alternativeway

パリ、カフェ、子育て、サードプレイス、
新たな時代を感じるものなどに関して
徒然なるままに自分の想いを綴っています。

苦しさの正体

2011年01月31日 | 日本の「空気」

 京都のニュータウンでの生活に帰り
その「日常」に戻るたび 得体の知れない
苦しみを いつも感じて何なのだろうと?疑問に思っていたけれど
今日とある会合に行って なんだか謎が解けた気がした。


 この苦しみは 自由がないとかいうのではなく
みんなに合わせないといけないという
ある一定の形にはまった その形に自分を適合させないと
いけないという そこからくる苦しさなんだ


 そう 私 は いつだったか パリのメトロの出口を
エスカレーターで上がって地上に出るときに
どこにいたって適応の努力をしないといけないのなら
日本にいたって私にとってはとても苦しい努力がいるなら
同じ努力をするんだったら フランス語をがんばって
パリで努力したほうがいいじゃないかとひらめいた。


 そしてその 努力の向かう先というのが
2つは全然別のもの で 日本では 合わせる努力を
みんなと同じように、なにかを乱さない努力を
しないといけなくて 私にはそれがとても苦しい
そしてその先にあるものは?「我慢の先にあるものって
一体何なんでしょうね?」とパリに住んでる日本人の人に
尋ねてみたとき「何にもないわよ!何にもないのよ
美樹ちゃん!」と真顔で力説されて驚いた。
日本では?そう お前は我慢が足りてないんだ
口は災いのもとなんだ 結婚とは忍耐です、、、
パリの場合は 言葉を磨いて 知識をつけて
もっともっと自己を表現する努力 で
私にとっては知的刺激にあふれてて
私にとっては 考えていたい そして書きたい
私にとってはやっぱりそちらがいいようで


 同じ自分がもしいるのなら
笑顔なんて蓮太郎といる時にしかでない仏頂面の自分というのと
何故かいつも活き活きと楽しそうにしていられる自分がいるなら
私は笑っていきていたい。


 「どうして女だからっていう理由で
自分らしく生きることが許されないの?」と
我が友人はパリのカフェで語ってくれた
自分らしくいきること のびのびと生きてみること
自然な笑顔で生きること が できるのならば
私は死んだ顔して生きているより そちらの道を選びたい


 私はものを考えていたい 自分の意見を表明したい
たとえそれが あなたの共感をよばなくっても
あなたに嫌悪感を与えていても どこかのだれかがいつの日か
一人でも共感するかもしれない。だから私は言葉を発して生きていたい


 どうしてブルトンが「くそくらえ!」と言ったのか
今ならなんだかわかる気がする それは彼が 適当に
生きてられたり もともと自由な人ではなくて
ボーヴォワールも同じだけど 既成の価値観にがんじがらめに
しばられて それに自分をあわせようとして 
きっともがいていたからなんだ
そしてある時 ハッと気づいた
もうそこでは生きていられない
それとは決別するしかないと?だから彼らは
くそくらえ!と声を大にして言ってみて
カフェという場に行ったのだろうか


 「あなたの話す日本っていうのは
 なんだか昔のフランスみたいね」と
パリ最終日に話した知人が言っていた。
そう 私はかつて ブルトンやボーヴォワールが
もがいてたころの まだ既成概念でガチガチだった
そんなころのフランスが 今の日本みたいだと思うから
だから共感するのだろうし だからよくわかるのだろう

 私は私自身でありたいと思う
笑って生きていられた方が だれかを笑顔に幸せに
することができるのだったら 私はまず笑っていたい
つくり笑いや へんにゆがんだ笑顔ではなく
心から楽しいんだと笑っていたい
まだ人生があるのなら 私は次のステップに移りたい。

日本の哲学カフェ

2011年01月26日 | 哲学カフェ

 いまだに一度もも参加したことのない
日本の哲学カフェ なんといっても
日本語だから全部理解できるに違いない?!
というわけで今度こそ参加してみたいと思っています
どなたか都合あうとき一緒に行ってみませんか??
日本でもシネマ哲学カフェってのもあるんですね


<カフェフィロのイベント>

●1 中之島哲学コレージュ@アートエリアB1(大阪)
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京阪中之島線「なにわ橋」駅構内に設けられたスペース「アー
トエリアB1」で開催している中之島哲学コレージュ。
2月~3月の連続テーマは「言葉と/で・・・」。情報を伝える
道具だけではない、言葉のいろいろな側面について、考え、味
わっていきます。
また特別企画では、『哲学への権利』(勁草書房)と『ドキュ
メント臨床哲学』(大阪大学出版会)の刊行記念対談を催しま
す。


▼哲学カフェ「言葉で傷つくということ」(2/2)
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「言葉と/で・・・」企画の第一弾は「言葉で傷つく」という
ことについての哲学カフェです。私たちは言葉で傷つくとはど
のような経験なのか、言葉を発することに含まれる何が人を傷
つけるのか、みなさんとともに議論をします。

○日 時:2月2日(水)19:00-21:00
○場 所:アートエリアB1(http://www.artarea-b1.jp/index.html

○テーマ:「言葉で傷つくということ」
○進行役:進行役:中川雅道(カフェフィロ)
○カフェマスター:本間直樹(大阪大学CSCD教員)
○備 考:定員50名(入退場自由、先着順)
○参加費:無料
○主 催:大阪大学CSCD/アートエリアB1/カフェフィロ
○問合せ:college_info@cafephilo.jp


▼特別企画:対談 鷲田清一×西山雄二「哲学と大学の未来」
(2/23)
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臨床哲学の提唱者鷲田清一さんと、フランス・パリの〈国際哲
学コレージュ〉にカメラを向けた哲学者西山雄二さんをお招き
し、哲学と大学の未来について語り合っていただきます。

○日 時:2月23日(水)19:00-21:00
○場 所:アートエリアB1(http://www.artarea-b1.jp/index.html

○テーマ:「哲学と大学の未来」
○ゲスト:鷲田清一(大阪大学総長)、西山雄二(首都大学東
京准教授)
○カフェマスター:本間直樹(大阪大学CSCD教員)
○備 考:定員100名(入退場自由、先着順)。
○参加費:無料
○主 催:大阪大学CSCD/アートエリアB1/勁草書房/カフェ
フィロ
○問合せ:college_info@cafephilo.jp


▼哲学セミナー「言葉のスケッチ」(2/27)
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「言葉と/で・・・」企画の第2弾は「言葉のスケッチ」です
。全盲の美術家、光島貴之さんが参加者の言葉をもとに、その
場で作品を制作します。ライブペインティング終了後はその作
品についてみなさんと話したいと思います。どんな言葉から、
どんな作品が生まれ、また言葉がひきだされるのか。ぜひご参
加ください。

○日 時:2月27日(日)14:00-17:00
○場 所:アートエリアB1(http://www.artarea-b1.jp/index.html

○ゲスト:光島貴之(美術家・鍼灸師)
○進行役:井尻貴子(カフェフィロ)
○カフェマスター:本間直樹(大阪大学CSCD教員)
○備 考:定員50名(入退場自由、先着順)。
○参加費:無料
○主 催:大阪大学CSCD/アートエリアB1/カフェフィロ
○問合せ:college_info@cafephilo.jp


●2 てつがくカフェ「大人になるってどういうこと?」@仙
台(2/6、仙台)
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第8回てつがくカフェ開催!今回のテーマは「大人になるって
どういうこと?」。自分はもう大人だという人も、まだ子供だ
という人も、一緒に考えてみませんか?

○日 時:2011年2月6日(日) 15:00-17:00
○場 所:せんだいメディアテーク7F goban tube cafe
○テーマ:「大人になるってどういうこと?」
○進行役:近田真美子(てつがくカフェ@せんだい)
○カフェマスター:西村高宏(カフェフィロ・てつがくカフェ
@せんだい)
○参加費:無料
○備 考:予約不要。お気軽にご参加ください。
○主 催:てつがくカフェ@せんだい、カフェフィロ
○協 力:せんだいメディアテーク
○問合せ:tanishi@hss.tbgu.ac.jp (西村高宏)
http://tetsugaku.masa-mune.jp/index.html(てつがくカフェ
@せんだい)


●3 シネマ哲学カフェ『インセプション』(2/13、大阪)
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映画を見た後に映画が問いかけるものについて語り合うシネマ
哲学カフェ。2008年から続いているこの企画ですが、映画が難
しすぎるという声がちらほら。そこで、開催形式を変えること
にしました。
二ヶ月に一度、みなさんにそれぞれ、DVDを観てきていただい
たあとに、九条の喫茶ケルンに集合して、話し合います(上映
会はありません)。

今回扱う映画は「インセプション」。
「ダークナイト」のクリストファー・ノーラン監督が、オリジ
ナル脚本で描くSFアクション大作です。人が眠っている間にそ
の潜在意識に侵入し、他人のアイデアを盗みだすという犯罪分
野のスペシャリストのコブは、その才能ゆえに最愛の者を失い
、国際指名手配犯となってしまう。そんな彼に、人生を取り戻
す唯一のチャンス「インセプション」という最高難度のミッシ
ョンが与えられる。
夢と現実の違いってどこにあるんだろう?

