いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

仙台参り 【2015】 雨宮地区;「無用の用」は、220億円にて落札

2015年03月22日 19時35分48秒 | 仙台・竹雀・政宗

極私的記録です。 (愚記事;ものすごい地域限定、トリビアです。すみません)に続く、トリビアです、重ね重ね、すみません。

1年ほど前こういうニュースを見た;


http://www.nikkei.com/article/DGXNASFB31059_R30C14A1L01000/

なくなるのか、雨宮地区と思った。今回は最後のお参りに行った。


雨宮地区; 無用の用 for sale ! (画像はnet上のパクリもの)

別に、おいらは、雨宮地区にゆかりがあるわけではない。約30年前、散歩で数回行った。わずかな回数なのに妙に記憶に残っていることがあった。それは構内に仏像があったことである。ネット時代の今となってはググればすぐわかることである[google: 粟野仏像]。しかし、30年あまり前の情報検索環境は、自分が想起した好奇心をすぐ調べるわけにはいかなかったのだ。

その雨宮地区が売却され商業用モールになるというので、最後の見物に行った。これは、猫のパトロールみたいなもので、昔の散歩(しかも数回)の道をパトロールしたのだ。当時、おいらは、上地図の「宮城県美術館」(今回の仙台参り 2015の第一目的である針生一郎・展の開催場所)から500メートルほど離れた場所に下宿していた。つまりは、おいらの下宿とその雨宮地区は広瀬川を挟んで、対岸にあった。広瀬川を跨ぐ澱み橋を渡り、雨宮地区にも散歩へ行った。その当時、雨宮は、散歩コースとしては結構遠く、おいらの当時の散歩の極大位置だ。なお、仙台に来た当初、この辺の地名である「柏木」とか「堤通雨宮」とかいう街の名前に興奮したものである。

なぜならおいらの本籍のある都市は何条何丁目という野暮な住所で街を示していたからだ。さらには、その札幌もその名前が大和言葉ではない(札幌=アイヌ語で、サッポロ=乾いた広い土地)。同様に、おいらが育った札幌市内の郊外の街の名もアイヌ語に由来した。その音に支那文字を充てたものであり、大和言葉には無縁だった。つまりは、sauvegecivilizationの極端なはざまにいたのだ。そして、大和=日本主流派には縁遠かったのだ。

これはネタでも冗談でもなく、おいらは、「柏木」とか「堤通雨宮」とかみて、あ~内地に来たんだ!と思った。なお、その頃は(仙台での)バブル前夜であり、仙台では「インテリジェントコスモス構想」[google]なる野暮なプロジェクトが始まったらしい頃だ。一方、街かどの選挙ポスターには、「風情のある仙台を守ろう!」の旨を主張するものがあった。それは、日本共産党のポスターであった。風情派ではあるが、根っからの反アカ主義者であるおいらは今でも印象に残っている。

約30年前においらが見たのは、これだ。 来年にはショッピング・モールのために、立ち退き。

・説明賢記事;すぐ傍らが交通量の多い北六番町の通りにも関わらず、ヒマラヤシーダと黒松の混在する一角のそこだけは静寂な空間を形成しているのである。

この並木@「無用の用」も、商業施設のために...


農学部正門を入り直ぐ右手に木造の門衛所がある。この建物は旧制第二高等学校が、開校(明治20年)の地片平丁から移転してきた大正14年当時のままである。また、キャンパスの赤レンガの塀も当時のものである。  旧制二高は昭和20年7月の空襲で校舎の大半を焼失し、9月に三神峯の幼年学校に引っ越している。旧制二高北六記念苑

雨宮地区での、おいらが関心のあるのは、1944年夏、サイパン島陥落を受けて、第二高等学校の生徒たちが集会を開いた史実である。どの建物で、誰が出席したのか、史料は失われるばかりである。そして、史料が失われることを望む人々がいるのだ。すなはち、サイパン島陥落を受けて、第二高等学校の生徒の集会に出席したが、その後、大日本帝国の瓦解を経て、アメリカ文明に支配された日本戦後体制に迎合し、栄誉出立した旧第二高等学校生徒たちである。

永井陽之助とわたしは、戦争中の旧制二高文化乙類の同級生で、しかも二人だけ結核のため留年し、学徒出陣も工場動員もまぬがたがれた。サイパン島玉砕のと き、全校決起集会があると聞いて、療養中のわたしが出かけると永井もきており、二人あいついで発言する破目になった。もっとも、当時永井はハウスホー ファーなど の地政学に共鳴し、わたしは日本浪漫派に傾倒していたから、どちらも右翼的にしろ発言内容は対照的だった。あれから四十年余すぎて、二人の立場は大きくか け離れたともみえるが、どちらも本質は変わらず、あの夜の発言の差異を拡大してきただけかもしれない。わたし自身をふりかえると、「近代の超克」という課 題が、みはてぬ夢のように一貫しているのに気づく。愚記事

▼まとめ; そういえば、雨宮って、アメリカに訓が似ているではないか!!!???

