alternativeway

パリ、カフェ、子育て、サードプレイス、
新たな時代を感じるものなどに関して
徒然なるままに自分の想いを綴っています。

急進主義に走る若者達

2015年11月30日 | フランスあれこれ


「イスラムは愛と平和の宗教である。」
それは耳にタコが出来る程、1月のテロの後に
イスラムの地位ある方々が語り続けていたことだ。
そして彼らはなんとかして1月のデモに
イスラム教徒の人たちにも参加するように呼びかけて、
彼らなりに発言しようとした。
それは今回も同様で、ラジオに出演していた自身も
イスラム教徒という男性は、バタクランの前で
マルセイエーズを歌ったイマムの姿に非常に
心を打たれたと言っていた。

「イスラムは愛と平和の宗教である・・・」
けれども1月の私にはピンとこなかった。
何故こんなにもイスラムを代表する人たちは
「愛と平和」を強調し「それは自明のことである」
(もはや説明するまでもない)という態度を示しているのに、
一方では同じ「イスラム」という名のもとに
世界で散々な行為が行われているのか・・・
その後私はかなり勉強したと思う。イスラムに関する本も
何冊も買い、モスクにも行って説明も受け、1月のテロに関する
イスラムの人たちの講演会にも参加した。
でも正直謎は深まるばっかりだった。

そしてやっと今回の事件の後の分析に触れ、
自分の中でその謎が解けてきたように思う。
イスラムはおそらく実践の宗教なのだ。
もちろんコーランは大事とはいえ、日々の実践、
生き方でこそ、イスラムの在り方がわかるのだろう。
だから彼らは態度で示し、「わかってよ」というのだろう。

それに対して私は理解するために本から入ろうとしてしまい、
本を読むともちろんコーランが引用されており、
その中には恐ろしい表現や「目には目を・・・」的な
言葉も説明されている。そこがイスラムとの出会いになり、
言葉通りに受け取ると、おそらく誤解が生じるのだろう。
なぜなら「原理主義」というのは言葉通り、教典に書いてある通りに
実践せよという方法だから。原理主義はイスラムだけでなく、
ユダヤ教やキリスト教にもある考え方で、シャルリーエブドは
この「原理主義」を批判していた。理想と現実が対極にあるのなら、
教典そのものと現代社会にも矛盾はつきものだ。
それをどうすりあわせてやっていくか・・・
すべての宗教はそれなりに近代社会の変化に合わせ、
少しずつ変っていった。だが原理主義はそれを認めない。
そして教典から入り、それだけから宗教を理解しようとするのは
キリスト教を理解するために教会に通い、牧師さんの説教をきいたりせずに
ひたすら聖書を読んで理解した気になるのと似ているように思う。
だからそこにズレが生じ、イスラム教とイスラム原理主義との
混同が生まれてしまうのだろう。


なぜイスラムをきちんと信仰し、実践しつづける人たちが
1月のパリのテロリストや「イスラム国」に対し
「あんな人たちは関係ない!一緒にしないで!」と叫ぶのか。
それは彼らの言うように、本当に関係ないからだろう。
ところがどうも日本ではイスラム教とイスラム国、
テロリストが微妙に混同視されているように思う。
「イスラム教の人たちがヨーロッパで差別にあって、
それでこんな事件を起こしちゃったんでしょ。
イスラムの人たちも可哀想・・・」これは同情しているようで
実際には彼らが一番恐れ、嫌がっている「混同視」ではないのだろうか。
今回のテロ犯やジハードに参加するフランスの若者たちに関する
記事をできるだけ多くチェックして、それなりにわかったことがある。
まずテロに参加する若者の多くは確かに移民二世ではあるが、
ほとんどの場合もともと経験なイスラム教徒ではなかったということだ。

これは私たちの状況を想像してもいえる気がするが、
敬虔なイスラム教徒は普段の生活においてイスラム的在り方とは
なんであるかをよく知り、それをできるだけ実践しているとする。
そんな人たちに対しては、人殺しやあえて平和を乱すことは許せないし
あり得ない。(もちろん人殺しは大罪)小さい時からモスクに
通い、実践している人には理解不能なことだろう。
(だから彼らはものすごく嫌な顔をして「一緒にしないで!」と
言うし、「イスラム国」への報道に対し、混同視されないように
「イスラム」という名を使わないように世界の報道機関に
訴えたのもイスラムの人たちだ。だから「イスラム国」は
ISとか、フランスではEIとかDaeshと報道される。
ちなみにオランド大統領はその点ものすごく気を使っている)


けれどもイスラムとは何かをよくわかっておらず、
ちょっとした不満をかかえ、軽犯罪歴のあるような
若者達が誰かにそそのかれ、イスラムとはこういうものだ、
世界はこんな酷い状態にある、君も武器をもって
ともに戦おうではないか・・・と洗脳された時、
残念ながら教典の一部をおどろおどろしい解釈で
読み取る事も可能なのだろう。とはいえ彼らの多くは
イスラム世界のために!というよりも、自分たちの
承認欲求をみたしてほしい、くすぶる気持を
正当化し、暴力さえも正当化してくれる心地よい
「何か」に出会った、ただそれだけのことだと思う。
フランスのジャーナリストや知識人はがっくりさせるような
事実を教えてくれる。ジハードに参加したフランス人が
その直前に「馬鹿でもわかるイスラム教」という本を
ネットで購入していたこと。ジハードに加わる
者の30~40%は新たに(急進)イスラム教に
改宗した者であること(つまりそれまではイスラムなんて
しらないで生きてきたし、「イスラム教であるが故の
差別」を経験したこともない者だった)フランスで急進主義として
目をつけられている者の3分の2が15歳から25歳までの
若者であること・・・

私が経歴を読んで来たテロに関与してきた者達は
どちらかというと「イスラム教徒だから差別にあって」というよりも
家庭が貧しく、両親が離別や死別といった苦しい生活環境の方が
目立つように思う。それなりの生活をしているイスラム教徒の人なら
きっと子供達をかまってモスクにも連れて行けるのだろうが、
子だくさんで片親になってしまったような場合だと、
貧しさ故に子供に構う暇も余裕もない。
どちらかというとそんな環境で生まれてしまった
心の空白、誰も自分に構う余裕がないという淋しさを
うめたい、すこしでも注目されたいといった思いで
まずちょっとした盗みがはじまって・・・という
貧しさ故の辛さの方が目につくように思う。

心の空白、満たされない気持、だれも自分をまともに
構ってくれない・・・そんな時、やさしく寄り添ってくれる
「師」に出会い、彼のもとで自分が生まれ変わっていく。
急進派になって「テロリスト」として死亡した若者の
友人達はたいてい口を揃えて「昔はそんな人じゃなかった。
やさしい子だったのに・・・」と言うそうだ。

移民二世でテロリストになった者達は両親の宗教や文化も
しっかり引き継いではおらず、フランス語も両親より上手く、
西洋文化の中で普通にお酒を飲み、女の子をナンパするような若者だった。
ところが彼らは急に「別人」になる。そして名前を変えることすらあるらしい。
今までコーランをしっかり読んだ事もなければお酒を飲み、
ヴェールもまともにかぶらなかったような人が突然
ヴェールをかぶり、気付けば全身を覆うヴェールになっている。
(でも彼らが全員「イスラム国」に賛同しているわけでもなく、
シャルリーエブドを襲撃したクアシ兄弟の妻達は
全身をヴェールで覆っていたが「そんなのありえないよね」と
話していたという(夫も賛同していたそうだが・・・))
そして彼らは世界全体に対して戦を挑み始める。
西洋文明だけでなく、世間と折り合いをつけている
今日のイスラム教の在り方も目の敵にして、
全ての「間違っている」ものに対して戦いを挑みはじめる・・・

これはイスラムの問題というよりは急進思想に染まる若者の
問題といえるのではないだろうか。私にはこの問題は
学生運動の時代の連合赤軍やオウム真理教にはまっていった
若者たちの問題により近いように思えてしまう。

おそらくそれほどまでに
穏健なイスラム教徒と、超急進的なイスラム(の名を借りた
人たちの集まり?)の間には隔たりがあればこそ、
穏健的なイスラムの高い地位にある人たちは
「あんなものはイスラムではない!」と言うのだろう。
何故彼らが急進思想に走ったのか?それは貧しさであり
教育の問題でもあるかもしれない。手っ取り早く自分の
心の乾きを満たし、「答え」を教えてくれるもの、
それが「解決策」であれば、何だってよかったかもしれない。
フランスではある時急に自分の息子がシリアに行ってしまう人が
いるという。その親の哀しみといったら半端ではなく、
「ドイツに行くっていっていたのに・・・」と泣きそうに
なりながらインタビューに答えている。
何が?どうして?彼らをそうさせてしまったのか?
麻薬のような魅力をもった解決先の向こう側には
死が待ち受けている。私には彼らの心の乾きは
激しい承認欲求のように見えてしまう。


参考文献 Le Mondeより
Olivier Roy, "Le djihadisme est une révolte générationnelle et nihiliste"
"Pour les désespérés, l'islamisme radical est un produit excitant"
"Hasna AÏt Boulahcen, entre vodka et nijab"

 

オランド大統領

2015年11月28日 | フランスあれこれ
 テロが起きてから2週間後の金曜日、
パリのアンバリッドで犠牲者への追悼集会が開かれた。
そこで演説する人はたった一人、フランソワ・オランド大統領だ。
彼は月曜日にはキャメロン首相と会談し、火曜日には
ワシントンに飛びオバマ大統領と会談。水曜にはパリで
ドイツのメルケル首相と会談し、木曜にはモスクワに飛び、
あのプーチン大統領とさえも合意を得る程に
世界を必死に駆け回っていた。そして今日、
アンバリッドで犠牲者の家族の前に追悼集会が開かれて
犠牲者の全ての名前が読み上げられた。
犠牲者の多くは35歳以下の若者だった。
彼らは生粋のパリジャンばかりではなくて、
129人の犠牲者は17カ国の国籍が入り交じっていた。
パリの超お金持ちの地区ではなく、若者達が
楽しく語り合う金曜の夜、まさにサードプレイスで起きた惨劇。
何故こんな場所で・・・という疑問に対し、
パリ市長やオランド氏らは多様な人が入り交じって
楽しそうに過ごす場所がテロリストには許せなかったのではと捉えている。


 今回もオランド大統領が演説をするというので私は
France 2の中継を観ようと思いパソコンを開いていた。
彼の表情はまさに曇っているとしか言いようがなく、
昨日まで世界を駆け巡っていた力強い人とは別人のよう。
私は約15分間の演説を聴き、全て理解した訳ではないにしても
1つの事に気がついた。彼は本当に苦しんでいる・・・

 1つの国のトップとして、あの日からどれほど動いてきたことだろう。
彼は眠っているのだろうか?楽しくサッカーを観戦していたときから
目の前の世界は一瞬にして変ってしまった。
テロがわかってから即座に指揮をとり、突入作戦終了後にはバタクランに駆けつけた。
鳴り響く救急車や警察車両、救護される人たちを目にして彼は
何を思っただろう。ラジオとインターネットの新聞からだけでも
ものすごい惨状が伝わってくるというのに、彼は国のトップとして、すべての
現場を見ていった。そして今日彼は犠牲者たちについて語った。
彼らの年齢、どんな職業についていたのか、ミュージシャンも多かったこと・・・
学生、ジャーナリスト、公務員、アーティスト、様々な職業の人が
入り交じり、国籍も肌の色も宗教も混じっていたこと・・・

 空爆を指揮する傍らで、彼はこと細かに状況を把握し、
演説原稿をいちいち仕上げ、自らの言葉で語り続ける。
彼の言葉は出来合いの言葉ではなく、彼自身の気持がこもっている。
それは「イスラム国を何が何でもぶち倒せ!今に見てろ!」というのとは違う。
私は彼ほど言葉を選ぶ人を知らない。
彼が一切「イスラム国」とイスラム教徒を混同しないように
どれほど言葉に気をつけているかは演説を聴くだけですぐわかる。
1月のシャルリーエブドの事件の際の彼の対応や呼びかけに
私は心底感動していた。「今から大統領の演説です!つなぎます!」という
フレーズが入るたびに フランス国民でもない私は
熱心にラジオに聞き耳をたてていた。
私をまず感動させたのは、彼があの事件の直後に
わざわざ予定を入れ替えてまで、アラブ世界研究所で開催される会議に
演説をしにいったことだ。彼はあの状況の中でイスラム教の
地位ある人たちに呼びかけた。「アラブ世界と西欧の交流の歴史が
文化を育んできた。いまこそ新たな文明交流をしていこうではないか」
そして彼はこう言った。「イスラム急進主義のテロの一番の犠牲者は
イスラム教徒の人たちである。」
彼はことこまかにイスラム世界の歴史や文化的役割について
語っていた。きっと沢山の国を訪れて、本当に敬意を表していたのだろう。
このことは日本ではほとんど報道されなかったけれど、私は
彼があえてとったこの行動に一人心を打たれてしまった。

 「寛容の精神」それを1月に見せたのは彼ではなかったか?
けれどもあまりにも寛容にしすぎた結果、また甘くみられてしまった。
ヨーロッパの境界はゆるすぎだった。国境をコントロールした後でさえ
ベルギーに逃げていけるテロの犯人。取り締まりを強化したはずなのに
再びパリで起こった大惨事。殺戮現場がどれほどの惨状だったかは
生存者の証言をラジオで聞いただけでも鳥肌が立つ程伝わってくる。
血のしたたる現場を1年で2回も自ら目にした国のトップが憤り、
断固たる態度をとろうとするのも当然のことだろう。

 それでも今日アンバリッドにいた彼は、14日に演説をした彼とは
別人のようだった。どちらかといえばその人は、1月のテロの後
それでも連帯を呼びかけていたあの人に近い口調で語っていた。
彼は本当に苦しみ続けていたのだろう。自分がとった寛容政策が
いけなかったのかもしれない。テロを起こしたわけではないが
危険人物とにらんでいた人たちのリストはあった。
そこをそのままにしていたからか・・・その反省から非常事態宣言が
延長されることになったのかもしれない。彼は議員達を急遽ベルサイユに
集めて演説し、最終的に非常事態宣言の3ヶ月の延長はほぼ
満場一致で可決された。

 社会党で左派の大統領は空爆もシリアへの介入もためらっていた。
イラクの事態で反省していた国際社会のトップ達は
また泥沼になるのを懸念して介入を躊躇していた。その結果起きた事は?
シリアでは化学兵器で市民が無惨に殺され、イスラム国は
勢力を伸ばし、ヨーロッパやアフリカでのテロを次々引き起こしている。
(チュニジアでも先日テロがあり、10人以上が亡くなった)
キャメロン首相はオランド氏との会談の後、議会に向けて語りかける。
「今行動を起こす事によるリスクと、行動を起こさないままでいるリスクと、
どちらの方が高いのか?」おそらくそれは、出会うたびに
彼らをなんとか説得していくオランド氏に言われたことなのだろう。
誰だってリスクはよく知っている。反対意見も知っている。
アメリカもイギリスも議会は慎重な姿勢を見せていた。
だから介入はしなかった。そこをイスラム国が嘲笑い、勢力を
伸ばしていった。空爆による被害、イスラム国へ動員されること、
そこで奴隷になることや、批判して殺されること。
シリアを逃れ、故郷への想いを抱きながら難民として生きること。
他に選択肢があるのなら、きっとそれが一番いいだろう。
シリアの問題は入り組みすぎて何が最善なのかを理解するには
それだけでも相当の努力が必要だし、簡単にはわからない。
世界の知識人だって、明確に一致した答えがない状況なのに
状況を正確に把握しきっていない一市民が急いで出した答えの方が
的を得ているとも言えないだろう。


