水上陽平の独善雑記

水上陽平流の表現でいろいろな事を書いています。本館は http://iiki.desu.jp/ 「氣の空間」

「迷説般若心経・158」

2008-01-11 11:22:32 | Weblog



  第十三章(10)
  菩提薩多 依般若波羅蜜多故

生きる事は趣味なのだ。
個性で生きる事(趣味)が本道だ。
だからグレちゃん(創造主)は別々に創った。
一人一人、一つ一つ、個性がある。
「個性で生きろよ」
そういうメッセージだろう。

生きる事。
最後まで大切に生き続ける事。
それが菩薩行になる。
個性があるのは、個性ある菩薩行が必要だからだ。

遠慮しないで、個性溢れる生き方をしよう。
ただし・・・肉体生命は期限がある。
生命は最後まで大切に扱う意味だ。
立派に生きなくてもいい。
だが、大切に生きるのは、当たり前なのだ。
その、当たり前を話しているのがブッちゃん達だ。
難しい理屈じゃない。
                 
       
(過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。)
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「迷説般若心経・157」

2008-01-10 10:27:29 | Weblog



  第十三章(9)
  菩提薩多 依般若波羅蜜多故

ボランティアは個人趣味なのだ。
趣味を超えたら、ボランティアではなくなる。
菩薩行ではなくなる。
菩薩行は個人趣味なのだ。

社会の為、人の為と言い出したら偽善だ。
詐欺も勘違いも同じだ。
心の奥は別なモノでドロドロしている。
個人が好きで行ってこそボランティア。
趣味で行ってこそ菩薩行。

まして組織が音頭をとっている場合は怪しい。
薄汚い企みがあるものだ。
神や仏の名前を使って信者を動かす。
騙されやすい人を信者に加える。
自立すれば、他を煽動などしない事が判る。
自立は共生(菩薩行)の土台だぜ。

                 
       
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「迷説般若心経・156」

2008-01-09 09:00:33 | Weblog



  第十三章(8)
  菩提薩多 依般若波羅蜜多故

生物全てが菩薩といってもなぁ・・・
ミジンコやアメーバやゴキブリもかぁ・・・
などと種科目で差別するのは止めておこう。
彼等には彼等なりの菩薩行がある。
あるんじゃないかな?
わからないけど、ある、って事で・・・。

どうやら菩薩は肉体のある生物だけじゃないようだ。
肉体が無くなった後の精神(魂)体も含むらしい。
例えば、地蔵菩薩や弥勒菩薩等々。
他の幸せに貢献しようとする意識体だ。

如来にだってなれる立場なのにならない。
如来になったら、ただ光っているだけ。
それよりも、他と係わりたいモノ達だ。
いわば・・・ボランティア精神かなぁ・・・。

                 
       
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「迷説般若心経・155」

2008-01-08 10:44:17 | Weblog



  第十三章(7)
  菩提薩多 依般若波羅蜜多故

菩薩行に必要なのは正しい心ではない。
正しさを判断する智恵でもない。
優しさであり、明るさだ。
イタズラ小僧のような、愉しさだ。

正しさに「こだわらない」生き方。
だから「無」を付ける。
生きる事を愉しめる心。
それを菩薩心という。

愉しむ、とは押し付けない係わり合いだ。
何でも認める優しさがあって愉しめる。
その優しさを生活に活かす「般若」という智恵。
だから生きとし生けるモノ全てが対象となる。
「般若」を知る事が菩薩行となる。
               
       
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「迷説般若心経・154」

2008-01-07 11:44:26 | Weblog




  第十三章(6)
  菩提薩多 依般若波羅蜜多故

出来が良くても悪くても、菩薩は皆同じ方向を歩む。
菩薩道という道を歩く。
自他が幸せになるように歩く。
その為の方法が「般若」というわけだ。

ここで間違えやすいのが「正誤」や「真偽」だ。
菩薩は正しい行いをするものだ、と考え違いをする。
まだ人間だぜ。
正しいと思い込むと、争いをする生物だぜ。
菩薩行の逆なのが「正しさの追求」ってヤツだ。
ほとんどの宗教は菩薩行を邪魔しているのが現実だ。
宗教者は争いが好きなのだ・・・。

菩薩行は誤りを認めるものだ。
至らなさを優しく抱きしめるものだ。
正しさに導き、押し付けるものじゃないぜ。
未成熟の生物に必要なのが菩薩行だ。
未成熟同士お互い様だから必要なのだぜ。
               
       
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「迷説般若心経・153」

2008-01-06 18:51:11 | Weblog



  第十三章(5)
  菩提薩多 依般若波羅蜜多故

誰でも菩薩。
だが、現段階では差がある。
同じ人間でも菩薩として、大きな差があるのだ。
例えば、故マザー・テレサ。
例えば、ダライ・ラマ法王。
毎日の生活が菩薩行として成り立っている。

