alternativeway

パリ、カフェ、子育て、サードプレイス、
新たな時代を感じるものなどに関して
徒然なるままに自分の想いを綴っています。

自己責任

2012年02月28日 | 日本の「空気」


 「ねえ 私たち 間違っているわけじゃないよね?
別に頭がおかしくなんかないんだよね?」市民法廷の帰り道
高校時代の友人と 立ち寄ったカフェでつい熱く語ってしまった。
彼は私同様もがいてる人生を送ってる人で
彼と話をしていたら なんだか気が少し楽になったのか
それまでの体調不良も治りつつあるような気がしてホッとした。


 私も彼も 自由を求めて同じ高校にやってきた。
彼は元いた高校を辞め、私はエスカレーター式の
私立の女子校に退学届けを出して無理矢理受験してその学校にやって来た。

「だけどさ 結局あの学校での想い出ってなんか孤独じゃない?」
「そうそう 私も孤独だったの!なんかあの コンクリートに
囲まれた建物の中で 寂しかったのだけを覚えてる。
仲間がいるかと思って来たのに なんかやっぱり自分だけ
変な感じがしてね、、、」そう 私は孤独だったのだ。
あんなにも「自由」を売りにしていた神奈川総合高校という
神奈川県ではじめての単位制の学校に かなりの熱意を持って
入学してはみたけど 私は浮いてる存在だった。
でも私は別に 人と違っていたいとか 変でありたいなんて
思ったことは一度もなかった。「みきちゃん 人と違っているのは
快感だね」なんてさわやかな顔して言ってたクラスメートも居たけれど
私は違ってなんていたくなかった。だけど私は異なっていた。
私は自分でありたかった。ただそれだけのことなのに。


 そんな我らは高校生のころと対して変わらぬ生活水準で
生きていて 相変わらず 夢を見たり 現実は厳しかったり
だけど私は彼の言ってたことがよくわかる。彼は確かに
ちょっと変わっているかもしれない。だけど別に
おかしいことを言ってるわけじゃない。ただ 彼は自分でありたいだけなんだ。
私もそうだ 沢山のことを疑問に思う。どうして?それで本当にいいの?
伝統って 伝統を守り続けていればそれでいいわけ?
時代を見ることだって大切じゃない?
たくさんの人に「もうやめたこんなしんどいの!」って言われても
それでも型を守っていればそれでいいのだろうか?
そう 日本では 型があまりに大切で
そんな教育がものすごく小さいときからされているから
型からはみでる 型にはまれない それはいつも例外でしかなく
例外たちは辛い思いをし続ける。


 「私さあ、 こう見えても 別に辛い人生を歩みたいだなんて
これっぽっちも思ってないんだよ。私だって幸せで穏やかな人生がいい。
本当にそう思ってるよ。でもなぜかそうならないの」

 自分自身であるということ それはこの国では そんなにも
難しいことなのだろうか。私は本当にうらやましい。
この国で楽しそうに笑える人が。 私だってそうしたい
でも私はなんだかひきつってしまう。それが何によるのかはわからない。
小さいとき外国に住んでいたから?私には外国語の私と日本語の
私がいるのだろうか?私だってそれなりに 日本のコードは
わかってる。わかっているからその中で 私は本当の私になれない
そんなこと 気にもしないで楽しそうに沢山の人たちと
話ができる そんな人たちがうらやましい。
私だってできることならそうなりたい。

 私はフランス語をしゃべったときや 英語を話している時は
どうやら本来の自分になれる。何がなくとも なんだか楽しい。
だけど日本語で話しているとき なんだかすごく躊躇して
友達であったはずの人とも 心から思いのたけをこめて
話すこと が なかなかできずに辛いと思う。
だから久しぶりに彼と忌憚なく話し続けることができて
なんだか救われたのだろう。


 「日本ではさ ちょっと人と違うことをすると自己責任になるんだよ」
そしてその責任はあまりに重い。私は先日大学のゼミの女の子たちと
食事をしたけど 誰一人子供を持たずに自由な雰囲気の仕事を楽しんでいそうな
人たちの中 子供を産むことについて尋ねられても ポジティブな答えは
ほとんど何もできなかった。「まあそうはいってもかわいいよ」冴えない顔して言うくらい。

 「それで、みきちゃんいつも何してんの?」と聞かれても
あんたそんな答えきいて楽しい?と思ってしまう。
「うん 公園に行ったり 絵本読んだりブロックしたり iPadしたりね
それから蓮太郎を躾けたり」そんなことで日々は終わってく。
子供をカフェでいい子にさせるのに どんなに時間がかかるかわかる?
子供が上手にスプーンでものを食べるために どんなに時間がかかるか知ってる?
そんなことやってるだけで 時間なんてあっという間に終わってしまう。
だから私は 彼女たちが当たり前にすることなんて そのスピードでできやしない。
でもそれ以外に答えようなんかない。保育園があればまだ話は別だろうけど
そうじゃなければそんな日常 そんな日常、あなたたちは自分ごととして
受け入れられる?でも子供を産むのも「自己責任」「あんたがそうしたんだから。」
そう 全てがそれで終わって 自己責任という名の都合のいい名の社会的放任の下
沢山の人が重荷を背負う。「転校?そんなに放射能が怖いなら勝手にしたらどうですか?
私たちは止めませんよ。自己責任ですからね!」だけどすべての責任を
他の人たちがとってた道と ちょっと違う道を選んでしまったことに対する
全ての責任というものを もしたった一人で背負うなら だれも
そんなことはしないだろう。だから彼女たちは子供が産めない
このままなら産まない方がいい。だって犠牲の方がどう考えても多いから。


