alternativeway

パリ、カフェ、子育て、サードプレイス、
新たな時代を感じるものなどに関して
徒然なるままに自分の想いを綴っています。

母親のプレッシャー

2018年09月30日 | 女の生き方

私は最近個人的な問題から今の状態を抜けるには
エゴの解放、エゴを手放すというのがテーマのようで、
本当に自分らしく生きるにはそのエゴから
解放されることが重要だ、と悩んだ時に目にする英語の記事に書いてある。

で、エゴって何なの?と思いつつ、これもニュアンスが英語と
日本語で違いそうなのでしべてみると「Ego」というのは
本来の自分とは違うのに、それを自分だと思っているもの
のことらしい。ちょっと漠然としてるけど。
つまり、造られた自分、社会的要請に合わせようとしてできた自分。
例えば本当なネガティブなのにいつも笑顔で振舞おうとしているだとか
本当は自由奔放なタイプなのに人に合わせようとしているだとか
つまり「私とはこうである」というアイデンティティの中の
特に「こうあるべきである」という部分だと思う。


おそらく子育てで苦しむ人は 自分の中のエゴと
目の前にいる子供とが一致せずにそこで悩むのだと思う。
エゴ というのは社会的要請であり、社会が良しとしているものだ。
自分自身も 本来よくよくふりかえったら違うのに社会の要求や
親の意見にしたがって、仮面をかぶっていたかもしれない。
心のそこでは なんか違う と思いながらも
いつしかその仮面をかぶった自分が自分になってしまって
本当の自分がわからなくなり、そこに蓋をして生きてしまった。
そんなことは 日本人女性にはわりとありがちだと思う。

ずいぶん前に何人かのフランス人男性から尋ねられたことがある。
「日本人女性のあの仮面の下には何あるの?」
その時私はわからなかった。まだ女の人たちについて
語れるほどには知らなかった。私もきっと 何かあるのだろうと
思い、彼らのようにそれをミステリアスだと思っていた。
しかしそれから数年たって私はやっと合点がいった。
あの仮面の下には何もないのだ。
あの仮面というのは はじめは仮面だったものが
いつしか顔に張り付いて 自分自身になったものなのだ。
だから彼らがはじめ想像するように 言語ができるようになれば
仮面の下にそっと隠していた本来の姿を見せ
それを表現してくれるとか そういうものではないのだろう。

時折彼らは私に尋ねる。日本人女性と付き合ったけど
彼女たちは急に泣き出したり、連絡を絶つことがあるという。
泣き出した理由を尋ねてみても「わからない」
すると彼もわからない。連絡を絶った理由は?
わからない、けど完全にとれなくなってしまった
「彼女は優しかったんだけど」たいていの男が言うことだ。


彼女たちはきっと心の底ではちょっと嫌だと思っていたのだろう。
けれども私たちはノーと言えない、だから言えずに仕方なしに
受け入れてきた。けれど何かのきっかけで感情が爆発したとき
本当は言いたかった「ノー!」が最高潮に達してしまい
自分でもわからないけど、もう無理、となってしまい、殻を閉ざしたのだろう。
エゴ、社会や他人からの要求に なんとか答えようとする自分と
本来の自分との乖離が最高潮に達した時に 堪忍袋の緒が切れる。
私の先日の鬱もそれと似ているのかもしれない。

本来の自分らしい人生を歩むために、エゴのとらわれから解放されることが
必要だとしても 大学生であるならまだしも
母親にはそれが難しい。なぜなら母親という存在は
子供に社会的要請を教えることが 一つの大きな役割だから。
もしその社会的要請が いい大学にはいり いい会社に就職し
または医者になって父親の仕事を継ぐことだったら
東京では今の社会でも 道は 東大へ向けて一直線だ。
東大へ行けたら合格(でも理3じゃなきゃ東大にあらずとかあるらしい)
早稲田や慶応だったらまあよし、法政や明治だとちょっととか
そんな古い価値観は 今でもしっかりまかりとおり
実は昔よりよっぽど厳しい受験戦争で勝ち抜くためには
のんきなことなどいってられない。そしてそこには方法がある。
まずは中学受験で御三家に合格させて、そこからあの塾に通わせて・・・
たとえそこに本来の自分が「どうかな・・・」と思っていても
この道に入ってしまうと 踏み外すのは難しい。

私はけっこう驚いたけど 東京のど真ん中、文京区で
子育てしている母親たちですら、「マンションから子供を
突き落としたい」という衝動にかられることがあるらしい。
(そして結構そうだよね、と納得されるらしい)
郊外のニュータウンで孤独を抱えてというなら
まだわかるような気がしたけれど、東京のど真ん中で
どこにでも簡単に行けて、友達とも気軽に会えそうなその環境で?
そんなとこでもそんなこと思ってるの?