永井陽之助; キャッチフレーズ= 吉田ドクトリンは永遠なり! [関連愚記事群]

(関連愚記事;閻魔帳より


仙台参り 【2015】 野蒜海岸

2015年03月18日 19時39分05秒 | 仙台・竹雀・政宗


四半世紀前と変わらない風景の野蒜海岸


「岡に上がった松島」
==日本三景の松島というのはこういうのが海に沈んで頭を出している状態なのだ。

この前の週末に仙台に行ったとき、野蒜海岸にいった。

おいらが、四半世紀前、ある事情で、ひと夏、毎日のように通った場所だ。

野蒜海岸は東松島市にある。仙台と石巻の間にある。日本三景の松島も仙台と石巻の間にあるが、この野蒜海岸は石巻側にある。奥松島とよばれる。松島の人ごみを避けたい通ぶった本当の俗物のおいらにふさわしい場所だ。


がれきの処分場となったらしい野蒜海岸は、がれきの山をきれいに整形していた。

誰もおらんかった。


JR(旧)野蒜駅; 仙石線は復旧開業するが、野蒜駅の場所は山沿いに引っ込むそうだ。

【産経新聞】運命の2時46分発 駅で交差した「生と死」 JR仙石線野蒜駅

愚ブログに現れたる2004年の野蒜海岸付近
愚ブログに現れたる2006年の野蒜海岸
愚ブログに現れたる2006年の野蒜海岸付近
愚ブログに現れたる2011年夏の野蒜海岸
愚ブログに現れたる2011年夏の野蒜海岸付近

 


仙台参り 【2015】 宮城県立美術館 『わが愛憎の画家たち; 針生一郎と戦後美術 』

2015年03月15日 12時03分39秒 | 仙台・竹雀・政宗

週末は仙台に行った。宮城県立美術館で催されている『わが愛憎の画家たち; 針生一郎と戦後美術 』を見物に行くためだ。宮城県立美術館に行くのは6年ぶりである。その時は『州之内コレクション展』だった(愚記事;2009/6/7)。両展示企画に共通なことは、州之内徹も針生一郎も作家さんではないことである。針生一郎は展覧会主催者によればこうである;

仙台市出身の針生一郎(1925-2010)は、文芸評論から出発しましたが、1950年代に刊行された雑誌『美術批評』に芸術論や展覧会評を寄稿して注 目され、中原佑介、東野芳明とともに“美術評論の御三家” と呼ばれる存在となりました。戦後、美術が自律した芸術表現として純粋性の追求に向かう潮流の中で、針生は一貫して「社会と人間」という視点をもって、作 家たちの表現行為と作品を批評してきました。そして、行動する評論家として、晩年までさまざまな文化運動にも関わり続けました。
現実を見据え、そ こに前衛としての芸術家の在り方と創作の意義を問い続けた針生の思想と活動は、敗戦から今日に至る日本の美術史に、ひとつの地下水脈を形成してきたといえ ましょう。この展覧会では、主に1950~70年代に針生が関わった芸術運動や展覧会に焦点をあて、著書『わが愛憎の画家たち』などで論評した作家と作品 を紹介し、ひとりの評論家の視線を通して戦後美術史を再読します。 (宮城県立美術館 web site

なぜ、おいらが行ったかというと、針生一郎について興味があったからだ。今の時点でも、おいらは、針生一郎についてよく知らないのだが、現時点での認識に到った経緯は次のようなものである。

おいらが「針生一郎」を知ったのは、1980年代中頃、自民党・中曽根政権が300議席取った頃だ(関連愚記事;私もあなたもニューライトよ)。その時、彼の文章とその内容だけが記憶に残り、「針生一郎」という名前やどういう人かということに頭が回らなかった。興味、関心がなかったのだろう。たとえ話でいうと、好みの絵画作品を知ったとき、その絵のイメージだけが強烈に脳内に焼き付けられたが、その作家さんの名前を知らずにいたようなものだ。その「針生一郎」の文章というのは、今から見れば、1985年の『二十世紀の遺産』(永井陽之助 編)という30人あまりの永井と交友のある"著名"学者(ほとんどが保守系・穏健の有名だが普通の=全然危険でない学者)の寄与小論文から構成された624ページに及ぶやや厚い本である。その中で高等学校時代(旧制)の思い出を書いたのが「針生一郎」で、1944年夏、サイパン島陥落を受けて、第二高等学校の生徒が集会を開く話を書いていた;

永井陽之助とわたしは、戦争中の旧制二高文化乙類の同級生で、しかも二人だけ結核のため留年し、学徒出陣も工場動員もまぬがれた。サイパン島玉砕のとき、全校決起集会があると聞いて、療養中のわたしが出かけると永井もきており、二人あいついで発言する破目になった。もっとも、当時永井はハウスホーファーなど の地政学に共鳴し、わたしは日本浪漫派に傾倒していたから、どちらも右翼的にしろ発言内容は対照的だった。あれから四十年余すぎて、二人の立場は大きくか け離れたともみえるが、どちらも本質は変わらず、あの夜の発言の差異を拡大してきただけかもしれない。わたし自身をふりかえると、「近代の超克」という課 題が、みはてぬ夢のように一貫しているのに気づく。

 敗戦直前の日本えすだぶりっしゅめんと・「エリート」養成現場の生々しい実状をこのように書いた文章を見たこともなかったので強烈に記憶に残った (この話では愚ブログで何度もしていて、繰り返しで恐縮ではある; 愚記事 )。

当時でも今でも戦時下の帝大生や(旧制)高校生は戦争に巻き込まれ、不本意にも戦争に駆り出された本当はinnocentな犠牲者のごとき認識が定着しつづけている。そんなのは嘘っぱちで、戦争が対岸の火事こ頃は観念的に政府の流布するお題目を礼賛し銃後でのんびり暮らし自分の栄達を夢想し、戦況の悪化で、本当に鉄砲を担いで、戦場に行かねばならぬときは、唯々諾々と従ったのだ。つまりは、お調子者であり木偶の坊であったということだ。その点、この「針生一郎」の作品はすごい!。ちゃんと、ウヨ人生を表現している。

そうなら、なぜ当時のおいらは、自分のウヨ性のモデルになりうる「針生一郎」を探さなかったのか?という疑問が今の若い人からはおきるかもしれない。言い訳すると、当時はネットというものもなく、書物としても「針生一郎」を探すには、本屋にある「全書誌録」(みたいな名称)というもので、その人の著作を知り、内容を全く分からない状態で本を注文する、という作業方法しかなかったのである。昭和末期の事情である。さらには、自分のウヨ性のモデルは、既に、江藤淳や西部邁がおり、good enough!だったのだ。(後日加筆;[20世紀末の]江藤淳や西部邁って右翼ではないわな。修正追記すると、その頃おいらは大川周明、葦津珍彦も読んでいた。でも葦津珍彦が神格化する"西郷隆盛"は嫌いだし、今も理解できない。つまりは、おいらは近代ウヨ=俗流ウヨなのだ。ネトウヨにふさわしいではないか!)