○日 時:2月13日(日)14:00-16:00
○場 所:喫茶ケルン
(http://r.tabelog.com/osaka/A2704/A270401/27028781/)
○作 品:『インセプション』
○監 督:クリストファー・ノーラン/2010年/148分
『インセプション』公式サイト
http://wwws.warnerbros.co.jp/inception/dvd/
○進行役:中川雅道(カフェフィロ)
○参加費:各自ドリンク代
○備 考:予約不要。直接お越しください。事前に作品をご覧
になってからお越しください。
○交 通:大阪市営地下鉄中央線「九条駅」より徒歩5分
○問合せ:info@cafephilo.jp
○主 催:カフェフィロ、シネ・ヌーヴォー


●4 グリグラ哲学カフェ@神戸市北区子育て支援センター(2/15
、神戸)
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月に1度、育児サークル<グリーングラス>通称「グリグラ」
で開催している哲学カフェ。
「お母さん」もそうでない方も大歓迎。
普段のおしゃべりの延長線上で気軽に哲学を楽しんでみません
か?
※最近のテーマ:「理性と感情、どっちが大事か?」

○日 時:2月15日(火)10:15-12:00
○場 所:神戸市北区子育て支援センター
○テーマ:未定(当日、参加者のみなさんと相談して決めます

○進行役:松川絵里(カフェフィロ)
○参加費:100円(ドリンク代)
○備 考:予約不要。直接お越しください。
○交 通:神戸電鉄「北鈴蘭台駅」より徒歩4分。
○主 催:グリーングラス、カフェフィロ
○問合せ:info@cafephilo.jp (担当:松川)


●5 京都哲学カフェ「贈り物」@カフェサンナミジ(2/19、
京都)
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京都は壬生寺の近く、ゆったりと落ち着いた雰囲気のカフェで
哲学しませんか。2月といえば贈り物の季節。「贈り物」をテ
ーマに、当日集まったみなさんで問いを出し合って対話を行い
ます。

○日 時:2月19日(土)15時半~17時半
○場 所:カフェサンナミジ http://sannamiji.com/
○進行役:中川雅道(カフェフィロ)※進行役は当日変更にな
る可能性があります。
○参加費:1,000円(ドリンク小菓子つき)予約は必要ありま
せん。
○交 通:阪急京都線大宮駅下車5分
○主 催:カフェフィロ、カフェサンナミジ
○問合せ:info@cafephilo.jp


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★最新情報、地図は→http://www.cafephilo.jp/
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<カフェフィロ以外のイベント>

▲1 哲学ライブ!「ソクラテスの弁明」
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哲学ライブの着想は、遠くギリシャの哲学者プラトンに
あります。対話体で書き残されたプラトンの書物は、「
哲学書」であると同時に「戯曲」でもあり、したがって
その「演劇化」の可能性を秘めています。「哲学ライブ
!」は、この演劇と哲学的対話の二重構造によって開発
された、対話型学習イベントです。今回は「ソクラテス
の弁明」等に描かれる”死に臨む(哲学)者の態度”を
テーマにして開催します。まずはテーマに即した劇を楽
しむこと、それが対話学習の出発点です。

○日 時:2月6日(日)13:00~16:00
○場 所:伽奈泥庵(カナディアン)大阪市中央区中寺町2-1-64
 美好マンションB1-1F
○参加費:2,000円*1ドリンク付
○出 演:高杉征司(ワンダリングパーティー)
○舞台装置:双木洋介
○総合助手:岡田蕗子(エイチエムビー・シアター・カン
パニー)
○脚色・演出:小林壮路
○進 行:桑原英之(カフェフィロ)
○定 員:40名
○備 考:要予約。㈰希望日㈪お名前を明記の上、tetsugakulive@gmail.com
(担当:小林)までお申し込みください。
○企画制作・主催:哲学ライブ!実行委員会


▲2 実験哲学カフェ(2/13、大阪)
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『実験哲学カフェ』とは、あるテーマについて集まった人たち
が語り合うトークサロンイベントです。2001年1月のスタート
以来さまざまなテーマについてお話ししてきました。
いわゆる哲学の知識や教養は必要ありません。
ただ「その人がその人であるからこそ出来る話」を聴きたいと
願っております。
哲学カフェは日本で成立するか?
実験哲学カフェはまだまだ実験中です。

○日 時:2011年2月13日(日)14:00-16:00
○場 所:イベントスペース雲州堂(大阪・南森町)
○テーマ:Vol.185『嫌悪の正体』
○進行役:田谷法子
○備 考:参加費は無料です。また事前のご予約なども必要あ
りません。ただお店の一角を間借りするような形で行っており
ますので、当日はお飲み物など1品のオーダーをお願いします

○交 通:
谷町線・堺筋線 「南森町駅」2番出口から徒歩約7分
京阪線・堺筋線 「北浜駅」26番出口から徒歩約5分
雲州堂さんのHP http://www.iori-unshudo.com/unshudo/
○問合先:大阪形而上学研究所(中田)metametaphysica@yahoo.co.jp

希望

2011年01月26日 | 私の人生

 こんなことしてる場合じゃないって
わかってるけど そんなことしてる暇があったら
もっと前に進めばいいのに って
頭ではわかっているけど
私だってどこかに気持を吐き出したくて
それがこの場であるのかわからないけど
だけどこれは 結局は自分のために書いてるわけだから
自分の気持くらい書いたっていいではないか?


 ああ辛いな と思う度

 少しの希望を胸に抱いて

 そこで生きてる自分を描いて

 なんとか生きているけれど


 希望や夢がある人生と
そんなもの何もない人生と 

 どちらの方がいいのかなんて
なかなか難かしいけれど

 私にとっては 希望があって
でもそこに至るのがちょっと苦しい
そちらの方が 真綿で首を絞められながら
生きているよりはましなのだろう。


 どうして私はものを書くのか

 どうして私は考えるのか

 ママ達の集まりに行き 

 相も変わらずなんとなく
端っこの方にいて所在無さげな自分を感じ
それでも以前の自分よりは 希望もなにも
もってなかった そんなころの自分よりは
今は客観的に この場を眺めることすらできるから
きっと前よりましなのだろう。


 私だって 蓮太郎と遊ぶとき は
あははと笑っているけれど
児童館にきて それなりに幸せそうに
笑っているお母さんたちをみてると
なんだかとってもうらやましかった。

 ああそうか それなりに
満足できたら幸せなんだ
愛する人と それなりに自分を活かせる仕事があって
毎日毎日子育てオンリーなわけでもなければ
子供だってかわいいものだし
へーそうか 結婚したからといって幸せに
なれるわけじゃないって 私は思っていたけれど
大多数の人はけっこう幸せなのかもしれない
どうして私がこうなったのかはわからないけど
それなりに みんなは満足そうに見え
なんだかとってもうらやましかった


 私ってこんなとこにいて
なんだかとっぴな考えを一人持っていて
そりゃあ 幼稚園ママたちと一緒にいたって
話が合う訳もないよなあ 立場は一緒なんだけど
子供を寝かしつけたその後に
誰かは家事をし 誰かは必死でバイトを探す
そんなママたちがいる中で
私は必死で研究だったり フランスに関することをして
なーんか私って おかしいんだわと
今更だけど 気づいてしまった
そりゃ 居心地も良くないだろう。。。



 今までは 合わせなきゃ と思っていたけど
もうそんな生き方はやめにしようと私は思い
そうしたら もちろんここでは孤独を味わうしかないけれど
どっちにしたって ずっと孤独を感じてきたわけだから
たいした変化はないのかも。


 私はもっと 自分らしく生きていたい
蓮太郎と二人でいると そういう集まりにいるときよりも
もっと自然でバカになれるのは 誰かに合わせて
それらしく振る舞う必要がないからだろう
自分らしく生きること って ここではとても難かしいけど
私にも未来と希望があるのなら 私はそこに向かいたい
だから仕事をしなければ、、、

サードプレイスコレクションから一年

2011年01月24日 | サードプレイスとしてのカフェ


 昨日は昨年六本木で開催された「サードプレイスコレクション
というイベントからはや一年が経ったらしくて
その時の画像をまとめた映像が送られてきて
みているとなんだかとっても感慨深い。

 そっかー あれから一年 経ったんだ。


 私にとっては昨年の後半6月以降は
何がなんだかよくわからない怒濤の半年になっていて
今朝蓮太郎とマイケルジャクソンを聞いたりしてたら
ああそういえば あの時私はとてもマイケルにはまってて
やたらと"Man in the mirror"がお気に入りになっていたから
サードプレイスコレクションの時ですら、私の
発表の時にはこの曲を流してもらっていたんだな。


 よくよく歌詞をきいてみる と
私はこのChange!!という感じが好きだっただけの
つもりだけれど 世界を変えたいと思ってるのなら
まずは鏡に映っている自分自身から変えることさと
言っている。そうそして 気がつけば
私の人生はなんだかぐわんと変わってしまって
それも私が無意識で強く望んでたからなのかしら と
なんだか感慨深かった。


 あのときは 私の人生にキラキラ感も
パーティみたいなものも 華やかさも
東京の街も存在だってしていなくって
自分のノートに「そういうのに触れたい!!映画とか」と
書いてある。本当に遠い存在だった
架空のように見えた世界は
何故だか今は 現実のものとして存在していて
それが本当に不思議だなあ


 子供を産んだばっかりのとき
東京の街があまりに遠くて 実家にお見舞いに来てくれた
友人たちから「丸の内」とか「表参道」という
言葉を聞くだけで幸せだった。いいなあ いつか
いけたらなあ と 心の底から強く望んだ。
渋谷にだって行けなかったから 友人に
お願いしてDEAN and DEULCAのバッグを買って来て
もらったりした。それくらい遠かったのに


