alternativeway

パリ、カフェ、子育て、サードプレイス、
新たな時代を感じるものなどに関して
徒然なるままに自分の想いを綴っています。

言うことを聞かない子供

2016年05月31日 | 日仏子育て事情
「子供を虐待する親の気持ちがわかる」
私が妊娠中に通った産婦人科の先輩ママたちの集まりで
そんな話を聞いた時 私は耳を疑った。
「子供を虐待する人の気持ちがわかる?!」
まだ子供がいなかった私にはとても衝撃的だった。
なんてショッキングなことを言ってしまえる人たちだろう・・・
でも目の前にいた先輩ママ二人くらいはその言葉に
うんうん、と深い同意を示していたのを覚えてる。

北海道で「しつけのために」山に置き去りにされてしまった
子供のニュースが流れている。彼は我が息子と同じ小学2年生。
ニュースを見ながらいろんな気持ちが駆け巡る。きっと
子供がいない人には「ありえない」としか思えないだろう。
私だって、そりゃやりすぎだと正直思う。しかも車で去るだなんて
その時の状況はなんとなく想像がつくわけで、もちろん
親は「5分たったら戻ってくるからそこでじっと反省してなさい」なんて
ことは言わずに、怒りとともに暴言を吐いてその場を去ったのではないかと思う。

日本ではもはや日常茶飯事のように虐待のニュースが流れている。
あれ、また今日も?おとといもなかったっけ?そんな感じで
もはや電車の人身事故に対するような感覚だ。そして多くのニュースが
同じことを告げている。「しつけのつもりで・・・」

さて、まともな感覚があると自負している人からすると
おそらく「そんなしつけはありえない!」となるのだろうけど
私個人としては、そんな対処方法を実際に選んでしまうか、
しかもやってすぐに後悔しないのかどうかは別として、
そういう状況に陥ってしまった親の気持ちはわかる気がする。
いうことを聞かない子供、それが自分をどれだけ腹立たしい気持ちに
させるものかはやられてみないとわからない。
誰だってちょっと子供と接しただけなら「まあかわいいのに・・・」
というだろう。でもその子供にすごいエネルギーで怒鳴られ
全身全霊で睨まれ、本気で蹴られ、めちゃくちゃ責められ続けたときに、
初めの数分は我慢できでもどこかで堪忍袋の尾が切れる。
そんな経験はないだろうか?(たぶん大抵の母親はあるのでは・・・)

そんな時の親の気持ちはもはや理性とは程遠く、
子供と同じくらいいろんな感情がうずめいている。
そして思う「このクソガキ!!」それから後に起こることは、
人それぞれだろうけれど、ろくなことが起こらないのは確実だ。

子育てにはいろんな感情がある。子供を可愛いと思う瞬間、
ふざけんなと思う瞬間、悪かったなと思う瞬間、ああまたかと
思う瞬間、幸せだなと思う時・・・いろんな感情が時間ごとに
変わっていくから、100パーセントいつでも我が子が大嫌いという人は
あまりいないのだろう。きっと我が子が手に負えなくなってしまったときに
どうしていいかもう途方に暮れて、なんでもいいから言うことを聞かせるために
強行手段に出るのだろう。

ところでそんな強行手段を先述の”100 façon de se faire obéir”の著者で
精神科医のアンヌ・バキュスがどう思っているかというと
結論としては「しつけとしては全然ダメ 効果ゼロ」という感じだろう。
彼女が言うにはもっと効果的なしつけの方法はある。そのためには
行き当たりばったりでは全然だめだということだ。

「このやろー!」と思って息子に対する怒りとやるせなさが
まんまんのとき、私はまたこの本を熟読する。この本でも
フランス式子育て一般でも力説されるのは
親の断固たる態度 一貫した態度。

だめなものは絶対だめ、一度許したら子供はその
「例外」がわからない。今ここで許されるなら、
今度だってもっとねだって泣き喚けばそれが通るという証拠になる。
一時の状況の悪さをどうにかするために飴やおもちゃを買いたあたえたら
子供は2度目、3度目もそれを手にいれるために必死により激しい行動を
繰り返す。しかも子供は生まれながらの役者だそうで、あえて
親が嫌な気分になっていうことを聞きそうな場所をしっかり選んで
その役を演じるという。スーパーマーケットの店内、駅の構内、
バスの中でみんなが彼らに注目してしまうところ・・・

彼女は本の中で何度も「モデリング」についても力説する。
小鴨が親鴨の動きを真似して生きることを学んでいくように
人間の子供も親の行動を真似して生きるのだ。
つまり、子供にとって大切なのは親の言葉よりも親の態度ということだ。
親が嘘をついていたら?子供も嘘をついていいと思うだろう。
なぜなら子供にとって親こそが世界を代表するような絶対的存在であり、
小さな子供は親もまた他の人とそう変わらない人間の一人だと
相対的に考えることなどできないからだ。その親がやっているのなら、
なぜ僕がしちゃいけないんだろう?
親が怒って子供を殴る。子供も喧嘩をしたとき友達を殴る。
親は学校から呼び出しをくらい、子供に殴るな、というかもしれない。
でも家庭で子供が殴られていたら、子供はそれが「あり」だと思う。
親が子供にキレて暴言を吐く。子供はそれを経験しながら
対処できない事態が起きたらパニックになってもいいと思う。
そうして子供は癇癪を起こす。癇癪を起こした子供に親が
ヒステリックに怒鳴っていても、なんの解決策にもなりません・・・

と、フランスで日々「子供がいうことを聞かない!」という保護者の
相談を受けている著者は冷静に解説する。

じゃあ、どうすればいいのよ?と思いたくもなるだろう。

だから、冷静になればいいんです・・・。

子供はあえて、わざと親を怒らせようとする。
それは親の気を惹きたいからだ。
子供にとって愛情というのは注意をひくことを同意語らしく、
愛されていようが怒られていようが、同じ注意をひけたという点で
子供は(わりと)嬉しいらしい。だから
親の注意が足りない、もっとかまって、と思っている子供は
怒らせてでも親の注意をひこうとする。ここがポイントで、
この本の始めにもとうとうと書かれているけど、
子供に言うことを聞かせたかったらまず親がちゃんと
子供に向き合い、一緒に楽しい時間を共有して絆を作ることが大切らしい。
これは(というか全て)耳の痛い話だけれど、確かに
親として他の保護者とも接する中で、突出して問題が
ありそうな子供の親は、親子で集まりがあった時も
その子がすぐ近くで問題行動を起こしていても全く気付かず話に夢中で、
ようやく他の子や他の親にその子が注意されたときに(5分後とか)
「ちょっと、アンタ!何やってたの!!」と登場することが
けっこう多いように思う。

さて、大変な事態が起きた時、怒鳴る、叩く、暴言を吐く、
ヒステリックになる、くどくど言いつづける・・・(どれも効果ゼロらしい)
そんな対処法以外に何があるかというと、
フランス式の場合はまず断固たる口調で「いけません!」といい、
どうしてもきかない場合は子供と別の空間にいく、または
子供を子供部屋など、別の空間に話して数分間「関わらない」
ということだった。子供はいつも親の出方を気にしている。
かまってくれたら僕の勝ち。たとえそれが怒られてたって。
親が感情的になったらもっと勝ち。僕と大して変わんないじゃん。
何か親がしゃべってる?ちょっと耳をふさいでおこう。そんな風に
思ってその場をしのいでいるらしい。だからそんな時に
説明しても怒鳴ってもくどくどいっても効果はないので、
「子供のゲームに関わらない」つまり、自分からゲームを降りる。
そして自分も子供も、別々の空間で気持ちが落ち着くのを待ち、落ち着いたら
その悪いことについては1回くらいきちんと説明してもいいけれど、
また何事もなかったかのように普通に接するのがよいそうだ。

さて、これは先述のモデリングでいえば、大変な事態があったときに
親は落ち着いて行動をとり、動じなかったことになる。
親は怒りを引きずるのでもなく、子供の存在事態を否定するのでもなく
あなたのその行動をピンポイントでよくないことだと示している。
なのでその問題行動が終わったら、子供として普通に接してあげる。
よいことはよい、悪いことは悪い、それを態度でしっかり示す。
悪いことをやって大人が構い過ぎたら、気をひくために子供は
もっとひどいことをしでかすだろう。そんな風になるよりは、
子供がしくれた日常のよい行いにもっと目を向けてあげたら
どうでしょう?子供はいつも親を喜ばせようとして何かしているものなんです・・・

なるほど・・・

なかなか全てうまくいくわけではないし、怒りがゼロになる日が
来るのも遠いかもしれない。それでもこの本は伝えてくれる。
実際には(認めたくないけれど)お子さんのそんな態度を
つくっているのはあなた方両親なんです、と。だから
子供により厳しく接するよりも、あなた方の接し方を見直してみたら
どうでしょう?子供は驚くほど親の行動や態度を熟視していて、
そこには言葉の弁明は通用しない。「本当はダメだけどちょっとだけ・・・」
昨日と言ってることが違う。親がしっかりしてないと、子供は
その隙を思いきり激しくついてくる。親になるのは大変だ。
自分の人生だってうまくいってなんかないのに、そう思うなら尚更だ。
人の目、ではなく親自身が自分の軸をもってそこから
ぶれずに歩んでいくこと。その大切さを伝えていくこと。
ある時はよいけど、今日はだめ、ではなくて、貫いた生き方を
子供に背中で伝えていくこと。それが本来のしつけでもあり、
子供に効果的にいうことを聞かせる方法なのかもしれない。

子供に言うことを聞かせる方法

2016年05月24日 | 日仏子育て事情
 息子とパリに行った時、何度か気になる本を見かけた。
素晴らしい科学館のお土産屋さんで平積みになっていた本を
手に取り、私は興味を持ってしまった。
“100 façon de se faire obéir, sans cris, ni fessées”.
(叫ばず、叩かずに子供に言うことを聞かせる100の方法)

 気になる・・・でも難しそう。そしてわりと高い。
興味はあるけど、やめておくか。うちの子はそれなりには
言うことを聞くとも言えるし・・・
そんな折、横から我が子がこう言った。
「ママ、その本買えばいいじゃん。もうちょっと
言うこと聞くかもよ~」
息子が勧めるというのも変な話だが、結局その後
数日間、言うことを聞かずに困ったことが続いたので
えいやっと購入することにした。

 とはいえフランス人向けに書かれたその本は
かなり難しく、なんとなく読めるようなものではない。
帰国して忙しい日常の中、また忘れそうになっていたけれど。
子育てに疲れ果て、私の人生どうにかしたい・・・
そう思う度にすがりつくように1ページ、また1ページと読んできた。

 そしてゴールデンウィークに一気に読み進めた結果。

 あれから2週間くらい経つけれど、もはや子育てに
そんなに困っていないように思う。
あれほどすがるように読んでいた本も、8割方読め、
できる限り実践し、初めの数日間は息子の抵抗が続いたけれど
今では(そういえば)怒鳴ることもほぼなくなり、
もうやってられない!と思うことも、二人きりでの
閉ざされた空間での恐ろしい喧嘩のやりとりもなくなった。
つまり私たち親子にどうやら平和が訪れた・・・

 これまでは「こら!いい加減にしなさい!~しないと
もう~しないからね!!」「だから~だって言ったでしょう!」
の連続だったけど(全て消え去ったわけでもないけど)
この本には耳が痛いことが沢山書かれており、これまでの
やり方がいかに子供にとって無意味かつ、有害なだけかが
よくわかり、方法を変えることにした。

 もしかして実は鞭を使えとか書いてある?と思っていたこの本の
始めの1割は子供をしっかり愛することがいかに必要かとか、
子供がどれほど大人と違い、かつ親からの愛を得たいと思っているかが
とうとうと述べられていた。やっと至った最後の1割には
いかにお尻叩きなど、子供を叩くことが有害で教育として
意味がないかがとうとうと述べられている。どちらも
「じゃあどうしたらいいのよ?なんでこんなことするの?!」
と思っていた私にはとても耳が痛い話・・・。

 この本で強く主張されているのは親の心の平静さが
いかに重要かという話。子供はあえて親を怒らせ、
そこで気をひこうとする。気さえひければ子供の勝ちで、
親が優しく対応しようが怒っていようが関係ないらしい。
子供はただ親の注意を引きたい。それが愛情だと思うから。
怒られてでも愛情が欲しい。だからこそ、普段から
あなたをちゃんと愛していると伝えなさい・・・

 そして大人を怒らす天才の子供が何かをしかけてきたら?
この本で驚愕だったのは「無視」ということ。
ゲームは二人以上でしか成立しない。そのゲームから
できるだけ即座に「降りる」つまり、構わない。
相手にしない。他の部屋に行く、子供を自分の部屋に
行かせて、おとなしくなったらまた普通に構う、ということだった。
子供は大人が怒って冷静さを失って、自分と同じような
状況になったことも喜んでいる。ほら、お母さんだって
同じでしょう?そして自分のルールに引き摺り下ろす。
「僕の勝ち!」

