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西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

私の考え出した言葉(15)住民エコ、コネ得

2005-07-21 | 私の考え出した言葉
住民エゴ、ゴネ得ではない。ゴではなく、コと「澄んでいる」ところがみそだ。
これらは、1990年2月頃に言ったものだ。その部分を引用する。
「・・住民の地域づくり、町づくりに対して時には「住民エゴ」、場合によっては「ゴネ得」などと非難されることがある。これに対して私は駄洒落で応えることにしている。住民参加の町づくりは、「住民エゴ」とか「ゴネ得」などと言った「濁った」ものではなく「住民エコ」であり「コネ得」と言った「澄んだ」ものなのである、と。その心は、住民が、広く多彩な住民達と協力することは、「住民エコ(ロジイ)」であり、住民自身、結びつくことによる「コネ(クション)得」を得る、ということである。・・」

私の考え出した言葉(14)Foot-pia(フットピア)

2005-07-20 | 私の考え出した言葉
簡単に言うと「歩行者天国」みたいに考えても良いが、もう少し町全体が「歩いて暮らせる町」になっている状態、またはそういう理想のことを言う。「ユートピア」の最後を取って何にでも付けているが、その一種でもある。これは、金沢大学教育学部に友人の地井昭夫君がいた頃だ。また金沢大学附属高校の同期生の吉田國男君(ヨシダ印刷社長)が金沢の青年会議所の役員をしていた頃だ。吉田君に招かれて、まちづくりの話をしに行った時だ。当時(今もやっているかもしれないが)、金沢では冬になると全国(といっても殆ど東京)から有名人を招いて色々な店で美味しい金沢の料理を食べながら文化談義をする企画を「Food-pia(フードピア)」として毎年開いていた。地井君も地元知識人(漁村の研究者で魚、魚料理に詳しい)として出ていて、その話を聞いたことがある。それで、私は地井君に、金沢は自動車が多くなりすぎて困ったもんだ、私の祖母も交通事故で亡くなった。金沢は加賀藩の時代は、戦略的意味もあるが道は細く曲がりくねっていた、それは現在「後発の有利性」ではないか、金沢こそ今や「Foot-Pia」になるべきだ等と「フードピア」に引っ掛けて言ったのだ。それを次の日、青年会議所の会合で披露した。後で一人だけ「そうですよね」と言ってくれた。今、金沢の「安全に歩き回れる計画」はどうなっているのだろうか。

キャッチフレーズ―平京同武(へいきょうどうむ)

2005-07-20 | 私の考え出した言葉
ぱっと見ても何のことか分らないだろう。私もふっと思いついたものだ。関西では、大手私学を呼ぶのに「関関同立」(かんかんどうりつ)とか「産近甲龍」(さんきんこうりゅう)とか言っている。まあ大体分るであろう。そこで関西私学女子大編を個人的に勝手に作ってみた。
平京同武(へいきょうどうむ)である。平というのは、我が平安女学院大学である。(へいきょうドームを満杯にしたいものだ!)後は推して知るべし。ただ女子大は六つ、つまり六大学のほうがおさまりが良いとの説もある。

私の考え出した言葉(13)柱間(はしらま)の付き合い

2005-07-20 | 私の考え出した言葉
これは1993年3月の卒業式・謝恩会で使った言葉だ。当時、私は奈良女子大で建築一般構造も教えていた。そこで、短い垂直材を「束(つか)」ということを説明した。床を支えるのが「床束(ゆかづか)」小屋を支えるのが「小屋束(こやづか)」である。その言葉が一般に転用されて、「束の間の恋」「束の間の付き合い」等「束の間」は短い時間という意味に使われている。もともと「束」は、手の指4本分(横断)の長さで確かに短い。ところで、長い垂直材は何と言うか。それは「柱(はしら)」である。だから、私は「皆さんとの4年間ほどの束の間の付き合いは、ここで終りますが、今後は社会人として末永く「柱間(はしらま)の付き合い」をしたいと思っています」と言ったのである。

私の考え出した言葉(12)HEIG(ヒーグ)

2005-07-19 | 私の考え出した言葉
英語(?)編続きである。これは『朝日新聞』論壇に投稿し採用されたものの中で提案したもので、1988年11月2日号で「大阪本社版」では見出しは「公務員に家政学職を」となっている。生活の質の問題が、ようやく重要と思われだした時代で、既に民間の会社ではHEIB(ヒーブ、Home Economist in Business)がアメリカから「輸入」され置かれはじめていた。消費者運動などがラルフ・ネーダー氏などの動きでアメリカで大きくなり日本でも盛んになり始めていたので、会社で事前に商品の質を消費者寄りにチェック出来ないかか、ということから出てきた専門職で、家政学出身者が多いようだった。では、民間会社だけでなく、政府、自治体でも同じことではないかと考え、HEIG(ヒーグ、Home Economist in Government)の導入を提案したのだった。人事院に提案を送ったが「なしのつぶて」、後に日本家政学会からも正式に申し入れたが、未だ出来ていない。皆さん、どう思われますか。