 いつしか私は 子供がいるのに

 前よりもっと 東京に行くようになってしまった

 神保町にも 代官山にも 渋谷や表参道だって?
なんだかとっても不思議な気分で それもあのとき
強く望んだからなのだろうか


 パリも映画の世界みたいに キラキラしていて
アッハッハと笑っていられる そんな世界も
あまりに遠くて喉から手が出るほどにうらやましかったけど
なんだかんだで体験できて その世界も
かつて「本当にパリなんてあるんだろうか」と思ったほどには
遠かった訳でもないようで なんだかとっても不思議だなあ


 サードプレイスコレクションも 同志社の上田先生の
Party for the futureも とってもなんだかキラキラしてて
今になったらわかるけど あれは外国の雰囲気なんだ。
日本にはなかなかないけど 日本の外に存在している
楽しくって クリエイティブで たくさんの人と
語り合える そんな素敵な社交の場としてのサードプレイス
そんな場 が 外にはあって それを知っている人たちが
「じゃあ日本でも」と年に一回 もしくは一度きりかもしれないけれど
やってみようとしてみた場 で それらは本当に異なっていた。


 私もいつか あんな場を 恒常的にキラキラしている
沢山の人がいきいきと語り合える そんなカフェのような空間を
いつか日本につくるのだろうか それが東京にあったなら
とても素敵だと思うけど 今はまだ 私は吸収していたいし
それらを書いていたいと思う だけどいつか
そんな機会が訪れたなら 沢山の人が私に尋ねた
「またいつかカフェをやるんですか?」という
そんなカフェ が そこにしかないサードプレイスができたなら
私は幸せ なのかなあ? 今はまだわからないけど
何かに強く憧れること で 何かが起こることもある
だからその夢も いつかに備えて保っておこう。

困難な道

2011年01月20日 | 私の人生


 今年のはじめに色んなことを考えて
よし やっぱりがんばってみよう
どんなに困難が待ち受けてても と
思ったものの 日本に帰って早速困難に直面すると
ついつい気持も折れそうになり いや、だけど
ここまでやってきたんだから!と
なんとか自分を奮い立たせたり。


 それでもやっぱり 母であり
しかも子供は保育園にも通っていないという立場で
何事かをしようとするのはあまりにしんどい状況で
だって子供が寝たあとに ハア と息つく暇もなく
やれ翻訳だとか 研究だとか あれやこれやを
やってると なんだかちょっと道を間違えたような
でも間違ってなんかいないような
だけどちょっと愚痴をもらしたくなるような
でも前の生活になんて二度と戻りたくないような
なんともいえない ちょっとため息が漏れてしまう。


 フランスで あの時感じた
なんとも近いようで深いような溝というのは
飛び越えようとしたときに 飛び越えられるものなのだろうか
えいやっと 踏み込んでみたら 意外と飛べる
そんな気だってしたのだけれど
踏み込むまでには ちゃんと飛ぶには
長い助走がもっと 必要とされてるのかもしれない。


 それでも私は色々あって
一年前の自分からしたら驚くくらいに変化をしてて
一年前のこの頃は 未来がみーんな灰色だった。
希望なんてもってなかった。フランスだって夢のまた
夢だったけど 意外なことにフランス語もかなり
上達できたし メールも毎日チェックできるように
なってるし 世界がそんなにもう遠いとは
思わないようになってるし だからすごく進んだ訳で
ただちょっと 前に進んでゆくというのが
道を切り開いていくというのが ちょっと勇気がいるだけで


 もしも色んなことが実ったら
これまでやってきたたくさんのことが
少しずつ日の目を見たら 三十代は
もっと笑っていられるのかな
そんな可能性を感じられたから
私はそれらの事に対して 手を出して
歩を進めてきたわけで どうなってくのか
うまくいくのか そんな保証はないけれど
どうせ何も持っていないなら
私には信じるしかなくて
夢見る 信じる 実現していく
そんな生き方がもし可能なら
なんとか私はやってみたい。

散歩の同伴者

2011年01月17日 | 子育て


 かつて一年前くらいだったか
この同じブログで同じタイトルで文章を
書いたことがある。東京を一緒に楽しく
散歩ができる そんな散歩の同伴者が欲しいだなんて
書いたような気がするけれど
だからといって誰もそんな人が現れることもなく
ただの自分の気持の表現で終わってた。

 けれども今日久しぶりに会って喜んでいる
息子ともっと時間をとろうと 家にいたって
仕方がないから そうだもっと日本を探ろう
探検をしよう 下町に、、、と思って
実家から一番近そうな下町を探し
三軒茶屋に行ってみた。


 息子との二人旅。息子はなかなか
よくできていて何週間か母がいなくても
淋しいと泣くこともなく かといって帰って来ると
ものすごく幸せそうにしてくれていて
母がぐうたら寝ていても その横で
静かに遊んで起きるのを待ってくれてたりする
そんな心優しく理解力のあるわが息子 は
母に似たのか探検もなかなか好きらしく
「探検する?」ときいてみると いつも「する!!」と
即答で 実家に来ると私は東京に行きたくなるので
「よーし東京探検しよう!電車に乗るよ
電車ではどうしてるの?」「じっと座ってるの、、、」
「ちゃんとできる?約束ね!」というわけで
お昼過ぎから下町探検に繰り出した(息子2歳半ですが)


 三軒茶屋に着いてみて 私としては
ただ「人が集まる」場所というか
なんとなくにぎわっている そんな場所を
のんびりと歩いて誰かに声でもかけてもらいたい
そんな程度の気持しかなく 道の文化を
感じたいなと思ってやってきたのだけれど
のんびりと歩くといっても 歩行者天国なわけでもなくて
ちょっとどーするかなあという感じ。


 しばらく行くとわが息子はチンチン電車の絵をみつけ
「これ乗りたい!!」と言い出して それならば
乗ろう これならお金もかからないし と
お寺を見学してみたあとで 世田谷線に乗ることにした。
世田谷線は区間均一で1回140円なのだけれど
一日乗車券は320円で売ってるらしい。
それなら40円の違いだけだし せっかくだから
買ってみるか と 2時間も乗る予定もないというのに
買ってみて 息子はとっても大喜び。
私は旅が大好きで 息子は路面電車に乗りたくて
なんだか興味が一致したようでちょっと嬉しい。





 それからどこに行こうかと考えたけど
けっきょくいつもの知ってるところでボロ市の開催される
駅で降り ちょっと歩いたら「地域住民のための
まちもりカフェ」というのを見つけ ほほー
これはサードプレイス、コミュニティカフェだな!と気がつき
蓮太郎もいることだし(子育てについても書いてあった)
ここはちょこっと勇気を出して ここの扉を開けてみよう。
(パリでの勇気に比べたらこんなのかなり平気になった!)

 何食わぬ顔して「ここはカフェなんですか?」とか
聞いてみて お手洗いを借りたりしてたら おばさんが
コーヒーを入れてくれ そこにいた人とおばさんと
世田谷線の変遷についての話をしたり、蓮太郎が
欲しいというから世田谷線の絵の描かれた箱に入った
羊羹を買って食してみたり。蓮太郎には昨日
長野から送られて来たばかりだというりんごジュースも
サービスしてくれ、我らは世田谷線情報を得て
それなら豪徳寺に行ってみようということになり
そこを出た。いやあ こういう場所 いいですねえ




 ちなみにこのカフェはカフェといっても非営利で
商店街の空き店舗対策で始められたものらしい。
そういう使い方っていいよねえ。奥の部屋は
託児所になってるらしく、1歳くらいの子たちを
1時間から預かれるようになってるようだ。
こうやってちょっと旅人が来たり、お年寄りや
子供やちょっと暇のある人がきたり
そこで自分のもってる情報や提供できるものを
交換しあう そんなカフェって本当に素敵だと思う。
(ちなみに飲み物は無料で提供してくれ、運営費は
世田谷線グッズとかの売上げでまかなっているそうです)


 カフェ慣れしている息子とともに
ちょっとそんな場のあるところを探検しにいく
そんな旅 も いいかもなあ。


 豪徳寺を歩きながら


 ああ世田谷の この夕暮れや
このお寺の感じ 高校の時から歩き尽くした
東京の美しく なんだか切ないこの夕暮れ時を
私はずっと一人で歩き続けて
下町のガイドなんかをみてみても
柴又以外はほとんど行ってて
かなり遠くまで歩いてる。
だけどその時 同伴者なんて誰もいなくて
私はずっと一人で歩いてた。
授業の早く終わった午後に東横線に乗った後
たくさんの街を歩きに行った
どうしてあんなに 東京の街を歩いていたのか
そして一人で切ない気持になっていたのか
私にはよくわからないけれど

 今ここに一人 自分の後ろに
小さな子供が一人いて
それなりに一緒に楽しんでくれていて
それなりに歩いてくれる人がいる。
この先も こうして散歩をしてくのだろうか
誰かと一緒に?息子と一緒に?
そうしてその嬉しそうに笑う子供は
いつの日か こんな母のもとに生まれたことを
よかったなって 思ってくれる日もくるのだろうか
いまのところは 幸せそうにしてくれてるけど
悪い母でごめんねと思うことも沢山あるけど
こんなお母さんだったからこそ
おもしろかったといつの日か 思ってくれたらいいけどなあ


 この先も こうして街を 歩いて写真をとるのだろうか
彼と一緒に?誰かと一緒に?もう一人ではないのだろうか
私は心の奥底で 誰か一緒に歩いてくれる
そんな人を求めていたのだろうか 私にはよくわからないけど
パリの空 も 東京の切ない夕暮れもそれぞれにとても美しく
私に役割があるのなら 私は自分が美しいと思ったものを
この世にもう一度残していきたい
忙しく生きてる人には気づく暇もないような
そんな世界が実はあること
そんなことに気づかせることが
通常の世界で生きられない人に
課された役割なのかもしれない。

