alternativeway

パリ、カフェ、子育て、サードプレイス、
新たな時代を感じるものなどに関して
徒然なるままに自分の想いを綴っています。

自己責任

2012年02月28日 | 日本の「空気」


 「ねえ 私たち 間違っているわけじゃないよね?
別に頭がおかしくなんかないんだよね?」市民法廷の帰り道
高校時代の友人と 立ち寄ったカフェでつい熱く語ってしまった。
彼は私同様もがいてる人生を送ってる人で
彼と話をしていたら なんだか気が少し楽になったのか
それまでの体調不良も治りつつあるような気がしてホッとした。


 私も彼も 自由を求めて同じ高校にやってきた。
彼は元いた高校を辞め、私はエスカレーター式の
私立の女子校に退学届けを出して無理矢理受験してその学校にやって来た。

「だけどさ 結局あの学校での想い出ってなんか孤独じゃない?」
「そうそう 私も孤独だったの!なんかあの コンクリートに
囲まれた建物の中で 寂しかったのだけを覚えてる。
仲間がいるかと思って来たのに なんかやっぱり自分だけ
変な感じがしてね、、、」そう 私は孤独だったのだ。
あんなにも「自由」を売りにしていた神奈川総合高校という
神奈川県ではじめての単位制の学校に かなりの熱意を持って
入学してはみたけど 私は浮いてる存在だった。
でも私は別に 人と違っていたいとか 変でありたいなんて
思ったことは一度もなかった。「みきちゃん 人と違っているのは
快感だね」なんてさわやかな顔して言ってたクラスメートも居たけれど
私は違ってなんていたくなかった。だけど私は異なっていた。
私は自分でありたかった。ただそれだけのことなのに。


 そんな我らは高校生のころと対して変わらぬ生活水準で
生きていて 相変わらず 夢を見たり 現実は厳しかったり
だけど私は彼の言ってたことがよくわかる。彼は確かに
ちょっと変わっているかもしれない。だけど別に
おかしいことを言ってるわけじゃない。ただ 彼は自分でありたいだけなんだ。
私もそうだ 沢山のことを疑問に思う。どうして?それで本当にいいの?
伝統って 伝統を守り続けていればそれでいいわけ?
時代を見ることだって大切じゃない?
たくさんの人に「もうやめたこんなしんどいの!」って言われても
それでも型を守っていればそれでいいのだろうか?
そう 日本では 型があまりに大切で
そんな教育がものすごく小さいときからされているから
型からはみでる 型にはまれない それはいつも例外でしかなく
例外たちは辛い思いをし続ける。


 「私さあ、 こう見えても 別に辛い人生を歩みたいだなんて
これっぽっちも思ってないんだよ。私だって幸せで穏やかな人生がいい。
本当にそう思ってるよ。でもなぜかそうならないの」

 自分自身であるということ それはこの国では そんなにも
難しいことなのだろうか。私は本当にうらやましい。
この国で楽しそうに笑える人が。 私だってそうしたい
でも私はなんだかひきつってしまう。それが何によるのかはわからない。
小さいとき外国に住んでいたから?私には外国語の私と日本語の
私がいるのだろうか?私だってそれなりに 日本のコードは
わかってる。わかっているからその中で 私は本当の私になれない
そんなこと 気にもしないで楽しそうに沢山の人たちと
話ができる そんな人たちがうらやましい。
私だってできることならそうなりたい。

 私はフランス語をしゃべったときや 英語を話している時は
どうやら本来の自分になれる。何がなくとも なんだか楽しい。
だけど日本語で話しているとき なんだかすごく躊躇して
友達であったはずの人とも 心から思いのたけをこめて
話すこと が なかなかできずに辛いと思う。
だから久しぶりに彼と忌憚なく話し続けることができて
なんだか救われたのだろう。


 「日本ではさ ちょっと人と違うことをすると自己責任になるんだよ」
そしてその責任はあまりに重い。私は先日大学のゼミの女の子たちと
食事をしたけど 誰一人子供を持たずに自由な雰囲気の仕事を楽しんでいそうな
人たちの中 子供を産むことについて尋ねられても ポジティブな答えは
ほとんど何もできなかった。「まあそうはいってもかわいいよ」冴えない顔して言うくらい。

 「それで、みきちゃんいつも何してんの?」と聞かれても
あんたそんな答えきいて楽しい?と思ってしまう。
「うん 公園に行ったり 絵本読んだりブロックしたり iPadしたりね
それから蓮太郎を躾けたり」そんなことで日々は終わってく。
子供をカフェでいい子にさせるのに どんなに時間がかかるかわかる?
子供が上手にスプーンでものを食べるために どんなに時間がかかるか知ってる?
そんなことやってるだけで 時間なんてあっという間に終わってしまう。
だから私は 彼女たちが当たり前にすることなんて そのスピードでできやしない。
でもそれ以外に答えようなんかない。保育園があればまだ話は別だろうけど
そうじゃなければそんな日常 そんな日常、あなたたちは自分ごととして
受け入れられる?でも子供を産むのも「自己責任」「あんたがそうしたんだから。」
そう 全てがそれで終わって 自己責任という名の都合のいい名の社会的放任の下
沢山の人が重荷を背負う。「転校?そんなに放射能が怖いなら勝手にしたらどうですか?
私たちは止めませんよ。自己責任ですからね!」だけどすべての責任を
他の人たちがとってた道と ちょっと違う道を選んでしまったことに対する
全ての責任というものを もしたった一人で背負うなら だれも
そんなことはしないだろう。だから彼女たちは子供が産めない
このままなら産まない方がいい。だって犠牲の方がどう考えても多いから。


 私だって 別に若い女の子を脅したいとは思わない。
いいことだって話したい。だけど現状はあまりに厳しい。
「うーん そんな人生を送りたいなら 今の現状だと子供は
できる限り遅く産むのがいいんじゃない?」というくらいしか私は言えない


 じゃあフランスだったらどうなのか って 私にもわからないけれど
先日ラジオで耳にしたのは 70年代くらいは「子供を産みたきゃ産めばいい。
それは母になる人の自由。だけど産んだからには文句を言うな!」という
環境だったらしい。それがどうも(私の理解が正しければ)いつからか
「子供は母親が面倒をみるもの!」という考えから「国が面倒をみるもの」に
変わっていったらしい(これちょっと耳を疑ったので本当かどうか
また聞いてみます)だからなのだか フランスは子育てに対して今では
ものすごい手当がでるらしい。保育園はなくっても 乳母を頼んだら高いけど
その半額ぐらいは補助で返ってくるとか 2人目を産むとかなりの
手当がもらえるだとか 3人も産めば国鉄が半額で乗れるとか
産めば産む程優遇される そんな措置が沢山ある。
それらはもちろん 女たちが歴史の中で勝ち取ったもの。
彼女たちが口をひらいて「そんなのひどすぎる!」と訴えて、、、


 それに私がフランスに居たとき聞いた話では フランスでは
子供に文字を教えるのは幼稚園の先生なのだという。私は
日本ではあいうえおを教えるのは母親の務めだと思ってた。
それもあってものすごく教育に対して「どうしよう あれもやって
これもやらなきゃ!でもできないよ!!」と思っていたけど
ふっとフランスの科学教育のことを考えてみたら あれ?
そういえばあれ 幼稚園の授業じゃん。ボンヌママンのムッシュー
ビスキュイみたいなのもいれば 私が頑張って教えなくても
公的なサービスによって身につけていけるってこと?と理解して
それだけで身が軽くなった。そう 私が思うにフランスは
(そして多分北欧なんかも)高福祉国家にすることで
税金は高いけど 人々の負担を減らしてる。
肩の荷を軽くしてくれる政策をとっているのだと思う。
「ああそうか 自分で背負わなくてもいいのか!」と思えば
どんなに気が楽だろう。(フランスでは無職のシングルマザーで
4人の子育てをしている人もいるらしい)日本だったら
子供にスイミングを習わせるのも 公文に行くのも
もちろんバレエも全部自分で払わなきゃ。
そうすると「うちはお金がないから子供を産めない」になる。
幼稚園だってものすごく高い。私にはどうやったら
うちの息子を幼稚園に行かせるお金があるのかとんとわからない。
そうすると「お金ないなら子供はやっぱり産まない方がいいのでは?」と
アドバイスもしたくなる。旦那がそれなりに稼いでいたら
保育園代もめっぽう高い。その保育料を支払うために
働くようなはめになるけど、別にそれは社会保障で補填されることはない。
そう 私たちの肩にはどんどん いろんなものがのしかかる。


