倉時代(14世紀)に描いたもののようで、仏教発祥の事実は唐・天竺にあるけれども、後世、それらを日本人が想像し描いたのだ。そこが凄い。

最後に1800円小遣いをはたいて公式冊子を買った。今後、じっくり眺めてみたい。

こういう風に中国とインドは細い糸で繋がり、それが又、日本にも繋がったのだ。

まあ更に西に行って西アジアやヨーロッパにも往来があったに違いない。

世界遺産、世界史との繋がり

2011-08-15 | 歴史とのつながり、歴史の面白さ
テレビの録画した「世界遺産 1万年の叙事詩」の最後の2本を見た、19世紀と20世紀である。

世界遺産は1960年ごろ、古代エジプトのアルシンベル神殿がナイル川のアスワンハイダムによって湖底に沈んでしまう状況から始まった。

それは、エジプト住民のためばかりでなく世界の人々と「繋がっている」ことによって正に世界遺産となったのだ。

現在、900余りの世界遺産を逍遥し、相互の繋がりを広く深く追求することによって初めて世界史が成り立つと言えるかもしれない。

ところで、このシリーズは、正岡正剛さん(編集工学者)とタレントの華恵さん(東京芸大学生)が案内役だ。正岡さんが理論的に「編集し」説明、華恵さんが感心し突っ込んでいる。

彼女は、「ハーフ」である。自分で母親はアメリカ人、しかし「純粋な」アメリカ人というのはいなくて、殆どヨーロッパから渡って来た人である。母親は彼女に、「私はゲルマン系よ」と言ったらしい。

長い目では、こういう風に皆「世界人」になっていくのであろう。

奇蹟?!の個人史

2011-08-11 | 歴史とのつながり、歴史の面白さ
最近、『奇蹟』(東京図書出版会刊)という「個人史」的な本をざっと読んだ。著者は、荻田征美(おぎた まさみ)氏である。荻田さんは、面識はないが、私と同じ1941年(昭和16年)生まれ、北大医学部卒のお医者さん、私の妻が荻田さんの奥さんと大学時代の友人である。

本によると、荻田さんのお父さんも北帝大医学部出身で、軍医(中尉)となり満洲に出征、満洲で弟と妹が生まれた。戦争で父親が死んでもおかしくない状況を偶然も働き乗り越える。しかし、敗戦後、お父さんはソ連に抑留、残された家族4人(母親と子ども3人)は、母親の周到な準備の下、色々な出来事を越えて1946年(昭和21年)8月16日に日本の佐世保に帰還。

その後、一旦、荻田さんの父方祖父のいる福井の三国に寄り、北海道の伯父の所に「帰りつく」。父親はソ連・ウズベック共和国のタシケントの捕虜収容所から1948年(昭和23年)夏に無事北海道に復員。

・・・「「お帰りなさい、お父さん!」私達は、漸く終戦を迎えることができた。
事故や病気などで、家族の誰一人失うことなく、小さな荷物一つさえ略奪されることなく、無事、皆、故郷へ辿り着けた。これを奇蹟と言わず何と言うか、私には判らない。」と荻田さんは書いておられる。(33頁)

とにかく、戦乱に巻き込まれている、食料や物資が不足している、略奪の危険がある、色々な事故(列車や船など)が起こりやすい、結核その他伝染病にかかる恐れもある等々10年足らずの間は回りは危険だらけであった。そこで命を落とす、負傷する、家族ちりじりばらばらになる例は無数にあった。その事例も紹介しておられる。荻田さん一家が、それらを乗り切ったのは、やはり「奇蹟」ではないかと思わずにいられない。

私も荻田さんと同じ歴史的時間を同い年として体験しているが、私は「内地=金沢」の母方祖父母宅に留まり、私の父は職業軍人として母と共に満洲に渡り、そこで妹が生まれ、やはり戦後に両親と妹は無事金沢に帰りついた。両親に詳しく聞いた訳ではないが、両親と妹が無事帰れたのも「奇蹟」であったろうし、私が空襲や原爆でやられなかったのも「奇蹟」なのではないか、と思う。

