alternativeway

パリ、カフェ、子育て、サードプレイス、
新たな時代を感じるものなどに関して
徒然なるままに自分の想いを綴っています。

東京カフェガイド

2012年04月29日 | おすすめカフェ

 7年ぶりくらいにようやく戻って来た東京は
かつて私が知っていた街とはだいぶ変わっているようで。
4年ぶりに手にした少しの時間。ちょっとでもカフェを
廻ることができたなら 私の頭の中にあった東京のカフェ情報を
アップデートしていきたいと思います。
(ちなみになるべくおすすめの店を載せたいですが
これは記録に近いので辛口の店もあると思います。
おお行ってみたいな と 思った店にぜひ足を運んでみてください)


 東京勝手にカフェガイド。はじまりはじまり、、、


 東京カフェガイドその1。




 まずは鷺沼のビゴの店。ビゴの店は日本に本物のフランスパンを伝えた
というので有名なパン屋さん。鷺沼店には2階にカフェがあり、朝の
9時から10時まで「ルマタン」というモーニングセットがあるらしく、
ドリンクと、何種類かのパンをバイキング形式で食べることができて500円。

 パンはどれもめちゃくちゃ美味しい!!スコーンはほろほろっと口のなかで崩れる感じ。
コーヒーも美味しかった!でも朝からママたちでめちゃくちゃうるさい。
こんなうるさいカフェあるの?というくらいうるさかった。
でもそういう店なら私も語学の発音練習とかできるかも?
それでも記憶に残る美味しさのパンたちなので、懲りずにまた行こうかな。
田園都市線鷺沼駅から5分くらい。


 東京カフェガイドその2。



 飯田橋のカナルカフェ。東京で川を眺めていられるカフェって
そんなにないと思うんですが、ここはお堀の上に浮かんでいると
言った方がいいようなカフェ。レストランもあるようですが、
デッキのカフェ部分は全て屋外なので、雨が降ったら全員退散!
というわけで先日は飲み物を半分残しながら退散しましたが、
桜の時期は素敵です。高級そうに見えるけど、たいていの飲み物は
500円で、プラス100円でマフィンもつけられるとのこと。
マフィンはなかなか美味しかった!紙コップなのがちょっと淋しいけど
まあ大変だろうからしょうがないか。東京のど真ん中で、ボートを
こぐ人たちを眺められるのもなんだか不思議。
これからの時期、東京でテラスを堪能したかったらぜひ。
飯田橋駅徒歩1分。神楽坂のすぐ手前のお堀沿い。




 東京カフェガイドその3。

 神楽坂PAUL
ポールはフランスのパン屋さんですが、今やパリより東京の方がお店が多い?
しかもカフェの素敵度は日本の方が高いような、、、とはいえ場所によって
かなり差があり、私の知ってる中では四谷店と神楽坂店がおすすめです。
あざみ野にもありますが、自分でトレイを運んでなんだか雑然とした
雰囲気なのに値段は他と変わらない。。それに対して神楽坂店は赤い布張りの
ソファーが高級感があり、全体的にシックな雰囲気。床は白黒の市松模様の
タイルのようで、トイレのドアはエメラルドグリーンに塗られてる、
しばし外国気分に浸れるお店。



 こちらは朝10時から11時までモーニングセットがあるらしく、500円で
お好きなドリンク(ポールはけっこう高いのでそれだけでお得!)と
クロワッサンかパンオショコラ、パンオレザンが選べるそう。
パンオショコラはたっぷりチョコレートが入っていてさっくりした質感で
美味しかったです。神楽坂でこの500円はなかなか価値があるのでは?

場所は東西線神楽坂駅から飯田橋方面に坂を下っていって5分くらいのところ。


 東京カフェガイドその4。



 広尾または渋谷のセガフレード。
はじめてこの店を見たのは7年以上か、もっと前?
たまプラーザ駅を改装中に、駅構内に入ってました。
当時まだこんな店は珍しかったので、何これかっこいい!! とよく足を
運んでました。今ではもうかっこいい、という感じもしませんが、それでも
値段のわりに質の高いカプチーノ(なんせバリスタみたな人たちが
かっこよくトントンしてる)と、店員さんの感じがよく、かつ放っておいて
くれるので長居ができて助かります。

 朝は11時くらいまでモーニングがあるらしいですが、これがよく
売り切れていて、広尾では9時ごろにはもうないとか!370円でドリンク
(ただしカプチーノはプラス50円)とクロワッサンまたはパンオショコラ。
パンオショコラもポールとはさくさく感が違いますが、けっこう美味しい。
ドリンクはクリーミーさとラテアートが絶妙なカプチーノと、
夏場にはカフェシェケラートというとってもお洒落な、カクテルグラスで飲む
シェーカーで振ってもらったアイスコーヒーがオススメ!
めざせかっこいい女性?