 子供にとって大切なのは言葉ではなく親の態度で、
「だから~だっていったでしょう。だいたいあんたは
いつも~なのよ・・・」と続けるのも全く意味がないという。
わかりやすく、ごく簡潔に。しかも態度で示すこと。
親が子供を殴ったら子供も誰かを殴ってしまう。
「そんなことしちゃダメって言ったでしょ!」と言ったって
子供には「なぜ親がしているのに自分はしてはいけないのか?」は
わからない。それに子供を叩くのは弱い子供にとっては
大人が弱いものいじめをしているように映るらしい。
それは6年生が1年生を叩くのと同じように見えるらしいから
とにかく避けたほうがよく、効果のなさはすでに立証されているらしい。

 結局(私のように)自分がしっかりしていない親は
子供に何かをされるとうろたえ、オロオロしてしまい、
子供が(わざと人前で)親の嫌なことをしでかすと
そのうち堪忍袋の尾が切れたりしてしまう。
そういう姿を子供はわざと引き出そうとするらしい。
ほら、お母さんだって僕と同じじゃん・・・
いつも大人ぶってるくせに。そして制御がきかない土俵に
引きずり込んでいく。(よく母親の打明け話にあるけれど、
一度怒り出すとそのスパイラルに入ってしまい、
自分でもどうしていいかわからなくなるという状況がある。
ちなみにこの本によるとそれは最悪な状況で、そこで言っていることは
子供は何も聞いておらず、「早く終われ」と思っているらしい)

 だからこそ、大人が率先して問題に対処するときの
冷静な姿勢を見せること。問題があっても
うろたえ、パニックになり、ヒステリーを
起こすのではなく、深呼吸して頭を落ち着かせ、
良いものはよい、悪いものは悪いと断固たる態度を
冷静に貫き、解決策を見せること。そのことで
子供は「なるほど、こうやって対処するやり方が
あったのか・・・」とまさに後ろ姿で
学ぶことになるという。(そして子供にくどくど言わない)

 つまり、まず親自身が大人になること。
ぶれない自分をしっかりもって、断固たる姿勢を
貫くこと。子供のその行為に対してほめたり叱ることはあっても
子供の存在や性格自体をどうこうは言わないこと。

 僕がやったこの行為はどんな意味をもっているのか?
他者に対してどんな感情を与えるものなのか?
子供はそれを知ろうとする。うんち、おしっこ!!と
いって喜ぶ子供に、「そんなこと言わないの!!」と
毎回かまっていたら子供はそれを繰り返す。
そんなこと言われていないくらいな気持ちでいたら、
自然と子供はそんな行為をやめていく。
「なるほど、これはやってもまるで意味がない・・・」
「なるほど、これは言うだけ無駄か・・・」
子供は大人がどこまで自分のゲームや要求に
応じるかを隙をみては探っている。
子供のことはちゃんと構うけど、それと
わがままを聞くのは別だ。
あなたのことを愛しているけど、だからといって
全てが通るわけじゃない。それをきちんと教えていくこと。
それが教育なんだなあ・・・

 言うことの聞かない子供を育て続けるのは大変だ。
もう無理!!と思った時に、女性はついヒステリックに、
男性は力に頼りたくなってしまうのかもしれない。
だけど本当に強硬手段に頼らなくても子供が
自然と言うことを聞いてくれる方法はある。

 教育の経済学や一流の育て方、息子を三人東大に
入れる方法の本・・・「受験に勝てる子に育てる方法」の
本は巷に溢れているけれど、ただ普通に子供を育てたいだけで
途方に暮れている母親だって多くいるように思う。
道端で泣き叫ぶ子供たち、バスでわめく子供たち、
その横には大抵疲れた顔をした母親がいる。
そんな疲れと恥ずかしさから逃れるために、
私たちはつい子供のいいなりになり、アメやガムを与えてしまう。
そしてまた1週間後、その悪循環が繰り返される・・・

 この本には耳が痛い話もゴマンとあるけど、
きちんとその理由が書かれているからなるほど、と納得できる。
フランスで子供たちの親からの相談を受け続けている
心理学者が書いた、子供に言うことを聞かせるための具体的な方法論。
世の中に困っている母親が沢山いるのなら
私は是非この本を翻訳したいと思う。

子連れフランス

2016年05月06日 | 日仏子育て事情
「井の中の蛙 大海を知らず」

息子とフランスに行くことを決めてから、
何度も彼に伝えた言葉。
日本の他にも広い世界がある、それだけを知ってもらいたくて
フランスに行くことを決意した。
渡仏を決めてから3ヶ月、私たちはフランス語をカフェで
特訓し、やる気のなかった息子もやっと自己紹介が
できるようになってきた。
子供向けの行くべきアドレスは全てリストを作り、
住所もグーグルマップでしっかり検索して保存。
予約できるところは全部予約し、予定表も念入りに。
子供の機嫌を損ねると大変だから行く場所の地区はしぼって・・・
それに平日の出発だから準備は事前にやっておかないと。
そう思って1週間ほど前から部屋にはスーツケースが置かれ、
もはや出発直前のよう。
ウェブチェックインも3日前にしっかり済ませ、あとは出発。
そう思ってた矢先の出来事だった。ベルギーのテロが起こったのは。

出発前最後のお茶のお稽古の帰り、何気なく携帯を見た私は
かなり早い時点でテロのことを知っていた。
NHKを見るまでもなく、フランスのラジオはそのことを伝えている。
ついに来たか・・・もちろんそれから丸一日、全ての準備が
ほぼ終わった私は考えに考え抜いた。これ以上情報をチェックしたら
もはや行かないという決断になるだろう。前回のテロと同じく
その情報に埋まってしまうと自分の頭もおかしくなってゆく。
ここは距離をとって、真剣に、どうすべきか決断しなければ・・・

丸一日色んなことを考えた後、ほぼ「決行」という
結論に達し、よせばいいのにまた誰かの意見を聞こうと思って
つい友人に電話をかけてしまう。すると彼女はこう言った。
「え?信じられない!行くの?キャンセルしなよ?子連れなんだよ。
本物を見せたいっていったって、命あってのことじゃない・・・」
話の最後の方には私もちょっとは反論し、「でも戦場に
旅発つわけじゃないんだよ・・・でももうちょっと考えてみる」
と言って電話を切った。それなりの反応を覚悟してはいたものの、
彼女からそこまで言われたというのは正直かなりショックだった。

帰り道、たまたま隣の家のおばさんに会い、またよせばいいのに
「実はね、明後日フランスに行くはずなんですよ、でもテロが
起こっちゃって・・・」とまた漏らしてしまう。私も不安で
いっぱいで、誰かにその気持ちをこぼしたかったのだ。
彼女の場合はこうだった。「まあ、わからないけど、現地の人に
聞いてみるのが一番かもしれないわね・・・」

そういうわけで私は「現地の人」Paris-Bistro.comのジャーナリスト、
ローランに電話をかけた。そして彼はこう言った。
「まあミキが心配するのもわかるけど、パリは至って普通だよ。
以前からセキュリティはかなり強化されているから、前より
安心感があるけどね。テロはいつどこで起こるかわからないから
フランス人はもう普通に生きてるよ。確率っていったって
交通事故の確率もあれば、それこそ日本では地震があるだろう?」

なるほど、地震みたいなものか・・・いつどこで起こるかわらず、
起きたら沢山の人が亡くなってしまう。それでも私たちは
「地震があるから日本に住めない」とは言わない。
(ベルギーのテロは熊本の大地震の前に起こった出来事です)
そういえば放射能の問題もまだあったじゃないか・・・

「他の人がどう思うかなんて気にするなよ!まあ決めるのはミキだけど
パリは普通で物事が通常通りに流れてて観光客も来てるよ。
それに春がついにやってきたって感じだな~ もう部屋も
整えてあるんだけどね」

なんだかローランと話をしていると相当な勇気をもらい、
丸一日心配をしていた自分が馬鹿らしくなってきた。
交通事故で年間何人がなくなっているだろう、だからといって
車を運転しないなんていう人は(私を除いて)ほとんどいない。
それに(関係ないけど)日本では年間3万人もが自殺している。
このままこんなことで諦めてつまらない毎日を過ごすより
行ったほうがいいんじゃないか・・・?
「ありがとう、90%行くと思うけどまた連絡するね!」
と言って私は電話を切った。なんだか日本におけるパリのイメージと
実際のパリはずいぶん違いそうだと感じた瞬間だった。

それに私はフランスのテロについては他の人よりは相当詳しい
方ではないか・・・これまでのテロを考えると一番セキリュティが厳しいのは
起きた直後で、フランスではテロの直後2日後にまたテロ発生というのは
考えにくい。同時多発テロは警察が動きはじめるまでの
数時間が勝負なんだから・・・それにもし起きるなら、
みんなが考えている「もうパリが安全そう」な時ほど
テロリストが狙いたくなる時期ではないか・・・
(その方がよほど世界に与えるショックが大きい)

様々なことを考慮した上、息子とも話し合い私たちは
渡仏を決めた。とはいえ正直なところはビクビクだったから
知っている人以外に口外するのは本当に避けようと思っていた。
本当は息子とフランス語の特訓をしていることも
渡仏を決めたこともFacebookに書きたいと思い、何度か
投稿しようと考えたけど、この日まで何一つ書いてなくって
良かったと心の底から思ってしまった。

春休みの始まる羽田には子供達の姿も多く、嗚呼バカンスだなあと
思わされる。ところがいざパリ行きのゲートに来ると、今まで
見たこともないくらい人影が少なく、子供の姿はほとんどない。
ウェブチェックイン時はほぼ座席が選べないほど満席だったのに、
乗車した飛行機は真ん中の半分程度が空いているという始末。
とんでもないことをしてるかも・・・と思わずにはいられないけど
もうなんとかするしかない。

飛行機が飛び立って運良く窓際に座れた息子と見つけたものは
この世のものとは思えないほど美しい富士の姿。
白い雲海の上には富士山の頭はボウっと浮かび上がっている。
静岡の交差点で流れる「あーたまーを くーもーの
うーえに だーし」という歌の通り、頭だけがまさに
雲の上にあり、雲と同じ白い色に溶けているかのようだった。
こんなにも美しい富士を見れたというのは行き先が素晴らしいに違いない、と
確信し、自分を信じることにした。そして飛行機の中で
観た映画、特にスティーヴ・ジョブズは私に勇気を与えてくれた。
そう、いつだって、成功したら天才、英雄。
失敗したら馬鹿な奴、そんなことをすべきじゃなかったのに、と人は言う。
そんな中私だって生きてきたはずではないか。はじめは皆強く反対し、
うまくできた数年後に「あの人はすごかった・・・」と言うことになる。
日本だろうが、アメリカだろうが、世間というのはそういうものだ・・・。

パリに着き、それでも空港内で多少ビクビクしていた私は
その後あのテロが起こった競技場前をバスで通ることになる。
目の前の道は溢れるほどの車で渋滞。競技場の正面には2016年の
サッカー大会の大きな横断幕が貼られている。
「競技場=テロ=危険!」と思っていた自分がいかに小さいかを
思い知らされる光景だった。これだけの交通量が毎日ある中
11月以降誰一人この周辺で亡くなったわけでもない。
ここではまさにローランが語ったような「日常生活」が
11月から今に至るまで普通に続いている・・・

これをきっかけとして、「パリ=危険!!」と
今多くの人が思っているイメージがいかに短絡的が思い知らされることになる。
パリは全く戦場じゃない。それなのに
フランス好きの日本人までもが「パリには行かない方がいい」と
かなり本気で思っている。私も生徒さんに「パリだけは
できるだけ避けてくださいね」と言われたものの、今回の
目的は全てパリ周辺だったので避けようがなく、返答に困っていた。
パリは戦場じゃない。オルセー美術館には今まで見たこともないほどの
長い行列ができていた。ルーブルの中にもごっそりとした観光客。
そしてパリはローランの言った通り少し春になっていた。
その姿は本当に美しく、私たちは幸せだった。
パン・オ・ショコラにカフェでの朝食。息子と挑戦してみたビストロランチ。
最終日には「ママ、今日もビストロに行きたい!」と言ってくれるほど
彼もビストロが好きになってくれた。フランスの科学館や
美術館は圧倒的で、特に科学館が素晴らしかった。
パリに来て2日目くらいで私たちはテロのことなどすっかり忘れ
パリを楽しむようになっていった。だって、パリはそんな風に動いているから。
だってパリは大都市だから。もしここで何か事件があって5人が
亡くなったとしても、たまたまその時間にそこに居合わせ、かつ
事故に合う可能性は限りなく低いほど、パリは広く、人で溢れ、
セキュリティチェックも半端なかった。

そしてパリ在住の日本人たちは言っていた。「日本の報道の仕方は
ひどいんじゃない?同じイメージを流しすぎだよ」
「パリがまるで戦場みたいに・・・」
私たちは福島の原発事故の後、民主党や嘘ばかりついた枝野さんや
東電を責めていたけど、あの映像をひたすら流し続けたNHKは
国民に謝っていたのだろうか?東電や枝野さんも悪いけど、NHKに
功罪はないのだろうか?「ただちに影響はありません・・・」の
言葉のせいで、そんな直後でも水をもらいに、学校行事に参加しに
福島の人たちは外出していたというのに、私たちを信じさせたNHKを
どうしてそこまで鵜呑みにできるのだろう?