敗戦時の針生一郎の「国粋」=「日帝への絶対忠誠」ぶりはすごい。もっとも、その根拠はすべて本人の供述に基づくもである。その回顧が作品としてすごい。針生一郎の本人の述懐によれば、敗戦の玉音放送を聞いたあとも敗戦を受容できす、恩師の陸軍にいた元教え子が飛行機を無断で操縦して、仙台に来た。ポツダム宣言受諾をひっくりかえそうという謀議を3日間したのだという。

さらにすごいエピソードがある。敗戦に先立つ7月の仙台空襲で第二高等学校の奉安殿が焼失した。B-29にやられたのだ。その時、針生一郎は奉安殿焼失の責任を追及して校長である阿刀田令造(阿刀田高の伯父)の「官舎に行って、御真影を焼いたのはあなたの責任だから、僕らが見ているから目の前で切腹しなさいって言」ったという(ソース;針生一郎オーラル・ヒストリー)のだ。

針生一郎は1925年生まれ。敗戦時、はたちである。はたちと言えば戦争で一番「活躍」する年代であり、事実、あの戦争では1925年生まれがたくさん死んだのであろう。針生一郎は結核で戦争に行かず、死ななかった。保田與重朗に耽溺した観念右翼であったのにである。つまりは、"死に損ない"である。その点、三島由紀夫と似ている。

そして、そういう「右翼」的言動の原因を下記のように晩年は回顧している;

戦争中何故右翼になったかというと。僕は結核で休学してしまった。学徒出陣の世代なんだけども、徴兵検査で僕だけ徴兵管区で丙種になった。第一乙、第二乙 くらいまでは、徴兵召集令状が来ることがあるんだけども、丙種というのはほとんど兵役をまぬがれちゃうんだ。それが戦争中は非常に負い目で、コンプレック スだった。だから療養中雑読して、その中で、ときのオピニオンリーダーだった保田與重郎に一番傾倒した。だから非常に神道的な純粋右翼だった。

(時は流れ、昭和も終わり、21世紀となった)

再見! 針生一郎

そして、元来純粋な「針生一郎」に、おいらが「再会」したのが、既に昭和も終わり、かつ、遠くなりつつあった、21世紀に入ってのことである。21世紀の「ゼロ年代」(笑い)においらは文革(中国 文化大革命)に興味を持って、少し調べ始めた。そのなかで、文革を礼賛した日本人文化人を紹介した文章で、針生一郎に再会したのである。すなわち、文革時に支那に行き、その支那文革に感動した文化人のひとりに針生一郎がいると。なお、その時点で上記1944年夏のサイパン島陥落第二高等学校決起集会の思い出の作文者は針生一郎であると認識していた。

その文革を礼賛した日本人文化人を紹介した文章を読んだ時点で、「あ~やっちまったな、針生一郎」と直感した。確認のためおいらは、『針生一郎芸術論集 文化革命の方へ』(朝日新聞社 刊、1973年)を中古市場で買って読んだ。針生一郎は、「われわれにとって文化大革命とは何か」という文章を書いていた。これは、中国の文化大革命を見にいった見聞録である。同行は宇井純、鶴見良行、むのたけじ等。「われわれにとって文化大革命とは何か」の文章は中国共産党が書いた文章をもらったのではないかというくらいの全く批評性のない文章。例えば;

それにしても、わたしは中国革命の原点である延安を訪れて、抗日戦争のさなかに、この奥地でなしとげられた事業にほとんど圧倒された。一見退却ともみえる二年余の大長征を経て、八路軍がここにたどりついたのち、党と軍の根本的な再建をはじめ、開墾、農・工生産、解放区の自治、大衆工作、学習など、すべてが統一的におこなわれたのである。ハン・スーインの『毛沢東』によれば、中国革命は五・四運動以来、文化革命の性格をもっていたというが、延安時代には、今日にいたるすべての問題の原型がすでにふくまれていたのである。「文芸講話」の「文芸」が、文学や芸術だけでなく、歌舞、演劇、祭りなどをふくめた大衆工作の意味であることも、今度わたしははじめて知った。(針生一郎、『針生一郎芸術論集 文化革命の方へ』、「われわれにとって文化大革命とは何か」)

この無邪気、無批判に驚くことに加え、おいらが二重にびっくりしたのは、中国共産党に「新左翼」御一行さまと認定された針生らが「文化大革命」を見に行ったのが、1973年なのである。文革開始後既に7年。その出鱈目さや悲惨さが知られつつあった。何より、ニクソン訪中、角栄訪中の後、しかも日中国交回復の後だ。文化大革命は1966年に始まり、1968年にはひとだんらくしていた。文化大革命は毛沢東の死まで10年という長期にわたりなされた。でも、この1973年は四人組の跋扈に一般庶民は嫌気がさし、なにより政府機能がマヒし、国家存続が危うかったので、毛自身が「米帝」や「日帝」と手を組むことを決めた後の時代である。林彪事件は1971年である。こういう状況で、のこのこと「文化大革命」にしびれた"純粋な"針生は中国に行き、見聞録を書いたのだ。