驚きのある生き方

2011年01月16日 | インフォーマルパブリックライフ


 フランスにいるときは お腹が消化不良を
起こしていたのか 気候のせいだか やけに
日本食が恋しくて もうこの地になんて
住めないんじゃないかと恐ろしくなってしまうほどに
日本のご飯が食べたかったけど 帰って来て
母の和食を食べてみる と 今日なんか
マグロのづけ丼だったりしたわけだけど
どういうわけだか かの地で想いをはせていたほど
感動するわけでもなくて 美味しいんだけど
お風呂というのもありがたいけど なんだか
とても 日常というか なんだかけっこう 変な感じだ。


 本当に私ここにいるのかな って
ずっと変な気持ちのままで メトロから
エッフェル塔を通りすがりに見つけたときも
メトロで乗り換えをしているときも
街にいっても すぐにあのカフェはここだってわかるのに
それくらい パリの地理は 私の中に
刻み込まれているというのに
それでもなんだか ずっとすべては信じがたくて
本当にここにいるのだろうか、、、と思ってた。


 それは私がどこかで 私にとっては
ため息をついてる程度の日常がお似合いなんだと
思ってしまっているからなのか いつだって
一人で河岸を歩いていたって キラキラしていた
あのパリのまばゆいばかりに美しい景色というのが
そこにいたって あまりに遠かったからなのだろうか。


 けれども出発する前に 数少ない、パリ行を
知っていた友人の一人がこう言っていた。
「美樹ちゃんは私の友人の中で一番夢に近い位置にいる
人だからがんばってきてね」と、、、 一番夢に近いって
一体何なんだろう 夢って一体何なのだろう
それは描いていいものなのか 恐ろしいものなのか
まだ私にはわからない。だって私も 怖いから。


 何か変化を起こすというのは 本当に勇気のいることで
勇気がいる というのは 怖さを知っているからで
何も知らなかったら勇気もくそもないのだけれど
ちょっと分別がつきはじめると すべてが怖くなってくる。
それでも何かを手にしたかったら?
飛び込んでみることなのだろうと思うけど。



 本当に夢に近いのかななんて 大晦日の日
沢山の人が集まる友人の家で考えていた
そこに来ていた日本人の人に なんでパリに住んでいるのか
聞いてみたりしてまた色々と考えて
パリにあるもの 日本にあるもの
それらはそれぞれ違うけど
ここに住んでる日本人の女の人たちは
私が抱えてる言葉にならない苦しさを
理解してくれ それを表現してくれる。
そう ここには 大変なことも山ほどあるけど
自分らしく 生きていられる そういうところが
違うのだろう。


 ところで行く前も帰ってからも
日本にはなんだか安楽なぬるま湯な生活があり
日本語だって全部わかるし スーパーに行っても
何を買えばいいかわかるし それなりに長いこと
生きてたし なんとなーく わかってて
(かといってフランス人に説明を求められると
説明できない)なんとなーく 心地よい。
そりゃあ 生まれ育った国だもん。


 とはいえそこには驚きはない。
驚きがないなら感動だってあまりないと言えるだろう。
パリに生まれ育ったパリジェンヌたちが 生活に
あまり満足をしていないのも その生活がもう
単調で いつものご飯のことくらいしか頭になくって
代わり映えしない そうなってくると生活は
つまらなくなるらしい そこに変化をもたらすものは?

 昨年のパリの哲学カフェのテーマだと

 それは詩であり哲学だそうな。


 詩や 哲学は 単調で何の疑問も持たない
代わり映えしない日常に ハッとさせられる問いを
もたらすそうな。考えもしなかった そんな見方があるのだろうか?
そういう風に日常に驚きを与えてくれる
芸術だってそうだろう。芸術家たちは
驚きのある生き方を好んでいった。
だってその驚きからこそ インスピレーションが
うまれるわけで(まさにシュールレアリストはそう言っている)
それがある生き方と 単調な毎日の繰り返しで
日々階下にゴミを捨てに行く生き方だったら
(これは若かりし日のボーヴォワール)
どちらの方がいいのだろう?


 圧倒的多数の人は 普通の日常が幸せなのだと
言うのだろうけど 私にとってはどうかなあ
フランス語!!!の生活は わからないことばっかりで
映画とかみるたんびに嫌になるけど それでも
とっても面白かった。かつて浜名湖ユースで毎日のように
お客さんとカフェで議論していたけれど
パリでも毎日毎日議論をしてたし 毎日毎日学んで行った
それは面白かったなあ それってなかなかできない経験


 子供を産んで私は思った

 面白い人が集まるようなカフェが隣にある生活と
単調な日常の繰り返しだけがある生活と
どちらかがあるというなら 私は面白い人が
集まるカフェの隣に引っ越したいと
だってその方が面白い。


 人生のおんなじ時間 同じ2年間や3年間を
ぼーっと過してしまうのと 刺激的に過すのだったら
私は刺激がある方がいい。きっとそうなんじゃないかなあ


 私は大学教授でもなければ学生でもなく
何にも属してなんかいないけど そんななんの身分も
持たない私にだって たくさんの面白い議論や出会いが
開かれていて それらはお金がかからなかった。
対話をするのに4千円とか そんな高いお金は払えない
私にとっては パリのように誰かと議論や濃い話をするけれど
払うのはお茶代くらい(しかもたまにごちそうしてもらえたりする)
そんな街 が やっぱり私は好きだなあ、、、

日本とフランスの相互作用

2011年01月15日 | フランスあれこれ


 フランスに行ってパリに住んでるフランス人と
話をするたび「日本いいじゃーん また行きたい!」と
強く言われることが多くて なんだか
とっても面白かった。先日ははじめてフランスの
マクドナルドに連れて行かれ、へー、グルメな人でも
マックとか行くの?!と驚いてたら
こちらのマックは全て国産素材らしくて
たしかにお肉の味も、パンの味もしっかりしてて
なかなか美味しい。これなら行ってもいいかもなーと
思ってた。(ちなみにMac Cafeというところでは
なんとマカロンが売られてた!)

 
 そうかフランスのマックはけっこう美味しいんだな
そんなことをフランス人の友達に話していたら 「だけど
私の息子は日本に行った時に日本のマックが最高だ!って
言ってたわよ けっきょく自分のところにないものが
よく思えてしまうのよー」と言っていた
(彼女はなんでパリに吉野家がないんだろうと嘆いてた
ちなみにパリのユニクロは大盛況!!)



 「あなたたちは どうしてこんなにきれいで清潔な
国に住んでいるのに フランスなんかに憧れるの?」と
5年前にフランス人をガイドしたとき、隅田川のほとりで
言われたその言葉を今でも覚えてる。
確かにね 空港に着いてみるとそのきれいさに落ち着いたりして
トイレにとりつけられた様々なボタンは相変わらず
意味がわからないままだけど 日本のトイレの床には
トイレットペーパーは散らかっていないし 落書きもない。
パリのシャルルドゴール空港といったら エレベーターは
壊れているわ 自動販売機は壊れているわ 電車は
時間通りにこないわ 機関銃みたいなのをもった兵士はいるわ
市内にいく切符を買おうと思ったら 切符の自動販売機も
壊れているわで あまりにも観光客に不親切。。。
どーなってるんだ この国は!と思うけど
なんで惹かれてしまうのかしら。。。



 日本にいると 日本の道をきれいにするために
ものごとをスムーズにするために私たちが日々重ねてる
沢山の努力があるわけで 道からはずれちゃいけないというか
人がしてるなら私もしなくちゃいけないというか
一分たりとも遅れちゃいけない感覚だとか、
それがあるから 清潔さも正確さも保たれている訳で
日本では「赤信号 みんなで渡れば怖くない」というけれど
パリに行ったらフランス人はすすんで死にたいのだとうかと
思うほどに なんでこんな車がきてるときに赤信号
横断するの?!というようなことばっかりしてる。
あれも不思議でしょうがない。私もだいぶ慣れたつもりでも
やっぱり怖くて渡れない。それに対して日本だと
車が全く来てなくたって 普通の人は青になるまで
ちゃんと待っているもんね その横を平気な顔して
ベビーカーを押して通る私もどうかと思ったりするけれど。


 日本とフランスは 似ているように思える点も
たくさんあるけど でも根本的に 根底的に
異なっているように私には思えて仕方ない。
日本では有給休暇なんて1週間とれればいい方で
もし2週間も休みがあったら「すごいね!」ということになる。

 それに対してフランスは法律で定められた休暇が5週間。
もちろん彼らは全部使い切るのだけれど それだけでなく
なんと最近は35時間労働の法律のおかげで
金曜日のお昼すぎには仕事が終わる人たちが沢山いるらしい。
そういう方法かもしくは39時間くらい働いて 月曜日か
金曜日をまるまる休む そんなことも可能らしくて
1ヶ月のバカンスが普通なのだけど いろんな休暇を足してくと
なんと2ヶ月とか最高では4ヶ月まで休みの人がいるらしい。
(ちなみに4ヶ月とれるのは学校の先生で 日本の学校は
部活があるため1週間もとれないのがほとんどみたい)
そして彼らはこう言っている「2週間しか日本に行けなくて、、、」
いいですねえ、、、