 私がオランド大統領の話を聞きながら思うのは、少なくとも、
彼はブッシュ大統領とは違うということだ。
私は彼の話を聞く度に思ってしまう。この人は人の心の痛みがわかる人間ではないかと。
彼の言葉は上っ面な印象がなく、政治家にしては珍しい、実直で、
弱い立場に置かれた人の気持がわかる人ではないかと思う。
話し方だってマリールペンやサルコジや他の大臣とはまるで違う。
本当にすごい人ほど謙虚だというのなら、
彼のすごさはそこにあるように思えてしまう。

 空爆だけが答えではない。
そんなこと、おそらく百も承知で選ぶことにしたのだろう。
(それにフランスの軍の参謀も空爆だけでイスラム国を
倒す事はできないと言っている)
そこにもちろんリスクはある。それでも世界で一気に協力しあって今この時点で
対処することこそが、よりよい未来につながっていく、そんな信念があればこそ
彼は世界の大国のトップと話し続けたのではないかと思う。

 オランドは私の先輩だった。未来はもっと明るいし、私たちの手で変えていける、
そんな民主党的夢想を抱いた20歳の私は留学先の学校の冷徹な姿勢に驚いた。
若者の夢想は砕けさり、叩き込まれたのは生々しい国際政治のあり方だった。
世界には大国と小国があり、世界は戦争で満ちている・・・
そして「理想」は「現実」と相対する言葉である。
まだ希望で一杯の若者に、こんなに夢のないことを教えて
どうするんだろうと、日本から来た私は憤りで一杯だった。
けれどもあれから15年経ち、原発事故やイスラム国の人質事件等
色んな出来事を経験するうち、あの学校で教わったことが正しかったのではないか
と思うようになってきた。世界は戦争で満ちている。私は知らないで育っただけだ。
日本の新聞は世界で起こっている事をこと細かには教えてくれず、
1日でもチェックし忘れると世界の重大なニュースは去っていく。
けれどもルモンドやBBCに普通に触れていればそんな問題は常識だ。
ヨーロッパやアフリカ、中東で起きるテロ。イスラエルで続く紛争。
イタリアや英仏海峡間に溢れる難民達と命がけの渡航の様子。
イスラム国やシリアの状況を命がけで伝えようとする市民・・・

 国際社会は冷徹な取引で満ちている。そこには希望や期待、
いざとなったら誰か(アメリカ?)が助けてくれて・・・なんてことは存在しない。
自分の利害で一杯いっぱいになっている中、いかに交渉をしていくか。
バブルのようにはじける理想は、はじめから持たない方がいい。
何故なら理想は現実の反対だから。高校時代はCOP3の京都会議のデモに参加し、
学生時代は環境活動にうつつをぬかし、世界は変えられる?と思っていた私には
パリ政治学院は冷徹すぎた。けれどシラクもオランドも先輩だったと知った今、
私はかすかな期待を抱いていたい。オランドはブッシュとは違う。
フランスはアメリカとは違う。フランスにはフランスの外交術がある。
それは力でうむを言わせるやり方よりも、最大限に知性を活かしたやり方であるはずだ・・・
フランスのワインも食文化もベルサイユ宮殿も、ただの文化なだけでなく
フランス流の外交戦略の1つなのだから。

 今回の事件後の反応に対し、ユルゲン・ハーバーマスはこう言っていた。
「私はフランスという国に対して、シャルリーエブドの事件のときに
したように、世界が見習うような例になって欲しいという
ちょっとした期待を抱いています。」だから彼も見守っている。
私も今のところはハーバーマスに同意したい。そしてオランドは
おそらく世界の、そして国民のその期待を知っている。
今週末からはCOP21も開かれる。議長国として
どれほどの役割を担う事ができるのか、ぜひ少しでも
世界のそんな期待に応えて欲しいと思う。



パリのテロと世界の変化

2015年11月19日 | フランスあれこれ
フランスのテロは引き続きニュースを賑わせているようで
報道されすぎで気にくわないという人もいる。
テロが起こって以来ひたすらフランス語のニュースを
チェックするのに必死な私は、日本のニュースを見る暇はないし、
全ての情報は把握していると思っていたら、先日こんなことを言われて驚いた。
「ラデファンスでもテロが起きそうだったって」
「え・・・?」私は耳を疑った。
その日はいつもより早く起きてルモンドをチェックし、通勤時間には
ひたすらフランスのラジオを聴いていた。もちろん
サンドニの警官隊の突撃の話は前日からやっていたし状況もよく知っている。
だがラデファンスの話なんてきいた事もない。
一体何が起こったのか?と調べてみると日本では
18日の夜からそんなニュースが流れていたそうだ。
あまりに普通に知られてそうな印象なので、大手のテレビ局も
そう報道したのかもしれない。ところが調べてみても
フランス側の情報にはどこにもそんなことが書かれていない。
(ルモンドもリベラシオンもFrance Infoにも載っていない
検索をしてもほとんどきちんとしたメディアの情報には
掲載されていないので、作戦実行中の未確認情報をフランスのどこかのメディアが
掲載したかと思われる。ちなみにこの「ラデファンス等でテロ計画」は
19日の日経朝刊にも載っていた。
追記:ようやくルモンドやFrance Infoで「ラデファンス」と
言われたのは25日になってからで、24日夜に検察が発表したとのこと)

今回の警察の突撃の一番の目的は、数日前から首謀者だと
言われてきたベルギー人、28歳のアブデラミド・アバウッドが
サンドニにいる可能性が高いということで、彼を狙っての作戦だった。
警官は5人負傷し、5000発以上も銃を撃つという激しい作戦だったが
2人の死者の中に彼が含まれているかは微妙で、どちらかというと
可能性は低そうなニュアンスで報道されていた。
ところがつい先程、日本時間の19日21時半頃、
フランスの検察と司法警察が彼の死亡を確認。
France Infoは「これはきちんと確認された情報です」
と言ってそのニュースでもちきりだ。
彼は国際新幹線タリスのテロ未遂事件にも関わり、
ブリュッセルのユダヤ教博物館での殺人犯とも関わりがあったとされる。
彼は今回のテロ事件当初はシリアに居ると思われており、
次に出身地のベルギー、モレンベックに居ると思われたが
バタクランの近くのゴミ箱に捨ててあった携帯電話から
彼がサンドニにいるらしいということがわかってきた。
後にわかった情報からは、彼がテロの実行犯として関わっており、
その直後にメトロを普通に使った様子が地下鉄の監視カメラに写っていた。


このようにフランスの信頼できるメディアは
情報がでてきても「これは未確認」
「これはアメリカの~というメディアが言っているが不明」
などと強調し、未確認の情報を大急ぎで載せようとはしていない。
日本のメディアはかなり大手のメディアであっても、
死者数が150人以上になっていたり、
「仏メディアがカミカゼをカミカズと誤って報道」
と報道したり(フランス語では最後のeを発音しないので
そうなるし、kamikazeという言葉はフランス語の辞書にも載っており、
報道ではなくフランス語の問題。
意味は死を覚悟して命がけで敵に向かっていくことで
ニュアンスとしてはわりと的確に使われていると思うし、
kamikaze=テロリストという認識ではない。
ただし自爆という意味では使われる)

テロが起きて以来私がそのことばかり考えているのは
パリでなんてひどいことを!という思いや哀しみというよりも
シャルリーエブドの事件以来、フランスに関するニュースを
少しでも正しく伝えたいし、わかってほしいと思うからかもしれない。
二重翻訳には誤解がつきもので、少しでもフランス語が
できるのならば、フランスのニュースに自分で触れて、日本語で伝えた方がいいと思う。
フランス語で流れていく圧倒的な情報を英語で伝えようとする。その時点で情報は
半分以下に精査されていく(それが要約された情報であり、執筆というものだ)
その半分以下の情報を今度は日本語に訳してみる。
ところが英語はフランス語にくらべわりとアバウトに記述ができる。
だからもとの出来事や背景を知らない人が急いで
訳してしまうとニュアンスが変っていく可能性があるし、
英語→日本語の際にまた情報量ががくんと下がるだろう。
伝言ゲームを思い出してみてほしい。
5人が同じ言葉を伝えたつもりでも、言葉が長ければ長い程、
最後の人には正しい言葉が伝わらない。

だからこそ強く伝えたい。英語でもフランス語でもアラビア語でも、
日本語以外の言語を1つでいいから自分でなんとか使って、できるだけ
その言語でニュースをとらえられるようにした方がいい。
思い出してみてほしい。東日本大震災の後、福島の原発の状況に対して
どう世界が反応を示したか。それと日本がいかにかけ離れていたのかを。
日本のメディアはそれから180℃変ったわけではない。
だからこそ、「もしかしたらこれだけが真実ではないかもしれない」という
視点をもって、自分の力で一次情報に触れて欲しい。
そして可能であれば(できるだけ的確な情報を)誰かに伝えていってほしい。
語学ができる人は海外で自分が楽しむだけでなく、
その言葉がないと伝わらないことを誰かに教える、
そんな役割も担っているようにように思う。

世界は局面を迎えつつある。本当に重大な局面で、
場合によっては第三次世界大戦になるかもしれない。
それはまだ誰にもわからない。でも何が何でも戦争反対、空爆反対という方は
今すぐ行動した方がいい。安保法案改正の時より大きなデモをするぐらいの
気持がないと、この世界のトップの行動の早さと本気さにすぐ負けてしまうだろう。
オランド大統領は寝る間も惜しんで恐ろしい程の早さで演説原稿を仕上げ、
数々の拍手や共感を勝ち取り、もはや1月の「寛容」の彼ではなく
「強い父」になりつつある。彼の言葉には感情がこもり、
人の心を揺り動かすだけの力を持っている。そしてその後は即行動。
今日はテロの捜査がよりしやすくなる非常事態宣言をあと3ヶ月引き延ばす案が
国民議会を通過。私の知る限りではフランス国内からは空爆に対する非常に大きな
反対運動や反対の声は聞こえてこない。(もちろん出来る限り
慎重に標的を選ぶべきだという声はあるし、それは当然)


すでにロシアとアメリカと強力な関係を築けたオランド大統領は
来週はこんな最中、自らワシントンとモスクワに足を運び、
オバマ大統領とプーチン大統領と会談しにいくことに決めている。
こんな緊迫した状態に、わざわざその国を離れてトップが
トップに会いに行くこと、その覚悟が何を表しているのか。
そして3大強国のアメリカ、ロシア、フランスが本気で
力を合わせたら何が起こるのか。プーチン大統領は空爆だけでなく
ロシア海軍にフランスと協力して動くことを要請した。
フランスの訴えを受けてついには国連安全保障理事会までもが
満場一致でイスラム国に対し、あらゆる手段をもって
対処することを認めてしまった。

世界の3大国が本気になったらイスラム国をうまく倒すことも
できるのかもしれない。けれども9.11の二の舞になるかもしれない。
結果はまだ誰にもわからないが、1つ言えるのは今は指一本動かさず、
1-2ヶ月後に反対運動を初めても時は遅すぎるということだ。



イスラム国に対して、フランスのとらえ方としては
彼らは「狂信的なテロ集団」という位置づけだと思う。
だからこそ標的を的確に狙った空爆を開始したわけだし
(アメリカは今まで渡さなかった標的リストをフランスに提示)
空爆には約40カ国程が参加しているという。
個人的な見解だが、イスラム国とイスラム教の位置づけというのは
仮にオウム真理教が仏教の教典の1部を教義にしているとして、
それと通常の仏教との違いくらいに差があるものだろう。

つまり、あるカルト的宗教団体が、同じ教義に多少なりとも基づいて、
こちらの方が正しいという。そこにちょっと心を病んだ若者がいる。
1月のテロから私が調べてきたテロに関与した者達は、実際には
昔から経験なイスラム教徒というタイプはほとんどいない。
ある事件や出来事をきっかけにして、突然目覚め、
師と呼べるような人に出会い、そこから人生が変っていく。
おそらくその師は彼が抱えていたちょっとした社会に対する
不満やくすぶりを正当化し、「まさに君のいっていることが正しい。
我々はそれを変えようとしているんだ」と言うだろう。
そしてそのために君が変るべきこと、とるべき方法、
多少の犠牲もやむをえないこと・・・沢山のことを
実に親身になって話してくれるだろう。
はじめて、そうまるでオウムの事件の時のように
はじめて「わかってもらえた・・・自分にも生きる意味がある!」
そしてこの社会は間違っている、と思った正義感の強い若者達は
師とともに?もしくは言われるがままに?彼らの道を模索する。

哀しいことに「テロリスト」としてテレビに登場した若者達の
妻や兄弟の中には「彼がそんな風になるなんて夢にも思わなかった」
と答える人がいる。「本当に?信じられない!あの人がそんなになるなら
誰にだって起こりうるわよ・・・」1月のテロのクアシ兄弟も、
妻達に「買い物に行く」といって出ていったまま帰らぬ人となっていた。
(私は妹のインタビューや生い立ちを知って泣きそうになった。
貧しいけれども助け合って生きてきたし、学校では差別などはなく、
フランスの公教育は人種の混ざり合いの中頑張ってきた)
今回のテロに関与し、一人は国際指名手配中のベルギー人の兄弟は
インタビューにこう答えていた。
「彼がそんなことをできるんだったら、俺の友達誰だってできてしまうよ・・・」
(La Libre.be より)
サンドニの警察の突撃時に殺された、アブデラミド・アバウッドの
いとこの女性(ヨーロッパで初めて自爆テロをした女性とも
言われているようだが実際には自爆していない)は6ヶ月前まで
ヴェールをかぶったこともなかったといい、彼女の兄弟は「彼女が
コーランを開いているのはみたことがない」と語っている。


日本では、どことなく「イスラムの人たちもヨーロッパで
差別を受けていたから(かわいそう・・・)」という風潮があると思う。
でも彼らにとっての差別というのは、私たちがパリや外国に行ったとき、
ちょっと治安の悪そうな地区のホテルに泊まり「怖かったのよ」といって
ホテルを変える、まさにその行為や感覚にあると思う。
特に盗まれたわけでもない。彼らは道端に立っていたかもしれない。
座り込んで大声で話していたかもしれない。でも実際には
そこで暮らしていただけだ。貧しい地区には沢山の国の移民が暮らし、
本当に多国籍で雑多な環境になっている。フランスを訪れる日本人は
移民が沢山載ったメトロに乗るだけで「こわい・・・」と思い、
平気でそれを口にする。「だからあの地区はやめておこう」
その考えこそが地区による差別をうみ、就職の差別を生んでいる。
駐在でパリに住む人たちはたいてい生粋のフランス人が多い15区、16区に住んでいる。
けれど移民が多くクアシ兄弟たちも住んでいた19区は日本のガイドにすら載っていない。
私がどんなに素敵な場所ですよと勧めても、たいていの人は言う。
「でも一人で行くのはちょっと・・・」