 私だって 別に若い女の子を脅したいとは思わない。
いいことだって話したい。だけど現状はあまりに厳しい。
「うーん そんな人生を送りたいなら 今の現状だと子供は
できる限り遅く産むのがいいんじゃない?」というくらいしか私は言えない


 じゃあフランスだったらどうなのか って 私にもわからないけれど
先日ラジオで耳にしたのは 70年代くらいは「子供を産みたきゃ産めばいい。
それは母になる人の自由。だけど産んだからには文句を言うな!」という
環境だったらしい。それがどうも(私の理解が正しければ)いつからか
「子供は母親が面倒をみるもの!」という考えから「国が面倒をみるもの」に
変わっていったらしい(これちょっと耳を疑ったので本当かどうか
また聞いてみます)だからなのだか フランスは子育てに対して今では
ものすごい手当がでるらしい。保育園はなくっても 乳母を頼んだら高いけど
その半額ぐらいは補助で返ってくるとか 2人目を産むとかなりの
手当がもらえるだとか 3人も産めば国鉄が半額で乗れるとか
産めば産む程優遇される そんな措置が沢山ある。
それらはもちろん 女たちが歴史の中で勝ち取ったもの。
彼女たちが口をひらいて「そんなのひどすぎる!」と訴えて、、、


 それに私がフランスに居たとき聞いた話では フランスでは
子供に文字を教えるのは幼稚園の先生なのだという。私は
日本ではあいうえおを教えるのは母親の務めだと思ってた。
それもあってものすごく教育に対して「どうしよう あれもやって
これもやらなきゃ!でもできないよ!!」と思っていたけど
ふっとフランスの科学教育のことを考えてみたら あれ?
そういえばあれ 幼稚園の授業じゃん。ボンヌママンのムッシュー
ビスキュイみたいなのもいれば 私が頑張って教えなくても
公的なサービスによって身につけていけるってこと?と理解して
それだけで身が軽くなった。そう 私が思うにフランスは
(そして多分北欧なんかも)高福祉国家にすることで
税金は高いけど 人々の負担を減らしてる。
肩の荷を軽くしてくれる政策をとっているのだと思う。
「ああそうか 自分で背負わなくてもいいのか!」と思えば
どんなに気が楽だろう。(フランスでは無職のシングルマザーで
4人の子育てをしている人もいるらしい)日本だったら
子供にスイミングを習わせるのも 公文に行くのも
もちろんバレエも全部自分で払わなきゃ。
そうすると「うちはお金がないから子供を産めない」になる。
幼稚園だってものすごく高い。私にはどうやったら
うちの息子を幼稚園に行かせるお金があるのかとんとわからない。
そうすると「お金ないなら子供はやっぱり産まない方がいいのでは?」と
アドバイスもしたくなる。旦那がそれなりに稼いでいたら
保育園代もめっぽう高い。その保育料を支払うために
働くようなはめになるけど、別にそれは社会保障で補填されることはない。
そう 私たちの肩にはどんどん いろんなものがのしかかる。


 小学生になったなら?そうしたら少しは楽なのだろうか
どうして日本の義務教育は3歳からじゃないのだろう?
普通は幼稚園か保育園にいくのであれば どちらもほとんどタダくらいに
してはもらえないものなのだろうか?(フランスは幼稚園から義務教育でタダ)
子供は宝とか言ってるくせに そんなんじゃ宝を増やせるわけもないではないか?
「そんなのね あんたが選んだんだから文句言う資格なんてない!」と
言われるのが日本だけれど 1つだけの道に属せない人だっていると思う。
それは「わがまま!」の一言でいつも終わりになるわけだけど
本当にそれでいいのだろうか?本当は苦しいだとか
本当はそんなのは嫌だとか 言うことが許されない社会の中で
ニートも引きこもりも不登校も自殺も減らない一方なのは
彼らがただの「例外」じゃなく あてはまるべきものに
当てはまれなかった人たちで でも声を出すことも許されないし
聞く耳も持ってもらえなかったから 社会的例外のような存在として
実は沢山存在するのに 相変わらず肩身の狭い 自分なんて という気持ち で
暮らしているんじゃないのだろうか でももしかして
彼らだって ちょっとまわりの人よりも 自分の気持ちに素直であっただけかもしれない
もっと人と違うことを認めてくれて 多少なりとも社会的に許してくれたら
「自己責任!!」の名の下に すべてを一人で抱えて声も出せなくなってしまうほど
力をなくしてしまう前 に 少しでも許されたなら 結果は違ったかもしれない。


 福島とか 子育てとか カフェだとか ジャンルは全然
違うけど この国の根底には 共通の何かがあると思うようになってきた。
それはおそらく 社会的圧力というのだろう。圧力は人を殺すこともある
圧力で人が死ぬこともある。この国の社会問題は
1つだけの道しかないこと それしか許されていないこと
そこと大きく関係していると思う。

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