そして、現在まで交通事故にも遭わず、重い病気にもならず、大地震や大津波にも原発事故にも直接遭わず「古希」まできたのも「奇蹟」ではなかろうか。

歴史は、世界史と自分史のつながり・・・

2011-08-10 | 歴史とのつながり、歴史の面白さ
宮崎市定さんの本を玩味している。(『アジア史概説』など)「歴史は、すべからく世界史」という考え方は、魅力的だ。我々が習った四大古代文明ー西から東へエジプト(ナイル川)、メソポタミア(チグリス・ユーフラテス川、インダス、黄河(長江も)ーにも、並列的なものではなく時代的順序、関連性があるのでは、として元々は、シリアの辺りから発祥、との説も興味深い。

まあ、昔の高校の分け方では「世界史」と「日本史」に分けられていたが、「世界史」は並列的に四大文明の説明も含むが、全体として西洋史中心、ところどころ東洋史も出てくる。「西洋史」に対して「東洋史」は、明治以降に日本が始めた分け方である。

だから戦前の旧制帝大の歴史学の講座も、国史(日本史)、東洋史、西洋史の三つに分かれていた。宮崎さんも京都帝大の東洋史講座の出身で、担当だった。そこで、宮崎さんは東洋史(主に中国史)に足場を置きつつ、アジア史、世界史へと視界を広げていかれたのだ。翻って日本史の見かたも専門の日本史の方々とは一風違った見方をされていて面白い。

で、最近、世界遺産というのが出てきて、これらは「世界の人々に意義ある遺産」という捉え方で、それで良いと思う。そして、世界史はアジア史やヨーロッパ史などにつながり、アジア史は西アジア史、東アジア史などにつながり、東アジア史が中国史、朝鮮史、日本史などにつながる、という捉え方がいいのではないか。

これらの「空間史」に、当然、時間的切れ目が入る。

日本史は、また更に地域史につらなっていくだろう。(現代)自分史もこういう大きな「枠組み」の中で考えてみるのもいいのではないか。

1945年8月15日か9月2日かー米日の「攻防」-

2011-08-06 | 歴史とのつながり、歴史の面白さ
日本人に「太平洋戦争は何時終わったか」と質問すれば、「1945年(昭和20年)8月15日」と大抵答えるだろうし、私もそう思ってきた。ところが、同じ質問をアメリカ人にすると、1945年9月2日と大抵答えるようだ。

日本人にとって、その日は戦艦ミズリー号上で、重光 葵外務大臣が、連合国(実はアメリカ)に対して正式に降伏文書に署名した日である。実際、この日から、アメリカの占領政策がスタートするのであるが、アメリカ人にとっては、日本が正式に降伏した日が戦争が終わった日であろう。そして、公式にもこの日が、日本が「負けた」日なのだ。

今日、ビデオ『歴史館』で9月2日、3日の米日の「攻防」を見た。9月2日は、午前中にミズリー号艦上での「儀式」は、終わった。アメリカ占領軍最高司令官のマッカーサーは芝居がかった人物だ。ミズリー号上には米軍水兵が溢れ記録映画班がフイルムを回し、幕末に日本に来て開国を強要したペリー提督が当時もってきた米国国旗をわざと飾ってある。(☆の数で当時の米国は31州と知れる。)

午後に入り,GHQは日本政府に対し「明日(9月3日)に三布告を発表し、明日から「軍政」を始める(英語を公用語とし、お金は米軍の軍票(B券)を流通させる)」と通告、日本政府(外務省)は慌てて対応策に入った。重光 葵外相以下、午前中にミズリー号で文書の署名欄の不備を指摘した岡崎勝男など、徹夜で対応、「軍政はポツダム宣言に違反する」という一点で、最後は、翌日(9月3日)早朝、横浜のマッカーサー滞在のホテル・ニューグランドへ重光外相と岡崎局長が出向き直接談判、結局、「三布告停止」となった。

重光がマッカーサーに言ったのは「軍政はポツダム宣言以上のことをしようとしている。アメリカ軍にとっても日本政府を通じて占領政策をやるほうが、統治しやすいはずだ」ということだ。これにマッカーサーが納得したのは、天皇を残しておく方が日本を統治しやすい、という判断と同じである。

