alternativeway

パリ、カフェ、子育て、サードプレイス、
新たな時代を感じるものなどに関して
徒然なるままに自分の想いを綴っています。

マリークレール「福島の子供達は避難すべきか?」訳part2

2012年04月08日 | 福島見聞録
マリークレール3月号 
「福島の子供達は避難すべきか?」続きです。



インターネットで野菜を注文

 学校の校庭では表土が5センチ削り取られ、地中深くに埋められた。
何ヶ月も前から、子供たちは校庭で活動することが公式に許可されている。
「そんなの全然納得できない」と言うのは、福島で学校を経営している
フランス系カナダ人のRさん。「僕は表土を15㎝削り取ったよ。それで
他県から運んで来た土で表土を覆った。だけど子供たちにはもう外では
遊ばせないようにしてるんだ。」彼の奥さんは取材時、妊娠9ヶ月。
彼女は3人目となる子供を福島で産むことにした。
「みんなここでは近所の人が明日もここに居るかしら、と考えながら
暮らしています。それは正直かなり辛いです。避難をするかどうかというのは
あくまでも私的な決断ですが、いつだって他の人たちから何かしら言われるものなんです。」


 6歳児の母親であるKさんは「国や県の言うことなんか信用していません」
と言う。「でも福島を離れることによるストレスと、残ることのストレスを
天秤にかけて、ひとまず残ることにしたんです。親戚は皆福島だし、
お店のローンの返済も終わっていないし・・・」彼女は旦那さんと、
子供を産んだばかりの妹さんと両親とともに、生活様式を変えながら、
ここで生きていくことにした。知り合いの母親たちと測定器を手にしつつ、
ホットスポットをなるべく避けて動いている。「野菜は全部インターネットで
注文します。なるべく福島から遠くで生産されていて、何ベクレル以下か
表示されているものを選ぶようにしています。今では割と簡単にそういったものを
見つけることができるんです。でも食費は2倍になりました。」一方で
子供服の売り上げは半分に下がってしまったという。

 この土地にとって重要な農業を守るため、市内のスーパーでは事故前に
愛されていた「地産池消」の掛け声の下、福島県産の果物や野菜が他県の
ものに比べて半分か3分の1の値段で販売されている。野菜の並ぶ棚には
「安心、安全」という表示。 それを信じてもいいのなら--- 
Kさんはそんな福島での精神の疲労をこう語る。「もう畑が汚染されているなんて
みんなわかっています。でも一度ここで採れた野菜を食べてみたって
すぐ何か起こるわけじゃない。それで、もう生きるのを自分で大変にするのは
やめにしようと思って何かをやめることにするんです。
忘れることにさえしてみたら、日々の暮らしは本当にシンプルになるからです。」
現在の彼女たちにとっての最大の脅威、それは元に戻ったかに見える福島の
日常の中で、放射能の存在を忘れていくことなのだ。

 「一番難しいのは思春期の子供たちなんです」と語るのは、郡山に住む
中高生の母親たち。「中学生たちはマスクをつけるのすら嫌がるし、
牛乳を飲むなと言っても言うことを聞いてくれません。ある日娘が外出していて、
今日はどこに行ってたの?と聞いてみたら「福島牛のバイキングに行って来た!」
なんて嬉しそうに言うんです!家ではこんなに気を付けてるのに。子供が
「俺は原発推進派だからな」なんて言うこともあるんです。」

 チェルノブイリでは14歳から19歳までという、彼らを守ろうとする人たちの
言うことを聞かない世代が、ガンの発生数が一番高かったという。彼女たちは、
郡山に住む小中学生が集団で安全な場所に疎開できるようにと郡山市に対して
裁判を起こしている。けれども裁判は棄却された。彼女たちは裁判を続けることに
したものの、あくまでも匿名であろうとする。「放射能のことについて何か言うのは
まわりから嫌な目で見られます。今ではもう、みんな普通の生活を送っていたいんです。」

 今日では福島の中学では、彼らの継続的な部活動は廊下で行われている。
学校側の見解は「雪が降ってあまりに寒いから。福島の冬というのはこんなもの」
だそうだが、この取材をしていた1月はじめ、お正月の地震の後でセシウムの
降下量が急上昇したというのは誰もが知っていることだ。13歳の中学生の息子の
母親であるSさんは、そんな学校の先生たちの態度に耐えきれなくなったという。
彼らはもはや生徒に対して放射能への注意を促すことをやめたのだ。

 そんな態度に嫌気がさした彼女は子供を連れて関西に引っ越しをすることにした。
私たちが彼女の息子に、避難することについてどう思うかと尋ねてみた時、
彼女の運転する車内は長いこと重い沈黙に支配されていた。
運転席からこちらを振り返った彼女は目に涙を浮かべながらこう聞いた。

「あなただったら? あなたが私の立場だったら?

 あなただったらどうします?」


ーーーーーーーーーーー

 追記

 何人かの方に読みたいので訳してほしいと言われたので
訳してみたこの文章がけっこういろんな方面に流れているようで驚いています。
ということはそれだけこのルポタージュのような内容が一般には
知られていないということなのかなと思います。
こちらに書かれていることは10日間朝から晩までの取材を4ページにまとめたもので
ごく一部といえば一部です。かつ取材は1月でしたので情報としては
随分前、「そんなこと知ってるよ!」と言ってもらいたいような
ものですが、そうでもないから色んなところに流れているのかと思います。
この取材の間に耳にしたことを「福島見聞録」の中に書かせてもらっています。
まとまってはいませんがもっと生の声を知りたいという方は
少しのぞいてみてください。(特に1月10日から17日くらいまで)




マリークレール「福島の子供達は避難すべきか?」訳part1

2012年04月07日 | 福島見聞録

大変お待たせしました。
沢山の方から「何が書いてあるのか知りたい!」との声をいただいた
フランスで3月8日に発売されたマリークレール3月号の全訳が完成しました。
2部にわけて掲載しようと思います。



Marie Claire3月号

「福島の子供達は避難すべきか? 」
Faut-il évacuer les enfants de Fukushima?
 
文/Sophie Pasquet ソフィー・パスケ(フォトジャーナリスト) 
取材同行通訳 フランス語翻訳/ 飯田美樹


 福島原発の事故から1年が経つ今も、福島に住む人たちは放射能のある中で
生活を続けてる。彼らが直面している恐ろしいジレンマ、それは国や県の
言っていることを信じるか、それとも危険性を指摘する医者たちが言うように、
避難をするべきなのか・・・

 新幹線で福島駅に着いてみると、普段より呼吸を控えようとしている自分に気が付いた。
けれど、チェルノブイリの事故以来、最大級の原発事故で有害物質がまき散らされた
空気の中で、そんなことをしようとするのは馬鹿げた試みなのだった。
そのことを話すと2児の母のAさんは笑いながらこう言った。「私たちも始めは
そう思ってました。呼吸してもいいの?って。だけどすぐに呼吸しないなんて
無理だってことに気が付くんです。爆発の後から日常のほんの些細なことですら、
いちいち疑問に思うようになりました。この水は飲んでもいいの?食べ物は?
外でもう干せなくなった洗濯物は?ちょっと窓を開ける時ですら、風向きを
確認してから開けるんです。」

 とはいえ、原発から60キロの福島市は他の都市と大して変わらない雰囲気で、
一見すると日常を取り戻したかに見えてしまう。ここには津波や地震による痕跡は
ほとんど残ってないし、すれ違い様にマスクをしている人を見かけることすらまれなのだ。
この街で事故を想起させるのは、ほんの小さなディテールだ。母親のカバンに入った
ガイガーカウンター、子供の姿の見えない公園、窓際から離して置かれた子供用のマットレス。
そして雨や雪が降った時、空気中の放射性物質が地上に舞い降りるのではという苦悩。
福島市には別名放射能通りと呼ばれる道もあり、その道では測定器が高い線量を示すらしい。
それから家庭の親密な空気の中で、親たちの頭を離れることがない疑問。


「今日の福島は、子供達にとって一体どれほどの危険性があるのだろう?」



大量の鼻血と原因不明の下痢

 1月には福島市内で市民主催の子ども健康相談会が開催された。
健康相談会会場には毎月日本中から10名くらいの小児科医や栄養士、心理士たちが
ボランティアでやって来て、福島の住民たちが無料で身体の調子や悩みについて
相談できるようになっている。ここにやってくる両親は、中学生の子供の慢性的疲労や、
小さい子の気になる症状、病院での検査結果などを抱えてやってくるという。


 チェルノブイリの架け橋という団体のメンバーで、小児科医のHさんは単刀直入に
こう言った。「福島の子供達から、大量の鼻血や下痢が報告されています。
チェルノブイリ以来、これらは外部から大量の放射線を浴びた結果の初期症状だと
わかっています。子供の免疫力は大人の8分の1の強さしかないのです。」

 ボランティアチームの医師、Nさんによると、爆発後の急激な外部被曝に加え、
呼吸や爆発の後数ヶ月、数年にわたって食べるもので引き起こされる内部被爆が、
長い目でみると一番危険なのだという。そういうわけで、放射能の危険性を
指摘する医師たちは、今日の日本のコンセンサスとは違った言葉で話を締めくくる。
「福島産の果物や野菜、水や牛乳、米はなるべく避けること。体内の放射性物質を
除去する働きがあるペクチンをなるべく摂取すること。子供達の様子を定期的に
チェックすること。可能な限り頻繁に、遠く離れた所へ子供を連れて行って
保養させること。そしてもし可能なら--- 避難させること。」



 避難・・・愛着のある土地や人から離れて引っ越しをする・・・。 
福島県では人口200万人のうち、すでに6万2千人が県外へ避難したという。
25年前のチェルノブイリ同様に、まずはそれが可能だった家庭から。爆発直後、
避難区域に指定されたのは原発から20キロ圏内の場所だけだ。この現状に対し、
数々の団体が、福島市まで避難区域にすべきだと主張してきた。というのも、
福島市では避難区域で立ち入り禁止の場所よりも高い放射線量を示すところが
あるのだから・・・「少なくとも家庭を持つ人や妊婦さんで避難したい人たちは
補償をもらって避難できるようにするべきだと思います。20キロの避難区域なんて、
当時のチェルノブイリ以下ですよ。」と言うのは福島市に市民放射能測定所を設立したIさんだ。


 もちろんお金の問題は避難を妨げる主要な要因だ。けれど問題はそれだけじゃない。
福島に残る方がいいと言う人たちも沢山いるのが現状なのだ。離れよう、と決心すると
家族がバラバラになることもあるからだ。30代でエレガントな女性のNさんは台所で
3人の娘さんたちの料理を作りながら取材に答えてくれた。「5月に内閣参与の方が
涙ながらに訴えているのをテレビで見たときにすごく衝撃を受けました。彼は政府が
子供達の放射線許容量を引き上げようとしているのが許せなかったんです。
それを訴えて彼は辞任しました。その頃長女のリンパ腺は腫れ、大量の鼻血を
何度も出しました。鼻血を止めるのにティッシュを一箱使うことすらあったんです。
私のまわりには今までに見たこともないような症状を出した子供達が沢山いました。」
彼女は料理を教える仕事を中断し、住んでいた郡山市から110キロ離れた山形県の
借り上げ住宅に移ることにした。3部屋あるアパートの家賃は山形県が払ってくれる。
それ以降彼女は家族の形をなんとか保とうとして努力している。旦那さんは週末に山形に
やってくる。「この生活は以前に比べて毎月10万円近い出費がかかります。
今のところなんとか節約してやっていますが、この先は? 
日々の生活の中で、主人と離れて暮らすのは本当に辛いです。」


 事故から1年が過ぎようとしても、この出来事は人間関係を引き裂いている。
カップル間、家族間、世代間、市民間、避難区域に指定された人たちと
自主避難者との間でも、放射能の危険性について話を始めた途端、
関係性がギクシャクしたものに変わってしまう。強制避難区域を広げることを
拒否した日本政府は「除染」の効果を強調することを選び、福島での生活はもはや
危険ではないと言い張っている。福島市役所を訪ねてみると、今後5年間で
森林も道路も全ての家も放射線の除染が完了する予定だと説明された。

(続く)


福島との関わり方

2012年03月08日 | 福島見聞録

 「もう考えるのをやめたんだ。」

 それが投げかけた質問に対する はっきりとした返答だった。
どうして彼は東京に居続けることができるのだろう?
私には不思議で仕方なかった。だから私は彼に尋ねた。

「みきちゃんには未来があるから避難した方がいい。」

爆発の後、どうしたらいいのか不安で仕方なかった私に
沢山の有益なアドバイスを暮れた大学時代の友人は
西日本の驚くほどのんびりした雰囲気の中で一人
パニックになってた私にフランス行きを勧めてくれた。
「頑張ろう!日本!!」のかけ声の中、そんなのありかと
思ったけれど 彼は「未来があるから」と言ってくれた。
それが私には本当にありがたく 命の恩人のようにすら思えてた。
フランスに行って何週間かしたときに 「ほらね!
みきちゃん、プルトニウムが発見されたよ!あー今
もうフランスなんだね ほんとよかった、、、」と電話口から
彼の安堵する声がきこえた。


 福島に行ってから 顔をつきあわせて話す機会は
なかったけれど いろんな事実を知った後 彼に
「一体どうしてそれなのに東京にいられるの?」と
尋ねてみたら 前述の答えが帰って来たというわけだ。

 「だってそうしないとこんなところで生きられないよ!」
そう まったくその気持ちはよくわかる。私は福島に
行ってから体調を崩し、1ヶ月に2回も寝込んだので
そして友人たちによれば「それは放射能云々じゃなくて
考え過ぎ!」ということなので もう考えるのをやめにした。
私も普通に戻りたかった。もう放射能なんてなかったことに
すればいい。いちいち気にして外食をしたら 何一つ美味しくない。
だいたい内部被爆をしていたところで 私は今こうして
東京にいられる喜びの方が大きいように思えるわけで
「避難!」「命!」「放射能!」ただそれだけで 
全てを一気に捨ててしまって 見知らぬ土地で新生活ができますかって
私はそんな器ではないと思う。だいたい今頃面白そうに思える
京都にしたって 5年もいたのに全然なじめなかったじゃないか、、、


