alternativeway

パリ、カフェ、子育て、サードプレイス、
新たな時代を感じるものなどに関して
徒然なるままに自分の想いを綴っています。

参加しますか? エコ・リーグ15周年party

2010年02月24日 | オルタナティブ
エコリーグに少しでも関わりのあるみなさまへ
今週末なのでとっくに予定入ってるよと言われそうですが
もう関係ないよときっと言われるだろうと思います が


 こんな機会じゃないと会えない人がいるのも確かです。


 かつて 仲間だと思って活動していた人たちは

 もう離ればなれなんでしょうか?
離ればなれかもしれないけれど
それでもせっかくだからと機会を用意してくれた人もいます。
(ちなみにそんな彼は肩の骨折で手術かもしれない状況だそうです)


 みんなでつながっていたような
一体感を持っていたような
同じ夢を共有したような あの感覚は
いったい何だったんでしょう?


 こんな機会でもないと 会えない人たちがいるのは確かです

 会っても何にもならないかもしれないけれど
 少なくとも あのとき会ったと
空間を共有してたと それだけは思い出になるかもしれません


 そのために何周年というのはあるのかもしれません


 昔 熱く語り合ったりしましたね

 もう十年も前のことですが


 かつて私の先輩がこういっておりました。
「今僕たちは二十歳だけれど 十年もたって
社会でそれなりの力をもつ年になって
まだ僕たちがつながっていたら
その時こそ僕たちは本当に社会を変えられるかもしれない」


 たくさんの夢を見てました


 あれはただの夢だったのかな
あれは夢想だったのか あの一体感は
本当はなんだったのかな


 私の人生は97年の京都会議で変わりました。
エコリーグに出会わなかったら もっと
つまらない人生を送ってただろうと思います。

 みなさんはどう思ってますか?
こんな機会でもなけりゃ いつまでたっても
ばらばらなんです それでもいいのかもしれませんが

 機会だけは存在してます。

 まだ申し込みは間に合います。
何も起こらないかもしれませんが 何かが起こるかもしれません


 結局はそれは自分次第なのかもしれません


 「エコリーグは可能性なんです」
十年前の私はそう言っていたのを先日思い出しました。
エコリーグの可能性って どうだったんでしょう?
これまでかもしれないし これからかもしれないし
未来は自分たちがつくるものなら
自分たちがどう思うかで 変わるものなのかもしれません

私は会には参加しますが 飲み会は行けるかわかりません
お会いできる方!お会いしましょう。




====★ エコ・リーグ 15周年記念OB・OG会 ★======

◆日 時:2010年2月27日(土)14:00~
 ※受付開始 13:30~

◆場 所:国立オリンピック記念青少年総合センター(オリセン)
     国際交流棟 レセプションホール
 (MAP):http://nyc.niye.go.jp/facilities/d7.html



◆会 費:社会人-5,000円、学生-2,000円(軽食・ドリンク)
※会費のうち一部がエコ・リーグの運営に寄付されます。

◆プログラム
 13:30 受付
 14:00 <オープニング>
  ・現代表理事から挨拶
  ・乾杯の挨拶
 14:15 <歴史の証人>
 14:25 <エコ・リーグの現状を伝えるプレゼンテーション>
 14:45 <ワークショップ>
 15:55 <クロージング>
  ・次期代表理事挨拶
 16:00 プログラム終了&歓談
 17:00 会場完全撤収、その後、飲み会へ。
===========================================================

ご不明な点があれば、お気軽に、下記のエコ・リーグ事務所まで
お問い合わせください。

<エコ・リーグ関東事務所>
 〒162-0825 東京都新宿区神楽坂2-19 銀鈴会館507
 E-mail:eleague@mxa.mesh.ne.jp
 TEL/FAX:03-5225-7206 事務局長 福島


エコな生き方

2009年09月16日 | オルタナティブ
 最近久しぶりに節約生活を検討しはじめ
どうやって生きていこうかと思っていたら
ただお金をかけないだけじゃなく
いいものにお金をかけて 長く使うこと
そっちの方がより快適だと思うようになってきた。


 それというのもいろんなママの家を
みてきたからで ママになった人達にも
いろんな生活スタイルがあり もう家を買って住んでいる人
狭い家で節約生活をしている人や 大きい家を
格段に安く借りてる人など 本当に様々なんだけど


 今まで家を買うだなんて 私たちは 考えたこともなくって
遠い話だと思ってたし そんなことする必要あるの?
と思ってたけど ちょっと現実を見せられる と
狭い家で我慢に我慢でいつかを夢見て生きているより
先に良いものを買ってしまってお金を払っていった方が
毎日はもっと快適になるんじゃないかと思わされる。


 日用品 って 毎日つかうものだから
生活必需品たちは どうしてもレベルが低く思われて
100円ショップでもいいじゃないか 食器だとか
お玉だとか ボールだなんて どうだっていいじゃないかと
思われるけど スリッパ一つをとってみて も
毎日使うものだから 毎日密かにストレスを感じさせているものと
毎日ああ気持ちいいなと思えるものを使ってるのでは
自分自身に蓄積されてる快適度合いが全然違う なんだか
そんな気になってきた。


 私たち は お金がなくて はじめて一緒に
暮らしたときに いくつか家電を買ったけど
選んだ基準は安いこと で ほとんど一番安いものを
選んでた。だけどそれらは今でも使って もう4年目に
なるのかな?ほとんど毎日使ってるわけで
そう考えたらもっといいのを買えばよかった そう思う