おそらくそれはインフォーマルパプリックライフの欠如とか
陸の孤島でどこに行くにも大変だとか 
そういう問題がメインではないのだろう。
彼女たちが抱えているのは孤独というより成功へのプレッシャーの
ように思う。私のように片親だったら、どうせ片親の子の学力は
低いし、せいぜい85点とれたら万々歳と思えばいいやとまだ
諦めていられるけれど、「飯田さんの子も東大に・・・」
と言われたところで「そんなの無理に決まってるでしょ!」と
言い返せる理由が一応あるけど、そうでもなければ延々と「やっぱり
この子を成功させなければ・・・」というプレッシャーにかられて
母たちのストレスはつのっていくのではないかと思う。

母親が子供に怒りたくなるのはそのプレッシャーに対して
子供がまるで応じてくれない時だ。勉強をするべきだ!と思っているのに
まるでしない。夏休みの宿題を明日で終わらせるべきだ!と思っているのに
まるでしない。「〜しなきゃいけないんだよ!!」と
子供にガミガミ言っている時、実は心のどこかでうすうす気づいているのでは
ないだろうか。「私だってしたくないのに・・・」
本当は勉強なんてしたくなかった。でもしないといけないからやってきた。
本当は大学受験なんてどうでもいいのかもしれない。
でも今の社会ではいい大学にいかなかったら成功は保証されないかもしれない。
本来の私の想いと社会的圧力のズレがあり、子供が本来の姿のままで
(やる気をしめさずにダラダラとゲームばっかりして)生きている時
親は怒りたくなってくる。「私だってこんなに頑張ってるんだよ!」
(本当はこんなことしたくないのに・・・)

おそらくエゴの解放というのは、本当はこんなことしたくないのに・・・
と思っている自分を認めることなのだろう。
本当は私もあんたみたいにダラダラ生きたい。
本当は朝ごはんなんて作りたくない。
歯磨きなんかしたくない。きちんと生きてもいいことなんか
ないかもしれない。学歴なんてあったって?一度会社を
やめてしまえばパアかもしれない。

東大に行ったって?
東大は日本では一位でも世界で46位だったじゃないか
(42位になって日経が順位が上がったと喜んでいた)
東大が本当に素晴らしい学校ならば 日本社会や政治は
もうすこしましになっているのでは・・・
(もちろん教授には素晴らしい先生方が沢山いらっしゃるけれど)
思えば私が子供と大喧嘩をしてきたのは
いつも本当は行きたくないのに子供が行きたいと言ったから・・・
やりたくないのにあの人がやれとか言ったから・・・
という他人目線で行ったことの結果だった。
自分を優先させればよかったのに、そう、フランス風に
‘C’est moi qui décide!” (決めるのは自分!)と
自分に言い聞かせればよかったのに。

日本社会で成功のプレッシャーが強い中では
特にそのエゴから抜け出すのは難しい。
「諦めたら楽よ」と言われても 諦めきれない状況だったら
それが一番難しい。けれどもマンドフルネスの本にもあるけど
「もしそれをやめてみたら?」どんな状態になるのだろう。
友達がいなくなる?そんなのでやめる友達なんて
そもそも本当に友達といえるのだろうか?
何かを失う?本当に何かを失うのだろうか?
自分が合わせてきた社会の要請は 本当に自分にとって
大切なものなのか マインドフルネスも、自分自身への気づきというのも
同じことを問うているように思う。

そういえば『道は開ける』の著者が言っていた。
起こりうる最悪の事態は何か?最悪の場合それを
受け入れよう。それでも死なないかもしれない。
家庭は崩壊しないかもしれない。子供は中卒かもしれない。
それでもフードカートの屋台を始めるかもしれない。
避けられるなら避けれるように最善の策を練ることだ。
けれども最悪の事態を想定すること、そこで解放されるエネルギーもあるらしい。
この国で「自分らしい子育て」なんて タレントでもない限り無理に近い。
けれどもほんのすこしずつ 本当の自分を大切にする
そうすると結果的に 子供にも優しくなれるのかもしれない。

子育てとマインドフルネス 

2018年09月29日 | 女の生き方

10歳の息子と無理やりヨーロッパに行きなんとかかんとか
帰国してから、私を待ち受けていたのは過酷な鬱だった。
何が起こったのかはわからない。今回はどうにか
時差ボケもカバーして、仕事もそれなりにこなせそうだと思っていた。
そんな矢先に私の心は日増しに暗くなり、精神的な深い闇に
沈んでしまった。原因は今でもよくわからない。