 私が達した気持ちの上での結論としては 長期的には
避難を考えた上で、今は多少のことはしょうがないので
もうなかったことにして(そうプルトニウムも放射能も。
だって気にしてたら気が狂うのがよーくわかった)もう
マスクだってしたくない(だって1日中してた後に
インフルエンザにかかったりもしたわけだから)
だったら免疫力を高めて いつ終わるかわからない
人生をもうちょっと前向きに楽しんだ方がいいではないか?
放射能がどんなに怖いものであっても その影響が来るより先に
精神的な抱え込みはもっと人をむしばんでいく
(だから私はミスター100ミリの言うこともまんざら嘘ではないと
思わなくもない、、、「心配し過ぎが一番良くない」)
私は自分の体験を通してそう思ってしまったから
彼が結論づけたように「考えることをやめてしまう」
もう福島さえも 忘れてしまう それが私の身体にとって
一番いいのではないか と 思っていたわけなのだけど。


 ところがどっこい 今朝カフェにいてメールをみてたら
フランスの電子版の雑誌がもう今日から買えるという。え?
フランスはまだ8日になってないのに?いや、午前0時を過ぎたのか
ということは、マリークレールが発刊だ!!と
電波の弱いカフェだったのに 無理矢理電子版を取り込んで
どこどこ?どんな?と思って記事を探し当てたら載っていた。
「福島の子供達は避難すべきか?」という カラー5ページの記事だった。


 難しいジャーナリスティックなフランス語を読みながら
あーこれを載せることにしたんだなあ ああこれは印象的だったなあ
ああこれは本当に映画の最後みたいなシーンだったなと
沢山のことを思い出し 何行かごとに 福島でやたらと感じた
鳥肌のような 身体がゾクッとする感じがやってきて
だんだんとその世界に入ってしまう。嗚呼ソフィ、、、やっと
忘れかけていたのに、、、久しぶり に また 頭がそのことで
一杯になり やるべきことが山ほどあるのに「これ訳さなきゃ!」と
思ってしまう。勢いでお世話になった人に電話をしたり
フランスにメールを書いたり ああ また福島モードになってしまった、、、


 記事の中にはこう書かれてた。「もう生活を複雑にするのは嫌だと
思った人たちが 忘れるという決断をする」そう人生をシンプルに
するために。放射能 放射能と言っていたら どんなにそれが
大事なことでも たくさんの亀裂を生んで 関係性が苦しくなる。
そこで抱えるストレスと 話すのをやめるストレスと 避難を選ぶストレスと?
沢山のストレスの中で天秤にかける。そしてソフィーはこう問うていた。
彼女にとって 記事の最後はもう決まってた。日本にやってくる前に。
「それがあなただったら?あなたならどうする?」


 私は?私だったなら?福島から帰った直後、私はもう避難!という
モードになった。放射能についてもやたらと調べた。そして
たくさんの亀裂を生み出し 頭はおかしくなりかけて 生きることが
無理そうになってきた。だって子供の靴にプルトニウムがついてたら?
そんなこと考えながら生きられるように きっと人間はできていない。
だから私の身体は私の頭にストップをかけ なんと2回も「もうやめにしろ!」と
言って来た。そうして元気になった今 忘れたい とこなのだけど
何事もなかったかのように それに東京もおもしろそうだ
そう思う自分がいる一方で 時折いろんなことを思い出し
ドキッとする自分も存在している。それだけじゃない。
なんだか私は ちょっと責任を感じてしまっているんだな。


 本当は 母だったなら 息子に対する責任を 一番に感じてたら
いいはずなのに 私はこういう性格だからか 社会的責任みたいなものを
ちょっと勝手に感じてて 今回も2回記事を読み たくさん感動した後で
ああ、でもあれについては述べてないのか あああれらは割愛されたのか と
「その他のもの」になってしまった 沢山の時間や人を思い出し
「この取材で一冊の本が書けるね」と言われてた 10日間の
ソフィーの取材は たった5ページ。5ページってそれはすごいことなのだけど
でも一緒にずっと居た者からすると 5ページか、という気もしてしまう。
沢山の人がいろんな想いで彼女に話をぶつけていった。でも
雑誌には制約がある。しかもマリークレールはファッション誌。
見せ方にもこだわらなきゃいけない。すると1ページは写真になって
記事本文は4ページ。しぼりにしぼりにしぼりにしぼって 4ページになるわけだ。


 簡潔に書くということ 

 それはフランスではかなり大事にされてることらしい。
それはよーくわかるけど でも 字数が制限通りになれば
全てがうまくいくわけじゃない。そのために失うことだってある
そう 焦点を合わせるために 抜け落ちる物語は沢山あって
それは写真のセレクトと同じことだけど

 でも 福島に関していったら 私には全てが衝撃的だった。
テレビも雑誌もラジオも映画も たくさんのものを撮り
その一番いいセレクトだけを載せていく。それはそうなんだけど
指の間からするすると 砂粒のように抜け落ちて行く
物語の中にだって たくさんの想いや感情や人間模様が存在してる。
でもそれらはそこでは書かれない。撮影されても載ることはない。


 福島の物語 は カフェの物語にやっぱり似てる。

 たくさんの人の想いがあって 沢山の人の人生がある
だけど彼らがいくら感動しても いくら言いたいことがあっても
それら小さな物語 は なかなか紡がれることはない。
私は通訳だったけど 全ての記憶が私の脳みそから消される前に
書き留めておこうと思った。それはまさに見聞録というタイトルそのもので
見聞きしたことを備忘録的に書き留めておくものだった。
書いたなら 忘れてもいい でも書かないで忘れることは
私にはできそうにないことだった。だから私はひたすら書いた。
その中には ソフィーの記事からは抜け落ちたけど
おそらく2人の頭の中に焼き付いている様々なシーンもあったと思う。
ソフィーは記事では日本政府の対応や福島県や学校側の態度について
ほとんど触れてないけれど 彼女だって折に触れて怒ってた。
でもそれら は 記事を記事として一本の筋を通すために
きっと選択されなかったのだろう。


 紡がれない物語 を 紡ぐこと
書くことにどれくらい意味があり 書くことが何かを変えることになるのか
私にはまだわからないけれど やっぱり1つ感じることは
私は一人の日本人として 大切なものを見てきたらしいということだ。
ソフィーの記事もちゃんと出た今、私も物事をみてきた人として
自分なりの立ち位置をもう少し考える時かもしれない。
それはまるごと忘れてしまうのでもなく かといって考え過ぎで
体調不良になるのでもなく 120パーセントの力は注げないけれど
何か もっとおどろおどろしくない力を使って ネガティブじゃない
力を通じて 何かできることがあるのなら
私もそこに加わりたい。誰か 黒船に頼るだけじゃなく
書くということを通して自分にもできることがあるのなら
何かできたらいいのだけれど。まずは記事の翻訳か!

民主国家?

2012年01月30日 | 福島見聞録


 もう頭と身体を休めるためにも
なるべく福島のことから距離を置こう、、、と思ってるものの
物事はいろんなところで動いてて ああもう!私がもっと
元気だったら「私がやります!」とか言えるのに、、、
と思いながらも こんな状態では書くくらいしかできないわけで
だからやっぱり書いてしまおう。昔は活動家だったのに、
と思ってみても 今の私の状態で は ミーティングをしたり
実行委員会を動かしたりとか そんなのきっと無理だろう
いつか誰かが言っていたよね?「一人の100パーセントより
100人の1パーセント。」福島は一人の100パーセントばかりで
みんなものすごく抱え込んで倒れそうになっています。
それでもやっぱり待ってられない!と思ってしまうのは
ちょっと活動家だった人の性なのでしょうか、、、


 「日本ねえ 民主国家だなんて言ってるけどねえ
本当は北朝鮮とおんなじなんだよ。北朝鮮のこと馬鹿にしたような目で
見てるけど 実際は大して変わんないんだよ」と福島の居酒屋で
隣に座ったおじさんは熱をこめて語ってた。
私もその時はそうですよねえ!と思ったけれど 福島のことを
知れば知る程そう思う。だって今でも情報統制がされてるんだもん
だからまたもしどこかで原発関連で死者が出たり 新しい爆発が
起こったとしても それはきっと だいぶ後になってから私たちは
知るのだろう。「誰も本当のことを知らない もしくは一部の人だけが
知っててにぎりつぶしている」という状態が一番怖い。
福島の人も言っていた。「本当の情報が知りたいんです!!」


 本当は?どこまで安全?どれ以上はだめ?だれか本当のことを教えて
そのための知識や研究じゃなかったの?じゃなきゃなんのために
私たちはモルモットみたいに統計をとられてきたんだろう?
研究者 と それらしい顔をして世に顔を出すのなら
せめて少しは因果関係くらいちゃんと教えてよ!

 今の日本の現状をお伝えするメールを転載します。
FOEの満田さんは福島の渡利地区のためのぽかぽかプロジェクトなど
とても全力で頑張っている素敵な女性です。

=====以下転送======

東京の杉原浩司(福島原発事故緊急会議/みどりの未来)です。
FoE Japanの満田夏花さんのメールを転送します。「原子力ムラ」の露骨
な巻き返しです。NHKの番組が大きな意義を持っていることを実証する
ものでもあります。犯罪を正当化する人々からの圧力に抗するために、ぜ
ひ電話とメールで働きかけをお願いします。[転送・転載歓迎/重複失礼]

…………………………………………………………………………………

みなさま

FoE Japanの満田です。
トンデル博士も登場し、ICRPの低線量被ばく国際基準にメスを入れた、
下記の番組のディレクターに対して、原子力ムラからはげしいバッシング
が生じているそうです。

番組名:12月28日(水)午後10時55分~11時25分にNHK総合TV
『追跡!真相ファイル』で「低線量被ばく 揺らぐ国際基準」

番組は下記でまだ見ることができます。私も見ましたが、低線量被ばくの
過小評価に警鐘をならす力のこもった力作だと思い、このような報道の意
義は高いと思いました。
http://www.dailymotion.com/video/xnb9h8
バッシングの内容は下記です。そうそうたるメンツです。
http://wwwsoc.nii.ac.jp/aesj/snw/media_open/document/nhk_kougi120112.pdf

このままでは、心あるディレクターがつぶされてしまうでしょう。ぜひ、
みなさん、「このような番組は意義がある!」「低線量被ばくの過小評価
にメスをいれた続編を!」「ディレクターがんばれ」というような前向き
な評価のコメントをNHKに届けてください。視聴者の声うけつけの電話
番号は下記です。
0570-066-066

NHKの「みなさまの声にお応えします」のページは下記です。ここから
意見を送ることもできます。
http://www.nhk.or.jp/css/index.html

どうぞよろしくお願いいたします。
満田

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 少しでも日本のジャーナリズムに頑張ってほしいです!
草の根ジャーナリズムも市民も今度こそ力を出せるといいですね!

フランス人の驚き

2012年01月30日 | 福島見聞録


 何で私は書くのだろう?
それは寝床でもできるから?活動をするよりも
やることが少なくてすむことだから?例えば
ミーティングをするために子供をどうやって預けようとか
考えないでもすむことだから?それとも 誰かが読んでくれるから?


 どうしてかはわからないけれど
福島で 私の中で何かが変わったあの夜
「少なくとも私は書くことができる」と気がついた。
そして私のブログには少なからず読者の方がいるわけで
それだけでもきっと何かになるのだろう と
私は書くことにしてみたわけで 今はきっと
自分の中の消化不良をどこかに出して行きたくて
それで書いているのだろう。


 さて、福島の取材が終わって時折フランス人と
電話で話していると 驚かれることが多々あって
一番驚かれるのは日本人の放射能に対する知識のなさだろう。
それからそれに対して政府やジャーナリズムが何もしてこなかった
どころかその逆をしてきたということだろうか
「えっ そんなんでどうするつもり??」と驚かれる。


 フランスは原発は日本よりよっぽど多いし
原発に関しては議論することもタブー視されてきたほど
ロビイングが強かった国らしいけど それでも彼らは
チェルノブイリの教訓がすさまじかったのか 放射能の
怖さについてはよく知っている。それがどこまで飛散しうるか
それがどれほど遠くで、長い期間でも持続しうるか
そしてどんな病気がありうるか だいたいのことを
一般的知識のように知っている。


 私はというと、福島で出会った普通のお母さんたち同様
爆発の時までは何一つ知らなくて「チェルノブイリ」については
名前だけ知ってるくらいで それがいつかも 意外とその時
日本政府はかなり厳しい輸入禁止策をとっていたとかも
全くもって知らなかった(その当時の本で「こんなに高い」
と書かれているセシウムの値は今の日本の基準やらでみると
「そんな高い?」と思ってしまう程のもの、、、)
そういうわけで爆発直後に「チェルノブイリを知らないのか!!」
と言われて頭が大混乱した話は何度も書いた。さて
これからはどうなるのだろう?
私が出会った人たちの話を総合すると、爆発の程度は
チェルノブイリ以上であって、その後の対策のひどさは
チェルノブイリよりもひどいらしいので、結果としては
「チェルノブイリよりも重大な結果がもたらされるであろう」ということ、、


 フランスにも 日本と同様 本当の情報はまだあんまり
伝わっていないから 最近のちょっとしたフクシマ離れの
影響もあり(大統領選などで話題を持って行かれているらしい)
ジャーナリストもそんなにそこまで来てなさそうだ。とすると
訳す資料は日本が公的に発表しているようなものが大方になるとすると
日本のジャーナリズムは隠蔽された情報ばっかり流しているから
本当のことはフランスにだって伝わらない、、、どうか
ソフィー、がんばってくれと願うばかりだけれど
私もちょっとでも話をするとみんなが驚く。「え!それはまずいだろ!!」


 そう それは まずいんですよ!そう そう言ってほしかった!