 なんだって 一度買ってしまったのなら
そう簡単に捨てたりしないし けっこう意外に長く使うけど
買うという その瞬間には 「まー安いのにしておこう!
いいじゃないか100均だって」と思うけど
毎日使う必需品こそ 毎日触れるものだから
もらいものとか安物じゃなく 本当に自分が気に入った
いいものを長く使うことのほうがいいのだろう。


 そういう点では エコと縁がなかったような
飯田家の暮らし方 は 意外とエコな気がしてきてて
実家に帰ると あまりにも何も変わってなくて
20年前から使われてるものが いまでもちゃんと
使われている その事実に 本当に驚く
我が家の家具は かつて父がデンマークで買ってきた
ものたちらしく 重厚でちょっと高級感があるけれど
これを30年も使っているなら 充分元はとれてるだろう
それにまだまだ何十年も使えそうな雰囲気で
使うほど に 味わいが増す そんな家具が本当はエコだ。


 エコ エコという人達は 「もったいないから」と
沢山のものをもらってきたり 沢山のものを
捨てられないまま生きていたりするけれど それよりも
本当にいいものを ちゃんと大事にお手入れをして
長い年月使えるように保つこと それこそ
エコじゃないのかな? 結局の処100円のフライパンでも
7千円のフライパンでも何年も使うことになるのなら
快適に使えて 10年経ってもまだ大丈夫な
そんなものを使いたい。


 

アンガージュマン

2009年07月22日 | オルタナティブ

 昨日から色んなことを考えてきたら
だんだん腹が立ってきて もーどーしたらいいんだろう?
どうしたら社会は変わるんだろう?泣き寝入りばっかりの
この国なんて糞食らえだ!!と思ってた。
悶々と考えて げんきくんを心配したら寝られなくって
そしたら朝起きられなくなり 私もまたげっそりしてた。

 せっかく鬱がなおりそうだったのに
私はまた深いため息ばっかりついて
母は心配してくれている もーどうしたらいいんだろう?


 そう思ってたらテレビでニュースが流れてる、
衆院選が、、、 衆議院が解散し、、、

 政治なんて!と思ってたけど 社会を変えるのが
政治なのなら そして国民ができることは
選挙しかないというなら 今は何かのチャンスなのかも
選挙なんて なかなかやってはこなくって
選挙の時は 政治家がちょっとは本気になってくれるなら
国民の意思をきいてくれ!国民と対話なんて
したことがあるんだろうか?どうやったら
国民の思いは少しでも政治に反映されるんだろう?
他に手段がないのなら 今しか機会がないのであれば
もう訴えよう そう思って 昼間に民主党にメールしてみた
さてはてメールは返ってくるのか
(返ってきたらここにのせてみようと思います)


 どうして対話の場がないのだろう
一方的に演説をきき 一方的にパンフレットをわたされるだけで
選挙にいったらその中から誰かを選んで そんなにしっかり
選んでもなければ とんちんかんな政策ばかりを
ならべているかもしれなくて
政治もしかり 広告もしかり 教育もしかり
いつも誰かのたれながし
本当に望んでいるものをつくってくれるわけじゃなくって
「これはどうかね!いいだろう 勝ってくれたまえ」の
押しつけスタイル そんなのばかりでいいのだろうか?

 先日参加したカフェ研究会では広告の先端も
教育学の先端も どちらかといえば対話モデルに
かわろうとしているようだとわかったけれど
政治も社会も みんな 自分たちがつくっているわけであり
それなのにいつも 人々は口を開かなくって
開いたところでそれが一体どうなるんだろう?
本当にどうなるんだろう?開いただけ無駄なのでは?と
思わされる。


 秋葉原の事件があったときこう思った。
日本では死をもって 人はメッセージを訴えかける
この国は神風の伝統がまだ生きていて
死をもってしか 伝えられない
小さな意見はのみこんで 小さな思いは我慢して
たまりにたまって その人が死んでしまうか
誰かを殺してしまうくらいの すごいエネルギーになった時 に
ようやくメッセージが発されて まわりの人は はっと気がつく
そんなのでいいのだろうか そんなことのために
死までかけなくていいではないか? 
それならもっと カフェで対話を していったらいいんじゃないか
そう思って もっとメッセージを届けたい
カフェでみんなが語ればいい と私はあの本を世に出した


 けれども力を持っているのは「カフェ」ではなくて
想いを持った人なんだ。待っていても カフェから
時代はつくられない そこに「人」がいなければ
対話で何かは変わるのだろうか 変わらないかもしれなくっても
サルトルたちは変えていこうとしていった
結果的には すぐによくはならなくっても
私たちは知っている そこに彼らがいなかったら
こんな世界になっていないと
ボーヴォワールがいなかったなら フランスの女性が
そこまで自由になっていないと だからやっぱり意味はある


 どうしたら社会は変わるんだろう?
対話は小さな革命らしい それならカフェでの対話というのは
フランス革命を起こしたように 何かを変える力を持ってる
持っているといえるのだろうか 私にはわからないけど
想いだけは持っているから 行動を起こすことにしよう
もうこんな社会を続けていくのは
「沈黙は金」で何も変わらないのを続けていくのは
もうこりごり 私にだからできること。
カフェでの対話を実験しよう。

フランスに行くなら

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