これから、日米安保条約を経て、アメリカの「間接統治?」が、ある意味、今も続いているのではなかろうか。

子ども時代(昭和20年代)の、マッカーサーやアメリカに対する印象と、大人(昭和30年代後半以降)になっての「学習後」では、大いに異なっている。

法然800回忌、親鸞750回忌

2011-07-31 | 歴史とのつながり、歴史の面白さ
今年は、専修念仏を切り開き、発展普及した法然800回忌、親鸞750回忌の年である。

テレビ「歴史秘話ヒストリア」を見ていて、法然の専修念仏の「種本」が分かった。

43歳まで、色々と悩み、過去の仏典も探っていて、ある日、はっと目がいったのであろう。それは中国・唐代の僧・善導の『観無量寿経疏』である。その部分の和訳(テレビによる)は以下の如し。

「一心にもっぱら 阿弥陀仏の名号を念ぜよ 歩いていても座っていても 横になっていても構わない 時間や場所に関係なく 念仏をやめないこと これは阿弥陀仏自身が選んだ 必ず極楽浄土にいくことができる行いなのである。」(ビデオの一時停止機能を何回か使って筆写)

うーん、種本があったのか。だが、それでも「ピーン」ときて、それを押し出す戦略が一瞬のうちに分かったことだろう。「こころ そこにあれば 一事より万事へ」であろう。

法然と親鸞は40歳歳が離れていたが、享年が80歳と90歳なので遠忌が800年と750年と50年の差となり今年となる。親鸞は、非僧非俗を追求、肉食妻帯もして「念仏を唱えずとも念ずるだけで良い」とした。これも鎌倉新仏教の一つのありかただった。

明治以降の歴史を世界史の中で見直すと面白いだろうな

2011-07-27 | 歴史とのつながり、歴史の面白さ
今日、宮崎市定著『アジア史論』(中公クラシックス)の最後の論考「東洋史の上の日本」(1958年11月『日本文化研究』第一巻)を再度読んだ。

スケールの大きな「世界史指向」の論考である。

その中で、明治維新以来の日本史に関しても、「広い視点から見るべきこと」を説得性を持って指摘している。

「明治維新以来の日本の歴史が、順風に帆をあげたように着々実績を挙げることができたのは、それがヨーロッパ諸国(アメリカ含む:私注)の利益と一致したからだ。 ヨーロッパ諸国はアジアの最も便利な地点において、安心して利用できる基地がほしかったのだ。

ヨーロッパ列強が植民地化して利益をあげうる最大の目的物は中国である。この中国を制するには日本に足場を設け、日本人を利用するのが一番・・である。日本は巧みにこの潮流に乗ったわけだ。ここに日本独特の追随外交が始まったのである。
(私注:残念ながら、今もその「伝統」が続いている。)

明治の官僚は人民に対しては横柄に威張ったものである。だから一般人民は、あんなに威張る官員が、外国人の前に出てペコペコ頭を下げようとは夢にも考えなかった。そして歴史が間違って書かれてしまったのだった。」(363頁~364頁)

(内部に対しては、天皇制を盾に「独裁的」に振舞ったが、外部(欧米)に対しては大局「ペコペコ」していたのだ。今は、それはアメリカ(一部EU)に対してである。だから、絶えず、そちらに「補助線」を引いて日本政府の行動を見守る必要があるのだ。)

世界史的に研究された明治維新以来の日本史の業績は未だないのではなかろうか。どうでしょうか。

仏教史を考えてみる

2011-05-05 | 歴史とのつながり、歴史の面白さ
昨日、京都国立博物館へ行って「法然 生涯と美術」展を見てきたので、昨今読んだ『歴史・科学・現代』(加藤周一対談集)ちくま学芸文庫の中の湯川秀樹先生との対談(言に人ありー富永仲基に興味をもってー)を思い出して読み返してみた。

富永仲基は江戸時代の大阪の人、30歳で亡くなったが独創的学者で、東洋史学者・内藤湖南により再発見された人物だ。

で、仏教とキリスト教を一寸比較して考えてみると、キリスト教には旧約聖書、新約聖書というどういう「宗派」でも共通に基礎としている原典があるが、仏教にはそういうものがない。