 小学生になったなら?そうしたら少しは楽なのだろうか
どうして日本の義務教育は3歳からじゃないのだろう?
普通は幼稚園か保育園にいくのであれば どちらもほとんどタダくらいに
してはもらえないものなのだろうか?(フランスは幼稚園から義務教育でタダ)
子供は宝とか言ってるくせに そんなんじゃ宝を増やせるわけもないではないか?
「そんなのね あんたが選んだんだから文句言う資格なんてない!」と
言われるのが日本だけれど 1つだけの道に属せない人だっていると思う。
それは「わがまま!」の一言でいつも終わりになるわけだけど
本当にそれでいいのだろうか?本当は苦しいだとか
本当はそんなのは嫌だとか 言うことが許されない社会の中で
ニートも引きこもりも不登校も自殺も減らない一方なのは
彼らがただの「例外」じゃなく あてはまるべきものに
当てはまれなかった人たちで でも声を出すことも許されないし
聞く耳も持ってもらえなかったから 社会的例外のような存在として
実は沢山存在するのに 相変わらず肩身の狭い 自分なんて という気持ち で
暮らしているんじゃないのだろうか でももしかして
彼らだって ちょっとまわりの人よりも 自分の気持ちに素直であっただけかもしれない
もっと人と違うことを認めてくれて 多少なりとも社会的に許してくれたら
「自己責任!!」の名の下に すべてを一人で抱えて声も出せなくなってしまうほど
力をなくしてしまう前 に 少しでも許されたなら 結果は違ったかもしれない。


 福島とか 子育てとか カフェだとか ジャンルは全然
違うけど この国の根底には 共通の何かがあると思うようになってきた。
それはおそらく 社会的圧力というのだろう。圧力は人を殺すこともある
圧力で人が死ぬこともある。この国の社会問題は
1つだけの道しかないこと それしか許されていないこと
そこと大きく関係していると思う。

親子共学

2012年02月27日 | 子どもから学ぶ


 「遊びは学び。」かつて訪れた吉野のParty for the Futureで
上田先生はそう言っていた。遊びは学び。それが最近の
教育学の最先端。だから大人の学び場も、遊び心のある場も必要なんだ。


 そうなのか ならば私は息子から学ぼうと
息子がまた小ちゃかったときに思っていたけど
正直言ってそんな次元ではあまりなく どちらかというと
疲れてて そして上田先生の『プレイフルシンキング』を読んでは
「主体的な子育てをしてみる?」と思ったりした一方で
主体的な子育てなんてないよ、、、追われてるだけじゃんと
思ったのが現実だった。


 ところが最近!!インフルエンザの最悪な事態を
ちょっと乗り越えてくれたからなのか
息子が言うことをそれなりに聞いてくれるということが判明しつつあり
「これは禁止!!」と言ったらまさか?と思うけど
意外とわかってくれたりもする。息子、成長したなあ、、、
(インフルエンザ中はあれもこれも禁止!で本当に大変だった。
「マスクしなさい!」「下で遊んじゃダメ!」「お外は行けない!」
だったけど さんざん言い聞かせていたら自分でマスクをするようになった!)

 
 「うんち おしっこ おなら アハハハ!!!」と突然言い出し
毎20分ごとにそれを言うようになった息子にあきれ果て
これってタミフルのせい?と思っていたけどタミフルが終わっても
変わらなく うーんどうしたらいいものか、と思ってまわりの人に
きいてみたら「男の子なんてそんなもの」(諦めなさい)そうなのか、、、

 だけど昨日だったか「もう うんち おしっこ おならは禁止!
バーカもだめ、あっかんべーもダメ!次からお尻叩くからね!!」と言ったら
ダメというのがわかったらしく あっかんべーとしかけてもやめたりだとか
バーカと言いかけて「あっ?」と思ったりとか 「うんち おっしっこは
だめだけどおっぱいはいい?じゃあおなかは?」とか聞いてくる。
「うーん おっぱいとお尻は恥ずかしいからだめだけど まあお腹ならいいか」と母。
そんなこんなで言うことを聞かないこともあるけど あれ?と思うと聞いてくれたり
なんだか不思議なんだなあ。


 蓮太郎はとてもかわいい。彼はどうしてなのだか生まれてこのかた笑ってる。
こんなにも笑ってる3歳児っているのだろうかと思うくらいに
何が楽しいのかわからないけど やたら楽しそうに笑ってる。
「蓮太郎、何がそんなに楽しいの?」と尋ねてみても ろくな答えは返ってこないけど
(でも今日は「ママがかわいいから!」と言ってもらえた。。。)
なんだか彼は人生を楽しんでいるようだから ちょっとまねしてみようかと思い
時折私もまねしてみたり(でも「うんち おしっこ おなら!!は全然楽しくなかった)


 さて そんな蓮太郎に 色々と教えてやらなきゃと思っていたけど
今日一緒にバーバパパのYoutubeを見ていたら あ そうか 私
教えてあげなきゃと思ってたけど 一緒に勉強すればいいんだ!と気が付いた。
バーバパパなら フランス語でもいいのだけれど 英語で見てもけっこうわかった。
実は子供用のアニメというのは語学習得にはもってこい。
絵本もいいけど 通常の絵本には音声はないし アニメはもっと
「本当に普段使う言葉」を普段通りにしゃべってる。だからその
表現方法がすうっと身に付いていくなら言うことない。
でもいくらアニメがいいと言っても 大人になって語学を習得しようとする
まじめな人は アニメに時間を割かないだろう(日本語を習得したい
フランス人のオタクは別かもしれない)だけど私だったら 子供にアニメを
見せておきながら一緒に習得ができるんだ!これはかなりいいかもしれない、、、

 そういうわけで 今までは息子がYoutubeをやってても お母さんは知らんぷりだったけど
「じゃあこれからママも英語がフランス語なら一緒に見てあげる」ということにした。
バーバパパでもフランスのアニメでも(キティちゃんもフランス語をしゃべってる)
トムとジェリーでもなんでもいいや。英語の勉強もできそうだから
私もちょっとは見てみよう。息子はといえばそれが英語だろうがポルトガル語だろうが
韓国語だろうがスペイン語だろうが一向に気にせず楽しそうに色々見ている。
言語に左右されるのは私だけなんだ。


 それに加えて前々から集めていた息子用だと思っていたフランス語の
iPadのアプリも いくら言っても息子は素敵な絵本のアプリを半分くらいしか
読んでくれないけれど そういえば私がやればいいんだ。絵本で学ぶフランス語だなんて
本当に使える言葉じゃないか!もういいよ 蓮太郎が読まなくっても
お母さん電車の中で一人で読むから。そういってどんどんアプリを買ってしまった。
これだって「星の王子様」の本とカセットテープに2000円くらいかけて
わざわざ日仏学院まで買いに行った時代を思うと比較にならないくらい安い。
iPadには音声があるから語学の習得には本当にいい。
息子は私が集めたアプリで遊びながらフランス語の音を聞き
私は横で「そうかそんな発音なのか」と思いながら発音練習。
なんだかインターナショナルな時代です(家に居るだけなんだけど)


 お金もないし あんまりおもちゃも買ってやれない と思ってたけど
そういえば想像力こそ一番大切じゃなかったの?そうか ないのなら
創ればいいんだ!そう思って息子が前から欲しかったというお風呂に
浮かせる船をがんばってブロックで作ってあげたらかなり喜んでくれていた。
そうすれば私の発想も豊かになって いろんなことに役立つわけだ。
なーんだ 本気で遊べばいいんだ。


 そう 一緒にちゃんと遊んだら たっぷりとかけっこしたら
私はだいぶ汗をかく。これは健康にもいいではないか。
今日20年ぶりくらいに縄跳びを買い、息子はあんまりできないので
私がぴょんぴょん跳ねていたらなんだかあったかくなって楽しくなった。
これエクササイズにいいんじゃない?それにこれ一本で電車ごっごができるので
歩かない息子を「機関車だー!」とかいってつなげばけっこうな距離を
走ってくれた。恥ずかしい親子だけれど息子が歩いてくれるのならば
もうなんだって構わない。(たまに我らは飛行機だー といって
両手を広げてどっちが速いか競争しながら走って帰る。そうしないと歩かないから)


 だからこれからもっと一緒に遊ぼうかなあ
ちゃんとこっちも遊べばいいんだ そこには私にとっても学びがある。
やっとそんな年になってくれた蓮太郎。「僕もバトミントンしたい!」というけど
あんたとバトミントンしてもねえ、、、と母は思ってしまうけど。
(でもサッカーは相当うまい!ドリブルもできる3歳児。)
何かがないならないなりに 想像力を使えばいい。
それこそが一番大切かもしれない。想像力でよだれが出たら
もうそこに行ける日だって来るかもしれない
(かつて息子と行ってた公園でハンドルをまわしながら
「ドイツに到着しましたー あービールが美味しいなあ!」とか
言ってたらいつの間にかフランスに行くようになった)
だったらごっご遊びを沢山すればいい。
お金持ちになっちゃった!とか 飛行機がパリに到着したとか
モンマルトルのカフェでショコラを飲んでいますとか?
想像力って大事なことだ。それを働かせて何かをつくる
ないところからやってみる それって本当に大事なことだ


 なーんだ ないからこそできることもあったんだ。


 そんなことを学ばせてくれた蓮太郎。
息子がいるから笑っていられる 私の隣でぐーすか眠る
蓮太郎はとても愛くるしい。

dream

2012年02月22日 | 想いをカタチに





「だからさ、奇妙でもなければ変でもないよ。ただ難しかった。
それだけのことなんだ。」と彼は言っていた。
今日の昼時、広尾のカフェ出会ったオーストラリア人の友達と
ビザについての話をしいた。彼はどうしてなのだか
フランスの田舎に家を持ってるらしく 外国人なのに
一体どうしてそんなことが可能なの?しかも日本に
住んでいるのに?それに彼は今度パリに行ったら
iPhoneを買おうかななんて話をしていた。
え?でも携帯買うのってビザがいるんじゃないの?
っていうか家は?外国人が外国に住んでても買えるものなの?