私の考え出した言葉(11)The Spring in The Fall

2005-07-19 | 私の考え出した言葉
これは1990年3月の卒業式後の謝恩会で言った言葉である。前の年の秋にベルリンの壁が崩壊した。それを踏まえている。その時のメモは次の通り。
「昨年秋の東ヨーロッパの事態を、私は「The Spring in The Fall」つまり「秋に起こった春」、別の意味にとれば「崩壊の中における跳躍」と言ったことがあります。これは掛け言葉です。ところが皆さんの御卒業は文字通り「The Spring in The Spring」つまり「春における跳躍」であります。年は正に「午年」、大いに跳躍されんことを期待して、私の話をおわります。」これは比較的引き締まった挨拶だった。この言葉は、多分その年の年賀状にも書いたと記憶する。

私の考え出した言葉(10)観光は五感行(考)

2005-07-17 | 私の考え出した言葉
「かんこうは、ごかんこう」との音の面白みと五感を全て楽しませる、そして考えさせる、ということだ。実は、これは只今本日のとれとれの「思いつき」である。というのは、高槻は、35万人あまりの中核都市で歴史的には城下町で有名な高山右近も一時ここにいた。でも、現在、観光宣伝が下手と思う。平安女学院大学の人間社会学部では「観光学」も講じているので、高槻市と協力して「売り出したらどうか」と思う。先日も、生活環境学部では、寒天コンテストを商工会議所等と協力してやっていた。高槻は寒天の本場のようだ。健康食品である。でも全国的に知られていない。今までは、観光というと、国の光を観る、と言うことで視覚が中心、更にグルメで味覚や嗅覚、参加型で触覚へと進展しているが、高槻で五感全体を楽しませ、衰えを直すとしたら、正にRe-creationではなかろうか。具体的に取り組んでいきたい。

私の考え出した言葉(9)近緑の窓、中緑の窓、遠緑の窓

2005-07-17 | 私の考え出した言葉
私の書斎は、2階の北側にあって、北、西、東側に三つ窓がある。実は、先輩の三宅醇さんのお宅を訪問した時、三宅さんの書斎は、普通の床の部分と一寸上がった畳の部分があった。藤井厚二さんの「聴竹居」にもそういう部分があったので印象に残った。三宅さんの話では、洋間部分で一つ、畳間で机を置いて両方から使うと、合計三つの仕事が一時(いっとき)に出来るとのことだった。感心した私は、自分の書斎を作るとき「応用」して、自分流に三つの窓の前に三つの机をつくった。窓からの風景が、当然、皆違う。住みだして「ハッと」気付いた。北の窓からは、前に言ったように近くの竹薮が見えている。西側の窓からはニュータウンのフリンジ・グリーン(縁緑)が見えている。東側の窓からは、と言うと遠い三重県方面の山並みが見えている。そこで、窓から緑が見えるべし、と前から言っていたことも踏まえて、北の窓を「近緑(きんりょく)の窓」西の窓を「中緑(ちゅうりょく)の窓」東の窓を「遠緑(えんりょく)の窓」と名づけた。この家は阪神・淡路大震災の一寸前に出来たが、後の恐らく震災後の西山記念文庫の「オープン」の時にやってきた角橋徹也さんが私の説明に「へー」と言っていたのを思い出す。

私の考えだした言葉(8)慣熟居住

2005-07-16 | 私の考え出した言葉
これは論文「居住地管理に関する一考察」(『都市問題研究』1978年6月号)で言ったものだ。「「瑕疵補償」と並行して「慣熟居住補償」ということを考えてはどうだろうか。空港が出来上がると、営業飛行に入る前にパイロットは慣熟飛行をすることになっている。例の「成田」でもそれが行なわれ想定条件とずいぶん違っていたことが発見されたと言われている。居住地計画でもベストをつくして計画がなされ、建設供給されても、居住者が住みはじめて、いわば「慣熟居住」をする間にいろいろ手直しをした方がよいところが見つかるものである。明らかに計画・建設のミスは「瑕疵補償」によって救済されるであろうが、かならずしも計画・建設のミスとはいえないが少し手直しした方がずっと住みよいこともあるといってよい。これを「慣熟居住補償」といったことで救済できないであろうか。」(同上書)
慣熟居住期間だが、まあ春夏秋冬、1年間ではなかろうか。