結局私たちの滞在中、フランスでテロは起こらなかった。
私たちは何一つ問題もなく沢山の経験とともに無事日本に帰国した。
「あー本当にキャンセルしなくてよかったね!!」と
何度パリで口にしただろう。どれだけ多くの国籍入り混じる人たちが
パリで暮らしているのを目にしたことだろう。
7歳の彼は何かを得てくれただろうか。眠りこける息子を
車で送ってくれた知人がこう言っていた。「もう7歳だろう、
大丈夫だよ。この思い出は一生モノになるからね。」
日本とは違う世界がこの世界に存在し、そこはそこで動いている。
日本語なんて通用しない。日本人をみて「ニイハオ」と話しかける人もいる。
日本にいたらわからない、また違う世界の姿がここにはあった。
どんなにインターネット上やテレビが発達しても、実際に
行ってみないではその違いは体感しようがないと思う。

帰国後にテレビを観ていた息子が言った。
「ママ、僕キリスト教って行ったよね?」
画面を見るとどうやら教会のことを指しているらしい。
「こういう絵、あったよね」
「そうだね、ルーブルにあったよね。アダムとイブが楽園を追われてね・・・」
そんな話ができただけでも収穫があったのだろうか。
20年後の彼に、この経験がじわじわと効いているように
今はただ願うしかない。

フランス式子育て

2016年04月30日 | 日仏子育て事情
ゴールデンウィークに外出だなんて 全然したくはないけれど
今日は息子と電車に揺られて静岡まで行っていた。
その間どれだけの子供に会ったことだろう。
フランスから帰ってきた私たち親子にとって今回の
電車旅は衝撃だった。「あの子供・・・うるさいね」
「あの人もおばあちゃんなのに声大きいねえ・・・」
7歳の息子すら驚く電車の中のマナーの差。

電車に興奮した子供(おそらく息子とほぼ同年齢)が
「トンネル長いねえ!!」「あ!信号変わった!」
と喜ぶのはいいのだけれど、お母さんに小さい声で
言ってくれない?なんで私の耳元でそんなに叫ぶ?
と思い何度も嫌そうな目でその子を見たけどまるで理解する気配なし。
仕方ないからイヤホンをして音楽をきいても変化がないほど
あまりにうるさい。お前・・・怒られたことないのかよ?

もちろん横にいる母親は何も言わない。
彼の言葉に反応すらしているのかなんだかあやしく、
10分ほど我慢した後耐えかねて私は子供にこう言った。
「あのさ、もうすこし小さい声にしてくれるかな・・・?」

私も母親として言うことをきかない息子を7年育て、
同じ母親として、同じ男の子やら言うことをきかない子供がいる
大変さはものすごくよくわかる。でも7年間母親として
その世界にも入って観察してきた中で、自分なりにわかったことは
公共空間で信じられないようなことをしている子供は
ほぼそれについて親に(真剣に)怒られたことがないということだ。

今日は散々なことに帰りの電車でもありえないほどうるさい声で
泣き叫ぶ子供の前に座ってしまい、指定席だから動こうにも動けなかった。
仕方がないのでチラチラと後ろを振り返るけど、親は気にする気配もない。
さすがに周りの人も「オイオイ、うるさすぎるだろ」という目で
彼らを見はじめ、隣にいた旦那が子供を抱きかかえるけど
あやすというより抱いているだけ。そして彼(外国人)は
私をながめて「仕方ないだろ、こうなんだから」という顔をして
肩をすくめて目で訴えた。わざわざお金を払って乗ったロマンスカーで
そんな目にあうこと30分。正直彼らも「自分たちが悪い」とは
微塵も思っていないようだ。どうしようもない子供がいても
誰一人見知らぬ人が怒らないこの国ではせいぜい嫌そうな顔をするのが
精一杯。それかやさしいおばあちゃんが登場し、飴玉をあげてあやすか。
でもそれでいいのだろうか?なぜ最終的に席をかえた私の方が
悪いような目でみられ、彼らは平然としているのだろう?
「子供がいる」なら残りの車両の人がみな迷惑してもいいのだろうか?

今日の2組の親は私に言いたかっただろう。
「子供なんだから仕方ないでしょ!」でも私も言ってやりたい。
「私だって子育てして息子がいるけど、そこまでしないし、そうさせない。」
新幹線でうるさくしそうな息子のために
どれだけの時間をデッキで過ごしていただろう?しかし今日の彼らは
二人の子供がどれだけ奇声を発し、泣きわめいてもデッキに行きも
しなかった・・・。

フランスに子連れで滞在してから早いもので5年が経った。
5年前フランス人達が私に言った言葉が今ならよくわかる。
「そう、でもね、私にも子供がいるわ。でも静かにできていたわよ。」
なぜなら?結局のところ子供の態度を助長するのは親だから。
私も7年子育てをして、いろんな親と母親として触れ合ってみて
驚くことが山ほどあった。何なのこの子?親の顔が見て見たい!と
文字通りそう思った時に、親の顔が実際に見えることがある。
すると大抵の場合、その親というのは「やっぱりなー
カエルの子はカエルだわ」というような凶悪な感じではなくて
「えっ?この人が??」というような優しそうな雰囲気を
持っていたりする。それが私にはいつも不思議だったけど。

子供は親の顔色を赤ん坊の時からしっかり読んでいるらしい。
日本で、特に男の子の子育てをしている親に対して思うのは
遠くから子供に投げた言葉というのは何も意味がないんじゃないかということだ。
(言葉を発するだけエネルギーの無駄にすら思えてしまう・・・)
保育園帰りなど、道をすごい勢いで走りはじめた我が子に対して
申し訳程度に「ダメよー!あぶないわよー!」と声をかける。
もちろん子供は彼女達から見えないくらい先に行き、
そんな言葉は聞いていない。それで、どうするのかな?と思ったら
子供はかなり危険なやり方で横断歩道を渡ったり、わき目もふらずに
走っていく。ところが母親たちは自分たちの話の方が優先で
ほとんどの人は追いかけもせず「あー行っちゃった・・・」と言っている。

それでも交差点があったとき、ぴたっと止まる子供もいる。
そういう子供はお母さんが本気で怒ってそうな家の子だ。
「も~だめよ~」なんて子供には通用しない。それでやめるわけがない。

日本では特に母親達はいい母親を演じるだめに、
優しいお母さん像が(女達の間で)求められているように思う。
「え~またやっちゃったの、だめよ~」といって笑っているのが
素敵で優しい、そんな風に映るけど。その先は子供に主導権を握られて
子供に振り回されてゆく。でも「子供の言うことをきいてあげる私は
優しい私」だからよい。そんなのね、全然ダメよと私はフランスで
強く釘をさされて途方に暮れた。個人主義、自由の国フランスの子育ては
「子供になんでも決めさせてあげる優しいお母さん」の国ではまるでなく、
「ダメなものは絶対にダメ!枠組みを決めるのは親の責任!」という国だった。
私は日本の子供に寄り添うお母さん風の子育てから急に
180度毛色の違うフランス流の子育てにぶち当たり、当時は
泣いてばっかりだった。そんなこと言われても、子供だよ?できないよ。
「いや、できるはず。だってフランスの子供は皆電車で静かに
できるから」(バカンスシーズンのフランスのTGV車内は子供が多く乗っているにも
かかわらず恐ろしいくらい静か。彼らは人形なのかと思った)
「決めるのは子供じゃなくてあなたなの!」
そして最後に釘をさされたこの言葉。「子供が王様になったら
くたばるのはあなたなのよ?」

今になって、その言葉の意味がよくわかる。
その子がそのまま大きくなったら?最悪な事態が誰に降りかかってくるかって
それはもちろん親の自分。けれども(私も含め)こんなひどいことをする
子供になったのはまさか自分にも責任があるとは思っていないから、
「この子は本当に手がかかって・・・」と言うことになる。
日本の若い親達は、こんな子育てで本当に満足してるのだろうか?
この方法ではフランスで言われたとおり、母親の身が削られていく一方だ。
優しそうによりそう母親。でも子供は泣きわめき、言うことは一向に
聞いてくれない。そして周りの人には嫌な顔をされ、先生から呼び出され・・・
もう嫌な思いをしないためには?どこにも行かないのが一番!
そうするとだんだん孤立していってしまうのは親の自分ではないのだろうか?
(もしくは他人の視線を完全にシャットアウトか・・・)

私は以前「フランスの子供は夜泣きをしない」(Bébé made in France)を
むさぼるように読み、確かにフランス流がいいわと思って実践しようとしたけれど
あの本だけでは実践はうまくできなかった。それでも以前より
親として強くなり、子供も言うことを聞くようにはなったけど、
これではいかん、とまたフランスで「子供が言うことを聞くようになる100の方法」という
本を買ってみた。(しかも買えばと勧めたのは息子・・)
(Anne Bacus "100 façons de se faire obéir (sans cris ni fessées)")
これが非常にいい本で、はじめはムチでも打てとどこかに書いてあるのかな?と思いながら
おそるおそる読んでいたけど全然そんなことはない。ようは子供に対する
親の態度がいかに重要かを事細かにかいてあり、フランス流の
子育てを実行に移す細かい方法論(真剣さの大切さ、声のトーン、
言葉の順番等)がしっかりと書かれている。

こちらもかなり役にたってこの1ヶ月くらいでも息子は
ずいぶん言うことをきくようになってくれ、
「まあどうせダメだと思うけど・・・お菓子もう一個くれる?」(ダメ!)とか
「仕方ないか」といって納得するようになってくれた。
5年前にフランスの路上で泣き叫ばれ、電話ボックスに逃げ込んだ
親子からすると雲泥の差だ。そして意外にも、子供の態度を
変えさせるのははじめは大変だけれど親が本気になれば
決してできないこともわかってきた。例えば勉強をする
習慣をつける、ipadをやめさせる、テレビを1時間から30分に減らす・・・
(これは結局私のいい加減さで失敗)

この本の著者は言う。子供は親の顔色を本当によく伺っている。
親の真剣な態度があれば、子供は変わる、それだけだ。
「この子はどうしようもない」と思っていると、結局被害を被るのは
親や周りの人や子供自身の将来だったりするわけで、方法論によって
変えられるなら、実はつらい思いをしている親だって、すこしは
楽になるのでは?知りたい人がいるのなら、親も子供も結局楽になっていく
フランス式子育ての方法を少しでも伝えたいと思う。


子育てと疎外

2015年08月31日 | 日仏子育て事情
 「子供がいると子供中心の生活になるっていうよね」と
子育てをしている私に対して共感を示すように独身の子が言うことがある。
それに対して私はいつも思っていた。
「いや、中心どころじゃないよ。8割くらい子供だよ・・・」


 実際日本で子供を育て、かつ専業主婦になってしまうと
生活や感心ごとの8割くらいは子供になっているように思う。
産まれて数ヶ月の時は子供の鳴き声に追われ、誰かが
訪ねて来てくれたとしても実際には気が気ではなく、
子供に目をやっていると話の半分も耳に入らない。
(これは子供が7歳になった今もあまり変らない)
そのうち孤独に嫌気がさしてママサークルや児童館にでも
足を伸ばしてみようものなら、「れんちゃんママ」と
呼ばれるようになり、話の中心は全て子供で、
気がつけば「私は」という主語は消え、「れんたろうはね・・・」
と子供が主語になっている。次第に自分のアイデンティティが母になり、
子供を産んだ友人たちのFacebookの写真といえば
子供と映る自分であったり、子供の顔が「自分の写真」の
代わりになっていたりする。



 子供を産む前からしっかりとした仕事があって、産んでも1年以内には
職場に復帰・・・そういう人は同じ子育てをしていてもまるで違う生き方だ。
けれどもまだ日本では、多くの人が様々な理由から専業主婦に
なり、その選択はその後の生き方に深い痕跡を残してしまう。
私は専業主婦を3年くらい経験し、それから働く母になったけど
専業主婦と働く母とでは顔つきや話し方まで異なるように思う。
専業主婦はもちろん子育てだけに関して言えば、父親と
同じくらいの時間しか残されていない働く母よりずっと子供に
構っていられるしケアもできて本当に羨ましいなと思ってる。
けれども専業主婦には彼女達なりの深い苦悩があったりもして、
私はそれが絶えきれずに、働くことを選んだ訳だ。

 子供が産まれて自分が自分でなくなっていく、
アイデンティティクライシスが起こっていく。
まず結婚して名字がかわり、それから子供が生まれ、
自分の名前ではなく「~ちゃんママ」と呼ばれ、
慣れ親しんだ自分の名前が消えることから始まってゆく。
私、だったはずのもの、は一体どこに
行ってしまったんだろう?出口の見えないトンネルの中、
闇は深まるばっかりだ。一度仕事をやめて専業主婦を選んだ人には
トンネルから抜けるのには恐ろしく時間がかかる。
保育園に入れてたくても書いてもらえる書類がない。
なんとか書いてもらえるような週3日の仕事を見つけたとしても
そんなものではとても保育園に入れない。子供が昼寝している
時間のほんの少しの自由をとるか、週5日、父親並みに働いて
「ママ、ママ!」とくっついてくる我が子との別れを選ぶか、
それとも二人目を産む選択か?どれの選択肢も難しい。
優しい母、をめざしたつもりで子供の意見を聞いてあげる。
「~ちゃんは何がしたいの?~に行きたい?どうしたい?」
それが子供の個性を育むのかと思っていたら実際には
わがまま坊主になるばっかりだ。子供に振り回される人生、
自分の時間はほとんどない。けれどもまわりの人には
「いいなー(働かないで・・・)羨ましい~」と
言われてしまう。たとえ鬱になっていたって、友人たちは
その理由を推し量ってくれることもないだろう。