 「だからさ、僕はビザを持ってるんだよ。永住権のあるビザを。」
と 日本に住んでるオーストラリア人の彼は私の目の前で
言ってのけた。え?私は耳を疑った。
観光ビザとか言ってなかった?「それじゃ家は買えないよ」
「え?つまり あなたはオーストラリアのビザと日本と
フランスのビザを持ってるってこと?一人で3つもビザ持ってるの?」
「そうだよ」と彼は答えた。私の理解が正しいならば。
そんなことが可能なの??


 「別に奇妙なことじゃないよ。手続きは大変だったけど
でもおかしなことじゃないんだ。ちゃんと準備をすればいいだけなんだよ」


 世の中には パリで暮らしてる日本人でやたらうらやましい生活を
している人もいるかと思えば 一人で3つもビザを持ってる人もいるのか。
一方で ひとところに縛られて 子供が生まれた瞬間に
子供を産んだ病院で出会った人に「この子は何学区になるの?
そう小学校はどこどこね!」なんて言われる人も居るというのに
いろんな人がいるんだな。

 「visa,,, I'ts my dream.. (ビザかあ ビザは私の夢だよ、、、)」と
遠い目をしながら私は言った。「難しい、でも不可能じゃない」と
一年前に ビザの担当をしてくれている人は私に言った。
一年がたった今、可能性は一年前よりはよっぽど増えたと思うけど
でもどれくらい可能なのかはわからない。


 空港で EUの人たちが何気なく持つワインレッドのパスポートを目にする度に
格好いいなと思ってた。スーツケースと子供と誰かと 空港の
待合室で 慣れた感じで飛行機を待つ そんな人たちがうらやましいなと思ってた。
いつの日か 私も空港を颯爽と歩く 勇気ある日本人の一人になってみたいと思ってた。
そして気づけば息子は私のスーツケースに亀のようにへばりつき
ガラガラひかれるスーツケースの上でゲラゲラと笑いながら
空港の廊下をヒューッと駆け抜けてった。そんな息子は母にちょっと憧れたのか
自分もスーツケースを持ちたくて 「これがあったらフランスに行ける?」
とかなんとかいって 自分用の小さなスーツケースを手にしてる。


 パリのカフェ で 息子と滞在した時 最後の方にお話をした
日本から旦那さんと一緒に避難して来たという日本人ママは私に
脱出劇の様子を教えてくれた。彼らは17日くらいにはもう決意して
日本にはもう帰れないかもしれないと思いながらも空港に走ったそうだ。
ほとんどまともな用意もできてない中 フランス人の旦那さんは
「とにかく空港に急げ!」と言ったらしい。空港に行けばなんとかなる?
そう思ってたらエールフランスの直行便が待っていて どんどん
乗せてくれたらしい。そんな彼らを待っていたのは フランスでの
放射能の厳しいチェック。彼女はそれに驚いた。そして私にこう言った。

 「国っていうのはこうあるべきだなと思いました。
こうやって国民を守るものなんだって、、、」

 彼らが乗ったエールフランスはフランス人やその家族に対しては
予約も不要、料金も無料だったらしい!私はといえば同じエールフランスに
片道かなりのお金を払って それでも25日に脱出したけど
それは自腹でしかなかったし 片道切符ゆえに空港で入国拒否をされかけた。
私は彼女の話を聞いて 心底フランス人と結婚したいと思った。
「国というのはこうあるべきだと思いました」なんて彼女が言った
私たちの出身国は 決してそんな国じゃなかった。
そんな国があるのなら 私も心底そこに住みたい その時強くそう思った。


 いいなあビザがある人は、、、

 いいなあいざというときフランスに飛べる人は、、、

 私は彼女がとってもうらやましかったけど

 今の時点で 私には他に選択肢がないわけで 目指すビザが難しくっても
他のビザは不可能だから それを目指してやってみるしかないわけだ。


 夢とか 自分の立ち位置って 一体何かなと思うこともあるけれど
今日は広尾の図書館でとても素敵な本に出会って それを読んだら
やっぱり間違ってない、と思えて嬉しくなった。
私が都市に住む背中を押した『クリエイティブ都市論』の著者が書いてた
『クリエイティブクラスの世紀』はぞくぞくするほど面白かった。
それは素敵な言葉に満ちていて 万年筆のインクが空になるほど
メモをとってしまったけれど 心に残ったものにこんな一節がある。

 「もし古いドリームが家族を養える仕事を持ち、彼らを守れる
安全な場所によい家を持つことだったとしたら、新しいドリームは、
自分が好きな仕事で、働くことを楽しめ、自分自身でいられるコミュニティに
住むことだ。」(『クリエイティブクラスの世紀』リチャード フロリダ p.110)


 そうか そういうことなんだ だから私はパリにひかれていたわけだ。
私は自分自身で居たかったから。そして私は古いドリームから
新しいドリームに移行しようとしていたわけだ。だから彼の本は
私の背中を強くドーンと押したんだ。でも日本では古いドリームの価値観が
ほとんどを支配しているから、新しいドリームと言っても話は通じないだろう。
通じなくって当然なんだ。でもだからといって道が存在しないわけじゃない。
きっとこれから未来は変わる そんなきざしを教えてくれる。

そうして彼は私の知らなかった
大切なことをまた教えてくれた。

 
 「私の理論では、文化とは人間のクリエイティブな潜在能力を
制約するものではなく、その成長を促進し、動かすものだ。別の言葉で
表現するならば「自由」だ。よく知られているように、自由は参政権よりも
重要である。自由とは自分自身でいられることであり、夢を追いかけることである。
開かれた文化はイノベーション、起業精神、経済成長に拍車をかける。歴史的に
アメリカ、特にアメリカの大都市が一般的に優れていたのは、まさにこの種の
開放性と自由なのである。」(同 p.93)


 だから私は自由と文化にひかれていたのか、、、
自由とは自分自身でいられることだったのか、、、!
だから私は 特に子供を産んで以降、女性の自由度がとても高い
フランスにひかれていったのだろう。だって子供を産んだ日本の女性には
この手の「自由」なんて存在しない。子育ては主体を失うことだと思うと
かつて友達は私に言った。自分自身でなんかいられない。
主語がいつの間にか子供になって、子供の都合で全てが決まる。
それがよくある日本の母親像であり 子供のために自分を
犠牲にしていくことが どちらかというといいこととしてとらえられている。
でもフランスはその逆だった。彼女たちはけっこう平気で
「それじゃ子供の奴隷じゃない!」と言ってくる。
そう それって奴隷なんだよ本当は。 でも そんなことすら言えない
だから私にとって 子供を産んでからの日本というのは
自由もなければ文化もないように映ってた。そこにはナチュラルとか
自然というやさしい言葉を使った古いドリームに帰れという制圧はあったけど
フロリダの言うような自由はなかった だから苦しかったんだ。


 もし私が 子供を産んでいなかったなら
ここまで狂おしくフランスを求めなかったかもしれない
フランス?一年に一回行ければもう充分!とまわりの人たちのように
思っていたかもしれない。でもそこには 女たちが声を挙げ
獲得していった歴史があった 女たち が 自分自身であるために
そんなフランスに対する思い そんなことを語っても
ビザとは関係ないよと言われてしまうけど それでもやっぱり
私はもっとかの地が知りたい。ボーヴォワールという人の後で
一体何が変化したのか いつの日か 女たちの状況について
私も本が書きたいなあ。


フランスの科学教育

2012年02月20日 | 日仏子育て事情


 「ハーイじゃあみんな 教えてくれる?
シャボン玉はね!一体何でできてるのー?」

「空気!」「それから石けん!!」「それから水ー!」

 目の前でハキハキとシャボン玉の成分について答えている
幼稚園児を目にした時に 私は度肝を抜かれてしまった。
これが フランスの幼稚園児?こんな質問 こんなにはっきり
日本の幼稚園児は答えることができるのだろうか??