私の考え出した言葉(7)小宇宙としての住居

2005-07-15 | 私の考え出した言葉
これは、水俣病患者の住宅調査をしたまとめの頃からの言葉である。(『公害都市の再生・水俣』宮本憲一編、筑摩書房、1977年12月)特に、その後、水俣病患者の佐々木つた子さんの家を山川元司さんと設計した頃から強く意識した。佐々木さんは言わば「寝たきり」で、住宅というより自分の部屋が小宇宙ともいえた。そこから不知火海が見たい、小さい頃遊んでお父さんも働いていた赤碕港の方を見たい、道を行く昔からの友達や近所の人と言葉を交わしたい、という要望を窓とバルコニーで解決した。その後、住居は、ハイハイし、立っちしたての幼児までは「小宇宙」だし、一方、高齢者の「居たきり」にもそうだと考えるようになった。内部だけでなく、特に外との関係を良く考えないといけないのである。特に幼児の場合、物言わないので良く観察し、良く考えて計画する必要があるだろう。

私の考え出した言葉(6)半顧半望(はんこはんぼう)(再掲)

2005-07-14 | 私の考え出した言葉
7月5日のブログを見て欲しい。時間の面で言って私の創った造語に「半顧半望(はんこ・はんぼう)」というのがある。半分は過去を反芻して顧み、半分は将来を展望するという態度である。空間のことを考える時に、時間的に伸縮する歴史ー地球史、生物史、人類史、古代、中世、近世、近代、現代、家族史、世代史、自分史等ーを良く組み込むことが要諦、と最近考えている。言わば「半空半時」である。
この半顧半望(はんこはんぼう)はYahooの検索で1件あり、私が西山記念文庫で発言したのが、引っかかったのだ。

私の考え出した言葉(5)commuvacyとprivunity(再掲)

2005-07-14 | 私の考え出した言葉
7月5日のブログで既に述べた。私は「CommunityにPrivacyを引き込むのがCommuvacy、逆にPrivacyにCommunityを引き込むのがPrivunity」と言ってみている。
英語のCommunityとPrivacyを各々半分に割って、各々別の「頭」と「尾」をくっつけた「造語英語」である。これらはCommunityとPrivacyの半々を各々の面からみたものである。共同の空間への個人の「臭い付け」、個人空間への共同の気配の導入等が具体的イメージ例である。

私の考え出した言葉(4)兼六タウン構想(再掲)

2005-07-14 | 私の考え出した言葉
7月6日のブログを参照してほしい。既にこのことを簡略に述べている。(1)町内が20戸位のコミュニティ、(2)何処に行くにも選択できる二つの道(例:表通り、裏通り)、(3)道は曲がりくねって狭いが大人の歩行や子供の遊びに安全、(4)何処にいくにも歩行、自転車そして電車で用がたりる、(5)近くに泳いだり魚とりの出来る清流がある、(6)遠くに緑の山並みが眺められる。以上の六つは金沢での町づくりだけでなく他でも適用してみても良いと思う。

私が考え出した言葉(3)ひょうたんからいこま!

2005-07-14 | 私の考え出した言葉
これは「瓢箪から駒」のもじりである。「瓢箪から生駒」と書くと分りやすいかもしれない。これは、2,3年前に生駒市の駅前商店街活性化事業に県下の五大学が参加した時、奈良女子大学の院生や学生が担当した「ミニコミ誌」のタイトルである。院生達にタイトルのアイデアを聞かれて私がひねりだしたものだ。その第一号の「い」号(2003年9月15日発行)に、そのいわれを書いた。この生駒商店街の活性化事業で思いもかけない新しい生きのいいことが生まれることを期待した名前だ。編集の中心の院生のⅠさんや協力イラストレーターのKさんのアイデアで生きのいい「いこまる」号という駒のキャラクターも誕生した。この事業は、五大学事業が終わった後も、私が奈良女子大学を退職した後も続き、「いこまるがいく!ぶろぐ編」も生まれた。是非そちらも覗いてやって欲しい。そして応援して下さい。
http://blog.goo.ne.jp/ikomaru001/

私の考え出した言葉(2)顕居(けんきょ)

2005-07-14 | 私の考え出した言葉
「居住地人間」であるためには、隠居ではなく「顕居」でなくてはならない、という具合に使う。これは、何時ごろから使い出したであろうか。高齢者は、引きこもるのではなく、社会や地域との接点(接線、接面)を持っていて元気が保てるのではないか。
今度、たまたま4月から縁あって高槻の南平台という「山路」にある花の平安女学院大学に来ている。そこでの感慨俳句。・ 山路来て 花咲きわれは 顕居(けんきょ)かな  市路
(芭蕉の「山路きてなにやらゆかしすみれ草」とえらい違いやなあ・・)