 渋谷店には作業をする人や語学交換する人、本を読む人、
広尾店には8割くらいの外国人と、魅力的なテラスでぼーっとしたり
仕事をする人、2階には仕事をする人と広尾マダムがおしゃべりに花を
咲かせています。広尾店では夕方にアペリティフの時間もあるそう。
ぜひ一度広尾に足を運んでみてください。ここでしか味わえない
パリのテラスみたいなゆるい空気が待っています。



 東京カフェガイドその5。

 渋谷宮益坂近くのカフェ、レスペクト
昔東横線の高架下にあった伝説的なカフェ、シブヤアンダーパスソサエティー
(SUS)の雰囲気を受け継いでくれてるお店。そのカフェには当時まだ珍しかった
パソコンやインターネットが置かれてて、レボリューションキャンプの
ミーティングをよくここでやっていました。バニラコーヒーの美味しい店で
気に入っていましたが、いつからか雰囲気があまり好ましくなくなって、
扉を開けては引き返し、を繰り返すうちにその店はいつしか閉店。

 現在のレスペクトは、良かったころのその店の雰囲気を受け継いでくれてます。
この店には渋谷のカッコいいけど嫌らしくない感じの人たちが来ています。
それというのもオシャレでかつ使いやすいから?渋谷のいいとこにあるのに
ランチは千円以内だし、注文してからかなりすぐにやってくる。
そして何といってもちゃんと美味しい!ランチは毎週くらいに変わるので
色々と試したけれど、ほとんど外れたことはありません。



 2階にあってガラス張りなので明るい光が店いっぱいに広がるのも特徴的。
外を眺めながら贅沢な気分でランチができるソファー席も気持ちいい。
私は渋谷に2軒お気に入りのカフェがありますが、こちらは元気な感じの人と、
盛り上がってワクワクしたい気持ちの時に選ぶ店。そしてたいていいつも
面白かったねえ!という感じで終われるのがこのカフェのもつ力?

 カフェカンパニーの系列のカフェですが、私の知ってる限り
一番ここが感じが良くて好きなお店です。

渋谷駅から宮益坂方面に上がって、子どもの城とのちょうど中間くらい。
1階にある、料理書専門の本屋さんもかわいいですよ!




 ちなみにこれらはfacebookページに書き始めた東京カフェガイドに
加筆修正したものです。facebookではカフェを理解する100の言葉なども
書いていこうと思っています。もしよかったらご覧下さい。










ノマドに生きる?

2012年04月28日 | 私の人生

 世の中には 土タイプの人だとか
風タイプの人というのがいるらしく
私はといえば どんなに人に言われても
結局土にはなれないタイプで それがとても後ろめたくても
そういう性質なんだからもう仕方ないじゃんとも思ってた。


 ところが最近 「ノマド」という言葉が使われ始め
そんな言葉が許されるなら、私もノマドに生きていたい、
そうノートパソコンを持って カフェで仕事して
フランスに行き 日本に行って、、、 そう思ってた。
そんな矢先に 本田さんという人が書いたノマドに関する本を
見つけて 図書館で半分くらい読んでいた。

ノマドライフ 好きな場所に住んで自由に働くために、やっておくべきこと
本田直之
朝日新聞出版


 すると予想通りというか予想を裏切られる というのだろうか
ノマドに生きるためには基盤こそが大事であって
「明日からノマドになります!」というのは相当危険なことらしい。
彼はデュアルライフという、日本とハワイを行ったり来たりする
うらやましい生活をしてるらしいけど そのために20回も
現地の下見に行ったという。それは「えーい行っちゃえ!」という
タイプの人にとってみたら 考えられないくらい
石橋を叩いて渡ってる感じにもみえる。


 私はというと 私のことを知ってる人に言わせれば
「みきちゃんは石橋を叩いて割る」タイプらしいのだけど
けっこう私は臆病者で 私のまわりにいる人たちは 次々と
ヒューンと海外に飛び立ってしまったけれど
私も後追いしたい、いや するからね、 と言ってるものの
なかなかそうはできなくて


 それって勇気がないからなのかなあ、、、と
思っていたけど この人の本を読んでちょっと安心した気になった。
やっぱり基盤は大切なんだ。そこがしっかりしててこそ
ノマドになってもうまくいくわけで 何にもないのに
ポーンと飛び出し フランスに行って困ったような状態になっている
そんな人たちを私は沢山知ってはいるから
それでも楽しかったらいいのだろうけど 私はみんなと違って
深夜のバイトはできないし 幼稚園のお迎えは5時前だから
それまでに終わらせてかつお金を稼げる仕事じゃないと
無理なんだよな、、、 そう思うと気も重くなる。



 私もなんとかいろいろとやってきたような でも
結局のところ スタートラインにたったのは この4月からなような
だとしたらまだ始まったばかりであって 基盤をつくることなのかなあ?