 あー フランス人に生まれたかった!と何度思ったことだろう


 でも何年か前に友人が「美樹はフランスに生まれていたらきっと
日本がいいとかいって やれ禅だとか和食がいいとか言ってるだろうと
思うけど、、、」と言っていた。それをきいた友人たちはみなで
くすくす笑い合ってた。まあ本当にそうでしょう。
そしてそんなフランス人も沢山存在してて
パリに生まれてパリジェンヌになったからって幸せなわけじゃないんだなー
そういうことは今回すごくよく学べて収穫になった。
というのも「フランス人は決して満足しない」とよく言われるけど
(それは日本のように「もっと良くしよう!」というより
雨が降ったらやれ雨だいやだなあといい 晴れたら太陽が暑いという
そんな感じです) 特にフランス人女性はなかなか満足しないらしい。
映画なんかを見ていても やたらとこわい人たちが多く
ああ そういうことか、、、と思ってしまう。


 フランス語でため息って何て言うの?と聞いてみたところ
そんな言葉はなかなかみつからないらしく ええ何で?と
思ったけれど 日本人は 苦しい時に苦しいとも嫌だ!とも
なかなか言えず それをためこみ、それがため息に
なって時折漏れてしまうんじゃないかと思うけど
あちらの人たちはネガティブな感情を表現する言葉を
やたらと沢山もっていて ネガティブな感情をもったその時
その場で 言いたいことをいってしまうから
ため息なんてつく必要がないのだろう と私は解釈したのだけれど
ため息だったり 苦虫をかみつぶしたようなような表情や
何かを飲み込んでとりあえずつくってみた笑顔の代わりに
彼らはバンバン吐き出していて だからフランス人女性は
ちょっと怖い存在なのだろう。どちらがいいとかじゃないけど
その中間があったらいいのに と 私はいつも思ってしまう。


 日本にもフランスにも お互い学ぶべき美点があって
それをもう少し大切にして 生き方に活かせていったなら
もうすこし 生きやすくって調和のとれた そんな世界が
あるのだろうか。 フランスは知れば知るほど面白いけど
消化不良を起こした私の胃袋は 日本の昆布と鰹の出汁をもとめてて
日本とフランスを頭の中で行ったりきたり
相互作用をさせてみること そうして何かを書いていくこと
それが私にはきっと合っているのだろう。

食と議論を楽しむ文化

2011年01月12日 | フランスの食文化


 昨日の夜はParis-Bistrot.comの
ディレクターのお家に夕飯を食べに行き
「ところでミキ、どうやって帰るの?」
と聞かれた時にはもう24時になっていた。

 ひゃー!!23時くらいだと思ってたのに
20時すぎに事務所に行ってから、気がつけば
4時間も経っていて なんだか沢山しゃべったものだ。



 正確にはよくわからないけど
おそらく私が思うには パリではディネというのが
大切で ディネというのは夕飯をともにすることで
ディネに招かれるというのは親密さの証なんじゃないかと
私は前から思ってる。というのも留学時代には
そんな経験は全くなくて 初めて知り合いの人の
ディネに招かれた時はとっても緊張したからだ。
ディネでは何が大切かって それは話をすることで
フランス人のお得意の議論になったときに
自分も話ができるかどうか それがとっても大事なのだけど
はじめてディネに招かれたときはほとんど何も
しゃべれなかった。だってスピードがすごいんだもん。


 その時は私の知らない人の家だったし 招かれた人も
6人くらいいたわけで はじめてにしてはハードルが
高すぎたのだろうと今になったら思うけど
昨日のディネはとっても楽しく アハハ!!と笑えて
面白かった。


 私はフランスの何が好きかって 適当なところ
ご飯とか 食べてもいいけど お腹減ってないなら
食べなくてもいいんじゃないとか
フランス人が日本に来ると 蕎麦屋に連れて行ったのに
あえてたこわさやきゅうりのつけものや豆腐だけを食べたりだとか
普通は定食を食べるというのに「刺身だけ食べたい」だとか
そんなの昼の12時にありなのかよ!ということを
平気でやって 度肝を抜かれることがある。
そして彼らは平気な顔してこう言ってくる
「だってお腹空いてないんだもん」
あ そうですか、、、、


 お腹が減ろうが減るまいが お昼になったらご飯を食べる
自分の都合はどうであれ 夜になったら夕飯をつくる
そういうものだと思って縛られていた私にとっては
あまりのフランス人の自分本位な考え方に
たまについてけないと思うけど でも
どちらかといえばこっちの方が合っていて
日本でいつも 誰かを気にして、でも出来なくて
非難されてるように感じているより
ああそっか お腹へってないのか ならいいか
それでも生きてられるんだ、、、と思ってる方が
私には心地がよいみたい。


 日本で主婦をやってると それこそ
マクロビオティックの本とか読むと
「あれもだめ これもだめ こうしなきゃ
きちんとできない妻はだめ!」という感じがしてて
私は読むたび「そうかー じゃあがんばらなくちゃ」と
思わされ そのあとでまた激しく葛藤したりする。
(ちなみに私の本『cafeから時代は創られる』は
愛知県の吉村医院という超有名な自然分娩の
産婦人科に見学に行ったあとに、でも私は
母にだけなんてなりたくない!と家に帰って号泣し
その葛藤がもとで執筆することになりました)


 でもこちらにくると 例えば日本は1日30品目
食べましょうといっているのに(そしてうちの母は
それを守る感じの人なのだけど)こちらでは果物も含め
1日5品目は野菜を食べましょうと言っている。
日本人からしたら笑っちゃうけど そんなのでも生きている。

 それだけでも笑い事だけど ロンドンに行って来たばかりの
フランス人が「イギリスの料理なんて最悪だよ!
あいつらは料理なんてしないんだ」と言っていた。
「スーパーにいってもほとんど出来合いのものか
冷凍食品ばっかりで お菓子なんてめちゃくちゃ甘くて
食べられるようなもんじゃないんだ。 お昼には軽い
サンドイッチとかを食べてね 3時になったらお茶とお菓子で
また夜になったら軽食とお茶とお菓子なんだよね。
イギリスはお茶はいいけど それがなかったら
ひどいもんだよ!」と言っていた。


 お茶の文化があるっていいじゃん
この間イギリスの映画を見ていたら
ゾンビの出て来る映画なんだけど
ゾンビ退治をしてる間ですら彼らの一人が
「まあお茶でもしよう」といってお茶を
しながら作戦会議を練っていた。
これはかなり笑えるシーンで
そんな文化はいいと思うけど
そうかイギリスってそんな食なんだ。
それでも人は70歳くらいまで生きられて
違う幸せがあるのなら 私はそれでいいと思う。


 日本では「食で全てが幸せになる!日本食最高!」という
教えみたいなのがあるけれど 確かに日本食は
素晴らしいけど その玄米菜食とかを守れば
本当に幸せになれるのかって 私にはそうは思えない。
食はいのちかもしれないけれど
食だけがいのちじゃないよ。
食は本当に大切だけど 食を彩る
関係性とか 会話とか 楽しみ方とか
そういうものが 本当はもっと大切で
玄米を黙々と50回かんで食べてれば
それでハッピーになれるかって 
私にはどうもそうとは思えない。


 世界にはもっと違う生き方があり
もっと違う人生の楽しみ方があるようで
いくらおいしいご飯があっても
そこに楽しい会話や楽しい関係性がなかったら
楽しい時間は生まれない し
身体の細胞もそんなに喜んでいないんじゃないのかな

 フランスのディネの文化やかつて存在していたらしい
週末に長々と昼食をとる文化 は おいしいご飯は
もちろんだけど そこでの会話をいかに楽しむか
誰がいれば面白いのか どんな雰囲気に
したらいいのか そういう食を中心にした
場づくりという感じなのかな

 昨日は6ヶ月前に比べて 私もだいぶ
言いたいことが言えるようになったみたいで
一緒に笑えて本当に嬉しくなった。
美味しい物を食べながら 時間をかけて
会話をしたり論じたりする それって
本当に素敵な文化。飯田家はお正月に
親戚で集うとおせちのまわりで4時間くらい
話してた。そうしてイギリスのお茶を飲みながら
ずーっとしゃべる。私はそこにいるのが好きだった
私もいつか仲間に入りたい
私もいつか議論がしたい
そう 思っていたのかな。


 もっとフランス語がしゃべりたい
もっとフランスでしゃべっていたい
日本のことも大事にしながら
もっとちゃんと勉強しながら
だけどここで論じていたい
ここでいろんなことを考えていたい
日本語もちゃんと大切にして
考えたことを日本語で日本の人に伝えたい。
フランスはバラ色なんかじゃないけれど
悪いところも沢山あるけど
もう少し日本とフランスの中間くらいの
思想のバランスがとれたなら
かなりいいのだろうと思うのだけど
だから私はもっと知りたいしもっと書きたい。





 「次はいったいいつ来るの?」

 「次会うことはあるのかな?」

 そう言われる度 苦しいけれど。

 戻ってこよう 私はここに戻ってこよう

 だってパリでは ちょっと散歩をしていたら
あ!と ロダンの彫刻に出会えたりする。
しかも私の大好きなやつが 偶然目の前にあったりもする
沢山の芸術家たちがパリに来て
ここだと思って そこに居着いた
今おもしろいのはベルリンなんだよと昨日言われてしまったけれど
でも私はパリにいるのが好きだなあ

