alternativeway

パリ、カフェ、子育て、サードプレイス、
新たな時代を感じるものなどに関して
徒然なるままに自分の想いを綴っています。

書くこと

2011年07月22日 | 書くということ

 形から入るとだんだんそれっぽくなっていく
ものなのでしょうか。最近はしょっちゅう「書く」と
いうこと、それからできるだけ東京を堪能しようと
いろんなところを取材させてもらおうとしています。


 翻訳の記事、取材記事、パリのカフェ、パリのビストロ、
いろいろと書いたものがあるのでよかったらみてください。

パリのカフェ 文化と歴史
http://www.paris-bistro.com/japon/culture.html


ビストロで食べられるフランス料理とフランス地方の特産品
http://www.paris-bistro.com/japon/cuisine.html

パリのおすすめカフェ ビストロ
シャルティエ
http://www.paris-bistro.com/japon/cafe/cafe_chartier.html

カフェ・ド・メトロ
http://www.paris-bistro.com/japon/cafe/cafe_du_metro_nippon.html


パリのギャルソンレースの記事
http://www.paris-bistro.com/japon/actu/course_garcon_de_cafe_orangina.html


パリの酔っ払いマラソンの記事
http://www.paris-bistro.com/japon/actu/marathon_saint_germain.html


日本でも人との出会いがあるカフェ的空間について
http://www.paris-bistro.com/japon/paris_japon/accueil.html

シャンパンのつくりかた
http://www.paris-bistro.com/japon/vin/vin_champagne.html


 これからどうなるのかわかりませんがやれるだけやっていこうと思います。
またパリに行けるといいなあ、、、

再び 孤独と書くこと 

2010年10月08日 | 書くということ


 いい加減京都に帰らなけりゃなと思っていたのは
ママサークルを何度も休んでいるのも申し訳がないからで
今日こそは行こうと思って 蓮太郎と行ってはみたけど

 どうしてなのか 私は行く度 そこで
孤独を感じてしまって

 いつもいつも それが終わるたび
何かをどこかで発散したくて 
私は書きたくなってしまう。


 1人でカフェにいったところで
1人で東京を歩いたところで
もちろんパリを歩いていたって
ここ最近は全くもって孤独なんて
感じたこともないというのに
不思議なことにママサークルや
このニュータウンの集まりにいると
私は孤独を感じてしまう。


 なんで どうして なのかなあ


 なじんでみようと それなりにして
それなりにいろんな努力はしてきたけれど
やっぱり やっぱり何かが違う
東京や 横浜やパリで感じていられた
居心地の良さ や きっと自分が自分でいられる感じは
この郊外のニュータウンでは得られなくって
なんだかつらく なってしまって
私はまた つい 口を閉ざしたくなってしまう。


 今日はサークルにいき 
そのあと喫茶けやきにも行ってみたけど
この場所に 欠けてるものは
ダイナミズム かもしれない。


 何かが起こって 何かがぐーんと変わってく感じ
東銀座のタリーズにいたときに夢をみさせてくれた感じは
当たり前のことだけど このニュータウンでは得られなくって
あれは銀座だったから。都会には都会特有のよさがあり
都会のカフェには 田舎のゆるいカフェでは得られない
都会特有のよさがきっとあるのだろう。
ここはのんびりしてるけど 本当に
子育てと 子供と山と田んぼしかなくて
知的な刺激を得ていたくって
誰か面白い人と交わって 熱く議論をかわしていたい
そんな私にはとてもつらい。


 孤独っていったい何なのだろう

 どうして私は 1人でいても孤独じゃないのに
むしろ1人でいたいのに 大勢の人に囲まれてると
孤独を感じてしまうのだろう。これは幼稚園頃からそうで
だから私は 日本特有の女子で群れるという
そういうの が とても嫌だったわけだけど