 これってかなりひどい状態なのに それを放置してるんですよ。
日本政府は何もしないの。それどころかもう収束したとか言ってるの。

 「それに対してジャーナリズムは?日本にもジャーナリズムがあるだろう!」
「ジャーナリズムは支配されてて本当のことが言えないの、、、だからもし次に爆発があったって
原発関係で死者が出たって 私たちが大きな新聞やテレビで知るのは
何週間後か 一ヶ月か 二ヶ月後だったりするんだよ
それじゃ遅すぎるわけじゃない!!」(そうでしょ?そうと言ってくれて
ありがとう、、、だからフランス人が好きなのだ)


 一番福島でまずかったことは おそらく大変なことに
なっているというのに「政府も大きな組織もジャーナリズムも
ほとんど何もしてこなかった」ということだろう。それを
「子ども福島」の中手さんは「棄民政策」と呼んでいたけど
本当に見てみぬふりを、何事もなかったふりをしてたのだ。
私たちが学校に取材に行ったとき、ソフィーは信じられない!と言っていた。
「学校では放射能に対する教育は何一つ特別に行われてないの?」
そう、事故の後でも それらは特に何もなかった。
保護者あてのおたよりは配られてたけど 生徒向けには
先生たちがちょっと注意するぐらいで 放射能とはこういうもので
こんな危険があるからこうするように と しっかりとした
特別な講義は一度も組まれなかった。

 それどころか 保護者たちが反対しても 新学期は
いつも通りの日程で始まっていた。また信じられないことだけど
爆発直後の3月16日という日は高校の合格発表で
通常は掲示板を見に行くものだから という理由で
爆発が3回もあった後なのに(しかも一番大きな爆発の直後)
中学3年生は丸一日その日は外に出て合格発表に行ったという。
この話をきかせてくれた方がいうには、一人だけ
先生の中で放射能の恐怖を知っている人がいて
その人は高校に電話すればわかる話だから、と
この日ばかりは行くべきでないと懇願したらしいけれど
「前例がない」からとかそんな理由で 彼らは結局
「何事もなかったように」一日中外に出ていた。
そのことを後悔している親御さんも 今では沢山いるけれど
それは当時の人たちが「何も知らなかった」というのに加えて
「そんなこといわれても困る。学校は学校だから」という
学校側の強気な態度があったから。


 私には日本の学校というのが未だによくわからない。
そういえば小学校、中学校はまだましだけど
高校にいたっては除染すらされてないという話も確か耳にした。
「高校生に対しては全くケアがないんです」と誰かが言ってたな
高校生は自転車で通学するし 外にいる時間も長い。
もちろん部活をしている時間も そして親の言うことには耳を貸さない
そう お母さんがこう言っていた。「うちですごく食事に
気をつけててもね あの子が友達とバイキングに行って来たっていうんです
で へー 何食べて来たの?って聞いたらね、「福島牛の食べ放題!」」
(一同卒倒、、、)確かに高校生は肉が食べたい。肉も魚も
食卓からかなり姿を消してしまうとフラストレーションもたまるだろう。
そして彼らは友達と同じようにしていたいから 自分だけが給食を
食べないで家からお米を持って行ったり 友達がしないのに
マスクをするのがとても嫌だ。みんなが部活をしているのなら
自分だって外でしたいと思うだろう 放射能なんてわからないから。


 「俺たちはなあ 命かけて外で部活やってんだよ」と
室内で部活をすることにした子に対して言った子がいたらしい。
それがどういう意味なのか 私にはわからないけど
おそらく彼らも少しはきっと「本当は外でやりたいわけじゃないけど
みんなやってるからやってんだよ」と言いたいところがあるのだろう
「みんなやってるからやってんだよ」「だってそういうものだから」
「だって部活は外でやるのが学校だから」「だって始業式はこの日に
はじまるものだから」「だって県はもう安全だっていってますから」


 みんな薄々心のどこかでいいのだろうかと感じてる
本当に安全なんてことあるだろうか だけどこうして理由をつける
「だってみんなもやっているから だからきっと大丈夫」
本当はみんながいれば安全だなんてことはない。9割の子供が
外で部活をしてるからといって この先彼らに何の問題も出ないかというと
そんなことは全くわからない。測定所の人はチェルノブイリと照らし合わせて
中高生が一番気にかかる、と言っていた。チェルノブイリでも
意外と問題だったのは3歳くらいの小さい子よりも中高生くらいだったとか。
彼らは親の言うことをまずきかないし 友達がやっていないと
自分もやめる。私たちは機会を活かして中学生たちに聞いてみた。
「ねえマスクしてるの?」「うーんしてるときとしてないときがあるかな」
「なんでマスクするの?親に言われたから?」「寒いから!」
「顔隠し!」「恥ずかしいから!」誰も決して放射能とは口にしない
本当は何をどう思っているのか 私たちにはわからなかった
だけど一番彼らが信頼していて言うことを聞く 先生たち、
あなたたち が 彼らにもっと大切なことを教えなかったら
彼らはこの先どうなるのだろう?先生たちが 爆発の後も
特に何もなかったように「最近はもう特に変化はないですね、、、」
なんてやってていいのだろうか?誰よりも子供が信頼している先生たちに
活動をしている母たちのような「大人としての責任」とか自覚はないのだろうか??

 
 「先生あなたはかよわき大人達の代弁者なのか?」と
尾崎豊は言っていたけど 先生が東電や国の代弁者になってしまっていいのだろうか?
いろんなところで 今 責任が求められていると思う。
子供を守るために自分で動き始めたお母さん達は
「5年後、10年後の子供のために」とよく口にする。
それらを見据えてみたときに 本当にいいことって何なのだろう?
爆発直後に無知であったことを後悔したのなら 一年が経った今
今度はその教訓を活かして どう対応をしていくか
どう将来に備えて行くか そうなったらいいのだろうけど
そもそもそれを後悔してるのはお母さんたちだけなのだろうか。。。

 子供達 を 守るため に まだまだこの先できそうなこと
きっとそれらは山ほどあると思う。疎開でも、大掛かりな保養休暇であっても
もうちょっとしっかりした放射能に対する教育であっても
大型の屋内型プレイルームをもっと作るであっても
スクールバスみたいなものを導入するとか 方法はいくらでもあると思う。
「除染したから大丈夫?」本当に 大丈夫なんだろうか、、、

(郡山市の中学生14人の避難を求めて争っていたふくしま集団疎開裁判は
結果として負けてしまいましたが、それに対してもう一度市民で考え、
判決を下してみようという試み、世界市民法廷というのが
東京で2月26日に開催される予定です。興味があったら
また告知しますので予定をあけておいてくださいね!
世界の人たちにも福島の現状を知ってもらおうと沢山の人が
裁判の文書の翻訳をがんばっています 私も参加すると思います)

ストレス

2012年01月29日 | 福島見聞録


 福島でよく「避難するストレスと残った時のストレスを
天秤にかけてみると、、」という話を耳にした。
どっちにしても ストレスがある。それをだいたい
見積もってみた上で どっちの方が 自分にとって
堪え難く どっちだったら少しはましかと判断をしてみるらしい。


 私たちが初日に訪ねた まるで絵本から出て来たような
雪の降り積もる山の中にある素敵なお家に住んでいる奥さんは
旦那さんが外国人で フランスにも夏の間避難をしたし
3人目のお腹にいるお子さんを外国で産んだらと強くすすめられていたけど
ストレス天秤にかけて やめることにしたらしい。

 彼女が話してくれたフランスでのストレスの話はよくわかる。
優しくはしてくれるけど しつけに相当きびしいあちらでは
常に子供の行為に気を張ってなければならなかったこと
言葉の違い それから飛行機に乗るときに 旦那さんも
いないのだったらどうやって2人の子に目をやっていられるだろう?
お腹にはもう一人いるというのに 3人を女一度で見るのは
それだけで並大抵のことではない。

 そんな経験をしてきて ちょっと嫌になってしまった彼女は
もう外国での出産はやめることにして、福島に残ることにしたという。
そこには素敵なお家もあれば、旦那さんも、見知った顔の
気心の知れた人たちもいる。そうしていつでも話ができる。
例え料理はミネラルウォーターで、子供達には家の中で
遊びなさい と言わなくてはならなくっても 彼女にとっては
こちらの暮らしの方がそれでも気が楽 というわけだ。



 山形で私たちがお話を伺った女性は郡山から避難をして来た人で
郡山が好きで帰るたびに本当に戻りたいと思うけれども
子供が戻るたびに症状を出し、どんなに自分が帰りたくても
母としてその症状はみてられないので山形にいる、と言っていた。
山形は縁のあったところなんですか?と聞いてみるとそうではなくて
県の借り上げ住宅があったから。お家を見ると本当にもう
普通にお家で、とてもひとときだけ、というような仮住まいな感じがしない。
彼女の場合は仕事を持てているらしいけれども、子供を
保育園に預けられなくて働けない女性も沢山いると言っていた。
そんな人たちは節約に節約を重ねても10万円くらいかかるらしい。
するともう避難してから100万くらい使ってしまって
いよいよ貯金が底をついてきた人たちもいるそうだ。
そうして彼らは泣く泣く帰ることになる。例え線量が高くても。
(福島市や郡山市に関しては相変わらず避難に関する
手当などは一切出ていないと思います。「今後のための
保証金」みたいな大人8万円、子供40万円という
わけのわからない(なんかあったらそれでどうにかしてねと
言っているようにしか思えない)お金がそろそろ配られるらしいですが)


 人間にとって 一番苦しい 身体に悪い影響を
及ぼすものは 放射能よりもストレスなんだろか、、、
私は福島から帰って来て頭の中が不安やら憤りやら
抱え込んだことやらであまりにいっぱいになり
結局3日寝込むはめになり まだ外出もできない状態ですが
それは放射能どうこうじゃなくて 激しいストレスによるものだろう。
ストレスは放射能みたいに「5年後」とかっていうスパンじゃなくて
「10日後」とか、けっこう早い時期に自分の身体に相当なダメージを
残すのだとしたら、私は放射能の直接的影響よりも、
多大すぎるストレスで、これから病んで行きそうなお母さんが沢山いるんじゃないかと思う。


 「私、がんばろう福島って言葉が一番嫌いなんです」
と吐き出してくれたお母さんはもうすでにがんばれることは
全部がんばっていた。子供のための会合にも参加して
誰も応じてくれない取材にも何度か応じて、もちろん子供の
ための気もつかって 一生懸命やっていた。
そのうえ「がんばろう」なんて言われてしまうと
もうそんな力はないよ、もういい加減にしてよ!と思うのだろう
本当に 福島のお母さん、そして全国で放射能を気にしている
お母さんは精神的に限界に来ているんじゃないかと思う。
だってこんなの耐えれないよ、だれかそんなのまっぴらな
嘘でした、本当は何もありません、って言ってくれたらいいのに、、、
と心の底では思いたくなるのだろう。


 「福島にはね 放射能に対して色んなレベルの人がいるんです。
福島産の野菜でも気にしないわって人がレベル2くらい?
西日本の野菜じゃないと絶対食べないっていう人がレベル8くらいかな
レベル9はね、そうね そういう人はもう避難した人。」
と笑いながら語ってくれた人がいた。彼女は自分をレベル7から8くらい
だと言っていた。相当気をつけていきているけど でも福島に
残っている人。避難というレベルまで 針が振り切れてはいない人。
「お店もまだだしたばかりだし、、でも次に爆発があったら絶対逃げる!」
と言っていた。

 今にして思えばこのレベル8くらいというのが一番苦しいだろうと思う。
どうやったら彼女にはそんな生活が可能なのだろう?
彼女はパスタをゆでる時すらミネラルウォーターを使うと言っていたけど
じゃあお風呂の時は?気にならないわけはないだろう
外食の時は?「それは他の楽しみってことで気にしないことにしているの!」
たしかにそうしないでは外食の楽しみは放射能を気にした途端
すっかり気持ちも萎えてしまう。私だったら?もう耐えられないから
レベルを落としていくだろうな 「そんなこと言われてももう無理!
身体もお金も持ちません」と。本当に気をつけているお母さんたちは
すごいと思う。だけど私だったらそれだけで病気になってしまう。


 「武田教授のブログ?あー昔はけっこう読んでましたね。毎日。
でもある時から気分悪くなって来て もうやめたんです。
今は2週間に一度くらい。」そう言っていた人もいた。その気持ちが
今の私にはよくわかる。あんなの毎日真剣に読んでいたら 恐ろしすぎて
身がもたない、たとえ情報が正しくっても 知らないでいた方がましだと思う。
そういえば日本には「知らぬが仏」って言葉があった。
「だからね 生きてくために どんどん自分を許してくんです。
もうここまではいいことにしよう。マスクつけなくてももういいじゃん って
一回はずしちゃったんだから。だから私は理由を失って
もうしなくなりました。」と他の人が言っていた。


 激しい苦悩とストレスのあと 福島に残ったものは
「ものすごく気にする人」と「もう何事もなかったかのように
日常を送っていたい人たち」だった。だからきっと後者の人は
何か誰かにいわれると 強く反発したくなったりもするのだろう
「もう知ってるよ!」「いまさらなんだよ!」「じゃあどうやって
この中で生きていけっていうんだよ!」知らなかったことにして
何事もなかったことにしたい もう波風なんてたてたくない
そんな中 で 生きて行く それが福島で生きるということ
福島だけでなく 放射能の危険の中で生きるということ


 人間には そんな機能は元来備わっていないと思う

 そんなストレスに一年中さらされて生きてられる程
人間の精神力って 強くできてるものなのだろうか?
私の場合は到底無理だ、、、「目に見えない」
放射能を気にして生き始めてしまったお母さんたち
子供の健康より前に 私はお母さんたちの精神状態が気になります

避難?