パリでは生粋のフランス人らしい風貌の人ばかりいる地区の方が
珍しい。10区も11区も沢山の人たちが入り交じり、
私の知人のフランス人女性は日本のガイドブックに「近づかないほうがいい」と
指摘されている北駅周辺に20年以上も住んでいる。
「危なくないんですか・・・?」と随分前に聞いてしまった私に
彼女は言った。「何一つ危険なことなんて起きた事ないわよ」
インド系も、アラブ系も、アフリカ系も、中欧系も、沢山の
移民や移民2世のフランス人で交じり合う。彼女はカンボジア人の養子を育て
今年は私にこう言った。「パリでは人種による差別なんてないのよ。
ねえ、あんたもカンボジア人だからって何か言われた事ある?」
「べつにない・・・」「パリではね、共和国の精神さえちゃんと
大事にすればどこから来たかはどうでもいいの。大事なのはそこなのよ」
彼女がそれを語った場所はまさにあのテロ現場から100メートルくらいのバーだった。
移民の多い地区ほど実際にはあたたかい。けれど私たちの多くは
そんな混沌とした状況を体験したことすらないだろう。
それに今回だって、パリのイスラム教徒の中でも
「今回ほど自分をフランス人だと感じたことはない」と
語る人や、バタクランの前でマルセイエーズを歌ったイマムの姿に
強く感動したというイスラム教徒の人もいる。



差別による憎しみが行動に移ることもある。でも同じ兄弟でも
何も不満を感じていなかった人もいる。だからひとくくりに
「ヨーロッパでイスラムの人たちが差別を受けていたから・・・
ヨーロッパの人は冷たいし」とは言えないのではないかと思うし、
多くのイスラムの指導者が「イスラム国はイスラムではない」と断言し
相変わらずオランド大統領が発言の度にイスラム教徒と
イスラム急進派をわけて話しているように、イスラム国はただ
ちょっとした若者の心の乾きに宗教をたてにしてつけいった
新興宗教団体だとも言えるだろう。
優秀な人たちがオウムに入信しサリンをまき散らしたように、
その思想に惹かれ、それこそが真の世界観だと思う若者は
いつの時代にもいるものだ。信じる対象が違えこそすれ、
世界は変えられる!と信じて運動に身を投じる若者は
日本にだっていたし、おそらく今でもいるわけで、
その時たまたま出会った「師」が誰かで
方向性が変ってしまうだけかもしれない。

世界は問題で満ちており、不平等はますます大きくなっていく。
持てる者はますますその富を活かして豊かになって、
その子供たちは成功の道が保証されていく。
一方で貧しい立場に置かれた者には時間もなければお金もない。
子供にしっかり優しい目をむける余裕もなければ
社会問題の構造を真剣に考える余裕もない。そんな時間があるなら
少しでも、そして何としてでもお金を稼がなければいけないからだ。
激しく変化する世界の中で、私たちが肝に銘じたほうがいいのは、
日本に住んで普通の暮らしをしているような人たちは、
自覚していないにしても、世界の格差ピラミッドの中の上部にいるということだ。

だからこそ、恵まれた立ち場にある人たちが
一度足元を見直して、状況を少しでもよくするために
できることは何なのか 考えていく必要があると思う。
環境問題も南北格差も、国内での激しい格差も憎しみも、
実際に問題を産み出しているのはたいてい先進国の
恵まれた者達の生活や行動の仕方なのだから・・・


世界情勢が激しい勢いで動く中、自分たちにできることは何だろう。
それは無理して国会議事堂前で数万人規模のデモをすることでは
ないかもしれない。自分の特技を活かしながら、少しでも
状況を改善するためにできること。政治家には政治家なりの
解決策があるのなら、市民には市民なりの道があるかもしれない。
現時点ではまだ当事者ではない国に住む私たちだからこそ
今この歴史的局面に、できることもあるのでは。

参考文献 資料
Le Monde, La Libre.be ラジオFrance Info 等
Le Monde " Attentas du 13 novembre: qui est Abdelhamid Abaaoud,
le commanditaire présumé?"

La Libre.be "Le témoignage d'un ami de Salah Abdeslam:
"Si lui est capable de cela, tous mes potes sont capables de cela…"

戦場の恐怖で言葉を失う 

2015年11月17日 | フランスあれこれ

 パリのテロを知ってから、現場付近に行きそうな人から
メールを送っていきました。オペルカンフ、サンマルタン・・・
そういえばサンマルタンのワインバーを教えてくれた彼女は
どうだろう・・・?フランス時間の深夜、すぐに
メールが返ってきました。「まさにあの店にいたのよ・・・」
現場から100メートル程のその店は素晴らしいヴァン・ナチュールを集めた
ワインバー。隣にはまさにサードプレイスというあたたかみのある
カフェがオープンしたばかり。
何故この地区?観光地ではなく、フランス人たちが
パリらしさを愛し、誰かに出会い、のんびり過ごす・・・
そんな場所での経験を早速彼女が書いてくれたので
翻訳を掲載しようと思います。

ーーーーーーーーーーーーーーー



「戦場の恐怖で言葉を失う」


 その日は11月のわりに好天に恵まれていた。
パリ10区、サン・マルタン運河からすぐの友人のワインバー、
「オー・ケ」に行くのは私の週末の楽しみで、
いつものように歩いていた。
通りの角にあるレストラン、「ル・プティ・カンボッジ」や
カフェ「ル・カリヨン」の暖房のきいたテラスは若く、
流行に敏感で、楽しそうにしている客たちで溢れている。
「オー・ケ」に入り、友人の編集者と素晴らしいボジョレーを
味わっている時、突然激しい音が響いて、私たちは固まった。
21時25分だった。

 客達は「爆竹だろう」と言っていたが、
私は銃声ではないかとすぐに思った。
1回目の連射、そして2回目、3回目・・・
その音は止むように思えなかった。
主人のアランは様子を見に店をでて、
すぐに叫びながら戻ってきた。
「カトリーヌ、警察を呼べ!人が死んでいる!」
外に出ると「カリヨン」の前にはひっくり返った椅子や
グラスの破片とともに、数人の身体が歩道に横たわっていた。
数分前に通りがかった時には楽しそうにビールを飲み、
タバコをふかし、話に夢中になっていた人たちがいたあの店を、
不気味な沈黙が包んでいる。

 私たちは生存者だった・・・恐怖に言葉すら失い、
突然現れた戦場の光景に激しいショック状態だった。
再び音が聞こえてくる。男性の叫び声や嗚咽。
2台の消防車の到着。車に乗った犯人が他の店で乱射する音。
それから携帯のメッセージでサン・ドニの競技場でも
爆発があったと知った。

 戦争だ・・・と気付いた私の頭は1つのことで一杯だった。
息子を避難させなければ。劇の練習の後、どうか
メトロに乗らないように・・・すぐ父親に連絡し、
彼をタクシーで迎えに行くように連絡した。
警察が来て現場周辺を埋め尽くし、大声で
命令しながら地区を包囲していった。
負傷者達が運ばれるのを見てから私たちは
再び店に避難した。もはや時間の感覚も失っていた。
携帯にかじりついて友人達の身の安全を確認し、
パリ中で起こった事件がわかるにつれて一層ショックを受けた。

 翌日の土曜と日曜、店主のアランは犠牲者のために
店を閉めることにした。けれど私たちは強く誓った。
絶対次の金曜日にはこの店に戻り、ワインを共に飲むことを。
恐怖に屈してたまるものか。フランス人でありパリジャンである
私たちが何よりも大切にしているのは自由とフランス共和国の価値観なのだから。

 彼らはどうして25年前から私の住んでいる10区の中心を
襲う事にしたのだろう?パリ市長のアンヌ・イダルゴはこう言った。
「標的となった地区や場所はパリジャンの愛するまさにパリらしい
庶民的な雰囲気があり、誰にでも開かれた地区だった。
皆で一緒に生きているという光景が、人類愛そのものを
黙らせようとした狂信的な者の目には堪え難く映ったのだろう。」

 だが私たちは黙っているわけにはいかない。
なんとかして獲得してきた女性の自由を守り続けてきた
マリー・クレールは、これからも私たちの思想の自由、
愛する自由、生き方の自由を守り続けていくからだ。


マリークレール副編集長 カトリーヌ・デュラン
訳:飯田美樹
著者の許可を得て翻訳、掲載しています。

原文
"Muet d'effroi, face à une véritable scène de guerre"
par Catherine Durand, Rédactrice en Chef Adjointe de Marie Claire

パリの同時多発テロ 3

2015年11月16日 | フランスあれこれ

 フランスのテロに相変わらずショックを受け、
これからどうしていったらいいものか・・・と思っていると
そんなことを迷う間もなくフランスがイスラム国に空爆を行った。
10機が爆撃に向かい、20回の空爆が行われ、イスラム国の
司令拠点とジハード戦士の養成拠点、それに武器庫が破壊されたという。
もちろんこれまでで一番大きな攻撃だ。
フランスは今までシリアでのイスラム国への空爆に対しあまり乗り気でない
態度を示し、空爆に参加したのは9月になってのことだった。
これまでの参加回数は4回で、空爆全体の3-4%程度しか
占めていなかった。イラクの空爆に関してはより少ししか
参加していない。

 ヨーロッパでは8月にフランスとオランダ間を結ぶ国際列車、
タリスで爆破未遂事件が起き、その頃からオランド大統領は
もし自国の国民を狙う事件が起きたらその時は・・・と
覚悟して作戦を考えていた。だからこその異例のスピードで、
彼が「容赦なく、冷徹な態度で」臨むと宣告したように
アメリカと息を合わせてイスラム国の拠点を即座に空爆したわけだ。
フランスは早いうちに航空母艦シャルル・ド・ゴールを
ペルシャ湾に派遣し、機動能力を3倍にするという。
1月のテロ(※シャルリーエブドを襲ったのはアルカイダ)
ではまだ寛容な姿を見せようとしたオランド大統領だが、
今回は相当に様子が違う。
非常事態宣言もあと3ヶ月引き延ばすつもりだという。

 国喪に服して2日目の日曜日には、ノートルダム大聖堂で
ミサが開かれ、外出を控えるように言われているものの、
多くの市民が参加した。オルガン奏者が即興で国歌マルセイエーズを
演奏したときには沢山の人が涙ぐんだという。
テロの標的となった店やコンサートホールの前を訪れる人も
後をたたない。20代~30代のパリジャン達に愛されていつも満席だったという
10区のビストロ、ル・カリヨンの前には花束が溢れている。

 亡くなった129名のうち、105名の身元が確認された。
ルモンド紙はインターネットの紙面にも名前入りのリストを公開。
学生や大学教授の死亡も確認され、ソルボンヌ大学やHEC、
日本語教育でも名高いINALCOの学生も一人亡くなっている。

 テロリストは計8名とされており、そのうち7名の死亡が確認されている。
残りの一人、Salah Abdeslamはベルギー生まれのフランス人で、
現在国際指名手配されており、写真が公開されている。
彼はバタクランの前に駐車した黒い車を運転していたことが判明。
しかし犯人の身元がわかるより早く、車でベルギー国境を通過。
この時国境でのコントロールを受けたものの、その時点では
警察に捕まらず、のちにベルギー警察が同車両を見つけた時には
すでに姿を消していた。彼の兄はボルテール大通りで自爆して死亡。
もう一人の兄弟がベルギーで尋問を受けている。
また、競技場付近で見つかったシリア人のパスポートは偽造されたものだと判明。
彼は10月3日にトルコ経由でギリシャに渡り、セルビア、クロアチア、
ハンガリーを通してフランスに来たと見られるが実際の身元は不明。

 今回の事件でまたしても浮上したのがベルギーとイスラム急進派との
関係性だ。フランスは大陸に位置し、飛行機で入るのに比べると
車で国境を越えるのは相当容易に出来てしまう。
(実際、国境線のコントロールを強化した後ですら、容疑者は
ベルギーに入国できた)ブリュッセル郊外にあるモレンベックという
貧しい地区はイスラム急進派の温床として知られ、90年代から
ジハード戦士を産み出す場として認識されているという。
ベルギーの首相は今回の事件を受け、「(イスラム急進派が関わる)
重大な問題が起こった場合、ほとんどいつもモレンベックと関係がある」と述べたほど。
2014年4月にブルッセルのユダヤ系美術館で起きた殺人事件の犯人も
モレンベックに滞在。同年8月に国際列車タリスでテロを試みた容疑者も
同地に滞在。2015年1月のパリのテロを起こしたクアシ兄弟や
アメリー・クリバリ容疑者も武器の一部をブリュッセルで購入。
今回の事件で使われた車の1台はモレンベックで借りられたものだといい、
7人が事情聴取を受けている。

 何故フランスでテロが起こるのか?という問題に対し、
1つ言えることがあるとすれば、イギリス、アメリカに比べ
フランスはヨーロッパ大陸で地続きであり、行動を起こしやすいのかもしれない。
アメリカやイギリスで事を起こそうと思えば飛行機等で国境線を超えるときの
チェックをいかにくぐり抜けるかが大きな課題となるが、
ヨーロッパ、特にベルギーからフランスを車で移動するだけであれば
ほとんど難なくできてしまう。それに加え、パリでの事件はニューヨークでの
事件に匹敵する程大きなインパクトを世界中に与えられる。
フランスが特に空爆参加国の中で突出して憎まれているというよりは
テロを起こしたときの効果の大きさや陸続きでのやりやすさというのも
あったのかもしれない。(これは私の仮説)

 もう1つ、franceinfoで伝えられた仮説としては、おそらく
競技場付近の自爆テロを行った人物たちは、本来は競技場に
入ろうとしたのだろうということだ。当時はオランド大統領もおり、
インパクトはかなり大きなものになる。一人は入場券を持っていたという
情報もあるが、自爆ベルトを着けていたため、
入場のコントロールでひっかかったのではないかと言われている。


 多くの若者が金曜の夜、ちょっと一杯友達と話に楽しみに行く、
そんな地区であった悲劇。その場所を知っている程、それは他人事だとは
思えない。「これが一週間前や明日だったら、私の身に起こっっていたかもしれない」
と現場に献花しにきた若者は言う。私自身、この界隈は9月に何度も訪れ、
事件の起こったプティ・カンボッジと同じ通りにあるワインバーに行っていた。
まさか、と思いその店を教えてくれた知人に連絡をしたら事件のあった深夜すぐに
メールが返って来た。「まさにその店にいたの・・・なんとか私は命拾いしたけれど
亡くなった人たちも目にしたわ・・・」東京でいえば中目黒か代官山のような
若い人たちの愛する地区で、突然起こった大量殺戮。