 そんなことを思っていたらものすごく突然に
「東大の近くでカフェをやってみませんか?」という話がやってきた。
はじめは自分ごととしては考えてなんかなかったけれど
場所をみたりお話をしたりしているうちに だんだんと
表情も変わり なんだか面白くなってしまい
説得されたりしている時に「ほらね 今こんな本を持ってるの、、、
『丁度その時』」と言われてしまった。
それは丁度その時 その瞬間に 色んな出来事が
シンクロニシティのように起こってる そんな美しい詩なのだった。


 丁度その時 

 ちょうど誰かが迷っていた時?

 ちょうどビザの申請がうまくいかなくなっていた時?

 やっぱりまだ 何かが足りてないんじゃないかと
うすうす自分で感じていた時?

 ちょうど東大って面白そうだな!と再び思っていた時?


 こんなカタチでやってくるなんてありなのかなあ、、、


 散々パリ!!と思っていたのに それなりに動いていたのに
カフェなんてここでやったら ノマドじゃないじゃん、、、
「でも私タイプで言ったら風のタイプなんですよ
一所に根をおろして10年、20年って言うのができないし
それにまさに今フランスに行きたいと思っていたとこなんです、、、」
と 言ってみたものの またいろいろと言われて結構納得し
こんないい話はあるわけないよな こんな機会もないよなあ
断る理由なんて何一つないような話だなあ、、、


 と 思いながら約2日間が過ぎている。


 神様は あまりも突然にチャンスをくれるものなのだろうか?
5年前に夢見ていたこと? それをすっかり忘れてたころに
ポーンとさしだしてくれるものなの?もう違うところに行こうとしてたのに?
それとも10年後にはこうしたら、、、と思っていることを 急に
「ほらね」と差し出してくれるのだろうか
ちょっと待ってよ フランス行ってからならやろうと思っていたのに、、、


 順番なんてわからない。
神様は いろいろときっと与えてくれるのだと思う
でもその与え方とか 順番は「オイオイ!」と言いたくなるほど
予期せぬ方向から来るのだろうか どうなるのかわからないけど
「場というのを持つことによって違う種類の自由を手にした」と
影山さんは言っていた。もう一歩 違う段階に向かって進む時なのだろうか
どうであれ 楽しくてワクワクするような人生だったら
それが一番よさそうだ。

こいのぼり

2012年04月23日 | 子育て

 雨の降る中初めてまともに傘をさす
息子と一緒にいつものおもちゃ屋さんと輸入食品店に行き
こいのぼり の 飾りを見てたら ああ買ってやらなきゃ と
ふと思い 「れんたろうにこいのぼり買ってあげなきゃねえ」と
漏らしてしまうと それを聞いていたからか さあ店を出てもう帰ろうと
したその時に「これほしい かってかって買って!!」が始まった。



 保育園が始まって 私の時間が少しでき
私はようやく自分に近づいたような気がしたけれど
6時半まで預かってもらっていると 蓮太郎とはずっと離れて
あんなにも一緒にいたのに なんだか遠くにいってしまったようで
嬉しいけれども反面なんだかちょっと切ない。
ああそうか 子供を保育園に預けてた人たちの葛藤って
こんな感じなのか と ようやくわかる。


 だから息子といる時間をもっと愛おしもう

 そう思ってはいるものの いざ行き帰りの時間になると
私の口調は「早くしなさい」「もー危ない!お手てつないで!」と
命令口調っぽくなっていて のんびりと楽しみたい?と思ってはいても
布団の上でごろごろするような余裕もなくて なんだかなあ と 思ったり。


 こいのぼり を 買ってやらなきゃ


 そう思っていたというのは 去年の今頃 もう子供の日が 過ぎた頃だか
息子は3歳になるというのに 子供の日らしいこと を
フランスで何一つやってやれなかったからで 
これではさすがに申し訳ないと強く思って 日本文化会館みたいなところで
開催された 鯉のぼりの絵を描くワークショップに参加してみた。
沢山の人が来る予定だよ と言われたものの 大きな空間に参加者は
私と息子の2人だけ。色鉛筆やクレヨンで 一緒に色を塗ろうとしたけど
息子はそんなことには興味がなくってミニカーで遊びたいらしい。
ちょうどその日に パリに留学中の日本人のピアニストの女性にリクエストして
そこのホールにあったグランドピアノでラピュタやら宮崎駿の映画の曲を沢山弾いてもらってた。
彼女は全て 楽譜もなしで 楽しそうにどんどんと曲を弾いてくれ
子供がいてコンサートなんかいきたくても行けない!と思っていた私には
本当に嬉しいかけがえのない経験だった。


 そう 結局 そこでの経験は そんな感じで こいのぼりのために行ったけれども
結局マヤさんの音楽にうっとりしてて 持ち帰った鯉のぼり は 何日か後に
大雨に打たれ びしょぬれになって破けて階下に落ちてしまった。
そんなパリでの鯉のぼり。