そして、おいらは、針生が日帝や支那文革にしびれたのを、現時点の視点からみて、「スカばっかりひいていた針生一郎」と揶揄したいわけではない。むしろ逆で、 日帝や支那文革に無邪気に、正にその時代に実経験として、純粋に、心からしびれて、楽しそうだな、とうらやんでいるのである。

楽しそうな針生一郎の脳内イメージってこういうもの(愚記事より)だろう[画像α]↓ なぜなら、今回の展示主催者だってちゃんと「日の丸」で針生一郎を指標していることからも明らかである(画像β)。

   
 画像α                                      画像β

■ そして、展示そのもの; 展示会のお品書きが「アヴァンギャルドを見つめつづけた反骨の評論家の足跡」のアヴァンギャルドという視点からみれば、リアリズムを超えて真実を穿つアートを見続けたというこことか。そして、展示作品の作者の多くが20世紀初頭のシュールレアリズム、キュービズム、ロシア・アヴァンギャルドの影響を受けて戦前の時期に活動を始めたが、兵隊にとられ(出征し)、戦場の現場を知った作家(アーティスト)の戦中、戦後の作品が目立つ。


阿部合成、「見送る人々」
  
 山下菊二、「あけぼの村物語」;     「日本の敵米国の崩壊」 1943年制作!

山下菊二、 この絵が「日本の敵米国の崩壊」という直截なタイトルを持ち、それが1943年の制作と、おいらは知らなかった。大浦信行の針生紹介映像『日本心中』第2作目のDVDの表紙として、おいらが知ったのは、去年である。

●展示会場には4時間いた。 理由は展示会場で「図録は完売」との情報を知ったからだ。展示会場で大きな椅子があり、見本の図録がおいてあるでしょう。あれの表紙に、完売、と書いてあったのだ。展示会終了前に! なので、後で図録を見ればいいやということができなくなり、図録を読み、作品を再度確認していたら、4時間たった。もっとも、出口付近で流しっぱなしの針生の講演ビデオを見るのにも時間を要した。

● まとめ; 宮城県立美術館で催されている『わが愛憎の画家たち; 針生一郎と戦後美術 』の図録は開催終了前に売り切れていた!

 

 


木町通小学校

2014年12月10日 20時06分36秒 | 仙台・竹雀・政宗


赤い部分は1945年(昭和20年)、B-29による空爆で焼失した地域である。
木町通りは戦災を免れている。

■ 当然、おいらは選挙なぞ行かない。

その信条はかねてから表明している;

・ 選挙に行く奴はバカである。
・ 諸君、やっぱり、この国は最悪だ!

だけど、こんどの選挙は、違うのよね!

選挙の投票権の はがき が来ないのだ。

それは、引っ越したからだ。 選挙人名簿に載るのは時間がかかるのだ。

よがった! ちょっと、わけありの、総選挙!

だからおいら、勝ってる、この総選挙!

と、正々堂々、投票に行かなくてよいおいらの家には、選挙管理委員会の公報は来た。

その最高裁判所裁判官国民審査 審査公報 をチラ見した;

飛び込んできた! 木町通! ぎょっとした; びっくりすた;

木町通;

▼ 木町通りの「鈴木二郎商店」も、木端微塵で、かの地にはないのだ。
■ 木町通り  鈴木二郎商店 (地図の⑦付近) 
-仙台市、木町通り(2005年撮影)。占領時代、シカゴ・アヴェニュウーとよばれた。-
仙台木町通り。バブル前は戦前の風情を残すいい街並だった。

▼行幸小学校

上の図にも示されているが、木町通小学校は2/3戦災に巻き込まれたのだ。

1945年(昭和20年)の仙台大空襲では校舎の3分の2を焼失したものの住民の希望と協力で校舎をいち早く再建、終戦後の1947年(昭和22年)8月6日には、東北巡幸中だった昭和天皇による訪問を受けた。 (wiki

でも、「シカゴ・アヴェニュー」小学校にはならなくてすんだようだ。

 ( ▼ おいらは俗物なので、「偉い人」が好きだ。・ おいらは、出世しそこなった出世主義者である。  ・さて、おいらはポルノ三昧で暇を潰している。

■ さらに、びっくり、ぎょっとしたのは、大学はそのまま田舎大学にいったのだ。 田舎大学でも最高裁判事になれるのだ!とおいらの脳内の猫猫センセ野が反応した。(1980年代中盤、夏目事務次官ってのがいて、

● 上図の「医学部」とは、かの樋口陽一センセがパリではカメラを置き忘れてもそのままあったが、日本では靴をもっていかれた(盗まれた)と愚痴っている回顧における靴を「盗まれた」舞台である。

 


ボーアの不思議な旅; 日帝の小春日和の日々 1937年春

2014年12月03日 19時55分25秒 | 仙台・竹雀・政宗

昨日の愚記事;錬金術師の文化勲章; あるいは、理研のお家芸、関連。

おいらは俗物なので、「偉い人」が好きだ。

 片平(つまり大学や裁判所の西側の通りが、片平が載っている河岸段丘面の西端なのである。その通りを北上するとき、平地は右手にのみ広がるので、片平というのである)に来た「偉い人」@来た当時の有名度は問わず。魯迅(1904年)、アインシュタイン(1922年)、老舎(1965年)...江沢民 (愚記事;さて、江沢民同志! あれは16年前、まだ20世紀。 主席時代に仙台さ、来た。 紅梅さ、植えた)???!!!(江沢民国家主席は、魯迅がよく座っていたとされる席に座り、感慨深げに魯迅を偲んでおられました[1])

[1] これって、仮想的たとえ話でいうと、「日独伊三国同盟の時代にヒトラーが日本に来て、どっかの大学で感慨に耽ったので、その大学の文化的遺産です!」、っていうのとおなじではないだろうか?! 大丈夫か? 田舎の三流大学!