 亡くなった人たちも、テロを行った若者も、ともに20~30代中心という
私と同世代の若者達だ。彼らがテロリストになった理由はまだわからない。
世界における南北格差、国内でも全ての恩恵を受けられる者と
貧しい者のますます大きくなる格差。持てるものと持たざる者、
そこから生まれる行く先のない恨み・・・そしてその怒りや恨みを
まさにそうだ、君が正しい、と後押ししてくれる師との出会い。
(急進派の師となる者は把握されていても事件を起こさない限り逮捕はできない)
イスラム国は確かに悪い。それはイスラムではない、とイスラムの人たちは言う。
イスラムではなくただのテロリスト集団だ、ととらえてこその空爆でもあるのだろう。
とはいえイスラム国はイスラム教をたてにとり、傷ついた若者の自尊心をいたるところで
くすぐっていく。まだヨーロッパではイスラム急進派に傾倒する若者もいれば
ある日突然何告げずにシリアに渡航する若者もいる。


 ブリュッセルのモレンベックには多数のジャーナリストが押しかけ、
住民達は「つににモレンベックも有名になったね!」と冷笑的な言葉を浴びせる。
「また過激派と混同する気?」「またかよ・・・」
そんな中ルモンドのインタビューに答えた男性はこう言った。
「お願いだからわかってほしい。確かにここからシリアに行った者が多いとしても、
それは誰も彼らの面倒をしっかりみたことがなかったからだ。
それで狂信的な奴らに出会った時にやっと自分が生きているって
感じられるようになったんだ。俺は勉強もしてフランス語も
アラビア語もオランダ語も話せる。それでも仕事を探すときには
モレンベックに住んでいない友達の住所を伝えてる。」

 ユーロスターのファーストクラスで豪華な旅行を楽しむ人もいる。
一方で命がけでその上に飛び乗り、荷物の1つも持たずにイギリスに
渡ろうとする者もいる。彼らはBBCのインタヴューにこう答える。
「だって母国で生きていても死んでるようなものだから。」
世界は問題で満ちていて、解決策はまだわからない。
移民したって、その国に生まれ育った2世や3世は不平等に苦しむだろう。
オランドがとった行動も強靭な解決策の1つではある。
でもその他にも世界がもう少しましな状態になるための方法は
残されていないのだろうか?
これはフランスだけの問題ではなく、今フランスを中心に
アメリカやロシアがともに足並みを揃えようと協力している。
選択肢や解決策は1つだけではないだろう。
だからこそ、世界が大混乱に陥る前に一人一人が少しでも
できることをやっていく、それが大切なのではないかと思う。


参考文献:Le Monde, france inter 
情報は11月16日(月)日本時間17時時点のものです。

パリの同時多発テロ

2015年11月14日 | フランスあれこれ

今朝何気なくニュースを聴こうとしてiPhoneを見ると
「フランス 緊急事態宣言」とフランスのニュースに書いてある。
何が起こったのか?知ってからほぼ1日中ニュースから耳が離せません。
本当に壮絶な状況ですが、ほんの少しでも何かできればと
フランスサイドの情報を翻訳、要約してみました。
テロが起きた地区は私も2週間で5回くらい行ったような
本当に若者に愛されている地区です。
凄まじい事件で朝からかなりショックを受けており、
どんな言葉を発していいかわかりません。
日本にいる私たちにも少しでもできることがあればと思います。
(11月14日、日本時間22時時点での情報です。
その後の情報はその2、3をご覧下さい)

ーーーーーーーーー

11月13日金曜日午後21時20分頃から翌日1時頃にかけて、
パリの6カ所で同時多発テロが起こった。
先程ISが犯行声明を出し、これはシリアでのフランスの
空爆に対する仕返しだと表明。

現時点での死亡者は少なくとも128名で負傷者は250名以上。
一番酷い被害を受けたのがコンサート会場のバクタラン。
カルフォルニアから来たロックバンド、
イーグルズのコンサートの真っ最中、22時頃、3-4人の
テロリストが侵入し、観客達に向かって長時間にわたり
発泡し続けた。逃げようとする者たちも容赦なく殺され
約80名が犠牲になった。コンサートには1000人以上が
参加しており、その最中でなんとか逃げられた人たちも。
生存者によると発泡はおそらく3時間程度、非常に長い
時間に渡ってほとんど途切れることなく銃声が聞こえていた。
コンサート会場から飛び出して走る人たち、何があったのか
把握できないままに驚く隣人、2階や3階から逃げようとして
窓にぶら下がった状態の人、必死で会場内で息を殺して逃げ延びた人・・・


テロリストたちは爆弾を身体に巻いており、3人は自爆によって死亡。
フランス特殊部隊は深夜に突入したが、おそらくすでに
状況は地獄絵図と化していた。
バクタランのあるヴォルテール大通りには
救急車が十数台並び、街の人たちは
深夜のバルコニーから様子を見守っていた。
近隣のカフェでも事態を把握した店主が客達をカウンターの内側に避難させ、
その後は店主の家に招き入れるなど、非常事態の待遇をした。
警察が突入してから保護された人たちは数台のバスに乗せられ
即座に病院で手当を受けたり、精神科のカウンセリングを受けるなど
きちんとした対応を受けている。

標的となったのは主に11区や10区のカフェ、レストラン等で、
カフェ・ベル・エキップのテラスでは車でのりつけた
テロリストが銃を乱射し、18人が死亡。
バー・カリヨンとプチ・カンボッジの間でも12-14名が亡くなった。


サンドニのスタジアムの周辺でも3回に渡り爆発音がした。
これはスタジアム内で起こったわけではないが、観客席は揺れ、
サッカーを観戦していたオランド大統領はハーフタイムにすぐ避難。
爆発はファーストフード店などスタジアム周辺の3カ所で
起き、2人が死亡。9人が重軽傷をおった。


ただちに行動を起こしたオランド大統領は
フランス全土に非常事態宣言を発動。
国境のコントロールを強化し、土曜日の大学や図書館、学校、
マルシェ、プールなどはすべて休館させることに。
テロリストたちが合計何名で誰が逃亡中かわからないので、
現在パリでは本当に緊急の時以外は動かないようにとアナウンスされている。
メトロなどは通常とおり運行しているが、外出は極力さけるべき。
映画館も自主的に全て休館となり、ルーブルやディズニーランドも休館(土曜)

パリのテロに衝撃を受けたオバマ大統領はただちに演説し、
フランスのための支援をおしまないことを約束。
「自由、平等、博愛」とフランス語で発言し、それは
人類全体にとって大切な価値であると語った。
オランド大統領、首相、内務大臣は特殊部隊の作戦終了後バクタランを訪れた。
フランス中の警察や軍隊が動員されて非常事態にむけて対処を行う。

家に帰れなくなってしまった人たちのために
ツイッターではPorte Ouvert というハッシュタグが設けられ、
泊めてあげられる人、泊まりたい人たち同士で情報交換ができるようになっている。
Facebook社もただちに行動をおこし、安全を確認できるボタンを設置した。

また、負傷者のために献血をしようとする人たちも後をたたない。

フランスは3日間喪に服すことになり、月曜には1分間の黙祷をする。
フランスは全土で緊急事態宣言が出されているが、多くの都市で
土曜日に追悼集会が開催される予定。


11月14日、日本時間22時時点での情報です。
情報源 Le Monde.fr, ラジオFranceinfo、France 2

シャルリー・エブドを考える

2015年01月30日 | フランスあれこれ
 東京新聞と中日新聞がシャルリー・エブドの一面の画像を記事中に
掲載し、それに怒った日本のイスラム教徒の人たちが
抗議して、新聞社がそれに謝罪をしたという。
ちょっと待ってよ・・・それはちょっと・・・
そう思っていた矢先、そのニュースは早速フランスの
ル・モンドで取り上げられていた。

 シャルリー・エブドについて書くのは私もためらっていた。
実は私のもとには新しい、おそらく日本ではかなり
貴重なあの緑色の表紙のシャルリーエブドが存在している。
パリでも発売数日はまるで手に入れられず、
キヨスクをいつみても「売り切れ」の文字。
そんな中、パリ在住の友人が「今度こそ開店30分前に
行って買ってやる!」と頑張ってくれ、なんとか獲得したものだった。


 もちろんこれが届いた日の喜びといったらないし
誰かに伝えたかったけど、私はずっと黙っていた。
なぜなら日本には 私も含め おそらく
この雑誌について語る資格がある日本人は
ほとんどいないと思ったから。

 私も曲がりなりにも少し言及してしまった身として
もう少し知ってみたい、読んでみたいと思っていた。
けれどもフランスの雑誌を取り揃えているアンスティチュ・フランセの
図書館に電話をしても、フランス書籍で名高い欧明社に
電話をしても「うちでは取り扱っておりません・・・」
それほどまでに、日本のフランス社会にさえも
この新聞は存在してこなかった。
そこでテロがあり、情報が急に入ってきた。


 もちろんテロがあったら語らざるをえない人たちはいるだろう。
そして自分たちのできる範囲で情報収集に努めただろう。
それで?3週間経った後、一般の人の反応をまとめてみるとこんな感じだと思う。
「まあそうは言ったって・・・あの雑誌、侮辱していたんでしょ?
ちょっとやり過ぎだったんじゃない?表現の自由にも程があるでしょう。」
だんだんと、シャルリー・エブドは日本で「侮辱雑誌」として認識された
感があるように思う。「それに対してなんであんなにフランスは
意固地にデモをするのかしら?(私にはわかならいけどまあいっか・・・)」

 ところでこの新聞を実際に読んでみた人は
一体どれほどいるのだろう?先述のように日本にはこれまで
ほとんど存在していないし、例え触れたことがあったとしても
きちんと読めた人というのは日本にどれほどいるのだろう?
正直いって、この新聞はものすごくインテリで、かつ
使われているフランス語も難しい。
私はフランス語の翻訳もして、一応通訳経験もあるけれど
それでも1回読んだだけでは頭の中が「???」で一杯になってしまう。
(今はル・モンドならかなり読めるようになったけれど、
そのレベルでも太刀打ちできないくらいの難しさ)

 何故難しいのかといえば、使われているフランス語が
一般的なフランス語と違い、現地でよく使われる俗語や
外国人にはわかりにくい単語が多いから。
それに、世界情勢をわかっていないと比喩や隠喩が
何を意味しているのかわかならい。これをなんとか読んでみて
私が感じたのは「す、すごい・・・!」の一言だった。
どう表せばいいのかわからない。とにかく日本には
同等のものが存在しないと実物を見た人は口を揃えて言っていた。
知的遊戯としての笑いというか
彼らの知的レベルの高さ、世界で起こっている問題を
一歩引いて眺めることで、そこを「あはは」と笑いに
変えてしまう。そして笑った後にこう思う。
「確かにそうかもしれないな・・・」
(そして何だか馬鹿らしく思えてしまう)
こういう世界で果たしていいのか?彼らは
風刺画と笑いという手段を使いながら、意外にも
深く突き刺さる問いかけをしているように思う。


 12人もの人が命を落とした中で、それでも製作された今回の号は
あっと言わせるものがある。彼らこそまさに「テロの犠牲者」だけど
「私たちはこんな酷い目にあってしまった、許せない!」
とは一言もいわないどころか、その状況すらも多少笑いに
変えている。300万人を越えるデモ。その中で多くの人が
"Je suis Charlie" (私はシャルリー)と書かれたプラカードを掲げていた。
けれども当の本人達は、その状況に感謝しつつも
シニカルな視点も忘れない。「シャルリーを買った時
自分を特別な存在に感じたもんだよ。誰も
僕たちを気にかけない。ところがどうだ、シャルリーが
一週間もテレビで放映されていたんだ。なんたる恥・・・
俺の妹さえも今日シャルリーを買ったんだ。それでみんな
"Je suis Charlie"って言うんだぜ。
だけどさ、俺はマチューだよ。」という文章もあれば
プラカードを掲げてデモする国民戦線(極右)の
マリールペン氏の姿もあり、そこには"Je suis ravie"(私は大喜び)
と書かれている。マリールペン氏もさんざんこの新聞で
やり玉に上がった人物だから。


 シャルリー・エブドは難しい。実際には相当に知的で
世界に興味があり、教養が高い人でないと真に意味するニュアンスが
わからない。これが文章だけだったなら、読むべき人しか読まない
新聞になっていたと思う。けれどもそこに絵があることで
子供でも、フランス語のニュアンスのわからない外国人でも
わかるような印象を与えてしまう。そこがこの雑誌の
落とし穴であり、大きな誤解を生み出した点なのではないかと思う。


 確かにイスラム教は偶像崇拝を禁止している。
私が訪れたモスクは教会とは全く違い、中央に
神を表す像がないばかりか、もちろん入り口にも
どこにもそれは存在せず、キリスト教の教会とも
京都のギラギラしたお寺ともまったく印象が異なっていた。
ここまで像を認めないというのは驚きで、神社に近いような
印象を受けたほどだった。案内してくれた方に
あの絵に対するイスラム教の方達の反応について尋ねたところ、
「怒りというより悲しいという気持です。
マホメットは私たちにとっては生き方のお手本となる先輩のような
方ですから」とのことだった。
自分たちがそれを守り、大切にしているのにまたしても描かれたこと、
それは嫌な気持にもなるだろう。私も初めてあの絵を見た時
「ああまたか・・・やり過ぎだってば!」というのが第一印象だった。
その時確かに挑発のように思えてしまったのを覚えている。
けれども彼らは本当に「侮辱」し、挑発したのだろうか?その真意は
わからないけれど、シャルリー・エブドが意図する絵は
パッとみて(特に外国人が)すぐにわかるようなものではない。

 "Tout est pardonné"というのは直訳すれば「全ては許された」
という意味になる。全て、というのはテロリストが彼らを殺したことかも
しれないし、これまのシャルリー・エブドとイスラム教との諍いのことかもしれない。
それとも、紙面で何度か触れられたように
「今までは僕たちの宿敵のようだった人たちが
テロとその後のデモによって急に「友達」になってしまった」
ということを表しているのかもしれない。
(つまりこの事件が起こったことで、全ては水に流された・・・)
けれどもフランス人の友人によればこの言葉自体は
イエス・キリストが人間達を許したときの言葉であり、
それをマホメットの言葉として使うこと自体が侮辱ととらえられる
かもしれないと言っていた。

 実物を手にとって一番目に飛び込み、驚いたのは、
ニュースに流れる画像では小さくしか移らない
マホメットの涙だった。この涙にはどういう意味があるのだろう?
申しわけなかった、悪かった、という表情に見えるが、
彼はどうして涙を流しているのだろう?
(神の名の下に)こんな大惨事が起こったことを嘆いているのだろうか?
(犯人は殺害時に「アラーは偉大なり」と叫んだという)

 彼が手にする"Je suis Charlie"のプラカードは
一体何を意味するのだろう?「私はシャルリー?」だとしたら
「そんなわけないだろう!シャルリーと一緒にするな」
だいたい"Je ne suis pas Charlie"(私はシャルリーではない)って言いたいのを
我慢していたんだと思うイスラム教徒もいるだろう。けれど"Je suis Charlie"には
もっと幅広い意味があり、これは「連帯」でもあり
「表現の自由に賛成」ということでもあり、シャルリー・エブド側の
言葉でいえば、"Je suis Charlie"とは「ライシテ(政教分離)」
を意味するのでもあるそうだ。私にはどうもこの言葉は
「私はシャルリーを支持する 表現の自由を守りたい」
という意味が強く、「私はシャルリーである」という
意味合いは実際にはかなり薄いと思う、が、これも訳されて
I am Charlie と言われると、「私はジョージだ、シャルリーじゃない」
と言いたくもなるだろう。