 あれは切なかったなあ、、、
それはあまりにも可哀想すぎる、、、


 駅の近くまで行っても「こいのぼり買って!!」と大声で泣きじゃくる息子を眺め
なんでそんなに欲しいの?と聞き(だってラムネがついてるんだもん!)
問答を繰り返すけど でもなあ なんで働いてんだろう
子供におもちゃも買ってやれないんじゃ働くって何なんだろう
そんなことや パリでの切ない思いを思い出し 結局お店に戻って行った。


 そうして息子は嬉しそうに風車のついた小さな小さなおもちゃの
こいのぼり で 喜んでいる。これならパリにも持って行けるね、、、


 亀田の柿の種のけなげ組に入れるんじゃないかと思うくらい
けなげでかわいい蓮太郎は 大変な状況下なのに それらを
大変だとも思わぬらしく 今年もたくさん成長をした。
もうあんた 傘をさして歩けるんだね。 黄色い傘から顔も出せずに
カッパと足だけが見えていて なんだか傘が歩いてるみたいだけれど
「蓮太郎どこー?」というと嬉しそうにニコーっとして顔を出す。
今日はなんとお箸をつかってご飯もきれいに食べていた。
それに最近はYouTubeで覚えた発音で カーズのキャラクターの名前を
英語で発音してくれる。そうして母は息子に教わる 「ねえマックイーンって
英語でどう発音するの?」 そんなことができるなら
この人は私よりきっとすらっと簡単に フランス語だって
身につけて 何年かしたら私に発音や意味を教えてくれるようになるのだろう。


 蓮太郎のため と 思って 心配していたようなこと は
ほとんど彼には関係なくて 彼はいつでも楽しそうにアホなことをして
ゆるい笑顔で笑ってる。息子は本当にアホだけど 優しくって
けっこう言うこともわかってくれて 最近は大人みたいにいっちょまえにしゃべってる。


 あんた、、、お兄ちゃんになったんだねえ

 このほぼ4年間 病気らしい病気というのはインフルエンザとたった1日の
ノロウィルスみたいなのだけだった。あとはいつも元気でとびきりの笑顔
そして大きく成長してった。お金がなくても 何かがなくても
想像力で楽しんできた。トミカの駐車場のおもちゃが買えなくっても
私たちは積み木で駐車場をつくって「こんな木の駐車場持ってる人なんかいないね!」と
言ってきた。レストランになんて行かれないからいつもピクニックをしていたけれど
それも今にして思えば贅沢な時間なのだった。つちかってきた沢山の時間
最近は離れて行きつつあるけれど 蓮太郎と これからも一緒に
もっと世界を楽しみたい。

イマジネーション

2012年04月22日 | 想いをカタチに

 今日はひょんなことから松濤をちょっと歩いてみようと思い
そういえばBunkamuraがもうリニューアルされたんだ と
昔から好きだった場所に行ってみた。


 ドゥマゴ という 私が憧れていたカフェ は
小さなときからそこにあり リニューアルをしたからといって
なくなるなんてことはなく 相変わらず そこの
テラスには沢山の人が溢れてて パリとはやっぱり
違うけど でも これが私の知ってるBunkamuraの姿であった。


 ドゥマゴのテラスをの中をギャルソンとぶつかりそうになりつつ横切り
憧れていて でも近づけなかったあの本屋 に そっと足を踏み入れた。
いつか行きたい そう思ってた。

 ここにこそ 本当は私の本を置いてほしい。そうだって ここは
ドゥマゴの隣にある本屋 で ドゥマゴ文学賞にも関わっていて
まさに美術書とかセンスのいい異国の文化がただよっている
そんな本屋なのだから。

 こんな店にこそ 私の本を置いてほしい、、、
この本はね、カフェとか アートとか 文学だとか
それらがどうして生まれて行ったのかとか フランスの文化だとかを
書いてるんです そうきっと 私がずっと憧れていた
青山ブックセンターだとか リブロとか
そしてこの店にこそ 合うと思うんです と
本さえ持っていないのに 売り込みしにいこうかな
でもどうしようかなと思ったその時
引き返そうと思ったその時


 私の目に一冊の本がとまった。


 それが私の本だった。


 『cafeから時代は創られる』


 あの本の白黒の表紙はなんと 私が高校時代に憧れていた
「ドゥマゴ物語」というなかなか他では見つけられない
独特のモチーフの表紙の本の隣に飾ってあった。

 飾ってあったといったって間違いではないような
きちんと表紙が見える形で 人の目線に入る位置 に
立てかけられて置かれてた。


 私の本が?


 この店に?