 何がどうなってくかなんて
まだまだわからないけれど
きっと神様がいると思うから
私はやっぱり ここに戻ってこようと思う。

人生の味

2011年01月11日 | 私の人生


 私がかなり好きになって共感してた映画
『幸せのレシピ』というアメリカ映画は
フランス語のタイトルになると"Le goût
de la vie"というんだそうな。

幸せのレシピ 特別版 [DVD]
キャサリン・ゼタ=ジョーンズ,アーロン・エッカート,アビゲイル・ブレスリン,ボブ・バラバン
ワーナー・ホーム・ビデオ




 日本語にすると人生の味といったところで
フランスではこの「味」という言葉は
とっても味わい深い。



 日本にあまり存在しなくてフランスで
よく見る言葉 よく聞く言葉を3つあげるとしたら
私としてはdésirとplaisirとamourかしらという感じで
訳してみると「欲望」と「快楽」と「愛」なのだけど
これらは広告なんかをみててもいろんなところで
目につくもので なんだかとてもフランスらしいと
思ってしまう(「愛」については哲学カフェでも
よく議論されていた)


 ところでフランスの味の1つに私は
快楽の味があるんじゃないかと思うようになってきて
クリスマスにいただいた鴨の料理も クレープと一緒に食べた
甘ーい蜂蜜も、レストランでエスプレッソに添えられていた
おいしいトリュフもなんだかみんな 身体が溶けてしまうような
美味しさで これを快楽の味というのかも、、、と思ってしまった。
それって甘いからなのか その甘さが絶妙に心地よいからなのか
それはわからないけれど こういう味って
あんまり日本で経験したことがないような
口にした瞬間に 表情がぐっと変わってしまう
そんな美味しさが存在してる。

 それはみんなと一緒に楽しい時間を過したからこそ
そう思えるのかもしれないけれど 日本のご飯も
美味しいけれど こんな快楽の味みたいなのはなかなかなかった
これっていったい何なんだろう、、、とちょっと気になってしまう。



 最近はお腹の調子もよくなって
よしやっぱりフランス料理だ!ビストロの仕事もしているわけだし
と なるべくフランス料理を食べていて 今日は念願の
ビストロらしい大きくて素敵なビストロに行き
ワインと鴨のコンフィイと それからにんじんの千切りにしたのを
頼んだけれど どれも安くてかなり美味しくて
沢山の人でめちゃくちゃにぎわっていて 本当に
素敵な雰囲気だった。日本でいうと銀座ライオン?
もっと日本的にいえば居酒屋でわいわいやってる感じ?
そういう文化にちゃんと根ざした そんな場っていいなと思う。


 フランスは 日本料理のさっぱりしたのが恋しいけれど
でも絶妙に美味しい物はなんでも美味しい。生ガキだって
安く食べれるし(でも来年からなくなるらしい)
ブーダンという豚の血の腸詰めも想像以上に美味しかったし
おいしいエスプレッソにありつける可能性はかなり高いし
カフェで朝食をとったとき そこのクロワッサンが
あたたかかったらかなり美味しくて嬉しいし
ああ もうこれ以上食べられない、、、と思いながらも
「やっぱりこれ美味しすぎる!」といってもうひとつまみ
そんな生活がとても楽しい。ここは美味しい国なんだなあ


 美味しいものを楽しい雰囲気で食べてれば
それだけで幸せなのかもしれない。
フランスには サードプレイスだけでなく
人が集まる場所があり 人が集まる文化があって
人がそこに集っただけで なんだか雰囲気が楽しくなれる
そこでわいわいした雰囲気に囲まれて
お酒を飲んで話していたら なんだかそれだけで楽しい気分
ビストロは日本の居酒屋に近いのだろうか
「サードプレイス」のある暮らし 
それから「人が集まる」ことのある暮らし
それはきっと 日本でもあるんだろうと思うけど
何が一体違うのかしら?たまには居酒屋にいってみたいな
(ちなみにパリにも日本風の居酒屋があるみたいです)
もしかして、古い小汚いような居酒屋にこそ
ヒントが隠れてるのかもしれない。
いいなあ 研究と称してお酒 飲みたいなあ。。。

日本食のソワレ

2011年01月09日 | フランスの食文化


 昨日は前回パリに行ってから圧倒されて
思い出に残って仕方なかった人のお家に
遊びに行って みんなで日本食を料理して
めっちゃフランス的な雰囲気の中
シャンパンやらワインを飲んで デザートには
プラムを浸けた消化によいというお酒をまた飲み
食べてみたかったガレット・ド・ロワというお菓子も
食べて 本当に素敵な夜だった。


 いやあ 天国みたいだね、、、と
ご飯を食べたみんなで言ってて幸せで
こちらにきてから 幸せとか天国みたいとか
夢みたいとか 人生は意外と悪くないとか
それどころか美しいとか そんな言葉を発してる。


 パリに住みたい と思うもの の
私には大きな難問があり まあいろいろ
問題はもちろんあるのだけれど
大丈夫かな と思うのが 日本食がめちゃくちゃ恋しいことで

 チーズもワインもハムもたくさんのお肉もある国で
私は最近揚げ出し豆腐が食べたいだとか
お雑煮がたべたいだとか いんげんのごま和えが食べたいだとか

 そんなことばかり考えていて

 これを読んでる人からしたら
バカみたいに思えるだろうけど
こちらはけっこう重傷です。。。


 昨日の夜はその家に住んでる日本人の子と一緒に
日本人街を歩き廻って食材を物色し
ごはんにあら汁、かきあげに唐揚げに大根サラダに
餃子というメニューになった。そしてそのどれもが
美味しくて 私もぐわーとつくっていって
そのスピードをちょっとほめてもらえて
ああ日本で主婦をしてきたのがここで活かされるのかも
とちょっと思えて嬉しくなった。


 またしてもこちらでは「なまけものとインテリジェンス」の
話をきいて なまけものであるためには頭を働かせないと
いけないからそれは両立可能なのらしく
人間はなまけものでありたかったから食器洗浄機や
掃除機を発明したんだよ そうだろう?と言われてしまう


 私の方も主婦をしながら 自分の時間は絶対に確保
したかったから 外に遊びにいってもなんとかご飯が
つくれるように 子供が6時過ぎまで寝ていてその時間
研究に費やしていてもなんとかご飯が間に合うように
結婚してから3年間で ずいぶん手際がよくなった。
そんな技術はなまけものでありたかったから手にいれられた
わけだけど そんな私程度の技術でもここでは
みんなにほめてもらえて なんだかとっても嬉しいのです。


 料理って 何でするのかなと思ってたけど
10年前にはほとんどできなかったけど
技術をちゃんと身につけたなら 他の世界に行った時にも
それを活かすことができるんだ。日本食が食べたかったら
しかもダシをちゃんとつかった 自分の味が好きなのならば
ちゃんと身につけるしかないなあ


 変だなあ 日本じゃこんなに恋しくないのに
(といってもあまり洋食派ではないのだろう)
だけどそれでも みんなで美味しい!!美味しい!!といいながら
フランス的な雰囲気の中でお酒を飲んで楽しく話す
それは本当に最高だった。これが日本に帰ってあるかというと
それはまったく違うんだよなあ、、、
パリでおばんざいやさんでもしようかなあとか
話をしてて そんな夢想を膨らましていく
そういうこともけっこう楽しい。


 フランスには 日本にはない何かがあって
日本が進んでるところももちろん沢山あるけれど
(ここの子供達はひたすら任天堂のゲームばっかりやっている)
でも考え方、とくに人生に対する考え方は
かなり違ってそれが私には本当に驚かされるし
しかもけっこう納得させられる。


 この国では 楽しそうに生きてる人が
圧倒的に多いみたいで 人間らしく
その人らしく 無理なんかしない
我慢なんて あまり価値観の中に含まれてないようだけど
道にはいっぱいゴミがおちてて 落書きだってすごいのだけど
もっと みんな 自然な笑顔で 好き勝手にやっている


 ああそうか あの人が好きにするなら
私も好きにしたっていいのか
ああそうか お隣さんがうるさくするなら
こちらにもその権利だってあるわけか
ほんならパーティ開いてみるか。そんな感覚。

 全部押さえ込まなくてもいい やりたいなら
やればいい 日本では「自由」というのは
いつも条件つきだけど ここでの「自由」は
もっとなんだか範囲が開けているような
そ そんなのもありなんだ、、、
でも 幸せだったら 楽しかったらいいのかもね
そういうことがいっぱいおこる。

 日本では「せっかくの人生ワクワクして生きる方がいい」
っていう人なんて のりやすさんとか 有名人的な
人しか言わない感じがしたけど こちらでは
「人生一回しかないんだから楽しく生きた方がいいでしょう!
我慢ばっかりして何になるの?」という感じが
けっこうスタンダードな気がしてしまう
飛行機で12時間の遠い異国 は
私の属して来た国と まるで価値観が異なっていて
その2つの中でゆらゆらするけど
けれどもなんだか心地よい。


 この先どうなっていくのかなんて
まだまだわからないけれど
パリの空は今日は青い。とりあえずパリを
歩いてこよう。歩きさえすれば 
パリは 何かが待っている。


ここで仕事ができたなら

2011年01月08日 | フランスへの道


 今週に入ってから私は急に忙しくなり
というのも もう3年以上前から関わっている
Paris Bisrtot.comというカフェやビストロを
紹介するサイトの日本語版をちゃんと作ろうと
こちらの人と盛り上がっていて
12月31日に会った時「来週は美樹のために
あけてあるから」と言ってもらえたからだった。


 日本に帰ったら進まない

 それはよーくわかってる

 こうして隣で肩をならべて

 わからないことを質問できて

 時には写真をみせてもらって

 だからできることがある。


 この時間は絶対有効に使わないと!!!