 だから私が伝えたいのは、シャルリー・エブドの風刺画は
本当に難しいということだ。特に外国人や、フランスや世界での
状況をよく知らない人にとっては簡単に誤訳が起こると思う。
だいたいニューズウィークや他の雑誌の表紙だけをとらえて
問題にする人はまずいない。何故なら表紙というのはその紙面の内容に
関連しているはずだから。それなのに表紙だけを抜き出して
前後のニュアンスやその時起こっていた時事問題、つまり紙面に書かれているはずの
内容を全部すっとばして表紙を議論の対象にしてしまうこと、
それもおかしいように思う。
どれが真意かはわからない。彼らはそれを言葉で伝えようとしないから。
おそらくこの左翼インテリに愛されてきた反骨精神あふれる新聞は
わかる人にだけわかればいい、そのスタンスでやってきたのだと思う。
だからこそ、世界中が一斉に「私もシャルリー!!」と言った時
戸惑いを隠せなかったのは彼ら自身で、「そんなこと言ったって
あんたらどうせそんなの忘れて、また違う新聞を読むんでしょう」と言ってしまう。
シャルリーを知れば知る程、こんなにもエスプリに溢れ、
世界の問題について「おい、ちょっとそれどうなんだ!?」と
問いかけ続ける、しかも極左となってかたくなに何に反対というのではなく
常にエスプリを忘れない。その姿勢を貫いた彼らというのは
殺されるに値されるような相手ではなかったと心底思う。
テロリストの敵ではあったかもしれないけれど、彼らは
イスラム教徒の敵という訳ではないと思う。2ページ目には
「宗教の全体主義」についての言及があり、それを守るためにも
「ライシテ」が重要だと述べている。宗教の名の下に?
神の名の下になら?何をやってもいいのだろうか?神の名を借りて
神が居たら許さなかったようなことをやっている人たちも実際にはいるのでは?
それが真のその宗教の姿といえるのだろうか?
だからこそ、一歩引いたまなざしで宗教をとらえる時間、
私の宗教は私の宗教ではあるが、他の人にとっても絶対的なものではない。
それが彼らのいいたい「ライシテ」の思想かもしれない。


 彼らは彼らでイスラム教をキリスト教と同じ様に扱ったことで
過ちを犯したのかもしれない。けれども私たちも同じように
きっとシャルリー・エブドを誤解している。もしかすると彼らこそ
サルトルのころからフランスに残る社会に対する鋭いまなざし、
そしてそれをあえて口に出す姿勢、批評精神、決して迎合しないこと、
エドワード・サイードが言うような、真の知識人が守ろうとしてきた精神、
それを馬鹿なふりを装ってずっと続けていたのかも。

西洋の「力」

2015年01月20日 | フランスあれこれ

 フランスのオランド大統領はデモの数日後、
元々予定されていたわけでもないというのに自ら
アラブ世界研究所で開催予定だったイベントに出向いて
演説を行った。このタイミングでわざわざそこに行って
演説をする。一体何を言うつもりだろう?

 フランスのラジオ、franceinfoは他の情報を流していたけど
「今から演説が始まります!」と急いで中継に切り替えた。
私もそんなつもりはなかったけれど、ただ事じゃないのかもと思い
ついつい耳を傾けた。

 テロについて、彼はここで糾弾してしまうのだろうか・・・
おそらく誰もがそう思ったに違いない。
けれども私の理解できた範囲で言えば、オランドは
非難するようなことはほとんど口にしなかった。
その代わり、ヨーロッパとアラブ世界との交流の歴史に触れ、
これからもお互いがとも文化的にも経済的にも交流しあい
新しいルネッサンスを創りだしていくのだと語っていた。
テロのことにはあえて強くは触れず、イスラム過激派によって
実際に一番被害を受けているのは(フランスではなく)
イスラムの人々だ と語るほどだった。

 私はこの演説を聴きながら この人は本当にすごい。
たまたまテロが起こった時の大統領がオランドだったというのは
不幸中の幸いだと思い、一人心を打たれてしまった。
おそらく彼は何度もイスラムの世界を訪れたことがあり、
他の人たちよりも実際のイスラムの人々の生き方を知っていたのだろう。
だからこそ、そんな状況でも敬意を払い、テロが起こった当初にしても
イスラム過激派と普通のイスラム教徒をわけて話そうとしたのだろう。

 私は正直テロ直後のニュースやイスラム教徒の人たちの声を
聞く前までは、イスラムについてほとんど知識を持ってなかった。
けれどもそれではまずいと思い、内藤正典さんの
『ヨーロッパとイスラーム ー共生は可能かー』という本を
買って読むことにした。なるほど、この本を読むと納得のいく
ことが多く、彼は2004年にこの本を出す前から警告していた。
ヨーロッパがこのままの見方や対応を続けることで、より一層
イスラムからの猜疑心は増すだろう・・・。


 この本には主にヨーロッパに渡ったイスラム系移民や
移民2世の話が書いてあり、アンテグラシオン(統合)
やライシテ(政教分離)、スカーフ問題についての記述も多くある。
その中で私が特に心を打たれたのは、移民として渡った人たちが
ヨーロッパで(実際には)疎外感を味わった後、
母国の宗教や文化に癒しを求めたということだった。
疎外感が強ければ強い程、彼らはそれに救いを見いだすことになる。
ドイツであれ、フランスであれ、ヨーロッパに渡ったからには
できるだけ現地の社会に適応しなさい。そのためにも
語学習得は必須です。とはいえ、実際に住んでみると
ほとんど語学に力をさけていない人がいるのも現状だ。
私も子供を連れて3ヶ月フランスに住んだ際、友人に
「どうして日本人とばかり会ってるの?」と言われたことがある。
異国の地で子供を育てる、すでに細かい習慣があまりに違い
テレビが流れてもわからない。「今の日本はどうなってるの?」
と原発に関するフランスのニュースを渡されたところで、
そもそもそのフランス語が半分も理解できないし、日本語の情報はあまりない。
日本だと喜ばれるようなことをしてフランス人の反応を待ってみたって
のれんに腕押しみたいな状況が続くこともある。
そんな中、日本語が通じ、共通の概念があり、
豆ご飯を炊いてみたなら「何なのこれ?!」ではなくて
「わー素敵、豆ご飯!」と喜ばれる。その喜びといったらない。
異国の地は想像以上にストレスがある。そんな中、
みんなそれなりに頑張っている。だけどできないことがある。
いくら努力しても現地の人にはかなわない。いくらやっても
壁がある。そして痛い程気づかされるのは自分が日本人だということだ。

 だからこそ、時には日本人と会い、何の努力もいらない
母国語を使い、おいしいお茶でも飲んでみたい。
そこに計り知れない癒しがあるというのは、きっと
どこの国の人でも同じだろう。
そんな人たちが増え、それがだんだんエスカレートしていくと
その国のコミュニティができ、宗教施設がつくられ、
だんだんその中だけで生活可能になっていく。
すると現地の人は、理解できない言葉や習慣だけで
物事が行われるその場所に怖れを抱くようになる。
それでもフランスにはチャイナタウンがあり、日本人街があり、
ユダヤ人街などがあり、それらの地区のお店に入ると
基本的にはフランス語が通じるし、
フランス人たちもそれらを敵視している程には思えない。
移民たちはそれなりにアンテグラシオンの要請に答えようと努力をし
フランス人達も彼らなりに 許容できる範囲でなんとか許していこうとした
それがこれまでの状況なのではないかと思う。


 それでも結局どんなに努力をしてみたところで
アメリカに「ガラスの天井」があるように、
フランスにもしっかりとした壁がある。
フランス社会は数%のエリートたちがグラン・ゼコルに通い
官僚の卵として養成される。そんなグラン・ゼコルにいるのは
ほとんどが白い肌で栗毛色の髪をしたスノッブな「生粋の」フランス人だ。
もともと良いお家で育ち、移民の多い地区になんて
近づいたこともないような彼らがどれほど現実を知っているのか?
私は一応そのグラン・ゼコルの1つに通ったけれど、鼻高々な彼らとすれ違うたびに
それを疑問に思っていた。フランス人にはいい人もいるとはいえ、
ことあるごとに人を見下したような態度の人がいるのも
事実ではあり、そういう人には何をいっても彼らの解釈が勝ってしまう。

 私が留学したのは2001年の8月末で、それから10日ちょっと経った時
9.11が起こってしまった。当時私はパリ国際大学都市という
ところに住み、もちろん議論が巻き起こっていた。
その時ほぼ2日くらいはパソコンもなく、テレビのフランス語情報も
わからない私には、何が起こったのかあまり状況がつかめなかった。
その時誰かに誘われて、国際大学都市の中での数人での
議論に参加したことがある(おそらく英語だったのだろう)
私は状況もつかめていないし、議論にも追いつけなかった。
仕方がないからとにかく聞くのをがんばろう、そう思った矢先に
明らかに矛先が私の方に向かったのを感知した。

「ねえ、ミキ。これはまだわからないんだけど・・・
あなたはどう思う?あのね、あれは日本がやったんじゃないかっていう説があるの。
ほら、日本にはカミカゼがあるでしょう・・・?」

 これは冗談ではなく本気の質問だった。全ての人がこちらを向いた。
私は冗談でしょう?そんな訳がない、それは絶対にありえない。
そういうのが精一杯だった。絶対にそれだけは違う、そう確信
したけれど、その理由がきちんと説明できなかった。
彼らは本当にそうかな、といった目をしながらも、
議論はまた別の方向に続いていった。


 一人の日本人として、これがどれほど悔しかったか。
その後にも様々な場面で「知ったような顔をして私に日本を
説明するけど、明らかに間違っている人たち」に出会ってしまう。
彼らはほとんどわかっていない。でも声高らかに友人達に語っている。
「日本ってね、こんなことがあるんだって。私、本で読んだのよ・・・」


 私はその1ヶ月で強く決意を固めてしまった。
いつか彼らにきちんと言えるようになろう。
そんなことはありえない。実際にはそうではない。
何故なら、と言えるようにならねばならない。
でもどんなに彼らが馬鹿なことを言っていようが
彼らはこちらの土俵に立つ気は毛頭ない。
だから私が彼らに伝えるためには、彼らの土俵に
立たなければ、最初から勝負すらしてもらえない。
そのためには語学だけでなく知識も彼らの論理も必要だ。
それは激しい努力を必要とするだろうけれど、いつか私はやってやる・・・
そう思ったのを覚えてる。

 そして10年以上前に心に刻んだそんな想いは
10年努力してみたところで、簡単には実現できない。
それほど西洋社会で普通に育った「彼ら」と私の間には
大きな差が存在し、情報量も違う中で、差は日々開いていくままだ。
「ヨーロッパとイスラーム」の中で内藤氏はこう語る。

「ヨーロッパとイスラームとの共生を可能にするか、
あるいは破局に導くのか。それを決めるのは、
ヨーロッパが、自らの文明がもつ「力」をどれだけ
自覚できるかにかかっている。なかでも、
西洋文明には、社会的進歩の観念を無意識のうちに
他者に押しつけてしまう「力」があることを
自覚できるかどうか。それを押しつけたときに、
ムスリムがどのような違和感を抱くかを理解できるか。
このふたつのハードルを越えられるか否かが、
ムスリムという人間との相互理解の鍵と言ってよい。」


 ヨーロッパ社会がもっているその「力」
おそらくイスラム社会も私たちも、昔から
その論理の中では育っていない。だからこそ、
それこそが普遍的だと力説され、お前にも
できるだろう、わかるだろうと言われても、弱者になってしまった
側にとってはもはや言葉はあまり意味を持たなくなってしまう。
何故ならどうあがいてみたところで、負け戦なのが決まっているから。
そんな時、自分の属していた国の文化や宗教が
計り知れない癒しになることはあるだろう。
私だってわけもわからず泣きながらパリに居た時
日本では窮屈で仕方ないと思った着物を着て抹茶を飲んだら
心も身体も心底ほっとして驚いたのを覚えている。
けれどきっと、もとをたどればそんな程度のものであり
異国で生きることにした者たちは なにも結束して
ホスト国の人々に立ち向かおうなどと
始めから思っていたわけではないだろう。

 西洋文明には「力」がある。他者を理解する前に
その「力」や論理、自分のものさしだけで
他者を判断してはいないか。一度それを問いかけること
それが大切だと思う。シャルリー・エブドが
新しくモハメッドを表紙にした雑誌を刷って以来、
世界ではアンチ・シャルリーのデモが
各地で続いている。パキスタン、ニジェール、
チェチェンでは数千人規模のデモが起こり、
フランスの国旗が燃やされた国もある。
デモによってすでに10人近くが死亡した。
「表現の自由」も大切だけれど、侮辱したつもりはなくても
そう描かれること自体が外の文化の人にとっては大いなる侮辱である、
というのは往々にしてありうるものだ。

 国際感覚というのは何なのだろう。
それが日本にあるとも思えないけれど、
外国語の習得と同じように、自分とは違う他者を知る気持、
違うけれども知っていきたい、違うけれども
なんとかわかりあえたらいい。共に進んで行くために、お互いに一歩は折れる。
そういう気持を持つことも大切なのではないかと思う。

フランスの大規模デモ

2015年01月12日 | フランスあれこれ


 昨日、日本時間の深夜、フランスで空前の規模の
デモ行進が開催された。参加者はフランス全土で
400万人程、パリだけでも150万~200万人が参加したという。

 デモが始まったのは日本時間の夜12時頃で、
私は前後1時間くらいのニュースをずっと聴いていた。
ラジオからですらものすごい興奮が伝わってくる。
後ろから聞こえるフランス国歌、時折流れる拍手の渦。


 今回のデモはもちろん反テロであり、17人のテロ犠牲者の
追悼集会でもあって、デモの先頭には犠牲者の家族、
それから40カ国余りの首相たちが並んでいた。
オランド大統領と共にサルコジ元大統領の姿もあり、
ドイツのメルケル首相やイギリスのキャメロン首相の姿もあった。
連帯、まさに連帯だった。様々な国の国旗に様々な宗教が交じり合う。
その中でスローガンのようになっていたのが
"Je suis Charlie" (私はシャルリー)というものだった。
この言葉を掲げ、フランス全土で空前の規模のデモが開催された。


 フランスにおける9.11と言われる程のこの事件は
フランス社会に相当なショックを与え、迷いや戸惑いを
抱えながらもこのデモに参加した人たちもいたという。
今回シャルリーエブドが「表現の自由」の象徴として
国中が"Je suis Charlie"に染まる一方で、シャルリーエブドの絵に対して
今でも批判的な気持を持っている人たちもいる。
イスラム教徒の人の中には、彼らの絵をよしとする
人もいれば、それはいまだに許せないと思っている人もいる。
「けれどもそれは裁判にかけるべきで、あんな殺され方を
するべきじゃない」という意見がルモンドに載っていた。