そこで、仏教の発展と言うか、仏教史をどう考えるか、そこから仏教の精髄をどう捉えるか、中々難しい問題が出てくるだろう。

加藤周一さんは、対談の中で次のように言う。「・・・仏教の多くの経典の説がお互いに矛盾する、多くの違う説がある、という事実は、誰も否定することができない。その事実にたいして、どういう態度をとるかは、仏教の根本問題の一つだろうと思いますが、日本では、大きくみてその態度に三つの型があった。

その一つは、天台教学が洗練した「最勝」(さいしょう:私注)という考え方ですね。どの経典が一番すぐれているか、その標準は近代的な意味でいう原典批評ではありませんけれども、多くの違う説のなかで、どれがいちばん仏の説を正しく伝えているかを検討しようということですね。(43頁)・・・

もう一つの経典にたいする態度は、主観的な接近の仕方です。信仰の立場からいって、今ここでわが魂の救済のためには、どれが一番役に立つ経典であるか、ーこれが法然ですね。法然から親鸞に伝わった「選択」(せんたく:私注)という考え方。これは、歴史的・客観的立場を離れて、魂の救済を問題にする。

三番目の態度は、どれを選ぶかというのじゃなくて、多くの仏教経典の成立を歴史的な発展とみて、そのなかに教説の発展の内面的な論理をたどろうとする考え方、おそらく思想史的な接近の仕方といえるでしょうが、それが富永仲基のとった態度だったと思うんです。(44頁)」

この考え方が「加上」(かじょう:私注)という方法であった。


危機対応と関係意識、無関係的意識

2011-02-27 | 歴史とのつながり、歴史の面白さ
今、ニュージランドの地震災害のこと、リビア等の「独裁打倒、民主化」の動きのこと、民主党政権のごたごたのこと等がニュースのヘッドラインとなっている。

これらは、それぞれの組織にとって「危機」と言えよう。これらに対してわれわれ直接に「利害関係」がないか、希薄な場合、どのようなスタンスで考えたらいいだろうか。

普通、毎日のニュースの大半に対して「世の中凄いこと起こっているな。でも自分に無関係で良かったな。今後もそうあってほしいな。」という反応が一般的ではなかろうか。

でも、地震は日本では何時でも身近で起こりうることも分かっている。またリビアのようではないかも知れないが国民の一人として強く政府に抗議すべき時もありうる、と思う。更に政府のごたごたに無関心でいいのか、という声も聞こえてくる。

だから、毎日、全ての事件、イベントに対応はできないが、自らの状況に鑑み、身近に引きつけて具体的危機にたいして関係意識を強く持って身近な状況を変えていくことも大切と最近思っている。とりあえず特に地震対応は急ぐべきと思っている。

江戸時代は面白い、三浦梅園など

2011-02-26 | 歴史とのつながり、歴史の面白さ
今朝の『朝日』の「b3」で磯田道史さんが「この人その言葉」で三浦梅園(1723~1789)の「理屈と道理のへだてあり。理屈はよきものにあらず。」を取り上げている。

勿論、梅園は江戸中期の人である。大分の人。「彼は人間が作った理屈と自然の道理は違うといった。親が羊を盗み、その子に、たとえ親でも悪は悪、訴えろ、というのは理屈。親の悪事を子が隠したくなるのは道理。」とのこと、ウン?ではあるが・・・。

「・・・寝食忘れて天地宇宙のしくみを考え続けた。」と言う。湯川秀樹先生も三浦梅園に関心を抱き注目していた。まあ「江戸中期の日本で宇宙と世界を最も理解した人物」であったろう。

私達は、子供の頃、江戸時代は封建時代で「息苦しい」時代、明治以降が「文明開化」で大局的には「良き時代」のような教え方をされたのではないか。

しかし、私は1990年代に『江戸時代とはなにか』(尾藤正英著、岩波)を読み、目が開かされ、最近は貝塚益軒のことを『養生訓』を読みながら更に紀行文や朱子学批判などを読みたく思っている。さまざま多様な論者が江戸時代に「のびやかに」論を展開しており、そういうベースが明治以降に「効いている」と思うが、一旦は「西洋化」が進んで現在にきているが、我が国の江戸や更に古い時代のことも「温故知新」で勉強したいと思う。