 じゃないと帰ってからまたどうにもならない。


 というわけで私もかなりやる気をみせて
あちらもかなりやる気になってて
事務所にいって3人で色んな仕事を
一緒に進める。それがとっても面白い。


 昨日は2時半から8時すぎまでずーっと
事務所で仕事をしていて 「美樹は日本人
みたいに働くね!!外にいって楽しんでいいんだよ」
と言われてしまった。今回はほとんど美術館にも
言ってないけど それでもこれが何かの
足がかりになるのなら、いつか美術館にも行けるだろう。
(ちなみに日本人がフランスの企業で働くと
気をつかい働きすぎて後で同僚から嫌がれるように
なるらしい。フランス人が日本企業で働くと
無意味な会議や飲み会に嫌気がさしてくるらしい)

 私にとってはフランス人に囲まれて
(といっても夫婦2人だけれど)パリの事務所で
一緒に働かせてもらえることが 本当にとっても嬉しくて
彼らは日本語は何一つわからないのに
一生懸命想像力を働かせ 日本語サイトをつくってくれる。
この人たちって すごいなあ
そして不思議なことに 考え方とか
もちろん興味も すごく私に合っていて
ここにいるのが心地よくって
パソコンに向かって仕事をしながら
目の前に世界が開けてく 
なんだかそんな気持になって 
私にはそれが嬉しい。


 これまでは 世界が眼の前に広がっていく
そんな感覚はほとんどなかった。
半年前にパリに来た時 はじめて少し
重い扉がギィィと音をたてて少し開き
そこから違う世界が覗けた気がした。
それから次にパリに来た時
もう扉の中にほとんど入ってしまった
なんだかそんな感覚で


 今は眼前に かつて自分が望んでたような
そんな世界が広がっている


 なんだかそんな気がしてしまう。


 自分にできることって何だろう
使命なんてあるんだろうかと 日本でずっと
考えて来た。誰かに問うても 誰も
答えてなんかくれなかったし 答えはいつでも
あいまいだった。 だけど私はここで少し見えた気がした
進むべき道が そう 自分だからこそできること
自分にしかできないことが
なんだか目の前にあるような


 翻訳の仕事をしてて 私は
とっても楽しくて だってそれには
言葉だけじゃなく「書く」技術だって必要で
いわゆる「翻訳文」じゃなくって
ブログのように軽い言葉で翻訳できたら
どんなに面白いだろう。
それなら私がやってきたことも
きっと沢山活かせるはずで

 もし今年 いろんなことが
うまくいったら 私がこれまでやってきたことが
少しは活かせるかもしれない。
写真も絵も 文章を書くこともフランス語も
色々考えて来たことも。


 ぐわーと集中して頭を使って
そんな時 私はうれしい
ものすごいスピードでものを書き
それをまた見直して そういう時
私は本当にうれしくて
それがどんなにしんどくっても
多分私は「母」としての役割に
閉ざされてるより よっぽど喜んでいられるのだろう


 この先何がどうなるか
私にはわからないけど
きっと神様が見守ってくれている
そうじゃなければ こんな変化はおこらなかった
そう思うから もうちょっとだけ がんばってみよう。

パリでものを書いてみる

2011年01月07日 | インフォーマルパブリックライフ



 本当に私ここにいるのかしら と
毎日なんだかとても変な気持になるけれど
本当の私なんて ニュータウンでため息を
つきながら、壁のような団地を眺めて
三輪車を押している そんな私しかないんじゃないか
今は全部夢だったりしてと思うけど

 それでもパリを歩いて行くと
ハッとするほど美しい景色に出会い
こんな世界が21世紀に都市として存続している
それが不思議で それが素敵で胸いっぱいになってしまう。


 パリで誰かと話をしてると
日本に居るより「人生」という言葉を使う。
広末涼子がかつてパリでホームステイしていたところの
マダムと何年か後に ばったり美容院出会ったとき
あまりに驚いたら「それが人生よ」と言われて
感動したと言っていた。そう それが人生よ。
それは'C'est la vie'(セラヴィ)なんだけれど
これは例えば「この間がんばってつくった新年会の
残った料理は結局捨てたの?」と聞いたときに
「うん だってもう変な匂いがしていたからね」
「そっかーがんばってつくったのにね」
「Mais C'est la vie」という感じで 「でも仕方がないよ」
という感じにも使われる。


 辞書でひくと そういう意味になったるするけど
C'est la vieもVie(人生)も奥が深くて
私はフランス人が人生について語るのを聞くのが
とっても好きだ。



 日本ではこれまで私が出会った大半の人は
「人生なんてこんなもん」とか「君は欲張り過ぎだ」とか
「諦めが肝心」的なことを言って来たけど
それに対してこちらの人は 人生は意外と美しいとか
人生ってやっぱり素敵だと思わない?とか そういうことを
沢山の経験をつみかさねてきた後で
もちろん苦しみも経験したけど
それでも人生は悪くない(フランス人は
Pas mal 悪くない というのがお好き
ちなみに私も好きなので共感できる)と
そう言えるのが 本当に素敵だと思う。


 そう 人生は意外と悪くない

 なんだか最近そう思う。


 
 私がやる気そうにみえるからだか
最近はここでも応援してくれる人が増えて来て
みんなと話をしたりしながら「じゃあ3冊目の本は
これを書いたら?」とアドバイスをしてくれたりとか
「やっぱり日本に革命を起こさなきゃダメだよ」と
言われたりとかで面白い。

 世界一早い乗り物で どんなにスピードを出した所で
12時間もかかってしまうほど遠く離れた国だから
あまりにも価値観も人々の行動の仕方も日本と違って
わたしも毎日驚くけれど 彼らも日本の話を聞くたび
驚いている。「どうして日本人は夜の10時まで働くの?」
「家庭はいったいどうなってるの?」
フランスなんか35時間労働の結果
なんと金曜日は仕事がお昼で終わったりするらしい!!
まあそれは家庭にとってはいいのだろうけど
国際競争の枠組みの中ではかなり遅れをとってしまうから
フランスにあった工場もどんどん国外に出て行ってしまい
田舎には若者もいなくなり ビストロもつぶれていってるらしい
何事もいいことばかりじゃないよねえ


 それでもパリは夜の7時をすぎてくと
街中のカフェのテラスに人が溢れて
たのしそうにおしゃべりしてる
それがとってもうらやましい。
そうここは サードプレイスが山のようにある国なんだ。
そしてサードプレイスに集える時間もある国なのだ。

 私には不思議なことに 彼らはそんなに予定が
つまってなくて「じゃあ明後日会おうか?」ってな感じで
すぐ会える。東京の友達はいつも(学生時代でさえ)
忙しいから3週間前には予約しないと会えないのにな
それが私にはどっちも不思議。
そしてカフェで落ち合うと たいしてお金もかからないから
「ああいいよ払っておくよ」とごちそうしてもらえたりする。
これはこの値段だからできること で
街中にカフェがあるパリは 本当に私には素敵な街だ。





 さて そんなカフェ で ついに物を書き始め
先日は念願のモンパルナスのドームにパソコンを持ち込んで
静かな、何の物音もない 穏やかなテラスで書いていた。
ああ ドーム これを幸せというんだなあ
おいしいカフェクレームを飲みながら
街行く人を眺めながら
この大きなテラスに座って
これはやっぱり ドームならでは
代官山のミケランジェロにもいったけど
やっぱり私はドームがいい!!
(ちなみにここはボーヴォワールも常連だった)
と とても嬉しくなってしまう。


 カフェで物を書いていれたら
どんなに幸せなことだろう
それがスタバでも小川コーヒーでもなく
ドームのようなカフェだったなら
どんなに幸せなことだろう
パリにカフェは数あれど 心地よいカフェ
うるさくないカフェは本当に少ししかない
でもモンパルナスは 遠いなあ、、、


 最近は翻訳の仕事もちゃんとしようと
思ってて 昨日は朝から一生懸命集中をして
パリのビストロに関する記事を翻訳していた。
かつて三条でやってたころは 3日も4日も
かかっていたのに いまではなんと1時間くらいで
ガーッとできるようになり しかも翻訳の仕方も
変えて もっとわかりやすく
誰にだって読めるように書きかえていく
そんな作業がまた面白い。
私は書くこと、考えること、議論することが大好きだから
たとえ語学がきつくても
それでも毎日笑っていられる
こんなにわからないことも一杯あるのに
それでもなんだかとても嬉しい
私はやっぱりリベンジしたい
このカフェが山ほどある街で
沢山の人と会話がしたい。
そしたらその先 きっと何かが待っている。

パリから眺めてみる世界

2011年01月05日 | インフォーマルパブリックライフ


 私がこれまで出会ったフランス人は 
だいたいの人がもちろん年上ではあるのだけれど
いつも圧倒的に沢山のことを知っていて
この差は一体なんなのだろう?と
長年疑問に思ってた。

 彼らは世界に関する沢山のニュースを知ってて
例えばヨーロッパでこれから3年間、牡蠣の
赤ちゃんが病気になって、80パーセントの
牡蠣は食べられなくなっちゃうだとか、
蜂が激減してるとか ロンドンの空港が
雪で閉鎖になってたことも 私は出発
前日まで そんな状況さえしらなくて
パリの友達に「大変なことになってるよ!」と
知らされたけど 日本語で調べてみても
ほとんどそんな情報は載ってなかった。


 なんでこんなに違うのかなーと
思っていたら 昨日たまたま2010年の
気候変動に関するテレビ番組を観ることになり
世界のどこですさまじい異常気象がおきていたか
動物達がどんな反応をしめしてるかとか
なんだか『不都合な真実』みたいな番組が
普通にテレビでやっていた。しかもその
映像の美しいこと!!世界中をカメラがまわって
アマゾンやアフリカを映したり
あー 地球って なんかほんとうに大きいんだな
そして本当に大変なことになってるんだな
こりゃもうどうしようもないような、、、
様々な国で大洪水が起こっては人も家も
一瞬にして流されてゆく そしてみんな泣いているけど
あまりにも圧倒的な力の前に 
どうすることもできないでいる


 それでも少し どうしたらいいのだろうと
考えてみると こういう問題を引き起こしたのは
ここで映されていた流されてしまった場所にいた
つつましい暮らしをしていた人たちではなく
圧倒的に「先進国」の人たちの生き方であり
そういうことをうーん うーんと考えていたら
「消費」というとこに行き着いた。


 友人の話によれば20世紀初頭に
今のままでもそれなりに豊かな暮らしだけれど
今の2倍働いて 今の2倍物を買える そんな
選択肢もあると知り どちらにするかとなったとき
2倍働いて2倍消費する そちらの形がとられたらしい

 それで?それで消費して?