 フランスにおいて風刺画というのはマリーアントワネット
以前からあるらしく、1つの伝統文化といえるらしい。
だがその文化的背景が異なる人にはどこまでがユーモアで
どこまでが行き過ぎて辛辣なのか、簡単にはわからない。
(ちなみにアメリカにも風刺画はあっても宗教の批判はないそうだ)
同じフランス人でフランス語のニュアンスを解する人でも
信仰が違い、自分が信じているものを侮辱されるような描き方をされると
よく考えたりする前に、まず腹が立ってしまうのは当然だろう。
それでも、まあ言われてみたらそうかもな、とふっと笑える
心の余裕があったらいいのだけれど、必死な状態で生きている人には
そんな余裕なんてない。もし自分が江戸時代の武士だとして、
面白おかしく描かれた「腹切り」の絵を見せられたとしたら?
こちらにはその世界と選択肢しかないわけで 好き好んで
そうするわけでもないのに それを他所の世界の人から笑われたなら
どんな気持になるのだろう。 


 今回私がラジオで一番印象に残った言葉は
サンドニというパリ郊外で劇場をしているフランス人の話で
「私はこういう日がいつか来る、いつか来るって10年も前から
言っていたのよ。本当にそうなってしまったわ。私がサンドニで
劇場をしているっていっても、皆サンドニをフランスだと思っていない。
一緒に仕事をしているのは皆フランス人よ?」
サンドニは移民問題で知られるパリ郊外で、言ってみれば
荒れてしまっている郊外だ。フランスにはきらびやかな
イメージの一方で、移民問題とかなりの格差が存在している。
シャルルドゴール空港からRER(電車)でパリ市内に入って行くと
なんだか殺伐とした郊外が目に映る。こうしたいわゆる
「パリ郊外」は目の上のたんこぶのようなものだった。
だから栗毛色で白人の生粋のフランス人たちは そういう場所を
目にしないように、あまり考慮しないように、対策を
きちんととるというよりは、「取り締まり」ふたをしてきたように思う。

 その問題がいつかひどい形で噴出するわよ!と彼女は
言っていたのだろう。そしてそんな日がやってきた。
曲がりなりにもシャルリー・エブドを襲撃した2人はフランスで
育った人たちだった。同じパリ、とはいえど、恵まれた境遇の
ブルジョワフランス人と移民の子とでは置かれた境遇が全然違う。
それをほとんど放置してきた、その結果としてこんな事件が
起こってしまった・・・そう考えた人もいるようだ。
そのショックというのは「関係のない他国のテロリスト」から
襲撃されてしまったアメリカ、とはまただいぶ違うものだろう。
だからこそ、この先の教育をどうするか、"Quartier défavorisé"
(恵まれない地域 移民の多い郊外など)をどうするかが
これから重要になってくる。この日を境にフランスはきっと変るだろう。
サルコジだってどちらかというと郊外に対して手厳しい対策を
とってきたけど、あのサルコジがオランドに呼び出された日、
ものすごく元気のない声で「こうやって呼び出されたらもちろん
行かない訳にはいきません・・」と言っていた。
郊外に住んでいたって、移民の子だってフランス人だ。
「私たちはイスラム教徒である前にまずフランス人だ」と
ルモンドのインタヴューに答えた人がいた。
移民対フランス人なんて構図はとっていられない。
移民がいなくなってしまったらフランス人の母たちは
働くことすらできないだろう。

 私は移民の多い19区に息子とともに3ヶ月滞在していたことがある。
はじめはドキドキだったけど、ある時ふと気がついた。
この人たちも私も同じ境遇なんだ。子供がいて、お金を
なんとか稼がなきゃならず、毎日を必死な思いで生きている。
ただそれだけのことだった。彼らはとてもあたたかかった。
道を歩いていたらパンを配達中の車が停まり、息子に
バゲットをちぎってわたしてくれたことがある。
歩かない息子を抱っこしていたら何度もアフリカ人に
声をかけられた。「オレも抱っこされてみたいなあ!」
パリで一番くらいに安いマルシェには強いアクセントの
フランス語を使う商人たちが溢れてた。「△△€!」
よく考えたら1,5€ということだった。彼らはものすごく
力強くて、でも温かみがあふれてた。
ラビレットの公園ではしょっちゅうアフリカ人たちが
太鼓をたたく。この人たちも、本国にいるよりも
それでもパリの自由さがいいと思ってここにいるのかもしれない、
ふとそんなことを思ってしまった。
公園に行くとフランス人の母親なんてほとんどいない。
乳母車にのった白い栗毛色の子供をあやすのは
大抵アフリカ人の乳母たちだ。彼女達は携帯電話を片手に
音楽なんかを聴きながら 時折となりの乳母としゃべっては
適当に子供に目をやっていた。それがフランスの現実だった。
彼らには彼らの生活がある。ブルジョワフランス人とは違う。
食べものだって自分の国の料理を作り、着る服だって異なるけれど
それでもフランス語をしゃべってる。中国人でもアラブ人でも
イタリア人でも、自分の言葉や文化がある中で それでも
他人と出会う時にはフランス語を使うのが フランスの
「アンテグラシオン」なのだった。誰しもがフランスの恩恵を受け
自国と比べてやっぱり尊敬する点があり、だからそこに留まっている。


 この数年、フランスは分断されていたという。
フランスが1つになることなんてかなり長いことなかったそうだ。
今これを機に、「以前」のフランスと「以後」のフランスが
生まれていこうとしている。確かに「以前」のフランスは
悪い点も沢山あった。移民政策や郊外に対しても、どちらかというと
冷たく見放している感があったけど、このデモで本当に、
どんな宗教でどんな肌の色であれフランスを思うフランス人だと
いう一体感が生まれたように思う。
二度とこんな事件を起こさぬように変えていく点はきっと大いにあるだるだろう。
そのためにも下の階層に置かれた人たちの声に耳を傾けること 
それが需要だと思う。フランス人は本気になったらすごい。
きっとこの国は変るだろう。
1月11日という日は歴史に残り、21世紀にむけたフランスの
大きな転換期となるだろう。

(写真はデモに参加したParis-Bistro.comの代表の友人が撮ったもの)

追記

パリではその後、亡くなった警官3人の追悼式が行われ、
オランド大統領による26分間の演説がありました。
「彼らは我々が自由に生きるために亡くなった」とのことでした。

ユダヤ系商店で人質となったユダヤ人4人は犯人に殺されており、
それがもとでフランスにおけるユダヤ人の立場も再び問題として
取り上げられています。彼らはイスラエルの一番大きな墓地に埋葬されたとのこと。
パリにおけるユダヤ人の立場の悪化を恐れて即座に家を売り、イスラエルに向かった
ユダヤ人女性の話もラジオで流れていました。

シャルリー・エブド誌は水曜日に300万部を販売されましたが、
発売当日の朝10時にはフランス中で売り切れました。
これから計500万部刷ることにしたとか。500万部というのは
フランスのメディア始まって以来の記録だそう。
表紙にはまたしてもマホメット・・・またイスラム社会で
さすがにやり過ぎ、「挑発だ」などと物議を醸し出しています。
フランスでも「じゃあどこまでが表現の自由なのか?」という話題もあがっているようです。
表紙には"Tout est pardonné" (直訳すると全ては許された)と書いてあり
涙を流したマホメットが「私はシャルリー」と書かれたプラカードを持っている・・・
私にはこれをどう判断したらいいのか正直わかりませんが、
ここまでするかという気持はあります。
(まだフランス人の意見は聞いてきません)

1月15日、フランソワ・オランド大統領はパリの「アラブ世界研究所」で
テロ以前から開催予定だったイベントにわざわざ出向き、自ら演説を行いました。
テロを非難するようなことは言わず、原理主義によって一番被害を受けているのは
アラブの人たちだと語り、これからヨーロッパとアラブ世界でともに
ルネッサンスのような新しい時代に移行しようと演説しました。
大統領としての器の大きさ・・・私は関心してしまいました。
本当に頭が下がります。

デモが終わり、彼らの話題は"On fait quoi?" に移りました。
今からどうする?ということです。テロに対して、表現の自由に対して、
これからの教育に対して、課題は山ほどある中で、一人一人が
「じゃあ私たちは、これからどうする?」と問いかけ、小さな一歩を踏み出すこと
それが大切なのではないでしょうか。

今回のフランスのテロは移民2世の兄弟が主犯となって起こしたものです。
彼らについてはまた今後書きたいと思っていますが(よく知ると普通の人に近い感じ・・・)
今の状況を知るのにとてもおすすめしたい本は内藤正典さんの
『ヨーロッパとイスラーム ー共生は可能かー』です。
新刊に『イスラム戦争』もありますが、上記の方がフランスのテロを
理解するのに役立つのではと思います。岩波新書。

表現の自由

2015年01月11日 | フランスあれこれ


 フランスのシャルリー・エブド襲撃以来
フランスでは相変わらず強いショックが続き
ラジオだけでなく友人達も「そのことしか
フランス人は話してないよ」という。
ラジオではようやくサッカーの話題があがったものの、
競技場でも1分間の黙祷があった程で、この日曜には
ヨーロッパの指導者50人程も集まる相当な規模の
デモがフランス各地で開催される。
(おそらくフランス解放以来の規模のデモになると言われている)

 何故それほどまでに・・・
その反応の大きさに驚き、戸惑いを抱いた日本人は多かっただろう。
先日ブログを書いたあと、「そこまで描いたんだから
殺されることもありうるのでは という意見の人が周りに多かった」
といったコメントをしていた人がいた。やっぱりな・・・
正直そう思ったのは私だけではなかったんだと思ってしまった。

 おそらく編集長のシャルブ氏自身はいつかそんな日が来るかもしれないと
覚悟はしていたことだろう。だからこそ彼はそれでも
描き続けたのだろうけれど、逆に激しく抗議したのは
残されたフランス人たちで、彼らにとっての「表現の自由」は
私たちには計り知れない価値のあるものだった。
フランスと日本には様々な違いがあるけれど、
私たちにその「表現の自由!!」がピンとこないのは
おそらくそこまでの表現の自由が存在していないからだろう。
フランスは国をあげて今表現の自由を守ろうとしているのに対し
日本は国主導で表現の自由を脅かす法律を作ってしまった。
(思えばこれもフランス人達が多少抗議していた)

 私たちの社会では 誰かが命令しなくても いつも自分たちに
内在された秩序があり、それがいつ芽生えたものなのか
それが「ある」ということさえも もはや気づけなくなっている。
震災が起きた後、外国人が驚嘆したのは日本人の秩序正しさだったという。
それはいい面ももちろんあるけれど つねに自分を抑えていくことで
いつの間にか 自分が一体何者なのか わからなくなってしまうことがある。
「あなたの意見を言って下さい」そう言われても
外国語だから ではなくて 自分の意見自体がわからない。
留学先でそんな経験をしたことのある人は多いだろう。

 もし大変なことを口に出してしまったら・・・
人にどう思われるだろう。 その先何が起こるだろう。
その恐ろしさといったらない。だから私たちあえて口をつぐんでしまう。
非難されるくらいなら、馬鹿にされるくらいなら、危険な目に合うのなら
そんなことを言わないか、削除した方がましだろう。そんな目に合うのなら
心の奥にこっそりしまって、皆に合わせておけばいい。
私たちの住む国で人と違った意見をあえて口に出すことは 死ぬ程勇気がいることだ。
村八分になるかもしれない。仲間にもういれてもらえなくなるかもしれない。

 だからこそ 人とは違う自分を表現してしまうのは いつも恐れがつきまとう。
表現者 が どれほどの怖れを抱いて物事を表現するのか
それは人にもよるのだろうけど 私の場合はかなりの勇気が必要で
書いては消し 書いては消し えいやっとその溝を飛び越えるのに
どれほどの勇気がいっただろう。それでもフランスのジャーナリストは
私に背中を見せてきた。「大丈夫、もっとできるから!あなたも
書いたらいいのよ!」と。「ミキ、もっと勇気を持つんだ。
自分の意見を言ってきちんとした批評をすることで 君についてきて
くれる人がいるんだから」けれども私は怖かった。おそらく他の人もそうだろう。

 日本にある自由というのは いつも限定がついていて
「~の範囲内においては自由にして構いません」
でもその範囲を逸脱してしまったら?国は責任を追いません。
しっかりと、社会が良いという範囲内で それなりの人生を送って下さい。
もれてしまったら?それはあなたが悪いでしょう。それを自己責任と言うんです・・・
私は自分なりの人生を歩みたくなり 少し道を外れてしまった。
その先の対応といったら本当に恐ろしいものだった。
Aという道は用意されています。
でもBという道はありません。用意されていないのです。

 フランスを擁護するわけではないけれど、フランスはまた
だいぶ違う。表現の自由というのは結局「自分の意見を言う自由」
ということだろう。その手段は議論でも、描くことでも文章でも
踊りでも構わない。他の人とは違った意見を持っていること
それがフランスでは尊重される。イエスというより少しでも
批判できる点を見いだしてこそ評価される社会になっている。
「私とあなたは違います。で、それで?」という風に
社会の仕組みがなっている。

 私がパリ政治学院に留学した時 色んなことがわからなかった。
まだ日本の気持にどっぷり漬かり、フランス語のレベルも低く
民主党的な夢を抱いていた私には フランスの現実主義がわからなかった。
政治学の基本というのに「人間は自然状態ではオオカミである」
というのがあった。そもそもそれがわからなかった。
日本にいた私にとっては人間は自然状態でも秩序をもっているように
見えたから。今ならわかる。私たちは日々の成長過程で
それを内在させるよう、たゆまぬ努力をしているだけだ。
そしてそれに気づかなくなってしまうほど、一体化してしまっているのだ。

 自然状態がオオカミであったなら?ある権利を手渡すことで
そのかわり、国や法律が皆を守ってあげましょう・・・それが
フランスで習った国家というものだった。

 国家なんてね、国なんてね、もうそんな時代じゃないよと日本の友は言っていた。
けれど今のフランスは 国家とは何かを見せつけてくれている。
国は必死になって国民を守る。今だけでなく、原発事故直後に
フランス政府がとった対応も迅速だった。
飛行機は無料で到着後の空港での放射能のチェックも厳重だった。
その飛行機にフランス人の旦那さんと飛び乗ったという
日本人女性の話を聞いて、どんなに羨ましかったことだろう。
日曜日のデモも国を挙げて行われ、警官が2300人体制で取り締まりをするそうだ。
国 というのは その国の国民によって成り立っている。
国民には色んな宗教の人がいる。カトリック、プロテスタント、
イスラム教にユダヤ教・・・でも今や宗教は関係ない。
その前に私たちはフランス共和国の国民だ、と多くの市民が言っている。
革命があり、自由・平等・博愛という理念があって、何より
大切にしてきたのは自由、あなたがあなたの意見を表明する自由であった。
何故かといったら、そこからフランス革命が始まったからかもしれない。
そして彼らは自由を勝ち取り、市民のための「共和国」が誕生した・・・

