alternativeway

パリ、カフェ、子育て、サードプレイス、
新たな時代を感じるものなどに関して
徒然なるままに自分の想いを綴っています。

苦しみを越えて

2012年02月19日 | 女の生き方


 久しぶりに昔書いたブログの整理をしていたら
たくさんの子育てに関する葛藤の記事が出て来て
それら一連の流れを見てると 幸せだった時もあり
でも苦しかった時もあり 一概にどちらが と
言い切ることが難しいけど 一言私に言ってあげるなら
「苦しかったんだね、、、」ということだろう。


 でも私はその苦しみや葛藤を描き続けた。
描いた というほどではない。ただ公に人が目にできる場所で
それを記録にとり続けてた。おそらくそれには意味がきっと
あるのだろう。今になって 私は思う。
それは私だけの苦しみじゃなかっただろう
確かに私の状況は少し特殊だったかもしれない
確かに私は人よりわがままかもしれない
確かに私は人より子育てが向いてなかったかもしれない
けれど だけれどきっと この苦しみは
私一人が抱えていたような苦しみじゃなく
日本に住む多くの女性が 笑顔の裏で
抱えている同じ苦しみなんじゃないのかな と
ちょっと距離を置いた今 私にはそんな風に物事が映る。


 だからといって その後の私の人生が
あっていたのか 間違っていたのかはよくわからない。
でもソフィーはこう言っていた。「どちらがよかったとか
よくないとかじゃなくって 選択をしたということ自体が偉いのよ」
たとえその決断に自信なんてなくっても。
それでも私は失った人生から自分の道を歩み始めた。
重荷で倒れそうになっても 切り開くのは自分しかいない
もうフランスに行こうとしても 誰も私を責めはしない
場合によっては ベルリンに行こうが アメリカの
ポートランドに住もうが それは自由であるわけで


 過去のブログを見るとフランスは本当に遠かった。
夢のまた夢だった。そう 私にフランス語を教わりたいと
言ってくれる人が「いつの日かフランスなんて住んでみたいな」と
私に語ってくれるのとおんなじように それくらい遠かった。
ラジオ?そんなの3日も聞いたら疲れ果ててやめていた。
かつてのノートに私は書いた。「フランス語を続ける気力が欲しい」
そうしていつか 私は気力を手に入れて 一年半ぐらいで
飛躍的にのびてしまった。子どもが居ても子どもが保育園に行ってなくても
本当にやりたかったら やるしかなかったら 人間は
けっこうな力を発揮できる それだけはよーくわかった。
そんな私もどうにかフランス語の通訳ガイドの試験に受かり
実際に通訳やら翻訳やらをさせてもらえるようになった
なんだか不思議なことだと思う。


 子育て は 苦しかった一方で
(一番の苦しみは息子が三歳半を過ぎても保育園に入れてないこと)
だからこそ得られたこともある。男の子の子どもを持つ
母親同士の微妙な連帯感だとか フランスにいって女友達を
つくるのがめちゃくちゃ難しかったのに 息子と行ったら
公園で友達ができたこととか 集中力が上がったこととか
それに自分に余裕がありさえすれば 息子の笑顔を見るのはかわいい。


 結局のところ 私はさんざん「あきらめが肝心よ」と
いろんなおばさんたちに言われ続けて来たのに諦めたくなかったのだろう
あきらめることは 私にとって死を意味していたわけだから
「死にながら生きている」とずっと思ってたニュータウン時代。
魂が喜ぶような気持ちになったパリでの滞在
あの時たしか そう 私は思った。自分に生きることが許されるなら
死ぬよりはもう一度生きたいと。
そして本当にもう一度 ここに戻ってきたいと思った
あのアパルトマンの立ち並ぶ街。「目覚まし時計はカフェオレの香り」の
朝からカフェがテラスを出してるあの街へ。街路樹に風があたってさわさわ言う音、
緑の葉の合間から輝いてくる木漏れ日に 年期の入ったカフェの藤椅子。
乳母車を押していた彼女と歩いたあの路に 私は再び帰りたい。


 遠すぎた夢だった 夢想でしかなかったパリは
もうしっかりとした現実としてみえている。 そこに行くには
もっと何が必要なのか どういうことが辛いのか
何ができればいけそうなのか バラ色ではないけれど
それでも浮き足が立ってしまう シューケットのあるパン屋さん
青と白のひさしの小さな商店。蓮太郎のことをかわいがってくれた
移民の売り子のお兄さん。彼にまた 戻って来たよと私は言いたい
そんな暮らしがパリにはあって パリは現実に存在していて
そこに私の居場所があるなら 入る余地があるのなら
苦しんだすべても活かして もう一度パリへ戻りたい
そして向こうでも子育てをして 日本との違いを探りたい
苦しかった日本の子育て パリには違う何かがあった
そうそれはきっと 大人として尊重される ひとりの人間として
尊重される そんな風土なのだろう。
人権宣言の生まれた国の 大使館は私を許可しれくれるだろうか
もう一度チャンスがあるなら 私はあそこで子育てしたい。

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