 高校の時から 憧れていたこの店に 何も言わずに置かれてた


 勇気がなくて 一言だって声をかけられずにいたというのに。


 結局私には何の言葉も見つからなくて 一言も声を発せずその店を後にした。



 Bunkamura 東急が創ったその施設 に 
何度足を運んだことだろう。印象派のことをはじめてよく知ったのも
ここでの印象派展のことだった。そこには「印象 日の出」があって
すごく感動したのを覚えてる。「ブーダンとオンフルールの画家たち」という
タイトルだったと思う その展覧会にいたく感動した私は
ウジェーヌ ヴーダンという印象派の父と言われたらしい人の
作品を見たくてオンフルールまで出かけて行った。
そうしてルアーブルにあった美術館で モネの絵を見たよなあ
そこで見たエトルタという ちょうど訪れたばかりの
断崖絶壁の海の絵は ザワー、ザパーンと波が打ち付ける音が
目の前から聞こえてくるような そんな衝撃的な絵だった。


 Bunkamuraの ル・シネマにも何度も行った。
フランスを思いながらドゥマゴのショコラを飲んだこともある。
いつだったか 絵をデッサンしたことも。


 そんな想い出深い場所 に 私の本が飾られていた。


 夢 っていうのは いつか叶うものなのかなあ

 私もいつか パリで出会った山本ゆりこさんのように
パルコに本が並んだり 何冊も本を出してみたいと思ってた。
断られたり 首をかしげられたりしたことも何度もあるけど
でも最近ではけっこう本屋さんで自分の本に出会うことが増えて来た。
それは私にとっては本当にすごいことなんだ。


 高校生だったころ 何も手には届かなかった
ないお金を一生懸命しぼりだし 一杯のコーヒーを飲みに
喫茶店に行ってみた。そんな私が 生活レベルは変わってないけど
それでもカフェについて ちょっとは認識してもらえる人になってきた。
あのころ フランス語なんて5行さえも読めなかった。
大学生のころだって 日仏学院で5行も文が読めない私は
分厚そうな本をぱらりとめくって読んでいる人がうらやましくてたまらなかった。
でも今では同じ場所 で 雑誌が読めるようになってきた。


 あのころ全く届かなくって 漠然と憧れていた
フランスというのもカフェというのも 今ではようやく近づいて
そうか 日本のドゥマゴの隣に置いてもらえるんなら
パリのフロールにだって言ったら置かせてもらえるかもな
もしかしたらそんなこと Paris-Bistro.comのローランに
聞いてもらえば 意外と簡単なのかもしれない。



 かつての天才たちがもっと昔の天才たちを
「雲の上の存在」だと思ったように 私もそう思ってた。
ドゥマゴの隣の本屋に本を置いてもらえることも
自分が知ってる名前の雑誌にいつか記事を書くことも?
そう それに一冊の本を出すことさえも 私にとっては
本当に大きなことだった。友達たちは「あ そう?」くらいの反応で
驚いたけど 私にとっては どれも大きなことなんだ。


 これって、、、 もしかして シャンパーニュ!って
くらいのお祝いをするべき出来事じゃない?
でも一人じゃさみしいから ドゥマゴのショコラでお祝いしようか
蓮太郎もショコラが好きだから 2人で行って半分ことかできないかなあ
憧れが形になること いつかの想いがカタチになること


 もしかして それは5年先かもしれないけれど
だけど夢見て強く望んだりワクワクしてみたことは
いつかちゃんと叶うものなのかもしれない。
だとしたらパリに住めるかな?今日は大統領選だ
フランスの移民政策 これからどうなっていくのだろう、、、


 

マリークレール「福島の子供達は避難すべきか?」訳part2

2012年04月08日 | 福島見聞録
マリークレール3月号 
「福島の子供達は避難すべきか?」続きです。



インターネットで野菜を注文

 学校の校庭では表土が5センチ削り取られ、地中深くに埋められた。
何ヶ月も前から、子供たちは校庭で活動することが公式に許可されている。
「そんなの全然納得できない」と言うのは、福島で学校を経営している
フランス系カナダ人のRさん。「僕は表土を15㎝削り取ったよ。それで
他県から運んで来た土で表土を覆った。だけど子供たちにはもう外では
遊ばせないようにしてるんだ。」彼の奥さんは取材時、妊娠9ヶ月。
彼女は3人目となる子供を福島で産むことにした。
「みんなここでは近所の人が明日もここに居るかしら、と考えながら
暮らしています。それは正直かなり辛いです。避難をするかどうかというのは
あくまでも私的な決断ですが、いつだって他の人たちから何かしら言われるものなんです。」


 6歳児の母親であるKさんは「国や県の言うことなんか信用していません」
と言う。「でも福島を離れることによるストレスと、残ることのストレスを
天秤にかけて、ひとまず残ることにしたんです。親戚は皆福島だし、
お店のローンの返済も終わっていないし・・・」彼女は旦那さんと、
子供を産んだばかりの妹さんと両親とともに、生活様式を変えながら、
ここで生きていくことにした。知り合いの母親たちと測定器を手にしつつ、
ホットスポットをなるべく避けて動いている。「野菜は全部インターネットで
注文します。なるべく福島から遠くで生産されていて、何ベクレル以下か
表示されているものを選ぶようにしています。今では割と簡単にそういったものを
見つけることができるんです。でも食費は2倍になりました。」一方で
子供服の売り上げは半分に下がってしまったという。