 私たちは幸せになったのだろうか


 これ高校のときからの永遠のテーマなのだけど


 大量にものを買って全部自分で満たすこと で

 私たちは幸せに生きてるのだろうか

 そこでオルデンバーグは「ノー!」と言った

 アメリカ人の彼がそんなことを言う
 私はそれがすごいと思う。


 そう 消費して 大きな家を夢に描いて
ソファーを買って 絵を買って 暖炉もあって?
それからきれいな照明もあり すべての料理道具も
そろった家で まさに夢見たような家庭で
人々は幸せになったのだろうか
オルデンバーグは「ノー」だという
だってそこには だれかと交わる 社交できる空間が
なくなっていて 家で社交をすればするほど
見栄をはる主婦はつかれてしまって
壁紙を変え また壁紙を変える
ネバーエンディングストーリー。


 そしてどこかで みえないところで

 深いため息をつくのだろう。



 私は郊外で前より大きい家で暮して
全てそろった主婦の生活を経験したから
オルデンバーグが本で描いた 郊外の主婦達の
退屈で刺激がなくて仕方がないからテニスに繰り出す
そんな気持がよくわかる。たくさんのものを
自分でまかなっていけばいくほど
路上から人は消え 誰かと出会う気楽な機会もなくなっていく
そうして幸せそうな家庭を演じる裏で
どこかで深いため息をハァとつくのだろう。


 世界中のものを使って 
環境問題を引き起こし 大変な状況をつくってる
その張本人の私たち が 消費して消費をしても
実は幸せじゃないんだとしたら
それほど空しいことはない と
私は高校の時に思った。だって報われないじゃないか。
それは個人の問題なのかと思っていたけど
もしかして社会の形の問題や
消費というプロパガンダに
とりつかれているせいであるなら
そこをもっと 考えてみる必要性はあるのだろう


 サードプレイスや地域の拠点の小さなカフェは
何かを変えて行くだろう そういう半公共空間が
もっと利用されるようになったら 個人で
なにも全部もたなくてもよいのだろう
それだけでなく そこに素敵な関係性があるのなら
そしてそれを楽しめるなら もっと人は
外に出るようになるのだろう


 世界はあまりに変わってしまった
だけど何気なく生きてると そんな変化にも気づかない
自分もきっと 他の人たちも幸せになって
環境負荷もぐんとへる そんな生き方
それがあるなら 私はそれを探りたい

哲学カフェで考える

2011年01月03日 | 哲学カフェ


 昨日はブログを書いてる最中 はて?もしや
今日は日曜だし哲学カフェがあるのでは?と
気になって仕方なくなり 書き終わったら
早速検索。すると1月2日だというのにもう
開催されるとのことで。こちらは2日から
働き始めで通常の生活に戻るんだそうな
ちなみに念願の日本文化会館にわざわざ
足を運んでみたところ こちらは日本的で
4日くらいまでお休みらしい。まあそうだよね、、、


 というわけで、書き終わってから急いで支度し
朝ご飯も食べずに出たものの、バスチーユの
哲学カフェについたのはもう10時50分くらいに
なっていて,最近は10時半からはじまるらしい
このイベントは新年早々だというのに
たくさんの人で満ちていた。


 哲学カフェというのはまさにその
バスチーユのカフェデファールというカフェで
私がかつて通っていたパリ政治学院の
先生をしていたというマルク・ソーテという人が
はじめたらしい。日曜日の午前11時から、
ちょとカフェに集まって、哲学的な問いに対して
みなで話し合ってみませんか。
そんな感じではじまってった 哲学カフェは
今では日本にも広まって 特に関西で盛んらしい
(実はまだ日本のは体験したことがありません、、)


 「哲学カフェにいってやる!!」とやけに意気込んでから
もう5年くらいになるのだろうか そういうわけで
日本からほんのたまにしかこれてないけど
もうカフェデファールの哲学カフェには8回か
それよりもっと行っているかも。
初めてのときはまったくもって 何をしゃべってるか
わからなかったけど 前回は意外なことに
だいぶわかって 行く度に語学の度合いが計れるのだけど
今回はかなり難かしかった。
(ちなみに前回のテーマは「詩と哲学」そのあと
シネフィロというイベントで韓国の「ポエトリー」という
映画をみてからそれについて議論もしていた)


 
 今回話されることになったテーマは
「グローバルヴィレッジというものははたして耐えられる
ものなのか?」というものらしく、そもそもテーマが
抽象的すぎてけっこうとらえにくかったみたい。
ってか何それ?聞いたことないですという人もいれば
哲学者たちの言葉をもちだし
それはユートピア的幻想だという人もいれば
そもそもそんなのありえないだろうという人もいるし
あるんだとしたら例をあげてみるべきじゃないか?
でも私たちはフランス人だからあまり中国や
アマゾンのことは知らないという人もいた。


 私はその構想についてはよく知らないけど
話の感じではどうやら哲学者たちが描いた
理想的な場所らしい。村でもあり、かつ
インターナショナルな場でもあり その2つが融合している
そりゃそんな場があったらと私も空想したことはあるけど
現実的にやってみようとして壁にぶちあったったことだらけ。 
で 結局私はパリに来ていて そんな架空の場所について
ああだこうだと論じたりしてる そんなパリのカフェこそ
やっぱり「村」には絶対ないような これこそ
都市の醍醐味なんじゃないかなあと感じたりする。


 私はこの何年か それこそ浜名湖ユースに行った頃から
都市と農村?その中間点?と田舎をもっと面白く?とか
考えては来たのだけれど 去年の2月に東大でeducecafeという
イベントに行ったとき 武蔵野美大の新見先生という人が
これまでのヨーロッパの田舎で起こったアートムーブメントの
話をしてくれて最後に「結局彼らは社会を変えられなかった」的な
発言をされ ああそうか、、、となんだか納得してしまい
それからやっぱり都市に対する思い入れがだんだん
強くなってきた。


 それから先月『人があつまる』というかなり熱い本に出会って
この著者の浜野さんという人によれば 都市と農村は車の
両輪であって 自然が大切だからといって 都市は仮住まいと
考えて 適当に どうでもいいようにつくればいいという
ものではなくて どちらも同じように大切なんだと訴えていて
私はとっても共感し それなら私は都市でいこう、と思ってしまった。
だって都会が好きなんだもん。。。



 さてそんな哲学カフェで 「フランス語をしゃべる
フランス人」が世界に対しての考えを述べてる中で
彼らはすごいなあと思うのだけど じゃあ中国はどうなんですか?
じゃあアフリカではどうなんですか?と思った時に
フランス人が 彼らの視点で旅行して 分析をして
詳しく述べた本はあるけど その国の人からしたら
もしかしてその考え方はちょっと違ってるかもしれない。

 そこで誰かがノーと言えたら?そこで誰かが説明できたら?
そりゃあ かっこいいだろうなあ、、、
私 そんなことがしたかったのかも 
かつて留学していたときに 日本について適当なことを
しゃべる彼らに「違う!!そんなことはない!」と
言いたくって 私は言葉を憶えようと決意したのを思い出す。
それでも実際 言葉だけじゃなく もっと深い理解と知識がないと
結局「そんなことはない」しかいえなくて
理由が述べられないのだけれど


 そんなことを思い出し またギメ美術館に行ったりしてから
やっぱりここで 日本のことをもっと彼らの視点で学んで
(だって詳しい人は本当に詳しいんですよ それに
視点や問いかけ方が全く違うから本当にいつもびっくりさせられる)
それからちゃんと日本のことを説明できるようになり
日本人にも彼らの見方を伝えたり
日本人と議論をしたり フランス人と議論をしたり
そしてそこで得た視点を活かして それをまた書いていったり
そんなことができたなら なんて素敵なんだろう


 彼らは本当によく考えてる 
もちろん一部の人なんだけど 
だけど彼らは本当にすごいと
私はいつも圧倒される
だけど言葉の壁があるから
彼らが日本でみてきたものも
そのものの捉え方も
なかなか日本人にはつたわらなくって
そういつも いつだって
そりゃきっとこれからも
'malentendu' 妙な誤解があるわけで
もっと相互に交流できたらきっともっと面白い
そこで私も何かができる
私にも何かきっと 役割があるんじゃなかろうか
そんなことに はっと気づいた
バスティーユの朝の哲学カフェ。

 やっぱりパリは面白い。

 

フランスに行くなら

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