2012年01月28日 | 福島見聞録


 福島での取材のお手伝いが終わって今日で10日。
全ての行程は10日間だったから それよりももう
日がたったことになるわけだけど 私の中では
フクシマは むしろその後にはじまったような
相変わらずどうつきあっていいのかわからないまま
この10日間やたらと体調が悪くなり
昨日からはついに寝込むことになってしまった。。


 それでも?それでも書くの?
書けば気がすむとでもいうのだろうか?
それとも書けば書く程想いは大きくなってしまって
結局自分がつらくなっていくだけなのだろうか
「考え過ぎがいちばんよくない」それは
よーくわかっていても どんなにやめようと試みていても
頭にこびりついてしまったいろんなものたちは
簡単にベリッとはがれてはくれない。


 そもそも私にとっては今回これが被災地に行く
初の経験だった。だから多くの人が被災地で見聞きして
驚いて消化不良になる経験も重ね合わせてしたのだろう。
だけど多分他の被災地と福島の異なる点は、福島は
危険かもしれないからということで、あまり団体での
ボランティアなどが入っていなかったとこらしく
行って帰って来てもそれに対して行った人たちで
気持ちをシェアしたり、じゃあどうしようというのが
しにくい場所であるのかもしれない。私の場合は
気持ちをシェアしまくっていたフランス人が帰国してしまったので
一人で肩いっぱいに重荷を抱え、たまに誰かが
「福島のこともきかせてください」と言ってくれて
嬉しいものの、いざ話をすると重すぎて あとで自分が倒れそうに
なってしまう。きっと だから 福島のことって
なかなか外に伝わっていかないのかな、、、


 私は初日は何にもわかってなかった。
それに初日に目にした風景は意外と普通の日常にみえたから
「あれ?どうして?」という印象だった。こちらにいても
たまに「どうして福島の人は避難しないの?」なんて言ってくる人がいる。
そりゃあそれらの本を読んだら「避難して!」と叫びたくなる気持ちもわかる。
でも 避難って どうやったらできるんだろう?


 私も内部被爆のことがわかって だいたいの人に言われたことは
「80パーセントは食事から。これ以上汚染されたものを
食べないように。それからできるだけ避難すること。保養でもよし」
と言われたけれど 神奈川県で普通に暮らしを送ってて
じゃあ避難?といきなり言われて どこに行けばいいんだろう?
多少思い当たる先はある?でも3日くらいならいいだろうけど
避難はそんなレベルじゃない。2週間とか1ヶ月とか それくらい
しないと今の避難には意味がない。じゃあその間の食費は
誰が払うの?その間ずっと気をつかって居させてもらうの?
その間ずっと子供といっしょにいられるだろうか?
車社会の場所だったなら?車がなければ私は家の人たちが帰ってくるまで
一体何をして時間を過ごしているのだろう?
そもそも避難といったところで、特に今の日本の中では
福島からでもなければ「はあ?あんた何いってんの?」という
目で見られるのが普通だろう。


 だったら?その行く先 で それなりに稼げるアテもあり
それなりに子供を預けられるアテもなければ 
精神的に余裕がなくなり ストレスでだめになりそうな母子家庭になってしまう。
私はどんな精神的状態がおそらく虐待をうむであろうかはだいたい
予測がついたので、(おそらく四六時中子供とだけ一緒にいて
自分が自分であることの価値を感じる時間が全くない場合なのではと思う)
それだけはさけたいと思うけど 話にきいた 雇用促進住宅に
入れてもらった人たちで かつ保育園がなく 帰ってくる旦那も
いないという状態は 私からみるとかなり恐ろしい状態に
近いと思う。だからか は わからないけど きっとそういう
精神的ストレスや 経済的にもたないだとか いろんな理由で
避難をしても 福島に戻った人もいる。


 私が出会った人でとても印象深かった人がいる。
彼は一家のお父さん、でまだ30代前半だった。だけど
本当に放射能のことを考えていて 避難を本気で考えていた。
けれども彼の住んでいる地区は毎時0.2マイクロシーベルト と
福島市とかに比べるとよっぽど低い。まわりの人も
避難だなんて言っていない。でもその手の本をよむと
それでも健康障害が、と書いてある。だから?避難 すべき なのだろうか

 「僕の仕事はつぶしがきかないんです。だから
僕がこれをやめて他の仕事にするってなったら
ただの32歳男性、まあまあ力仕事ができる って
それだけになっちゃうんです。でも僕には家族がいるんです。」

 だからなんでもいいからとりあえずやめてどこかへ移住!
なんてできない。まわりには避難している人すらあまりいないのに
(だいたい福島市にある中学校だって全校生徒600人中
避難で転校したのは10人しかいならしい)、子供たちを
食わせて行けるあてもないまま飛び出せない。だから彼は
ずいぶん前から慎重に職をさがしてる。。。

 「そんな選り好みしてる場合じゃないのかもしれないですけど」


 でも今の福島はそんな時期 に 見えている。
避難すべき!といわれても その後の生活や生活費や仕事は誰も
保障してくれない。ましてやそれが福島以外の人たちだったら
よけい白い目で見られるし 都市部にでも避難したなら
保育園はないだろう。そんな中でどうやって?
「避難すべきだ」というのは大事だと思う。でもその先の
答えを探すこと も おんなじくらい重要で たぶん
「福島の人はなんで避難しないの?」という人は
自分ごととして置き換えてみたことがないんじゃないだろうか。
自分だったら?今の仕事を捨てられる?30年やってきた
有機栽培の畑を捨てられる?愛着のある友人たちは?
中学生の子供がどうしても嫌だ!と言って避難した先で不登校を決め込んだら?
それに自分は?どうやって稼いでいくのだろうか?


 私にも同じ問題が課せられている。それは多分 一年前から
自分でちゃんと 答えが出せれば ビザも降りてくるのだろう
フランスで経験してきた難しさ あの時の私には 必要だけど
足りないものが沢山あった それを乗り越えられるのだろうか
いまだに地震の続く国 そして少しずつ壊れた原発が揺れてく国に
たとえ何かまた一大事があったとしても 決して発表されない国に
私は居続けられる自信がない。この国はとても恐ろしい。
それが私が福島に行って知ったこと。


 もしかすると それは巨大な 明かされては行けない
「秘密」があって とかではなくて 単に知らないだけとか
日本的な慣習の悪い面が悪い方向に積み重なっていっただけかもしれないけれど
そうであるならやっぱりそれらを見直してみる 日本的な
「他人の目」とか「組織の体裁」だとかそんなものばかりを
気にするのではない 違うあり方を学んでみること
そしていつの日かそれを日本で活かすこと も
大事なんじゃないのかな、、、

言葉にならない物語

2012年01月24日 | 福島見聞録


 なんだか不思議な夢を見た。

 
 それはどこかの アパートかマンションの何階か で
そこの入り口には大きな焙煎機が置いてあり
そこがその空間の入り口になっていた。どうやらその先は
カフェのような NPO活動を支える部屋のようになっていて
でも原型としてはカフェらしい。そこを運営している
彼女が話をしていた「このカフェが昔どこどこにあったころ、、、」
「あーあのやたら行きにくい場所にあったころ、、、!」



 それとはおそらく違うカフェ で 今度はまた別の人たち
「誰々が違うカフェで働いていたころ、、、それは14年前のこと、、、」
なんだかもうよく覚えてないけど なぜだか私はハッと起き
パソコンの前に向かってる。それはどうしてなのだろう。



 福島のことがあまりに頭に強烈に残り
けれどもこのままでは自分の生活が破綻しそうなほど
頭が苦しくなっているのがわかって どうにか
元の生活やカフェなんかというものと それらを
関連づけられないか 考えていたのだろう。
考えることはなるべくやめよう そう思ってはいたものの
ふとした瞬間誰かの言葉がよみがえる。
「福島のことを 忘れないでくださいね、、、」
そう言った あの人たちは 今もあそこで生きている。
あのやたらと切なくキラキラとしたイルミネーションの光るあの街に。
きっとまた 今でも雪が舞ってるであろう 触れない雪が舞うあの街に。



 カフェ と 福島を考えた時
もちろん福島市にカフェ的な場があればすばらしいのにと思うけど
誰もが来れて 誰もが思い思いに自分の気持や意見を話せて
それが喧嘩になったり誰かとの仲がこじれたりするんじゃなくって
ちょっと自分の気持が言えて ただ店主にうんうん そうだよね
と聞いてもらえる そんな場があったらいい そしてなるべく
飲み物はミネラルウォーターを使ってしかも 身体から放射能を
出すような飲み物とかで でもセンスがよくて誰でも来やすい
そんなカフェ的な ほっとできる場 屋内施設があったなら
そりゃあいいだろうとは思う(西日本からの野菜を扱う
野菜カフェはもる というお店がそのうちカフェをするらしいけれど
そんな拠点がいくつかあったら福島の外から来る人たちにも
とてもいいと思う。ジャーナリストたちも含めて)


 でもそれとはまた別のこととして 
私が個人的 に カフェというテーマと今回行ってみて話を聞いた
福島というので もしかして共通なのかもと思うテーマは
大切なのに こぼれおちてしまう 沢山の物語が紡がれていることかもしれない。


 カフェには無数の物語 が 存在している
それはたった1日の 台風の日の出会いかもしれない。
電車が止まって足止めをくらい 仕方がないから時間を潰したカフェで
出会って時間を聞いていた おじさんとの ささやかな交流かもしれない。
なんだかそこが そこだけが 外の激しい風雨から身を守ってくれる
なんだかノアの箱船みたい と思ったのは 私だけではなかったかもしれない
あの木の空間に身を守られているような感覚だとか 話をするわけじゃないけど
なんとなく このカフェで電車待ちという連帯感を抱えてるような
そんな気になったのは ただの錯覚じゃないかもしれない。


 たまたま仕事の終わったあとで なんとなく
もう少しその場にいたいという そんな気持ちで
ご飯を食べてみることにして そうしたらそのカフェの中を
何時間も転々としてる人に出会って 彼女の話を聞いてしまって
ただの偶然の出会いだというのに なんだか苦しみをわかちあい
同じく本を書くために そしてどこかその先へ向かうため に
今抱えている苦しみを 乗り越えられるといいですね と言い合ったこと
そしたら彼女が 1ヶ月くらいしてみたら その苦しくて
乗り越えられなかったという先のエジプトに また行ってみることにしたということ
そうしてなんだか偶然にも 彼女の出国前にまた少し出会えたことだとか


 カフェには無数の 記録されない物語 が 存在してる。


 私はそれを書くために 何かを書いているのだろうか。


 世の中には 本流の歴史があって 報道されるニュースがある。


 だけどそれらの横でたくさん 大きなニュースには決してならない
だけど誰かにとって大事な なかなかつむがれることのない
小さな物語が進行している。それらは時に感動的で 時に
とても胸を打ち ときに人生に深い刻印を残したりするけれど
それらは名もなき出来事だ。


 でもバタフライの羽ばたきが どこかで大きな風になるように
小さな誰かの「名もなき誰か」の一言が 大きなうねりにつながっていく
そんなことってあるんじゃないか。私にはまだ あの居酒屋で
あまりに寒そうで簡素なつくりで 入る事をためらったあの
雪の日の居酒屋で 結局素敵に歓迎されて 最後は
みんなでオーシャンゼリゼを合唱し そうしてそこにいた
ほぼ全員で 語り合った 福島についての会話というのが
私には忘れられそうにない。彼らはとても率直だった たくさんの
想いがぶつかりあっていた。どうしようもない状況の中
誰もが笑顔を忘れなかった。なんだかそれはとても明るく
でもなんだか切ない そして切ない希望を一人のフランス人ジャーナリストの
胸に託した そんななんとも言えない夜だった。


 「日本からはもう日本は変えられません。ねえお姉さん、言ってやってよ
この人に。日本は黒船の国なんだって。海外から圧力を
かけないと日本は変われないんだって」
この1年 さんざんいろんなことをやってきて 沢山のことに
希望を見いだし さんざん裏切られて来た 福島の人は
最後の希望みたいなものを 海外のメディアに託してた。
それがこれからどうなるのかなんて 誰もわからないけれど
そう 誰にもわからないけれど それもまた バタフライの
羽ばたきのように なってくれたらいいのだれけど。



 こんなにも福島 での 出来事が 胸を打つのは何でだろう?
それはおそらく強いエネルギーがかかっているのもあるけれど
彼らが多分 私が今まで会ったことのないような
率直さ で 自分の持っている想いややるせなさや怒りなんかを
目の前でさらけだしてきたからだろう。多分私は 日本において
そんな経験をあまりしたことがなかったのだろう。
そうだって ここは本音と建前の国だったから。
カフェでは横に座った人たちの本音を耳にすることはあっても
きっとここまでではなかったのだろう。
彼らはまるでタガがはずれたかのように 沢山の気持ちを出して来た
そこに含まれる迷いも怒りもやるせなさも辛い気持ちも
私はやたらとなぜか共感してしまったから 私の通訳にも
熱がこもった。そうそして 私たち2人は ずっと議論を続けてた。


 誰かがこうして 見知らぬ誰かに 想いを打ち明けてくれたこと
そのエネルギーはあまりに強くて 私はそれをどうしたらいいのか
さっぱりわからないけれど そこには沢山の苦悩があって
一人一人の物語 が 決断が 含まれていた
沢山の家族の物語 沢山の つむがれていない物語
書き言葉になっていない物語 それを誰かがつむいでいいのか
何も触れない方がいいのか 私にはよくわからない。
だけど一つだけ言えるのは 私たちが耳にしてきた
偶然出会った沢山の人の話はとても深みがあると思うし
私一人ではなくて 誰かの胸を打つと思う。
そしてそれは きっとバタフライの羽ばたきのように
何かを変えるきっかけとなる そんなぐらいの力をもった
政治家でも運動家でもない名もなき誰かの だけど
本当はそれよりもっと力をもった 一市民の 言葉にならない
本当の声 なんじゃないかと思う。

 

日本の「空気」

2012年01月21日 | 福島見聞録


 東京に戻って来てからだいぶもう時間もたって
いい加減元にもどりたい と思うけど
いろんな努力をしてみても 気づけば頭はつい
福島に行って考えたことをまたぐるぐると考えていて
本当にどうしたらいいのかわからない。


 今朝だったか 新聞をぱらりとめくっていたら
福島県の復興のための特別な法案が通ったそうで
福島の観光のために、普段は外国人向けには
通訳案内士の資格がないとガイドができないのに
資格なしでもガイドができるようにするだとか。