 この土地にとって重要な農業を守るため、市内のスーパーでは事故前に
愛されていた「地産池消」の掛け声の下、福島県産の果物や野菜が他県の
ものに比べて半分か3分の1の値段で販売されている。野菜の並ぶ棚には
「安心、安全」という表示。 それを信じてもいいのなら--- 
Kさんはそんな福島での精神の疲労をこう語る。「もう畑が汚染されているなんて
みんなわかっています。でも一度ここで採れた野菜を食べてみたって
すぐ何か起こるわけじゃない。それで、もう生きるのを自分で大変にするのは
やめにしようと思って何かをやめることにするんです。
忘れることにさえしてみたら、日々の暮らしは本当にシンプルになるからです。」
現在の彼女たちにとっての最大の脅威、それは元に戻ったかに見える福島の
日常の中で、放射能の存在を忘れていくことなのだ。

 「一番難しいのは思春期の子供たちなんです」と語るのは、郡山に住む
中高生の母親たち。「中学生たちはマスクをつけるのすら嫌がるし、
牛乳を飲むなと言っても言うことを聞いてくれません。ある日娘が外出していて、
今日はどこに行ってたの?と聞いてみたら「福島牛のバイキングに行って来た!」
なんて嬉しそうに言うんです!家ではこんなに気を付けてるのに。子供が
「俺は原発推進派だからな」なんて言うこともあるんです。」

 チェルノブイリでは14歳から19歳までという、彼らを守ろうとする人たちの
言うことを聞かない世代が、ガンの発生数が一番高かったという。彼女たちは、
郡山に住む小中学生が集団で安全な場所に疎開できるようにと郡山市に対して
裁判を起こしている。けれども裁判は棄却された。彼女たちは裁判を続けることに
したものの、あくまでも匿名であろうとする。「放射能のことについて何か言うのは
まわりから嫌な目で見られます。今ではもう、みんな普通の生活を送っていたいんです。」

 今日では福島の中学では、彼らの継続的な部活動は廊下で行われている。
学校側の見解は「雪が降ってあまりに寒いから。福島の冬というのはこんなもの」
だそうだが、この取材をしていた1月はじめ、お正月の地震の後でセシウムの
降下量が急上昇したというのは誰もが知っていることだ。13歳の中学生の息子の
母親であるSさんは、そんな学校の先生たちの態度に耐えきれなくなったという。
彼らはもはや生徒に対して放射能への注意を促すことをやめたのだ。

 そんな態度に嫌気がさした彼女は子供を連れて関西に引っ越しをすることにした。
私たちが彼女の息子に、避難することについてどう思うかと尋ねてみた時、
彼女の運転する車内は長いこと重い沈黙に支配されていた。
運転席からこちらを振り返った彼女は目に涙を浮かべながらこう聞いた。

「あなただったら? あなたが私の立場だったら?

 あなただったらどうします?」


ーーーーーーーーーーー

 追記

 何人かの方に読みたいので訳してほしいと言われたので
訳してみたこの文章がけっこういろんな方面に流れているようで驚いています。
ということはそれだけこのルポタージュのような内容が一般には
知られていないということなのかなと思います。
こちらに書かれていることは10日間朝から晩までの取材を4ページにまとめたもので
ごく一部といえば一部です。かつ取材は1月でしたので情報としては
随分前、「そんなこと知ってるよ!」と言ってもらいたいような
ものですが、そうでもないから色んなところに流れているのかと思います。
この取材の間に耳にしたことを「福島見聞録」の中に書かせてもらっています。
まとまってはいませんがもっと生の声を知りたいという方は
少しのぞいてみてください。(特に1月10日から17日くらいまで)




マリークレール「福島の子供達は避難すべきか?」訳part1

2012年04月07日 | 福島見聞録

大変お待たせしました。
沢山の方から「何が書いてあるのか知りたい!」との声をいただいた
フランスで3月8日に発売されたマリークレール3月号の全訳が完成しました。
2部にわけて掲載しようと思います。



Marie Claire3月号

「福島の子供達は避難すべきか? 」
Faut-il évacuer les enfants de Fukushima?
 