 結局、今頃わかったけれど、「子供中心の子育て」の
人生というのは子供には(一見)よいかもしれない。
でも女性の人生をかなり破綻させるものだと思う。
フランスが何故そこまで母である女性を尊重させる
子育てを選んで来たのかは私にはまだわからない。
おそらく昔から母乳をあまり好まないという歴史的事情も
あるのだろう。母親になった人は自分を捨てて、長男のために
奉仕せよという時代なら、子供中心の子育てが理にかなっている
かもしれない。けれどもおそらく私だけでなく、
それなりに自由な社会の中で高等教育を受けさせてもらい、
男子生徒と同じように自分の人生を夢見ていた女子達にとって
「私が受けて来た高等教育は果たして意味があったのだろうか??
母になるだけなら「15でねえやは嫁に行き お里のたよりもたえはてた」
のように早く子供を産んで大学になんていかないのが一番だったのでは?」という
思いが頭をよぎることもあるのではないだろうか?
必死に大学受験をし、大学院にまで行ったのは、
ただ母になるためだけだったのだろうか?
そんなことを思えば思う程に私は苦しさで一杯だった。
だから鬱にもなったのだろう。


 "Bébé made in France"を読みながら日本の子育てを観察し、
痛感したのは結局のところ、フランス式の、小さい頃は
子供に厳しく、静かにさせるところではしっかりと静かにさせる
大人の視点を中心とした子育ては、大人にも子供にも周りの人にも
平和をもたらすということだった。
大人が連れて行った場所で子供が金切り声をあげ、
その場から逃げ出し泣きわめく。それをなんとか鎮めるために
お菓子やらiPhoneやらを取り出す大人。そんな解決策が
いいとは自分でも思っていないけど、「他にどうすればいいっていうの?」
そんな気持が母親の微妙な表情からうかがえる。
私もさんざんやってきたけど、その場しのぎのその選択は
実は後日のもっとひどい状況を創りだすとは
夢にも思っていないかもしれない。
そして結局私たちが出す結論は
「もうあんたとはどこへも行かない。
子連れでこんなところに行った私が間違っていた。」
そうして道は閉ざされていく。付き合うのは子連れの気持が
わかる人だけ、その方が共感しあえるし、歩く速度も同じだから。
行くレストランはなるべく騒いでもいいところ。
私なんて子連れ外食は後悔の連続だからひたすらピクニックを
繰り返し、友人と子連れ外食なんて3回くらいしかしたことがない。
「だってしょうがないじゃない。子供だからできないのよ?」
私たちはそう思ってた。でも、そうじゃないのかもしれない。
その感覚こそが、実際には私たち母親自身の首をより一層しめていると
気づいていたなら、もっと他の選択肢をとろうとしていたかもしれない。
「子供だから・・・(無理)」
「子供だから・・・(こんなもんで満足するだろう)」
「子供だから・・・(子供だましのおもちゃやテレビを与えとけ)」
日本は一見子供に優しい子供の楽園のように見える。
でも「あれも!これも!それも!みんな!!!」欲しい、欲しい!
という誘惑だらけのこの国で、そんな子供に手をひっぱられて
歩いて生きていたら、小学校高学年の娘さんたちを育てる知人がもらしたように
「ディズニーランドとか子供の行きたい場所にしか行ってません・・・」
と嘆くことになってしまう。子供、ではなく母親が、
しっかりとした軸をもって生きること。
それがどれほど大切なのか、この本で思い知らされた。
個性尊重で有名な国、フランスの子育てで大切なこと、
それは親自身が"C'est moi qui décide!"(決めるのは(子供ではなく)私)と強く言うことだ。
子供にずるずるひっぱられない子育ては
周りの人も、母親も、そして子供も
きっと幸せにするのだろう。

 毅然とした態度をもったフランス式の子育て、
できるところから実践し、子供の変化をみていきたい。

子育ての重責

2015年08月25日 | 日仏子育て事情


 最近時間があるときはすかさず
パメラ・デュルッカーマン著の
"Bébé made in France
Les secrets de l'éducation à la française"を読んでいて、
かつて息子と過ごしたパリで感じたことを
まさにそうだと思い出しながら、つい話に引き込まれていく。
この本に出ていたけれど、最近の調査でわかったことは
両親が鬱っぽくなる確率というのは子供が一人増えるごとに上がるらしい。
子供を持つこと、それは人生を変えること。
自分のものではない人生、他者の人生に振り回され、
髪の毛かき乱して生きていくこと、それが子育てなのならば、
子供を産むのは怖いだろう。


 つい先日日経に載っていた調査では、独身者のうち約1割が
「子供を持つことを希望しない」そうで、理由としては
自由が制限されるというのが大きいらしい。
私はこの日本社会で声を大にして「子供を持つことは素晴らしい!」と
特に女性たちに言う自信はない。産んでほぼ2年程、結局私は
鬱状態に陥っていたみたいだし、世間で賞賛されている母乳育児の素晴らしさも
今振り返るとわからない。母乳にすることによる肌のふれ合いはあるだろう。
けれど母乳育児の機会費用を考えたなら
そのことによって気づかぬ間に失っているものも実は相当あるような・・・



 思えば私の失敗は、息子が一ヶ月早く生まれて来てしまったことにあると思う。
本当はお腹にまだいるはずだったその期間、小さかった息子は
おっぱいを飲むことができなくて 沢山の人に激励され、
3人掛かりで母乳を飲ませようと思っても、息子には
まだそれを吸う力なんてついてなかった。身体も小さく、既存のおむつは大きすぎ、
病院から特別なおむつをもらって使っていたのを覚えている。
彼がこんなに早く生まれたのは明らかに私が妊娠中に本を執筆していたからだ。
2センチを超えるような分厚い本を妊娠期間中に無理矢理書いていた身としては
なんとかまともに生まれてくれただけでも本当にありがたく、後ろめたさも一杯で、
この子、小さいんだから・・・可哀想に、そんな気持を持っていた。


 だから1ヶ月がたち、ようやく人並みに母乳が飲めるようになったころ、
私はあんなにも嫌がられていた母乳を飲んでくれるのならばできるだけ
あげようと思っていた。それがそもそもの失敗だった。そして私は
やせ細り、息子はみるみるうちにぷっくらし、私はいくら食べても
お腹が空いて、いつもゲッソリ、ふらふら、そんな状態で生きていた。
猛暑の京都の小さなマンションの一室で、小さな息子と私は密室に二人きり。
泣く息子に対してどうしていいのかまるでわからぬ私はといえば、ひたすら
おろおろするだけで、この声が虐待だと思われたらどうしようとびくつきながら
おそらく解決策として、母乳を与えていたのだろう。私にはそのとき
その方法しかなかったし、他にどうすればいいのかわからなかった。
着る服はいつも授乳服。そのうち授乳枕を買って、パジャマも授乳専用に・・・

 どこでボタンをかけちがえてしまったのか、私はどこかで道を誤ったのだと思う。
でもそんな人はおそらく私だけではなくて、この後子供を産むことになった
高校時代の同級生たちも同じようにゲッソリして鬱っぽくなっていた。
私たちにはわからなかった。この「出口の見えないトンネル」から
抜け出す方法があるのかどうか。他の人が口を揃えて言うように
「3年間は少なくとも我慢」しなければならないのか?
私は当時28歳。女友達は働き盛りで輝いていた。「大手町」
「青山」「表参道」そんな言葉を聞く度にどれほど羨ましかったことだろう。
ほんの少しでもその憧れに近づきたくて、友人にディーン&デュルカの
バックを買ってきてもらうように頼んだことさえあった。
子供が生まれてから無理矢理にでもコンビニに行くことを息抜きにしたという人や
生協の配達の人が来る日だけはなんとかしてストッキングをはいたという人もいた。
その人たちの気持が私には痛いほどよくわかる。
パソコンを見る気力もなく、生協のチラシを見ては
何かいいことないかなあ・・・何か私の人生を救ってくれるものはないかなあ・・・
そんなことを夢みてた。




 「ボルドー市街に行くのが夢なんですよ。」
数ヶ月前、都内で開催されたワインの試飲会で、ソムリエの知人に
そう言った。彼はその数日後にはボルドーの有名なワイン学校の特別講座に
参加するというすごい人で、私に笑いながらこう言った。
「そんな、簡単に叶う夢じゃないですか・・・。」


 簡単に叶う夢、か・・・・。


 そりゃあ、その人にとってはな・・・。
なんだか複雑な気持になった。


 今では、同じその試飲会会場にいさせてもらえ、
私もワインエキスパートの資格をとって
ボルドーの産地も訪れた。そういう私を知る彼の眼からすると、
私の「ボルドー市街に行ってみたい」という念願は
「どうして?行けばいいじゃない?」という程度の
簡単に叶う夢なのだった・・・そもそもこんな人と
知り合えてここに居る、ということが、数年前の私からすれば
夢にすら思ってなかったような出来事なのに。


 その頃私はただぼんやりと夢を見ていた。
フランス語?それなりにはできたけど、教えられるほどではない。
「老人福祉センターでね、無料でなら講座が持てるかもね」といわれてがっくりしたのを覚えてる。
ワイン産地に関して言えば、息子を時折預けられた一時保育の帰りに立ち寄るパン屋の
壁に書かれたブドウ畑の絵を羨ましそうに眺めるだけだ。
いつかあんなところに行ってみたい・・・
ただ、そう思っていた。叶えられるなんて思いもせずに。



 トンネルには出口がなかった。私にできた唯一の抵抗は
ブログを書くこと、お茶を飲むこと、息子が昼寝をしたときにすかさず仕事をすること
そして絶対に二人目は産まないと宣言することだった。
わずかな自由、息子が寝たときにだけ手に入る、
わずかな知的好奇心・・・ほんの時折寄れる図書館、
ほんの時折出会うことのある知的な人。そんなものに
出会えるたびに私は涙がでそうな気持になって、確信を強めていった。
私のいるべき場所はきっとここじゃない・・・



 子育てや結婚に対するやるせない思いのまっただ中で、
偶然にも息子と渡仏することになり、私の眼に映ったのは
まったく違う子育ての環境だった。公園にはバラが咲き、
遊具の下には砂浜のような砂や木のチップが敷き詰められ、
やたらと面白そうな遊具が山ほど並んでる。
でも遊ぶのは子供だけ、でその子に構う親の姿はどこへやら。
遊具の周辺に並ぶベンチには新聞を読み時折子供に目をやる
保護者の姿。ワインを片手に子供に構う、そんな女性達に
出会ったのもフランスだった。ワインと子育て?
それが両立可能なものなんだ・・・

 日本の子育ての重責はここにはないように私には思えた。
この本の中にも書かれている「1日野菜や果物を5品目」という
スローガンは、アメリカ人女性の著者には素敵に思えたけれど
私には笑い事にしか思えなかった。1日30品目じゃなくていいの??
フランス人は子育てしている。でも実際に長時間彼らの
子供を構っているのは親以外の人たちだ。乳母に保育園の先生・・・
素敵な公園にいるのは母親ではなくアフリカ人の乳母集団・・・
それでも子供は育つんだ、そこに私は驚いた。
それでも、どころではなく、実は日本よりも
「親の言うことを聞くときはきちんときく」という
公共の場でわめかないような子供たちを、関わる時間は少ないくせに
フランス人女性たちは上手に育てているらしい。
こちらはといえば専業主婦で自分の人生はどこかにやって
子供にこんなに捧げているのに、子供は言うことを
きいてくれやしない・・・どうして?なんで?
私の人生返してほしい・・・と思うことも多かったけど
この本を読んでいたら「そういう子供は結局のところ
親がつくっている」という事実がわかった。
色んなことの積み重ね、で道端でわめく子供ができあがる。
色んなことの積み重ね、で、TGVでじっとして動かない子供が
できあがる。この本(フランス語版)には子供に
「~することを身につけさせる、学ばせる」という表現が
よく登場する。我慢することを学ばせる。一晩中眠ることを
学ばせる。土日の朝は両親を叩き起こさないことを学ばせる。
好き嫌いがあっても好きになるまで食べさせる・・・
親が大人の我慢強い視点をもって、「いい人生を送るためにはね、
いい?こういうことが大切なのよ・・・」と伝えてあげられる。
それがまさに理想的な親のスタイルなのだろう。


 フランスのスタイルは素敵だけれど、一方でこれって
親が大人になりきってないとできないような気もしてしまう。
母親が人生の途中でやりたいことも中途半端なままに
母になり、専業主婦になって悶々としていたら、果たして子供に
「いい?大人になって生きていくにはね、こういうことが
必要なのよ・・・」と客観的視点をもって説明するのも
難しいように思うのだけれど。私だってどうしていいのかわからないよ!
そんな風に思っていたら、フランス式は難しい。
自立した大人、自立した人間って何だろう?
フランスと日本には根本的な違いがあるように感じるけれど
その鍵は、産まれた時の子供との接し方にあるのかも。
子育てはの先にはその国の国民が育っていく。
子育てって奥が深い。




※ こちらの本は邦訳があるそうで「フランス人の子供は夜泣きしない」
というタイトルだそうです。とても面白い本ですよ!