 そりゃ観光客が少なくて困っているのはわかるけど、、、


 「県も国も産業、経済のことしか考えてない。
人の命をなんだと思ってるんだ!」と女の人たちは怒ってた。
「県も国も 事を小さくみせよう 小さくみせようと
することにばかりやっきになって 人のことは考えてない」
そうしてもう「除染もしたから大丈夫」って 


 この国には国際感覚が本当に欠けているんじゃないだろうか?
誰がそんなことを信じるだろう?私のまわりの日本が大好きな
フランス人たちの中、事故の後に日本に来たのは一人しかまだいない。
フランス人ジャーナリストが福島に来たのも相当な反対を
押し切って、それでもどうしてもやらせてほしい!との想いで
やってきた。そうでない人は 例え日本が好きであっても
なかなか東京にさえ来てくれないし それより北に 足をのばそうと
かつての様な気にはならない。なのに福島県だけが
「何事もなかった」かのように装ってみても
これからいろんな事実が暴かれて行く。
おそらく市民の手によって 英語が使える人たちや
語学が使える人たちは 今度は私たちがなんとかして
言葉を使って 世界にこの状況を伝える番だと思ってる。
そしてもし日本という国がこの一年間一体何をしていたか
世界にしっかり伝わったのなら その時世界の世論も怒るだろう。
そうなったら私は日本はもう経済どころじゃないと思う。


 国 というのは何なのだろう?
国会議員や官僚というのになる人たちは どんな想いで
それを目指しているのだろう?多少なりともこの国を
よくしたいという想いがあって運営してくれていないのだろうか?
私にはそういった知りあいもほとんどいないから
全然わからないけれど あの日最後にソフィーと見ていた
蛍光灯の光が怪しく光る 霞ヶ関のビルの中 にいる人たちや
国会にいる人たちは 何を考えているのだろう?
(ちなみに経済産業省前では福島関係の人たちが
10月10日の座り込みと題してテントを張って座り込みを
しています。中にはコタツもあってなんだか京大っぽかったです)

 私には今だによくわからない
どうして爆発の直後日本には たいそうな情報はなかったのに
やたら外国には情報があふれていたのか どうして
アメリカ政府は80キロ圏内に避難指示を出し
フランス政府は東京以北のフランス人たちに
帰国勧告を出したのか。どうして4月になっても
やたらとフランスには福島の情報があふれていたのか
それは誰か どうやって 伝えていたのか
どうして可能だったのか 私にはそんな仕組みはしるよしもない。


 でも今回ジャーナリストの通訳をさせてもらって
少なくともわかったことは この日本という日本語の国において
堪能に日本語を操れて 記者会見や何やらで 話をしている
日本語を 同時通訳で訳せるような外国人記者というのは
まれだということ。つまりそこには通訳であり それが何を意味するかを
わかってきちんと伝える誰かも必要になるということ
どんなに母国で腕のいい記者であっても 日本には日本語という
壁があるから 誰かがおそらく 日本語であった情報を
訳して伝えて行ったのだろう。ならば今後も 東電や政府が
嘘をつきとおしていくのなら 本当のことを日本人が知らなかったら
フランスのメディアが突然「本当のこと」を教えてくれることもないのだろう
フランスにいても「予測」はもちろん可能だろうけれど。


 世の中には 人の知らない情報をきちんと握っている人がいる。
お医者さんだってそうじゃないか。なんのために
私たちは 書きたくもない個人的な情報を
毎回嫌な気分になって 全て彼らに書いて渡しているのだろう?
だったらちょっとはそれを活かして統計くらいとって教えてくれても
いいではないか?日本ではどんなことが起こっているのか
そしてそれは何と関連づけれられるのか。それは難しくて
一般の人には到底理解できないような専門用語だらけの学会だけでなく
もっと市民に開かれてたっていいではないか。放射能のことだって
原発のあった福島県の人たちも 原発のある国に住んでいた
日本に住む人たちのほとんども 何も知らないで生きていた。
私たちだってリスクを犯したり 言いたくもないことを言ったり
税金をおさめたりしてるのだから もう少しちゃんと
本当のことを教えてほしい。役に立たない、いい成績のためだけの
面白くもない勉強じゃなく 本当に生きて行くのに大事な情報、
大事な研究 それがあると どういうことが起こりうるのか
それにはどういうリスクがあるのか 日本では めちゃくちゃ
勉強させるくせに ものすごい時間を受験勉強に費やすくせに
生きるために必要なことに関しては ほとんど教えてもらえない。


 福島 で 耳にしたいろんな話は奥深い。
沢山の問題が絡みすぎていると思う。原発や放射能だけでなく
教育や日本的な生き方だとか、女性の働きにくさであるとか
あまりにいろんな問題がぎっちり絡み合っていて 何からだったら
ほどくことができそうなのか 私にはさっぱりわからないけど
もしフランスに行ったなら 私は日本とは全然違っていそうに見える
フランスの教育を学びたい。(でもやっぱり根本にあるのは
他人の目を気にする生き方、「空気」に合わせる生き方、
ちょっと違うことを思っていてもそれを決して口に出せないという
「日本の空気」が一番の根本にあるのではないかと思います)

温度差

2012年01月20日 | 福島見聞録


 福島で沢山の人と話してるうち、だんだんと
首都圏の人たちの状況って実はかなりやばいんじゃ、、、
と思っていった。そんな時思い出したことがある。
忘れもしない クリスマス前、友人がやりはじめたカフェで
予想以上に昔一緒に活動をしていた友人たちが集まっていて
そのとき話題にあがった人がいた。

 「そういえば、Aさんは最近どうしてる?」
「ああ彼は大阪に行ったらしいよ」
「へーなんで?」(この時私は仕事 もしくは
結婚でという返答が返ってくるものだと思って待っていた
というのもちょっとそれを知っていたから)

「なんか どうもね 避難したらしいんだよね
僕の理解によればね。ブログを読んだ感じではそう理解してるんだけど」
「へー、、、(一同返す言葉がない)」


 そして微妙な沈黙があり そこには10人くらい居たというのに
彼らはかつて環境系の活動をしていた仲間だったわけなのだけど
そこにははっきりいって「どういうこと?理解できない、、」
というような空気と沈黙が漂っていて 誰一人その後話題を
続けなかった。そうして話題は次の話に変わっていった。


 かくいう私もその時は「は?避難??東京にいる人が大阪に?」と
思って理解ができなかった。おそらく私の感覚によれば
そこに居た人たちもちょっと「大丈夫?」と思ったことだろう。
ところが多分、大阪に行った彼の視点からすると(今になって思ってみると)
「あんたたちのほうが大丈夫かよ!」ときっと思っているのだろう。


 私は福島で沢山の人と話をしながら驚いたのは
彼女たちやまわりの人たちがかなりさらっと「内部被爆」という
言葉を使うことだった。「今は空気中の放射線量はそんなにたいしたことはないの
次は内部被爆に気をつけないと!」そんな言葉をよく耳にした。


 それまでは 私にとって「内部被爆」という言葉 は
あまりに重くて ちょっとタブーのような存在だった。
だけど彼らはけっこうさらりと語ってくれた。それほどまでに
今福島に住んでいる人たちにとって(全ての人ではないにせよ)
「内部被爆が危ない」というのは かなり「常識的」なことらしい。
そしてそれらに気を使っている人たちというのはだいたい
岩手より北くらいか 愛知県より南くらいの野菜を買って
魚も肉も相当食べないようにしているし、もっと気にする人は
信頼のおけるネットショップで毎日の食材を購入している。
だから外食でもしないかぎりは(あと給食以外?)
食べ物についてはけっこう自信がありそうだ。


 それに比べて首都圏ののんきさと言ったら?私は福島に行って
2日目くらいから大丈夫かな?と思い始め、最後の方で
検査する機会があって ショックではあったけれども
まあやっぱりなという気がしないわけでもなかった。
そうじゃなければ 彼女たちの話をきいて「実は首都圏の
人たちが危ないのでは」と思うこともなかっただろう。


 ところが首都圏にはよくわからないけど
「まあここは東京だから大丈夫」みたいなムードがあって
この半年間、行ったカフェでもどこでも放射能に対する
話題を一切耳にしたことがない。それに加えて私は
この半年やたらと手続きがあったので、普通の人より
相当役所に通った方だと思うのだけれど 一切放射能に関する文字は
見たことがない。さて、それは思い違い?と思って
今日息子の検診が保健所であったので聞いてみた。
「あの すみません この尿検査って セシウムとかも
計れるんですか?」「いやーこれはそういう検査じゃないですね」

「あのすみません 横浜市とか青葉区で放射能関係の
検査ができるところってありますか?尿検査とか、、、」
と保健所できいてみたのに 「いや特にありません」とのことだった。
ありませんって、、、 大学病院とか行ったらやってもらえるかも
しれませんけど と言われたけれど 福島市にも
ほんのちょっとしかホールボディカウンターはないわけで
もちろんそんなのに接する機会は首都圏の人は圧倒的にない。
(最近民間で設置したところがあるらしいけど どうも
1万2千円くらい必要らしい)食品の測定だとか
尿検査とか もっと首都圏でしっかりやるべきなんじゃないだろうか?

 おそらくこれは私だけじゃなく 福島の現状と チェルノブイリを
よく知っている人ならば 私の身体からもセシウムが検出されたというのは
「まあ やっぱりね」という感じだろうなと思う。
(お医者さんとかよく知ってそうな人にそういう話をしたとき
表情は決して驚きの顔ではなくて「やはり遂にきたか」みたいな
表情にみえた)なのにここまでイノセントであるということ
(無関心であるということは知らずにどんどん蓄積し続けるということ
ちなみに私は牛乳はほとんど飲んでなかったし、福島で今
勧められている和食派(といっても玄米じゃないしお魚は
よく食べていた)だったのだけど。。。ちなみにリンゴも朝よく食べていた)

 今日お話をした保健所の人は「ああそうですか
あなた京都から来られたんですね 京都の方が横浜より遠いから
気にされるんですね、、、」とかなり他人事みたいに言っていた。
そう その反応は 私たちがクリスマス前に「はあ?」と
いう反応を示したのと ほとんど同じようなものだった。



 私は10日間 福島に関する事を朝から晩まで沢山の人から聞いていて
ものすごい情報を密に詰め込まれたわけだけど そんな私が
見聞きした情報から判断すると 東京はこれから大変なことになると思う。
それでもみんなが放射能について今と同程度の無関心さであったなら
多分いろんな症状なんかが現れて来ても「ちょっと調子が悪いなあ
働き過ぎかなあ?」くらいで終わるだろう。最近やたらまわりに
調子の悪い人がいるけれど インフルエンザのせいかしら とか
そんな程度になるのだろうから 心配なんて しない方が
やっぱりいいのかもしれない。変に意識をしはじめる と
元の生活を続ける事がきっとできなくなってくるから。


 それでもそうはいっても せめて行政機関が安い値段で
放射能に関する内部被爆をチェックできたり 食品の測定を
できるような場所はつくるべきだと思う。それからそれに対して
どう対処していったらいいのか 少しでも相談できる窓口を
行政でつくるべきだと思う。区の保健所にそんなことを相談しに言って
「はあ?」と言われるのはやっぱりおかしい。福島でお母さんたちが
抱えていた不安というのは これからどんどんいろんなところに
広まって行くと思うから。お金持ちしか検査ができない
大学病院に行けるような人しか本当のことが知れないというのは
やっぱりおかしいことだと思う。


 いつの日か 2年後くらいに 東京の素敵なカフェに
野菜のベクレル表示がされる日 というのが来るのだろうか
そんな日が来るような気がするけれど まずはもっと
首都圏で被爆について 放射能について気軽に相談できるような場が
少しずつでも増えてほしい。

(ちなみに福島市でも放射能に関することについて包括的に
相談できるような窓口はありません。対策本部というのが
設置されたのでそこの人にお話をきいてみたら「除染!!」一色でした。
市は12月に一般の人むけの食品の放射線測定所をつくったとのこと。
それまではNPOの市民測定所に行って計るのが一般的だったそうです。
2月からは3歳未満の子供たちから、全ての市民がホールボディカウンターで
内部被爆を計るようになるそうです。とはいえ基本的には市も県も
「大丈夫、問題ありません、気にしすぎが一番よくない」というスタンスです。
それなのにこれから子供と妊婦には40万円、大人には8万円のお金を
払う計画があるそうです。普通子供というのは大人の半額とか
大人より少ないものなのに、5倍のお金を出す、というのは
私には「口止め料」というか「今後どんなことがあるかわからないけど
これだけ払ったんだからよしと思え」と言われているようにしか思えません
ガラスバッチとかつけて登校させて、こういうお金の払い方をするんだったら
一時的にでも大規模な避難を促した方がいいと私は思います)


気にしない?