 結局多くの人がフランスに憧れ住み着き移民となったのは
経済的理由だけでなくフランスの「自由」あってこそだろう。
それはどんな風に振る舞っても良い暴力的自由ではなく、
あなたのしたいことと私のしたいことを認め合う自由に見える。
あなたはそうなんだね・・・私は違うけど。それはフランス語という
言語にも表われている。教科書の一番最初のころに出てくる
"Moi" や"Toi" これは英語にはあまりない概念らしく、私は
こう説明している。「あなたはイギリス人なのね、私の場合はね(Moi)、
私は日本人なのよ。」「あなた(Toi)、あなたは紅茶にするのね。
私はね、(あなたとは違って)コーヒーにするわ」
私はあなたとは違う。でもそれだけのこと。だから議論を好むのだろう。
誰もが同じ意見だったら、議論なんて成り立たないから。

 みんなが違う、その前提でこれからどう国を成り立たせるか
どう教育を成り立たせるか。だからこそ、強力な「ライシテ(政教分離)」
や「アンテグラシオン(統合 主にフランス語での教育)」があるのだろう。
フランスの市民が平等かどうかは別にしても
「表現の自由」それがあればこそ 自国にとどまっているよりも
生活が多少苦しくたって それでもフランスに住もうとするのだろう。
自分が自分であれる喜び 自分らしくしても責められないこと
その心地よさというのは きっとかの地に住んだ人なら
経験したことがあるだろう。それは計り知れない喜びで
そのためだったら生活が苦しくたっていい。パンとチーズがあればいい。
だからフランスには歴史的に数えきれない程の芸術家が住み
フランス人たちはそれを誇りに思ってきた。
表現の自由、勇気をもってそれをついに表現したとき
「それ、いいじゃん」と言ってもらえるその喜び。
そういう土壌がある場所だから 生まれるものがあるのだろう。









フランスの新聞社 シャルリー・エブド襲撃事件について

2015年01月10日 | フランスあれこれ
 「フランスで新聞社襲撃 12人死亡」
朝電車に乗っていた時、ふと目の前にいた人の新聞の
見出しが飛び込んできた。え?なに?嘘でしょう?
動揺しながらすぐにFrance infoのニュースを聞くと
普段のラジオの調子とは全く違う、深い悲しみが伝わってくる。
「彼は本当に優しい人だったんだ。人を傷つけようなんて
気持は微塵ももっていなかった。友人を亡くす悲しみが
こんなにも辛いものなんて・・・」ほとんど泣きそうになりながら
亡くなったシャルブ氏について語る人がいた。
その時私には15分くらいしか時間がなく、一体何が起こったのか
よくはわからないけど、ただ事ではないというのを痛感した。


 私がそれを知ったのは木曜の朝、それから少しでも
時間があるとひたすらラジオを聞いて、ルモンドを読み、出会ったフランス人と
会話をし、理解を心がけてきた。印象としてはフランスにおける
9.11と言ってもいいくらい、フランス人たちは相当なショックを
受けている。けれども日本ではどうも受け止め方が異なるように思う。
だから私は知っている限りのことを書いてみよう。
遠くに住む私ができることは訳すことと書くこと、
きっとそれくらいだと思うから。



 シャルリー・エブドが襲撃され、12人もの関係者が亡くなり、
フランス中には激しい悲しみとショックが広がった。
私は9.11の時にフランスに留学していたけれど、
今回はおそらくそれと同等かそれ以上のショックが
あったのじゃないかと思われる。オランド大統領が
エリゼ宮に政敵のサルコジ元大統領をわざわざ呼び、
サルコジもすぐにそれに応じていった。国旗は3日間
掲げられ、木曜日には学校やメトロなどでも
1分間の黙祷の時間があった。容疑者の
逮捕に向けてもまさにフランス中が1つになって動いていたのが
感じられる。フランスのニュースはそのことしか話さない。
あまりのショックと、激しく緊迫した状態が
ラジオ1つからでもひしひしと伝わってくる。
そんな経験は初めてだ。



 「シャルリー・エブド」という週刊誌の名前を事件前から
知っていた日本人はきっと少ないだろうと思う。
私もまず新聞の見出しで「新聞社襲撃」と知り、
一体どんな新聞社かと思っていた。ここで大切なのは
「どこでもいいどこか」の新聞社が襲撃されたのではなく、
シャルリー・エブドがしっかりと狙われたということだ。
そこにフランス人は相当なショックを受けている。
何故なのか。シャルリー・エブドというのは1960年に創刊された
「アラキリ」という雑誌を前身とした週刊誌で
ご存知のように風刺画をウリにしている。
その風刺の仕方は私たち日本人からするとちょっと
やり過ぎじゃないの?とか、ここまでする?という
印象を受けることもあるけれど、フランスでは相当
愛されてきたようだ。「アラキリ」は60年代前半から
月刊誌を創刊し、社会風刺、社会批判的なことを続けてきたため、
何度も出版禁止にされてきた。
「アラキリ」というのは「腹切り」、つまり切腹という意味だ。
それがタイトルになっている。しかも切腹、ではなく腹切り。
そういう名前の週刊誌というのもどうかと思ってしまうけど、
「アラキリ」もかなり愛されていたらしい。


 シャルリー・エブドの風刺については、何も
イスラム教だけに限ったことではなく、イスラム教、というよりも
イスラム原理主義など、行き過ぎてしまったものに対する
風刺を中心としていたようだ。イスラムだけでなく、キリスト教や
ユダヤ教に対しても風刺があり、NHKの生前のインタヴューでは「マルクスを
批評するのと同じように、宗教家だって批評されてもいいではないか」と
編集長のシャルブ氏が語っていた。
(ちなみに宗教への風刺という概念はアメリカにはないらしい)


 さて、ここで私たちにとってわかりにくい問題が出現する。
それはフランスの「ライシテ 政教分離」というものだ。
フランスはフランスで生まれたら、親の国籍がどこであろうが
子供はフランス人になれるという出生地主義を長年とってきた。
そのかわり、フランス共和国の一員となったからには
「アンテグラシオン」をしっかりしてもらいましょう、という
暗黙の了解がある。この「ライシテ」も「アンテグラシオン」も
フランスに住むとよく耳にするけれど、留学当初は
辞書でひいてもまったく意味がわからなかった。
まず、アンテグラシオンというのは「統合」と訳されるけれど
「フランスに住むからにはフランスを受け入れてもらいましょう」
というもので、その最たるものにフランス語教育がある。
フランスの優れた教育は受けさせてあげるから、フランス語は
しっかりとやりなさい。母国語でのみの生活はだめ!ということだ。
私はこの強烈な「アンテグラシオン」でフランス語漬けの生活を余儀なくされた。
おそらく政教分離もそのアンテグラシオンの1つと言えるだろう。
どんな宗教を持っていても構わない。けれども公教育の場では
それをあえて明示するようなものを身につけてはいけない。
キリスト教徒が十字架の首飾りをするのもダメ、イスラム教徒が
スカーフを巻いて授業を受けるのも・・・本当はダメだと思う。
このあたりで議論が巻き起こり、「イスラムスカーフ問題」というのが
随分前にかなり問題になっていた。


 さて、そのアンテグラシオンやら政教分離があるので、
親がどの国出身でどんな宗教を持っていようがフランス国民として
平等に生きていけることになっている。とはいえ本当に違いがないか、
住む場所や肌の色、名前で判断されていないかといえば
実際には「平等」なんて言えないだろう。アンテグラシオンは
うまくいけば(理念上は)素晴らしいけど、そんなに簡単に
適応できないこともある。フランスは今でも階級社会の名残が
あり、地区ごとに生活環境もかなり違うので、移民の子として生まれ、
様々な葛藤や感情を抱いて育つ人がいるのは想像できる。

(今朝のLe Mondeにはシャルリー・エブドの絵に対して今でも怒っている
イスラム教徒の中学生の話が載っていた。)



 それに対してシャルリー・エブドの立場はというと、裕福で
恨まれるようなブルジョワ金持ち、というわけではなく、
どちらかというと左翼の闘士に近い感じのようだ。
シャルリー・エブドはまさに「表現の自由」という
フランスのプレス、フランスの文学、哲学の根幹とも
言えるようなものを代表し、具現しつづけていた雑誌社だった。
昔から何度か出版禁止になり、火炎瓶を投げ込まれ、
事務所がほぼ燃えてしまっても、引っ越しを重ね、
それでも出版を続けてきた。表現することのリスクや
怖さを自ら体感しつづけてきた上で、それでも
彼らは表現し続けた。私のまわりのフランス人たちによれば
彼らの風刺画はあくまでもユーモアであり、誰かを
傷つけようという意図ではなく、「ちょっとこういうのって
行き過ぎ難じゃないの?」という状況を風刺画で
描いていた、ということだ。


 日本で今のフランスの状況が伝わりにくいのは、
日本の状況に還元して考えるのが難しいからだろう。
何度も私も考えたけれど、おそらく日本にはシャルリー・
エブドに相当するものはないだろうし、だからこそ
その「表現の自由の象徴」であった彼らを失った
ショックもあまりよく理解できないのだと思う。



 個人的には「そこまで描く?」とか行き過ぎでは?と
思うこともあったけど、冒涜、侮辱のためではなく
それでもあえてやり続けるというのは彼らなりの強い意図が
あるからだろう。それは笑ってやろう、というのではなく
おそらくそういう姿を自分が客観的に見ることで、あれ、
それって変じゃない?行き過ぎかも?何もそこまでしなくても、
と自らを問い直す、言い換えれば"Philosopher"(哲学する)
当たり前だと思っていた姿を問い直す、
ということをしたかったのかもしれない。
だとすれば、フランス人が必死になってシャルリーの
精神を守ろうとしているのも理解できるように思う。



 シャルリー・エブドはリスクを承知でそれを続け、それでもフランス社会には
多くのイスラム教徒でさえも「シャルリーを支持する」と
言えるほどの寛容さや成熟した視点があった。
私が個人的に驚いたのは、今回かなり早くにイスラム教関係の
代表者達がラジオの取材等に応じ、悲しみとシャルリーへの
支持を示したことだった。彼らの多くは言っていた。
「容疑者のしたこととイスラム教とは何の関係もない。
イスラム教は平和を願う宗教だ。」イスラム原理主義と
イスラム教には深い隔たりがあるらしく、多くのイスラム教徒が
またイスラムの名の下に、自分たちをひとくくりにされる
何の関係もない事件が起きたことに強い衝撃を受けている。
この日曜日にはパリで大規模なデモ更新が予定され、
そこには数多くのイスラム教徒が参加するだろうと言われている。
フランスでは事件後から"Je suis Charlie"(私はシャルリー)と書かれた
プレートやFacebookの画像を持つ人が増えている。
その中でも「私はイスラム教徒 私はシャルリー」とあえて書く人もいる。

 フランスにはルソーの時代から、他の国では許されないような
表現に対する寛容さが守られてきた。だから多くの亡命者が
やってきた。ルソーは言った。「自分の国では書けないことを
フランスでは書くことが出来る。」ゲートルード・スタインも言った。
「作家は2つの国を持たなければなりません・・・」そして
アメリカ人の彼女はフランスで書いた。ジェームスジョイスの
本だって、本国では発禁だった。それをフランスで発売した。
多くの国では許されないことを、フランスはそれを誇りに思って
許してきた。けれどもその象徴的な人物が、本国のパリで
自分の会社で惨殺された。おそらくそれが
ものすごくショックなことなのだろう。


「ペンにはペンで立ち向かえばいいではないか」
私にそういった人がいる。それが誰にでもできることではなく、
そういう言い方がまた階級や、生粋のフランス人と
そうではない人たちの立場の差を感じさせてしまうのでは
と私は思ってしまうのだけど。あなたにはできるかもしれない。
でも私達はそもそもそんな世界に行くことすらできなかった、
そう思う人たちはいるだろう。けれども誰しもに共通するのは
「だからといって何も殺すことはない」まさに本当にそう思う。
それに容疑者はアルカイダで訓練を受けたようなプロだったから
それこそ一般の人たちの感覚とはかけ離れているのかもしれない。


 日曜日には前代未聞の規模のデモが開催される。
シャルリー・エブドは諦めず、来週の水曜日には100万部を刷るという。
フランスにはシャルリー・エブドという、ペンで戦い続けた人たちがいた。
サルトルも彼らを応援していたという。書く、というのはリスクを伴う。
誰よりもそれを承知していたシャルブ氏たちは、それでも書くという選択をした。
信じられないほど勇気のある彼らの姿 そしてこれからのフランスを
もう少しちゃんと追ってみたい。

参考文献 Le Monde.fr , franceinfo

日本とフランスの相互作用

2011年01月15日 | フランスあれこれ


 フランスに行ってパリに住んでるフランス人と
話をするたび「日本いいじゃーん また行きたい!」と
強く言われることが多くて なんだか
とっても面白かった。先日ははじめてフランスの
マクドナルドに連れて行かれ、へー、グルメな人でも
マックとか行くの?!と驚いてたら
こちらのマックは全て国産素材らしくて
たしかにお肉の味も、パンの味もしっかりしてて
なかなか美味しい。これなら行ってもいいかもなーと
思ってた。(ちなみにMac Cafeというところでは
なんとマカロンが売られてた!)

 
 そうかフランスのマックはけっこう美味しいんだな
そんなことをフランス人の友達に話していたら 「だけど
私の息子は日本に行った時に日本のマックが最高だ!って
言ってたわよ けっきょく自分のところにないものが
よく思えてしまうのよー」と言っていた
(彼女はなんでパリに吉野家がないんだろうと嘆いてた
ちなみにパリのユニクロは大盛況!!)