 どうしていったらいいのだろうか

 1人でカフェで創作してればいいのだろうか

 1人でこうして 書いていればいいのだろうか
私の息子を寝かしつけ 少しだけの余った時間で





 私はどうも ママサークルの人たちのように
子供に人生をだいぶ捧げて生きていくのは
かなり難かしいようだから 
子供はやっぱり1人にしておく方がいいのかな
サークルにいるとみんな2人目の話をするけど
相も変わらず 私はそれを恐れてる。
自分の道や人生っていったいどこに向かうのだろう
ここにいる人はもう家も買って 幼稚園も決まったりしてて
ずっとここに住むんだそうな
私もけっこうがんばったけど
私にはどうもそんな暮らしや生き方は
向いていないようであり 
もっとダイナミックに議論して
知的な刺激を受けていたいな
もっとワクワク もっと興奮していたい。
わたしはのんびり暮らすより 刺激的に
自分の限界にちょっと挑戦するくらいで
生きてる方が楽しいらしい 


 もっと楽しく生きるには?
もっと自分を知ることか。

孤独と書くこと

2010年05月26日 | 書くということ
 今日はユーロが112円にまで下がったらしいので
街にいって外貨両替!?と思っていたけど
蓮太郎と街に行くとかなり疲れてしまうので
仕方がないからそれは泣く泣くあきらめて
(すでにかなり以前にけっこう両替してしまってる)
うちの近所で開催されてた子育て支援の会に参加した。


 どうかなーという気持ちでいったら案の定
楽しいというより淋しさを感じてしまって
かつてなんとかつくっていってたママ友達も
もうここには誰もいなくて(みんな保育園に預けて仕事)
楽しそうに群がってるのは一才未満のお母さん達。


 盛り上がってる話をきくと ストローがどうだとか
あーそんな話してたよなーという「過去」の話で
この輪の中には入っていけない雰囲気で。
今日はれんちゃんもお母さん返りしてたから
かまっていればよかったんだけど なんだかやっぱり
淋しくなった。こうやって かろうじてつくって
仲良くなったかにみえた人たちは みーんな
3月になったら「急に」保育園に行くことになってしまって
それからまるきり連絡もない。

 
 そしたら帰り際にれんちゃんが 一番近所で
一番仲良くなって 週に何回か遊んでた Mちゃんの家の
前にとまって「Mちゃん Mちゃん」といいはじめる。
どうせ今日はいないだろうとわかっていたから
「じゃあピンポン押してみる?」と言ってみると
彼は喜んで押すのだけども やっぱりシーンと静まりかえって
その反応がとても淋しい。そして蓮太郎は家につくなり
玄関の前で「Mちゃん Mちゃん!!!」と叫び始めた。


 今までこんなことなかったのに、、、 小さいからもう
忘れたかと思っていたけど きっと本当は 蓮太郎もこの
異変に気づいて でも自分なりに我慢をしていたのだろう
彼は20分くらい泣き続け なんど言っても玄関のドアを
ガンガンしてて せっかくできた友達なのに
なんでもう会えないんだろうと思って悲しかったのだろう

 そんなこと言ったらね お母さんだって悲しいよ!
お母さんだって言わなかったけど とっても淋しいと思ってるんだよ
だけど仕方がないじゃない、、、 もう働き始めてしまったんだもん



 そうはいっても 私にとっては 気の合う友達で
しかも子供の年齢もそこまで変わらない人を探すのなんて
やっぱりとっても至難の技で 得難い存在だったのに なあ
思い返す度に淋しい。ママ友をつくろうと思って
そういう会に参加しても 今のママたちは「働くか
それとも二人目を産むか」という感じ で
どっちにも踏み出せないでいる私にとっては
そのどちらかをとったら研究なんてできなくなるんじゃないかと
恐ろしくなってる私にとっては なんだかどっちも難かしくって


 私は私 なんだけど
私はママなだけじゃなくって
私は私 なんだけど
なかなかそれも表明できない


 だから私は書くのだろうか
だから芸術家たちは自分で世界をつくるのだろうか
友達の輪の中で群れられないなら
自分のいたい世界じゃないなら
自分で世界をつくりだそうと 創作活動をするのだろうか