今日は何の日?100年前

2011-02-21 | 歴史とのつながり、歴史の面白さ
NHKラジオでは毎日「今日は何の日?」をやっている。まあ、毎日それの一つをテーマにして駄弁ればブログ日記も「簡単」かもしれない。でも、そればっかりでは面白くない。

でも、今日は「今日は何の日?」から一つ取り上げたい。
今日は、100年前の、つまり1911年(明治44年)の2月11日は、夏目漱石が文部省が授与しようという文学博士号を拒否した日(つまり、第一回の医学、文学の博士号授与式に欠席した日)なのである。当時は、現在のように大学院を出て博士論文を書いてパスしたら博士号が授与されるのではなく、世の中で既に博士に相応しいと文部省が認定した人に「貰ってもらって」いた訳だ。

当日は、医学博士に野口英世、文学博士に幸田露伴がなっている。

ところが文学博士号「文部省認定」の夏目漱石が文部省あての文書に「小生は今日までただの夏目なにがしとして世を渡って参りましたし、これから先もやはりただの夏目なにがしで暮したい希望を持っております」とあるようだ。

時々、名刺の真ん中に名前だけ書いてあるものを貰うことがあるが、まあ夏目漱石だったら当時でも日本人で知らない人はなかったのだから、名前だけで十分に違いない。文学博士などの「肩書き」というか「頭書き」が不要な訳だ。

この夏目漱石の文部省宛て文書の写しは、確か夏目漱石が教鞭を取った旧制・五高(現・熊本大学)のレンガ造りの「記念館」で見たことがある。そこには京大で習った福山敏男先生(旧制・五高卒、京大教授歴任、建築史専攻)の関係資料も展示してあった。

ところで今から100年前は、ほぼ明治の終りである。再来年になると「大正から百年」となって明治は1世紀以上前となる。正に「明治は遠くなりにけり」である。
(わが師 西山夘三先生は明治44年生れ、今年が生誕100年である。)

「まきむく」遺跡の桃の種

2011-01-21 | 歴史とのつながり、歴史の面白さ
奈良県桜井市の「まきむく」遺跡から大量の桃の種(2765個)が出てきたようだ。他に海の魚の骨も結構出てきているようだ。

桃については『古事記』の上巻で、男神イザナキが亡くなった女神イザナキを追って死者たちの黄泉の国(よみのくに)に行き、必死に戻る時の様子に出てくる。現代語訳(角川ソフィア文庫より)によると、
 「魔軍がなおも追ってきたが、この国と黄泉(よみ)との境である黄泉つ比良坂(よもつひらさか)の麓まで来たとき、イザナキはそこに生っていた桃の実を三つ投げつけた。すると、桃の霊力にはばまれた魔軍は、全員退却していった。」

だから桃があるということは、霊力を期待する場所である、ということかな。それをすぐに邪馬台国に結び付けるのもどうかと思うが、とにかく「特別の地」であることに間違いないのではないか。桃は、中国の理想郷の桃源郷に源があるし、日本では後世、桃太郎伝説とかに受け継がれていると思う。

早く「桃の節句」が来て温かくならないかなー。

「婚活」を応援する話よりー『古事記』の引用ー

2011-01-19 | 歴史とのつながり、歴史の面白さ
1月4日のブログで「婚活」へのヒント(メモ)を書いた。再掲すると以下の如し。



(1)目を見つめて! アイコンタクトは、愛コンタクトに通じる。

(2)目から言葉へ、言葉から行動の第一歩へ。

(3)共同理解は共同行動より。(視覚より入って、聴覚、味覚そして嗅覚、触覚で仕上げる)

(4)プロポーズは、古来は男性より(『古事記』より)、しかしバレンタイン・デーもあるよ。


(5)空疎な興奮でもなく平板な執務でもなくて生活は、計画ある営みである。(戸坂 潤)

(6)一人口は食べれなくとも二人口は食べられる。

(7)やはり「子はかすがい」か。

(8)縁は異なもの味なもの、噛めば噛むほど味が出る。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

で(4)に「プロポーズは、古来は男性より(『古事記』より)、しかしバレンタイン・デーもあるよ。」と書いたのだが、その『古事記』のその部分について以下に(現代語通釈を)引用する。これは、当日引用した本と違うテキストで当日より多い引用であるが、こちらの本が分かりやすく、全体を理解するうえでは必要と考えた。(『古事記』角川ソフィア文庫ー武田友宏著ーより)