フランス式子育て

2015年08月13日 | 日仏子育て事情
 フランス人の子供達ってなんて静かなんだろう、
どうしてこんなにいい子にしていられるんだろう?
それは私が息子を連れて3ヶ月パリに滞在した時に
強く感じたことだった。

 どうしてこんなにも違うんだろう?
私は一体どこを間違えてしまったんだろう?
自分がしていることの中で何よりも子育てが苦手な私は
日々自問自答を繰り返していた。
一体どこで?何がいけなかったのか?
それとも全部?もうやり直しはきかないのか・・・

 育児の本はなんだか怖くて避けていたけど
相談できる機会があるごとに私なりには相談してきた。
そして答えはあいまいだった。
まあ子育てなんて大変なものよ、小学生になったら
ちょっとは楽になるんだから。それまであなたも頑張りなさい、
そんなトーンが多かった。

 日本では子育てというのは相変わらず大変で
我慢するもの、自分の人生の数年間を捧げるものというニュアンスがある。
私も子供を7年育ててきた訳だけど、これまでの
大変さを考えたなら、やはり同じ年齢の人たちに
「是非とも子供は生んだ方がいいよ!」と声を大にしては言えないだろう。
あなたがいいと思うなら・・・大変だけどね。
母親の責任や重圧は大きいし。
日本で上手に子育てしようと思ったら働くなんて
やめた方がいいんじゃない?子供にきめ細かく
教育をしてあげるなら、やっぱり専業主婦が一番だ・・・
それが最近の結論だった。
でもやっぱりフランスは違うらしい。


 以前からタイトルに非常に興味をもっていた
"Bébé Made in France"という、パリで3人の子供を
育てているアメリカ人ジャーナリストが私とほぼ
同じ疑問を抱き、パリで子育てするアメリカ人やフランス人達に質問を
重ねて書かれた本には彼女が見つけたフランス式子育ての秘訣が載っている。
「どうしてフランス人の子供達はあんなにいい子でじっとしていられるの?」
「どうしてフランス人の子供は生後3ヶ月もたたないうちに
一晩中寝れるようになってしまうの?
アメリカではそうはいかないし、パリ在住の
アングロサクソンたちも同じ意見なのに!!
そんな彼女の嘆きはまさに息子が小さいころの私の嘆きそっくりだ。
「どうしてフランス人の子供達はバカンスにきても
静かにしていられるの?うちの子供は思いっきり
ご飯を床にこぼしてばかりで、二度とバカンスなんて
家族でいかないって誓った程なのに!」その気持、本当にわかる。。。
だからもう外食なんてするもんかってピクニックを始めたわけで・・・

 そうそう、どうして??と共感しながら読み進めていくと
見えてくるのはフランス人の親たちの毅然とした、大人な態度。
私は正直これを読むまで、フランスの親達は表向きは
美しいけど、実は家の中ではすごく怖くてたまに
鞭でも持ち出しているのでは?と思っていた。
それくらい、フランスの子供はじっとしてだまるということを
継続的にやっていられる。よくフランスで言われるのは
「これは大人の時間なの。あなたはだまっていなさい。」
だから夕食に招かれた時、大人はずっと大人同士の会話をして
子供は(同席した場合)ほとんど口をはさめない。
日本だったら子供が話の主役になって、「ねえねえ僕ね!!」
「うん、なになに・・・?」最終的には
「ごめんね、結局まともに会話できなかったね。子供いるから
しょうがないようね。今度は子供抜きで話せるといいね(遠い目・・・)」
になってしまう。

 私はフランスにいた時も「毅然とした態度」について
説明されたことがあったけど、いまいちピンとこなかった。
それはダメといったら絶対だめで、どんなに子供が駄々をこねても
大人も譲らないことだ、と説明されはしたものの、泣き叫ぶ子供を
前に私はぐらぐら揺れ、結局「わかったよ・・・」と
なってしまった。この本を読みながら、結局子育てがうまく
いかなかったのは私が子供だったからなんだなあ・・・と痛感。

 フランス人たちの子育ては大人というリーダーが
子供という新しいメンバーを導いてくれる感じに映る。
その根本には「こどもに説明する」という、よく
フランス人達の口から聞こえたキーワードがあるのだろう。
「赤ん坊でも説明すればわかってくれる。本当だよ?」
そしてそれを信じることだ。私はこの言葉のお陰で
日本で魔の2歳児といわれる「イヤイヤ期」を5日くらいで終えてしまった。
そのかわり、どうする?どうしたい?と聞きすぎたせいで
(これが子供の自主性を育むのかと思ってたんだけど・・・)
逆に子供に振り回され、あとで結局イライラするはめに
なってしまったのかもしれない。

 子供が泣いたらすぐに走ってあやしにいって母乳をあげて
夜中寝れずにゾンビのようになってしまい、日中はふらふらしたまま
生きている・・・私の人生返して、と京都時代に心底思っていたけれど
そうやって子育て鬱になるのと子供の睡眠時間とは相関関係があるらしい。
フランス人は夜中に子供がないても飛んでいかず(そもそも
赤ん坊は大人とは違う部屋でベビーベッドで寝かされている)
数分間放っておいて眠るならそうさせ、おむつや着替え、
どんなことを試みても泣き止まない時、最終手段として母乳を
与えたりするらしい。日本でよくある「私こんなに眠れなくて・・・」
という我慢大会のようなママトークはほとんど存在しないという。
子供に「夜しっかり眠ることを教えること」が親としての
教育の第一歩だったのだ!とその本には書いてある。
そういう教育があったとは・・・そこでボタンをかけちがえると
お互い眠れず、母親は日中のイライラ、旦那も仕事中に眠気に襲われ、
赤ん坊はどこへいってもおっぱい頼み、そうすれば子供は落ち着くからと
どこでもおっぱいをあげる母。そしてふりまわされてゲッソリ
という、かつての私のようになってしまう。誰か、もっと早く教えてくれていたなら
こんなことにならなかったかもしれないのに・・・と思っていたら
この本にもまさに同じことが書いてあり、睡眠の省では
「これらのことを知ってから私と旦那は試してみた。まず1日目は
子供が12分泣いたがそれから寝た。2日目は5分泣いた。3日目の
夜中に起きたのは私と旦那だけだった。それから子供は
毎晩続けて寝るようになってくれた・・・」と締めくくられている。Bravo!


 母親の人間としての幸せがあってこその家庭、そして子育てがあるという
フランス。私が息子に振り回されていた頃にフランスで言われたことがある。
"Qui décide? C'est vous où c'est lui?" 「誰が決めるの?彼が決めるの?
(あなたでしょ!)」親があって子供がある。母の余裕があってこそ
子供にも笑顔が生まれていく。そういうスタンスが強い国では
大人のやることを邪魔する子供は愛されない。そして至るところで
「シーッ!(静かに!)」っとされ、子供も自分で学んでいく。
(我が子はさんざんこれをされたのでこの発音だけはうまい)
はじめはドタドタとしか歩けなかった息子も3ヶ月たったころには
すり足で歩けるようになり、ほぼ抱っこ一点張りだったのも
相当な脚力がつき、公共空間ではいい子にするということを
しっかりと覚えてくれ、帰りの12時間くらいの飛行機では
隣にいることを忘れる程静かに過ごしてくれた。
日本に帰国して傍若無人な子供を目にして
浦島太郎のような気持になったのを覚えている。(もとに戻っちゃったけど)

 結局のところ、日本では「どうせ子供なんだから・・・まだ子供だし・・・
(理解できないし、そんなこと無理よ・・・仕方ないじゃない)」
という諦めがあると思う。フランスはそうはいかない。
「子供だから?うちの子供はできたわよ!(あんただってそうしなさいよ)」
という雰囲気がある。その土壌があればこそ、子供にも
美術館に行かせ、素晴らしいものに小さい頃から触れさせようとするのだろう。
子供だって本当はできる、そう、本当はできるのだ・・・
けれどしなくてもいいと思った瞬間、子供は図にのってくる。
どちらがいいのかわからないけど、子供は意外と厳しい環境でもやっていける。
5歳で百銘山を全部登った子供もいるし、うちの子だって鈍行に3時間揺られても
ほとんど文句なしに旅行ができる。
最近子育てについて思うのは、一番大切なのは親の根気じゃないかということだ。
子供に振り回されるのではなく、それなりの物の見方をもって
諦めずにそれを子供に伝えていくこと。
もはや遅すぎるかもしれないけれど、なんとか諦めずに
根気をもって、子供に向き合えたらいいなと思う。


ーーー
Pamela Druckerman
"Bébé made in France Les secrets de l'éducation à la française"
2012年にニューヨークで出版された本のフランス語訳です。日本語訳すべきだと思う!



フランスの科学教育

2012年02月20日 | 日仏子育て事情


 「ハーイじゃあみんな 教えてくれる?
シャボン玉はね!一体何でできてるのー?」

「空気!」「それから石けん!!」「それから水ー!」

 目の前でハキハキとシャボン玉の成分について答えている
幼稚園児を目にした時に 私は度肝を抜かれてしまった。
これが フランスの幼稚園児?こんな質問 こんなにはっきり
日本の幼稚園児は答えることができるのだろうか??


 それは私がようやく何度も行きそびれていたかの有名な
Cité des enfantsという子供用の科学館みたいなのに
息子と行った時だった。「アトリエがはじまりますよー!」
と言われてよくわからないまま暗い空間に息子と座ると
ヒラヒラした妖精のような格好をした とても強い口調でしゃべる
お姉さんが 幼稚園児の団体の前でシャボン玉についての
講義をはじめたのだった。きょとんとして様子を見守るのは
私と息子で 団体で来た彼らは興味津々。


 「シャボン玉は三角形にもなると思うー?」
「いや ならないー!」「あれ なるかもな?」
そんな受け答えをしながら 彼らの前で次々に
大きな形のシャボン玉を作っていくお姉さん。

 そして彼女の投げかける質問に 幼稚園児は
簡単そうに答えてる。そう あたかも そんなの
しょっちゅう耳にしてますよ といった具合に
考えることさえせずに まるでABCの次は?D!といった具合に
シャボン玉の成分について答えてた。


 私がなんだか驚いたのは 彼らは「空気」というのを
知ってたことで その時は確か浮力に関する実験もあり
「どうしてこれは浮くのにこっちは浮かないの?」という
お姉さんの話の中に 浮力についても言われてた。
彼ら幼稚園児の前で わかりやすく浮力について!
なんか フランスの科学ってすごい、
ノーベル賞ものの科学者は沢山輩出してるらしいけど
それって幼少のころからの教育のたまものなのかしら?と
私は思ってしまった。


 ちなみにこのシテデザンファン、パリで子持ちなら
必ず何度も行くと言われる場所で、結構入場料は高いけど
「あそこねー うちの子が小さいときはよう通ったわ!」という
話をしょっちゅう耳にした。やけにばかでかい建物で、2歳から6歳くらいまでの
フロアもあれば中学生用のフロアもあるし、3Dの映画館とかもあり
高いので私たちは1回しかお金を払って行かなかったけど
驚いたのは幼稚園児用の工事現場があることだった。



 そこには発泡スチロールみたいな柔らかめの素材を使った
巨大な石材のようなものがあり、クレーンもあれば貨車もあれば
踏切なんかも存在してて そこに行く子は全員工事の格好をして
ちゃんとヘルメットも着用しないといけない(じゃないと
石材がどこからともなくどーんと飛んで来て本当に危ない)
そこで幼稚園児たちは一緒になって家を建てる!おい、
もっとブロックを運べ、これを使って荷をおろせ、とか
そんなことを命令しあって家を建設するわけだ。これはすごい。
息子も大喜びだったけど 彼は小さかったので お兄ちゃんたちの
圧倒的なパワーに押されてよく泣いていた。
ここではみんなやりたくてたまらないので決して誰も譲らない。
そんな男の子たちの夢見る世界が シテの中にはあるんだなあ。


 それもすごいなと思っていたけど
今日iPadの子供用のアプリで一緒に勉強してたら
ボンヌママンという、フレンチ好きな女子御用達の
おしゃれなクッキーのメーカーが、「ムッシュー ビスキュイの
何故?に答える」というアプリを無料でつくってて
ふしぎなことに 沢山の質問に答えてくれる。
「なんで猫はひげがあるの?」とか
「なんでカンガルーには袋があるの?」
「どうして牛には模様がついててみんな違うの?」とか
素朴な疑問に答えてくれる。それが1-2分くらいの
ビデオなのだけど とてもわかりやすくてなるほど!!と思う。


 こんなのを クッキー会社が無料で提供していること
それから動物たちに関する素朴な疑問をこんな科学的に
ちゃんと教えてくれること(2分くらいあるので
たった一言じゃなくて けっこう流れがしっかりしていて
なるほど!!ととてもためになる) それがすごい!と思ってしまった。