 私が書いた文章達は
ママサークルにいる私よりも
公園にいる私より も
もっと自分を表明してて 自分を表現してる気がする
誰に向けて書いているのか そんなことはわからないけど
近くに友達が見つからなくても 未だ見ぬどこかに
私が出会うことない誰かが いつかどこかで
共感してくれることもあるだろうかと
私は書いているのだろうか


 先日 アナイスニンという人の書いた日記を読んだ。
それは彼女の私的な日記なんだけど アメリカで
出版されて多くの女性が「これは私の日記だ!」と
思ったらしい。私の日記もいつかそんな風になるのだろうか
そのために は カタチにしないといけないけれど、、、


cafeという思想

2009年02月18日 | 書くということ

 昨日ちょっともののはずみで自分の著作名で
ネット検索をしていたら なんと自分の著作を読んだ!という
タイトルで ブログを書いてくれてる人がいた。


 どきどきしながらどんなことが書かれているのか
読んでみる と その人はめちゃくちゃ理解をしててくれ
私が紙に書いた言葉を 時折引用すらしてくれて
カフェとサロンの違いとか どんなアトラクターが
存在してたかなどなど かなりしっかり書いててくれた。
それらの言葉を 私はネット上には書いていないから
どう考えても あの本の紙に書かれた言葉を
読んだ人は咀嚼して 自分の言葉に組立て直して書いたのだとしか
考えられず 私が書いたつたない言葉が誰かの中でまた
言葉になった そのうれしさに感動を隠せなかった。


 しかもその文章を書いていたのは東大の若手の先生らしく
京大からはなかば追われるように出て行く羽目になってしまった
私がカフェで書いたもの を 東大の教授がきちんとよんで
しかも「良書」だと言ってくれてる!!それが本当に嬉しくなった。


 ボーヴォワールは少女のころに いつか自分が書いた小説に
涙をながす 自分以外のもう一人の少女がきっといるだろう と
その人のために その人を想って小説を書こうと決意したのだと
言っていたけど 遠い日本で 50年後に彼女の言葉に心を打たれる
私がきちんと存在していたわけであり 彼女は私を知りもしない。

 見も知らぬ誰かのために 何かを書くと言うことは
短期的にはむなしいことで 誰にも何も訴えてないこともある。
私は本を書いたけれども 自分にとって それはすごいことだけど
「大学は出たけれど」の次にくるのは「本を出してはみたけれど」で
ものすごくがんばって本を出しても まわりの人は「あーそうなんだ~」
意外にもそれでおしまい。「今度買うねー」「買ったよー」
それでその後はどうなったのか 知ることのないまま時が経ち

 そうか本を出しては見ても ずっと憧れてた行為をしても
結局はこんなものなのか なんだかむなしい 子育てのほうが
ずっとダイレクトに喜んでくれる よく知ってる我が子がいるから
その方がいいかもな、、、 せっかく本を出したのに、、、
長いことそう思ってた。


 けれども昨日学んだことは 本というメッセージは
見知らぬ誰かに 随分と時が経っても 届く可能性があるわけで
ボーヴォワールの知らない私や多くの日本人女性たちが
彼女に影響を受けてたように いつの日か 今ではなくても
いつの日か どこかで誰かが自分の言葉に「そうだ!」と思う
そんな日が来るのかも


 cafeとは思想かもしれない。 もしかして私の書いたcafe論は
21世紀的な思想の一つかもしれないと 思ったこともあるわけで
何がどうとはいえないけれど これからの時代に必要な
そんな思想かもしれなくて 「そうだ!」というのは
私ではなく それを聞いた見知らぬ誰かや
それを読んだ見知らぬ誰かかもしれない。
そうして誰かが私の言葉に影響されて それをまた
自分の言葉で伝えていって それがどこかに広まるのなら
それは一つの思想なのかも だとしたら私が書いたあの本も
多少は意味があるだろう。短期的には むなしくっても
身近な人には響かなくっても いつの日か 
どこかの誰かに 私の言葉が響けばいい。

フランスに行くなら

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