帰国して息子の生意気さがひどくなったことや、夏休みの
宿題の残りの1つで大きな問題が生じたことや、
私自身が子連れの長旅を1人でやりくりし、しかも
待っていたのは想像を超えた巨額の支払いで途方にくれ、
ようは夏の終わりで様々なことに疲れ果てていたのだろう。
でもその鬱の期間は本当に辛く、生意気な子供にどう接していいのか
まったくわからず、10年間子育てをしてきて一番の危機だった。

我が子は全日本生意気選手権があったら即優勝しそうなほどに
口が達者で、生意気っぷりは本当にすごい。そんな状態に
てこずり、毎日激しいストレスにさらされていた私は
本当にどうすればいいのかわからなかった。
周りの人に相談すると、さすがにプロに聞いた方がいいのではという
意見もあり、児童相談所にも電話をかけた。
すると電話に出たおじさんはこういった。
「男の子ですか?生意気なのは仕方ありません。聞き流すしかないですよ。
まともにかまっていたら親が疲弊しますよ。それにいちいち怒っていたら
そのうち暴力沙汰に発展します」彼の言い方は「しょうがない 諦めなさい」
というトーンであり、確かに今にしてみれば正しかったようにも思うが
私としてはここまで深刻に悩んでいるのになんだこの人・・・という気持ちで
電話を切った。

では家族問題専門のカウンセラーの予約をとれば?と言われ、確かに
一度くらいいくか、と思うと「3週間後まで予約がいっぱいです。」
今まさに家庭も自分も崩壊しそうな時なのに3週間後なんて長すぎる!と
絶望的な気持ちで電話を切った。これまでは息子が生意気でひどいと
思っていたけれど、私の精神状態もまずいのではと気がつき始め、
抗鬱剤を買うべきか?とネットで調べたりもした。
そんなこんなでいろんなところに助けを求めてみたけれど、
結果としては「小学生の反抗?自立していいじゃないー」
「小学生?中学生になったらもっとひどいわよー これからが大変よ」
などが主流な反応で、結局のところひとつも「これだ」という答えは得られなかった。


そんな時、私を影で支えてくれたのがマンドフルネスの本だった。
旅の終わり、パリからロンドンの移動で疲れ、イライラがつのったロンドンで
ここにいるうちにマインドフルネスの本を買いたいと強く思って
出発直前の空港で1冊手に取った。マインドフルネスは日本の
女性にはあまり知られていないようで「宗教?」とか「ヨガ?」とか
言われるが、ロンドンやアメリカの書店にはかなり普通においてあり
(日本の書店のビジネス自己啓発本のコーナーでも以前目にした)
わりとメジャーなようだった。

実際私が買った”Mindfulness for busy people” には、ロンドンで
マインドフルネスという言葉をきかない日はないくらいで、この
20年くらいで科学的にも脳やマインド、感情や振る舞い、体の機能に
マインドフルネスが及ぼすよい影響が実証されているとかかれている。
イギリスでは党派を超えたマインドフルネスの議会グループが存在し、
教育やヘルスケア、仕事や犯罪抑止などにマインドフルネスを活かす
ことが検討されている。2017年にはイギリスの議員を対象にした8週間の
マインドフルネスコースも開催されたという。この本はビジネス書という
枠組みだが、政治の世界でも有効とされ、私が声を大にして言いたいのは
マインドフルネスは子育て中の母親にめちゃくちゃ役立つということだ。

この本を読み始めたのは帰りの飛行機の中で半信半疑、
うーんよくわからないと思っていたけど、自分が大変な目に
合う中で、これ以外にヒントになりそうなものがないので
200ページを読み進め、その間様々なプラクティスを実践していった。
それから1ヶ月、結局私は抗鬱剤も飲まなかったし、カウンセリングにも
通わなかった(予約がとれなかったから)、息子はそんなに
変わっていないかもしれないが、親子関係は激変した。
8月の末にはもうやめたいと思うほど辛かった母親業だけど
今では子供を見るたびにギュッとしたくなり、ずいぶん自分が
優しくなったように思う。もちろん生意気な口をきくときも
あるけれど、なんというか、それがどうでもよくなった。これはすごい!!