 フランスって 科学が日常にあるのかなあ?
科学っていうと難しい!!と思っていたけど
科学って「何故 何にこたえる」というムッシュー ビスキュイの言うように
ただの疑問、Pourquoi?どうして 何故?という 哲学と
まさに同じそのWhy?という問いに 素直に疑問を持ってしまったら
解決をせざるをえない それだけのものなのかもしれない。
哲学と科学の国フランスの 根底にあるのは Why?という問い
そしてそれを問うてもいいこと 問うたらそれに誰かが答える
「そんなことはどうでもいい!」というのではなく
「そうだね どうしてだろうね?」と考えようとしてみるところから
哲学も科学もはじまるのだろう。


 子供の視点から学んでみたら もしかして
哲学も科学も そんなに難解じゃないのかも。
ただそういう態度を常にもっていること その差が
20年とかしたときに ものすごい差になっているだけかもしれない
どうして?どういうこと?どうしてそうしないといけないの?
そんな疑問、疑うことが許される国
そこで発展しやすい学問 そこで発展しやすい物事
そういうものはあるのだろう。


 子供の視点でフランスを学ぶ
フランスの教育は やっぱり日本とは違いそう で
その根底にあるものを やっぱりもっと探っていきたい。
フランス流インテリジェンス その根底にあるものは?
それはみんなの好奇心であるかもしれない。

日仏子育て観

2011年06月24日 | 日仏子育て事情


 今日は1日中ほとんど起きることすら
できなくて なんだかめちゃくちゃ疲れてる。
そりゃそうだ 3ヶ月間 異国で一人で子育てしていた
しかも子育てが大の苦手な私がそれをしていた
保育園にも入れずに、、、 それって本当に
すごいことで よくやれたよなと思うけど
そういうことができたのは 色んな理由があるわけで
その1つ に フランス流の子育てを学んだことがあるだろう。


 今日テレビで探偵ナイトスクープかなんかが流れてて
「4歳の子供がパンツをはかない」というので困っている
両親と祖父母が映ってて 子供はめちゃ自分優先で
パンツをはかせようものなら大暴れで両親は蹴られる始末。
いろいろ試みてみた結果 どうしようもなかったので
おばあちゃんが「いい子にしてたら怪獣のおもちゃを
買ってあげる」ともので釣り 結局その日はパンツをはいた。
なんだか日本的というか なんだかなつかしいというか
わたしもよく物で釣ってたよなあと思い出す。
(本当にどうしたらいいのかわからなかった)


 これがフランスだったらどうだろう?
フランスの場合 なんだか知らないけどやたら
いろんな人たちが関与してくるんだよね。
日本だと 公共の場 例えばカフェに行ったとき
友達の子供がコップの水をバーッとこぼしたり
スプーンでガンガン音をたてて遊んでいるとする。
そんな時たいていのの母親は注意をしない。それで
その人の友人はというと そこでもやっぱり
注意ができない。私は何度か「でもこの子が
このまま大人になってしまったら?」と思って
注意をしてみたことがあるけど 注意しはじめると
きりがなくって そのうち相手の母親は
自分を責められているように感じて
なんだか嫌な関係性になってしまうから
私もそうなるよりは 何も言わないで無視しようと
思うようになってしまった。


 ところがフランス。めちゃくちゃみんな口を出す。
怒る時は怒るし、「シーッ!」とやられることもたまにある。
例えば公園でみんなが遊んでいる小さな丘みたいなとこを
乗り越えようとしてちびっこたちに「お前ら邪魔だからどけ」
みたいなことをいっている5歳児くらいの子に
「あんた口のききかたがなってないのよ。そういう時は
なんていうの?お願いしますでしょう!?」と注意している
人がいて この人は母親なのかと思っていたら
なんと他人なのだった!

 うちの子も例えば家で映画を見るときは静かにするとか
廊下を歩くときはうるさくしないとか 誰かと話している時は
ちゃんと静かにしていなさいとか 街を歩くときは
お母さんと手をつなぎなさいとか いろんなところで
いろんな人に注意をされて はじめのうちは
私もいちいちショックをうけたり小さくなったりしていたと思うけど
だんだんそうもしてられなくなったのか 人目を気にするのと
自分流との中間点くらいにするようにして
そうしたらあまり気にせず どこにいってもだいたい
「蓮太郎はいい子でかわいいねえ」といってもらえるようになった


 フランスでは 子育てで困った時に
口を出してくれる人が沢山いて そのアドバイスはけっこう
確固たるもので 日本みたいに「うーんじゃああの手を
つかって この手をつかってご機嫌をとってみたら?」という
子供主体なものではなくて 断固たる 有無を言わせぬものが多い。
そして彼らはこう言って来る「だってあなたが大変でしょう?
このままでいいわけ?」息子が抱っこ!抱っこ!!だったときも
友人が「抱っこしてほしかったばっかりに嘘をついて
怪我しているふりをしていた犬の話」を語ってくれて
それから「なーんだ別になくても大丈夫なんじゃん!」とわかり
もう街を歩くときは抱っこしない!と決めて歩かせるようになったら
なんとか歩くようになったりもした(でも一度熱だしてから
またちょっと中間点をとるようになったけど、、、)


 つまり 日本だと「子供だからできない」「子供だからわからない」
「子供だから手がかかってしょうがない」という感じだけれど
しかも親は本当に困っている(と本人は思っている)のに
「本当に困っているからやめてくれ!」と子供に言ってないように
思う。今日のテレビでも子供は結局パンツをはかず、その時の
両親は笑ってその行為をみていた。それじゃあ子供は
親はあまり本気で困っていないと思うのでは?
フランスはきちんと説明させる。「これこれこういうことを
ここでされるとお母さんは本当に困るからやめてね!」
そうやって説明して じゃあそんな時はどうしたらいいのか
説明すると 子供は意外とわかってくれる
そんなフランス式の子育て 困ったときに困ったといい
沢山の人が親主体のアドバイスをしてくれるフランス流の
子育てを ちょっとでも学べたということ
それだけでも この3ヶ月 何か価値があったのだろう。

2カ国語で生きる

2011年05月12日 | 日仏子育て事情


 日本にいると バイリンガルって 
かっこいいけど なんだか遠い存在で
そうなるには 親がお金持ちで外資系企業に
つとめてて 子供は私立の学校で、、、
という高級な感じがぷんぷんするけど


 以前フランスに来た時に 世界の60%の
人は2カ国語、もしくは同じくにでも2つの言語を
話すのだと耳にして 驚いたけど よく考えたら
その場にいた日本人以外のフランス人のように
みえた人たちは 英語とフランス語やドイツ語とフランス語とか
2カ国語がペラペラな人たちで こっちにいると
本当に国際的なんだなあと思う(そしてやっぱり
3カ国語は必要なのかと思ってげんなりしてしまう)


 だけど2カ国語で生きるというのは一体どういう
ことなんだろう?私は中学は私立の女子校に行っていて
そこには帰国子女の子たちがいっぱいいたので
下校時に彼女らのアメリカの話を聞く度に
うらやましくって 私の小学校時代なんて
なんてひどいものだったのだろうと嘆きたくなり
子供を産んだら絶対帰国子女にしてあげようと思ってた。


 彼女達 は 普通に私の友達で
もちろん日本語の発音が少しだけ変わった子もいたけれど
よく考えたら うちの学校には英語の特殊クラスはあっても
(でも彼女達はあの先生の発音はいけてないとか
役に立たないといっていた)おそらく国語の特殊クラスは
なかったように思うから 小学校時代に何年間か海外に住み
日本に戻って来たからといって そこまで国語に問題が
生じるということもなかったのだろう
(たいていの子は言われないと帰国子女だとは気づかなかった)


 2カ国語が小さいうちから使いこなせたら
わたしみたいにバカみたいに 何年もかけて語学をやって
のたうちまわり でもまだまだダメで苦しくてっていう
そんな想いをしないでいいのか 本当にうらやましい、、、
私だって 留学したのはまだかろうじて若い21歳の時で
おそらく当時はもっと吸収力がよかったのだろう
今となっては もうできませんといいたくなるけど、、、



 さて パリには そんなわけ で
2カ国語を話す人がかなりいて 私のいる移民が多い地区には
何語だかさっぱりわからない言葉を話し 誰かと
話す時はフランス語という人たちが沢山住んでいる。
今日もはじめて児童館みたいな所(日本より
圧倒的に数が少ない!!!)に行ってみたら
そこには3人しかいなかったけど 中国人親子と
我等日本人と それからお母さんがフランス人で
お父さんがスペイン人らしい人。インターナショナルですね
それで会話はフランス語。それがパリの当たり前
(決して英語になることはないのでは)


 私にとっては 2カ国語も 3カ国語も憧れだけど
決して当たり前のものではないから 私がしてきたみたいに
すごい苦労をするのだろうかとか 色々考えてしまうけど
先日会った お母さんが日本人でお父さんがフランス人の
13歳の男の子 は ちょっとたどたどしい日本語と
流暢なフランス語を話しながら フランスにおける
日本の漫画の翻訳のひどさについて話してくれた。
「たとえばね あられちゃんが「ンチャ」っていうでしょ
それが「ボンジュール」とかね わかってないよ!!」など
フランス語での説明になるともうよくわかんないけど
彼はアニメの翻訳もなってない!と言っている


 でもねえ君、、、 その翻訳をした人が
 
 どんだけ苦労をしたことか、、、


 と 私は言いたくなってしまうよ


 もちろん彼も彼のお母さんも沢山がんばってきたのだろうけど
13歳で2カ国語を話し 大人ががんばったところでそんな些細な
ニュアンスまでわかんないよというような そんな所を
当たり前のように比較してしまう 彼が私はうらやましかった。
子供って すごいなあ、、、 我が子はなんだか
最近フランス語がまあまあわかるらしく
今週は2回フランス人の友人にベビーシッターしてもらったけど
かなり楽しくやってたそうだ。子供って すごいなあ



 私はと言えば フランス語がネックでもう嫌だと
思うけど そんなことをお家の人に話していたら
「もっと外にいって話さなきゃダメだよ!なんで
パリに来たのに日本人とばっか話してんの?」と言われてしまう
だけどねえ 子育てしてたらそんな余力も残ってませんよと
言いたくなるけど(そうじゃないですか 海外で
子育てしているみなさん?)そういわれてしまうと
そういえば蓮太郎とはいつも日本語だし
アニメつけても理解しようという気すらないし
やっぱりもうちょっとがんばらにゃいかんかな と
今日は児童館みたいなところにいって 人に話しかけてみた。


 3カ国語が話せたのなら 世界はきっと楽しいだろう
3カ国語が読めるのならば きっと世界が広がるだろう
13歳の彼みたいに いろんな比較もできるだろう
私は今は かろうじてのフランス語をちょっと活かして
ママとして もうちょっと子育て事情を探ってみよう。

パリの子育て事情

2011年05月10日 | 日仏子育て事情



 最近は原因不明の疲れやなんかに悩まされ
土曜日にはまたしても大泣きしてしまったけれど
日曜日が思った以上に素敵だったからなのか
なんだかちょっと壁を超えた?なんだか元気に
なった気がする。


 先週はやたらといろいろしんどくて
友達の家まで準備もふくめて2時間くらい
かけていったのに5分も話せなかったりだとか
そんな状況に無性にやるせなさと腹がたち
またしても家で泣いてしまった。
だけどもしかしたら蓮太郎は言ったらわかってくれるかもと
泣きながら「お願いだから誰かと話をしに行った時は
少しくらい私に話しかけないで一人で遊んでくれ」と
力説し 彼がわかったといったので
本当にわかったならカーズのミニカーを
買ってあげると約束し その日にスーパーに行ったら
目を疑うほど高かったけど (7ユーロ)
7ユーロでベビーシッターしてくれるなら
まあいいか、、、と諦めて大金をはたいてみた。
(他のミニカーは2ユーロだったけど
フランスの子達はカーズのミニカーに
並々ならぬ愛着があって 公園で遊んでても
それだけは何があっても貸してくれない)


 さてそんなカーズの車のおかげか
ちゃんと言い聞かしたからなのか
蓮太郎は私が誰かと話したい時に
ちょっと一人で車で遊んでくれるようになり
それだけでだいぶ気が楽だ。

 おまけに今週からはベビーシッターを
してくれそうな人がなんと3人も見つかって
先週のどん底っぷりに比べるとなんだかすごい変わりよう。


 さて そんな彼をちょっとみてくれることになった
日本人の知り合いと一緒に公園に行ったとき
うわー日本語だ!全部通じる 息子の言葉も
全部通じると嬉しくなってフランスでの子育ての
しんどさやら違いやらをまくしたててしゃべっていたら
その子はもうすぐ滞在が1年になるというのに
私の言った様なことはほとんどみたことも
おそらく考えたこともないようで なんだかそれに驚いた。


 ああそうか 私も昔住んでいたとき
公園にピクニックには来てはいたけど
子育てだとか その違いとか そんなの考えたことも
あるわけなくて 私はひたすら「ママ」を
ここで日本以上にがんばってきたわけだけど
ここで気づいたことというのは 日本でも子育てをして
パリでも自分で母として子供とともに何かをみたから
わかる視点なのかもしれない