 昨日知ったこと。ニールス・ボーアは日本に来たことがあるのだ。

しかも、1937年(昭和12年)、日帝の小春日和の最末期! 知らなかった。

高校生の頃からニールス・ボーアを知っているおいらは、彼が1937年に日本に来たことがあるとは、昨日まで知らなかった。高校生の頃からニールス・ボーアを知っていた理由は、20世紀末はまだまだ「物理帝国主義」の末期だったからだ。俗物であるおいらは時流に乗ろうとがんばったのだ。もちろん、三流の「物理帝国主義」者であるおいらでも、あのアインシュタインが日本に来たことも知っていた。そして、おいらは、はたち過ぎて、アインシュタインが片平に来たとも知った。でも、ニールス・ボーアの来日(当然、戦前)は知らなかった。

そして、知ったさ。ニールス・ボーアは日本に来て、片平にも来たって。

「手引き」は、仁科芳雄である。仁科芳雄=大日本帝国陸海軍は原子爆弾の開発を実施した。実行者は仁科芳雄や荒勝文策、湯川秀樹らである。彼らは、ウランの同位体分離を全くできず、母国が核攻撃で壊滅するのを木偶の坊のように見送っていた。

つまり、本多光太郎の次世代である。なお、仁科芳雄は本多光太郎とともに、日帝崩壊時、中華民国が要求する「戦利"品"」リスト=引き渡し要求科学者リストに入っている(愚記事;敗戦直後、支那が要求した「引渡し要求科学者リスト」)。

知ったさ。ニールス・ボーアは日本に来て、片平にも来たって。

なぜ知ったかというと、本屋で立ち読みしたのだ;

 
量子力学の巨人、一九三七年の講演旅行

そして、来た年は、1937年。南京「大虐殺」の年である。ただし、来た時期は春だ。と、いうことは、仙台にいた本多光太郎が文化勲章をとったあの春である。当然、ニールス・ボーアは、日本各地をまわる中で、長岡半太郎や本多光太郎に会ったに違いない。この本のAmazon レビューで、「戦前が必ずしも閉鎖的ではなく、場合によっては今以上に国際的であるとわかります。 」とある。こういう認識があまり共有されていないのが「戦後」日本。

そして、絶対値は今の方が高いが、1920-30年代の日帝の科学水準は高い。 GDPで規格化すれば[2]、今より全然高い!

[2] 1920-30年代の日本の経済水準、ひとりあたりの富の量は現在より全然低いが、一部の日本人科学者は世界最高水準の科学を実施していた。現在の日本は「多くの科学者」が世界最高水準の科学を実施してはいるが、日本の経済水準、ひとりあたりの富の量は世界最高水準なので、あたりまえである。現在の研究者が使っている税金は、日帝時代に比べて桁が全然違うほど多量である。もっと「多くの科学者」が世界最高水準の科学を実施して当然である。

日帝には、瓦解の前に、小春日和があったんだよ。

そして、嵐。 嵐の原因は未だ徹底的には明らかならず...。

なお、ボーアがアムステルダム出身のユダヤ人と初めて知る。


今日、いまさら、知ったこと;①ペグマン、②クレモンティーヌ、そして③イザベル アンテナは仏人だった。

2013年05月08日 20時35分16秒 | 仙台・竹雀・政宗

5/5の記事( my sentimental journey; 虫瞰・鳥瞰 仙台2013  ) で、最近仙台の澱橋-広瀬町-木町通り界隈で失われた建物について書いた。そのとき、太白飴本舗の画像などが自分の手元になく、ネット上で他人の画像をパクッてしまった。そして、今日気づいたよ。googleの公知情報を使えばよいのだと。さらに、時間差効果のおかげで、最近失われた建物はその画像がストリートビューに残っている。

拾ったさ、googleのストリートビューから。ありがとう、ペグマン。初めて使ったよ。今更ながら。すごいよ、ペグマン。

子供の頃、大人から、夜空の星を見つめて、「いか@よ!、今輝いているあの星だって、今・現在輝いているかはわからないんだよ。今・現在は、あの星は消滅しているかもしれんだよ。ただ、昔放った光が今こうしてこの地球に届いているだけなんだよ。」と言われた。この大人が何を言っているのかわけがわからなかったが、おいらは、とても震撼した。

元祖、おまえはすでに死んでいる!だ。

そして、今・現在、おいらのパソコンに写っている「太白飴本舗」は、木端微塵で、かの地にはないのだ。

▼ 太白飴本舗

▼ 木町通りの「鈴木二郎商店」も、木端微塵で、かの地にはないのだ。

ありがとう! ペグマン!

● もっとも、誕生前の事情もペグマンは語ってくれるのだ。

 昼飯を食ったのは、仙台・大町 仏華料理屋「Chez harmonie」だ。
(大町&木町通りの少し東へ入ったところ)

最近できたらしい。

今日、ペグマンに連れて行ってもらった。 2011年に;

さて、この 仏華料理屋「シェ・アルモニ」で、流れていた音楽。 ボサノバ。 ただし、フランス語。 その女性ボーカルはイザベル・アンテナを思わせる。 もっとも、フランス語。 四半世紀前、おいらの聞いていたイザベル・アンテナは、英語で唄っていた。

これ、誰? <(いばら)の簪(かんざし)を刺した御方>に尋ねる。

「クレモンティーヌ」、と即答。

初耳、クレモンティーヌ!。「クレモンティーヌって誰?」とおいら。目をひんむき驚く <(いばら)の簪(かんざし)を刺した御方>。

「クレモンティーヌ知らないの????!!!!!」。 

おいら。 知らない.....