2012年01月19日 | 福島見聞録

 今日こそは 日常の生活に戻ってみたい
そう思ってカフェに行ったりしてみたものの
隙ができると頭は福島やら放射能やらのことを考え
なんだかやっぱり落ち着かない。
なんだかビフォーアフターみたいで
もとの何事もなかったかのような生活には
簡単に戻れそうにはないらしい。


 「放射能は目に見えないし匂いもしないし感じない
だからそれが怖いんです」とインタヴューでよく耳にした。
「放射能が炎だったり赤かったりしたらよかったのに!
そしたら怖くなってもっと必死で逃げようという気になれた」
とも聞いた。そうして脱原発会議では 「こういうこと。」
というコピーとともに描かれていた 子供が砂場で
遊ぶ姿に、赤く塗られた放射能が降り積もってる。
「ほらね 放射能に色があったらよくわかるでしょ」という
そんなポストカードを見て愕然とした。そ そういうことなのか、、、


 意識しなければ「ない」ように思えてたものが
意識し始めると 「どこにでもある」ように思えて来て
こうなるともう頭がおかしくなってきそうだ。
どれくらい対策したらいいのだろう?水で落ちるっていうけど
どれくらい落ちたかなんてどうやったらわかるわけ?
何分くらい洗えばいいの?じゃあバッグは?制服だったら?
それに加えて「プルトニウム」なんて言葉まで目にしてしまうと
もうどうしていいのかわからない。放射線量の高い地域に
行った私のカバンはどうなっているのだろう?
それに息子がさわったら?何かがついていくのだろうか?
それを息子がなめたなら?「プルトニウム??目に見えないし
内部被爆はそれらを計る事もできないだって??」と思ってしまうと卒倒しそう。
だけどそれはただの想像かもしれない。
別に何も 普段と変わらないのかもしれない。
私の知識が中途半端なだけであって カバンについた放射能くらい
どってことなくて 線量の高いところで使った何かを
息子に渡す時 に いちいち気にする必要なんてないのかもしれない。


 だけど私にはわからないし それは目に見えなくて匂いもないから
「ある」といわれればある気もするし「気にさえしなければない」
ようにも思う。100人のうち一人がガンになる確率がある と
例え言われても「でも99人はガンにならないわけでしょ?」と
思う事だってできるだろう。他の多くの雑菌のように 放射能だって
人間の身体と共存することはできるんじゃない?とも思いたくなる
「ちょっとぐらい大丈夫だよ、、、」そう 子供がころんで
ちょっと土に手をついて それをパッパっとはらうだけ で
例え子供が手を洗わなくても 私は別に大丈夫、 雑菌がある方が
きっと強い そう思うような親だった。そしてそんなで育った息子は
汚いことが大好きだ。お風呂の水は気づけばゴクンとしてるし
おかずだって時折手づかみで食べてるし しょっちゅうどこかで転んでる。


 だけどそんな普通の子供の日常に「放射能」とか「プルトニウム」とかが
まぎれこんできたのなら 母親は普通ではいられなくなる。
そうなったら目に見えない敵のため に 相当神経質になるだろう。
「この戦いは神経戦だ」と確か誰かが言っていた。
それを聞いたころはわからなかった。だけどそういうことなんだ。
そしておそらく母親が神経質で潔癖に近くなればなるほど
(見えない「菌」か「放射能」かというので言ったらやっぱり
人から見たら「潔癖」という言葉がピンとくると思う。
例えば外の床に触れたものは家の中には持ち込まない!とか
見えないものと戦っている点では「菌」とか「ウィルス」と似ていると思う)


 そうしてどんどん諦めたくなる。雑菌と同じと思いたくなる
「大丈夫だよ ちょっとくらい それに大切なのは
やっぱり免疫力なんじゃない?心配しすぎが一番よくない、、、」
そういって 「放射能に対して払わなければいけないとされてる
注意」を 全て振り切りたくなってしまう。いちいち産地をチェックするのも
マスクをするのも なんでもかんでも洗ったり 沢山のものを捨てること も
たった一週間程度のノロウィルス対策にだって 私はやりきれなかったのに
それよりも神経を使い かついつ終わるとも全く知れない
そんな放射能に気をつかって生きていく事 これは並大抵の事じゃない。


 先日他のブログでみたけど「人は自分の信じたいものを信じる」
のだそうな。私は福島ではさんざん山下教授という「年間100ミリシーベルト
までなら大丈夫!」と言い通している教授への批判を聞いて来たけど
(そして聞いている時は全くそうだ!ありえない!と思っていたけど)
「問題ありません」と言われる事で 安心したい たとえそれに
100パーセントなんて信頼感はなくっても それでも
「大丈夫です 考え過ぎです 考え過ぎが一番よくありません」と
(福島の産婦人科の先生たちはこんな言い方をするらしい)そういわれたら
まあそうか そうかもな 私がちょっとやりすぎだったのか
もう少し自分を許してあげよう そこまでしなくてもいいじゃんか、、、と
思いたくなるのだろう。だけど家に帰って自分の持っている本を開くと
真逆の事が書いてある。「放射能は人間とは共存しえない!」
「年間1ミリシーベルトでも本当は危険だ、、、」


 そんな中 で どうやって 子供と一緒に生きられるだろう?
それがなくても 子供といるのは大変なのに だからといって
避難をしても それが母子だけになってしまうと かつ保育園も
なかったら それはかなりしんどいだろう。それはつまり
働くこともできないわけで 一日中子供と一緒で 唯一の救いだった
かもしれない 旦那さえも帰ってこない。働きたくても
いつまでそこにいるのかもわからないから 働こうにも働けない、、、
そのうち避難先でも違う種類のストレスや無力感みたいなものが
自分を襲いはじめていくのだろう。まわりの人は日常生活を送ってるのに
まわりの人は働けてるのに 日常が日常であるほどに
その日常が普通の人と 自分との温度差みたいなものを感じて 
そこにいるのに 自分は遠い そんな気がしたりする、、、
(私はフランスに行ってやたら泣いてましたがその意味が
福島で出会った人の話を聞いてわかった気がしました)

 避難をしている人も 福島に残っている人も みんな
不安やストレスを抱えてて だけどそれをただ 批判もなしに
話ができる場というのもないらしい。もしかすると それは
福島の人だけでなく、放射能に強い注意を払ってる人と
もう別にいいやと思ってしまった人たちの 激しい温度差なのかもしれない。
放射能 は どれくらい恐ろしいものなのだろう?
「山下教授の支配下にある福島のお医者さん」たちが声を揃えて
言うように「心配のしすぎが一番よくない」というのも
なんだかわかるような気がする。こんな状態で毎日の生活を
送っていたら ノイローゼで先に倒れてしまうんじゃないだろうか?
どれが正しい事なのか は だれにも今ではわからないから
どっちも激しく折り合わない。私個人は 放射能のことを
気にし始めると怖すぎて頭がおかしくなりそうだから 帰国してから
なるべくそういう本も読まないで過ごして来たし 実際
知ったら頭がおかしくなりそうになってどうしていいのかわからない。
だからまわりの人たちのように 何事もなかったかのように
「そんなこと全然気にしない!」という態度でやっていたい と
思う一方 メールを見たり自分の買った本を読んだり
フェイスブックから流れてくる情報をみると
「やっぱりそんな場合じゃない!」と思ってとても恐ろしくなる。


 「何も気にしないのが一番よ」って言われたら
それもそうかなと思うけど。本当に気にしないでも何も起こらない
そんな所があるのなら 私はそこで何事もなかったように暮らしていたい
(でもおそらく東京はそんな時期じゃなくなってくるような気がします)

切ない

2012年01月18日 | 福島見聞録


 今日は久しぶりに「現実世界」に舞い戻り
今年初のカフェでの仕事だったけど 頭の中は
上の空 で 福島が頭から離れない。


 まさかなあ 何かすごいことになるような気はしてたけど
ここまで人生を揺さぶられるとは、、、この滞在の最中
どこかで私の中にスイッチが入り それは活動家だった
自分としての想いなのか 書くことが少なくとも可能なはずの
自分というのを認識したからなのか 何故なのかはわからないけど
私の中ではずっとフクシマのことがぐるぐるぐるぐる廻ってる。


 「僕が17歳だったときにね、阪神大震災のボランティアに行ったんです。
それで帰りの飛行機の中、2時間半泣いたんです。札幌には
普通の日常がある。友達も家族も 変わらない日常がある
そこへ帰る道のりの中 僕は涙がとまらなかった。
今もそんな時を思い出すけど でも17歳の僕と今が違うのは
少なくとも今の僕には何かができるだろうということ。
あなたもそうですよね?きっと飛行機でそんな気持ちに
なるだろうと思います」と 福島でお世話になって
東京からよく福島に足をのばしている方がソフィーに向かって言っていた。


 「今の僕には少なくとも何かができる、、、」


 そんな言葉は かつて私が20歳だったころ、
エコリーグの先輩が「学生は社会を変えられなくても
10年後にこのネットワークを使って力のある人たちに
なっていたとき きっと社会は変えられる」と言っていたのに
近いことなのかもしれない。


 今の私は?私はお二方に比べたらちっぽけだけど
それでも私が書いた言葉を読んでくれる人がいる
少なくとも それを知らなかったという人たちもいる
だから私は伝えたい。少しでもそれができるのならば。


 「福島に行ったの?勇気あるね!」と脱原発会議で
ぱったり出会った友人がこう言ってきた。この何気ない一言が
どれくらいのことを意味していたのか 私にはわからない。
福島で名前をよく耳にしたバズビー博士という人は 講演を頼まれたけど
かつての仲間がチェルノブイリに支援に行って何人も死んでしまったからという
理由で福島でも郡山でも講演はしないといって 結局会津でしたらしい。
(会津は福島県の中ではけっこう線量が低いと言われているところ)

 「実際のところ フランスでは福島に行くことについてなんて
言われたの?」とソフィーに最後に尋ねてみたら
「あんたは気が狂ったのか!」ってよく言われたわ、と言っていた。

 だけどそこで暮らしている人たちがいるじゃないか!
ソフィーはそう言いたくなったし実際そう主張した。今の私も 
福島が好きで よく行ってしまう前述の彼も きっとそう思ってる。
そこに生きている人がいる。避難をしている人よりも
よっぽど多い人口が まだ福島市には残ってる。
そこにはカフェもあれば ビストロもあり おいしい居酒屋もあれば
小さな飲み屋の横町もあれば 50年やってる餃子屋もあれば
おいしい中華の店もある。素敵な子供服のお店だってある
みんな そこに 生きている。みんな そこで 暮らしているんだ


 どれほど福島や郡山が危険なのかは 私にはよくわからない。
危険だ、という人は今でも「本当のところは避難してほしいと
思ってる。特に子供に関してはそう」と言っている し
このあたりの放射線量は年間5ミリシーベルトを超えるらしい。
(それは放射線に関係するお医者さんが一年に浴びることを
許されている限度らしいけど 彼らもすごく気をつかうので
結局平均して1、5ミリシーベルト以下くらいしか浴びないらしい)


 だけどそこにも日常があり 暮らしをしている人たちがいる
彼らは?彼らのことは?誰が彼らの言葉に耳を傾けてくれるのだろう?
どんな想いで ずっとやってきたのだろう
子供は「ここは放射能がね」って自分の言葉で言うまでに
どんな気持ちで この間まで遊ばせてた場所を「もう行っちゃだめ!」と
叱っていったのだろう。「どうして?ママ 楽しいのに」と
言われた時に どれだけ泣きたくなっただろう。
彼女たちは 素敵な笑顔を見せてくれるけど その裏に
どれほどまでの苦悩と涙があったのだろう?


 私は福島の人たちに 愛着を持ってしまった。
30年日本で生きて来た中で はじめて出会った
自分でものを考えて しっかりと色んな事を考えた上で
人生の選択をしようとしている 本当に素敵な人たちだった。
子供たちだってかわいかったよ 彼らはこの後どうなるのだろう
このまま日本政府によって 置き去りにされるのだろうか
そしてまた 忘れられ 見捨てられて きらびやかな
クリスマスツリーの光で輝く東京の人たちのちょっとした一言で
傷ついていってしまうのだろうか


 放射能は目に見えない。 放射能はほこりのように
どこかに付着して風に舞うけど それがはたしてそこにあるのか
ないのかだって わからない。ソフィーは福島の誰かに
袋に入ったぬいぐるみをもらい 私にそれをくれたので
じゃあ蓮太郎にあげようと私は受け取った。
だけどそれに放射能がついているかどうかだなんて
だれにも何もわからない。「福島でもらったの」
そういうだけで?だれかは尋ねてくるだろう「放射能は?」
きっと大丈夫だといいたくっても 保障はあるかと言われてしまえば
返すすべはなにもない。蓮太郎がそのぬいぐるみを気に入っても
私は「でも一緒に寝るのはやめておこうか」と言ってみる。
そしたら「なんで?」と言われるじゃないか 放射能があるかもしれない?
そんなのわからないことなのに。私はそれを与えてあげたい
私は福島の人たちに愛着を持ってしまったから
ただ普通にお土産だよ!って渡したい。
福島のホテルで食べた朝食も美味しかったよ たとえそれが
福島産だったとしても どこの野菜かをいちいち確認なんか
できなかったけど 美味しかったのは事実だった。
測定所でボランティアしてた人が言っていた。
「たまにね くやしくってね 果物をめいいっぱい食べてやるの。
放射能がついてても。子供には食べさせないけどね。
くやしくってね!自分ちでつくったものなのに」

 その時は私にはわからなかった。
でも今ならわかる気がする。
みんな大事なものだった 柿の木も しいたけも
葉ものの野菜も 有機栽培で育てた土地も
家族との暮らしも 地産地消も とても大事なものだった
福島は ただ 他の地方と変わらない
地産地消にむかっていって 地元のものを大切にしてる
そんな土地だったんだ

 ただそうしてただけなのに
今では「福島産」はちょっとドキッとするものの代名詞みたいに
なってしまった。でも本当は 自分の知人の誰かが手をかけて
大切につくられていた。それが一瞬にして灰をかぶって奪われて
そんなものを全てばっさり はいそうですかなんて 捨てきれるわけがないだろう。
日本の国会議員や官僚の人たちは どれくらい福島のことを
知っているのだろう 彼らが「暫定値500ベクレルまでなら
安全です」というのなら 全ての福島の野菜を買い取り、社員食堂で
使ってあげたらどうだろう?福島の原発で作られていた電力は
東京の人のためのものだった。それが福島を引き裂いた。
私たちには 責任がきっとあると思う。
どういう形で 何ができるかはまだ私にはわからないけど
まず少しでも 彼らの声に耳を傾け いったい何があったのか
そうしてこれから このまま何もしないとどうなっていきそうなのか
少しでも耳を傾けてみてください。

ーーーーーー

 福島から避難したママたちのネットワークというのがあるそうです。
ここのサイトに書かれている文章は本当に震災後の福島の現状を
映していると思います。福島の人たちはもう十分に頑張っていますが
その声は国会にも日本全体にもこの1年ほとんど届いてきませんでした。
福島の方の余力は限界にきていると思います。今度は余力のある
私たちが何ができるか考えてみる番ではないかと思うのです。。。