 そう思えてなんだかちょっと嬉しくなった

 私にも書けることがある

 私だから書けることもある




 子供がいるから見える世界は全然違う
(例えばカーズがどんなに大事な車かとか)
私にも何か伝えるべきことがあるんだなあと
その時思えて なんだかやっと報われた。
決していい母ではないけれど それでもこの1ヶ月
本当に母として頑張った。歯磨きもおしっこトレーニングも
抱っこもまっすぐ手をつないで歩かせることも
メトロで静かにすることも 1日2回公園に行くことも
毎晩のマッサージも 私はけっこう頑張った。


 日本人の 普通にママとしてやってきていた
そんな視点の私からすると どうも日本にとっての
「普通」というのは 他の世界にとってはかなり普通ではないらしく
私はもうかなり公園にも遊具にも詳しくなったのだけれど
いまだにフランス人ママの生態というのがよくわからない。


 フランスでは子供を生んでも8割の女性が働くらしく
公園にはママらしき人は夕方(保育園のあと)を
除いてほとんどいない。特に1歳を超えたくらいだと
全然いなくて、アフリカ人の乳母なんかがだいたい
子供を預かっているか保育園に行っている。


 ところが不思議なことに彼女達はめっちゃ復帰を
するのだけれど 私が保育園について尋ねた
子育て経験のあるフランス人は口を揃えてこう言っている。
「保育園を探すのは不可能に近い。パリでは本当に難かしい」
じゃあなんで?いわゆる日本の幼稚園ママみたいに
よりそって2歳児と遊んでる様な人がいないのかしら
一応ここには一次保育もあるようで、それは日本よりは
かなり数が多いのだろう。私が住んでた西京区は一次保育は
3つくらいしかなかったけれど
いまいる19区には10カ所くらいあるみたい。

 さて、そんな一次保育にも入れない人は?
ヌヌとよばれる乳母に子供を預するらしい
私の知人がたまたま8ヶ月の子を預かっていて
彼女に「フランス人のヌヌっているの?」ときくと
それは非常にまれなんだそうな。ヌヌは時間単位か
もう一ヶ月丸ごととかで支払うらしいけど
もちろん保育園よりよっぽど高い。
(彼女は1時間7ユーロからが法律で定められてると言っていた)

 ということは パリだって 
すっごく子育てが大変で 特にメトロに乗ろうものなら
エレベーターなんて存在しないし 改札はどうやって
通れるのかよくわからないし(係員の人にいうと
開けてもらえるともきいたけど でも窓口が混んでたら?)
乗ったところでメトロ狭いし、、、
それでも泣き叫ぶ子が少ないのは驚きだ。


 さて 公園でママやらヌヌやらをみていると
私はなんだか恥ずかしくなってしまうのだけど
今度は子供と一緒に遊ぶ母がすごく少ない。
あきらかにめんどくさそうで 私は新聞読みたいのよみたいな
雰囲気がぷんぷんしてる。そういうのを見る度に
「なんでフランス人のママは公園で子供と
遊ばないの?」と聞いてみるけど もう子育てを
ほぼ終えたフランス人女性たちは「私だって
遊んでたわよ!」と反論する。でもよちよち歩きの
子とすべりだいで遊ぶ人はいるけど 
2歳くらいの子になるともう全然いない。
それに対してパパらしき人たちはよく子供と遊んでて
「なんでこんなにパパばっかりなの?」と友人にきくと
「ママは家で洗い物してるんじゃない?」とのことだった
でもフランスって たいていの家に食器洗浄機ついてるんだけど、、、


 フランス人のママたちは いったいどこにいるんだろう?
彼女達は毎日どんな風に過しているんだろう?
私には気になって仕方がない。こんなにも早いうちから
アフリカ人のヌヌに預けて 彼女達は「でも子供は
一対一でみてもらえてたらママじゃなくてもいいのよ」と
言い放っちゃうわけだけど カフェゾイドでヌヌたちの
どーんとした態度をみていると すごいおおざっぱというか
子供に寄り添ってというよりも 彼女達も
「私も音楽きいてんだから あんたは勝手に遊んでなさい」という感じ。
すごいなあ それで子供が育つんだなあ
そう 本当に それが驚き


 世界には 朝ご飯がクッキーだけの国もある
世界には 朝ご飯がコーヒーだけの国もある
日本では1日30品目食べろを言われているけど
フランスは果物も含んで5品食べろと一生懸命宣伝している
子供は3歳までは母親としっかりくっついていないとという人もいる
だけどベビーカーに有無を言わさずくくりつけられ
公園でヌヌと一緒に過してる小さなパリジャンたちもいる
どっちもどっちだと思うけど
どっちもさ そこまでしなくてもいいじゃん!と私は
叫びたくなってしまうけど でもそれでも
人は生きていて それでも人は育つんだなあ
それが私には驚きです。


 こんな「子育てなんて面倒くさいこと私はできれば
したくない」と思ってそうな人が多そうな国なのに
どうしてここは出生率が高くなっているんだろう?
それも不思議で仕方ない。パリは公園はいっぱいあるけど
決して子供の楽園じゃない。日本の方がよっぽど
ママにはやさしい気がするけれど
(ちなみにミルクの国フランスはカフェゾイドにすら
授乳室はなく、今までどこでも授乳している女の人を
みたことがない。公園でおしっこさせてるお母さんはいたけど)
それなのに日本では子供を生みたいと思う人が
あんまり多くないんだなあ

 
 フランスはとても不思議だ

 彼女達は 一体何を求めているんだろう
長いこと近づけなかった パリジェンヌという人たちに
もっと近づいて 話がきけたらいいよなあ

子供とカフェに行くということ

2011年04月30日 | 日仏子育て事情

 今日は念願のカンニバルカフェという
前からけっこう好きだったカフェに
行ってみたのだけれど フランス人の友人と
その友達と蓮太郎と私という組み合わせ で
そもそも息子と2人でだって まともなカフェに
入ったことは3回くらいしかないというのに
「なんとなく よくある感じで待ち合わせ」を
してみると 案の定 それがうまくいくわけもなく
ここはフランス フランスに慣れてる人は
約束の時間通りに到着することもあまりなく
それが私だけだったらノートでも取り出して
考えごとしてまあいいかと思うのだけど


 息子がいると 注文した飲み物や
食べ物が目の前からなくなってしまったらもうおしまい


 そう かつて友人が京都に来たとき
私にこう忠告してくれていた
「美樹ちゃんのためを思って言うけどね
れんちゃんとはフランスに行かない方がいいと思うよ
だってせっかく行くならちゃんとした研究をしてほしいもん」
その彼は我が家に2泊して 彼と行った嵐山のカフェでは
注文したパフェがすぐくるかどうか そして
息子が食べ終わったらどこまで時間がもつのだろうか
そんなことで気が気じゃなかった
せっかくだからと一緒に行ってみた仁和寺では
息子はお寺の中で大泣きし 入場料を払った私は
やるせない気持でいっぱいになりながら
木でできた廊下の上を泣き叫ぶ息子を抱えて
逆方向に歩いて行った。あの時は本当に辛かった。

 
 そうして私はそんな彼の忠告に従って
一人でフランスに行かせてもらって
沢山のカフェの写真を撮って 2冊目の本を
準備して、、、と思ってたけど
今日カフェで出会った人に質問されて辛かった。
「今回は本を書きにいらしてるんですか?」

 この一ヶ月 本のことなんて
ほとんど頭に浮かばないくらい
私は子育てで一杯だった

 カフェ?子育てカフェは行ったけど
まともなカフェは パリに溢れているというのに
5回も行ってないだろう それはお金がないだけじゃなく
「蓮太郎と行っても仕方がない」と私が思っていたからだろう


 子供がいたら?そうそんな自然な待ち合わせ も
「ミキさんと行きたいカフェがあるんです」と言われても
「ごめん息子がいるから無理です」になってしまう
息子は息子でちょっと我慢しようとやってみるけど
結局うまくいかなくて ストレスを抱えた私も
ストレスを抱えた多くの母になった日本人も
到達する答えというのは同じだろう
「やっぱり行かない方がいい」


 そうしてみんな 諦めていく

 カフェ?無理だね じゃあせめて子育てカフェはどうだろう


 でも私 今日思ったのだけど
息子は日本でカフェに200回以上行っていると思うけど
彼にとっての「カフェ」というのは子育てカフェのような
適当に床で遊んでもいいカフェでしかなく
もしかして 彼はカフェというのを理解していないのかもしれない


 どうしてこんなことするんだろう

 どうしてこんなにひどいんだろう
 
 どうして怒らせる様なことばかりするんだろう!と思うけど


 もしかして ちゃんと説明して
ちゃんと理解をもとめてそしてトレーニングを繰り返したら
彼もできるのかもしれない。


 日本ではすぐ諦める。

 「子供だからね」「子供にはしんどいね」
「子連れでこんなとこ来るべきじゃなかった」
「こんなことしようとした私がバカだった」
そうしてどんどん子供を抱えた母親は社会から
隔離されていく。「子供がいるから何事も
思うようにいかない」母になったその人を
まわりの独身たちは理解ができない
だからどんどん遠ざかってく


 子供がいるから?子供を生んだばっかりに?


 私は本当に哀しかったし辛かったけど

 すべてを諦めないといけないのだろうか

 もしかして やったらできるかもしれない

 それには時間がかかるだろうけど

 まずはカフェに座ってみること
 そして遊びや習慣をつくっていくこと
自分もそれに関わっていって
しばらくしたら 彼は一人で遊んでくれるかもしれない
いきなりその場で言うのではなく はじめから
言い聞かせたら?わかってくれるかもしれない


 彼はメトロでいい子にできるようになったじゃないか
だいぶ手をちゃんとつないで歩けるようになったじゃないか
廊下だって そーっと歩けるようになったじゃないか
だったらちゃんと はじめから「子供だから無理」と
諦めないで こちらも一緒にがんばったなら
カフェにも行くことができるのだろうか
カフェで一緒に時を過して
いい時間を共有することができるのだろうか





 フランスは 「子供だから」と子供とその母親を
セットになって社会から隔離してしまうのではなく
子供だけ保育園にいれてしまうか そうでなければ
他の場所ではそれなりにしつけして
なんとかして 私もそこに行ってやろうと
諦めない姿勢があるように思う
私はここで子供を一人で寝かすことをようやく覚え
そのおかげでだいぶ気持が楽になった
カフェでもなんとかできるだろうか
簡単にはいかなくっても それでもやっぱり
私はカフェに居たいと思う
明日から やっぱり息子とカフェに行こう
そして時間の過ごし方を 一緒に開発できたらいい。

――追記


 その後一ヶ月くらいして訓練をしてみたら
意外にもカフェに行けるようになり、カフェは
こういう場所だというのをわかってくれるように
なりました。「蓮太郎 カフェいったらどうするの?」
「じっとしてるの」「走っていいの?」「ダメ」
「車で遊んでいい?」「ダメ」「じゃあお話は?」
「していいの」「カフェは椅子から降りたら終わりだからね!」
というわけで30分くらい一緒に過せるようになり
カフェ好きの息子になりました。やっぱり
「子供だからどうせ、、、」と思わず「これこれとは
こういうものだ こうするものだ」というのを
教えるとできるようになるみたいです。すごいですね!

子供に対する価値観

2011年04月25日 | 日仏子育て事情


 フランスにきてもう1ヶ月が経つのだろうか

 はじめの1ヶ月は蓮太郎と一緒に適応できそうかどうかの
試験期間みたいなもんだなあと思ってたけど
まあそんなにことは簡単に運ぶ訳もなく
けっこう私は何度も泣いて ある時は
涙が溢れて止まらなくって驚いた。


 どうして涙が出てきたかって

それは多分 フランスと日本との子育ての
価値観の違いにそれなりに適応しようとして
もがいてしんどくなってるからで
来たばかりの時は こちらはとっても自由があると
思っていたけど 最近私が感じているのは
こちらではいわゆる「子供らしさ」なんて
あまり求められることもなく なんというか
「いい子」ともまた違うと思うのだけど
「じっとしてもの言わぬ子」というのが
かなり求められているような気がする。


 その違いがあからさまにはっきりしたのが
田舎に行ったときに乗ったTGVで 今は
フランスはバカンスで だから子供ももちろん
たくさんその特急には乗っているのだけれど
日本だと 連休で子連れで新幹線といえば
のぞみというよりひかりに乗って あまり
ビジネスマンの居そうな時間帯は避け
まあまあ子供に優しそうな人が乗ってそうな
列車や時間帯を選んだりするのだけれど
そして子供がぐずったらデッキであやしに
行くのだけれど なんとなく行楽列車な感じなんだけど


 おそろしいことにバカンス中のフランスのTGVには
そんな子なんて私が見た中では一人もいない。
ここでは不思議なことに赤ん坊さえ泣いていない。
そう この国は 公共空間とか静かにすることが
求められている場所で ちょっとでも子供が
アーとかいったりすると すかさずママやら
まわりの大人が「シーッ」とやって
ちょっとうるさく騒いだりしようものなら
すかさず発せられる言葉というのが ”doucement"
(ドゥースモン) このドゥースモンがポイントなんだなあ、、
とこの2週間くらいで私は気づいた。


 doucement という言葉 はやたらと公園やら
子育てカフェやらメトロやら どこに行っても
子供に対して発せられてるのを耳にする。
でもこれを日本語に訳すときちんと対応する言葉が
ないようで「やさしく やさしく」とか「ゆっくり」とか
「あわてないで」とか「静かに」とか「そーっと」とか?
でも滑り台をいそいで滑ろうとする子供とか
道をかけていく我が息子とかにも発せられる
この言葉は 「シッー」と同じくらい瞬時に
すかさず発せられ かつて「ドゥースモン!」と
親に言われていたであろう子供がちびっ子に向かって
言ってたりする。そう フランスではなんか
ドゥースモンがポイントらしいのです。


 それに対して我が子と言えば、、、、


 新幹線では2時間いい子にできていたと思っていたものの
フランスのTGVは子供がいようが赤子がいようが
まさにシーンと静まり返ってて ちょっとでもうるさい音が
しようものなら「アーン?」という顔をした
誰かの顔が覗いたりする。でも子供だからしょうがないでしょ!と
日本人ならいいたいところ、、、 ところがこの国は
「そんなこといったってうちの子はしなかったわよ」と
言う感じ。たしかにそうだ「子供だからできない」と
思ってしまうのは私の方で 目の前にはまさに
フランス人形みたいにじっとして口を閉じて
座り続けている子供たちが存在している、、、、


 なんでそんなことが可能なの?