マインドフルネスを簡単に説明すると、これは瞑想でもなければ
お金のかかるワークショップでもないし、カウンセリングにいかないと
受けられないものでもない。一言で言うと「自分を顕微鏡のように
すること」というのが一番ピンときた。確かに本当にそうだと思う。
私たちのマインド、脳の仕組みには、考え、分析、判断する能力と
もうひとつ、普段あまり使われていない「知覚する能力」があるらしい。
マインドフルネスはその2つ目の能力をできるだけ使い、
1つ目のマインドの虜にならないことなのだ。1つ目のマインドというのは
「私はあれもこれもしないといけない、忙しい(けれどできない)」
「彼があんなことをするのは許せない(判断)」など、
社会的要請の中に自分や自分の判断を埋め込み、そこに同化していこうとする
努力に近い気がする。忙しいビジネスの世界で皆と同じように業績を上げ、
皆と同じように友人関係を円満につくり、皆と同じように幸せな家庭を築く。
それが成功。

でも実際の自分にはそれができなかったりもする。
昔はできたのに、あの人はできるのに、あの人が羨ましい、でも自分は・・・
そこで自分や他人を責めていくことでマインドが堂々巡りを始めていく。
子育て中の母親(特に男の子の親?)によくありそうな話でもある。
「どうしてうちの子は漢字をきれいに書けないんだろう?」
「どうして〜ちゃんはできるのにうちの子は・・・?」
それだけでなく、自分の時間や余裕もないので精神的に参ってくる。
「ゆっくりお風呂に入りたい(けどそんなの無理!)」
「たまには1人で優雅に何かをしてみたい(けどそんなの無理!!)」
「たまには大人の時間を過ごしたい、バーとか行ってみたい
(誰が子供の面倒みるの?バーに行くために子供預かれっていうの?)」
そういうわけで、母親にはいろんなストレスがたまってくる。
社会的にやらないといけないこと、本当はここまでさせなくても
いいのにとちょっと思っている自分、自分もゆとりがほしいけど
現実的にそんな時間がとれない自分、そしてキューっとなっていく。

私がこの本を読んで本当によかったのは自分は1人ではないと思ったことだ。
私にとってはロンドンで働いているビジネスマンなんて成功していて
かっこいいイメージくらいしかなかったけれど、この本には
カウンセリングにきて泣き出す銀行のお偉いさんや、3人子育てをしていて
自分の時間がもてずに泣きたい気持ちのお母さんの話、リストラされたら
家のローンを払えないんじゃないかと思うと仕事が手につかなくなる人の
話など、さまざまな実体験が載っており、なんだ、ロンドンの人たちも
私と同じように苦しんでるんだ・・・というのが本当に大きな支えになった。
(だから私と同じように苦しんでこのブログにたどり着いた人が
いるかもしれないと思ってあえて書いています)


マインドフルネスは、どういう状況であれ、目の前にある事実の他に
それを知覚している自分がいることを教えてくれる。
よく母親たちは言う。「どうして人の子だと怒らないのに
自分の子だとこんなに怒っちゃうんだろう?人の子だったら
あーやっちゃたね、で済ませるのにね。」
おそらくそこには自分の子どもに対する様々な価値判断が
頭の中にあるからだ。私にとって一番支えになったのは、
嫌な状況がでてきたときに、それを車の騒音や蜂が飛んでいると思え、という
ことだった。息子に生意気なことや傷つけられることを言われた時、
何かで非常に腹がたったとき、まずはとにかく呼吸をすること。
そして蜂が飛んでいると思うこと。蜂を追い返そうとしないこと、
ただ呼吸をして、蜂に神経を集中しないこと。”Let it go!”という言葉が
とても印象的で、何度自分の中でこの言葉を叫んだことだろう。
日本語では「気にしない、流せ」ということか・・・

はじめは大変だったけど、私は1週間息子に怒らないことを
続けられたら憧れのエーグルの長靴を買おうという目標をたて、
(子供のためと思うと続かないので)自分のために頑張った。はじめの3日くらいは
息子も何が起きたのかわからないようだったけど、そのうち彼はこう言った。
「ママつまんない、何も反応しないんだもん」(勝った!!)
子育てが行き詰まった時にバイブルのように読んでいる
フランスの”100 façon de se faire obéir” (子供に言うことを聞かせる100の方法)
にも、子供が親や先生をおちょくるのは、彼らを自分と同じ下のレベルに
引き摺り下ろしたいからであり、怒って感情的になったら彼らの勝ちで
彼らは「やーい 大人のくせに怒った〜!」と喜ぶという。
というかそれが目的で彼らは大人をおちょくっている。
だからゲームに応じてはならない、というのが鉄則らしい。
それをやられたら無視する、自分が場所を移動する、それをやるなら
もう何かはしない、と断言して実行するなど、フランスの教育本で
よく語られる「毅然とした態度」(日本の多くの母親に欠けているのはこれでは・・・)
でそれを実行するのが大切だ、と書いてある。
そして子供たちは次第に悟る。「ああこれはやっても無駄だ。効果ない。」
彼らは大人を試している。どこまでなら許されるかな?
どこまでならやってもいいかな?この限度は今日は伸びるだろうか?
彼らは毎日試している。子供たちはトランプ大統領以上に交渉が好きなのかもしれない。