同じ人間とは思えないがワシも人間の一人。
同じ人間とは思えないが、政治家や官僚も人間の一人。
菩薩としてマザー・テレサやダライ・ラマとは差がある。
ある、なんてもんじゃないほど、ある。
だから、皆菩薩、といっても褒められたもんじゃねぇ・・・。

どんな段階でも一応菩薩。
餓鬼道でも畜生道でも菩薩。
出来の悪い菩薩達(つまり我々・・・)の為に説法する。
出来のいい菩薩達は指導など必要ないのだ。
説法は慈悲の心と共にあるんだぜ。

              
       
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「迷説般若心経・152」

2008-01-05 10:22:41 | Weblog



  第十三章(4)
  菩提薩多 依般若波羅蜜多故

同じ人間でも様々だ。
というより、一人として同じではない。
形や心や能力が違う。
国や人種や年代が違う。
違いはあるが、偉さの差はない。

偉さではないが、段階のような違いがある。
ある意味、差といってもいいだろう。
経験値といってもいいだろう。
誰でも通る道だけど、先と後がある。
決定的な差ではないが、現段階では差がある。

何度も生まれ変わって、経験を積む。
いろいろな悲しみ、苦しみ、嬉しさ、楽しさを味わう。
それは菩薩行として役立つ経験となる。
苦も非も哀も嬉も楽も役に立つのだ。
どんな人生も無駄じゃないぜ。
              
       
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「迷説般若心経・151」

2008-01-04 10:37:06 | Weblog



  第十三章(3)
  菩提薩多 依般若波羅蜜多故

広い意味では全てが菩薩。
狭い意味では「幸せに向かう」事を意識して生きるモノ達だろうな。
この「意識する」っていうのが、あらゆる事に優先する。
「意識する」だけで、方向の確かさも速度も段違いになるのだ。

幸せに向かう事の具体的行動の一つに利他がある。
他の為に(も)生きる。
だがら、利他行が菩薩の生き方、ともいえる。
それほど立派な事じゃない。
地球上の生物としては、当たり前なのだ。
人類種だけが、かなり外れているだけだ。

つまり、仏教とは、当たり前の生き方を説いただけだ。
ブッちゃんは、理屈で話したのじゃない。
生物として、当たり前の生き方を話した。
人間だけが外れすぎていたので、当たり前が菩薩行となった。
こんなワシも、そんなアンタも菩薩なんだぜ。

  
              
       
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「迷説般若心経・150」

2008-01-03 11:44:00 | Weblog



  第十三章(2)
  菩提薩多 依般若波羅蜜多故

菩薩が「幸せに向かうモノ」で生命体全てだ。
ならば如来とは何か?
簡単だ。
「幸せになってしまったモノ」だ。
当然、生命体を超えてしまっている。

悟ったら人間ではいられない、という意味はここにある。
超えたら、生命体でいる理由が無い。
つまり、
人間でいて「私は悟りを開いた」というのは無理なのだ。
そういう人は、嘘か詐欺か勘違いなのだよ。
ツマラン宗教にひっかからないでね。

ブッちゃん(仏陀)は気づいたのだ。
悟りを得るのは自然にまかせる。
人でいる間は、生きる事を大切にする。
だから衆生やケモノや妖怪に優しい。
だから生あるモノ達に「慈悲」という言葉を使った。
悲しみも苦しさも含め、認めての方法だ。

 
              
       
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「迷説般若心経・149」

2008-01-02 11:46:13 | Weblog



  第十三章(1)
  菩提薩埵 依般若波羅蜜多故

菩提薩埵を略して菩薩という。
その菩薩とは何者か?
サトリを求める者。
他の為に生きる者。
如来になる前の役職?

ワシは「幸せに向かって歩く者」と訳した。
ならば、生きとし生けるモノ全てが当てはまる。
生命は意識する、しないに係わらず、幸せに向かうものだ。
向かわないのなら、生命は続かない仕組みだ。
当たり前なんだけどなぁ。

わざとらしく菩薩というが、実は全てが菩薩だ。
生命全てが仏でもあり、神でもあり、天使でもある。
ワシのような欠陥オッサンでも菩薩なのだ。
ワシは菩薩を自覚している。
天使も自覚している。

ワシが菩薩というのに異論はあるだろう。
がモンクは言わせない・・・。
モンクを言ってもいいけど、聞く耳は持たない。
聞く耳はあるけど、マトモに聞かない・・・。
どうだぁ、まいったかぁ・・・。

              
       
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