 「あなたたちは どうしてこんなにきれいで清潔な
国に住んでいるのに フランスなんかに憧れるの?」と
5年前にフランス人をガイドしたとき、隅田川のほとりで
言われたその言葉を今でも覚えてる。
確かにね 空港に着いてみるとそのきれいさに落ち着いたりして
トイレにとりつけられた様々なボタンは相変わらず
意味がわからないままだけど 日本のトイレの床には
トイレットペーパーは散らかっていないし 落書きもない。
パリのシャルルドゴール空港といったら エレベーターは
壊れているわ 自動販売機は壊れているわ 電車は
時間通りにこないわ 機関銃みたいなのをもった兵士はいるわ
市内にいく切符を買おうと思ったら 切符の自動販売機も
壊れているわで あまりにも観光客に不親切。。。
どーなってるんだ この国は!と思うけど
なんで惹かれてしまうのかしら。。。



 日本にいると 日本の道をきれいにするために
ものごとをスムーズにするために私たちが日々重ねてる
沢山の努力があるわけで 道からはずれちゃいけないというか
人がしてるなら私もしなくちゃいけないというか
一分たりとも遅れちゃいけない感覚だとか、
それがあるから 清潔さも正確さも保たれている訳で
日本では「赤信号 みんなで渡れば怖くない」というけれど
パリに行ったらフランス人はすすんで死にたいのだとうかと
思うほどに なんでこんな車がきてるときに赤信号
横断するの?!というようなことばっかりしてる。
あれも不思議でしょうがない。私もだいぶ慣れたつもりでも
やっぱり怖くて渡れない。それに対して日本だと
車が全く来てなくたって 普通の人は青になるまで
ちゃんと待っているもんね その横を平気な顔して
ベビーカーを押して通る私もどうかと思ったりするけれど。


 日本とフランスは 似ているように思える点も
たくさんあるけど でも根本的に 根底的に
異なっているように私には思えて仕方ない。
日本では有給休暇なんて1週間とれればいい方で
もし2週間も休みがあったら「すごいね!」ということになる。

 それに対してフランスは法律で定められた休暇が5週間。
もちろん彼らは全部使い切るのだけれど それだけでなく
なんと最近は35時間労働の法律のおかげで
金曜日のお昼すぎには仕事が終わる人たちが沢山いるらしい。
そういう方法かもしくは39時間くらい働いて 月曜日か
金曜日をまるまる休む そんなことも可能らしくて
1ヶ月のバカンスが普通なのだけど いろんな休暇を足してくと
なんと2ヶ月とか最高では4ヶ月まで休みの人がいるらしい。
(ちなみに4ヶ月とれるのは学校の先生で 日本の学校は
部活があるため1週間もとれないのがほとんどみたい)
そして彼らはこう言っている「2週間しか日本に行けなくて、、、」
いいですねえ、、、



 あー フランス人に生まれたかった!と何度思ったことだろう


 でも何年か前に友人が「美樹はフランスに生まれていたらきっと
日本がいいとかいって やれ禅だとか和食がいいとか言ってるだろうと
思うけど、、、」と言っていた。それをきいた友人たちはみなで
くすくす笑い合ってた。まあ本当にそうでしょう。
そしてそんなフランス人も沢山存在してて
パリに生まれてパリジェンヌになったからって幸せなわけじゃないんだなー
そういうことは今回すごくよく学べて収穫になった。
というのも「フランス人は決して満足しない」とよく言われるけど
(それは日本のように「もっと良くしよう!」というより
雨が降ったらやれ雨だいやだなあといい 晴れたら太陽が暑いという
そんな感じです) 特にフランス人女性はなかなか満足しないらしい。
映画なんかを見ていても やたらとこわい人たちが多く
ああ そういうことか、、、と思ってしまう。


 フランス語でため息って何て言うの?と聞いてみたところ
そんな言葉はなかなかみつからないらしく ええ何で?と
思ったけれど 日本人は 苦しい時に苦しいとも嫌だ!とも
なかなか言えず それをためこみ、それがため息に
なって時折漏れてしまうんじゃないかと思うけど
あちらの人たちはネガティブな感情を表現する言葉を
やたらと沢山もっていて ネガティブな感情をもったその時
その場で 言いたいことをいってしまうから
ため息なんてつく必要がないのだろう と私は解釈したのだけれど
ため息だったり 苦虫をかみつぶしたようなような表情や
何かを飲み込んでとりあえずつくってみた笑顔の代わりに
彼らはバンバン吐き出していて だからフランス人女性は
ちょっと怖い存在なのだろう。どちらがいいとかじゃないけど
その中間があったらいいのに と 私はいつも思ってしまう。


 日本にもフランスにも お互い学ぶべき美点があって
それをもう少し大切にして 生き方に活かせていったなら
もうすこし 生きやすくって調和のとれた そんな世界が
あるのだろうか。 フランスは知れば知るほど面白いけど
消化不良を起こした私の胃袋は 日本の昆布と鰹の出汁をもとめてて
日本とフランスを頭の中で行ったりきたり
相互作用をさせてみること そうして何かを書いていくこと
それが私にはきっと合っているのだろう。

驚きの新年

2011年01月02日 | フランスあれこれ


 今年はフランスで年を越してみることになり
生まれて初めてかと思ってたけど よく考えたら
留学中もしていたわけで そうかあのころに比べると
なんだか同じパリにいても ものの見方や
自分の態度が 随分変化したんだなと気づく。



 留学をしていたときは 私はまだまだ
れっきとした「日本人」を背負ってて
日本の価値観にまみれた目でパリを体験して
いろんなことに驚いて 驚く 楽しむというよりも
わけがわからなくて怖かった。自分では判断することが
不可能だった 彼らの言ってることもわからなかったし
なんだか随分表面をみて そこにとらわれてたんだなあと思う。


 今はだいぶ知り合いもでき 言葉もあのころに
比べたら 圧倒的に上達したから フランス人と
長くしっかり会話することが増えて来て
面白いのは 話をすればするほど 物質的には
そうかわらない この日本とフランスという国で
びっくりするほど根底的な考え方が違うということだった。



 今までは 表面的にみていると「どうしてパリには
こんなにカフェが多いんだろう?どうして彼らは
カフェに行くのだろう?」という疑問な程度だったけど
そして何故議論や創造が生まれるのかなと思ってたけど
話をきくほど それらはヨーロッパ文化にとってものすごく
大切なものらしい。


 「日本ではね カフェで議論とかしないんだよ
だからそんな文化を広めたくってね」とカナダ人で
パリにもう何年も住んでる友達に話したら
「ええありえない!!カナダやここでは自分の
考えを分かち合うとか議論する意外の何もしないよ!
それほど重要なことはないのに」と言われて私が驚いた。


 それから哲学カフェにいったとき 女の人たちが
「私はそうの意見には反対です なぜなら、、、」と
普通に言ってるのをみて ひゃーすごいなあと思ってたけど
それも議論の文化、文化的なものをつくっていくとき
いままでのものを批判してこわし、新しいものを
つくりあげるという価値観がものすごく大切に
されてるかららしい。だからただ「こうだから」と
今迄あったものを「そうですか」とのみこんで
それをちょっと改良してみる そういう日本的な
考え方とは 根底的に価値観が違うんだそうな



 そうやって 人の話がだいぶきけるようになってきて
私も議論!と思うけど 彼らの知識は圧倒的で
なかなか議論にまで至らないけど 新年は念願の
「パリのカフェで議論」にだいぶ近づいたようで
私はとってもうれしくなった。フランス語もこちらの文化も
とっても難しいけれど どちらにしたって
適応努力をしないといけないのなら
私はここで こうしてカフェで
頭をめいいっぱい働かせ それからものを書いていたい。

飛び込む勇気

2010年09月08日 | フランスあれこれ


 6月にフランスに行く前に
私は滅多に描かない デッサンではない
絵を描いてみようという想いにかられ
筆をとっては うーんこんなの!と
おもむくままに描いてみて
出来上がった魚の絵 は
海をはねてる魚の絵。





 それで?何か書いてみようか
フランス語でコメントしよう
そして私はこう書いた。
'Te veux sauter?'
'Oui..'
(飛びたいわけ? うん、、、)


 その時は sauterというので合っているのか
この単語が何を意味しているのかなんて
あんまりわかってなかったし
なんで魚の絵なのかも
私自身にはわからかなった。

 
 それから2ヶ月がたち
2度目の渡仏をした時に
偶然にもsauterという単語を雑誌で
目にすることになる。
それは『人生は変えられるのか』という
特集で sauterというのは飛び乗る、
思い切ってやってみるという意味もあるんだそうな。



 今日は憧れの日文研図書室で朝から本を読み
日本におけるフランス研究について
うーんと考えていたのだけれど
日本でフランスのことをやってくと
どうしても難しくって権威があって
アカデミズムで 何もかも 知っていないと
いけなくて 「当然これはご存知ですよね?」
(「周知の事実だが、、、」という言葉ですね
誰も知らないよ!と突っ込みたくなる。)
という恐ろしい雰囲気があり
もう本当にスミマセンという気分にいつもなってしまう。


 だけどどうして そういう本を書いてる人の
大半が パリにたった一年だけしか住んでなかったり
ほとんどフランスに住んでなかったりするのかな?と
思ってみると 色々思うことがあり
結局私には不思議に思えて仕方ない。
日本でフランスのことを語って
偉そうに大学で教えることが そんなにも
面白いのだろうか?それよりも住んでしまった方が
もっと面白かったりしないのだろうか
どうして彼らはフランスのことを
ずっと研究してきているのに
その憧れの国で暮らしたいと思わないのか
私には不思議に思えて仕方ない。


 実際のところ 日本でフランスを研究している人たちは
フランスにいってみても 私が通っていた学校に居た
人たちのように 毎日まいにち図書館通いで
楽しもう!とするよりは 必死な思いで
かつて私が適応してみようかとしてみたように
苦しみもがいているのだろう。
たまに夜に外出するけど 留学生とつるんでいたり
頭の中は 過去の歴史でいっぱいで
見える世界も違うのだろう
そうして彼らも 8年前の私のように
重荷を背負って 背中をまげて
ちょっとアンニュイな顔をして
帰国して 何かを報告するのだろうか


 どうしてこんな世界なんだろう と思いながら
他の雑誌を手にとってみたら
あ いたいた!そう こうなりたいの!という人が。

 彼は黒田アキさんという人で
パリで活躍する日本人画家だそう で
今では藤田より有名なんだとか。
フーコーともお友達だったと書いてあり
しかもカフェによく行くんだそうな
それですよ それ!そして彼は笑ってる。


 パリで笑っていられるのなら
こんな幸せなことはない。
彼はきっと 藤田のようなパリをみていて
他の人たちを不思議に眺めているのだろう
藤田は言ってた。「どうして彼らは
日本に帰って名を成すことばかり考えているのだろう?」
藤田はそこで やってみようと決意をしてた。
だから彼らとは一緒になれなかったし
なりたいとすら思ってなかった。
私は藤田ほど強くはないけど
でも彼の気持ちはよくわかる。
それで?日本に帰って大学教授になって?
早稲田には6ヶ月しかフランスに住んでたことがなく
授業のたびに「パリ」と書かれたTシャツを
来てくる先生がいた。
私の高校時代のフランス語の先生も
いつもフランスのことを想って
先生達から「ムッシュー」と呼ばれていたな。


 そんな風に 頭の中では フランスのことで
いっぱいなのに どうして彼らは
旅立とうとしないのだろう
多分 それは 恐れや保身からなんだ。
海外で何かをするのは 生活をすることでさえ
大変なのに 特に日本で 将来が
保証されてる地位についてしまったのなら
もう動いているわけにはいかない。
たとえそれが楽しくなくても仕方ない。
「それが人生なのだから」
できる範囲でやればいいさ
「それが人生なのだから」

 かくいう私も 子供がうまれて
かなり保身に走っていたら 一年前に
友人たちに「イイダミキも保守的になったね」
といわれてかなりショックを受けてしまった。


 だけど私も本当は できることなら藤田のように
生きてみたい。もっと遠くへ行けるのならば
まだ見ぬ自分があるのなら 私もあそこで
頑張ってみたい。東京のおいしいフレンチ
レストラン で ワインが飲めたら幸せじゃない?
そういう人もいるだろうけど
どうしてなのだか フランス文化は日本に入ると
いつも変に変換されて 高級、洗練、小難しさ?
だけどパリでは もっとふざけた人もいる。
もっと適当な人たちもいる したいように
やりたいように生きていて 自然体だから
笑っていられる そんな人たちが存在している。

 不安や恐れやあきらめや 人の目を気にすることが
人生にとって どれほど有意義なのかはわからない。
だけど30歳目前にして 私が1つ悟ったことは
諦めから何かをはじめてはいけないということで
何をしたって まわりの人を巻き込むことになるのなら
その人がキラキラしている方がいい。
諦めや不安からはじめていたら まわりの人も
手伝ったって 結局ネガティブな雰囲気になる。
だからどうせするのなら 希望がある 方がいい
同じ世界を見るのなら 希望をもってみる方がいい
だっておんなじ人間が 同じ世界を歩いてたって
希望がある日と 絶望してる日じゃ
みえる世界がまったく違う。
だから頭の中は たとえアホでも 
ポジティブでいた方がいい。


 そういうことを 私は学んで
だいぶ笑顔になれたのだから
この何ヶ月かで 一皮 二皮向けたのだろう
私は少し 強くなり 本来の自分に
戻ってきてる 夢を描いたら
大切なのは 実現にむけて動いていくこと。
諦めないで 私はどこかに向かっていきたい。

帰国

2010年08月21日 | フランスあれこれ


 飛行機 というものに 
乗るのはいつもこわいけど
離陸のたびに両手を合わせて
どうか無事に着きますようにと祈ってしまう
私はそんな小心者で 臆病だけど
少しずつ 「勇気ある日本人女性のうちの一人」に
なりつつあるのかな? そんなことを
一人でスーツケースをひきながら
トランジット先の空港で
スタスタ歩く度に思う。


 帰りの飛行機というものは
どうしてなんだか緊張感が行きと
全く違うのだろうか なんだかゆるくて
私もけっこう眠れたりして
行きは「まだ着かない!!!」と
時計を見る度嫌になるけど
帰りの場合は行きにくらべると随分早くて
あー もう着いて しまうんだ、、、と
切なくなってみたりする。


 名古屋についたら湿気はあるけど
そんなにみんなが言うほどじゃない?と
ちょっと喜んでいたのだけれど
新幹線にのり京都駅のホームについたら
なんじゃこりゃ!!!おそろしい湿気が待っていた。


 そんなわけで お土産にチーズも買ったことだし
もう寄り道せずに家に帰って それから今日は
一日外に出なかった。




 駅で蓮太郎をみつけたときは
本当にうれしくて 背負ったザックは
12キロくらいあるというのに
それでも彼を抱っこして 車の中でも
特別にずっと抱っこをしてた。
今日程彼がかわいくて
今日程子供を産んでよかったと
心の底から思えたのは はじめてなんじゃないのかな。


 2週間 会ってなくても
さすがに我らの絆は深く ほとんど
言ってることもわかるし 何をしたいのかもわかる。
でも1つ 私がいない間に旦那と彼の実家のお母さんとで
蓮太郎が成長したのは なんとトイレトレーニング!
「トイレトレーニングにはね、母がやらなきゃだめなのよ」
とかねてから義母に力説されていたものの
それよりフランス語がしたい、、、と思ってしまっていた私 は
あまりにトイレトレーニングに熱意のある義母と
それに打たれた旦那にちょっとお願いしてしまい
帰った頃にはもうトイレでおしっこができるようになっていた!!
息子万歳!よくがんばったね!
そしてみなさん 本当にありがとうございます。


 私のいない間の10日くらいは 蓮太郎は
旦那と彼の実家の田舎に帰ってて
プールにいったり 彼の妹さんのところの子供と
遊んだりして かなり楽しくしてたらしい。
私は私で元気になって いろんなことを考えて
旦那は旦那で田舎に帰って いろんなことを考えて
蓮太郎はおしっこができるようになり
ついでにフランス語もちょっと覚えて
みんなそれぞれ楽しんだかな?!




 蓮太郎は本当にかわいい。
今日はたくさんギュッとしてもらい
チューしてもらい お土産のバーバパパを
一緒に読んだり遊んだりして
なんだか本当によかったです。


 しばらくはフランスにいけないのだろうと思うけど
だけどその間 こちらでやれることを
やれる分だけ やっておこう。
2つ目の本が完成したら
今度は蓮太郎をつれて 渡仏できたらいいよなあ
この先大変だろうけど
自分の軸を見失わずに できるだけ
みんなが幸せになれるように
私も笑っていきてきたい。



フランスに行くなら

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