「・・・イザナキ・イザナミはこのオノコロ島に降りて、結婚のための聖なる太柱と広い寝殿を建てた。そしてイザナキがイザナミに、「あなたの体はどんなふうにできていますか」と尋ねた。イザナミは「私の体は完成しましたが、塞がらない裂け目が一か所あります」と答えた。するとイザナキが「私の体も完成したが、よけいな突起が一か所ある。だから、私の体の突起したものを、あなたの体の裂け目に差し入れて塞ぎ、国生みをしようと思う。国を作りたいがどうだろうか」と誘うと、イザナミは「それはいいですわね」と賛成した。」

ここに日本最古の神話に男女神が最初に結婚する場面が「あっけらかん」と書かれている。著者は「これは古代の性教育に使われたかも・・・」と(注)に書いている。ここで、結婚の提案は、イザナキがしていることにも注意。

「そこでイザナキは「それじゃ、二人でこの聖なる柱を回り、出会ってから交わりをしよう」と言った。そう約束してから、イザナキは「あなたは右から回りなさい。私は左から回ろう」と言って、互いに柱を回った。
 出会ったとき、女神のイザナミが先に「まあ、すてきな男ねえ」と言い、そのあとで男神のイザナキが「ああ、いい女だなあ」と言い、ほめ言葉を唱え終ったのちに、イザナキはイザナミに向かって「女が男より先に唱えたのはよくない」とこぼした。
 そう言いながらも、聖なる寝殿において交わりをした。最初に生れた子は水蛭子(ひるこ)という子で育たないので、葦の舟に乗せて流し捨てた。次に淡島を生んだが、これも思うようでない小島だったので、子の数には入れなかった。」

ここに交わりに至る儀式が書かれている。まず、聖なる柱の周りを女は右から、男は左から回り、出会ったところで、互いにほめ言葉をかける。それをここではイザナミがイザナキに最初にかけたので寝殿での交わりの結果が思うようにならなかったことが記されている。また、島まで生むことが示唆されている。

「そこで二神は相談して、「今私たちが生んだ子は、よくない。やはり天神のもとに行って、事実を報告しよう」と決心、ただちに高天の原(たかまのはら)に参上して、天神の指示を仰いだ。そして、天神の命令で鹿の肩骨を焼いて裂け目の形で占いをした結果、天神は、「女が先に唱えたのがよくなかった。もう一度オノゴロ島に戻って、改めて唱え直すのがよかろう」と申し渡した。
 そこで二神は島に戻って、ふたたび聖なる太柱を前回のように回った。こんどは男神のイザナキから先に「ああ、いい女だなあ」と言い、その後で女神のイザナミが、「まあ、すてきな男ねえ」と言った。このように唱え終って結婚し、生れた最初の子はアワジノホノサワケ島(淡路島)であった。」

今度は、男神から先にほめ言葉を唱えたのでうまくいったのである。
以下、中略、次々と島を生んだ。淡路島のあと、四国、隠岐、筑紫(九州)、壱岐、対馬、佐渡島そして最後に大倭豊秋津島(おおやまととよあきづしま、本州)を生んだ。全部で八島なので「日本列島を大八島国というのである」というのが、この国生みの部分のまとめである。

こういう次第なので、日本では、古来から、男性から女性に声をかける(プロポーズする)ことになってきたのである。さて、バレンタインデーは、今後、こういう話にどううまく組み込んでいけばよいだろうか。久しぶりにじっくり『古事記』の最初の部分を読んでみたのであった。

日本人はなぜ戦争へと向かったのか②陸軍暴走の真相より

2011-01-16 | 歴史とのつながり、歴史の面白さ
NHKスペシャル「日本人はなぜ戦争へと向かったのか②陸軍暴走の真相」を見た。「組織の肥大化・派閥と内紛」が満洲事変から日中戦争そしてアメリカとの太平洋戦争へと繋がっていった歴史を描いていた。