文/Sophie Pasquet ソフィー・パスケ(フォトジャーナリスト) 
取材同行通訳 フランス語翻訳/ 飯田美樹


 福島原発の事故から1年が経つ今も、福島に住む人たちは放射能のある中で
生活を続けてる。彼らが直面している恐ろしいジレンマ、それは国や県の
言っていることを信じるか、それとも危険性を指摘する医者たちが言うように、
避難をするべきなのか・・・

 新幹線で福島駅に着いてみると、普段より呼吸を控えようとしている自分に気が付いた。
けれど、チェルノブイリの事故以来、最大級の原発事故で有害物質がまき散らされた
空気の中で、そんなことをしようとするのは馬鹿げた試みなのだった。
そのことを話すと2児の母のAさんは笑いながらこう言った。「私たちも始めは
そう思ってました。呼吸してもいいの?って。だけどすぐに呼吸しないなんて
無理だってことに気が付くんです。爆発の後から日常のほんの些細なことですら、
いちいち疑問に思うようになりました。この水は飲んでもいいの?食べ物は?
外でもう干せなくなった洗濯物は?ちょっと窓を開ける時ですら、風向きを
確認してから開けるんです。」

 とはいえ、原発から60キロの福島市は他の都市と大して変わらない雰囲気で、
一見すると日常を取り戻したかに見えてしまう。ここには津波や地震による痕跡は
ほとんど残ってないし、すれ違い様にマスクをしている人を見かけることすらまれなのだ。
この街で事故を想起させるのは、ほんの小さなディテールだ。母親のカバンに入った
ガイガーカウンター、子供の姿の見えない公園、窓際から離して置かれた子供用のマットレス。
そして雨や雪が降った時、空気中の放射性物質が地上に舞い降りるのではという苦悩。
福島市には別名放射能通りと呼ばれる道もあり、その道では測定器が高い線量を示すらしい。
それから家庭の親密な空気の中で、親たちの頭を離れることがない疑問。


「今日の福島は、子供達にとって一体どれほどの危険性があるのだろう?」



大量の鼻血と原因不明の下痢

 1月には福島市内で市民主催の子ども健康相談会が開催された。
健康相談会会場には毎月日本中から10名くらいの小児科医や栄養士、心理士たちが
ボランティアでやって来て、福島の住民たちが無料で身体の調子や悩みについて
相談できるようになっている。ここにやってくる両親は、中学生の子供の慢性的疲労や、
小さい子の気になる症状、病院での検査結果などを抱えてやってくるという。


 チェルノブイリの架け橋という団体のメンバーで、小児科医のHさんは単刀直入に
こう言った。「福島の子供達から、大量の鼻血や下痢が報告されています。
チェルノブイリ以来、これらは外部から大量の放射線を浴びた結果の初期症状だと
わかっています。子供の免疫力は大人の8分の1の強さしかないのです。」

 ボランティアチームの医師、Nさんによると、爆発後の急激な外部被曝に加え、
呼吸や爆発の後数ヶ月、数年にわたって食べるもので引き起こされる内部被爆が、
長い目でみると一番危険なのだという。そういうわけで、放射能の危険性を
指摘する医師たちは、今日の日本のコンセンサスとは違った言葉で話を締めくくる。
「福島産の果物や野菜、水や牛乳、米はなるべく避けること。体内の放射性物質を
除去する働きがあるペクチンをなるべく摂取すること。子供達の様子を定期的に
チェックすること。可能な限り頻繁に、遠く離れた所へ子供を連れて行って
保養させること。そしてもし可能なら--- 避難させること。」



 避難・・・愛着のある土地や人から離れて引っ越しをする・・・。 
福島県では人口200万人のうち、すでに6万2千人が県外へ避難したという。
25年前のチェルノブイリ同様に、まずはそれが可能だった家庭から。爆発直後、
避難区域に指定されたのは原発から20キロ圏内の場所だけだ。この現状に対し、
数々の団体が、福島市まで避難区域にすべきだと主張してきた。というのも、
福島市では避難区域で立ち入り禁止の場所よりも高い放射線量を示すところが
あるのだから・・・「少なくとも家庭を持つ人や妊婦さんで避難したい人たちは
補償をもらって避難できるようにするべきだと思います。20キロの避難区域なんて、
当時のチェルノブイリ以下ですよ。」と言うのは福島市に市民放射能測定所を設立したIさんだ。


 もちろんお金の問題は避難を妨げる主要な要因だ。けれど問題はそれだけじゃない。
福島に残る方がいいと言う人たちも沢山いるのが現状なのだ。離れよう、と決心すると
家族がバラバラになることもあるからだ。30代でエレガントな女性のNさんは台所で
3人の娘さんたちの料理を作りながら取材に答えてくれた。「5月に内閣参与の方が
涙ながらに訴えているのをテレビで見たときにすごく衝撃を受けました。彼は政府が
子供達の放射線許容量を引き上げようとしているのが許せなかったんです。
それを訴えて彼は辞任しました。その頃長女のリンパ腺は腫れ、大量の鼻血を
何度も出しました。鼻血を止めるのにティッシュを一箱使うことすらあったんです。
私のまわりには今までに見たこともないような症状を出した子供達が沢山いました。」
彼女は料理を教える仕事を中断し、住んでいた郡山市から110キロ離れた山形県の
借り上げ住宅に移ることにした。3部屋あるアパートの家賃は山形県が払ってくれる。
それ以降彼女は家族の形をなんとか保とうとして努力している。旦那さんは週末に山形に
やってくる。「この生活は以前に比べて毎月10万円近い出費がかかります。
今のところなんとか節約してやっていますが、この先は? 
日々の生活の中で、主人と離れて暮らすのは本当に辛いです。」