四半世紀あまり前の昭和末期、仙台にやって来たおいらは、ボサノバが好きだった。イザベル・アンテナも大好きだった。

当時もっていたCDは全部で10枚程度だろう。それとわずかの本がおいらの全財産だったのだ。 イザベル・アンテナ、 EN CAVALE。 よく、聴いていた。(このすぐ後、われらがぬっぽんでは、小野リサがデビュー。おいらは、新作CD3-4枚分はおつきあいした。その後は、おいらは「自己下放」。ボサノバどころではなくなった。)

そして、仙台の街を散歩した。

而して、四半世紀後、21世紀初頭。

ググった。 クレモンティーヌなるフランス人ボサノバボーカリスト(@しかもぬっぽんのアニメソングをボサノバで唄う)がおいらよりも結構年上で、しかも、イザベル・アンテナと同世代としる。そして、イザベル・アンテナがおフランス人だって今日、知った。

恐るべし、蒙童なおいら!

なぜ、イザベル・アンテナがおフランス人だって知らなかったかというと、四半世紀あまり前、1)買ったCDが輸入盤で解説が全くなかったこと、2)英語で唄っていたこと、3)英語で唄うボサノバボーカリストはブラジル人なんだろうと漠然と思っていたこと、4)おフランス人というのはおフランス語しか使わない(英語なんか使わない)という当時(今も?)流布していた伝説にとらわれていたこと、そして、5)何よりボーカリストの国籍なぞ気にしていなかったのだ。

 

英語を学べばバカになる」というホントのバカが2005年におっしゃる20年前、しかも米ソ冷戦崩壊前、に「英語を学べばバカにな」ったのが、おフランス人のイザベル・アンテナなのだ。 グローバル思考という妄想! 冷戦前から、Ikea的、Zara的、そして、ユニクロ的「グローバル思考という妄想!」に憑りつかれていたのが、イザベル・アンテナなのだ。 もっとも、その嚆矢は、スウエーデンのアバに他ならない。

 そして、「グローバル思考という妄想」のふるさとこそ、この木町通りなのだ。なぜなら、この通りは、シカゴアヴェニューだからだ(愚記事:シカゴアヴェニューと呼ばれた日)。

 クレモンティーヌ/およげ!たいやきくん


my sentimental journey; 虫瞰・鳥瞰 仙台2013

2013年05月05日 18時46分56秒 | 仙台・竹雀・政宗

(ものすごい地域限定、トリビアです。すみません)

休みは仙台に散歩に行った。

筑波山麓は旧常陸伊達領を朝7時に出立。
     Seven…that’s the time we leave at seven

昼には仙台、大町にたどり着く。

駐車場に車を停め、昼飯を食う。

食後、散歩を開始。 上記、地図の路線を歩く。
    Gonna make a Sentimental Journey,
         to renew old memories.

  ・虫瞰編

<失われたものを数えて>

■ 澱橋-広瀬町への通り  どばしや (地図の④付近)


 愚記事より; 2009年にはあった姿。今日もあれば....

■ 広瀬町  太白飴本舗 (地図の⑥)


健在の頃の画像が、おいらの画像アルバムになかった。ネット上からのパクリもの。


2013年  この画像の左端の茶色の低層の建物の手前の空き地にあった。

■ 木町通り  鈴木二郎商店 (地図の⑦付近) (関連愚記事:仙台参り⑨ 木町通りの牛タン屋


  2004年


 2013年

  → 木町通り=シカゴ・アヴェニュウーと呼ばれた日、あるいは、they shall return (愚記事)

 「失われたが、増強したもの」を見つけて...>

■ 桜ヶ岡公園1番1号  大町交番 (地図の①付近)


       2003年                            2013年
焼け太り! おそるべし、おまわりさん!

  ・鳥瞰編


    I’ll be waitin’ up at heaven,
     一番町から青葉山を望む 
「失われたが、増強したもの」が左下の方に写っているのでは?
と感じるのはおいらのねたみ・ひがみ・そねみのせいなんだろう)


 一番町から国見方面を望む。 

▼ 片平たてもの睥睨団(ただし、おいらひとり)


 この光景を目の当たりにして、うを~という気持ち。
        Never thought my heart could be so yearny.
まさに、コペルニクス的転回。 むかし散歩で虫瞰的像しかもてなかった空間を鳥瞰した。
もっとも、おいらが散歩してた頃は片平は廃墟絶頂の頃だと、今わかります。
(旧健康管理センターが生き残っていたが、その厚化粧に涙した! そして、旧制第一中学校、雨天体操場が取り壊される寸前の気配にも、涙した! )


片平たてもの應援團siteよりのパクリです。

 


梟雄が放った盲の鶺鴒が、400年の後、大地震で崩れた土蔵で、古の教唆煽動を囀る

2013年03月27日 20時03分06秒 | 仙台・竹雀・政宗

きょうゆうはなっためくらせきれいが、400ねんのちだいじしんくずれたどぞうで、いにしえきょうさせんどうさえず


  -25日、朝、東海道新幹線、車内にて―

今週月曜日、朝から、清州のとなりの名古屋に行くため、新幹線の のぞみ に乗った(おいらは、何の望みもないのに...)。

ところで、政宗公が初めて、箱根の山を越えて、「名古屋」に行ったのは、彼が23歳の時だ。

同僚であるはずの蒲生氏郷から訴えられたからだ。

その訴えとは、氏郷と政宗が共闘して討伐すべき一揆を、実は裏で煽動しているのは、政宗であるというものだ。

それで、秀吉に呼び出されて、清州に向かったのが、1591年 (天正18年) である。

そんな、清州・名古屋へは、東京からは、いまじゃ2時間もかからない。

それに、きしめんだって、なかっただろう。残念な、政宗。

その名古屋へ向かう車中で、ニュースがいったさ、「伊達政宗の密書発見」。

こういうニュースだ;

