「無理しないでねー」 って 日本では
頻繁に会話に使われるけど そうか、無理しないでかー
そう考えると 何もできない だって無理しないと
友達とお茶することすらできなくて
「無理しないでね」そういわれると
待ち合わせをして そこに行くのが無理だと気づく
それなのにがんばって 東京モードの切り替えもできないままに
やたらと街にでていたら つかれがどーんときてしまって
ついにこちらで風邪をひく。誰も助けてくれない場所で
こうして私が倒れてしまうと れんちゃんの面倒もみて
ふらふらになるしかなくて 本当にどうすりゃいいのかわからない。
週末は金沢旅行にいくつもりでいたというのに
それも全部キャンセルで そうか子どもがいるというのは
旅行するのも無理なんだ、、、と顎然とする。
実家にくらいは帰れるけれど それも新幹線のドアから
ドアに送り迎えに来てもらってやっとのことで
一人では今でも烏丸までしか行かれない
そんな私が 独身の人と話すと つい昔のことを思い出し
あれもこれも やりたくなって 妄想だけがふくらんで
あまりに厳しい現実を 現実によって思い知らされ
全てを断念しそうになるのがもう辛い。
あーあ せっかく自我に目覚めてみたのにな
もう自分も大事にしようとおもっていたのに
そういうことはやってもやっても無理があり
何もかもがうまくいかない そうして家も大変になり
そんなところで風邪をひいたら もう何もかもがたちゆかない。
やっぱり諦めが肝心なのか そう思い始めていたところ
バスで出会ったおばさんに「この子は福がある顔をしている
こんな子を授かったというだけであなたは幸せなのよ!」と諭され
旦那のお父さんにも「いやーあの子は素晴らしいものをもった子だ
今はねえ 自分のことはおいといて子育てしたらいいんだよ」と
言われてしまう 今が一番大変だけど 今が一番幸せなとき、、、
子育てを終えたみなさんが 口をそろえていう言葉。
そんなかわいいれんちゃんが 一番いい顔をするのは
私と遊んでいるときで 一人でも遊んでくれてはいるけれど
お母さんと向き合ったとき 満面の笑みを見せてくれる。
私もそれが嬉しいし れんちゃんもそれが嬉しいわけで
相思相愛なこの時間を 外に向けた私の自我が打ち壊すなら
やっぱり自我はいらないのかな 家庭にちゃんと目をむけてれば
身体もこわすこともなく 幸せな時間があるのに
外に目をむけ 人をうらやみ 自分も!と思って焦ってしまうと
何もかもがうまくいかない。家庭で二人は辛いような
だけど幸せでもあったような 実際のところどうなのだろう。
子どもを持った人にとって 遠くへ行くのは無理がある。
ことわりにかなったことは家庭中心にすることなのか
職場復帰をしている人もいるけれど 私にはそんなことは
どうやらとんと無理らしい。こうやって 家庭中心にいきてって
知らないうちに 生きてる範囲がせばまってくと
いつの日か 私がかつて出会ったような「街というのは
近所の街で東京になんて生まれて一度もいったことのない」
そんなおばあちゃんになるのかな。かつてその人と会話したとき
「自由な女子大生」の私には全く意味がわからなかったし
そういう世界をイメージすることすらできなかったけど
今になったらなんだかわかる。彼女は女性だったから。
子どもをもって 家庭を守って生きてく人は狭い範囲でしか動けない
それってとても悲しいけれど それが理にかなっているのなら
受け入れるしかないのだろうか かつての日々を懐かしむより
自分の道を見つけたいけど いまはなかなか見つからない。