そこで大人が取るべき態度は「そんなことには応じない。」

応じないことを貫くと、蜂と同じで次第に
どこかへ行ってそれがなくなってくるから面白い。
息子は反抗的なままかもしれないが、以前ほど
態度がひどくなくなった。1冊まるごと読み進め
もう一度読んでしっかり自分のものにしようとすればするほど
生活が楽になっていく。マインドにとらわれ、
「ああしなければ こうしなければ でもできない!」という
状況から、「ああ雨の音が綺麗だなあ・・」
「こんな花も咲いてたのか・・・」という
ゆったりと子育てしていたころの気持ちに戻る。
鬱真っ最中の時は嫌だと思っていた雨や雨の日の暗い室内さえも
自分の知覚を顕微鏡のようにすると雨の美しさに気付かされる。
そうこうするうち、次第に「自分が大問題だと思っていたもの」
が小さなものになり、「ま、別にいいんじゃない?」と思えてくる。

これは私がたまに語るカフェセラピーとおなじだと思う。
家庭や仕事の問題に悩み、カフェのカウンターで天気や
くだらないことについて話しているうちに元気になって
店を出る頃には「いってきまーす」という気分になれる。
それは問題を誰かが具体的に解決してくれたからではなく
問題のウエイトが自然と小さくなったからなのだ。
血は出ているままかもしれない。でも痛い痛い!!と
思っているからもっと痛くなる。血が出ていても自分の
隣に咲いているコスモスをあー綺麗だなあ、と思っていると
次第に血のことを忘れていける。

問題は実は自分が思っているほど大きな問題じゃないかもしれない。
インフォーマルパプリックライフやカフェでの出会いは
そんな経験を与えてくれるけど、マインドフルネスの実践は
日常的にそんな気持ちの切り替えをあたえてくれる。

マインドフルネス、ぜひ日本で子育てに悩む多くの女性に知ってほしい。

孤立する母親たち

2018年09月16日 | 女の生き方
今日は東大の若い研究者たちの集まりがあり、研究内容や
今していることについて話を聞いていると、1人の女性が
子供の虐待や孤立支援のNPOで働いている、というので
思い切って聞いてみた。「あの、虐待って何が原因だと思いますか?」
彼女の答えはこうだった。「母親たちの孤立や、母親自身も
虐待を受けたことなどが原因だと思います」
素晴らしい答えだと思い、私はつい思いのたけを語ってしまった。

私が妊娠中に一度母親教室に参加した時、すでに子供のいる母親2人が
こう言ったのは今でも忘れない。「虐待をする人の気持ちがわかる」
まだ子供を産んでいなかった私としては「なんてことを言うんだこの人たち!」
とぶったまげてしまったけれど、今になったらよくわかる、し
おそらく子供がいる(特に男児の?)母親はほとんどの人が
「確かに気持ちがわかる」というだろう。

今では子供が泣いていたり何か少しでも問題があれば「すぐ通報してください!」
ということであり、私は子供が2−3ヶ月の時夕方に泣きじゃくり、これを
通報されるのではないかと恐ろしくて窓を閉めていた。京都の夏は暑く
1人で泣きじゃくる赤子を抱え、密室にこもるのはトラウマになりそうな程恐ろしい経験だった。
私は途方に暮れながら、どうしようもないのでひたすら童謡のCDをかけ
とりあえず歌うことしかできなかった。(今でもその曲をきくと泣きそうになる)
以前は人で賑わっていた家も「子供が産まれたから」というよくわからない
理由でめっきり訪れる人が減り、フェイスブックもなかった時代
誰かと連絡をとることもできないでいた。

私はおそらくその時間があまりに怖くて家を出るようになったのだ。
密室に閉じ込められ、子供はピーピー泣き、だんだん自分も疲れ果ててくる。
子育ては本当に大変だ。最近私はマインドフルネスを学び、ものすごく
生意気な息子になんとか耐えるようになってきたけれど、
正直いって子育てがまともにできる親というのは相当な経験をつんだ
ビジネスマンや経営者レベルの忍耐力や的確な判断能力のある
持ち主くらいではないかと思う。つまり、20代そこそこの、よくわからないままに
子供を産んでしまった私のような女子には、1人でその責任を全部負うのは到底無理なのだ。

そうして女性たちの多くは途方に暮れたまま子供たちに振り回され、
帰ってきた旦那にせめてもの愚痴を聞いてもらう。旦那はそのあと言うかもしれない。
「でも君は働いてなくていいよね」と。友人たちも言うだろう。
「働かなくていいなんてうやらましい!」たしかにそれはそうかもしれない。
でも彼女たちは社会から孤立してたった1人でマンションの中にこもって
子供の全責任を背負わされる。そんなはずじゃなかったのに。
小学生の時は夢を聞かれたかもしれない。「大人になったら何になりたい?」
少なくとも、私の時代にはすでに「お嫁さん!!」なんていう人は少数派だったと思う。
けれど現実はとても厳しい。