東日本大震災で損壊した茨城県ひたちなか市の土蔵から、戦国大名・伊達政宗の起請文(きしょうもん)(誓約書)が見つかった。

 対立する佐竹氏につく常陸(ひたち)(茨城県)の武士に、佐竹氏を裏切るよう促した「密書」とみられる。関東に送られた政宗の起請文が見つかったのは初めてという。

 被災した土蔵などにあった文化財が建物ごと処分されないよう活動するボランティア団体「茨城史料ネット」が確認した。壁や瓦が崩れた蔵の所有者家族が、片づけ中に「政宗」と読める文書に気づき、昨秋、ニュースで活動を知った同ネットに連絡した。

 代表の高橋修・茨城大教授(日本中世史)によると、起請文は1589年(天正17年)、常陸の大名・佐竹義宣の配下にあった小野崎昭通(あきみち)に 宛てられた。「中川北ニ江戸領之内(中略)可宛行(那珂川以北の江戸氏の所領をあてがう)」と記され、近隣の江戸氏に打ち勝てば、その領地の一部を与える と約束している。佐竹氏からの離反を条件としていたとも読み取れる「其元事切候以後(お前が手切れした後)」との記述もあった。

(2013年3月25日09時22分  読売新聞)
 
わお! 葛西大崎一揆事件まんま、じゃないか!
 

 ―政宗が小野崎昭道に宛てた書状 (左下の鶺鴒の花押に注目)―
⇒ 解説 web site  伊達政宗の密書  (額田城址保存会)
 
葛西大崎一揆事は政宗領から見て北でのことだ。このニュースのひたちなかは、政宗領から見て南のことだ。時代も全く同じだ、1589-1590年。やはり、政宗は、四方八方に、盲の鶺鴒を放っていたのだ!
 
このニュースの政宗の教唆煽動の書簡の意味を見てみよう。
 

1582年 (天正 9年)本能寺の変。織田信長、死没。

1585年 (天正12年)秀吉、関白となる。<豊臣秀吉>の「誕生」

1586年 (天正13年) 人取橋の戦い(政宗18歳)

南部戦線の戦闘。佐竹との戦争に戦術で敗れるも、佐竹内での内紛を工作。伊達家の殲滅を逃れ、戦略的に負けなかった。

1587年 (天正14年)  惣無事令 (秀吉による戦争禁止令。政宗はこれを無視して戦争やりまくりで、ぬっぽん有数の戦国大名となる領地を確保する)

1589年 (天正16年)  政宗、この密書(小野崎昭道に宛てた書状)を書く(政宗21歳)

1589年 (天正16年)  摺上原の戦い[秀吉の麾下の葦名氏を滅ぼす](政宗21歳)

1590年 (天正17年) 秀吉、小田原征伐

               政宗、小田原参陣(6月)。秀吉に服従。この後の蒲生や木村親子など西からの占領軍・進駐軍のみちのく支配を許す。政宗、西からの占領軍・進駐軍の「手先」という役割を担わされる。政宗の本心は不明。

1590年 (天正17年) 葛西大崎一揆 蒲生氏郷と共に政宗は一揆討伐にあたる。

           しかし、「一揆を煽動していた」と、氏郷に訴えられる。

           煽動の証拠は、政宗が一揆勢力に発した書状。

1591年 (天正18年) 清洲にて、葛西大崎一揆煽動の査問を政宗が受ける。

        書状の花押の鶺鴒の目に穴がないことを理由に、偽書状と主張。

       「有罪」を免れる。しかし、大規模転封。東北北部へ押しやられる。

        (政宗23歳)

すなわち、今回見つかった教唆煽動起請文は、政宗が「乱発」していたに違いないもののひとつなのだ。

  梟雄が放った盲の鶺鴒が、400年の後、大地震で崩れた土蔵で、古の教唆煽動を囀る!

そして、葛西大崎一揆の時、蒲生氏郷に訴えられた政宗は、清州に秀吉から呼び出され、査問される。

その時の「言い逃れ」が、今となっては、政宗物語の一大名場面(いちだい めいばめん)となる、鶺鴒の目、だ。

 一揆と政宗の関係は、はたしてどのようであったか。総じて、秀吉勢力に対する政宗の意図ないし態度は、いかなるものであったか。

次に、これをみることにしよう。

 第一に、須田伯耆が、氏郷にもたらした政宗の書状の真偽はどうであろうか。秀吉がこの書状を政宗に示したところ、政宗は、その筆跡の似せ方の巧妙さは、弁解の余地がないが、しかし、花押は明らかに贋である、自分の用いる鶺鴒形の花押には、必ず眼孔を開けておくことが、これにはない、という申し開きをした。

これによって、政宗の許されたのを聞いた井伊直政のちに親戚となるとは思いもしない頃だ)が、家康に向かって、異心歴然たる政宗を許した秀吉の不明をつげたところ、家康は、これを知らぬ秀吉ではないが、命に応じて上洛した勇気と自署の檄文として弁明した器量に免じたのだ、事前から心がけて花押を書く用意をもった政宗は実に大将の器ではないか、とかえって直政をさとしたという。 (小林清治、『伊達政宗』)

だから、今回見つかったひたちなかの政宗の起請文の鶺鴒には、当然、眼孔はないのだ。

さて、事実はどうだろう。 近日、一般公開されるとのこと。


そして、おいらは、名古屋できしめんを食べた。

 