 それは私がようやく何度も行きそびれていたかの有名な
Cité des enfantsという子供用の科学館みたいなのに
息子と行った時だった。「アトリエがはじまりますよー!」
と言われてよくわからないまま暗い空間に息子と座ると
ヒラヒラした妖精のような格好をした とても強い口調でしゃべる
お姉さんが 幼稚園児の団体の前でシャボン玉についての
講義をはじめたのだった。きょとんとして様子を見守るのは
私と息子で 団体で来た彼らは興味津々。


 「シャボン玉は三角形にもなると思うー?」
「いや ならないー!」「あれ なるかもな?」
そんな受け答えをしながら 彼らの前で次々に
大きな形のシャボン玉を作っていくお姉さん。

 そして彼女の投げかける質問に 幼稚園児は
簡単そうに答えてる。そう あたかも そんなの
しょっちゅう耳にしてますよ といった具合に
考えることさえせずに まるでABCの次は?D!といった具合に
シャボン玉の成分について答えてた。


 私がなんだか驚いたのは 彼らは「空気」というのを
知ってたことで その時は確か浮力に関する実験もあり
「どうしてこれは浮くのにこっちは浮かないの?」という
お姉さんの話の中に 浮力についても言われてた。
彼ら幼稚園児の前で わかりやすく浮力について!
なんか フランスの科学ってすごい、
ノーベル賞ものの科学者は沢山輩出してるらしいけど
それって幼少のころからの教育のたまものなのかしら?と
私は思ってしまった。


 ちなみにこのシテデザンファン、パリで子持ちなら
必ず何度も行くと言われる場所で、結構入場料は高いけど
「あそこねー うちの子が小さいときはよう通ったわ!」という
話をしょっちゅう耳にした。やけにばかでかい建物で、2歳から6歳くらいまでの
フロアもあれば中学生用のフロアもあるし、3Dの映画館とかもあり
高いので私たちは1回しかお金を払って行かなかったけど
驚いたのは幼稚園児用の工事現場があることだった。



 そこには発泡スチロールみたいな柔らかめの素材を使った
巨大な石材のようなものがあり、クレーンもあれば貨車もあれば
踏切なんかも存在してて そこに行く子は全員工事の格好をして
ちゃんとヘルメットも着用しないといけない(じゃないと
石材がどこからともなくどーんと飛んで来て本当に危ない)
そこで幼稚園児たちは一緒になって家を建てる!おい、
もっとブロックを運べ、これを使って荷をおろせ、とか
そんなことを命令しあって家を建設するわけだ。これはすごい。
息子も大喜びだったけど 彼は小さかったので お兄ちゃんたちの
圧倒的なパワーに押されてよく泣いていた。
ここではみんなやりたくてたまらないので決して誰も譲らない。
そんな男の子たちの夢見る世界が シテの中にはあるんだなあ。


 それもすごいなと思っていたけど
今日iPadの子供用のアプリで一緒に勉強してたら
ボンヌママンという、フレンチ好きな女子御用達の
おしゃれなクッキーのメーカーが、「ムッシュー ビスキュイの
何故?に答える」というアプリを無料でつくってて
ふしぎなことに 沢山の質問に答えてくれる。
「なんで猫はひげがあるの?」とか
「なんでカンガルーには袋があるの?」
「どうして牛には模様がついててみんな違うの?」とか
素朴な疑問に答えてくれる。それが1-2分くらいの
ビデオなのだけど とてもわかりやすくてなるほど!!と思う。


 こんなのを クッキー会社が無料で提供していること
それから動物たちに関する素朴な疑問をこんな科学的に
ちゃんと教えてくれること(2分くらいあるので
たった一言じゃなくて けっこう流れがしっかりしていて
なるほど!!ととてもためになる) それがすごい!と思ってしまった。

 フランスって 科学が日常にあるのかなあ?
科学っていうと難しい!!と思っていたけど
科学って「何故 何にこたえる」というムッシュー ビスキュイの言うように
ただの疑問、Pourquoi?どうして 何故?という 哲学と
まさに同じそのWhy?という問いに 素直に疑問を持ってしまったら
解決をせざるをえない それだけのものなのかもしれない。
哲学と科学の国フランスの 根底にあるのは Why?という問い
そしてそれを問うてもいいこと 問うたらそれに誰かが答える
「そんなことはどうでもいい!」というのではなく
「そうだね どうしてだろうね?」と考えようとしてみるところから
哲学も科学もはじまるのだろう。


 子供の視点から学んでみたら もしかして
哲学も科学も そんなに難解じゃないのかも。
ただそういう態度を常にもっていること その差が
20年とかしたときに ものすごい差になっているだけかもしれない
どうして?どういうこと?どうしてそうしないといけないの?
そんな疑問、疑うことが許される国
そこで発展しやすい学問 そこで発展しやすい物事
そういうものはあるのだろう。


 子供の視点でフランスを学ぶ
フランスの教育は やっぱり日本とは違いそう で
その根底にあるものを やっぱりもっと探っていきたい。
フランス流インテリジェンス その根底にあるものは?
それはみんなの好奇心であるかもしれない。

苦しみを越えて

2012年02月19日 | 女の生き方


 久しぶりに昔書いたブログの整理をしていたら
たくさんの子育てに関する葛藤の記事が出て来て
それら一連の流れを見てると 幸せだった時もあり
でも苦しかった時もあり 一概にどちらが と
言い切ることが難しいけど 一言私に言ってあげるなら
「苦しかったんだね、、、」ということだろう。


 でも私はその苦しみや葛藤を描き続けた。
描いた というほどではない。ただ公に人が目にできる場所で
それを記録にとり続けてた。おそらくそれには意味がきっと
あるのだろう。今になって 私は思う。
それは私だけの苦しみじゃなかっただろう
確かに私の状況は少し特殊だったかもしれない
確かに私は人よりわがままかもしれない
確かに私は人より子育てが向いてなかったかもしれない
けれど だけれどきっと この苦しみは
私一人が抱えていたような苦しみじゃなく
日本に住む多くの女性が 笑顔の裏で
抱えている同じ苦しみなんじゃないのかな と
ちょっと距離を置いた今 私にはそんな風に物事が映る。


 だからといって その後の私の人生が
あっていたのか 間違っていたのかはよくわからない。
でもソフィーはこう言っていた。「どちらがよかったとか
よくないとかじゃなくって 選択をしたということ自体が偉いのよ」
たとえその決断に自信なんてなくっても。
それでも私は失った人生から自分の道を歩み始めた。
重荷で倒れそうになっても 切り開くのは自分しかいない
もうフランスに行こうとしても 誰も私を責めはしない
場合によっては ベルリンに行こうが アメリカの
ポートランドに住もうが それは自由であるわけで


 過去のブログを見るとフランスは本当に遠かった。
夢のまた夢だった。そう 私にフランス語を教わりたいと
言ってくれる人が「いつの日かフランスなんて住んでみたいな」と
私に語ってくれるのとおんなじように それくらい遠かった。
ラジオ?そんなの3日も聞いたら疲れ果ててやめていた。
かつてのノートに私は書いた。「フランス語を続ける気力が欲しい」
そうしていつか 私は気力を手に入れて 一年半ぐらいで
飛躍的にのびてしまった。子どもが居ても子どもが保育園に行ってなくても
本当にやりたかったら やるしかなかったら 人間は
けっこうな力を発揮できる それだけはよーくわかった。
そんな私もどうにかフランス語の通訳ガイドの試験に受かり
実際に通訳やら翻訳やらをさせてもらえるようになった
なんだか不思議なことだと思う。


 子育て は 苦しかった一方で
(一番の苦しみは息子が三歳半を過ぎても保育園に入れてないこと)
だからこそ得られたこともある。男の子の子どもを持つ
母親同士の微妙な連帯感だとか フランスにいって女友達を
つくるのがめちゃくちゃ難しかったのに 息子と行ったら
公園で友達ができたこととか 集中力が上がったこととか
それに自分に余裕がありさえすれば 息子の笑顔を見るのはかわいい。


 結局のところ 私はさんざん「あきらめが肝心よ」と
いろんなおばさんたちに言われ続けて来たのに諦めたくなかったのだろう
あきらめることは 私にとって死を意味していたわけだから
「死にながら生きている」とずっと思ってたニュータウン時代。
魂が喜ぶような気持ちになったパリでの滞在
あの時たしか そう 私は思った。自分に生きることが許されるなら
死ぬよりはもう一度生きたいと。
そして本当にもう一度 ここに戻ってきたいと思った
あのアパルトマンの立ち並ぶ街。「目覚まし時計はカフェオレの香り」の
朝からカフェがテラスを出してるあの街へ。街路樹に風があたってさわさわ言う音、
緑の葉の合間から輝いてくる木漏れ日に 年期の入ったカフェの藤椅子。
乳母車を押していた彼女と歩いたあの路に 私は再び帰りたい。


 遠すぎた夢だった 夢想でしかなかったパリは
もうしっかりとした現実としてみえている。 そこに行くには
もっと何が必要なのか どういうことが辛いのか
何ができればいけそうなのか バラ色ではないけれど
それでも浮き足が立ってしまう シューケットのあるパン屋さん
青と白のひさしの小さな商店。蓮太郎のことをかわいがってくれた
移民の売り子のお兄さん。彼にまた 戻って来たよと私は言いたい
そんな暮らしがパリにはあって パリは現実に存在していて
そこに私の居場所があるなら 入る余地があるのなら
苦しんだすべても活かして もう一度パリへ戻りたい
そして向こうでも子育てをして 日本との違いを探りたい
苦しかった日本の子育て パリには違う何かがあった
そうそれはきっと 大人として尊重される ひとりの人間として
尊重される そんな風土なのだろう。
人権宣言の生まれた国の 大使館は私を許可しれくれるだろうか
もう一度チャンスがあるなら 私はあそこで子育てしたい。