私が篠原涼子や緒方貞子さんのようにすでに自分のキャリアで成功し、
しっかりとお金を稼いで、かつ職場への復帰も保証されていれば話は別だ。
VERYのような雑誌はそんな人の美しい子育てについて語っているが
現実は大いに違うのだ。現実には、夢を追いながら派遣社員をしていた者や
いくつかの仕事を掛け持ちしていた者、数年後には独立することを夢見てた者が
存在する。女性の誰もが素晴らしい待遇の会社で正社員として働いているわけじゃない。
彼女たちが子供を産むと、もはや保育園に提出できる書類がない。
もし提出できても莫大な保育園代(月約5万円)を支払ってしっかりと
お釣りが出るほど稼げていなければ仕方なく専業主婦になり、きりつめた生活を
送るしかなくなっていく。

彼女たちは子供を産んだことでできなくなったことが山ほどあった。
飲み会に行ける友達が羨ましい。海外旅行している人がうらやましい。
京都の田舎に住んでいた私は独身の友人たちが「大手町」とか「表参道」という
言葉を使うたびに喉から手が出るほど羨ましかった。1年前まで研究していた
パリという場所ですら、もはや世界に存在するのかわからなくなってしまった。
大学院という知的な場所は永遠に手が届かなくなりそうだった。
そして子供を抱えた私はいつも「ママ」としか見られず、友達と
やっと会えても子供がぐずってほとんどまともな会話は成り立たない。
仕方ないから携帯を与えると今度は「今時の子供は携帯ばっかりね」という
言葉がぐさりとささる。

確かに児童館やママサークルはあるかもしれない。私は核家族でかつ
京都のニュータウンに引っ越して知り合いがいなかったため、
他の人よりよほどそういう場所に通った方だ。コミュニティカフェにも
お世話になった。しかしそれらの場所ではどこでも「〜ちゃんママ」としてか
扱われず、たとえ私が(将来それがきっかけで東大に呼ばれることになるような)
本を書いていたとしても、そんなことに興味を持ってくれる人も
それを正当に評価してくれる人も1人もいない。
そう そして起こっていくのは アイデンティティクライシス。

私は一体誰なのだろう?「〜ちゃんママ?」「(新しい苗字)の奥さん?」
私をこれまでの私として扱ってくれる人は一体どこかにいるのだろうか?
職場に復帰できる人はいい(これを社会復帰というのが言いえて妙だ
つまり自分で子育てしている人は社会の中にいないということか そうなのだ)
しかし戻れる世界がどこにもなかったら?
フェイスブックやインスタグラムもなかったら?
目の前には泣き叫ぶ子供、自分は半分崩壊しそうで 一体どうしたらいいのだろう?
そんな時に 何かが狂ってく。

しかしそれをわかってくれ、本気で助けてくれる人は1人もいない。
誰も「お母さん、大変ですね、もっと休んでください 私が子供見ますから」
と 温泉のチケットを渡してくれたり、カフェにいったらいいよと言ってくれる
人はいない。(実家に優しい母がいるか相当素晴らしい旦那さんに恵まれた人は別)
疲れていたら「ゆっくりしてね」と人は言うかもしれない。でもどうやって?
目の前に子供がいるのに?また今日も夜泣きをするのに?夕方には1時間泣き続けるのに?
どうやったら子供がいるのにリラックスなんてできるのだろう?

子育ての方法もわからない。
まわりの人の子供は「いい子ね」と言われるけどうちの子は・・・
かといって仕事もできないしまわりはどんどん進んでいく
そんなうちに激しい自己嫌悪におそわれる、が、周りの目が気になるために
子供が「いい子ね」と言われるように必死になって本を読ます・・・
(私は2年間必死で子供が「いい子ね」と言われることを目指してきたように思うが
なんの価値もなかったことを伝えたいと思う。しかもそれをあきらめ、
自分は悪い母だと認識するようになってから「素敵な子育てね」と言われる・・・)