 


今週知ったこと、例えば、羽柴越前守政宗、人殺し系王子、温家宝1989、など

2013年01月27日 17時22分02秒 | 仙台・竹雀・政宗

 

▼今週知ったこと、 1.羽柴越前守政宗 (はしばえちぜんのかみ まさむね)

おいらが現在生息している筑波山麓-霞ヶ浦湖畔は、江戸時代には、仙台伊達家領であったことは、さんざん書いてきている。

  ・伊達政宗、来ました。
  ・『仙台藩領と阿見地域』 
  ・筑波山麓江戸時代の"子供手当" 
  ・ 江戸時代の筑波山麓 『非正規'賃金'労働者』、仙台伊達家足軽 
  ・伊達政宗来ました; 霞ヶ浦湖畔・蔵福寺 

いわゆる、仙台伊達家・常州知行地=仙台藩常州領が、家康から政宗に与えられた時、政宗は、羽柴越前守政宗だったのだ。 慶長11年、西暦1606年だ。 政宗が遣欧使節を出す1613年の7年前だ。慶長の大津波も起こってない。

羽柴越前守政宗とは、松平陸奥守政宗の前だ。 

浮気な政宗! 

忠臣、二君に仕えず、といえり! 梟雄、最高実力者に阿る!

いや、受名力!と言おうか!


 -世渡り上手―

今週知ったこと、2. 人殺し系王子、しかも、POW !

 
パクリ元; CNN         邦訳CNN  タリバーン殺害も

ハリーさんは今の英国王からみて御「皇」孫のはず。しかも、皇太子の御次男さま。でも、Prince of Walesの称号がつくらしい(Prince Henry of Wales wikiより)。

ノブレス・オブリッジとして、ばんばん、敵兵を殺したらしい。 頼もしいことだ。

そして、おいらは、今日、気付いた。 Prince of Walesが、POWだって。


愚記事;   彼はなぜ風采の上がらない人間が背筋のしっかり伸びた英国将校を 

英国史なぞあんまり知らないおいらが、聞きかじったところによると、なぜイングランドの皇太子さまがウエールズ(ブリテン島の一地域)なんだべ?かというと、むかす、ウエールズ王が敗残しイングランド王に服従するとき、おめぇーさんの跡継ぎ=皇太子を Prince of Walesとすてくれ!と頼んだ、とのこと。Prince of Wales=POW! 跡継ぎがPOW! 恐るべし、敗残したウエールズ王!

(↑ やはり、いか@さま。 本当のところは;
1301年、エドワード1世はウェールズ人の反乱を抑えるため、エドワード(後のエドワード2世王)にプリンス・オブ・ウェールズの称号を授けてウェールズの名目上の君主とする。このために、身重の王妃エリナーを 当時ウェールズ侵攻の前線基地であったカーナーヴォン城に連れて行き、そこで王子を出産させたのである。エドワード2世をウェールズ人に「ウェールズ生ま れの」支配者として受け入れさせるためであった。エドワード1世はウェールズの諸侯に赤ん坊を見せて「ウェールズ生まれで英語を話さない」と即位を認めさ せた、という逸話がある。 wiki

そして、我らが大日本帝国、Prince of Walesを 「殺害」、撃沈! ⇒ google

今週知ったこと、 3.温家宝1989@天安門

週末、のんべんだらりんと本を読んでいた。趙紫陽「自伝」だ。野暮な解説をすると、趙紫陽とは中国共産党総書記だったが、1989年の六四天安門事件で、失脚した(wiki)。趙紫陽を失脚させたのは、後輩の李鵬(wiki)であり、先輩で当時のボスであった小平(wiki)である。その"趙紫陽「自伝」"。本の最初のグラビアページの写真。解説では言及されていない。マイクを持った趙紫陽のすぐ後ろの人物。今となってはすぐわかる。

この写真、1989年天安門前に集まった学生に対し、このままでは保守派からの反撃に遭うと察知した趙紫陽が、「すまない。わたしが来るのが遅かった」と言ったとされる場面。この数日後、人民解放軍は、天安門前に集まった学生や人民を無差別に殺害する。

この趙紫陽に温家宝は付き従っていたのだ。もっとも、李鵬も付き従っていたらしい。でも、途中で逃げたとされている。

今日現在、中国人民共和国の国務院総理は、まだ、温家宝さんだ。任期切れまぢかだが。そして、彼は、「人々は、私のことは忘れてほしい」と言っている。政治家というのは歴史に名を残すことが欲望ではないのか!? でも、愚ブログは、忘れない、温家宝さん (関連愚記事; ■ なぜ、立命館?)。

なぜ、1989年に趙紫陽に付き従った温家宝さんが後に総理(2003-2013)になったかというと、

 1989年5月19日、民主化を要求して天安門広場を占拠した学生たちと対話を試みるため、趙紫陽は彼らの下へ向かった。温家宝は趙に同行した(天安門事件を参照)。この趙の行動は「重大な反抗」とされ、趙は総書記を解任されて失脚、2005年1月の死まで自宅軟禁に置かれた。しかし温は、当時の立場や自己批判が考慮されたことで、天安門事件の余波を受けて失脚することもなく政治的に生き残った。

wikiには、書いてある。

おいらは、人を見た目で判断する。この温家宝さんの生真面目な面(つら)がまえは、温家宝が師と仰いだとされる胡耀邦よりは、むしろ、周恩来の生真面目な面がまえに通じていると、感じる。

蛇足だが、この記事を書くため、パソコンで「おんかほう」と入力して、変換すると、「御下放」と出た。

彼は、下放されなかったのだ! 

駄目だな、おいらのパソコンの「変に」学習した日本語機能。

▼ 2013/2/3 追記