 事故から1年が過ぎようとしても、この出来事は人間関係を引き裂いている。
カップル間、家族間、世代間、市民間、避難区域に指定された人たちと
自主避難者との間でも、放射能の危険性について話を始めた途端、
関係性がギクシャクしたものに変わってしまう。強制避難区域を広げることを
拒否した日本政府は「除染」の効果を強調することを選び、福島での生活はもはや
危険ではないと言い張っている。福島市役所を訪ねてみると、今後5年間で
森林も道路も全ての家も放射線の除染が完了する予定だと説明された。

(続く)


2012年04月02日 | カフェと社会変革


 「わーお花が咲いてるねえ!春だねえ
今年はきっといいことあるよ!」と 梅やら早咲きの桜を見るたび
蓮太郎に言っていた。今年ばかりは 私も春がうれしくて
だって大変な年だったから 苦しい思いは散々したから
もう春こそは幸せな気持ちになっていたい もうトンネルを抜けたい、
いや抜けるはず!という想いで 枯れてるように見える枝から 
一斉に生命力を吹き出す梅や桜を目にする度に 
大丈夫 私にだって春が来る と 心からそう思ってた。



 3年9ヶ月 という長い長い年月がたち
みんなはこの間 どう変わって行ったのだろう?
カフェをやる といって動いていた友人は カフェを開いて
けっこういい場になっていたのに 3月末でやめたらしい
他の友人はどうしてるかな?何回か転職したり?私と同じ団地に住んでた
蓮太郎と同い年の子がいる友人は 2年前の四月に子供を
保育園に入園させてはじめは仕事をしていたけれど 
それから子供が生まれたりとか なんだか激動だったらしい。

 みんなのことがうやらましい うらやましいなと思って来たけど
この間ほぼ4年の間に どれだけ何かが変わったのだろう
私の場合は ずっと蓮太郎と一緒に過ごした。それは価値判断じゃなく
私のやろうとしていることややってたことでは保育園が入園許可を
くれなかったり 自分の移動の都合で書類申請ができなかったり
いろんなことが重なったからで この3年9ヶ月は長かった。


 だからこそ ものすごい短時間に集中して何かをしたりは
できるようになったのだろうと思うけど


 この先いったいどうなるのかなあ、、、、


 今日は保育園の入園式。蓮太郎と一緒に午前中だけ時間を過ごして
中学生のボランティアの時以来みたいな保育園の3歳児クラスの様子を
観察しながら なんだか不思議な気分に浸ってた。


 ずうっとこの子が居たけれど 今も目の前で眠っているけど
蓮太郎が生まれて以来 彼は私の生活の中にドーンという位置を占めて来た。
でもこれからはきっとちょっと違う。私 という人格の中 に 私がどこからか
帰って来た。それは去年の夏くらいから思っていたことでもあって
私はすっかり忘れきってた「私」というのを思い出す作業をしていた。
そう 中学生のころ どんなものが好きだったっけ
高校のころはどうやって自分のことを喜ばせてた?
ハーブティは?マッサージは?好きなものとは何だろう?
すっかり忘れてた「自分」というもの それがようやくわかってきたころ
「自分の時間」がやってきた。


 もう 蓮太郎は理由にならない。




 「蓮太郎がいるからできない」それはもう理由にならない
ついにそんな日がやってきた。言い訳じゃなくて 本当に無理だよ?!と
思うことは山ほどあった それでもなんとか動いて来たけど動きは
かなりのろかった。夢や何かを次々と実現する人に大切なのは
スピードだろう。でも私は亀みたいにのろかった
果たしてそれは 加速することができるのだろうか
それとも?何も変わりがなければ「蓮太郎がいるから」じゃなくて
「私がやれなかった」だけになってしまう。これから変わって行けるかなあ?


 神様は 7割くらいの準備がそろった時に 何かをプレゼントしてくれるらしい
だから何かが欲しければ まずはそれを受け取れるだけの心の準備 それから
具体的な物や環境の準備がいるらしい。それが「よし まあ行けるか!」と
神様に判断されたとき プレゼントが来るのだろうか
3年9ヶ月してやっともらえたプレゼント 私は描いていたことを
実現できるようになるのだろうか


 何かが現実になったとき 「ああそうか あれがなかったらこれは無理だった!」
とわかることがあるわけで そこまでの段階に達してないと そのこと事態が
起こらない。フランスに?いつか行ける日も来るのだろうか?
幼稚園ママとフランス語で会話する日も?その時までには
やっぱり蓮太郎にフランス語の特訓をしとかないとだめかしら?とか
バカなことを考えるけど 沢山のことの準備がそろえば
次のステップがきっと向こうからやってくる。それがいつかはわからないけど
もうバタバタしなくていいように これからの時間を活かして
イメージを具現化していこう。

フランスに行くなら

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