 一体どういうことなんだろう?


 そんな中 蓮太郎もかなりがんばって
一人で昼寝をしてみたり 添い寝なしで夜寝させられたり
TGVの中でもいい子にしてみたりするのだけれど
だけどちょっと限界だよお だって日本人なんだもん
だってそんなの慣れてないもん だって子供なんだもん
と 弱音を吐きたくなってしまうけど
弱音を吐くと 今度は「だけどそうした方が
あなたにとっていいと思わない?子供のいいなりになってたら
親が死んでしまうわよ!」と言われてしまう
確かにその通り で だからなかなか昼寝をしない
息子に対して3時くらいにはかなり腹が立ってしまったり
抱っこだっこで歩かない息子にこのやろー!と思ったりするのだけれど
「だったらベビーカーを買えばいいじゃない?」と
言われてしまうとその通り
息子が抱っこだっこというから汚れてもめだたない
服を買おうと思っていた私がなんだかバカみたい。


  フランスは親の自律 親が子供に
振り回されずに親がまず規則を決めて
子供中心で親がへとへとになんてならないように
生まれた時から子供よりも大人優先!!がすごく強いように思う。
日本の場合は母親は自分を犠牲にしてなんぼ
私はなんども「私はこんなに夜泣きで眠れなかった」とか
「子供のためになんらかのことをすすんで犠牲にした」というような
話を耳にしたことがある。その度に「まーあの人はすごいわねえ!」という
まなざしで見られる様な感があるけど フランスはまるで逆!
この国の人たちが日本のひきこもりのことをまるで
理解できないというまなざしで見るのはきっと
生まれたときからのすごい違いによるのだろう。


 そもそも私が子育てでかなり病んでた時に
はじめて私に「だけどあなたの人生だって大切に
しないとだめよ」と言ってくれたのはフランス人女性だったけど
私は息子を産んではじめてそんなことを言われた気がして驚いたけど
今になってわかるのは フランスではそれはかなり
当たり前な感覚で 子供中心で子供に振り回されて
あれもこれもできなくなって、、、というのは
こちらでは「よくがんばっている」ではなくて
「大人としていけてない」感じなんだなあ


 そういうわけで フランスと日本とのはざまで
悩み葛藤することに 覚悟はしてきたわけだけど
どこまで「いい子」にさせればいいのか どこでなら
のびのび楽しくやってていいのか そのさじ加減もまだ
よくわからずに 色々とたまっていたものもたまってしまって
涙が出たりもするんだな 

 それでも蓮太郎は廊下をそーっと歩いてみたり
5階まである階段をなるべく自分で歩いてみたり
メトロでじっと座って静かにしたり 田舎にいって
自分のおうちを作ってみたり さくらんぼとって食べたり
毎日パンやらチーズを食べたり それなりに
適応しようとしてがんばってくれているので
私ももうちょっとふんばってみようと思います。

子育てカフェで考える

2011年04月14日 | 日仏子育て事情


 考える なんて言ってはみても
息子と離れられない日常の中では
頭なんてまわらないのだけれど。


 それでも不思議だなあと思うのは
もう蓮太郎を連れて4回目くらいになる
パリの子育てカフェ カフェゾイド で
朝から音楽の時間があって
お歌を歌うのが大好きな息子にフランスの
歌に慣れさせようと 母は無駄に努力をしたりで
そこに行ったりするのだけれど

 
 もちろん息子はフランスの歌を何一つ知らないし
踊るのが好きとはいってもやっぱりその中では
照れているのか 彼はひたすら車のおもちゃで
遊んでる。そんな中 みんなが楽しそうに
フランス語で子供と仲良く歌ってる





 さて そんな中 私もやっぱりわからないので
 
 異邦人の孤独を感じてもよさそうなのに

 なんだかあんまり感じないんだな


 私にはそれが不思議でしょうがない。


 それはここにアフリカ人やらアラブ系の人やらや
「いかにもお母さん」な人はむしろ少数で
この人乳母?とかお母さん?またはおばあちゃん?とか
お父さん?かしら??というような ??のつく感じの人が
沢山やってきているからだろうか
ここには日本の児童館やママサークルや公園で当然とされる
「子供と母親!」という図式はどこへやら で
私は先日までニュータウンで「世代間の交流が、、、」とか
言っていたけど ここは子供用のカフェなのに
そんなことを言う必要がまったくないほど
めちゃくちゃいろんな年齢の人がいて
(子連れでない人 スタッフなのかなんらかの
目的をもって訪れてるのか?みたいな人も多い)
本当に多国籍で雑多な空間。。。


 そのせいなのか

 日本で日本語がしゃべれてて 「それなりの普通の家庭」の
ママとしてサークルやら児童館に行ってた私が
あそこでは全ての会話もすべての歌も理解できていたはずなのに
何故か感じていた絶望にすら近いような孤独感 は
不思議なことにここではなくって
今日はご飯を注文した後 仲良くなった
日本人のママが持って来てくれたドーナツに
2人でカフェで注文したお茶を飲んでたら
かなり幸せでいっぱいだった。
ここはカフェだからいいんだろうか??



 状況でいったなら 今の私の置かれてる状況のほうが
よっぽどか大変なのに それでも私は元気な時は
やっぱり楽しそうな顔をしていて
蓮太郎も今日そのママとおともだちと歩きながら
「しあわせだねえ」と言っていたのできっと幸せなのだろう。


 パリなんて 子育てしにくいはずだと思ってたけど
だってメトロじゃベビーカーとか使えなさそうだし
(改札がとても複雑なのでとても一人では通れない)
エレベーターなんてほとんどないし
道には車がいっぱい通っているし


 ところがパリの公園だったり そのカフェもそうだし
子育て全般に関してなのかもしれないけれど
こっちはあくまでも大人目線を大切にするんだな。
例えばすんごく驚いたのは ラビレットという大きな公園の中に
子供用の遊具がめちゃくちゃいっぱいあるコーナーがあり
(私はニュータウンで子育てしてましたがパリの方が
公園の中での遊具の数や選択肢が圧倒的に多いらしいことに
気がついて驚いています。都会が子育てしやすかったら
言うことないじゃん!しかもすごい緑が多くて気持いい)
そこには砂がしきつめてあって なんだか浜辺みたいな雰囲気。
いわゆる「お砂場」な雰囲気だけじゃなくって
まわりにはなんとパリプラージュ的な椅子(浜辺っぽい)が
置いてあり 大人はそこに腰掛けて 子供の
様子を見守る感じ。そう そこで蓮太郎が
自分のおもちゃで夢中で砂遊びをしている間
私は心地よい風に吹かれて なんと眠りそうになってしまった!


 そんな経験


 東京の公園だっていったことあるけれど


 日本の公園ではしたことがない

 子供が砂あそびをしている間

 浜辺に居るような気持になって うっかりうとうと?

 それは本当にありえない。



 なにが違うのかといいますと

 視点が全然違う気がする

 フランスの公園は もともと遊具があまりなかったのも
あるのだろうけど 大人ありきの公園で
遊具のまわりにベンチがあって 大人は
ほとんど一緒に遊んでいないで
ベンチに座って子供を見ている


 それに対して日本の公園は遊具の近くに
ベンチなんてほとんどないから
ちょっと座ろうかと思っても せいぜい
砂場のはしっこくらいで 自分は座ってのんびり
見守っている というのはなかなか可能じゃない。
どっちがいいのかはわからないけど
でも日本人の母親だからといって 誰しもが
子供とべったり遊んでいるのが得意だという訳はなく
私はなんども「もー早く帰ろうよ もう嫌ー」
という顔をしながら子供をみているお母さんを
目にしたことがある。


 そんな時 ちょっと座って ちょっとなんか
食べたりしながらぐたっとできたらいいのになあと
思うのだけど パリの公園は子供は遊び
親やら乳母みたいな人やらは
何かを食べたり新聞読んだりしたりもしていて
そりゃあ子育てカフェみたいな発想にもなるだろうな
という気がしてしまう。


 こちらのカフェではお昼時だけじゃなくって
朝のお歌の時間だろうが 注文したら
親たちは何か飲んだり食べたりできて
そんな中で子供が遊び 子供が食べ物をぐちゃぐちゃにして
汚したら後で親がほうきをもってきてきれいにするという
どうやらそんな仕組みらしい。





 この自由で適当でいられる感じ
自分ペースでいられる感じ
子供をもったからといって 自分は自分で
いられるような そんなところが違うのだろう
フランスはとても特異だと思うけど
私にはそれがありがたい し 心地いい。

2週間が経過して

2011年04月14日 | 日仏子育て事情

パリに来てから早いものでもう2週間が過ぎていて
息子とともに行けたところはといえば
ほとんど大したこともできずに、やたら公園に
行ってることと ピクニックをしたことと
エッフェル塔をままあ近くで眺めたくらいで
2週間 ほとんど私のいる地区から出れていない


 あー パリに来たのになー という
うっぷんもたまりつつあるようで
あまりにも美しくまばゆい光を放ってる
カフェのテラスを見る度にとてもうらやましくて
仕方ない。先週くらいから「まあ行ったら
いいじゃないか 多少高くても」と
思い始めてはいたのだけれど なんだかんだで
「お昼寝が終わってからにしよう」と思ったら
6時になったりとかで そこからいけない
わけでもないけど(パリは7時すぎても明るいので)
カフェクレーム飲んで眠れなくなったらどうしようとか
考えて 結局いけないことになる。


 目の前に あるのにな、、、


 パン屋の前を通る度にうらやましー!!!と思って
目にしてしまう 色とりどりのお菓子達も食べたくて
そんな風に思っていたら ついに昨日私は体調を崩して
1日寝込むという体験をはじめてパリでしてしまう。


 蓮太郎はといいますと 彼も2週間でがんばって
かなりフランス流の子供の振る舞い方を身につけて

 なんと一人でも寝れるようになったりだとか
(これは生まれてはじめて!)私の仕事先で
なんとかいい子で一人で寝れるようになってみたりとか
それなりに「お手つないでスタスタ」といって
歩いてみたりとか だいぶ歩けるようになってくれたし
メトロでもかなり長時間いい子ができるようになってきた。
そうして我等は 毎日毎日 公園か子育てカフェに行き
ほとんど連日ピクニックをしてお昼ご飯代を浮かせて
なんとかやってきているけれど


 我慢のしすぎもよくないねー。。。


 カフェ行きたいなあ 服も買いたい
フランスは夏日みたいなのがつづいてて
みんな薄手のワンピースやらバレエシューズで
冬服しかもっていない私はとても浮いてる
それでも毎日温度差があまりにはげしくて
今日はブーツでもおかしくなかった
そんなのもあって体調を壊しやすくもなるのだろう
おいしいお菓子も食べたいなあ ワインももっと飲みたいなあ
でも買い方がいまいちわからない し
高くはないけど 安いのを買って失敗するなら
まあ買わない方がいいかとつい思ってしまうし
なんだかうまく楽しめない。


 この2週間はなんとか子供とやっていくこと
それだけに追われてて この先なんて見えてなかった
今もそれは同じだけど この先をもう少し見据えるためにも
たまには一人でカフェに行きたい そのために は
少し預けないといけないのだけど
なかなかどうして 難かしい

 なんとかやっていけるだろうか
なんとか笑っていけるだろうか
先日は子供とずっと居続けることに
いい加減耐えられなくなり私も泣いてしまったけれど
(それでも2週間やれただけ私にとっては快挙かも)
いつも怒ったりぷんぷんしている生活じゃなく
もっとのんびり リラックスして
楽しめたらいいんだけどなあ それには自分のゆとりが必要
そのためだったら お菓子くらい買ってもいいか
昨日の夜ほど 女性にとってのお菓子の必要性というものが
痛いほどわかった夜はない。
やっぱり後で買いにいこう。。。

フランスに行くなら

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