明日もし死ぬとしたら

2012年02月14日 | 私の人生

 今まで感じたことのない 原因不明の
朦朧とした意識の中で 寝たり起きたりをくりかえし
これは医者で飲まされた薬のせいなのか
それともインフルエンザ自体であるのか私にはわからないけれど
意識というのがどこまで続いて
意識がどこで途切れて終わるか もう運次第みたいな感じがしてて
明日私は生きてるだろうか それは私にはわからない

 「くたばれギョーム!!」の歓声の中
アポリネールはそれは自分を非難されてるのだと思い込み
当時流行していたスペイン風邪で命を落とした
きっと彼の死に方は ものすごい苦しみではなく
意識が朦朧としていった中で 沢山の声が合わさって
気がついたら違う世界に行ってしまっていたのだろう

 
 この意識の朦朧とした感じがただの感じ過ぎなのか
なんなのかはわからないけど 明日死ぬかも と思いながら
布団の中で想いを巡らすと 元気だったら
「もっとこんなこともしたかったのに!」という力も
でるのだろうけど もういいや運任せ みたいな気持ちになってくる
お礼を言っておきたい人には言っておこう
そう思って最近ぶっきらぼうでちょっと怖い母に丁寧にお礼を言ったら
なんだか神妙そうな顔をされ「あんたも気をつけてね」と言ってもらえた。
この場を借りて影山さんにもお礼を言わせてもらいたいです
ほんとうにありがとうございました。これからも
お世話になれるといいです。元気になるといいのですが

 30年ちょっとの人生 関わってくれたみなさんも
ありがとうございました。ここでもし人生が終わったら
「あーカフェの本出したなあ」だけで終わりなんだろうなあと思うから
どこかのスタートだったかもしれない苦しみも ただの愚痴書いただけみたいな
ブログで終わってしまうのはもったいないなあと思うから
元気になったら やっぱり書きたい ほんとうは書きたい
女のことも 子育てのことも フランスのことも
どうしてなのだか人生の半分をかけて愛してしまったフランスに
関われそうな手前で死んでしまうのは 馬鹿げてるような気がするけれど


 「お葬式の時にみきちゃんはどんな人生だったね って言われたい?」
と先輩でありキャリアカウンセラーである人に言われた。それが人生の
プランだそうな 私にはよくわからなかった
でも「あの人はカフェの本を一冊書きました
結婚したけど幸せじゃなくて苦しがってたみたいでした まあ彼女
わがままだったからね」おしまい で
いいのだろうか 苦しみが何かのはじまりだとするならば
私はほんとうはもう一度 高く飛翔したかったんじゃないのだろうか
10年前にはできなかったことをするため
10年前になりたくてもなれなかった自分になるため


 だから神様は絶望のふちにいた私に一筋の希望の光を
くれたのかもしれない それは まだちょっと 遠くに感じられるけど。

 
 明日もし死ななかったら 蓮太郎にれんこんの咳止めを作ってあげよう
あんまり効果が感じられなかったけど 早くせきが治ってほしい

 生きるって何なのだろう どうして私は書くのだろう
書くのは何かを残すため そう 自分が生きた足跡を
またみなさんに元気でお会いできますように 

インフルエンザ

2012年02月13日 | 放射能のある中で



 突然の出来事だった。
息子が夜中に急に咳き込み、朝起きたら39度。
「今日は医者休みだからね!」の一言でへこみ息子の様子を見ていると
普段ぐったりなどしたことがなく この子ばかりは
放射能さえも吹き飛ばすだろうと思っていたような元気な息子が
ほとんど布団から動かない。これはおかしい、、、

 大丈夫なのだろうか と 様子をみようと思っていたら

 しだいに私も引き込まれ 意識を失いそうになる。

 意識を失うという感覚は もったことがなかったけれど
それは今でも続いてて このまま布団の上で死ぬんじゃないか
そんな感覚 ふっと身体が後ろにたおれてすうーっと魂がぬけてくような
そんな感覚が今日はとくに強くって


 「ほらね お母さん 1分で出ましたよ。2人ともインフルエンザです」
昨日ようやく行けた医者で検査され 私たちは2人してインフルエンザだと
判明した。恐ろしいほど身体が痛く ずっと悪寒が襲ってた。
息子は1日でけっこうよくなり次の日にはけろっとしてたから
さすが息子!免疫力が違うなあと思っていたら 彼もまだ治ってなかったらしく
医者に行った日はごほごほ咳き込み 怒った拍子か何かに鼻血が溢れ
もう我が家は地獄絵図。


 「鼻血」=放射能の症状 と思ってしまっていた私は
ついに来たか?ともうパニックになり でもパニックになっている間にも
血はどんどん落ちてくる。助けを呼びたいけどインフルエンザだとわかった今
家族を巻き込むわけにはいかない。彼らにこれが移ったら ただごとでは
すまないだろう。30台の私だって死ぬかと思った
それくらいすごく強かった 今でもこんなにふらふらするのに
抵抗力のもっとない人に移ったら?


 今年は確実にこのインフルエンザで死ぬ人が多発すると思う

 それくらい 私も息子も どうかわからないくらい 
これはとても強いと思う この先私はかくことを続けられるのか
けろっとするのか それとも布団の上で気がついたら意識を失っているのかは
神様にしかわからないけど 病人が病人を看病すること
しかも相手は言うことをきかない息子だということは 
とても簡単なことじゃない


 私は誰かに助けてほしい 助けて!と叫びたい

 どちらかがよくなってもどちらかの風邪でまた移る
おそろしいスパイラルが待っている。この機会にもう
言うことを聞かせようと必死になってやるけれど
私にはそんな余力は残っていない 怒るのはとてもしんどい


 明日には元気になるのだろうか

 誰か助けてください、、、

犠牲の母

2012年02月13日 | 女の生き方

 「みきちゃんさ、あんまり頑張らない方がいいんじゃない?
私の知り合いでね、おっぱいにがんばりすぎて疲れたのか
そのあと離婚しちゃった子もいるよ」


 かつて住んでた団地のエレベーターの前 で 友達が
心配そうに言っていた。その頃の私は義理の母の教えにならって
母乳至上主義みたいになっていて ミルクは駄目だと思ってた。

 「吉村医院にはね ミルクの箱すら置いてないのよ!
ミルクの箱を見るだけでお母さんはおっぱいを出そうって
気にならなくなるんだって!」そう言われたのを覚えてる。


 そうして私は体調がどんなに悪くなってても
どんなに身体がもたなくっても やたらとおっぱいで
がんばって その反動でケーキを食べては 何度も
母乳マッサージのところに通ったりした
そうしてそれでもおっぱいやら 布おむつやらを
私は続けていたけれど 結局のところ 私は
桶谷の先生が言ったように「あなたは犠牲の母」だったようで
そんなことは喜びでもなんでもなかった。
ミルクあげたっていいじゃないか?
そうまでして私はしんどくても母乳をあげないといけないのか?
子どものために?


 子どものため って何なのだろう?

 27歳で結婚をした私は28歳で子どもを産んだ。
それはほとんど旦那になった人のためだった。
彼は見るからに子どもが好きそうな人で 私は見るからに
子育てなんて向いてなさそうな人だった。
私の友達は全員目を丸くして「どうして美樹が
専業主婦で子どもがいるの??信じられない!」と
3年がたってみたって 同じ反応を繰り返す。

 私だって 同い年の人たちのように
ファシリテーションだとか ソーシャルベンチャーだとか
そんなカタカナ言葉のついた 楽しそうな集まりに
いつも関わっていたかった。だけど私には無理だった
行ったって子どもが泣くしぐずるから。
ミーティングに無理矢理いかせてもらったこともあるけれど
みんなが普通に入る定食屋には1歳の子どもは入れない。
そこで何を食べろというのだ?そこで息子がぐずって泣き出した時
私はほんとうにやるせない気持ちになった。
おっぱいが欲しいのはわかっていても
どうやってこの学生街の定食屋の一角で
息子におっぱいをあげられるだろう?そんなのは無理なことだった


 私だって 誰かのため と 思ってた

 でもそんなのは何でもなかった

 それが今になってよくわかる。

 私がこの人のためだと思って子どもを産むことにした人は
「子どもが熱を出したくらいで電話してくんな」と言った。
その後子どもがインフルエンザになって寝込んで合併症になったといって
2人して布団の上で穏やかに死んでたとしても
電話をするなということだろう 葬式にくらいは来るつもりはあるのだろうか
そんな「誰か」のために 沢山のものを犠牲にしていた
そんな生活 辛かっただけの生活なんて もうやめにしたのは
一生「犠牲の母」を続けて行くより よっぽどよかったとやっと思えた。

 「誰かのために生きてみたって」とミスチルは歌ってた。
「あなたの人生も大切にしなさいよ」と子どもを産んではじめて
フランスに行った時に会った人が語ってくれた。その時どんなに驚いたことか!


