コーヒーは きっと自由の象徴なんだ
ふっと そんなことに気がついた。
私はコーヒーがそこまで好きじゃない。
体調が悪くなったとき、真っ先にやめるのはコーヒーで
初対面の人とカフェで会うとき よく驚いてこう言われる。
「あれ?コーヒー頼まないんですか?
コーヒー好きだと思ってたのに。」
コーヒーはどうも私の身体に負担をかけ
飲み過ぎたあとに身体をこわす。それは経験でわかってる。
けれども私の人生に コーヒーというのは必要で
それは頭をクリアにしてくれるから?
いや違う。それなら紅茶でも中国茶でも濃い日本茶でも十分だ。
今日ふっと気づいたことは
私はコーヒーが好きなのではなく
コーヒーを飲むことができる
そんな時間を手にした自分
それがただ嬉しくて
ちょっとした時間ができた時
あえてコーヒーを買ってみるのだろう。
コーヒーというのは紅茶と違い
自由だとか奔放、逸脱、議論というイメージがあるらしい。
それに対して紅茶はサロン的で、
どちらかといと右の女性のおしゃべりのお供、
反体制ではなく体制側でお金持ち、穏やかでゆっくりとして
静かな時間というイメージだ。
私は自由を手にしたかった。
子供が生まれた直後に私が自分を取り戻すため
ほんの少しした抵抗は お茶を一杯のむことと
ブログを書くということだった。
団地に囲まれたニュータウンに引っ越して
専業主婦だらけの生活の中 私は何かを切望していた。
何かが違うと思っていた。目の前に連なる団地の山は
私の人生に立ちはだかる壁そのもののようだった。
久しぶりに 幼稚園のお母さん達の隣ですごしてやっとわかった。
私は自由を手にしたかった。彼女達は時間的には自由に見える。
時間に追われまくってる私の目には
うらやましいなと映ることもよくあるけれど
実際には彼女たちの生活も 見えない鎖のようなものに縛られている。
彼女達を見て思い出した。主語が自分ではなくなっていく
子育て生活。いつも話題になるのは「私」ではなく
「主人」や「子供」 なんとなくライバル意識を持つつも
笑顔で語り合っているけれど 女子特有の探り合いみたいなものがあり
沢山の勝ち負けの基準があった。二人目を生んだ?
家は買った?運転はできる?子供の行く学校は?
何かを知る度ショックを受けた。ああ、先を行かれてしまった・・・
別にそれがどうというわけでもなく
幼稚園ママはそれをよしと思い、保育園ママはそちらを選び
互いに互いをちょっぴりうらやましいと思っているのだろう。
専業主婦と働くママという二つを経験してみると
どうやらそこには なんだか独身女性と子持ちの女性くらい
深い溝があるようで 同じ「母」とはいっても違う世界観で生きている。
どうしようもなく生活に追われてるとき
あああの暮らしに戻りたいと思うこともあるけれど
私が選ぶことにした場所は もう違う世界なわけで
そんなママたちの近くでしばらく時間を過ごした後に
ああ私が欲しかったものは自由なんだと気がついた。
おそらくそれは 時間的な自由ではなく
精神の自由なのだろう。
コーヒーはそんな自由の象徴で
ママでもなく、仕事に追われた誰かでもなく
自分になった気になれる。自分としてどこかに向かえる、
そんな一瞬を味わえる。だから私は
身体には向いてなくてもあえてコーヒーを飲むのだろう。
私は今 自由な時間を手にしているのだ
そう自身に言い聞かせてみるために。
サードプレイスにはコーヒーがある。それは当然かもしれない。
サードプレイスは役割からの開放の場所。
良妻賢母でなくていい。誰かの母じゃなくてもいい。
仕事で悩んでてもいい。「人間だもの」と受け入れてくれる。
そんなこともある そんな日もある
泣きたい日もある うまくいかないこともある。
この生き方とは違う何かを切望することだってある。
そんな時 役割に縛られて「頑張ってきた」
無理してなろうとした自分ではない誰か ではなく
自分自身になろうとする時
他の誰かともう違っててもいいじゃんか と
反抗的な気持ちになるとき
やっぱりそこに似合うのは
ちょっとやりきれない気分とか
かすれた気持ちとうまがあう
反社会的 と 恐れられた黒い飲み物
コーヒーになるのだろう。
私は違うかもしれない。
あの人達と同じように もしかしたらなれないかもしれない。
違和感を感じるかもしれない。
郷に入りては郷に従えと言い聞かせてみても
従いきれない自分だっているだろう。
そんな時 人は何かを求めてカフェに行く。
何をしてもいい 懐の広いカフェ。
そこには自由な時間が流れ
心が少し 広がっていく。
そこにワインやハーブティではいけないの?とも思うけど
ファッションや車に象徴的なイメージがあるように
コーヒーには「あるブランドを身につけた自分」と
同じようなイメージがあるのだろう。
「コーヒーをゆっくりと飲む時間」
それだけでも自由な感じがするけれど
それが「パリのカフェのテラスでエスプレッソを飲む時間」
になったらもっと自由で開放的な匂いが漂ってくる。
自由を感じられるコーヒー片手に
自分の世界に入れるカフェ
そんなカフェに行ける時間が人生にあるのなら
その人はきっと 自由で幸せなのだろう。