以前ニュースになった「ゆるしてください」と書いて亡くなった女の子は
とてもかわいそうだけど、虐待をしながらも読み書きの練習をさせていた
母親の気持ちはどんな状態だったのだろう。小学生にもなっていないのに
無理やり勉強をさせたのは、母の中にそれだけのプレッシャーが
あったからではなかろうか。母親たちは押しつぶされそうな圧力の中
必死で毎日もがいている。進研ゼミの宣伝は届いても、誰も普通の母親たちに
どうすれば子育てがうまくいくか、子供にとっても母親にとっても
いい方法とは何なのか そんなことは教えてくれない。
私たちが人の目を気にして子供優位の子育てをすればするほど
おそらく10年後には親が大変なことになる。
私はしょっちゅう思っていた。私は虫なわけじゃない。
虫は子供を産んだらそれで終わりで、親が死んでしまうことがある。
でも私だって人間なのだ。母親になっても自分らしく生きることは
そんなにも不可能なのだろうか?もし彼女にお金がなくて
まだ素晴らしい地位も手にしていなかったら?彼女はただ子供を
産んだがゆえに、その夢を50歳になるまで諦めなければいけないのだろうか?


日本は先進国じゃなかったのかな・・・


東京から変わらなかったらこの状況は変わらない
だから私は東大の女性に語ってしまう。
今変えないと 数年後にはあなたの番になるんだよ と。

お金持ちには何もかもが許されている。
でもそれはごく一部の人たちなのだ。
母親がもっと自分らしく生きられること それを認めてくれる人や
支援がまわりにあること パリのようにそれを促す仕組みやまちのデザインが
普通にあること 
児童相談所のスタッフを増やすより
本当にやるべきことは母親たちがもっとリラックスして
子育ても自分の人生も いいなと思える環境をつくることではないのだろうか。

子育ての重圧

2018年09月12日 | 女の生き方
日本では子供を産んだ女性は母親という存在になり、女性であるとか自分であるとか
そういうことは二の次になる。「あんたも結婚したんだから」
「あんたも母親なんだから」
「あんたの責任でしょ!」「しっかりしなさいよ!!」

正直いってこの国にはほとんど子供の育て方についてまともに
書かれた本がないと思う。子育てに困った人が本屋にいっても
見つかるのは「どうすれば有名大学に入れるか」
「一流の子供を育てるには」「東大生にさせるには」
そんな本ばっかりだ。それよりもっと
親になってしまった人が(子供の怪我や病気以外で)困った時に
まさにこれを読めばよかった、という本に出会うのは難しい。
仕方がないからまわりの知った顔をした人に尋ねてみると
「男の子はそんなものよー しょうがないわね」
「だまって座ってられるだけましじゃない」
「うちは2人いてもっと大変だったわよー」
「生意気になったのは自我が芽生えた証拠よー 中学になったら
もっと大変よ」と取り合ってもらえない。

困り果てて児童相談所の専門家とやらに相談すると
「生意気は仕方ありません。気にするだけ無駄です」とバッサリ。
生意気にもおそらくいろんな種類があり、「ふざけんな」とか
「だまれ」とか「うるさい」とかを親に向かって
日常的に言っているのは私はどうかと思うけど
そういうことを言うと「あなたがそれを言わせたんでしょう?」的な
反応が返ってくる。そう いつも そればっかりだ。
誰も助けてなんかくれない。それなのにいつも責められるのは母親なのだ。

漢字ができない。「お母さん、ちゃんと見てあげてください」
習い事がうまくできない。「飯田さん、ちゃんと見てあげてますか?」
生意気がすぎる。「お子さんも何か悩んでいるのでは・・・」
母乳の出がうまくいかない時からいつも、どこかに相談しに行くたびに
責められるのは母なのだ。「お母さん、ケーキ食べませんでしたか?
赤ちゃんが嫌がりますよ・・・」

確かにそれらは一理ある。本を読むとなるほどと思って反省もする。
だけど実際に顔を合わせて見てみると、ありえないこの生意気さに
どんなに我慢しようと思っていてもカチンとくることがある。
それでも彼らは言うのだろうか「しょうがないですよ・・・」

私にはわからない。子育てなんてわからない。
一番苦手なものは何ですかと言われたら迷わず子育てというだろう。
誰も私に子供のまともな育て方なんて教えてくれたこともない。
仕方ないから本を読もうと思っても、適切な本なんてほとんどない。
(だから必死でフランス語で読んできた)
じゃあ右にならうしかない?けれど日本には子供の前に自分を譲って
子供の言う通りにしている甘い親が本当に多い。
はじめは優しさのつもりだったけど?うちも確かにそうだった。
自主的で個性的な子供になってほしいと思って小さい時から
「どう思う?どうしたい?」と聞いていた。
個性を重んじると言われるフランスやイタリアではその逆だという。
そんなことをして子供にお伺いをたてているとまわりの人が
イライラした表情で私に聞いてくる。「誰が決めるの?
子供にまともな判断ができると思うの?」
「子供に自分の人生とられてしまってそれでいいの?」
「子育てしてるからって、自分の人生を歩まなきゃ!」
「厳しい言い方かもしれないけどね あなたのためを
思って言っているのよ・・・・」本当にそうなのだ、と
今になって身にしみる。私がなんとかこんな状況でも
子育てをやめずにいるのは、ひとえにフランス式子育てのおかげだと思う。