 「私の人生も考えていいの??」


 それは目を丸くするほどの驚きだった

 捨てなさい 諦めなさい こだわらないこと


 子どもを産んだあとから女たちは私にこう言って来た。
電話口で 電車の中で バスの中で 次々に開かれた口はそう言った。
私の人生は 私が大学にまで行ったのは 蓮太郎という子どもを
産むためだったのだろうか?「そうよ そんなことどうでもいいのよ」
それが私が子どもを産んで出会った女たちの共通した答えだった。

 この国に オルタナティブなんてないと思う。
アフリカよりはましかもしれない。でもそこまで
大差ないと思う。女たちの自由度は 一見ありそうにみえるけど
「結婚」というものをしたら「子どもを産め」という圧力がかかり
相当恵まれた職場にいたわけじゃないとその後の人生は
幼稚園ママ、PTA、そしてボランティア。
そして何かをしようとすると
「あなたは緒方貞子さんじゃないからね」と言われておしまい

 結婚をして 幸せじゃなかった人は?
幸せじゃない結婚を40年も我慢して 仮面夫婦になるか
熟年離婚を待てばいいの?


 結婚をしたらそれで幸せ。子どもがいればそれで幸せ。
たとえそれと引き換えに沢山のものを失ってても
「幸せ ということになっているから幸せなはず。」
そうじゃなかったら?「お前が間違っている」ということになる
たった一つの価値観しかないこの国で 苦しんでいるのは
私だけなのだろうか?

マスクの中で

2012年02月11日 | 放射能のある中で

 福島で立ち寄ったスーパーで 息子の好きな
カーズの柄のマスクが売られていたら なんとなく
お土産に と 買ってみることにした。


 家に帰って一度息子にマスクというのをつけさせてみると
なんだか切なく もうこんなことはしたくない と
思ったのだけど


 それから1ヶ月。私たちはやたらとマスクが必要な人になってしまった。


 蓮太郎な2週間くらい前から風邪をひいたり治ったりを繰り返し
昨日突然夜中に咳き込み 今日起きたら39度になっていた。
この子ばかりは いつもバカなことやっているから
バカは風邪引かないの言葉のとおり 免疫力も高いだろうと
思っていたけど 今日ばっかりは 寝込んでて たまに咳き込む
そうすると 経験上 彼のすごい風邪菌は 家族にたちまち
移って行くけど 家族はすでに寝込んでる。今日こそは、と
思っていたのに これ以上ひどくなったら一体どうしたらいいのだろう?


 私はマスクと縁がなかった 福島に行った時すら 持ってったけど
ほとんどできずじまいたっだ。なぜなら眼鏡がくもるから で
凍てついた福島の道路を眼鏡なしで歩くこと は それこそもっと
危なくて 車に突然ひかれるかも そんな状況で人を案内するのは無理だった。


 今になって マスクにもいろいろとあることを知り
眼鏡でも曇らないというマスクを買ったけど 今度はその匂いが
ちょっと気になって はたしてマスクを1日していることによる
気分の悪さと マスクをすることで守れるものを天秤にかけると
どちらがいいのだろう?と思う。


 マスクをしても 子どもがご飯を残した時に それをつい
食べていたら?マスクをしても 子どもがうがいをしたコップで
私もうがいをしていたら?そして息子は辛いとき程 一緒に寝てくれと
懇願している そんな中 で マスクを家の中ですることに
果たしてどれほど意味があるのだろう?


 私はもっと 呼吸がしたい 安心して息を吸いたい。


 福島で会ったお母さんは「はじめは息していいの?って
思ってた 今はさすがにそう思わないけど」と言っていた。
だけど私もそう思う 息ができるのはマスクの中だけ?
この小さな 守られたかのような空間だけが 私が安心できる空間?
もう思い切り息を吸うことはできないのだろうか?
どこか遠くに行くまでは?


 「子どもの教育を年間1ミリシーベルト以上の場所で行うこと」は
どうやら憲法違反らしい。だけどそんなこといったら横浜だって
計算するとそれくらいになってしまって それなら体調不良の
理由もなんだか納得がいく。結局のところ 放射能による病気というのは
「甲状腺ガンになって死んでしまう」ということよりも(それだけでいうと
かなり確率は少ないらしい)様々な慢性的疾患に悩まされて暮らすことなのだろう
疲れやすい だるい、病気が治らない 強いウィルスがきたらやられてしまう
免疫力が下がっていって それをいくら 他の方法であげようとして頑張っても
何ごともなかった時のように ちょっとやそっとじゃ変わらない。


 私も避難したいと思うけど じゃあどこに?どうやって?
熊本においでっていわれたら?はいそうですねと行けるのだろうか?
そこで何をして生きるのだろう よくあるのはスーパーのレジ打ちだろう
「選ばなかったらね ないわけじゃないんですが そんな選り好み
している場合じゃない!っていうんだったらあれですけど
でもなんだか今のこの状況だとね、毎時0.2マイクロシーベルトで
避難する必要がほんとうにあるのかなって思うんですよ
まわりにはそんなことをしている人もあまりいないし、、、」
といわき市の男性は言っていた。

 何でもいいから子どものために?それでその先に見える世界は?
はじめはそれでもいいだろうけど そのうち「犠牲の母」にならないだろうか
私には恐ろしい母子家庭の図ばかりが浮かんでしまう。
実際にそういうストレスを経験したからこそ「そんな一人で
全部やって子どもに怒ってばかりなのにくらべたら福島に
いる方がいい」と思って戻って来た人も多いのだろう。
田舎にいっても自分を活かせて働ける人はいいけれど
そんな人なんてめちゃくちゃまれな訳であり、、、



 結局のところ 準備するには時間がかかる。
誰しもが 簡単にネットさえあればお金が稼げる
どこにだって移動可能な時代だったらいいけれど
お金を稼ぐのは簡単じゃない 子どもがいたら
小学生なら転校すればそれですむけど それ以下の子は
「保育園にあきがありません」と言われたらおしまいだ。


 沢山のジレンマがある中で どうやって次の道を見いだすのだろう
避難したい人向けのビザをフランスとかドイツが出しててくれれば
嬉しいけれど 子連れになった瞬間に ビザはめちゃくちゃ難しくなる。
東日本から出たい人でフランス関係の仕事をしている人向けビザ、
もちろん子連れで3年可能とかあればいいのに!


 やるさなさが 沢山つのる 動きたくても動けない
「福島」の問題が どんどん自分の問題になっていっても
解決策はなかなか見えない。

体調不良

2012年02月09日 | 放射能のある中で

 「ほらね、君で3人目だよ。だから僕は福島には行かないな。」

 今日久しぶりに行った広尾のカフェで、仲良くなった外国人が
こう言っていた。「僕の友達もね、君と同じくらいの時期に
福島に行ってたんだよ。もうオーストラリアに帰ったけどね。
ボランティアで行ったんだって。1日くらいだったけどねえ
でものどのあたりが真っ赤になってね。彼も、君も、もう一人の
友達も 福島に行った後 病気になっているんだよ。
だから僕は 福島に行くのはやめておく。」


 私はどうしてあんなにも寝込んでいたのかわからないけど

 あの時は トイレに行くこと以外にもう身動きがとれなくなってた。
私 子ども連れて桜木町とか行こうとしていたんだっけ?
どこにそんなすごい体力があるっていうんだ?と不思議でしょうがなくなった。
倒れたのは 福島のことを話したくなって 一日中そういう話をしていた日の夜で
表参道でミーティングに参加して 頭が一杯になったその夜
悪寒がして なんだかどうにもならなくなって
そこからなんとかベッドにもぐりこんだけど そこからは
食事ものどを通らなかったし 本当に文字通り動けなかった。


 あれはどうしてだったのだろう?

 たしかに福島に行っていた時 のどの痛みを感じはじめた。
気にしたらよけい気になってしまったけれど 私にとって
印象が強烈だったのは 山形に行って夜に終電を逃してしまって
福島に帰れなくなったあの夜 雪の降り積もる山形で
私たは失敗をしてしまったというのに なんだか気持ちがよくなった。
「人生のいい面をみなきゃ! ほら山形ではこんなに深呼吸ができる、、、」
とかなんとか言って あたり一面の雪景色の前で深呼吸して
あれ 田舎って 地方都市って こういうのがあるんじゃなかったっけと
私はちょっと思い出した。そう 私が住んでいた洛西という京都の
はずれのニュータウンですら 桂川の駅に降り立つと山があって
うーんと深呼吸したくなる、ああ気持ちいい!とのびをしたくなる
そんな空気があったんだ。


 けれど福島では感じなかった。山の見える場所なのに


 「放射能は目に見えないし感じない」というけれど どこまで
本当なのだろう?放射能が細胞を破壊するなら それが自分の身体であったら
気づくことだってあるんじゃない?世の中には妊娠しても3ヶ月気がつかない
人もいるけど した瞬間にわかる人もいるわけで 感受性の違いというのは
あるだろう 私は福島にいた時に なんとなく肌がちくちくするような
少なくとも細胞が喜んではいないような 違和感を感じていた
そんな気がする。(しかも驚いたことに山形に一泊したらのどの痛みが
よくなった さすがに気のせいじゃない?とソフィーに言われたけれど)