放射能のある中で

2012年01月17日 | 福島見聞録


 今福島に居る人たちというのは たいていの人が言うけれど
避難したくてもできなかったり いろんな事情がある中で
今現在の段階で は 残る事にしている人たちらしく
今の福島の活動に関わっている人たちも 今だに避難が
いいと心の中で思ってはいても「避難すべきだ!」と
強い口調では言えないらしいし そういう時期ではないらしい。
(避難できる人はとっくに避難している とよく耳にした)


 そんな中 で おそらく今の福島で 重要な問題なのは
放射能の心配の中 どうやって生きて行くか ということで
沢山の話を聞いて それが自分だったなら?といざやってみようと
してみると 福島で出会った女性が言ってたように
「2週間ももたない」ような とても辛いものだった。

 こういう言い方が的を射ているかどうかは
わからないけど 今の福島で子供を持つ女性たちが
なんとかしてやっている放射能に対しての防護策 は
相当きれい好きな人と かなりマクロビオティック的な人を
一人の人格として合わせたような行動で どちらでもない私にとっては
2週間どころか3日も持たないだろうと思った。


 彼女たちは「普通の生活に戻りたい」と言っていた。
私は福島を訪れる前は何も知らなかったから 普通の
生活を送ってた。水道水を飲み、カフェに行き、
節約するために子供と長い距離を歩いて
これまた節約するために 家からご飯を持って行って
外でピクニックをやっていた。横浜に は そんな人が
誰もいなかったわけじゃない。毎日ピクニックする人は
日本だからいなかったかもしれないけれど、公園では
普通に子供が遊んでいたし 夏の芝生にはピクニック
しにくる親子が沢山だった。たまに誰かといく外食だって
生活の楽しみの1つだろう。


 だけどそんな中 放射能のことを考えて動いてみると?
外食をする度に産地が気になる。この生野菜はどこ産だろう?
このお米はどこ産だろう?お酒は?何年につくられたものだろう?
このお水は?ミネラルウォーター?それともただの水道水?
私ははじめて福島のフレンチのビストロで「すみません
お水下さい」と言った時「ミネラルウォーターですか?
それとも水道水ですか?」と聞かれて戸惑った。
フランスでは聞かれるけれど 日本で「お水」と言って
そんなことを言われたのは初めてだった。例えフランス料理のお店でも。
そこで私はいつもの節約ぐせがつい出てしまって「水道水で
結構です」と言ってしまった。だけど注がれたお水は
ほとんどだれも口をつけることがないままに テーブルの上に
沈黙を守って置かれたままだった。


 小さな子供というのは大人からみたら汚いことを
するのが好きだ。私はけっこうそれでもいいかと
思っていたし 雑菌があれば強くなるかと思っていたから
潔癖な人とは全然違う過ごし方だった。別に階段に座ってもいい。
土の上を走っていても 落ち葉を蹴っ飛ばして歩いていても
頭の上から葉っぱをかけて遊んでいても それでいいと思ってた。
だけど靴にはもしかして放射性物質がついていて
プルトニウムまであったりしたら?と思ってみると恐ろしい。
じゃあ外で着ていたコートは?コートからはみでていた
ズボンはいったいどうなのだろう?福島の人がいうように
毎回帰ったらシャワーをして着替える というのは私には
気が遠くなりそうだった。子供が転んだ時に地面に手をついて
しまったら?そういえばその人は子供が地面に転ぶのが
こわくて自転車をかってあげられないと言っていた。
息子は転ぶ、地面に手をつく いつでもどこでも石けんで
洗えるわけじゃない。雪が降ったら遊びたい し
落ち葉があったら蹴っ飛ばしたい 子供はそんな欲求がある。
それを全部 親が教えて 今度は子供が自分で誰かに教える
「ここは放射線が高いから遊んじゃだめだよ、、、」

 もともとそういう人だったなら かなりキレイ好きで
食事に対しても相当な気を使って生きている人だったなら
それは可能かもしれない。でも外にいるのが好きで
出歩くのが好きで カフェに行かないと生きられないような
私には到底無理だろう。どこまで洗えば?放射性物質は落ちるのだろう
そんなに洗い続けていたら 今度は手がおかしくなりそうだ。
どこかに行く度「これはどこ産?」と聞いていたら
すぐに人との関係性もおかしくなってくる。私はかつて
沢山マクロビオティックやらベジタリアンの人を見たけど
「これはいいけどあれはだめ!」というのを通していたら
誰かと楽しく外で外食なんて到底無理だ。だからこそ
何事もなかったように そう 1日目の印象で は
何事もないように普通の生活を送っているように見えていた
福島の人たちは きっと普段は人には言わずに だけど質問された時にだけ
「実は野菜はインターネットで買っています」と答えるのだろう。

 こんなことを 私は3日も続けれそうにはないけれど
そして私が出会った福島のお母さんたちは もう心労で
倒れてはしまわないかと思ったけれど だからこそ
お医者さんたちも「放射線よりもストレスが敵」と言ったりもするのだろう。
そう言われたら 言われた方も どっちが正しいのかはわからなくても
何割か は 思い当たる節があるから そうか
私が気にし過ぎなのか そういえば夜遅くまで
インターネットをしていたな とか ピリピリしすぎかな とか
まわりの人は洗濯物を外に干してるしなとか
そう思って「まあいいや もうあんまり気にするのやめてみよう」と
思うのだろう。福島では 今では気にする人を気にしない人たちの
差がかなり激しいらしいけど 気にしない人たちは
どこかのタイミングでそれをやめていったのだろう。
人間の免疫力や楽観性や気にしないこと その方が
放射能に勝つんじゃないか 心配して毎日過ごすより
その方がいいのかもしれないじゃないか それに
一応 県も国も大丈夫だって言ってるし、、、


 疲れた人は安心したい。「もうそんなことしなくても
いいですよ」って言ってほしい。だから県が通達で
「もうマスクもしなくていいし校庭で部活をしてもいい」と
言ってくれて 半信半疑な気持ちながらも 安心した人もいるだろう。
こんな生活は続けられない。私だったら到底無理だ。
そう 初日に聞いた話では福島に住む人が言っていた。
「それでだんだんラインをつくっていくんです。
ここまでだったらもう自分を許してあげようって。
たとえばもう測定器はものによってマチマチすぎるから
使わない とか どこどこ産の野菜までならよしにしようとか
このラインまでは気にしないようにしようとか 
もうマスクをするのはやめた!とか。」


 どっちにも言い分がある。放射能が危ない!!と叫ぶ人。
「そんなの気にしなくてもいい。気にしてストレスになって
病気になるのが一番悪い」という人も。同じお医者さんであっても
意見はかなり分かれてるようで、だけど圧倒的なのは後者だろう。
私も今日皮膚科に行ったけど 今までできたことのないニキビ以上に
大きい異様な物体がいつまでたっても治らなくって それが
放射能に関係あるのか それともいつも夜遅くまで仕事をしてたからなのか
コーヒーの飲み過ぎなのか はたまたそれに砂糖を加えるからか
それとも化粧水のせいなのか ファンデーションがあってないのか
私には理由はわからない し 先生だって理由なんていつ尋ねても
教えてくれない。先生は薬をくれるだけ。そうしてよくわからない
なんとなく治るだろう まあ考え過ぎかという安心感みたいなものを
もらって そうして私たちは忘れてしまう。そんなこと も あったかな?


 楽天的に考えていれば放射能から身を守れるのか
細胞がいきいきして抵抗力がついてくればそんなものも
跳ね返してくれるのか 人間の力はどれくらい潜在能力を持っているのか
私にはよくわからない。だけど一つだけわかったことは
私が送っていたい 私にとっての普通の生活を送ろうとすることは
福島では到底できそうにないということで 「放射能から
できる限り身を守る暮らしを続けて行く」ことをし続けないと
いけないのなら 私だったらノイローゼになるだろう。
だから「そんなものはなかったことにしよう、もう気にしない
それに他の人たちは普通の生活を送っているじゃないか」と
言いたくなる気持ちもわかるし(それに東京に戻ったときの私は
それが怖くて放射能関連の本をあまり沢山読まないようにしてたのだろう)
でもそんなこと言ってたら5年後とかにどうなってしまうんだろうとも思う。
マスクをするのをやめた中学生の女の子 は こんな普通じゃない
生活をするのが耐えられなくてマスクをやめた。だけど彼女は
数値を計って驚いて またマスクとつきあうことにした。
私だったら そんなこと もう気にしないで 生きていられる
そんな場所 が あるのなら そこで暮らして生きていたい。

「選択的避難の権利」、子供たちの避難の権利、学校単位の
疎開の権利 もっと認められるようになってほしい。


ーーーーーーーー

 もっと知りたい方へ

福島集団疎開裁判 郡山市の中学生たちが集団疎開の権利を求めて
争った裁判です。今でも「せめて子供たちだけでも安全なところに
移動させるべきだ」と考えている方もいますが、福島市、郡山市では
ほとんど普通に学校生活が再開されています。

福島市渡利地区の避難について 「避難の権利」ブログより 先日の世界会議でものすごく胸を打たれる
政府交渉のビデオをみました。ぜひご紹介したいのですが、、、もう少し探してみます。
渡利は放射線量がかなり高いのに避難地区に指定されず、もう除染を待ってられない!
と思った地球の友などの市民団体が、渡利地区の人たちの一時避難のための
プロジェクト「わたり土湯ぽかぽかプロジェクト」を開始しました。


歴史から学ぶ

2012年01月16日 | 福島見聞録

 
 「なんだか変な感じだね。明日もまた会いそうな気がするのにね」
そう言いながらも今日がソフィーとの仕事の最後。
全てを終えて 地元の駅に帰ってみると変な感じ。
ついこの間までは 私は仕事のことばっかりを考えていた。
どうやったら効率を上げられるのか どうやったら
子供がいるなかでもなんとかまわしていけるのか。


 そんな時があったかなあ と 思うくらいに
この10日間で私の人生が揺さぶられ 毎日私も
変わっていった。毎日沢山の話をきいて 毎日
心を揺さぶられたり 鳥肌がたったり 許せない と思ったり
目の前の人の話が本当に?信じられない そんなことって
ありうるの、、、??と思って絶句したり。



 「私もそれなりに原発については勉強してなくもなかったし
新聞は毎日見ていたと思うんですけど、、、福島の
現状については何も知りませんでした。」とお世話になった
人に言ったら「たいていの人はそうだと思うよ」と返された。

 福島の郡山市で中学生を疎開させようとして裁判を起こして負けたこと。
福島市で小中学生向けに3ヶ月「ガラスバッチ」という
外部被爆を計る小さな器械が配られて 毎日それを首からさげて登校してたこと
それをモルモットみたいと思った子供たちもいたということ
真夏には長袖長ズボンでマスクをつけて登校していたこと
それがあまりに堪え難くって「スカートがはきたい」と言って泣いた子もいること
4月には始業式も延期されずにいつも通りにはじまったこと
それに対して親たちは反対したけど学校は聞き入れなかったこと
中学や高校では今普通に外で部活動がされていること
妊婦さんたちに対して、放射能に関係する何の特別なアドバイスもされてないこと
市が子供たちの内部被爆を計りはじめるのに爆発から約1年がたっていること
福島の中でいろんな活動はあるけどそれはほどんとが民間で市は市民の不安を
解消してくれるような動きを12月頃まではとってくれなかったということ
福島の人たちが何度も霞ヶ関まで足をのばして政府に交渉をしてたということ
だけど政府も県も市も いつも「除染をすれば大丈夫」という態度を変えようとしないこと


 え、そんなこと って 本当に起こりうるの?という話が
1日1回は話されていた。例えば山下なんとかという教授が
年間100ミリシーベルトまでは問題ありません!と言い張って
彼が今福島県の放射線関係を牛耳っていることも
その「安全宣言の」の元に指導をしているお医者さんも学校も
どんなにみんなに不安があっても「それはあなたの心が弱いから
心配しすぎるのが一番よくない」と言って話を受け付けてくれないこと
しかもその山下氏が地元に帰って「先生大変ですね、勇気がありますね」
と言われたときに「今世紀最大の研究ができる、、、」と言ったこと。
それに対して「人の命をなんだと思ってるんだ!!」と思っている人がいること。


 そしてもう 福島では けっこう普通に異変が起きているということ。

 「まさかそんなことないですよね?」と思いながら 私は
質問を重ねていった。「まさか症状なんてないですよね?」と思ってた。
ところが多くの人はこう言っていた。5月か6月くらいには
既に症状が出ていたと。一番多かったのは子供の鼻血で、
大量に鼻血がでていつまでも止まらない。それは突然やってくる。
それから下痢、皮膚の斑点、大人でも口内炎がはやってた時期があるらしい。
今はその頃にくらべると落ち着いたのかもしれないけれど
それでも「疲れやすくなった」「のどが痛い」「病気が治りにくくなったと思う」
というのは目の前にいる人たちから耳にした。
東京や神奈川ですら 同じよう症状の子供たちがすでにいるらしい。


 「まさかそんなことないですよね?」と内心では思いながら
「県外からの野菜っていうのはどこで買っているんですか?
インターネットとかですか?」と尋ねてみると かなりの割合で
インターネットという答えが帰って来た(だいたいオイシックスという答え)
どうしてかというと例えどこかのスーパーなどでベクレル表示が
されたとしても、産地の偽装だってあるし ベクレルも偽装するだろう と
もう信頼そのものがないらしい。

 
 「まさかそこまで?」と思っていたけど たいていの人は
料理にはミネラルウォーターを使うと言っていた。それにパスタを
ゆでる時までミネラルウォーターだという人もいた。
もし私 が 今の状況で彼女たちと同じことをやらなければならないとするのなら
私は耐えきれなくってきっと避難をするだろう。
「子供が帰って来たらすぐシャワーをさせて着替えさせています」
「靴もよく洗うしもう何足か捨てました」
「自分は最近はしないけど 子供にはマスクをするようにって言っています」
保育園や幼稚園では外遊びがほとんど禁止されている。
そんなこと は 私はあんまりおかまいなしで 息子と
毎日のようにピクニックをして 落ち葉でも芝生でも遊んでいたけど
それがどれほど危険なことだったのか 私にはよくわからない。
横浜や東京なんて たいていの場所は除染してない。
そこにシートをひいてその上でご飯を食べること
それがどれほどの意味をもっていたことなのか 私にはまだわからない。