これらを見て、組織人としての「考えるべき」身の処し方、物の考え方を少し考えてみた。

1)個人として利己的にのみ(例えば立身出世のみ)考え、身を処しないこと。→
2)現在の所属する組織防衛、組織拡大のみを考えないこと。→
3)一段高い、広い立場で考える。→
4)一段高い、広い立場の人と議論・交渉する場合は、更に一段高い、広い立場で考えるよう努力する。→・・・・

i)(最終的には)世界(史)的視野で考えるよう努力する。→・・・・

☆)(最終的には)世界(史)的視野から自分の立場、行動の方向を定めるように努力する。

これである。こういう考え方は、西山夘三先生(京大教授歴任、故人、今年生誕百周年である)に教わったと思う。
ある時、ある先生が京大教授になられたお祝の会の席上で、次のように言われた。

「助手の時は助教授になったつもりで、助教授の時は教授になったつもりで、教授になったら学部長になったつもりで、学部長になったら学長になったつもりで、一段高く広い視野でもの考えることが必要だ。」と。

西山先生は、絶えず高く、広い立場で発言しておられたと思う。政治的力関係で教授から学部長にはなられなかったが、助教授の時には「西山夘三助・教授」と呼ばれて建築学会の副会長をし、同時に学術会議会員に選ばれていた。
先生の考え方はあらゆる組織的立場に適用できると思うのである。

ま、こういった「・・・たら」はありえないだろうが、
・陸軍の関東軍が、関東軍の都合だけで考えるのではなく陸軍全体のこと考えたら・・・
・陸軍が、国全体の安全・平和を考えたら・・・
・国が、アジアや世界の平和を本当に考えたら(戦争は起こらなかった)・・・ということである。

現在の自衛隊などに適用すると、
・「危機」を口実に「拡大・膨張」を図らないこと・・・
・国・国民全体を考えて防衛費を減らす場合もありうること・・・
・国も狭い国益だけを考えずに外交・交渉にあたること・・・
・アジア・世界の平和を第一に考えること・・・

例えば、アメリカと交渉する場合には、
・アメリカの国益に擦り寄らない、真の日本の国益も考える、さらにそれにとどまらず、アジアや世界の情勢を広く、歴史的教訓も踏まえて考え抜き「遠交・近交」も駆使する、一歩でも世界平和に近づく・・・

こういうことを考え抜き、実行できる政治家が大政治家だろう。
昨日の歴史番組を見た私への教訓である。

誰が龍馬を殺したかー東北からの一視点ー

2011-01-06 | 歴史とのつながり、歴史の面白さ
最近来た雑誌『学士會会報』886号(2011年-Ⅰ号)に色々興味深い記事があった。炬燵でつらつら読んだのだのだが、ここでは、歴史作家・星 亮一さん(東北大・文、昭和34年卒)の「龍馬の流儀」を取り上げたい。

その中で「誰が龍馬を殺したか」という興味深い問があり、会津藩士で京都見廻組組頭の佐々木只三郎が実行犯という通説に真っ向から反対している。星さんは言います「殺す理由が希薄です。現場検証もなく、見廻組組員の証言のみ。現在の法律からすれば、証拠不十分で迷宮入りしたはずです。」と。

星さんが訪れた高知県立坂本龍馬記念館館長の森 健志郎さんは「戦争回避派の龍馬が生き残ると、倒幕派に不都合」「龍馬暗殺の黒幕は、倒幕派の首領、薩摩ではないか」と仄めかされたようだ。星さんも意気投合されたようだ。興味深い説と言えよう。

星さんは、「・・・東北は歴史上、ことごとく負ける運命にあります。奥州藤原氏が栄えた平泉は、頼朝に徹底的にいじめられました。戊辰戦争においても、秋田を除く東北全体が賊軍扱いを受けました。」と言っている。

昨年亡くなった山形出身の井上ひさしさんは、「いつも中央の都合で兵隊や労働者や女工に取られ、いつも押さえつけられるのが東北」という位置づけに反発し、日本国から独立する東北弁の『吉里吉里人』を描いたと述懐しています。

歴史は、絶えず見直され、各地域も正当な位置付けに落ち着くことが大切、と思わざるをえません。