日本では母親の尊厳を第一に考えて何かを言われたことは一度もない。
そして皆平気な顔して私に告げる。「反抗期は長いわよー」
母親はただそれに耐えればいいのだろうか?また、これからも
子供のいいなりで振り回されればいいのだろうか?
約束を破るのも、平気で嘘をつくのも、仕方ないと
諦めていれば物事はよくなるのだろうか?

この国で女に生まれる意味というのは何なのだろう?
私は心底思ってしまう。この国で出生率を増やすなんて不可能だ。
明らかに 明らかに結婚して旦那さんはいるけど子供がいない女性の方が
楽しそうな人生を送っている。仕事で海外に行くこともざらで
自分の選択で決められる。子供がいたら?多くの場合
自分がこうだと思っても、まわりが「べき論」で責めてくる。

「そんなことしたら子供がかわいそう」
「ちょっとくらい我慢したらいいじゃない(子供が小さいうちは?
それとも反抗期を全部すぎるまで?合計何年我慢すればいいのだろうか)」
「あなたが子供を産んだんでしょう」(できちゃった結婚の人は?)
「親なんだから宿題の面倒くらいみないと学力が下がるわよ」
「あなた、そんなこといったって、あなたは恵まれている方なのよ」

そういえばフランスでは親は宿題の面倒をみないとかつて聞いたことがある。
夏の終わりの親子関係を最悪にする夏休みの宿題もないらしい。
子育てをしながら何度思ったことだろう、どうして女に生まれてきたのかと。
子供が可愛くて仕方ない!と思えないのは私が助産院でなく病院で
子供を産んだからか、それともシングルマザーでストレスが大きすぎるからか
それとも私の精神が病んでいるからなのかはわからない。
けれどこうしてここに書くのはおそらく私と同じような気持ちを
抱いている母親は日本に実は多くいるのではないかと思うから。
だけどそんな気持ちを吐き出すことは許されない。
そして彼女たちは今日もいつも、良き母を演じ、私からすると
嘘くさいような猫なで声で子供とコミュニケーションをとっている。
でも彼女たちもふと、私何やってるんだろう、と思う瞬間はないのだろうか。
よき母を演じることが仮面になってしまっていても
自分自身の人生を考える瞬間もあるのではないだろうか。
21世紀のこの先進国に、女性として子供を産んだことは
罰ゲームだったのではなく、新しい社会のあり方を考えるきっかけをもてたのだと
もっとポジティブに捉えられる日がきてもいいのではないだろうか。

母親になるのは大変だ。子育ての責任をなぜか1人で
背負わされるのは本当に重圧があり、その重圧は人を簡単に狂わせるほどの
力をもっている。子供を虐待した母親たちも、独身時代は普通の人だったのではないだろうか。
「大変だね」と一言声をかけるだけでなく、社会から母親たちへの支援がもっと
あってもいいのではないかと思う。それがなければ女たちは子供を産もうと
思えないのではないだろうか。
女に生まれたのなら子供を産みたいというのは当然の感情かもしれないが
理性で考えた時、喜びと重圧とでこれほど差がでてしまうなら、
やっぱり産むのはやめておこう、と思うのも当然かもしれない。

都市は変えられる 公共空間再編の話

2018年09月10日 | インフォーマルパブリックライフ

 最近は2冊目の本の方に頭がいっていてブログはすっかりご無沙汰で
本当は子育てが辛いとか 3冊目は絶対に女の生き方の本に
してやるとか 母になるとこんなに辛くなる子育ての仕方なんて
絶対間違ってるだとか そんな日常なのだけれど
とにかく今は研究が癒しになっています。

 そういうわけで、今はインフォーマルパブリックライフの大切さと
それを促す公共空間をよくするために世界でどのような取り組みが
行われているのか、それをより促すにはオープンカフェが必要だ
という視点で原稿を書いています。

 まだまだ出来上がりませんが、来年には出版したいと思っています。
どうかお楽しみに・・・

 今度9月23日に、本の1部である、世界の公共空間再編に対する
問題意識とその取り組み方、どうすれば街が活性化するのか について
お話させていただきます。日本の地方都市や活力をとりもどしたい
エリアの参考になればいいなと思っています。
国分寺の胡桃堂喫茶店さんでお話させていただきます。
よかったらどうぞ・・・

https://www.facebook.com/events/308070523286755/


フランスに行くなら

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