 今日も沢山の本を読み このままじゃいけない このままでは
あまりにひどい!と思ったけれど 一方で ミスター100ミリシーベルトが
登場してきて「気にし過ぎが一番良くない」はーなるほどね、と
思ってしまう本もあったりもして だけどいろんな本をさんざん読んで
沢山の人たちの話も聞いてこの1ヶ月でわかったことは
世の中にはかなり自分の命をかけて 放射能から人を守るために
頑張っている人がいる。彼らはお金が底をつきかけても
なんとか大事なことを伝えよう、守ろうとしてやっている
まさに命がけで頑張っている。

 一方で 御用学者系の人たちは自分の立場を守るために
「大丈夫」大丈夫、たいしたことない、心配いらないと
声を大にして大手メディアを駆使して言っている。彼らが
守ろうとしているものは 自分の肩書きや立場であって
彼らは決して何かを捨てたりしてはいない。



 いろんな構造を学んでみると だいたい本の書き方や
参考文献あたりらへんで あーこの人ここらへんね というのが
わかるようになってきた。チェルノブイリのことも学ぶと
チェルノブイリにしてみたって 終わってないどころか
慢性的な疾患に悩む人の数は100万人をゆうに超えているという。
「ガンで即死」とかそういうレベルではなく、「~病」と
すぐに命名されるようなものでもなくて、でも慢性的に
治らなくってそれが続く そんな人たちが山のように存在している。


 免疫力が弱ったら そこにウイルスはつけこんでくる
どうして今年はインフルエンザが緊急事態なくらいにまで広がっているのだろう
どうして東京の人たちは 福島の人たちより多い割合でマスクをつけているのだろう
どうして今年はノロウィルスも例年の倍くらいで猛威をふるっているのだろう
郡山に居たときにタクシーの中で「今年はノロウィルスが流行ってます。
気をつけてくださいね♪」と軽やかな声がラジオから聞こえてきたけど
免疫力の下がっている人たちが多いそんなところで、普通の人でも
どんどんやられるノロウィルスが流行っていたら?立ち向かうことなどできるのだろうか
人がばたばたと倒れてく。 それは普通のことなのだろうか?


 「何かがおかしい!」と思っても 私たちは医者でもなければ
放射線や原子力の専門家ではないわけだから「あんた専門知識も
ないくせに」と言われてしまえばそれまでだ。でも、少なくとも
私も研究家とか名乗ってるから言わせてもらえば 研究って
「お前は口を出すな」というんじゃなくて 他の人たちの役に
立つためにするんじゃないのかな?まあ他の人というのが
一般市民であるのか それとも政府や原子力関係の企業なのかの
違いなのかもしれないけれど、、、でもせめてお医者さんや
弁護士ぐらい 市民の味方であってほしい。
(ちょっとですがそういう人たちもいます!!)


 福島で見聞きしてきたことやこれまでの情報を総括すると
「チェルノブイリより事故はひどいのに 共産主義だった旧ソ連よりも
日本政府の対応はひどい(ほんとうに何もしていない)」
つまり今後はチェルノブイリよりもひどい結果が想定される、ということだ。
事態は相当深刻なのに 日本はのほほーんとしていて 世界が
びっくり仰天してる。でもあの日本だから?大丈夫なのかしら?と
世界もあまり注目してない だけど本当は深刻なんだよ!助けてよ!と
思うけど このままでは黒船も来ない。でもそれでは困るから
私はフランスと福島だったりを結ぶ活動がしたいなあ、、、
何かが確実に変わり始めてる 何かはもう 起こっている
これ以上被害を広めないようにするために は 事実を知ること
それが大事だと思うけど 「大丈夫 考え過ぎだよ?」の一言で
全てはパアっと流れてしまう。


 ああ放射能、どうすればいいのかわからないけど
どうにか何かを考えたい。


自分を活かして

2012年02月07日 | 想いをカタチに

 「私にも何かできることがあったら教えてくださいね。」

 福島でインタヴューをして胸が熱くなる度に ただの通訳の
枠をはずれて 私も何かできることがしたい、と 強く
思うようになり 帰りがけにこんな言葉をよくかけていたら
「ふくしま集団疎開裁判」というののメーリングリストに登録されて
頭がちょうど福島で一杯になっていたころ それに加えて
めちゃくちゃハイスピードで高度な情報のやりとりが
されているメーリングリストで受信ボックスは満杯になり
見なくてもいいのだけれども つい読んでいたらだんだんと
胃が痛くなって来た。


 そう 確かに 言いたいことはよくわかる し
本当にそうだと思う でもどうしてなのだか胃が痛い
「こうすべきだ!!」と強く言われ続ければ言われる程に
本当だよなと思っていても なんだか身体は別の反応を示してしまう


 そんなことを思っていた折 「率直で忌憚のない意見を求む」と
書かれていたので 私も若者の一人としてどう思うかを
メーリングリストに投稿してみたら 「たしかにそうだ
ちょっとこれでは口調も強すぎて他の人がついてこれない」と
共感してくれた方もいて 発言をしてしまった責任も感じ
東京で開かれるというミーティングに参加してしまったが最後?
なんだかいろいろ振られてしまった。。。


 まさにその夜 議論について行くのがあまりに精一杯だったからなのか
本格的に体調を崩して それから寝込み ようやく体調も回復し
昨日またミーティング。私もわけがわかってないけど
みんな手探りの状態で でも期日はせまっているからやるしかなくて
みんなでああだこうだいいながらどんどん誰かに役割を振って
会がまわっていくのも面白い。私はここまで鬼振りされる会は
みたことないけれど それでもみんな「これは問題だ どうにか
しなきゃ」と思ってて 熱血な弁護士さんの姿勢に押されて
なんだかどんどん巻き込まれ 色々とやってくことになっている。


 ミーティングなんてものに 参加するのも 活動らしい活動を
するというのもなんだか久しぶりなんだけど 私の中での
何かが騒いでしまったらしく それはそれで面白い。


 福島に行く前は 何もわかってなかったし 
何かできることあるかな?なんて思っても ものすごく
遠い感じがしたけど 今になってよーくわかった
できること みんな 山ほどあるよ!
クリックをする フェイスブックで知らせるだとか
当日スタッフをやってみるとか ビデオをとるとか
チラシをつくる 文章をつくる 印刷の手伝いをする
演劇ができる人は演じればいい 音楽のできる人は
音楽を奏でればいい コーヒーをいれられる人はいれたらいい。
ただそれだけのことなんだ。100人の1パーセントが大切で
だけど今 福島関係の活動は 1人の100パーセントになって
倒れかかっている人がいる。これからはもっと
それらの活動に多くの人が関わって 無理なことをするんじゃなくて
自分の得意分野でできること を ちょっとお手伝いすればいい
それがすごい力になるって 私にはよーくわかった。


 本当は どこも人手が足りてない。
情報のあるところには山ほど情報がやってくるけど
それらはさばききれないくらいで 助けてくれる人を
待っている。他の言語に訳せる人も エクセルが使える人も
いろんな能力のある人が ちょっとそれを活かすだけ で
大きな力になっていく なんだかそれがよくわかる。


 人が集まれば力ができる 人が集まって口を開けば
もっと面白いことになる。指揮者のいないミーティングは
なんだかカフェのようだった。沢山の人が口を開いて
仕方がないから 自己組織化してなんとかやってく
誰かにすべてを頼れないなら ここにいる自分もきっと
やるしかないから関わろう って そういう活動
なんだかそんな姿勢は懐かしい。誰かが手を挙げてみる と
沢山の人が集まってくる。そうしてアイデアを出し合って
何かが現実になっていく 建設的な議論というのは面白い。
昔はミーティングが趣味みたいなものだったけど
ミーティングとカフェってだいぶ共通点があるんだな。


 人々が口を開いて 想いをぶつけ そこから何かが
生まれてく そんな場が今 沢山できてる
そういう中に少しでも関われること それはとてもありがたい。

不安の中で

2012年02月05日 | 私の人生

 「選択っていうのはね それ自体がいいか悪いかじゃなくて
選択をしたこと自体に意味があるのよ。選ぶ前は恐ろしい
ループの中で行ったりきたり どうしたらいいか
ひたすら悩んでいるけれど 選択したら動き始める
そうして道が少しずつ開けてくるから 決めること が
大切なのよ」とソフィーは居酒屋で語ってた。


 そうだよね そう 決めない という状況が
どれほどまでに辛いものであるかは私はよーく実感したので
彼女の言わんとしていることはよくわかる。だけど選択してみたからといって
それがすぐに開けてくるというわけでもなくて
特にいろいろな不安要素が浮かんでくると
もうどうしていいのかわからない。


 だから私は あえて人に 何も言わずに
とりあえず未来のイメージだけを夢見てなんとなく
やってきたのだろうと思うけど 時折厳しい現実を
目の前に突きつけられると 本当にどうしたらいいのかわからない。


 どうして私が こんなにも フランス語をやって来たのかと言えば
おそらくそれは恐れや不安があるからだろう。どうして
蓮太郎と一緒にフランス語の絵本を読んで 歌を歌おうと
するかといえば 彼がもしフランスの幼稚園に行ったなら
そのときわからなくて困るだろうな それに私もみんなが読んでる
絵本の内容がわからなくって困るだろうな そう思うから
今から練習 そう思って絵本を読んだりしてるのだけれど
フランス語 やればやる程 難しい。