 「あまり気にしない人はサーフィンをしたりもしていました。
でももう症状がではじめている人もいます。」いろんな事を
知ってる人は はじめから予測していた人は それが何を意味してて
そのあとどんなことを引き起こすだろうかを知っていた。
私は彼らの話を聞けば聞く程 爆発の直後にフランス人たちが
冗談まじりに言っていた 放射能に汚染された国の怖さが
どうもかなり的を射ていた そんな気がしてしまう。
私はさっぱりわかってなかったし福島の人たち同様
チェルノブイリなんて知らなかった。「お前はチェルノブイリを
知らないのか!」と電話で言われても「知らないよ、、、」と叫びたかった
彼らはすでに知っていた。当時フランス政府がかなり嘘をついていたこと
そして何千キロも離れた彼らの土地まで汚染が広がり
病気になった人が続出したということ。どうしてフランスには
放射能関係のいろんな機関があるのかと不思議に思っていたけれど
それらはチェルノブイリの人たちでなく、チェルノブイリの事故によって
フランスで病気になった人たちを助けるためにできたらしい。
政府の嘘を知ってる彼らははじめから日本政府の言ってる事は
嘘だし、爆発が起きた時点で それがのちのちどうなるだろうか
想像というのができたらしい。おそらくそれがクリアにできた人ほど
ことの重大さを知っていて とっさに「逃げろ!」と言ったのだろう。
地震の直後に爆発の前に福島から避難した人と 原発のことなど
あまり気にせずとにかく水と食料を確保しようと思っていた人たちの
行動を大きくわけたのは その時点で頭の中にあるイメージと知識だったのだ。


 国も 県も 福島市 も 人々がどんなに訴えても
「だから問題ありません。私たちは除染してます」の一点張りで、
自分から知ろうと動かない限り、福島にいてもたとえば
「放射能からはこうして身を守りましょう」的なポスターなんて
ないわけで、そこまで情報は入ってこない。
そして「がんばろう福島」と「収束宣言」の
名のもとに 沢山の命が置き去りにされていく。
除染がどれほど効果があるのか 除染に使われた後の
汚染水はどこに行くのか 森林にたまった放射性物質を除染することはできるのか
どうして「除染」というのにこうまでもこだわってやっきになるのか
今はだれもよくわからない。「この1年間の日本政府の対応は
チェルノブイリよりも最悪ですよ」と今日お話を聞いた人は
言っていた。それが何を意味しているのか 原子力を推進してきた
悪名高いといわれる機関でさえも驚くような日本の「大丈夫」
という基準の高さ。多くの人は それをなんとなく
「大丈夫かな」と思って普通に生活してる。


 この状況は ある意味戦争だと思う。
両派は真っ向から対立してる。福島の人たちを本当に
守りたい、心配している人たちと 「がんばろう」の
スローガンとともに まるで大本営の時代のように
まるで「一億層玉砕」を唱えた政府のように
みんなで負け戦に向かってく だけどそれに異を唱えるのは
「非国民」でしかないという そんな強い流れがまだある中で
福島には張り裂ける思いを胸に戦っている人たちがいる。


 今日の話の中で「思いやりという名のエゴ」という話になった。
日本で言われてる「思いやり」は 本当に思いやりなのだろうか
彼らも苦しんでるんだからお前も苦しめ というのは
それも思いやりなのだろうか 私も苦しんで来たんだから
あなたもおんなじ思いくらいしなさいよという
連合赤軍のトップの女性が発していたような そんな言葉や態度は
本当に「思いやり」と言えるのだろうか
それは本当は 怖さからくる そう 誰かが出ることを許さない
「出る杭を打って同じ高さにそろえよう」というそういう姿勢じゃないのだろうか


 うざい、面倒くさい、疎ましい、おかしいんじゃない?と
思われても もしかしてそれが本当はその人のためになるかもしれないと
思うなら それは言うべきなんじゃないんだろうか
その人のためを思って 苦言でも言ってみること
「ほらね だから前からそう思ってたのよ」なんて
破綻してから知った顔して言うんじゃなくて、そうなる前に言ってみること
一言でいいから 言ってみること。押しつけではないけれど
それはもしかしてあなたにとって危険なことではないかというのを
少しだけでも言ってみること。
そしてそれを言えるだけの環境を その一言に命がけの勇気を
持たないでもいいくらいに 言えるくらいの環境が もっと
日本に存在しないと この国はとんでもないことをまた繰り返すんじゃないだろうか
そうこの国には「欲しがりません 勝つまでは」とか
「一億層玉砕」だとか「非国民」という言葉があった
私には 今の状況は やっぱりあのときに似てると思う。
だけど日本には変わってほしい 福島の人はそんな中でも
声を挙げて変わっていった。一億層玉砕になる前に 歴史から学んでみること
私はもっとチェルノブイリをちゃんと学んでみたいと思う。

内部被爆について考える

2012年01月16日 | 福島見聞録


 「今日は午前中は来なくてもいいよ
通訳機があるみたいだし。じゃあお昼に待ち合わせしよう」
そう言われて昨日の夜にソフィーと別れてみたものの
電車の中で何気なく読んでみたメールには
「内部被爆研究会、、、15日の朝10時」と書いてある。
え?なにこれ めっちゃ興味ある!しかも脱原発会議に来るっていうこと?


 「今日こそは息子を構ってやらないと、、」と言ってたものの
この時間を息子と過ごしてみることと 将来的に息子を
守っていくことと どっちが大事なのだろう?
うーんと悩んだけれども これを逃したら機会はなかなか
ないだろう。大事なことだ。息子には何も言わずに
朝から仕事なんだと言って出て行こう。


 そういうわけで会議場に着き、内部被爆の会に行ってはみたけど
難かしすぎてわからない。放射線の種類とか どうして
内部被爆について研究をすることが許されてこなかったのかとか
私としては「じゃあどうしたらいいのか?」が知りたいのだけれど。
測定所の人が言っていた「福島の人の平均はこれくらい」ということは
すでに内部被爆が判明している人も多いわけ で
それとどうつきあってくか 排出が可能なのならどうすればいいのか
そういうことが知りたいのだけど

 なかなかそれはわからなかった。


 まあ仕方ないか、、、と思いながらも会議場で時を過ごし
それからまた時間があってソフィーが「ちょっと行って来なよ」と
言ってくれたのでその会場の近くに言ってみた。ソフィーは
彼女が参加した会に登壇していたチェルノブイリの避難区域らへんに
今でも住んでいるという男の人をつかまえて「ちょっと彼女が
内部被爆について興味あるみたいなんだけど どうしたらいいものかしら?」
と尋ねてくれる。彼によれば、そのゾーンから何回か離れる期間を持つ事と
それからウォッカがいいらしい。。。そうか、ウォッカかよ、、、と
思いながらもお礼を言って また誰かそれらしき人を探してみる。


 すると「内部被爆研究会」という札の人を目にしたので早速聞いてみる。
わからないことも多かったから「ああじゃあ彼が専門だから」と
近くにいたおじさんを呼んでもらって 今度は彼が話してくれる。
ホールボディカウンターでは全ての放射線は計れないこと
計れない放射線の方が実は内部被爆では重要なこと
ホールボディカウンターを買いそろえるよりは尿検査などを
もっと実施したほうがいいということ(こちらの方が高くつかないので)
内部被爆したらこれ以上汚染されている食べ物は口にしないように気をつけること
大切なのは免疫力を高めて元気に活き活きすごすこと。
身体をしっかり動かす事も大事らしい(だけど福島の人は一度
ジョギングをしてみようとしてマスクつけてやったら5分も
息が持たなかったそうな どうやったら彼らはいい運動ができるんだろう?)
それから私がリンゴの話をしたら はーなるほどね、
それはペクチンだね、、と言って いいんじゃない、やってみたら と言っていた。


 首都圏では内部被爆をどれくらい計れるんですか?
私はたまたまホールボディカウンターで計ってみたら検出されて
けっこうみんな大変な状態にあると思うんですが と尋ねてみると
大きな病院で高額を払えばできなくもないとのこと でも
市民に開かれたそういうものはまだないらしい
(ので市とかに訴えかけて行くのが大事ですと言われた)

 内部被爆と外部被爆の関係性は?保養や避難をすると
症状が治るとかっていうのはどういうことですか?
避難していると内部被爆したものも排出されるってことですか?
と尋ねてみると そのへんの関係はまだよくわかっていないらしい。
なんせ午前の説明にあった通りで 内部被爆については隠蔽されて
「そんなものは存在しない」ことになっていたので研究も
拒絶されていたからしい。だからどうすればいいかなんて
あんまり誰もわかってないんだ、、、


 ありがとうございました!私も首都圏の人たちのために
何かできることがあったら教えてくださいといって名刺を
渡すと 彼が取り出した名刺にはなんと 矢ケ崎、、、と書いてある。
あれ、もしかしてあの先生ですか?私本を買いました、ほら、
今読んでいるやつですか??そう 彼はなんと内部被爆の研究で
有名な琉球大学の矢ケ崎教授だったのだ!
こんなところで何気なくこんなすごい人に出会ってしまえるとは、、、


 とはいえ今回相当盛り沢山な企画がある中、内部被爆についての
セッションは2つくらいしかないようで 心配がつのる中 で
おそらくあまり それに対するしっかりとした情報というのも
ないのだろう。これまで出会った人が口をそろえて言ってたことは
これ以上汚染されたものを食べないこと できれば排出する努力をすること
(ペクチンや酵素、利尿作用のある野草茶など あと玄米に梅干し 漬け物?)
それからちょっと避難をすること


 だけど私の場合は?私横浜にいただけだったのに

 なんでそんなことになっているんだろう?


 ほとんどの人は「まさか!」と言った。
「だけどちょっとだけでしょう?」
「人間の身体の中にもセシウムはちょっとくらい
含まれているわけじゃないの?」いや そんなことはないらしい。
どうしてなんだろう 私爆発の時だって西日本に居たのにな、、、


 ずっと不思議に思っていたけど 今日ちょっと謎が解けたような気がした。

 
 プレスルームの近くのソファーで偶然出あったフィンランドから
来た記者の人が測定器を持っていて こんなのここでは
必要ないじゃん?と思っていたら 意外と東京も高いんだよという
話になって 彼は1とか2 とか言ってくる。それは私の英語力が
弱いのと コンマっていうのをなんて言うのかわからなかった
からだと思っていたけど 何度か確かめながら彼はこう言った。
「0,2 じゃない。2だよ。毎時2マイクロシーベルト。
10月に来たときに計ってみたらけっこうそんな場所があるんだよ。
地下鉄の駅とかね。2とか1とか、0,1じゃないんだよ」
そんな彼は示してくれたパシフィコ横浜の会議場では0.2になっていた。

 「えっと、、、それはつまり 福島とか郡山より値が高いってことですか??」

 「そう けっこうそんな場所があるんだ みんな知らないだけなんだ」


(ちなみに毎時で0,6ミリシーベルト以上あると 年だと5ミリシーベルトを
こすことになって、年間5ミリシーベルトというのは、放射線を扱う
お医者さんたちがレントゲンなどをとる医療放射線管理区域というのの
上限レベルらしい。チェルノブイリでは5ミリシーベルト以上は
強制避難区域になったそうです。 ちなみに日本政府が事故前に
定めていた一般人の上限は年間1ミリシーベルトで、それを時間になおすと
だいたい毎時0,1マイクロシーベルト。低そうにみえて実は低い値じゃないんです)


 本当かよ?と思ったけど そう 私たちは新聞の発表ばかりみて
福島は高いけど 東京は低いと勝手に思い込んでいる。
それは福島の人たちがかつて思っていたように 政府の発表は
信頼できるという 勝手な幻想なのかもしれない。
もしそれが嘘だったなら?自分の手で計ってみたら?
意外と避難区域の近くで線量が高くないところもあるし
郡山ではラジオでのほほんと「今日は毎時0,6ミリシーベルトです」と
まるで音楽を流すかのような軽やかな声で言っていた。
福島市の役所に書かれていたのは0.9という数字であった。
それに対して東京は?「10月はかなり高かったんだよ」
そんなこと 聞いたことがない。もしそれが本当だったら
なんだかいろんなことが理解できる、、、


 どうして私が東京や横浜にいて 「福島の人の平均よりは
多少低い(つまりおそらくけっこうあると言いたいのだろう)」程度のセシウムが
検出されたのか どうして東京でも放射能に関係するとみられる
症状を起こす子供がいるのか どうして私の友達が
夏に会ったときに甲状腺の病気になって、、、と言っていたのか
(私は無知だったのでそれは子育てのストレスがはげしいのかと思っていた)
私はあまりにわかってなかった そんな気がする。
それにあまりにも待たされた年末の皮膚科の異様な感じは
(35人待ちで1時間半以上待った)ただ年末だからという
それだけの理由なのだろうか。 それほどまでに皮膚科は混むものなのだろうか。


 私たち 首都圏にいる人たちは あまりにも無防備で
福島の普通の女性がみんな知ってる「そんなの常識」ということが
ほとんど常識になっていない。(さっき上で説明したことは
彼女たちは何も見ないで説明できる)だけどもし 首都圏にだって
私たちが彼女たちのように自分の測定器でしっかりと
やっていないだけで 本当はかなり放射能が降っていたなら?
これはかなり考えられる。そして結果は もしもその
フィンランドの記者が言ったことが本当なのなら
私たちは無防備であるが故に 結果はもっと重大だろう。
私は息子が保育園に週に2日しかいけないのを嘆いていたけど
最近になってそれが逆にありがたかったと思うようにもなってきた。

 測定器 は2万円くらいするらしいけど
もしどこかで借りられるのなら 私も本当のことを確かめたい。


フランスに行くなら

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