 どうして躊躇しているかって?どうしてすぐに行かないかって?
そりゃああなたは たった半年で決めてすぐに行けたかもしれないけれど
私には息子もいるし どれほどの責任が肩にかかっているのかわからない。
もしフランスに行ったなら?国語教育は誰がするのか?
フランス語の活用は?誰もしてくれないとするのなら
私が全部教えられるくらいのレベルにならないと息子は
ついていけないだろうか?そんなことを考えてると
異国でスムーズに子育てをするというのは フランス語一級レベルが
あったとしても追いつかないような そんな気さえしたりする。


 だから私は「どうして日本でフランス語が上達できるの?」と
言われながらも いつの日か あっちにいって困らないようにと
一生懸命ラジオをきいて フランス語の幼児の単語を学んで
(卵を産む とか みみずとか)日々ああやっぱりわからない、、
いや でも前にくらべたら上達した?と思いながら
なんとか続けているのだろう。10年前は本当に苦しかったし
前に蓮太郎と行ってみた時だって山ほど難しさを感じていたから
もし 次があるのなら その時は苦しみたくはない そう思って
もうあまり泣かないで済むように なんとかやっているのだろう。


 そういった苦しみさえも いつか役に立つのなら
私はそれで嬉しいけれど それがガイドで役に立ったり
誰かの共感を読んでくれたり いつの日かフランス語講座ができたり
子供向けの歌から学ぶフランス語とかができるようになったとしたら
それはとても嬉しいだろう ああそれだったら苦しんだ甲斐も
なんかある と 思えるのだろう


 それでも?それでも? そう フランスは苦しくっても?
自分の言語が使えなくっても?それでも魅力があるのだろうか。
相変わらずついてけなくても?それでもヒントはあるのだろうか
違う土地 に 行く前というのはいつも怖い。
たとえ2泊の旅行であっても 私はいつも怖くなる。
それでも私は フランス語を話している自分の方が好きだと思うし
フランスにいると 泣くことだってあるけれど でも
心の底から幸せだなあと思える瞬間があったりするのは
やっぱり自分にとっては事実なんだろう


 たくさんの壁が目の前にたちはだかってるように見えても
いつかその壁は乗り越えられるようになるのだろうか
私もいつか 彼らの仲間に入れてもらえる日が来るのだろうか
そのころにはどれくらい流暢にしゃべれるようになっているべきなのか
それとももっと 言葉じゃなくって 自分の芯が大切なのか
沢山のことが自分のなかではっきりしないでまだ揺らいでる。
それでも私にとって書くということ それは重要だと思う
2冊目の本、いつの日か 書けるのだろうか
まずは机に向かうこと?まずは意識を集中すること?
フランス語よりも 日本語の能力を高めてみること?そうなのかもな
書く というのが何なのか は わからないけど
書くことは私にとっての一つの救いではありそうだ。
経験を昇華すること ただ個人的な昇華ではなく
もう少し一般的な形に昇華しようとしてみること
できるのかはわからないけど やらないことにはできないか。

ジャーナリスト

2012年02月03日 | 想いをカタチに


 「ミキはどうして自分のことをジャーナリストって言わないんだい?」
と先日 Paris-Bistro.comの代表に不思議そうに言われてしまい
こっちが不思議な気分になって どうしてジャーナリストって言えるっていうの?
新聞記者なわけでもないのに と 思ってしまった。


 ジャーナリストであるとか プレス ということを
名乗るだなんて 考えたことすらなかった。その両方とも
かつて新聞社で働いていて それから今独立して自分でプレスになってる
Paris-Bistroのローランが教えてくれたこと。


 ふーん プレスかあ プレスって かっこいいなあ
そう思ってたらフランス人たちのおかげでなんどか
プレスルームという空間に私も入れてもらうことができ
なんとコート掛けがあるなんて!!とか なんでこんなに
待遇がいいの?と驚いたり喜んでみたりしてたけど


 ジャーナリスト って 何なんだろう。


 どうして私は 1月に ソフィーと会う前の朝
空港に行くバスの中 今まさにセシウムの値が急上昇してると
知っていながら それでも空港に向かっていったのだろう。
あの日の朝 蓮太郎の顔を見ながら もしかしてこれが最後?と
ちょっと思った。私はとても怖かった。だけど私は行くことにした
よりによってこんな時 そう思ってしまった福島に。
(その後フランスのソフィーの友人からも大丈夫か?なんか
大変なことになってるらしいけど?というメールが送られて来た)


 おそらく 私は ジャーナリストというのをちょっと意識していたのだろう。


 そんな時でも行ってみること 他の人が この連休は
あえて西日本にでも行ったらと言っているような時 に
あえてそこに向かってみる。 そんな人はあまり居ないけど
きっと私も ただ通訳としてだけでなく 何かを感じてそれでも
新幹線に乗り込んでみることにしたのだろう。本当は2人して怖かったけど
誰かが行くこと そこにはきっと意味がある。


 そこからいろんな試練があって それでも私は
書いてみるということをした。それがいいのかよくないのかは
わからなかったけど とにかくソフィーは応援してくれ
知り合いのフランス人たちも応援してくれ 少しでも
それを読んで 何かを思ってくれた人たちがいた。
一人でもいいから知ってほしい そう思ってた。
このブログでも 少しは読者がいることを 私は知ってたわけだから。
私もツールを全くもっていないという訳じゃないから。
だからその後 福島の人が読んでくれたり
福島に関心を持った人が勉強になったと言ってくれたりしたのが
私にはとってもうれしくて なんだかそういうことを続ける
書く ということを続けていくこと それはとってもありがたい。


 1人でもいいと思ってた人が やがて2人になり 5人になったら
それだけでも本当に嬉しい。なんだか最近 私が書いたカフェの本は
一人歩きを始めてくれたような気もする。あの本を読んでくれた人に
この3日くらい立て続けに会い、 そういう人たちの話をきくと
ああもう私が説明しなくてもよくなってしまったんだなあ と 思う。
「はあ?カフェ?」と言われる時代は過ぎて 私の頭の中にはあって
誰も理解してはくれてなかった「カフェの研究とやら?」というのは
今では誰かの頭の中に それなりに残ってくれるようになっている。
それくらい内容が誰かの中に入ってくれたのならば なんだか私は
それとは違う世界にもう行ってもいいような そんな気さえしたりした。


 「私は人々の物語がある場所が好きなのよ」とソフィーは言った。
だから彼女はエジプトとか色んな国に取材をしに行くらしい。
どの国がどう、とかではなくて 女たちのストーリーのある国へ。
だから彼女はどこだったか イスラムの女たちの話もしてくれた。
女たちがもがきながらも自由を少しずつ勝ち取っていく そんな
ストーリーのある国へ 彼女は取材を重ねてく。


 私が今回どうしても同行したいと思ったのは
きっとジャーナリストの仕事を隣で見たいと思っていたのもあるだろう。
こうやって質問するのか こうやってメモしていくのか
彼女がこれからどんな風にまとめていくのかはわからないけど
私はけっこう右腕みたいにもなっていて 半ば以降はかなり
ソフィーは私に相談していて 私の意見を受け入れていた。
横浜でめちゃくちゃわかりにくかった脱原発会議のデモ会場を探す時、
「ソフィー、私のこと信頼してる?」と聞いてみたら「完全にね!」と
答えてくれた。アポイント、道案内、チケットの手配、そして通訳
それから人の話をきくこと そうしてそれを吸収して
それからまた質問して全体像を把握しようと努めていくこと
そうして真実を知ろうとすること、、、


 私にはとても面白かった。沢山の人が質問に対して
答えるときに私の目を見て答えてくれていたのが 私には
とても嬉しかったしそれが大きなことだった。少なくとも
ソフィーだけでなく 私も話を聞いてしまった。 しかも
彼らは私に向かって話をしていた もちろんそれは通訳だったからだけど、、
でも彼らの話は「そうなんですか!」とうなづく私にも向かって
発せられていたと思う。だから私も少しでも何かがしたいと思った。





 私は人の話を聞くのが好きだ。高校生のころも職人展に行っては
職人さんの話に耳を傾けていた。一度取材で新潟や山梨の職人さんの
取材に行かせてもらったときは本当に楽しかったし嬉しかった。
もちろん原稿に山ほど赤は入ったけれど それでもお話が聞けて
本当に素敵な経験だった。私は書くことも伝えることも大好きで
写真や文章を使いながら 何かを誰かに伝えることが
ジャーナリズムというのなら 私がやりたいことというのは
もしかしたら彼らのように ジャーナリストなのかもしれない。
ソフィーやローランがしてること それらはとても格好いいし
ソフィーには言ってみたけど 私もいつか フランスのあの
PRESSカードを手にしたい。(だって美術館がタダになるのだ!)


 ペンの力で人をひきつけ ペンの力で何かを変える
言葉が力強い意味を持つ そんなことができるなら
それは本当にすごいと思う。人と話し、質問をして 議論をしながら
どんどん書くこと そうしてそれをまとめていくこと
たくさんの消え行く物語 を 私もきちんと言葉にしたい。

フランスに行くなら

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